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2007年05月31日 [近頃思うこと]
暴力
最近の子どもは、よく戦いごっこという遊びをします。広告の紙で剣を作り、それで人をつついたりします。また、ヒーローの真似をして人に対してキックをしたり、パンチをしたりします。そこから「喧嘩」に発展してしまうこともあります。もちろん、この多くは、テレビやゲームが影響しています。保育者や親は、それはよくないことだと知りながら仕方ないと思っていることのほうが多い気がします。私はそのことに関して、日本は少し甘い気がします。ある園で、外国からの見学者を受け入れているとき、子どもがブロックでピストルを作って遊んでいるときにとても強く注意をしたそうです。そして、「日本の保育者は、なぜそれを止めないのですか?」と詰問されたそうです。外国では、戦いごっこどころか、遊びの中で武器をつくることをさせません。同時に、テレビでも、暴力シーンは子どもの目に触れないようにします。なぜならば、テレビと暴力の関係については、子どもが暴力シーンを見ると影響を受けて暴力的になるという「社会的学習説」が主流になっているからです。テレビゲームも同様です。坂元さんらが2001年に小学生を対象に行った調査では、かっこいい主人公が戦うゲームでよく遊んでいた子どもは、攻撃性が高まる傾向が表れたそうです。「ゲームは自分が主人公となって戦う場合が多く、影響はテレビより強くなることも考えられる。」と言っています。しかし、ただ、暴力がいけないのではなく、ある条件があるようです。それは「暴力が肯定的に描かれている」「暴力を振るう人が魅力的に描かれている」などです。主人公がかっこよく暴力で敵をやっつけた映画を見た人たちが映画館から出てくる姿を見ると、ほとんどの人が肩をいからせて出てくるのに似ています。一時、「バトルロワイヤル」という映画が、成人指定かどうか話題になったことがありました。この映画を見て、暴力はよくないと感じる人は多いでしょう。しかし、何割かは心の暴力性が引きだされてしまう人がいるそうです。日本の成人映画といえば、なんとなくポルノとか性描写とか、裸というイメージがありますが、外国では、暴力が成人映画というイメージがします。そうは言っても、日本では、テレビを子どもと見ていると、暴力シーンが出てくることがあります。そんなときは急いで消したりするとそれも変ですね。そういう時は、そばで見ている大人が、暴力へ嫌悪感を示すと、影響が減るなどの研究結果もあります。これはテレビだけではありません。よく、質問で、「子どもが戦いごっこをしたり、武器を作って遊ぼうとしたときにはどうしたらいいですか?」と聞かれることがあります。そのときにむきになって止めたりすると、子どもは余計に面白がってやることがあります。私は、こう答えます。「そんなときには、先生はとても悲しい顔をしてください。」子どもは、大好きな先生を悲しませることは心が痛みます。または、「いやな顔をしてください。」と言うこともあります。ことの善悪はまだ子どもはよくわかっていません。その判断を、大人の顔色を見てしていくのです。内心、悪いことだと薄々感じている事柄は、少しやってから大人の様子を見ます。その顔つきなどでそのことがよくないことかいいことかを判断します。今の子たちを嘆く前に、自分の行動を見直さなければなりません。大人の行動を子どもたちはじっと見ているのです。真似る(まねる)ことが学ぶ(まなぶ)ことですから。
投稿者 fujimori : 23:55 | コメント (3)
2007年05月30日 [近頃思うこと]
感情
皆さんは「感情労働」という言葉を聞いたことがありますか?今週号の「AERA」のトップ記事が「感情労働時代の過酷」というタイトルです。この内容は、いま、毎日感じていることなので、共感を持って読むことができました。労働を内容で分けると、体を使う「肉体労働」、頭を悩ませる「頭脳労働」それに対して、感情を切り売りするが如き「感情労働」の時代が来たというのです。その記事のリードでは、「教育も医療もまるでサービス産業だ。時にクレーマーと化すひと相手の仕事に灰にならずに、やりがいを達成する道はあるのか。」と書かれています。教育、医療はサービスではないとは言いませんが、専門性が求められる仕事ですし、人間としての将来や命をつかさどっている仕事であるにもかかわらず、クレーマーに振り回されている現状があります。「感情労働」という言葉は、看護の領域で知られているそうです。「人間を相手にするために高度な感情コントロールが必要とされる仕事」を指します。1980年代に、アメリカの社会学者が、当時の航空会社の客室乗務員の労働実態を、典型的な「感情労働」であり、「感情の搾取」に当たると指摘しました。まず、社会学の用語として広まります。簡単に言えば、「働き手が表情や声や態度でその場に適正な感情を演出することが職務として求められており、本来の感情を押し殺さなくてはやりぬけない仕事」のことです。保育の仕事も教育同様、人間を相手にする仕事です。ときたま、感情を押し殺さなければならないときを感じます。記事の中に例が書かれています。「給食の準備で忙しい時間帯、担任教員に急ぎの電話を入れ、“うちの子、風邪気味だから薬をちゃんと飲ませてよね”と命令する母親。」「運動会前日、“明日の天気は雨のようだが、なぜ雨の確率の低い日に設定しなかったのか?”と電話で詰問する親。」「運動会の場所取りで前夜から門前に並び、近隣住民から注意を受けると“学校の対応が悪い”とキレる親。」など、「ありそう、ありそう」と思わず頷いてしまいます。先日もこんな話をある園長から聞きました。台風で運動会が延期になったときに「何で、台風の進路が読めなかったんですか!」と苦情を言われたそうです。この状況をどう見ているのでしょうか。大阪大学大学院人間科学研究科の小野田教授は、「学校に対する保護者や近隣住民の要求が刻々と“いちゃもん化”する底流にあるものは、現代ニッポンの“コンビニ・ファミレス文化”と考える。たとえばコンビ二では立ち読みだけして出て行く客にも、店員が「ありがとうございます」と言いますし、ファミレスでは小さい子どもが一人で来ても『いらっしゃいませ』『なにになさいますか』と声をかける。本来なら『立ち読みやめんかい』『キミ一人で来たらあかんで』でしょう。こういう奇怪なコミュニケーションの積み重ねが、消費者サイドに間違った権利意識を植え付けてしまっている」と言っています。この分析はわかりますし、頷くことが多いのですが、保育、教育と、ここに他の例で出されている航空会社とか、看護現場であったり、販売店店員などの仕事と大きく違うことに気が着かなければなりません。私たち保育、教育の現場で相手にしている「人間」とは誰でしょう。当然、子どもたちです。ここで例に出されている相手は、すべて保護者です。保護者の苦情に対しては感情を押し殺さなくてはならないかもしれません。しかし、それは本来の仕事ではありません。もう一度、私たちが相手にしなければならないのは子どもであることを再認識しないと、このような記事にただ共感するだけで、大切なことを忘れてしまいかねません。
投稿者 fujimori : 23:42 | コメント (3)
2007年05月29日 [近頃思うこと]
通学かばん
もうすぐ衣替えですが、学生たちはおのおの衣替えをしているようです。それでもまだ律儀に冬服を着ている学生も多く見られます。通勤電車の中で、通学中の中高校生と一緒になります。その学生を眺めていると、男子は、都内では意外と詰襟の制服が多いのに驚きます。私の住んでいる八王子では、今ほとんどブレザー式のものに変わっています。私の息子も中、高ともブレザーにネクタイという制服でした。ですから、勤めだしてからネクタイの締め方がとても早く、上手です。それが、私の乗る電車は詰襟の学生服が多く、懐かしく眺めています。ただ、違うのは、襟のホックまで留めている子は誰もいません。それどころか、ボタンの上から一つ二つはずしています。後は私のころと余り変わりはありません。しかし、私のころと大きく違うのは、持っているかばんです。私が中学1年生のころは、男子は帆布製のいわゆるズックと言われる白い肩かけかばんでした。最近はあまりこのようなかばんは見かけませんね。昭和40年代くらいからあまり使われていないようです。このかばん、60年代にはヒッピーへのお土産に良いとアメリカ向けの日本土産として人気だったこともあったようです。今でも、ちらほら使っている中学校もあるようです。そして、中学2年生のころからは、通学かばんといえば、皮の手提げかばんでした。男子は黒く、女子は青い色でした。このかばんに最初のころはパンパンに教科書や参考書、辞書をつめていきましたが、次第にほとんど中に入れず、ぺしゃんこに薄くしてもって行くようになりました。そのほうがなんとなく、ワルぶって見えるからでした。学士ズボンの折り目をつけるために、寝るときに布団の下に入れてプレスしたものでしたが、かばんも薄くしたいために布団の下に入れて寝たものでした。そして、高校生になってはじめのうちはやはりこの革の手提げかばんでしたが、2年生になるころから、教科書とかノートをブックバンドに縛って持っていきました。こ私の高校は、1日3時間授業(ひとこま100分授業)でしたので、持って行くものが少なくてよかったのです。のブックバンドも最近はほとんど見ませんね。たまに打っていると思うと、本が開かないようにゴムで本を留めるようなもののことが多いです。しかし、私たちが使っていたのは、長い編みこんだ平の紐で、それで本を十字に留め金で留め、一方の端を長く残しそれを持って肩にかけるようなものです。若い人は知らないでしょうね。このブックバンドは、一時期アイビールックがはやったころのひとつのアイテムでした。アイビールックというのは、アメリカ東部アイビーリーグ(ハーバード、エール、プリンストン、コロンビア、ダートマス、コーネル、ペンシルベニア、ブラウンの8大学)の学生ファッションを、日本のファッションブランド「VAN」がアイビー革命を起こし、60年代の若者の心をとらえ大流行したものです。ボタンダウンのシャツ、金ボタンのブレザー、VANブランドのアイビールックは、男性ファッションに大きな影響を与えました。私の少し年齢が下の人たちの間で、学生かばんとして一世を風靡したものがあります。それは、「マジソン・スクエア・ガーデン」とプリントのあるボストンバッグで、通称「マジソンバッグ」といわれるものです。このマジソンバッグは日本のカバンの歴史の金字塔と言われ、2000万個のベストセラーで、当時の人口が1億としたら5人に1人は持っていたといわれています。しかし、どうも半分は類似品だったといわれています。しかも、ニューヨークのマジソン・スクエア・ガーデンに行ってもこのバッグは売っていないそうです。学生かばんは、その後も変化しています。
投稿者 fujimori : 21:40 | コメント (2)
2007年05月28日 [近頃思うこと]
万葉集
