先日訪れた奈良の石造物ではありませんが、とても不思議なものがあります。また、石舞台のような古墳などには、ボリューム感のある建造物もあります。そして、建物には美しいものも多くあります。そんな建造物の美しさを感じるものに「橋梁」があります。橋(はし、橋梁、きょうりょう)は、人や物が、谷、川、海、窪地や道路、線路などの交通路上の交差物を乗り越えるための構造物です。同じように、道路、窪地、線路などを跨ぐ橋は陸橋と呼ばれます。橋はある空間を越えるものであるということは、その構造に工夫があります。この工夫された構造に美しさを感じます。昨日、遠足が終わって夕方まで少し時間があったので、妻と多摩川を歩いてみました。よく多摩川土手を歩くのですが、土手にはさまざまな草花が咲いたり、川には水鳥が遊んでいたり、空は広く広がっているので気持ちが晴れ晴れとしてきます。土手を歩いていくと、いくつもの橋を見ていくことになります。昨日歩いたのは、浅川が多摩川に合流する付近です。この合流点を少し下流に行ったところに架かっている橋が「府中四ッ谷橋」です。
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この橋は、1994年に架けられたばかりの橋長446mの大きな白い吊り橋で、現在の鎌倉街道で、多摩川の北岸から野猿街道に通じるようになっています。斜張橋の形が美しい橋です。斜張橋とは1本以上の主塔からケーブルによって桁を吊り下げた構造で、広島県しまなみ海道の「新尾道大橋」や大阪市「天保山大橋」、名古屋市「名港中央大橋」、横浜市「横浜ベイブリッジ」、神戸市「東神戸大橋」などが有名です。吊橋の一種ですが、違うところは、「吊橋」は塔の間にまず渡したメインケーブルがあり、そこから垂らしたハンガーロープで桁を吊っていることである。それに比べてつってある「斜張橋」は、塔から斜めに張ったケーブルを橋桁に直接つなぎ支える構造のものです。古くは西洋の中世の城の城門の巻き上げ式の跳ね橋が斜張橋と言えます。しまなみ海道の本四連絡橋のうち「新尾道大橋」のほか「生口橋」「多々羅大橋」は斜張橋、「因島大橋」「大島大橋」「来島海峡大橋」らは吊橋です。その多々羅大橋は当初、吊り橋で計画されましたが、途中で斜張橋に変更され、世界最長の斜張橋となっています。生口橋は世界第10位です。吊り橋では明石海峡大橋が世界最長です。
ほかに、長崎に行ったときの美しい橋を二つ見せてもらいました。ひとつは、鋼アーチ型の橋で、「西海橋」です。
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1955年に完成し、昨年船を運転させてもらった日本三大急流で有名な伊ノ浦(針尾)瀬戸に架かる大きなアーチを描いた橋です。建設当時は東洋一、世界第三位のアーチ橋でした。佐世保市とお隣の西彼杵半島をつないでいます。もうひとつは、それに並んでかけられている「新西海橋」です。
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この橋は、鋼中路ブレースドリブアーチ橋で、2006年に完成したばかりです。西海パールラインの橋として使用されています。アーチの中間を道路が通る中路橋としてユニークな姿をしていて、桁下は、歩道があり、両岸の西海橋公園を結んでいます。歩道部を歩いてみると、隣の西海橋が綺麗に見え、歩道の中間地点に展望室があり、そこの床に覗き窓が4箇所あります。そこからは眼下の渦潮や通る船を覗いて見ることができます。高所恐怖症の人には少し怖いようですが、私はとても興味深く覗き込んでみました。
 人間の知恵は、「機能」を「美」に変えることができるのですね。

