隅田川と橋

 橋といえば、思い出があります。私が子どものころに住んでいた場所は、台東区でした。台東区は、隣の墨田区との間には隅田川が流れていました。小学校での社会で「私たちの台東区」という冊子をサブテキストとして使っていましたが、そこには、隅田川に架かる橋が出ていて、それを覚えさせられました。時代で、覚えさせられたものは違いますが、有名なものは、歴代天皇の名前でしょう。私の時代にはそれはありませんでしたが、歴代総理大臣の名前や徳川家代々の名前などは覚えたものです。
私は昨日の多摩川の土手の散歩ではありませんが、よく川の土手を散歩します。よく散歩する川は、昨日の多摩川、その支流の浅川、神田川、目黒川、そして、隅田川です。隅田川は、そこに架かる橋は小学校のころ覚えたこともあり、なんとなく名前だけでも懐かしく思います。そして、それぞれ特徴のあるデザインで目を楽しませてくれますし、歴史的にもいわれのあるものが多く見られます。たとえば、「言問い団子」で有名な「言問橋」は、「名にしおはば いざこと問はむ都鳥 わが思ふ人はありや無しやと」という在原業平の歌にちなんで名付けられています。なんだか優雅な橋のように思えますが、実は、昭和20年3月の東京大空襲の際に、戦火に追われた人々が、両岸から、向こう岸へ行けば助かると信じてこの橋に殺到し、千人近い人々が折り重なり、橋上を埋め尽くし犠牲になったと言われています。隅田川に架かる橋の歴史には古いものがあるのですが、実は江戸時代は、「千住大橋」「両国橋」「新大橋」「永代橋」「吾妻橋」の五橋のみでした。幕府が隅田川の架橋を制限していた理由は、莫大な架設費用がかかるというだけではなかったようで、江戸時代の初期、まだ徳川幕府が安定期を迎える前は、「隅田川」は江戸城を守る重要な「濠」 の役目を果していたのです。ですから、外敵の侵入を防ぐために「隅田川」に橋を架けさせなかったのです。ですから、隅田川を渡るのには、「渡し舟」を使っていました。浅草の玄関であり、水上バス発着場所としても有名な「吾妻橋」の場所には、以前は「竹町の渡し」がありました。どじょうを食べさせることで有名な「駒形どぜう」という店のある「駒形橋」にも、「駒形の渡し」がありました。このあたりには七不思議といわれる伝説があります。「置いてけ堀」(魚を釣った釣人に堀の中から「置いてけ、置いてけ」という声が聞こえ、釣った魚がなくなってしまう)、「送り提灯」(夜道にふと現れ、近寄ると消えてゆく)等有名な怪談があります。やはり「厩橋」あたりには、江戸時代は蔵前にある幕府の米蔵に付属する厩が並び、対岸へ渡す手段として「御厩の渡し」がありました。私が育った場所の近くにかかっていた橋は、「蔵前橋」です。幕府の貢米を収納していた米蔵94棟、他に御蔵奉行などの付属物があった広大な土地の大路を蔵前通りと呼び、それに因んでこの名前になりました。その下流へ次の橋が、相撲で有名な国技館がある「両国橋」です。私が子どものころは、「蔵前国技館」といって、蔵前橋のたもとにありました。「中洲の渡し」があったところには「清洲橋」は、世界でも美しい橋として知られていたライン川に架かるドイツの ケルンの大吊橋をお手本に作られ、曲線的な優美さをもった女性的な橋とされています。
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 清洲橋
「永代橋」は、「深川の大渡し」に代わって架けられました。
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   永代橋
「勝鬨の渡し」は、日露戦争の戦勝(勝ち鬨)を記念して名付けられたものですが、それが、大型船を通過させるため、時間を決めて中央部が 2つに分断されて跳ね上がるという開閉式で有名な「勝鬨橋」になります。橋は、美しさだけでなく、多くの歴史を刻んできたものも多くあります。
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  相生橋