GWに訪れた桜井市は、ブログのネタがこんなにも多いとは今まで気がつきませんでした。それは、この市には「日本に初めて」の足跡が数多く残されています。ブログで取り上げたものでは、「日本に初めて仏教が伝来した」のは桜井です。「日本最初の劇場、“土舞台”にて芸能が始まった」のも桜井です。一昨日のブログの「相撲の原型、力自慢の二人が力比べをした」のも桜井です。そのほかにも「最古の市(いち)」「最古の街道」「最初の蹴鞠」‥‥などなどはじまりがたくさんあります。そして、「万葉集が詠み始められた」のも桜井です。「万葉集」は、7世紀後半から8世紀後半頃にかけて編まれた、日本に現存する最古の歌集です。ですから、わからない部分がずいぶんあります。それに「万葉集」の原本は、まだ発見されていません。現存しているものはすべてのちに書かれた写本です。最も古い写本は、平安時代中期に書写された、巻4の一部が残っているだけの「桂本万葉集」です。現在、20巻すべてそろったもっとも古い写本は、鎌倉時代後期の写本で、「西本願寺本万葉集」と呼ばれているものです。東京都内の「お茶の水図書館」が所蔵しています。写本でも完全なものはほとんどありません。それは、たぶん習字の手本にしたり、床の間に飾るための軸にしたりするために切り取ったからといわれています。ですから一首または数首の歌が記された断簡の形で発見されるものが多いのです。「万葉集」という名前をどうしてつけたかもはっきりしません。ひとつの説は「万の言の葉」を集めたということで、「多くの言の葉=歌を集めたもの」と解するものです。ほかに、仙覚の「万葉集註釈」の中の「古今和歌集」「仮名序」に、「やまとうたは人の心をたねとしてよろづのことのはとぞなれりける」とあることからつけたという説、「末永く伝えられるべき歌集」とする説、葉をそのまま木の葉と解して「木の葉をもって歌にたとえた」とする説などがあります。現在、研究者の間で主流になっているのは、「古事記」の序文に「後葉(のちのよ)に流(つた)へむと欲ふ」とあるように、「葉」を「世」の意味であると解釈して、「万世にまで末永く伝えられるべき歌集」と取る考え方です。このように名前の由来だけでなく、「万葉集」の成立に関しても詳しくは判ってはいません。一人の編者によってまとめられたのではなく、巻によって編者が異なり、家持の手によって二十巻にまとめられたとする説が有力です。天皇、貴族から下級官人、防人ら様々な身分の人間が詠んだ歌を4500首以上も集めた万葉集ですが、そんな数ある歌の中で、巻頭を飾る歌が雄略天皇の歌です。この雄略天皇の泊瀬朝倉宮があったといわれているところが、桜井市黒埼にある白山神社あたりです。ですから、この境内には、万葉集がこの地からはじまられたことをたたえる意味で、「萬葉集發耀讃仰碑/保田與重郎拝書」と書かれた記念碑があります。そして、その碑のそばには天皇が歌った歌碑が建てられています。「籠もよみ籠もちふ串もよ 美ふ串もちこの岳に菜摘ます子 家告らせ名のらざね そらみつ倭の国は おしなべて 吾こそませ我をこそ背とは 告らめ家をも名をも」(― 万葉集 巻1-1 雄略天皇 ―)という歌です。訳すると、「かごよ、よいかごをもち、堀串(へら)よ、よい堀串をもって、この岳で若菜を摘んでいる乙女よ。名前をおっしゃい。この大和の国は、すべて私が所有している。いちめんに私が治めているのだ。この私からまず名乗ろう。家をも名をも」という意味になります。プロポーズをするのに、自信に満ち溢れ、ずいぶん大きく出たものですね。この時代の人々の素朴で活き活きとした姿が伝わってきます。
投稿者 fujimori : 23:27 | コメント (2)
2007年05月27日 [講演先にて]
抱月
週末訪れていた島根県金城町で、突然流れてきた曲がありました。それは、「カチューシャの唄」です。以前のブログで、都内JRの駅ごとにちなんだ曲が流れることを書きました。高田馬場駅では、「鉄腕アトム」でしたね。それと同様に、様々な町で、ある時刻になると流れる曲があります。主に、朝とか、夕方に流れます。特に夕方流れる曲は、子どもたちに家に帰る時刻を知らせる役目を持ったりしています。八王子市では、夕方になると、「夕焼け小焼けで 日が暮れて~」という曲が市内全域に流れます。これは、この歌の作詞で有名な、「中村雨紅」は、八王子市上恩方町に生まれたからです。町に流れる曲は、その曲の作詞家か作曲家の生まれ故郷の場合が多いようです。金城町で聞いた「カチューシャの唄」は、島村抱月が1番の歌詞を作詞し、2番以降を早大時代の教え子で詩人の相馬御風(早大校歌『都の西北』の作詞者)に託しました。作曲は御風の進言により、抱月のもとで書生をしていた中山晋平に依頼したものです。中山晋平にとっては、これが作曲家としてのデビュー曲となりました。その「島村 抱月」は、ここ島根県浜田市金城町に生まれています。東京専門学校(現在の早稲田大学)で文学を坪内逍遙に、哲学を大西祝に学びます。卒業後は、イギリス、ドイツに留学、帰国して早稲田大学の講師となり、美学、文芸史の講義を担当します。その後、逍遥との関係から、新劇運動にかかわるようになり、日本でのヨーロッパ近代劇の普及に努めるため、女優、松井須磨子との不倫の恋が原因で早大教授の座から追われた島村抱月は、松井須磨子と共に劇団「芸術座」を立ち上げました。「カチューシャの唄」は、松井須磨子が、トルストイ原作の「復活」(芸術座)の劇中歌として歌い、劇そのものの評判と共に大変な話題を呼んだ歌です。日本の歌謡曲第1号とも言われるほど大ヒットしました。なお、トルストイの「復活」は、友人から聞いた実話が元になっているといわれています。内容は、「貴族ネフリュードフは青年時代、伯母の小間使カチューシャ・マースロワを誘惑して捨てます。そのため、彼女は娼婦にまで身を落とし、やがて法廷の手続ミスのためにシベリアへ流刑となります。皮肉にも、彼女の裁判に陪審員として立ち会うことになったネフリュードフは、深い罪の意識から彼女を救うために努力し、自らもシベリアに赴きます。」しかし、実話では、カチューシャは流刑地で病死してしまいますが、トルストイはそれをネフリュードフと結婚するというハッピーエンディングに変えました。ところが、貴族が娼婦と結婚するという結末は、政府から危険思想とにらまれたため、やむをえず、カチューシャは他の流刑者と結婚するという筋書きに変えました。これが、今も読まれている「復活」の結末です。ずいぶんと激しい恋ですが、カチューシャ役を演じた須磨子も、抱月がスペイン風邪で島村が病死すると、世を悲観して2ヶ月後に、芸術座の道具部屋において自殺(縊死)しています。そういえば、作曲した「中山晋平」は長野県中野市の出身、歌った「松井須磨子」は長野県長野市(松代)の出身で、共に長野県出身です。カチューシャの唄の歌詞を口ずさみながら、長野で入ったりんごを浮かべた温泉を思い出していました。
「1.カチューシャかわいや わかれのつらさ せめて淡雪 とけぬ間と 神に願いを(ララ)かけましょか 2.カチューシャかわいや わかれのつらさ 今宵一夜に 降る雪の 明日は野山の(ララ)路かくせ 3.カチューシャかわいや わかれのつらさ せめて又逢う それまでは おなじ姿で(ララ)いてたもれ」
投稿者 fujimori : 20:05 | コメント (3)
2007年05月26日 [近頃思うこと]
相撲
今、大相撲が終盤を迎えています。最近は、モンゴル力士が強いですね。相撲は日本の国技といわれ、強さだけでなく、品格も問われています。しかし、どうしても格闘技の要素が強いだけに、勝つ力士が重んじられていきます。人は戦いをいつからし始めたかというと、人間が半ば本能的に行っていた戦いから自然発生的に生まれてと思います。ですから、モンゴルを始め、アジアのみならず全世界で、大昔から現在まで、相撲と同じような格闘技が行われていたのは当たり前の話でしょう。しかし、一応、相撲の発祥についてはいわれがあります。それは、GWに行った奈良県「桜井市」と、週末訪れた出雲に関係があります。それは、日本書紀の中にはじめて相撲がとられたときの話です。「その昔、垂仁天皇の時代のことです。大臣の一人が「当麻に当麻蹴速(たいまのけはや)という、ものすごく強いものがいるようです。命がけで力比べしたいものだ、と言っております。」と言いました。するとまた、別の大臣が「出雲の国に野見宿禰(のみのすくね)というすごい力持ちがおります。」と言いました。そこで、天皇の前(今でいう天覧試合)で、当麻蹴速と野見宿禰に力比べをさせようということになりました。」これが、相撲の始まりだといわれていますが、その戦い方はどう見ても「キックボクシング」とか「K1」とか「プライド」に近いものだったようです。というのも、日本書記によると、「二人はお互い足をあげて蹴り合った末に、宿禰は蹶速の脇骨を蹴り折り、腰を踏み砕いて殺してしまった。天皇は蹶速の領地をことごとく宿禰に与え、その地は後に「腰折田」と呼ばれることになった。その後宿禰は天皇に仕えた」とあります。なんだか死まで天覧試合として戦わせるのは、ローマなどで、皇帝の前で一方が死ぬかで戦わせたのと似ていますね。この宿禰はいまでも「相撲の祖」「相撲の神様」として遇され、東京都墨田区亀沢にある宿禰神社では、年三回の東京場所ごとに、日本相撲協会関係者らが出席して例祭が営まれているそうです。そして、始めてこの相撲を取った場所が、桜井市三輪の相撲神社で、この境内には、勝った宿禰を祀る祠や、土俵などがひっそりとたたずんでいます。また、出雲地区には、野見宿禰の墓といわれる塚や、ゆかりの地の十二柱神社があります。この相撲は、戦国の時代がおわってからさかんになりましたが、興業になった相撲で、力士が命にかかわることはありませんでした。しかし、闘争心発露の場としての相撲は、庶民に人気があり、武芸の道をとざされた力自慢の浪人が力士とりの仲間入りをすることもあったようです。そして、その人気が、見物人同士の乱闘をまねくこともありました。その狼藉の被害が周辺の町におよんで、幕府が相撲興業の水をさした時期もあったようです。最近、ヨーロッパでサッカーのサポーターが乱闘騒ぎをしたというニュースをやっていましたが、同じようなものですね。もともと「すもう」の語は、「すまふ」の連用形「すまひ」が名詞化したものが語源であり、「すまふ」の意味が「あらそうこと」や「あらがうこと」であることからわかるように、本来闘争や格闘一般を指した語ですから、当たり前と言ったら当たり前ですね。その言葉に当てられた漢字の「相撲」も、そもそもは力くらべ、格闘を意味した漢語であるようです。考えてみれば、こうした歴史を持つ「相撲」が、国技になり、心技一体としたスポーツに昇格したのはふしぎですね。これからは、どうなるでしょう。
投稿者 fujimori : 23:22 | コメント (2)
2007年05月25日 [近頃思うこと]
衣替え
