この連休が終わると、下町では次々と祭りが始まります。その案内が、地下鉄やJRの駅のホームに貼り出されています。つい、その日程を確認してしまいます。なんとなく、下町育ちとしては、血が騒ぐのです。そのはじめを飾るのが、5月10日から始まる「神田明神」の大祭です。神田明神は、東京都千代田区外神田二丁目にある神社で、正式名称「神田神社」といいます。神田・日本橋・秋葉原・大手町・丸の内・旧神田市場・築地魚市場など108か町会の総氏神です。一昨年かその前の年に、その祭りの中で最も醍醐味のある「神輿宮入」を見に行きました。今年は、13日に行われます。この神輿宮入とは、神田明神宮入参拝を目指し、約八十基の神輿は各連合及び町会の出発地に集合。式典後に宮入巡行神輿渡御となり、徐々に熱気と興奮が高まります。この宮入を見たのです。私の地元であった鳥越神社は、千貫神輿といわれる大きな神輿一騎を、各町内が担ぎ次いで、最後の「宮元」という、神社のある町会が宮入をしました。(私は、高校卒業まで、その宮元の町内に住んでいました)しかし、この神田明神は、各町会の持っている神輿が次々に宮入をし、宮入参拝を済ませた二十基以上の神輿が、秋葉原中央通りお祭り広場で繰り広げる神輿降りは、熱気溢れるものです。この神田明神は、先日ブログで取り上げた「築土神社」と関係があります。承平5年(935年)に敗死した平将門の首が京から持ち去られて当社の近くに葬られ、将門の首塚は東国の平氏武将の崇敬を受けました。嘉元年間に疫病が流行したとき、これが将門の祟りであるとして供養が行われ、延慶2年(1309年)に当社の相殿神とされました。その将門の首を納めたという桶が社宝として伝わっていたのが、「築土神社」なのです。もうひとつ、神田明神といえば、当神田明神下の長屋に住居を構えていたというのが、野村胡堂の代表作「銭形平次捕物控」の主人公・銭形平次です。「へいじ」という名前が、私の名前と同じこともあって、小さいころから私は、「銭形平次」とか、「へいじ、へいじ」とか、「親分」とか呼ばれていました。もちろん、銭形平次は架空の人物ですが、神田明神の敷地内に碑があります。

銭形平次は、テレビ時代劇や映画、舞台などによく取り上げられますので、「平次は神田明神下に住む十手を預かる岡っ引で、長屋に女房のお静と二人暮し。ひとたび事件が起こると、八五郎(通称:ガラッ八)との捜査で、卓越した推理力と寛永通宝を使った「投げ銭」を得意とする鮮やかな捕縛をみせる。」ということは有名です。また、ルパン三世シリーズに登場する銭形警部は、銭形平次の子孫とされていることもしられています。しかし、銭高組の看板と社章から「銭形」の名前を思いついたということや、『水滸伝』の登場人物のひとりである没羽箭張清が投石を得意にしていたというエピソードから、投げ銭のヒントを得たということはあまり知られていないかもしれません。また、何で投げ銭かというと、人を殺傷する刀や弓などの武具と異なり、当たったからといって命を落とすことはありません。銭形平次の不殺生主義にはうってつけの武器だったのです。また、どんな人柄であったかは、関沢新一作詞、安藤実規作曲で、舟木一夫が歌う歌の3番の歌詞を見ればわかります。「道はときには 曲りもするが 曲げちゃならない 人の道 どこへゆくのか どこへゆくのか 銭形平次 なんだ神田の 明神下で 胸に思案の 胸に思案の 月を見る」
昔からお祭りとは縁がなかったためか、血が騒いだ経験はあまりありません。それでもお祭りで地域が一斉に動き出すあの感じは嫌いではないです。さらに下町のお祭りとなると規模も大きく迫力もあって楽しそうです。一度たくさんの神輿が登場するお祭りをゆっくり見てみたいと思います。
東京の学校や仕事場に十数年通い続けていましたが、いわゆる「下町」の祭りをみたことはこれまで一度もありませんでした。一度観てみたいものですね。地下鉄の駅のポスターで祭りの予告がされていますが、人の多さにちょいと閉口します。小さな子連れであの人ごみに入る勇気はありません。子どもがもう少し大きくなってから行きたいものです。ところで神輿を担ぐ舎人の掛け声ですが、「ワッショイ、ワッショイ」というのが標準なのでしょうか。私の生まれ育ったところでは「ワッセ、ワッセ」でした。「ソイヤ、ソイヤ」とか「オイサ、オイサ」などいろいろとあるようですね。そうそう私も一度だけ田舎の祭りで神輿を担いだことがありました。背の低いは私は担ぐ、というより、ぶら下がっていました。みなさんにご迷惑をかけました。ところで「銭形平次」の作者野村胡堂氏は岩手の出身です。画家の萬鉄五郎氏の出身地とは割りとご近所です。そうそう、藤森先生は「親分」ですね。