日光浴

 今日は、園の遠足でした。本当は昨日でしたが、朝のうち雷を伴う激しい雨が一時的に降ったために今日に延期になったのです。今日は、昨日と打って変わって、日差しが強い日でした。私は、帽子をかぶっていたのですが、うなじの辺りは、夜風呂に入ったときに少しひりひりしたので、日に焼けたようです。先日の5月14日の日本経済新聞に「紫外線、朝も要注意・目に悪影響、金沢医大など調査」という記事が掲載されていました。その記事によると、「目が浴びる有害な紫外線の強さは、真昼よりも午前9時ごろと午後2―3時ごろがピークで、午前9時ごろでは真昼の約2倍に達することが金沢医大の佐々木洋教授(眼科学)と医薬品メーカーのジョンソン・エンド・ジョンソンの共同調査で分かった。紫外線を長年浴び続けると、手術でしか治せない「翼状片」になり、乱視や視力低下となる恐れがあるという。」という記事です。かなり以前から「紫外線は、怖い 真っ黒な日焼けは健康の象徴と思われていたのは、一昔前の話。大量の紫外線を浴びると、害が大きいことがはっきりしてきた。」と言われています。赤ちゃんに日光浴を勧める記述は、1998年、母子手帳から姿を消しています。以前は、赤ちゃんの健康のために日光浴が必要であると考えられていましたが、現在では紫外線の問題のほうが深刻であるため、直射日光に当てるのではなく、外気浴のみで十分であるという考え方に変わってきているのです。世界保健機構でも、皮膚がんや白内障の原因になるとして、日光浴の自粛を呼びかけています。「日光浴」は、私たちの小さいころと常識がまったく逆になってしまったものの代表的なものです。なぜ、かつては、健康のために日光浴がよいといわれてきたのでしょうか。それは、18?19世紀に日照の少ない北欧や南アフリカなどの地方でクル病の発生が見られたことから、日光浴などで紫外線を積極的に浴びることがクル病の予防になると考えられてきたからです。しかし、最近になって、これらの地域のクル病発生率の多さの理由は、日照の問題ではなく、食糧事情にあったと考えられています。このクル病というのは、ビタミンDの欠乏によって骨の発育に必要となるカルシウムが十分に吸収されず、手足や背骨の発育が不十分になって、曲がってしまう病気です。そこで、日光浴をすると、日光の紫外線にはビタミンDを合成するはたらきがあるために、日に当たることで骨が丈夫になると考えられてきたからです。確かに紫外線には体内でビタミンD3の合成を促す作用があります。しかし、ビタミンD3を1日に必要な量を生成するためには、夏の正午近くの太陽光を手に2?3分浴びるくらいでも十分だといわれています。また、紫外線に当たらなくても、イワシやカツオなどの青背の魚、干ししいたけ、卵黄などの栄養を積極的にとっていれば十分だそうです。同じように、骨の老化を防ぐための日光浴でも、何十分も直射日光の下で皮膚をさらす必要はなく、十分な栄養をとって適度の運動を行うことのほうがよっぽど重要なのです。それよりも、赤ちゃんのころは紫外線の影響を受けていないためメラニン色素が少なく、強い日光を浴びるとすぐに火ぶくれや熱をひき起こしてしまいます。また、新陳代謝が活発なため、傷つけられたDNAを含む細胞分裂も盛んに行われ、中高年になってから皮膚がんを発症する確率も高くなるといわれているのです。日本人よりも皮膚がんの発生率が高いオーストラリアやアメリカでは、積極的に日焼けを予防しようという意識が国民に広まっています。よく、朝のうちから外で子どもを遊ばせたり、午後に子どもを外に出したほうが元気になるというのは、何の根拠も今はないようです。