花が一斉に咲く春になると四季の移ろいに感動し、つくづく日本はいい国だなあと思うことがあります。このような日本の美しい四季の変化と生き物の変化は、4つの気団によるものです。そしてこの4つの気団は、私たちの生活を豊(ゆた)かでうるおいのあるものにしています。それは、「オホーツク海気団(しめっていて冷(つめ)たい)」、夏の「小笠原気団(おがさわらきだん)(しめっていて暑(あつ)い)」そして春と秋の「揚子江気団(乾(かわ)いていて暖(あたたか)かい)」、さらに冬の天気の主役(しゅやく)となる大陸そだちの「シベリア気団(乾いていて冷たい)」、この4つの特徴(とくちょう)の違う大気のかたまりがかわるがわる日本をおおって、日本の天気を支配しているのです。もうすぐ訪れるであろう「梅雨」は、オホーツク海気団が起こすものです。5月から6月にかけてとても暑い日が続きます。園でも、お昼寝をそろそろタオルケットだけにしようかという意見が出ました。子どもたちは暑くて、寝苦しいようです。しかし、そう思って布団を片付けてしまうと、梅雨のころにまた寒い日があることがあります。ですから、今の時期に完全に夏支度をすることをためらいます。この暑さ、寒さの変化には時期的な目安はありますが、それはあくまでも目安であって、年によってかなり異なります。ですから、最近は一斉に制服の衣替えということをする学校が減りました。しかし、警察官や駅員さんは、衣替えで夏服に代わります。これは世界でも同様のようで、以前イギリスに行ったときにバッキンガム宮殿で、直立不動の姿勢で警衛を行う近衛兵の隣で写真を撮りました。(隣でなにをしようと、姿勢は崩しません)その近衛兵の制服は、赤い上着に黒い熊の毛皮の帽子をかぶっています。しかし、行った季節が冬だったので、グレーの制服でした。機能的にその服が暑い、寒いというよりも、その制服で季節を感じるということもありますね。そういう意味では、「衣替え」も大切な季節行事かもしれません。そういえば、我が家にある「裃(かみしも)」にも、夏服と冬服があります。いつごろから、衣替えをするようになったのでしょうか。歴史はずいぶんと古いようです。それは、平安時代から始まった習慣で、当時は中国の風習に倣って4月1日および10月1日に夏服と冬服を着替えると定め、これを「更衣」と呼んでいました。それは、宮中行事のひとつとして、衣類はもとより、調度品なども含めて、季節に合わせた入れ替えが行われていたのです。ですから「更衣」とは、「衣を変更する」ということで、季節の推移に応じて衣服を替えることだけでなく、それに伴って衣服の収納場所を変更することをも言っていたようです。しかし、更衣というと、天皇の着替えの役目を持つ女官の職名であり、後には天皇の寝所に奉仕する女官で女御に次ぐ者を指すようになったために紛らわしいので、民間では更衣とは言わず衣替えと言うようになったそうです。その時期が4月1日というのはずいぶんと早い気がしますが、もちろん旧暦の話です。それが、江戸時代ごろから、衣替えは6月1日と10月1日に行うようになりました。そして、太陽暦採用後は、官庁・企業・学校が旧暦の日附をそのまま新暦に移行して6月1日と10月1日に行うようになったのです。ずいぶんと最近の話ですね。それにしても私の中高校のころの制服はいわゆるつめ襟の学生服でした。それを脱いでワイシャツだけになるのはどんなに暑くても6月1日でなければ許されていませんでした。ずいぶんと辛抱強かったですね。
投稿者 fujimori : 22:22 | コメント (2)
2007年05月24日 [近頃思うこと]
緑化
先日、園の一部のベランダに芝生を植えようと業者に来てもらいました。最近は、屋上緑化をしようとするところが増えました。そのときに業者の人と芝について話をしました。園庭や校庭の緑化もするところも増えてきていますが、踏みつけることが多いところではなかなか芝が定着しません。校庭が二つあるといいのですが、いつも半分は養生のために使えない状態が起きてしまいます。もともと激しい動きをするところの芝生化は無理があるのかもしれません。たとえば、クローバーのようなほかの植物はどうかと聞いたところ、もっと無理で、中でも芝が一番踏みつけられることには強いようです。ですから、私は、ベランダや、屋上はどうかと思っています。そこを緑化する意味は、「ヒートアイランド現象の解消」で、都市部の灼熱砂漠現象を和らげます。10%緑化率を上げると、1~3℃、都市部の気温を下げる効果があり、それが進めば夏60℃にもなるコンクリートの温度を30℃以下に下げることも夢ではないそうです。それから、「断熱による省エネ効果」で、冷暖房費の大幅削減となります。500㎡の屋上緑化を有する10階建てのビルは年間180万円の省エネ効果があると言われています。そして、「環境にやさしい」ことです。二酸化炭素を吸収し、空気をきれいにします。それから、「癒し効果」があります。植物のグリーンが人に活力を与えます。ということで少しずつ考えていこうと思っています。
では、庭の地面はなにで覆っていたのでしょう。地被植物(ground cover plants)という植物があります。これは、地表面を覆って地肌を隠す為に植栽する植物の総称で、草丈が低く性質強健な木本及び草本類の事をいいます。地表面を密に覆い、美しい樹姿(草姿)の種類で、そのためにある条件があります。「草丈が低く多年草で、植物体が柔らかい」「繁殖力が強く容易に増やせる(地下茎ほふく茎の伸張) 」「性質が強健で環境条件に対する適応性が大である。(利用・用途が多様)」「病害虫に対して強く、管理が容易である」その中で、草として使われるの野主なものが、芝草類で、日本芝、西洋芝、クローバー、ダイコンドラなどが使われます。そして、日本人が好きなものに「コケ類」があります。

コケで覆われた庭
これには、おもにスギゴケ類やハイゴケなどが使われます。日本の庭園は、校庭や園庭のように運動をしたり、リクリエーションをする場として発展してきたヨーロッパの庭園と違って、もっと深い意味を持っていました。 日本では、庭は仏教の教えを形にする、茶の湯の精神を表すものとして、歴史や文化の変遷とともにさまざまな様式を生み出してきたのです。特に、寺社の庭園には宗教的な深い意味が込められています。そして、作られた自然の中には、テーマとかストーリーなど精神文化的要素が多分に含まれていることが明白になっています。日本庭園とは、必ず自然を取り入れて何かを表現します。役者が舞台で演ずるように、庭では木や石が代役を演じ役木・役石と称して庭を構成します。すなわち、庭の鑑賞は、「材料の名前や色、かたち、傾き加減、方位方角(東西南北)数量などをヒントにして、連想し、石は意志、木は気、流れは時代や歴史の流れ、松は待つ、梅は生むや創造など、同音同意の考えを取り入れ、空想し、思い出にひたり、時をすごすことによって、からだの疲れをいやし、明日への活力を養うことにあります。」といわれています。また、日本庭園には水があり土があり、その土地の植物を用いて景観が形づくられるために、自然と共生するという一種のビオトープであるということもいえます。
投稿者 fujimori : 22:28 | コメント (5)
2007年05月23日 [映画]
ダイヤ
「人は ボールを前に投げるために 後ろにいったんふりかぶる 人は 高く上に飛ぶために 下に一度かがむ 前や上を未来 後ろや下を過去だとすれば 人は 未来のために過去を振り返る ここに生きる希望をつくるために 水俣は 起きたことを明らかにしながら 犠牲を無駄にしない社会づくりに役立て 受難者たちと共に 受難の大地水俣の未来に生きる希望をつくる」(水俣病資料館館長 吉本哲郎)水俣病事件は20世紀世界最大の公害事件です。50年を越えた今もなおいろいろな問題を投げかけています。それまで、公害受難で病魔に犯され亡くなった方だけでなく、生き残った人たちも、嫌がらせ、いじめ、中傷、偏見、差別の中にいました。水俣という地名を代えようと思ったこともあったそうです。しかし、あえて、それに正面から向かい合い、環境を考える新しい街づくりに取り組んでいます。
今日「水俣病資料館」を訪れたとき、科学化を進める時代に犠牲になり、便利、欲望の犠牲になってきた姿に触れ、少し前に見た映画を思い出しました。それは、本年度アカデミー賞5部門ノミネートされた「ブラッド・ダイヤモンド」という映画です。主演は、レオナルド・ディカプリオで、残念ながらアカデミー賞主演男優賞は逃しましたが、なかなかいい演技をしていました。監督は『ラスト サムライ』のエドワード・ズウィックです。ダイヤモンドなど宝石は、国際市場で、高値で取引されます。そのために産出国にとっては貴重な外貨獲得資源とされていますが、その産出国が内戦など紛争地域だと、その国は輸出したダイヤモンドなど宝石類で得た外貨を武器の購入に宛てるため、内戦が長期化および深刻化することになるのです。とくに反政府組織はこれら鉱物資源による外貨獲得とそれによる武器購入を広く行っています。その際には無辜の人々を採掘に苦役させることから人道上も大きな問題があります。これら内戦の早期終結を実現するには内戦当事国の外貨獲得手段を奪うのが有力な手立てであり、国際社会はそれに取り組むべきだとされています。内戦当事国に外貨が流れ込まないようにするために内戦国から産出するダイヤモンドなどを、「紛争ダイヤモンド」と定義し、関係業界はそれらを取引の対象外にすることが求められていました。この映画の舞台は、シエラレオネ共和国はアフリカの西部、大西洋岸に位置し、北はギニア、南東はリベリアと国境を接しています。奴隷制から解放された黒人達の移住地として1808年にイギリスの植民地となり、1961年に独立しました。また、ここは世界でもっとも平均寿命が短い国として知られています。この映画は、地域紛争が激化する「ブラッド・ダイヤモンド」の現実問題に言及した内容について、米国務省が批判したことでも話題となった問題作です。この映画を見た後、先進国といわれる国々が、自己の満足と、豊かさゆえにダイヤを欲しがるので、こんな不幸がおきるのだということを思いましたが、一方、アフリカ諸国をはじめとする世界のダイヤモンド産出国でいかにダイヤモンドが人々の生活の向上に大きく貢献しているかということについては残念ながらあまり知られていません。そこで、2000年に各国政府、非政府組織、ダイヤモンド業界が一丸となってこの問題の解決のために立ち上がり、2002年には国連主導下で「キンバリー・プロセス証明制度」が確立されました。キンバリー・プロセスは紛争地ダイヤモンド取引の撲滅に大きく貢献することとなり、現在では、世界中で取引されるダイヤモンドの99%以上が紛争と関係のない地域から採掘されたものとなっています。贅沢の裏には、犠牲になっている人がいることを忘れてはいけないという思いをした日でした。
投稿者 fujimori : 21:58 | コメント (3)
2007年05月22日 [近頃思うこと]
隅田川と橋
