倫理1

 最近、読売新聞の連載「日本」の第3部「漂流する倫理」を読んでいると、なんだか暗い気持ちになります。連載その1では、1997年に電通総研主任研究員の山崎聖子さんが米ニューヨークで行った講演が紹介されています。テーマは、「日本は無宗教なのに、なぜ人々のモラルが高いのか」です。国民の価値観や生活様式が均質化し、持ちつ持たれつの意識が強い社会の中で、「つばを吐いても、石を投げても、最後は自分にはね返る」という自律的な観念が発達したという内容に、出席者は熱心にメモを取っていたそうです。それから10年経った今、世界の価値観調査で、「周囲と助け合うことが大切」と答えた日本人の割合は18か国中17位だったそうです。「日本人は、どうなってしまうのか」と山崎さんはため息をついたそうです。また、こんな事例も紹介されています。公共広告機構のCMの内容は「車内マナーを守ろう」「ごみのポイ捨てはやめて」「いじめをなくそう」などの訴えはあまり変わっていませんが、それを受け止める側の考え方はずいぶんと変わってきているようです。たとえば、混雑する車内で男性がハンバーガーをほおばる場面に「電車はあなたの部屋ではありません」というメッセージに対して、「忙しいから食事は電車でしかできないんだ」「駅弁も食べるなと言うのか」などの苦情が殺到したそうです。「周囲に迷惑をかけないでと言いたかっただけなのだが」と困惑しています。このような捉え方をして、このような苦情の言い方は、最近の園の保護者を見ているとわかるような気がします。ただ、これが道徳教育の問題点だというのは違う気もするのですが。また、連載その2では、次のような事例を出しています。上野公園で、ホームレスの人たちに炊き出しのご飯を配っている人に対して、つばを吐きかけ、「邪魔だ。あっちへ行け」と怒鳴る人がいるそうです。はじめのうちは、「大変ですね」と声をかけたり、千円ほどのお金を置いていった人もいたそうですが、6?7年前からほとんどいなくなり、「そいつらは死んでもいいんだ」とまで言う人がいるようです。「弱い人たちへの思いやりを日本の人はなくしてしまったのでしょうか」と嘆いています。作家のマークス寿子さんは、こんな経験を話しています。足が悪かったマークスさんに席を譲ろうと、前に座っていた男児が腰を浮かしたとたん、「お前も疲れているんだから余計なことはしなくていい」と隣に座っていた父親がぴしゃりといったそうです。「相互扶助がなければ生きていけなかった貧しい時代には、弱い立場の人を助ける利他の精神が、当然の規範として人々の心に根付いていた。急激な経済成長を遂げた後も、ある時期までは、親から子へその精神が引き継がれていた」とマークスさんは、70年代以前の日本を思い返しています。連載その3では、「他人の目」お構いなしの若者が紹介されています。日本のある私大には、ここ数年英国に留学しているホームステイ先からこんな苦情が相次いでいるそうです。「自分の好きな時間に寝起きし、食事も一人で済ませる。会話どころか、朝の挨拶さえろくにしない。一緒に暮らす私たちのことが、目に入っていないかのようです」というものです。それに対して、「滞在費用を出しているのに、なぜ相手に合わせないといけないのか」と言い放つ学生もいるそうです。神戸女学院大教授の内田さんは、70?80年代の消費礼賛の時代以降、日本人の消費主体化が進んだ結果「事故の欲求の充足を図る消費は、きわめて個人的な行為。消費主体化がきわまれば、集団の一員としての自分を意識することもなくなる」と指摘しています。

倫理1” への4件のコメント

  1. とても嫌な気分で読ませてもらいました。こんな国になってしまったら悲しいです。これらのことを自分には関係のない他人事と考えずに、自分のこととして考えたいと思いました。こういった社会に対して私個人が出来ることは何か。今回の内容は、読めば読むほど何でもいいから行動したいという気持ちにさせられます。

  2. 世界の各地をみていて実感できるのは、私たちが住む日本というのは「わがまま」を言っても生きていけるとても寛容な社会だ、ということです。「勝ち組」とか「負け組」とかいう言い回しが存在すること自体がこの国の特徴でしょう。基本的に階級意識が存在しない、すなわちみんなが平等だという無意識の意識に支配されています。実におめでたい国民です。次代を担う若者を観ていると、象徴的言い回しに追随して行く人たちが多いような気がします。受け売りの問題意識表明はするものの、ある一定の方向性を植えつけられるとみんな揃ってその方向を進みます。一部のひとが流したうわさを簡単に信じ込んでしまいます。事実の検証能力など臨むべくもないような現実に出くわします。そして最も憂えるべきは、そうした若者存在を造り出しながらも私には関係ありません、と自己保身ばかりを考える大人の存在です。なんとかしなければなりません。

  3. 読みながら、自分はどうだろうかと考えました。子どもと関わる自分自身がまずは誰かの立場にたって行動できるようにならなければなと思いました。子どもの頃、大人のしていることはほとんど正しいものだと思っていました。その見られる側の大人になったことをもって意識することが大切なのかもしれません。電車内でハンバーガーを食べるCMの周囲に迷惑をかけないでという意図に対して、多くの苦情が相次いだということでしたが、私たちは時に全体の中の一部である自分という意識ではなく、自分の周りに広がる全体という意識が大きくなりすぎてしまうことがあるのかもしれません。そうなってしまうとまず考えるのは自分の利益にもなってしまいそうです。これだけのものを出しているのだからそれに見合った対価をもらわなければ困るという感覚が消費が主体化した社会でもありますね。物の売り買い、サービスの提供の関係も個人、個人であるのかもしれません。そのような意識を人との関係に当てはめてしまうと、私はこれだけやっているのに、どうしてあなたは(周りは)ということにもなってしまいそうです。そういう関係は窮屈ですね。私自身も気をつけながらいきたいなと思います。

  4. 受け止める側の考え方が変わったり、「弱い立場の人を助ける利他の精神」が失われてしまったり、「他人の目」を気にしなくなったりなど、人情よりも、効率だとか理屈とかのみに焦点を当てた考え方が広まっていってしまっているのかなとも感じました。その中でも気になったのが、電車内で、足の悪い人に席を譲ろうとした子どもを注意した父親の事例でした。子どもには、弱い立場の人の気持ちに共感し、他者を思いやろうとする気持ちがあるのに対して、その親の一言で、きっとその姿は一気に“無駄である”と認識されてしまうでしょう。親がそう言っても、その場にいた大人たちが、その子に対して大きな賞賛の気持ちがあることを願うばかりです。

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