聴診器

5月17日の 読売新聞に、「体の音知りたい“聴診器ブック”ブーム」という特集が組まれていました。この「聴診器ブック」とは、医療現場で使われている聴診器と、一般向けの説明書をセットにしたもので、書店で販売しています。この聴診器で何の音を聞くかというと、購入した人によって様々なようですが、多くは、健康志向の高まりに加え、「お医者さんは普段、どんな音で判断しているのだろう」といった好奇心も背景にあるとかかれています。また、「飼い犬の心臓の音も聴けて面白いって聞いたので。知り合いにも頼まれ、3冊買いに来ました」とか、「夫が太ってきてメタボリック症候群が心配なので」「子どもが病気がちで、心臓や呼吸の音がどうなっているのか聴けないかなと思って」などあるようです。このセットは、3月中旬に大型書店で販売を始めたのですが、予想以上の売れ行きで、すでに1万冊を売ったそうです。実は、数年前に私は聴診器を買い求め、机の引き出しに入っています。私は、何の音を聞こうと思って買ったのかというと、気に幹の中を流れる水の音を聞きたかったからです。木の幹に聴診器を当てて聞いてみると、木が水を吸い上げる音が聞こえると何かで読んだからです。聴診器を幹に当てて聴こえる音は、木が根から水分を吸い上げる「揚水音」という音です。幹だけでなく、雑木林に出て、木や土に聴診器をあててみるといろいろな音が聞こえてきます。木から聞こえてくる音も、木によって違いますし、土の音、水の音、これらの音からは、大地の息吹を感じます。それを、「観聴」というそうです。聴診器では、他にもいろいろな音が聞けるようです。医者が使い意外で聴診器を使っている場面をテレビで見ることがあります。それは、金庫破りが聴診器を当てながら金庫のダイヤルを回している姿です。こんな聴診器ですが、このように音を聞き分けることに関して、遊びを工夫する天才である子どものほうがその原理を知っていたようです。かつて患者を診察するのに、以前は直接皮膚に耳を当て、音を聴いていました。1816年のあるとき、患者が太っていて胸部に耳を押し当てても音がよく聞き取れません。フランスの医師ルネ・ラエネクはどうしたものかと思案しつつ公園にたたずんでいました。すると、子どもたちのひとりが木の棒を釘でこすり、ひとりが耳を当てて音を聞いています。それにヒントを得て、ラエネクは病室に戻ると紙を巻いて筒をつくり、患者の胸に当ててみました。それが、聴診器の発明です。
そのほか、聴診器ではありませんが、音を聞いて異常に気がつくのは、体だけではありません。「機械の異音の発生箇所を探す」「配管の音を聴く」「卵の孵化までの情報採取」なども音から知ります。やはり今年の1月12日の 読売新聞で紹介されていた仕事は、「機関車のお医者さん」です。患者に聴診器を当てるように、小型ハンマーで機関車の節々をたたきます。わずかな音の変化を聞き分け、不具合を“診察”するのです。私が子どもころは、よく機関車のあちらこちらをたたいている人を見ました。なんでたたいているのだろうと不思議でした。その姿は、たたいて何かを聞き分けているようには見えず、ただ歩きながらなんとなくたたいているかのように無頓着に見えたのです。しかし、その音の微妙な違いで故障箇所を見つけていたのです。もっと人間の能力をあてにしていたら、あの、先日起きたジェットコースターの事故は起こらなかったかもしれません。機械は、人間の能力を衰えさせますね。

倫理3

 最近、「倫理観がなくなったなあ」と思うもののひとつに「保育料滞納問題」があります。認可保育園の保育料の滞納額が主要都市だけで年間約34億円に達しているそうです。保育料は、それぞれの前年度の年収に応じて決められているので、お金に苦しい人は額が低くなっています。また、前年度の年収によるので、今年度にいろいろな理由で収入が減った場合は、特例措置がとられています。滞納率のベストテンの地区は、1位が仙台市の7.22%で、滞納額が2億1730万円にも上ります。2位が千葉市の6.91%、そのあと大阪市5%、佐賀市4.4%、宮崎市3.42%、盛岡市、青森市、堺市と続きます。東京23区は、2.73%です。もちろん、本当に苦しい場合もあるでしょうし、何かの事情がある場合もあるでしょう。新聞にも紹介されている滞納者の姿は、「お金がなく、保育料は払えないと言いながら、2台の外国車にそれぞれ乗る夫婦」など「最近は、車や携帯電話の使用代、外食などに優先的にお金をかける傾向がある。」ようです。また、滞納理由の上位を占めるものに「家のローンが大変だから」生活が大変というのを聞くと、首を傾げてしまいます。かつて、園児で、毎日朝一番に来て、一番最後に帰る子がいました。その子は、土曜日も、夏休みもすべての開園している日は皆勤で来ていました。そんな日が続いたからか、奇声を発するようになりました。少し、子どもには無理があるようです。仕事がそんなにきついかというと、両親とも大学の教授で、とてもインテリです。そこで、父親に来てもらって、私から少し時間を子どものために作ってもらえないかという話をしてみることにしました。すると、父親はこう言ったのです。「せっかく家を園の近くに買ったのだから、そのローンを返済しなければいけない。」と言うのです。園の近くはとても閑静な住宅街で、それらの家は、とても高額な分譲住宅です。しかし、私はこう言いました。「せっかくいい家を買っても、そこに何時間いることができるのですか?その家で、家族団らんの時間があるのですか?ただ、その家のローンを返すために、その家でくつろぐこともできない。そんな生活は、もう止めようではありませんか。もっと、豊かな、人間らしい生活をしましょうよ。」今の時代は、なにを優先するかの選択が間違っている人が多い気がします。また、いろいろなことを両立しようとしたり、なんでもすべてをかなえようとします。しかし、物事は、すべて手に入ると限りません。何かを得るためには、何かを捨てなければならないこともあるのです。そんなときには、なにをとるか選択します。しかし、少子社会になり、物が豊かになった今、子どもたちは小さいうちから欲しいものは何でも与えられてきています。そして、今欲しいものを、今手に入れようとします。サラ金が多くに人に利用されているのも、その心理を利用しているのです。そんな時代は、物は豊かになったかもしれませんが、心は貧しくなっていると思います。保育料を滞納する、返済しないというのは確かに倫理の問題かもしれませんが、私は人としてのプライドがないのかと思ってしまいます。そのプライドを、最近は、「品格」とか「武士道」とも言うのかもしれません。もっと、心豊かな、成熟した暮らしをしたいものです。心を満たすものは、家でも、宝石でも、車でもなく、子どもであったり、家庭であったり、心安定した生活であることに気がついてほしい気がします。それが、倫理観を育てる気がします。