橋といえば、思い出があります。私が子どものころに住んでいた場所は、台東区でした。台東区は、隣の墨田区との間には隅田川が流れていました。小学校での社会で「私たちの台東区」という冊子をサブテキストとして使っていましたが、そこには、隅田川に架かる橋が出ていて、それを覚えさせられました。時代で、覚えさせられたものは違いますが、有名なものは、歴代天皇の名前でしょう。私の時代にはそれはありませんでしたが、歴代総理大臣の名前や徳川家代々の名前などは覚えたものです。
私は昨日の多摩川の土手の散歩ではありませんが、よく川の土手を散歩します。よく散歩する川は、昨日の多摩川、その支流の浅川、神田川、目黒川、そして、隅田川です。隅田川は、そこに架かる橋は小学校のころ覚えたこともあり、なんとなく名前だけでも懐かしく思います。そして、それぞれ特徴のあるデザインで目を楽しませてくれますし、歴史的にもいわれのあるものが多く見られます。たとえば、「言問い団子」で有名な「言問橋」は、「名にしおはば いざこと問はむ都鳥 わが思ふ人はありや無しやと」という在原業平の歌にちなんで名付けられています。なんだか優雅な橋のように思えますが、実は、昭和20年3月の東京大空襲の際に、戦火に追われた人々が、両岸から、向こう岸へ行けば助かると信じてこの橋に殺到し、千人近い人々が折り重なり、橋上を埋め尽くし犠牲になったと言われています。隅田川に架かる橋の歴史には古いものがあるのですが、実は江戸時代は、「千住大橋」「両国橋」「新大橋」「永代橋」「吾妻橋」の五橋のみでした。幕府が隅田川の架橋を制限していた理由は、莫大な架設費用がかかるというだけではなかったようで、江戸時代の初期、まだ徳川幕府が安定期を迎える前は、「隅田川」は江戸城を守る重要な「濠」 の役目を果していたのです。ですから、外敵の侵入を防ぐために「隅田川」に橋を架けさせなかったのです。ですから、隅田川を渡るのには、「渡し舟」を使っていました。浅草の玄関であり、水上バス発着場所としても有名な「吾妻橋」の場所には、以前は「竹町の渡し」がありました。どじょうを食べさせることで有名な「駒形どぜう」という店のある「駒形橋」にも、「駒形の渡し」がありました。このあたりには七不思議といわれる伝説があります。「置いてけ堀」(魚を釣った釣人に堀の中から「置いてけ、置いてけ」という声が聞こえ、釣った魚がなくなってしまう)、「送り提灯」(夜道にふと現れ、近寄ると消えてゆく)等有名な怪談があります。やはり「厩橋」あたりには、江戸時代は蔵前にある幕府の米蔵に付属する厩が並び、対岸へ渡す手段として「御厩の渡し」がありました。私が育った場所の近くにかかっていた橋は、「蔵前橋」です。幕府の貢米を収納していた米蔵94棟、他に御蔵奉行などの付属物があった広大な土地の大路を蔵前通りと呼び、それに因んでこの名前になりました。その下流へ次の橋が、相撲で有名な国技館がある「両国橋」です。私が子どものころは、「蔵前国技館」といって、蔵前橋のたもとにありました。「中洲の渡し」があったところには「清洲橋」は、世界でも美しい橋として知られていたライン川に架かるドイツの ケルンの大吊橋をお手本に作られ、曲線的な優美さをもった女性的な橋とされています。
清洲橋
「永代橋」は、「深川の大渡し」に代わって架けられました。
永代橋
「勝鬨の渡し」は、日露戦争の戦勝(勝ち鬨)を記念して名付けられたものですが、それが、大型船を通過させるため、時間を決めて中央部が 2つに分断されて跳ね上がるという開閉式で有名な「勝鬨橋」になります。橋は、美しさだけでなく、多くの歴史を刻んできたものも多くあります。
相生橋
投稿者 fujimori : 18:33 | コメント (2)
2007年05月21日 [散歩]
橋
先日訪れた奈良の石造物ではありませんが、とても不思議なものがあります。また、石舞台のような古墳などには、ボリューム感のある建造物もあります。そして、建物には美しいものも多くあります。そんな建造物の美しさを感じるものに「橋梁」があります。橋(はし、橋梁、きょうりょう)は、人や物が、谷、川、海、窪地や道路、線路などの交通路上の交差物を乗り越えるための構造物です。同じように、道路、窪地、線路などを跨ぐ橋は陸橋と呼ばれます。橋はある空間を越えるものであるということは、その構造に工夫があります。この工夫された構造に美しさを感じます。昨日、遠足が終わって夕方まで少し時間があったので、妻と多摩川を歩いてみました。よく多摩川土手を歩くのですが、土手にはさまざまな草花が咲いたり、川には水鳥が遊んでいたり、空は広く広がっているので気持ちが晴れ晴れとしてきます。土手を歩いていくと、いくつもの橋を見ていくことになります。昨日歩いたのは、浅川が多摩川に合流する付近です。この合流点を少し下流に行ったところに架かっている橋が「府中四ッ谷橋」です。
この橋は、1994年に架けられたばかりの橋長446mの大きな白い吊り橋で、現在の鎌倉街道で、多摩川の北岸から野猿街道に通じるようになっています。斜張橋の形が美しい橋です。斜張橋とは1本以上の主塔からケーブルによって桁を吊り下げた構造で、広島県しまなみ海道の「新尾道大橋」や大阪市「天保山大橋」、名古屋市「名港中央大橋」、横浜市「横浜ベイブリッジ」、神戸市「東神戸大橋」などが有名です。吊橋の一種ですが、違うところは、「吊橋」は塔の間にまず渡したメインケーブルがあり、そこから垂らしたハンガーロープで桁を吊っていることである。それに比べてつってある「斜張橋」は、塔から斜めに張ったケーブルを橋桁に直接つなぎ支える構造のものです。古くは西洋の中世の城の城門の巻き上げ式の跳ね橋が斜張橋と言えます。しまなみ海道の本四連絡橋のうち「新尾道大橋」のほか「生口橋」「多々羅大橋」は斜張橋、「因島大橋」「大島大橋」「来島海峡大橋」らは吊橋です。その多々羅大橋は当初、吊り橋で計画されましたが、途中で斜張橋に変更され、世界最長の斜張橋となっています。生口橋は世界第10位です。吊り橋では明石海峡大橋が世界最長です。
ほかに、長崎に行ったときの美しい橋を二つ見せてもらいました。ひとつは、鋼アーチ型の橋で、「西海橋」です。
1955年に完成し、昨年船を運転させてもらった日本三大急流で有名な伊ノ浦(針尾)瀬戸に架かる大きなアーチを描いた橋です。建設当時は東洋一、世界第三位のアーチ橋でした。佐世保市とお隣の西彼杵半島をつないでいます。もうひとつは、それに並んでかけられている「新西海橋」です。
この橋は、鋼中路ブレースドリブアーチ橋で、2006年に完成したばかりです。西海パールラインの橋として使用されています。アーチの中間を道路が通る中路橋としてユニークな姿をしていて、桁下は、歩道があり、両岸の西海橋公園を結んでいます。歩道部を歩いてみると、隣の西海橋が綺麗に見え、歩道の中間地点に展望室があり、そこの床に覗き窓が4箇所あります。そこからは眼下の渦潮や通る船を覗いて見ることができます。高所恐怖症の人には少し怖いようですが、私はとても興味深く覗き込んでみました。
人間の知恵は、「機能」を「美」に変えることができるのですね。
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2007年05月20日 [近頃思うこと]
日光浴
今日は、園の遠足でした。本当は昨日でしたが、朝のうち雷を伴う激しい雨が一時的に降ったために今日に延期になったのです。今日は、昨日と打って変わって、日差しが強い日でした。私は、帽子をかぶっていたのですが、うなじの辺りは、夜風呂に入ったときに少しひりひりしたので、日に焼けたようです。先日の5月14日の日本経済新聞に「紫外線、朝も要注意・目に悪影響、金沢医大など調査」という記事が掲載されていました。その記事によると、「目が浴びる有害な紫外線の強さは、真昼よりも午前9時ごろと午後2―3時ごろがピークで、午前9時ごろでは真昼の約2倍に達することが金沢医大の佐々木洋教授(眼科学)と医薬品メーカーのジョンソン・エンド・ジョンソンの共同調査で分かった。紫外線を長年浴び続けると、手術でしか治せない「翼状片」になり、乱視や視力低下となる恐れがあるという。」という記事です。かなり以前から「紫外線は、怖い 真っ黒な日焼けは健康の象徴と思われていたのは、一昔前の話。大量の紫外線を浴びると、害が大きいことがはっきりしてきた。」と言われています。赤ちゃんに日光浴を勧める記述は、1998年、母子手帳から姿を消しています。以前は、赤ちゃんの健康のために日光浴が必要であると考えられていましたが、現在では紫外線の問題のほうが深刻であるため、直射日光に当てるのではなく、外気浴のみで十分であるという考え方に変わってきているのです。世界保健機構でも、皮膚がんや白内障の原因になるとして、日光浴の自粛を呼びかけています。「日光浴」は、私たちの小さいころと常識がまったく逆になってしまったものの代表的なものです。なぜ、かつては、健康のために日光浴がよいといわれてきたのでしょうか。それは、18~19世紀に日照の少ない北欧や南アフリカなどの地方でクル病の発生が見られたことから、日光浴などで紫外線を積極的に浴びることがクル病の予防になると考えられてきたからです。しかし、最近になって、これらの地域のクル病発生率の多さの理由は、日照の問題ではなく、食糧事情にあったと考えられています。このクル病というのは、ビタミンDの欠乏によって骨の発育に必要となるカルシウムが十分に吸収されず、手足や背骨の発育が不十分になって、曲がってしまう病気です。そこで、日光浴をすると、日光の紫外線にはビタミンDを合成するはたらきがあるために、日に当たることで骨が丈夫になると考えられてきたからです。確かに紫外線には体内でビタミンD3の合成を促す作用があります。しかし、ビタミンD3を1日に必要な量を生成するためには、夏の正午近くの太陽光を手に2~3分浴びるくらいでも十分だといわれています。また、紫外線に当たらなくても、イワシやカツオなどの青背の魚、干ししいたけ、卵黄などの栄養を積極的にとっていれば十分だそうです。同じように、骨の老化を防ぐための日光浴でも、何十分も直射日光の下で皮膚をさらす必要はなく、十分な栄養をとって適度の運動を行うことのほうがよっぽど重要なのです。それよりも、赤ちゃんのころは紫外線の影響を受けていないためメラニン色素が少なく、強い日光を浴びるとすぐに火ぶくれや熱をひき起こしてしまいます。また、新陳代謝が活発なため、傷つけられたDNAを含む細胞分裂も盛んに行われ、中高年になってから皮膚がんを発症する確率も高くなるといわれているのです。日本人よりも皮膚がんの発生率が高いオーストラリアやアメリカでは、積極的に日焼けを予防しようという意識が国民に広まっています。よく、朝のうちから外で子どもを遊ばせたり、午後に子どもを外に出したほうが元気になるというのは、何の根拠も今はないようです。
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2007年05月19日 [新聞記事より]
聴診器
