はじめて物語1

 よく私が講演に使う「ネタ」ですが、「鎌倉幕府が成立したのは、何年ですか?」という問いに対して、年配者はほとんど即座にこう答えます。「“いい国つくろう鎌倉幕府”ということで、1192年です。」このように年号を、ひとつの文章に読み込んで覚えたものです。それらのいくつかは今でも覚えていますが、その中に、「ほっとけ、ほっとけ ごみやさん」ということで、仏教伝来が、538年であるというのがあります。しかし、この覚え方の怖いのは、年号は覚えていますが、それは誰がどうした時かとかいうような肝心なことは覚えていません。まあ、仏教伝来はどうやって行われたかということも、知らなくてもどうということもありませんが。ただ、いろいろなところに旅をして、それを知ったとき、教科書で覚えたのとは違って、昔をしのび、考え深いものがあります。今年のGWには、そんな地を訪ねてみました。中学校の教科書で習った「仏教伝来」の地に実際に立ってみると、感動を覚えます。奈良県桜井市金屋の河川敷を少し歩いてみました。このあたりは、昔、大陸からの船が大阪(難波津)から大和川をさかのぼって到着する船着場があった場所で、諸国や外国から多くの遣いや物資が上陸したと伝えられています。欽明天皇の時代に、百済からの使節も川をさかのぼり、この地に上陸し、仏教を伝えたと言われています。現在、その場所には金屋河川敷公園が整備され、「佛教伝来之地」の碑が建てられています。
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それまで日本人は八万神を信仰していました。しかし、仏教の教えが、百済の聖明王の使いで訪れた使者が欽明天皇に金銅の釈迦如来像や経典,仏具などを献上したときに一緒に伝えられました。外国から来た神として、その信仰はまず貴族など上流階級の人々の間に広まっていきました。『日本書紀』によると、欽明天皇は、「いままでにこのような教えは聞いたことがない。」と喜んで大臣たちに仏教を受け入れるかどうかを尋ねました。このとき大臣のひとりの蘇我稲目は「大陸の優れた文化であり,西方の国々が礼拝している仏教を受け入れるべきである。」と答えたといいます。それに対して、物部尾輿、中臣鎌子は、「外国の神を受け入れれば,日本古来の「神(国つ神)」が怒る。」と仏教に反対し,徹底的に排除するべきと主張しました。そこで天皇は、仏像を蘇我稲目に授けて、ためしに礼拝することを許しましたが、仏教をめぐって蘇我氏と物部氏は対立することになります。この争いが、当時の政界を二分する主導権争いは、587年に蘇我馬子らによって物部守屋が殺され、物部氏が滅ぼされて決着がつきます。権力闘争に勝利した蘇我馬子や聖徳太子は,「仏法興隆」をめざし,その後本格的な寺院建設を行っていきます。今回訪れてみた法興寺は我が国最初の本格的な伽藍配置の寺院として蘇我氏によって建立されました。法興寺の「興」は法をおこすの意味をもち、現在は飛鳥寺として明日香村にあります。
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飛鳥寺は日本で最初の瓦葺き寺院でもありました。掘っ立て柱の板葺き建物しか見ていない人々にとっては外国の文化を直接感じるものであったようです。瓦の使用の他にも寺院建築には多くの渡来人の技術が使われています。掘っ立て柱式の建築から石の上に柱を立てる礎石を用いた技法もその一つで,それまでの建築方法が一変しました。
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中学生のころに行った京都・奈良は、そのころ特に興味も何もなかったのですが、しかし、一度は行ったことがあるという経験は、意外と後々よみがえり、深く見ることができるようになるのかもしれません。