倫理2

 新聞記事の「漂流する倫理」とある「倫理」というと、まず思い出すのが、高校時代の教科の「倫理・社会」です。略して「倫社」といっていました。一時はなくなったようですが、今は、公民という教科の中のひとつです。高校の社会は大きく分けて、「地理・歴史」と「公民」に分かれます。そして公民は、「政治・経済」「倫理」「現代社会」の3科目です。学習指導要領には、「公民」の目標として、「広い視野に立って,現代の社会について主体的に考察させ,理解を深めさせるとともに,人間としての在り方生き方についての自覚を育て,民主的,平和的な国家・社会の有為な形成者として必要な公民としての資質を養う。」とあります。そして「倫理」は、「人間尊重の精神に基づいて,青年期における自己形成と人間としての在り方生き方について理解と思索を深めさせるとともに,人格の形成に努める実践的意欲を高め,生きる主体としての自己の確立を促し,良識ある公民として必要な能力と態度を育てる。」とあります。今は、未履修問題がありますが、私のころは、大学入試にその教科があろうがなかろうがすべて履修したものでした。ですから、「倫理」も学びました。しかし、申し訳ありませんが、どのような教科であったか、どんなことを習ったのか、何も印象に残っていません。ずいぶんと不真面目な学生だった気がします。今になって、もう一度学んでみたいと思う教科のひとつです。漢字の「倫」も「理」も、ともに「すじ道」を表す漢字です。そして、「倫」の字の方は特に「人の生きるべき道」を表しています。ですから「倫」と「理」で人の生きるべき道を意味しています。人がどのように生きてゆくべきか、という問いは「人生とは何か」ということになります。最近、道徳教育が話題になりますが、「倫理」や「道徳」という語は中国古典に由来する言葉です。「道徳」は、「人のふみ行なうべき正しい道。道義」という意味を持つ言葉です。
不真面目な高校生時代の私の倫理の恩師は、とても穏やかな人柄で、誰も聞いていないかのような授業でも、怒ることもせず、誠意を持って授業をしていた気がします。何年か前になくなりましたが、その穏やかな恩師が、激しい心情を秘めていたことは在学中になんとなくうわさで知りました。その恩師とは、「原爆許すまじ」の作曲をされた木下航二先生です。「ふるさとの街焼かれ 身よりの骨埋めし焼土に 今は白い花咲く ああ許すまじ原爆を 三度許すまじ原爆を われらの街に」という歌が作られたのは、1954年アメリカのビキニ環礁での水爆実験によって第五福竜丸が死の灰をかぶり、無線長が亡くなった事件をきっかけに原水禁運動が盛んになりました。この中で生まれたのが、この歌でした。東京・南部工業地帯で働いていた二人の青年労働者、浅田石二が作詞し、木下航二が作曲しました。この歌は、原水禁の集会だけではなく、「うたごえ運動」が始まった時期で、「歌声喫茶」が各地でできたこともあって、流行歌並みにヒットし、多くの人に歌われました。木下先生の作曲したものは、ほかにも「しあわせのうた」も有名です。この歌も、歌声喫茶などでよく歌われました。「しあわせは俺(おい)らの願(ねが)い 仕事はとっても苦しいが 流れる汗(あせ)に未来をこめて 明るい社会をつくること 皆(みんな)で歌おうしあわせの歌を 響(ひび)くこだまを追って行こう」木下先生は、これらの歌の作曲で倫理の授業をしていたのかもしれません。