5月17日の 読売新聞に、「体の音知りたい“聴診器ブック”ブーム」という特集が組まれていました。この「聴診器ブック」とは、医療現場で使われている聴診器と、一般向けの説明書をセットにしたもので、書店で販売しています。この聴診器で何の音を聞くかというと、購入した人によって様々なようですが、多くは、健康志向の高まりに加え、「お医者さんは普段、どんな音で判断しているのだろう」といった好奇心も背景にあるとかかれています。また、「飼い犬の心臓の音も聴けて面白いって聞いたので。知り合いにも頼まれ、3冊買いに来ました」とか、「夫が太ってきてメタボリック症候群が心配なので」「子どもが病気がちで、心臓や呼吸の音がどうなっているのか聴けないかなと思って」などあるようです。このセットは、3月中旬に大型書店で販売を始めたのですが、予想以上の売れ行きで、すでに1万冊を売ったそうです。実は、数年前に私は聴診器を買い求め、机の引き出しに入っています。私は、何の音を聞こうと思って買ったのかというと、気に幹の中を流れる水の音を聞きたかったからです。木の幹に聴診器を当てて聞いてみると、木が水を吸い上げる音が聞こえると何かで読んだからです。聴診器を幹に当てて聴こえる音は、木が根から水分を吸い上げる「揚水音」という音です。幹だけでなく、雑木林に出て、木や土に聴診器をあててみるといろいろな音が聞こえてきます。木から聞こえてくる音も、木によって違いますし、土の音、水の音、これらの音からは、大地の息吹を感じます。それを、「観聴」というそうです。聴診器では、他にもいろいろな音が聞けるようです。医者が使い意外で聴診器を使っている場面をテレビで見ることがあります。それは、金庫破りが聴診器を当てながら金庫のダイヤルを回している姿です。こんな聴診器ですが、このように音を聞き分けることに関して、遊びを工夫する天才である子どものほうがその原理を知っていたようです。かつて患者を診察するのに、以前は直接皮膚に耳を当て、音を聴いていました。1816年のあるとき、患者が太っていて胸部に耳を押し当てても音がよく聞き取れません。フランスの医師ルネ・ラエネクはどうしたものかと思案しつつ公園にたたずんでいました。すると、子どもたちのひとりが木の棒を釘でこすり、ひとりが耳を当てて音を聞いています。それにヒントを得て、ラエネクは病室に戻ると紙を巻いて筒をつくり、患者の胸に当ててみました。それが、聴診器の発明です。
そのほか、聴診器ではありませんが、音を聞いて異常に気がつくのは、体だけではありません。「機械の異音の発生箇所を探す」「配管の音を聴く」「卵の孵化までの情報採取」なども音から知ります。やはり今年の1月12日の 読売新聞で紹介されていた仕事は、「機関車のお医者さん」です。患者に聴診器を当てるように、小型ハンマーで機関車の節々をたたきます。わずかな音の変化を聞き分け、不具合を“診察”するのです。私が子どもころは、よく機関車のあちらこちらをたたいている人を見ました。なんでたたいているのだろうと不思議でした。その姿は、たたいて何かを聞き分けているようには見えず、ただ歩きながらなんとなくたたいているかのように無頓着に見えたのです。しかし、その音の微妙な違いで故障箇所を見つけていたのです。もっと人間の能力をあてにしていたら、あの、先日起きたジェットコースターの事故は起こらなかったかもしれません。機械は、人間の能力を衰えさせますね。
投稿者 fujimori : 22:14 | コメント (3)
2007年05月18日 [近頃思うこと]
倫理3
最近、「倫理観がなくなったなあ」と思うもののひとつに「保育料滞納問題」があります。認可保育園の保育料の滞納額が主要都市だけで年間約34億円に達しているそうです。保育料は、それぞれの前年度の年収に応じて決められているので、お金に苦しい人は額が低くなっています。また、前年度の年収によるので、今年度にいろいろな理由で収入が減った場合は、特例措置がとられています。滞納率のベストテンの地区は、1位が仙台市の7.22%で、滞納額が2億1730万円にも上ります。2位が千葉市の6.91%、そのあと大阪市5%、佐賀市4.4%、宮崎市3.42%、盛岡市、青森市、堺市と続きます。東京23区は、2.73%です。もちろん、本当に苦しい場合もあるでしょうし、何かの事情がある場合もあるでしょう。新聞にも紹介されている滞納者の姿は、「お金がなく、保育料は払えないと言いながら、2台の外国車にそれぞれ乗る夫婦」など「最近は、車や携帯電話の使用代、外食などに優先的にお金をかける傾向がある。」ようです。また、滞納理由の上位を占めるものに「家のローンが大変だから」生活が大変というのを聞くと、首を傾げてしまいます。かつて、園児で、毎日朝一番に来て、一番最後に帰る子がいました。その子は、土曜日も、夏休みもすべての開園している日は皆勤で来ていました。そんな日が続いたからか、奇声を発するようになりました。少し、子どもには無理があるようです。仕事がそんなにきついかというと、両親とも大学の教授で、とてもインテリです。そこで、父親に来てもらって、私から少し時間を子どものために作ってもらえないかという話をしてみることにしました。すると、父親はこう言ったのです。「せっかく家を園の近くに買ったのだから、そのローンを返済しなければいけない。」と言うのです。園の近くはとても閑静な住宅街で、それらの家は、とても高額な分譲住宅です。しかし、私はこう言いました。「せっかくいい家を買っても、そこに何時間いることができるのですか?その家で、家族団らんの時間があるのですか?ただ、その家のローンを返すために、その家でくつろぐこともできない。そんな生活は、もう止めようではありませんか。もっと、豊かな、人間らしい生活をしましょうよ。」今の時代は、なにを優先するかの選択が間違っている人が多い気がします。また、いろいろなことを両立しようとしたり、なんでもすべてをかなえようとします。しかし、物事は、すべて手に入ると限りません。何かを得るためには、何かを捨てなければならないこともあるのです。そんなときには、なにをとるか選択します。しかし、少子社会になり、物が豊かになった今、子どもたちは小さいうちから欲しいものは何でも与えられてきています。そして、今欲しいものを、今手に入れようとします。サラ金が多くに人に利用されているのも、その心理を利用しているのです。そんな時代は、物は豊かになったかもしれませんが、心は貧しくなっていると思います。保育料を滞納する、返済しないというのは確かに倫理の問題かもしれませんが、私は人としてのプライドがないのかと思ってしまいます。そのプライドを、最近は、「品格」とか「武士道」とも言うのかもしれません。もっと、心豊かな、成熟した暮らしをしたいものです。心を満たすものは、家でも、宝石でも、車でもなく、子どもであったり、家庭であったり、心安定した生活であることに気がついてほしい気がします。それが、倫理観を育てる気がします。
投稿者 fujimori : 23:27 | コメント (3)
2007年05月17日 [近頃思うこと]
倫理2
新聞記事の「漂流する倫理」とある「倫理」というと、まず思い出すのが、高校時代の教科の「倫理・社会」です。略して「倫社」といっていました。一時はなくなったようですが、今は、公民という教科の中のひとつです。高校の社会は大きく分けて、「地理・歴史」と「公民」に分かれます。そして公民は、「政治・経済」「倫理」「現代社会」の3科目です。学習指導要領には、「公民」の目標として、「広い視野に立って,現代の社会について主体的に考察させ,理解を深めさせるとともに,人間としての在り方生き方についての自覚を育て,民主的,平和的な国家・社会の有為な形成者として必要な公民としての資質を養う。」とあります。そして「倫理」は、「人間尊重の精神に基づいて,青年期における自己形成と人間としての在り方生き方について理解と思索を深めさせるとともに,人格の形成に努める実践的意欲を高め,生きる主体としての自己の確立を促し,良識ある公民として必要な能力と態度を育てる。」とあります。今は、未履修問題がありますが、私のころは、大学入試にその教科があろうがなかろうがすべて履修したものでした。ですから、「倫理」も学びました。しかし、申し訳ありませんが、どのような教科であったか、どんなことを習ったのか、何も印象に残っていません。ずいぶんと不真面目な学生だった気がします。今になって、もう一度学んでみたいと思う教科のひとつです。漢字の「倫」も「理」も、ともに「すじ道」を表す漢字です。そして、「倫」の字の方は特に「人の生きるべき道」を表しています。ですから「倫」と「理」で人の生きるべき道を意味しています。人がどのように生きてゆくべきか、という問いは「人生とは何か」ということになります。最近、道徳教育が話題になりますが、「倫理」や「道徳」という語は中国古典に由来する言葉です。「道徳」は、「人のふみ行なうべき正しい道。道義」という意味を持つ言葉です。
不真面目な高校生時代の私の倫理の恩師は、とても穏やかな人柄で、誰も聞いていないかのような授業でも、怒ることもせず、誠意を持って授業をしていた気がします。何年か前になくなりましたが、その穏やかな恩師が、激しい心情を秘めていたことは在学中になんとなくうわさで知りました。その恩師とは、「原爆許すまじ」の作曲をされた木下航二先生です。「ふるさとの街焼かれ 身よりの骨埋めし焼土に 今は白い花咲く ああ許すまじ原爆を 三度許すまじ原爆を われらの街に」という歌が作られたのは、1954年アメリカのビキニ環礁での水爆実験によって第五福竜丸が死の灰をかぶり、無線長が亡くなった事件をきっかけに原水禁運動が盛んになりました。この中で生まれたのが、この歌でした。東京・南部工業地帯で働いていた二人の青年労働者、浅田石二が作詞し、木下航二が作曲しました。この歌は、原水禁の集会だけではなく、「うたごえ運動」が始まった時期で、「歌声喫茶」が各地でできたこともあって、流行歌並みにヒットし、多くの人に歌われました。木下先生の作曲したものは、ほかにも「しあわせのうた」も有名です。この歌も、歌声喫茶などでよく歌われました。「しあわせは俺(おい)らの願(ねが)い 仕事はとっても苦しいが 流れる汗(あせ)に未来をこめて 明るい社会をつくること 皆(みんな)で歌おうしあわせの歌を 響(ひび)くこだまを追って行こう」木下先生は、これらの歌の作曲で倫理の授業をしていたのかもしれません。
投稿者 fujimori : 22:48 | コメント (3)
2007年05月16日 [新聞記事より]
倫理1
最近、読売新聞の連載「日本」の第3部「漂流する倫理」を読んでいると、なんだか暗い気持ちになります。連載その1では、1997年に電通総研主任研究員の山崎聖子さんが米ニューヨークで行った講演が紹介されています。テーマは、「日本は無宗教なのに、なぜ人々のモラルが高いのか」です。国民の価値観や生活様式が均質化し、持ちつ持たれつの意識が強い社会の中で、「つばを吐いても、石を投げても、最後は自分にはね返る」という自律的な観念が発達したという内容に、出席者は熱心にメモを取っていたそうです。それから10年経った今、世界の価値観調査で、「周囲と助け合うことが大切」と答えた日本人の割合は18か国中17位だったそうです。「日本人は、どうなってしまうのか」と山崎さんはため息をついたそうです。また、こんな事例も紹介されています。公共広告機構のCMの内容は「車内マナーを守ろう」「ごみのポイ捨てはやめて」「いじめをなくそう」などの訴えはあまり変わっていませんが、それを受け止める側の考え方はずいぶんと変わってきているようです。たとえば、混雑する車内で男性がハンバーガーをほおばる場面に「電車はあなたの部屋ではありません」というメッセージに対して、「忙しいから食事は電車でしかできないんだ」「駅弁も食べるなと言うのか」などの苦情が殺到したそうです。「周囲に迷惑をかけないでと言いたかっただけなのだが」と困惑しています。このような捉え方をして、このような苦情の言い方は、最近の園の保護者を見ているとわかるような気がします。ただ、これが道徳教育の問題点だというのは違う気もするのですが。また、連載その2では、次のような事例を出しています。上野公園で、ホームレスの人たちに炊き出しのご飯を配っている人に対して、つばを吐きかけ、「邪魔だ。あっちへ行け」と怒鳴る人がいるそうです。はじめのうちは、「大変ですね」と声をかけたり、千円ほどのお金を置いていった人もいたそうですが、6~7年前からほとんどいなくなり、「そいつらは死んでもいいんだ」とまで言う人がいるようです。「弱い人たちへの思いやりを日本の人はなくしてしまったのでしょうか」と嘆いています。作家のマークス寿子さんは、こんな経験を話しています。足が悪かったマークスさんに席を譲ろうと、前に座っていた男児が腰を浮かしたとたん、「お前も疲れているんだから余計なことはしなくていい」と隣に座っていた父親がぴしゃりといったそうです。「相互扶助がなければ生きていけなかった貧しい時代には、弱い立場の人を助ける利他の精神が、当然の規範として人々の心に根付いていた。急激な経済成長を遂げた後も、ある時期までは、親から子へその精神が引き継がれていた」とマークスさんは、70年代以前の日本を思い返しています。連載その3では、「他人の目」お構いなしの若者が紹介されています。日本のある私大には、ここ数年英国に留学しているホームステイ先からこんな苦情が相次いでいるそうです。「自分の好きな時間に寝起きし、食事も一人で済ませる。会話どころか、朝の挨拶さえろくにしない。一緒に暮らす私たちのことが、目に入っていないかのようです」というものです。それに対して、「滞在費用を出しているのに、なぜ相手に合わせないといけないのか」と言い放つ学生もいるそうです。神戸女学院大教授の内田さんは、70~80年代の消費礼賛の時代以降、日本人の消費主体化が進んだ結果「事故の欲求の充足を図る消費は、きわめて個人的な行為。消費主体化がきわまれば、集団の一員としての自分を意識することもなくなる」と指摘しています。
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2007年05月15日 [近頃思うこと]
香
保育室の中で、子どもにとっての癒しの空間についての考察を何回かブログで書きました。それは、日常から離れた演出が、癒しの効果があります。狭く、少人数で過ごすことができ、余り明るくなく、床がソフトな素材であり、というようなことのどれかが実現できる空間であれば、子どもにとって癒されることになります。もうひとつは、ほっとする環境も効果があります。ほっとするために演出としては、光の演出、音の演出、触覚の演出、そして、においの演出があります。最近、どのデパートの売り場にも「アロマセラピー」のための植物から抽出した油成分(エッセンシャルオイル)を販売しているコーナーがあります。このエッセンシャルオイルを温めて香りをたたせ、その香気を吸入することで、癒しの効果だけでなく、さまざまな医療効果を得ることが注目されています。その中で、最近私が興味を持っているものに、「お香」があります。「香道」とは、文字どおり香りを楽しむことを基本とした芸道で、茶道や華道と同じく、動作の中に精神的な落ち着きを求める日本古来の芸道です。その歴史は茶道や華道と同じく室町時代にまで遡りますが、香木を焚いて香を楽しむことは、聖徳太子の飛鳥時代からといわれています。これもまた、GWに訪れた飛鳥地方に関係があったのです。そのころは、宗教的な側面も大きかったでしょうが、何より「良い香りを楽しむ」ということは、人間の癒し効果や快楽を満足させるものであったでしょう。世界中を見ても「香り」を芸術の域にまで持って行き、精神性を追求する芸道は他に例を見ないものです。私が今楽しんでいるのは「香道」といわれるような作法に法ったものではなく、単純ににおいを楽しむといった程度です。最初は、最近多い線香型とか、コーン型、渦巻き型の香を使っていたのですが、「臭いを嗅ぐ」ことから「香りを聞く」ことをしてみたいと思ったのです。まず、気に入った香炉探しからはじめました。もちろん高価なものではなく、自分らしい香炉を見つけたのが、陶器市の前日の有田でした。「竜」を描いた有田焼の香炉です。そこに灰を敷き詰め、熾した炭団を入れ、半分くらい起きたところでその上にうすく灰かぶせ、その上に数ミリ角に薄く切った香木を熱し、香りを発散させるのです。本来は、炭の上に銀葉という雲母の板をのせ、熱の強さによって、銀葉を灰の上で押すことで、銀葉と炭団の位置を調節することで伝わる熱を調節し、香りの発散の度合いを決めるのです。あまりに熱が伝わりすぎて香木の樹脂等から煙が出てしまうと、香りを聞くことの妨げになり、好ましくありません。昨日の「適正」がここにも必要になります。しかし、弱すぎず強すぎずに銀葉を調節することは難しく、経験が必要となります。香木には沈香(伽羅)を主に使っていますが、これは高いものはかなりの値段がするようですね。今のところは、そんなに難しく考えないで、ちょっと香りを楽しみ、日常を離れた集中と静寂の世界に遊ぶことを目的としています。香木の香気は、精神的な落ち着きや病気の予防のような漢方薬的な効用もあります。昔の人たちはこうした香の効用を「香の十徳」と称しました。「鬼神を感挌し、身心を清浄にし、よく汚わい(汚れ、毒気)を除き、よく睡眠を覚まし、静中友となり(独居の友となり)、塵裏間(忙中の閑)を愉み、多くして厭はず、寡くして足れりとなす、久しく蔵して朽ちず、常に用いて障りなし。」つまり精神的に落ち着き、円満な人格を形成するのに役立つというのです。
投稿者 fujimori : 23:53 | コメント (2)
2007年05月14日 [近頃思うこと]
適正
一昨年、園を新設するに当たって、入札の難しさを感じました。当然工事会社は入札ですが、よく、自治体では設計事務所も入札するようにという指導があることがあります。入札は、価格的に安いところを選ぶために競争させることです。しかし、設計はまず、建物をどのようなコンセプトで設計するのか、デザインはどのようなものにするのか等は設計士の個人的感覚の問題です。いわば、一種の芸術でもあるので、価格では評価できません。決まった設計図をどのくらいの費用で書くことができるかを競うことはできるのですが、費用を安くするためにただの真四角で、中には何もおかない設計をして、一番安いからとそれに決めることはできないのです。そこで、当然自分と同じ考え方を持った設計士とか、価格競争ではなく、コンぺティションとかいわれるような競争とか、プロポーザルといって提案してもらうことをするとかして、違う形で選ぶ方法がいいのでしょう。そして、設計が決まれば、その設計どおりの建物をいくらの費用で建築することができるかを競争させるのが入札です。私の園の入札をしてもらうに当たって、本来一般入札が好ましいのでしょうが、単純に安いところに決めるとなると考えてしまいます。それは、当然安いに越したことはないのですが、あまりに安いと本当かなあと疑ってしまいます。たとえば、構造疑惑ではありませんが、安くするために目に見えないところで手抜きをするとか、何本か鉄筋を抜くとかされてもわかりません。また、実績のない業者も支援したいとは思うのですが、たとえば、コンクリートをきちんと打てないとか、溶接がきちんとできないとかあってもわかりません。ですから、どうしても事前に入札希望業者に、実績とか、会社の規模などを提出してもらって、その中で検討し、入札業者を決める指名入札になってしまうのです。かつて、港区の保育園建設のプロポーザル選定委員長をやったことがあるのですが、この時にも実績評価について考えてしまいました。実績があるというと、どうしても大企業が有利になってしまい、たとえば新人の若い設計士の発掘をすることはできなくなるのです。価格にしても、今はただ安いのを選ぶのではなく、正当な価格をこちらで試算をし、その価格に一番近い業者を選ぶやり方が多くなっています。
このやり方は、子どもが小さかったころによく家族で参加していた「ウォークラリー」のルールに似ています。このゲームは、各グループが事前に渡されるコース図に従って進み、途中で与えられる課題を解決しながら設定された一定の時間で歩き、目的地を目指すものです。勝敗はタイム得点と課題得点の合計で決まりますが、設定時間より早く着きすぎても減点となるので急いで進む必要はありません。設定時間は、歩く速さをもとに課題解決の時間を加味して事前に設定されています。このため、オリエンテーリングのタイムレースと違ってただ速ければいいのではなく、どのくらいの時間に設定されているかも考えながら歩くのです。また、途中に「C.P.」(Check Point の略記)があり、そこにある課題は、その場所へ行くまで判らないよう設定され、自然、文化財などを対象とした題材にすることが多く、簡単なゲームを行うといった課題もあります。また、周囲の様子を観察する場所の観察ゾーンがあり、そこでの課題は、後のチェックポイントやゴール後に与えられます。自然や文化を観察しながら歩くためには、適正な時間があるのです。
投稿者 fujimori : 22:03 | コメント (4)
2007年05月13日 [近頃思うこと]
談合