倫理1

 最近、読売新聞の連載「日本」の第3部「漂流する倫理」を読んでいると、なんだか暗い気持ちになります。連載その1では、1997年に電通総研主任研究員の山崎聖子さんが米ニューヨークで行った講演が紹介されています。テーマは、「日本は無宗教なのに、なぜ人々のモラルが高いのか」です。国民の価値観や生活様式が均質化し、持ちつ持たれつの意識が強い社会の中で、「つばを吐いても、石を投げても、最後は自分にはね返る」という自律的な観念が発達したという内容に、出席者は熱心にメモを取っていたそうです。それから10年経った今、世界の価値観調査で、「周囲と助け合うことが大切」と答えた日本人の割合は18か国中17位だったそうです。「日本人は、どうなってしまうのか」と山崎さんはため息をついたそうです。また、こんな事例も紹介されています。公共広告機構のCMの内容は「車内マナーを守ろう」「ごみのポイ捨てはやめて」「いじめをなくそう」などの訴えはあまり変わっていませんが、それを受け止める側の考え方はずいぶんと変わってきているようです。たとえば、混雑する車内で男性がハンバーガーをほおばる場面に「電車はあなたの部屋ではありません」というメッセージに対して、「忙しいから食事は電車でしかできないんだ」「駅弁も食べるなと言うのか」などの苦情が殺到したそうです。「周囲に迷惑をかけないでと言いたかっただけなのだが」と困惑しています。このような捉え方をして、このような苦情の言い方は、最近の園の保護者を見ているとわかるような気がします。ただ、これが道徳教育の問題点だというのは違う気もするのですが。また、連載その2では、次のような事例を出しています。上野公園で、ホームレスの人たちに炊き出しのご飯を配っている人に対して、つばを吐きかけ、「邪魔だ。あっちへ行け」と怒鳴る人がいるそうです。はじめのうちは、「大変ですね」と声をかけたり、千円ほどのお金を置いていった人もいたそうですが、6?7年前からほとんどいなくなり、「そいつらは死んでもいいんだ」とまで言う人がいるようです。「弱い人たちへの思いやりを日本の人はなくしてしまったのでしょうか」と嘆いています。作家のマークス寿子さんは、こんな経験を話しています。足が悪かったマークスさんに席を譲ろうと、前に座っていた男児が腰を浮かしたとたん、「お前も疲れているんだから余計なことはしなくていい」と隣に座っていた父親がぴしゃりといったそうです。「相互扶助がなければ生きていけなかった貧しい時代には、弱い立場の人を助ける利他の精神が、当然の規範として人々の心に根付いていた。急激な経済成長を遂げた後も、ある時期までは、親から子へその精神が引き継がれていた」とマークスさんは、70年代以前の日本を思い返しています。連載その3では、「他人の目」お構いなしの若者が紹介されています。日本のある私大には、ここ数年英国に留学しているホームステイ先からこんな苦情が相次いでいるそうです。「自分の好きな時間に寝起きし、食事も一人で済ませる。会話どころか、朝の挨拶さえろくにしない。一緒に暮らす私たちのことが、目に入っていないかのようです」というものです。それに対して、「滞在費用を出しているのに、なぜ相手に合わせないといけないのか」と言い放つ学生もいるそうです。神戸女学院大教授の内田さんは、70?80年代の消費礼賛の時代以降、日本人の消費主体化が進んだ結果「事故の欲求の充足を図る消費は、きわめて個人的な行為。消費主体化がきわまれば、集団の一員としての自分を意識することもなくなる」と指摘しています。

 保育室の中で、子どもにとっての癒しの空間についての考察を何回かブログで書きました。それは、日常から離れた演出が、癒しの効果があります。狭く、少人数で過ごすことができ、余り明るくなく、床がソフトな素材であり、というようなことのどれかが実現できる空間であれば、子どもにとって癒されることになります。もうひとつは、ほっとする環境も効果があります。ほっとするために演出としては、光の演出、音の演出、触覚の演出、そして、においの演出があります。最近、どのデパートの売り場にも「アロマセラピー」のための植物から抽出した油成分(エッセンシャルオイル)を販売しているコーナーがあります。このエッセンシャルオイルを温めて香りをたたせ、その香気を吸入することで、癒しの効果だけでなく、さまざまな医療効果を得ることが注目されています。その中で、最近私が興味を持っているものに、「お香」があります。「香道」とは、文字どおり香りを楽しむことを基本とした芸道で、茶道や華道と同じく、動作の中に精神的な落ち着きを求める日本古来の芸道です。その歴史は茶道や華道と同じく室町時代にまで遡りますが、香木を焚いて香を楽しむことは、聖徳太子の飛鳥時代からといわれています。これもまた、GWに訪れた飛鳥地方に関係があったのです。そのころは、宗教的な側面も大きかったでしょうが、何より「良い香りを楽しむ」ということは、人間の癒し効果や快楽を満足させるものであったでしょう。世界中を見ても「香り」を芸術の域にまで持って行き、精神性を追求する芸道は他に例を見ないものです。私が今楽しんでいるのは「香道」といわれるような作法に法ったものではなく、単純ににおいを楽しむといった程度です。最初は、最近多い線香型とか、コーン型、渦巻き型の香を使っていたのですが、「臭いを嗅ぐ」ことから「香りを聞く」ことをしてみたいと思ったのです。まず、気に入った香炉探しからはじめました。もちろん高価なものではなく、自分らしい香炉を見つけたのが、陶器市の前日の有田でした。「竜」を描いた有田焼の香炉です。そこに灰を敷き詰め、熾した炭団を入れ、半分くらい起きたところでその上にうすく灰かぶせ、その上に数ミリ角に薄く切った香木を熱し、香りを発散させるのです。本来は、炭の上に銀葉という雲母の板をのせ、熱の強さによって、銀葉を灰の上で押すことで、銀葉と炭団の位置を調節することで伝わる熱を調節し、香りの発散の度合いを決めるのです。あまりに熱が伝わりすぎて香木の樹脂等から煙が出てしまうと、香りを聞くことの妨げになり、好ましくありません。昨日の「適正」がここにも必要になります。しかし、弱すぎず強すぎずに銀葉を調節することは難しく、経験が必要となります。香木には沈香(伽羅)を主に使っていますが、これは高いものはかなりの値段がするようですね。今のところは、そんなに難しく考えないで、ちょっと香りを楽しみ、日常を離れた集中と静寂の世界に遊ぶことを目的としています。香木の香気は、精神的な落ち着きや病気の予防のような漢方薬的な効用もあります。昔の人たちはこうした香の効用を「香の十徳」と称しました。「鬼神を感挌し、身心を清浄にし、よく汚わい(汚れ、毒気)を除き、よく睡眠を覚まし、静中友となり(独居の友となり)、塵裏間(忙中の閑)を愉み、多くして厭はず、寡くして足れりとなす、久しく蔵して朽ちず、常に用いて障りなし。」つまり精神的に落ち着き、円満な人格を形成するのに役立つというのです。