昨年暮れから、日本道路公団が発注した橋梁工事をめぐる官製談合事件がいろいろと波及し、問題になっています。しかし、この談合はなかなか難しい問題をはらんでおり、なかなかよい知恵が浮かびません。このような何度も繰り返される問題から、ゼネンコンが新しい、本来あるべき方法を見出していけるのでしょうか。私の園の新設の時には、10社による指名入札でしたが、いろいろと考えてしまいました。「談合」というのは、もともと「話し合い」の意味の言葉ですが、問題になるのは、「競争入札をする前に、入札をする業者などが事前に話し合い、落札者と落札価格を決めてしまうこと」を意味する場合です。これによって、本来競争原理で落札者を決め、より効率的な支出をするための入札制度の意味がなくなってしまうことが、大きな問題なのです。そして、今回問題になっている「官製談合」とは、この「話し合い」に、お金を出す側の官庁側の人間が参加することをいいます。官庁と業者がいっしょになって落札者と落札価格を事前に決めてしまい、入札の意味がなくなってしまうのです。一般的に、官庁がある程度以上の金額を支出するときには、3つの方法で発注先を決めることになっています。「一般競争入札」とは、「誰でも入札に参加でき、原則的に一番安い価格を入札した人を落札者として、調達先とする。」「指名競争入札」とは、「基本的には一般競争入札と同じ制度だが、官庁側が入札できる業者をあらかじめ指定して、その業者の中で一般入札と同様なやり方をする。」「随意契約」とは、「入札しないで調達先を決める。」です。補助金に関係するようなときには、基本的には、透明性をはかるため、随意契約は例外的なときだけ行い、競争入札を行うことになっています。しかし、実際は、日本の官庁は地方自治体を含め、指名競争入札が多いのが現状です。だれでもが入札できる一般競争入札が少ないのです。そうなると、どうしても指名業者が固定されてしまうことになるので、その業者は、競争をさけるため一種の同盟を作り、全業者が順々に受注できるよう談合をしてしまうことが多くなってしまうのです。しかも、官製談合では、官庁と業者の癒着が起きやすくなってしまうのです。そして、今回の事件のように、癒着のケースとして、特に中央官庁でよく起きたものが「天下り」を見返りにするような癒着のあり方です。業者が天下り先になることを約束することで、官僚がその業者に有利になるようはたらきかけるというものです。こんなことが多く起きることもあって、従来から刑法などに「談合罪」というものはありましたが、一連の官製談合事件を受け、昨年暮れに官製談合防止法が改正され、より重罰が課せられることとなりました。しかし、罰するだけではなく、本当によいものをつくる為に、正当な価格で受注できるよい方法を考えていくことが必要でしょうが、難しいですね。談合の「談」は、「かたらい」と読みます。ですから、談を使った言葉には、とてもいい言葉が多い気がします。「談笑」「談話」「相談」なにか暖かい響きがあるのですが、「談合」はどうして変わってしまったのでしょうね。GWに訪れた桜井の「談山(たんざん)神社」という名前は、中大兄皇子と中臣鎌足が蹴鞠会で知り合い、日本の将来について語りあったといわれる談い(かたらい)山がすぐ後ろにあることから名づけられたといわれています。
その頂上には大化の改新の談合の碑が立っています。
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2007年05月12日 [近頃思うこと]
サンダル
面白いポスターを見つけました。以前のブログの「立てばシャクヤク、座ればボタン、歩く姿はユリの花」のパロディーです。

そこに書いてある文は、「立てばシャクヤク、座ればボタン、歩く姿で水の泡」というものです。電車などに乗っていると、そういうことがよくあります。歩く姿を見て、がっかりすることがあります。私は、ちょっと古いのかもしれませんが、高いヒールのミュールを履いて、カチャカチャ歩いている姿を見ると、今にも脱げそうでハラハラします。本当は、このミュールという履物は、オードリー・ヘップバーンが「ローマの休日」という映画の中で着用していたヒールの高いサンダルのことで、「ヘップサンダル」と呼ばれる履物です。しかし、何で私がこのミュールに抵抗あるかというと、サンダルというものは、フォーマルな場では着用しないもので、遊びや日常生活の中で履かれるというイメージがあるからでしょう。また、電車でよく見かける女子高校生が靴のかかとを踏みつけて、ペタペタ歩いている姿とダブって見えるからかもしれません。急ぐときとか、激しく動くときは、かかとをくるんである履物のほうがいいと思うのですが。ただ、そうでないときや、デスクワーク専従者は、革靴で足が蒸れるのを嫌ってサンダル履きで仕事をすることが多いようです。あるショッピング誌に「靴とサンダル両方に兼用できる靴」というものが掲載されていました。普通の靴ですが、かかとを折り曲げて、それを踏んでサンダルとしても着用できるというものです。そういえば、「ミュール」というおしゃれな言い方と「サンダル」という言い方でずいぶんイメージが違います。ギリシア人(ミュール)が、古代オリエント文明のころに履いていたので、ミュールと呼ぶのですかね。西欧語におけるサンダルの語源は、中世後期に遡り、ギリシア語の "sandalion" から、ラテン語を経て、英語・ドイツ語・フランス語などへ入ったと考えられています。もともと「サンダル (sandal)」とは、足全体を包まず、紐やバンドなどで足に止める履物の総称です。古くからある履物の種類で、様々な材質・形式のものがあります。そういえば、映画の「ベンハー」では、登場人物がサンダルを履いていましたね。チャールトン・ヘストン演じる主役の人物が履いていたそのサンダルは、足の甲を留める幅の広いベルトに鼻緒が連結されているものでした。ですから、日本では、このようなサンダルを「ベンハーサンダル」といって売っているようです。しかし、日本でなんといってもよく使われているサンダルは、「ゴムサンダル(フィッティングサンダル)」というもので、ホームセンターなどで安価で販売されている、一体成型のゴム製サンダルです。園などでもよくトイレで用いられることが多いことから「便所サンダル」などと呼ばれています。それから、「ビーチサンダル」といわれているもので、「ゴム草履」です。そういえば、日本の草履や下駄もかかとを包まないので、サンダルの一種かもしれません。しかし、それらはサンダルとはいわずに、いわゆる「突っ掛け」と呼ばれる木製の板にゴムやビニールの帯がついていて、これを足の甲に引っ掛けて履くもののことをいいます。これは、多分下駄からの変形でしょうが、日本では屋内では靴を履く習慣が無く、土間に一時的に降りる際や、近所に出かける際に簡易履物として利用されていました。そういえば、園を始めたころのトイレや、旅館などのトイレにはこのサンダルが置かれていましたが、いつの間にか見られなくなっていますね。
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2007年05月11日 [近頃思うこと]
イヤホン
最近、よく講演で携帯電話の話をします。それは、あっという間に携帯電話の機能が多くなり、便利になったからです。地方の講演先まで、携帯電話一つでいけるからです。今、都内では、JRでも、私鉄、地下鉄も、バスも携帯電話で乗れます。売店でも、自動販売機でも携帯電話で買うことができます。飛行機に乗るときにも、ANAでもJALでも携帯電話でチェックインができ、搭乗するときもチケットを使わずに乗ることができます。新幹線に乗るときも、事前まで変更可能な切符の予約が携帯電話でできます。また、漢字がわからなければ調べることもできますし、英和も、和英の辞書機能もあります。モバイルの言葉の辞書も着いています。ディスプレイにも時計が着いていますし、電卓にもなります。また、退屈すればラジオを聴くこともできますし、ダウンロードしてあるCDや、好きな曲を聴くこともできます。また、カメラで写真を撮ることもできますし、メールの送受信だけでなく、パソコンへのメールも転送すれば送受信ができます。ここ数年でこんなに機能が増えたので、これからどうなっていくのでしょうか。もしかしたら、英語でしゃべっている言葉を日本語に訳したものを聞くことができるようになるかもしれません。そんなことで、機会ができるようになることに今力を注いでも、将来意味がなくなる可能性があるので、今のうちに人間しかできないことに力を入れたほうがいいのではないかと言うことを講演で話をするのです。それは、もともと携帯電話は通話することから始まったように「音」に関する使い道を便利にしてくれる道具があります。ITジャーナリストでパソコンや携帯電話など、幅広いデジタル製品の試用レポートや解説記事を執筆している法林岳之さんが、こんな提案をしています。「ケータイは通話をするとき、端末を顔の近くに持っていき、利用します。受話口(スピーカー部)からは相手の声が聞こえ、送話口(マイク部)からはこちらの声が相手に伝わるというしくみですが、通話中は端末を手に持たなければならないため、そのままでは片手がふさがってしまいます。手短な連絡であれば、それほど気になりませんが、ちょっと長く話してしまうと、端末を持つ手が疲れてきたり、耳元がにわかに暖かくなってきてしまうことがあります。こうしたときに便利なのが「イヤホンマイク」です。イヤホンマイクはその名の通り、イヤホンとマイク機能がひとつにまとまったもので、端末のイヤホンマイク端子に接続し、イヤホン部を耳元に装着して、利用します。マイクはイヤホン部から伸びたアームやケーブルの途中に内蔵されています。2004年11月に道路交通法が改正され、運転中の携帯電話利用の取り締まりが強化されたことで、イヤホンマイクの利用者が増えたという話を覚えている人も多いでしょう。しかし、イヤホンマイクは自動車の運転中にだけ役立つわけではありません。普段の携帯電話利用にもなかなか便利なアイテムなのです。イヤホンマイクを使うことにより、通話中の相手の声はハッキリと聞こえますし、端末をポケットに入れたり、机などに置いたりすれば、両手を空けることもできます。欧米ではイヤホンマイクを耳に付け、ケータイをポケットに入れ、道を歩きながら、独り言のように通話する人を見かけます。さすがに、日本ではまだこのスタイルはちょっと受け入れにくいでしょうが、それでも少し長い時間、通話をしたり、周囲が騒がしい場所で通話をするときは、イヤホンマイクを利用した方がより快適に通話ができるはずです。」ずいぶんと便利になったものですし、電話は受話器を顔の近くに持っていって話すものという概念をも変わりつつあります。
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2007年05月10日 [旅先にて]
石造物
私にとって歴史の中でもっともミステリアスなものは「邪馬台国」です。そして、つぎに興味をそそるものが奈良における奇妙な石造物です。このGWに妻と二人で行った飛鳥訪問の目的のひとつに、この石造物めぐりがありました。のどかな景観が広がる飛鳥は、飛鳥川沿いにレンゲ畑のピンクに染まっていました。このあたりは、600年少し前に推古天皇が即位して以来、さまざまな政権争いが起き、激動の舞台となった地です。今は、そんな気配も残っていず、一面に広がる田園風景ですが、そこに点在する石造物は、想像力を掻き立てます。まず、橿原神宮前駅から、直接バスで、目的地へ直行しました。教科書で見てから、その圧倒的なボリューム感に感動し、一度見たいと思いつつ、なぜかその機会がなかったのが、今回長年の思いが実現しました。近づくにつれて徐々にその姿を現してきました。
巨石を積み上げたその姿は、「石舞台古墳」です。蘇我馬子の墓というのが定説になっています。最大級の石は77tもの重さがあると言われ、それらの巨石で囲まれた玄室は、長さ7.5m、幅3.4m、高さ7.7mもあります。今は、小高い丘の上に石が積み上げられたという様相ですが、実は、一辺50mの方墳で、その石の上部の封土が失われて石室が露出したものです。ブログで書いた「土舞台」のように舞台と着いているのは、狐が女に化けてこの上で舞を見せたからとか、旅芸人が芸を見せたという説があります。