適正

一昨年、園を新設するに当たって、入札の難しさを感じました。当然工事会社は入札ですが、よく、自治体では設計事務所も入札するようにという指導があることがあります。入札は、価格的に安いところを選ぶために競争させることです。しかし、設計はまず、建物をどのようなコンセプトで設計するのか、デザインはどのようなものにするのか等は設計士の個人的感覚の問題です。いわば、一種の芸術でもあるので、価格では評価できません。決まった設計図をどのくらいの費用で書くことができるかを競うことはできるのですが、費用を安くするためにただの真四角で、中には何もおかない設計をして、一番安いからとそれに決めることはできないのです。そこで、当然自分と同じ考え方を持った設計士とか、価格競争ではなく、コンぺティションとかいわれるような競争とか、プロポーザルといって提案してもらうことをするとかして、違う形で選ぶ方法がいいのでしょう。そして、設計が決まれば、その設計どおりの建物をいくらの費用で建築することができるかを競争させるのが入札です。私の園の入札をしてもらうに当たって、本来一般入札が好ましいのでしょうが、単純に安いところに決めるとなると考えてしまいます。それは、当然安いに越したことはないのですが、あまりに安いと本当かなあと疑ってしまいます。たとえば、構造疑惑ではありませんが、安くするために目に見えないところで手抜きをするとか、何本か鉄筋を抜くとかされてもわかりません。また、実績のない業者も支援したいとは思うのですが、たとえば、コンクリートをきちんと打てないとか、溶接がきちんとできないとかあってもわかりません。ですから、どうしても事前に入札希望業者に、実績とか、会社の規模などを提出してもらって、その中で検討し、入札業者を決める指名入札になってしまうのです。かつて、港区の保育園建設のプロポーザル選定委員長をやったことがあるのですが、この時にも実績評価について考えてしまいました。実績があるというと、どうしても大企業が有利になってしまい、たとえば新人の若い設計士の発掘をすることはできなくなるのです。価格にしても、今はただ安いのを選ぶのではなく、正当な価格をこちらで試算をし、その価格に一番近い業者を選ぶやり方が多くなっています。
 このやり方は、子どもが小さかったころによく家族で参加していた「ウォークラリー」のルールに似ています。このゲームは、各グループが事前に渡されるコース図に従って進み、途中で与えられる課題を解決しながら設定された一定の時間で歩き、目的地を目指すものです。勝敗はタイム得点と課題得点の合計で決まりますが、設定時間より早く着きすぎても減点となるので急いで進む必要はありません。設定時間は、歩く速さをもとに課題解決の時間を加味して事前に設定されています。このため、オリエンテーリングのタイムレースと違ってただ速ければいいのではなく、どのくらいの時間に設定されているかも考えながら歩くのです。また、途中に「C.P.」(Check Point の略記)があり、そこにある課題は、その場所へ行くまで判らないよう設定され、自然、文化財などを対象とした題材にすることが多く、簡単なゲームを行うといった課題もあります。また、周囲の様子を観察する場所の観察ゾーンがあり、そこでの課題は、後のチェックポイントやゴール後に与えられます。自然や文化を観察しながら歩くためには、適正な時間があるのです。

談合

 昨年暮れから、日本道路公団が発注した橋梁工事をめぐる官製談合事件がいろいろと波及し、問題になっています。しかし、この談合はなかなか難しい問題をはらんでおり、なかなかよい知恵が浮かびません。このような何度も繰り返される問題から、ゼネンコンが新しい、本来あるべき方法を見出していけるのでしょうか。私の園の新設の時には、10社による指名入札でしたが、いろいろと考えてしまいました。「談合」というのは、もともと「話し合い」の意味の言葉ですが、問題になるのは、「競争入札をする前に、入札をする業者などが事前に話し合い、落札者と落札価格を決めてしまうこと」を意味する場合です。これによって、本来競争原理で落札者を決め、より効率的な支出をするための入札制度の意味がなくなってしまうことが、大きな問題なのです。そして、今回問題になっている「官製談合」とは、この「話し合い」に、お金を出す側の官庁側の人間が参加することをいいます。官庁と業者がいっしょになって落札者と落札価格を事前に決めてしまい、入札の意味がなくなってしまうのです。一般的に、官庁がある程度以上の金額を支出するときには、3つの方法で発注先を決めることになっています。「一般競争入札」とは、「誰でも入札に参加でき、原則的に一番安い価格を入札した人を落札者として、調達先とする。」「指名競争入札」とは、「基本的には一般競争入札と同じ制度だが、官庁側が入札できる業者をあらかじめ指定して、その業者の中で一般入札と同様なやり方をする。」「随意契約」とは、「入札しないで調達先を決める。」です。補助金に関係するようなときには、基本的には、透明性をはかるため、随意契約は例外的なときだけ行い、競争入札を行うことになっています。しかし、実際は、日本の官庁は地方自治体を含め、指名競争入札が多いのが現状です。だれでもが入札できる一般競争入札が少ないのです。そうなると、どうしても指名業者が固定されてしまうことになるので、その業者は、競争をさけるため一種の同盟を作り、全業者が順々に受注できるよう談合をしてしまうことが多くなってしまうのです。しかも、官製談合では、官庁と業者の癒着が起きやすくなってしまうのです。そして、今回の事件のように、癒着のケースとして、特に中央官庁でよく起きたものが「天下り」を見返りにするような癒着のあり方です。業者が天下り先になることを約束することで、官僚がその業者に有利になるようはたらきかけるというものです。こんなことが多く起きることもあって、従来から刑法などに「談合罪」というものはありましたが、一連の官製談合事件を受け、昨年暮れに官製談合防止法が改正され、より重罰が課せられることとなりました。しかし、罰するだけではなく、本当によいものをつくる為に、正当な価格で受注できるよい方法を考えていくことが必要でしょうが、難しいですね。談合の「談」は、「かたらい」と読みます。ですから、談を使った言葉には、とてもいい言葉が多い気がします。「談笑」「談話」「相談」なにか暖かい響きがあるのですが、「談合」はどうして変わってしまったのでしょうね。GWに訪れた桜井の「談山(たんざん)神社」という名前は、中大兄皇子と中臣鎌足が蹴鞠会で知り合い、日本の将来について語りあったといわれる談い(かたらい)山がすぐ後ろにあることから名づけられたといわれています。
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その頂上には大化の改新の談合の碑が立っています。
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サンダル

 面白いポスターを見つけました。以前のブログの「立てばシャクヤク、座ればボタン、歩く姿はユリの花」のパロディーです。
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 そこに書いてある文は、「立てばシャクヤク、座ればボタン、歩く姿で水の泡」というものです。電車などに乗っていると、そういうことがよくあります。歩く姿を見て、がっかりすることがあります。私は、ちょっと古いのかもしれませんが、高いヒールのミュールを履いて、カチャカチャ歩いている姿を見ると、今にも脱げそうでハラハラします。本当は、このミュールという履物は、オードリー・ヘップバーンが「ローマの休日」という映画の中で着用していたヒールの高いサンダルのことで、「ヘップサンダル」と呼ばれる履物です。しかし、何で私がこのミュールに抵抗あるかというと、サンダルというものは、フォーマルな場では着用しないもので、遊びや日常生活の中で履かれるというイメージがあるからでしょう。また、電車でよく見かける女子高校生が靴のかかとを踏みつけて、ペタペタ歩いている姿とダブって見えるからかもしれません。急ぐときとか、激しく動くときは、かかとをくるんである履物のほうがいいと思うのですが。ただ、そうでないときや、デスクワーク専従者は、革靴で足が蒸れるのを嫌ってサンダル履きで仕事をすることが多いようです。あるショッピング誌に「靴とサンダル両方に兼用できる靴」というものが掲載されていました。普通の靴ですが、かかとを折り曲げて、それを踏んでサンダルとしても着用できるというものです。そういえば、「ミュール」というおしゃれな言い方と「サンダル」という言い方でずいぶんイメージが違います。ギリシア人(ミュール)が、古代オリエント文明のころに履いていたので、ミュールと呼ぶのですかね。西欧語におけるサンダルの語源は、中世後期に遡り、ギリシア語の “sandalion” から、ラテン語を経て、英語・ドイツ語・フランス語などへ入ったと考えられています。もともと「サンダル (sandal)」とは、足全体を包まず、紐やバンドなどで足に止める履物の総称です。古くからある履物の種類で、様々な材質・形式のものがあります。そういえば、映画の「ベンハー」では、登場人物がサンダルを履いていましたね。チャールトン・ヘストン演じる主役の人物が履いていたそのサンダルは、足の甲を留める幅の広いベルトに鼻緒が連結されているものでした。ですから、日本では、このようなサンダルを「ベンハーサンダル」といって売っているようです。しかし、日本でなんといってもよく使われているサンダルは、「ゴムサンダル(フィッティングサンダル)」というもので、ホームセンターなどで安価で販売されている、一体成型のゴム製サンダルです。園などでもよくトイレで用いられることが多いことから「便所サンダル」などと呼ばれています。それから、「ビーチサンダル」といわれているもので、「ゴム草履」です。そういえば、日本の草履や下駄もかかとを包まないので、サンダルの一種かもしれません。しかし、それらはサンダルとはいわずに、いわゆる「突っ掛け」と呼ばれる木製の板にゴムやビニールの帯がついていて、これを足の甲に引っ掛けて履くもののことをいいます。これは、多分下駄からの変形でしょうが、日本では屋内では靴を履く習慣が無く、土間に一時的に降りる際や、近所に出かける際に簡易履物として利用されていました。そういえば、園を始めたころのトイレや、旅館などのトイレにはこのサンダルが置かれていましたが、いつの間にか見られなくなっていますね。