そこから駅に向かって歩き始めました。歩いていく横を、レンタサイクルに乗った家族が通過していきます。自転車を借りるか迷ったのですが、結局歩くことにしました。まず訪れたのが、「酒船石」です。
これも、以前から一度見たいと思っていたものです。これは、教科書ではなく、新聞に連載された松本清張「火の路」がテレビドラマ化されたものを見て、興味を持ったのです。この小説は、古代史上最大の謎のひとつである飛鳥の石造物の解明に挑んでいます。数ある石造物は、女帝、斉明天皇の治世に突然現れ、そして消えていったことまでは大方判明していますが、毎年のように考古学的な大発見のある飛鳥でも、石造物の性格はいまだに結論を見ていません。清張氏の分身たる、主人公の大学助手の女性は、ペルシャのゾロアスター教(拝火教)のニオイを感じ取り、海を越えてイランにまで飛びますが、結局、明確にゾロアスター教へつながる証拠は見つかりませんが、飛鳥とペルシャを結びつけた国際的な大局観は大きなスケールを感じます。酒船石の発見からの30年の間に、丘陵の中腹から石垣が見つかり、ふもとには7年前の発掘で亀形石造物と小判形石造物亀の形をした石造物が出土しましたが、その新発見によってかえって謎は深まるばかりです。
酒造りに使われたとか、祭祀施設であるとか、庭園の流水設備などの諸説があります。そこから20分くらい歩くと「二面石」があります。それは、聖徳太子生誕の地「橘寺」の太子堂横にあり、左右に顔が刻まれていて、善悪の二つの顔を表していると言われます。その他境内には日月星の光を放った「三光石」も在ります。
この寺を出て少し行くと「亀石」と言う亀が笑っているように見える巨石があります。この石は今は南西を向いていますが、西を向くと奈良盆地は大洪水に見舞われるという伝説があります。そのほかにも平べったい形の「鬼の俎(まないた)」とか、真ん中が空洞になった「鬼の雪隠」があるのですが、わたしたちは、今日修復のために移動された「高松塚古墳」に急いだのでした。本物は密閉されているのですが、その鉄の壁の向こうにあると思うだけでワクワクしました。
投稿者 fujimori : 22:49 | コメント (2)
2007年05月09日 [旅先にて]
豊聡耳
最近の小学生の傾向を、ベテランの1年生の担任に聞いたことがあります。お帰りの会のときに、「明日の持ち物は何々です。」といった後、さよならをすると、昔の子どもたちは急いでわれ先にと教室から飛び出していった。ところが最近、何人かの子どもたちは急いで教卓のところに走りよってきて、「ねえ、ねえ先生、明日何を持って来るの?」と聞くといいます。どうもみんなに言ってもダメなようで、自分だけに言って欲しがるそうです。少子社会では、家庭で親はわが子一人を相手にいつも指示しているからのようです。同じように子どもが話すときも、それぞれ一人ひとりが教師と話したがります。人と話をしていても、「聞いて!聞いて!」とせがみます。これでは、いくつ耳があっても足りません。教師は、「豊聡耳」を持っていないといけないのかもしれません。この耳は、こんな耳です。厩戸皇子がある時、人々の請願を聞く機会がありました。我先にと口を開いた請願者の数は10人にも上りましたが、皇子は全ての人が発した言葉を漏らさず理解し、的確な答えを返したと言います。この皇子の聡明さを讃えて、これ以降、皇子は豊聡耳(とよとみみ)とも呼ばれるようになりました。一度に何人もの人から発せられた言葉を理解するようなゲームがあったり、何人も同時に発せられた言葉を理解しようとすると脳のトレーニングになると言われていますが、この豊聡耳はそうではなく、10人が太子に順番に相談し、10人全ての話を聞いた後それぞれに的確な助言を残した、つまり記憶力が優れていた、という説が有力なようです。厩戸皇子とは、もちろん「聖徳太子」のことです。
桜井 平等寺 聖徳太子立像
「聖徳太子」は太子の死後に贈られた諡号で,生前は廐戸皇子あるいは上宮太子とよばれていました。この聖徳太子にまつわる伝説はさまざまあります。特に出生の伝説は、宗教的な意図も加わって興味深いものが多いですね。厩戸皇子という名前にしても「厩の前で生まれた」という説もありますし、「母の間人皇女は救世観音が胎内に入り、皇子を身籠もった」などは、どこかで聞いたような話ですね。「記紀編纂当時既に中国に伝来していた景教(キリスト教のネストリウス派)の福音書の内容などが日本に伝わり、その中からイエス・キリスト誕生の逸話が貴種出生譚として聖徳太子伝説に借用された」との可能性を唱える研究者もいるくらいです。もっと空想をたくましくして言われているのは、古代イスラエル民族と直接に関連するという日ユ同祖論を唱える極端な仮説も存在しています。しかし一般的には、当時の国際色豊かな中国の思想・文化が流入した影響と見なす説が主流です。ちなみに出生の西暦574年の干支は甲午(きのえうま)でいわゆる午年であるし、また古代中国にも観音や神仙により受胎するというモチーフが成立し得たと考えられています(イエスよりさらに昔の釈迦出生の際の逸話にも似ています)。太子生誕の地であるとされる橘寺に行ってみました。
生まれたときに、片手に小豆ほどの仏舎利(ブッタの遺骨)が握られていたとか、2歳のときに東に向かって「南無仏」と唱えた(興福寺のその2歳児のころの立像があります)と言うのも、なんだかどこかで聞いたような逸話ですね。聖徳太子は実は実在しなかったと言うような極端な説まであります。これらの逸話が生まれたのには、それだけ聖徳太子の影響力が大きかったからでしょう。飛鳥を歩いていると、歴史とは、覚えるものではなく、ミステリアスなドキドキするものだということを再認識します。
投稿者 fujimori : 23:54 | コメント (3)
2007年05月08日 [近頃思うこと]
絵巻
昨日のブログではありませんが、絵巻に見る歴史も興味深いものがあります。それは決して事実だからというわけではなく、絵巻には劇画のようなダイナミックな面白さがあるからです。新幹線の車内誌「ひととき」に、美術史家の塩川京子氏が書いた「絵巻の中の主婦像」は、とても興味深いものがたくさんありました。特に、取り上げられていた絵巻のひとつの「伴大納言絵巻」(平安時代の応天門の炎上をめぐる三巻の絵巻)は、今の子育てに共通するものが、絵によってより誇張され描かれていたので、思わず噴出してしまいそうでした。皆さんにも、その絵を見せたいくらいです。最初は、好奇心いっぱいの女性の絵です。その絵の説明書きにはこう書いてあります。「赤子に乳を含ませて会話に参加しているのは嫁であろうか。彼女は目下子育ての真っ最中。でも好奇心には勝てないと見えて、食事中の子どもをほっといて表に出てきたところか。背後で子どもが食器を手に母親に訴えているのも聞こえていない。だが、彼女の耳はともかく目はわが子に注がれている。赤子が笑みを浮かべて母を見上げているのにもほほえましい。日ごろ見かけぬ人に対する野次馬根性の旺盛さは今も変わらない。」なんと、今の女性そのものの気がしますね。
それ以上に興味深いものの絵が、子ども同士のけんかに親が出て行き、わが子をかばい、わが子を殴ったよその子に対して「蹴り」を入れている父親の絵です。体でわが子を抱き寄せ、怖い顔でよその子をにらみつけ、足をまっすぐに長く伸ばしてその子を蹴飛ばして大怪我をさせている絵は、どんな格闘家よりも凄まじいものがあります。「何も、そんな子どものけんかに大人がムキにならなくても」と思ってしまいます。しかし、この事件が恐ろしい結末を迎えるのです。それが、有名な「応天門の変」です。応天門が放火され、あっというまに、応天門は炎上してしまいました。大納言伴善男は左大臣源信の犯行であると告発しましたが、太政大臣藤原良房の進言でよく調べることにしました。すると、源信の疑いは決定的ともいえませんでしたので源信は許されましたが、「朝廷に仕えていると、とかく無実の罪に遭うことになるものだ」と言って、隠居してしまいました。しばらくして、事件の真相が発覚しました。伴大納言の家の出納を司る役人の幼い子供と、舎人の幼い子供が、喧嘩をした時に、親どうしも言い争いになり、隣近所の人々が周囲に群がってきました。そのとき出納係のあまりの暴言に対して、舎人は黙っていたことを口にしました。「お前の主人大納言を偉い人だとでも思っているのか。お前の主人は、私が口を閉じているおかげで無事でいられるのだ。私が喋れば、お前の主人はただではすまないのだぞ。」この舎人の発した言葉は世間に広まり、天皇の耳にまで達しました。舎人は呼び出され、厳しく糾問されたので、自分の見たことを語りました。それによると、伴大納言が放火したのを目撃したというのです。伴大納言は、応天門の放火を左大臣源信の仕業にして失脚させ、その後釜として自分が左大臣になろうと計ったのでした。伴大納言は、伊豆の国へ流罪となり、その子息たちも諸国へ配流されました。このように応天門の変は、讒言によって人を陥れようとした事件だと語り継がれています。ただし、蔵幕は別にいたのではないかとも言われています。それにしても、子どものけんかに親が出てきて、そのときの売り言葉に買い言葉が歴史を変えてしまうとは面白いですね。
投稿者 fujimori : 19:19 | コメント (2)
2007年05月07日 [旅先にて]
はじめて物語2
歴史は真実とはだいぶ異なります。「誰が見たのか?」ではありませんが、誰も見たことがないものを、残っている資料や遺跡から推測するしかないのです。ですから、考古学はよく天文学に似ていると言われることがあります。それは、どちらも「ロマン」だからです。ですから、ただ年号だけを覚えることは余り意味がないのです。その歴史の中で、原始時代は、さまざま遺跡から推測しますが、古代時代と呼ばれる時代は、主に日本書記や古事記から推測します。その後の時代も、残されているさまざまな書物や絵巻から知ることができます。しかし、これらは、多分に伝説的なこと、信仰的な要素が含まれるので、見方が偏りますし、ある意図を強く持ったものが多いので真実から遠ざかることがあります。しかし、逆に、その説話や言い伝えを知ることによって、その時代が伝えたかったこと、人間の心理に近づいた事柄などを知ることができます。このGWの間に訪れた飛鳥地方は、そういう意味で、とても面白く見学できました。昨日のブログで書きましたが、日本に初めて仏教が伝来したのは、奈良県桜井市であることを知ったのですが、この桜井市には、ほかにも「日本に初めて」の足跡が数多く残されています。JR・近鉄桜井駅から南へ、約700~800mほどにある桜井小学校の西側にある小高い丘は「土舞台」と呼ばれています。
そこが、日本最初の国立劇場があった場所として、日本芸能発祥の地になっています。「土舞台」については「日本書紀」に書かれています。当時、推古天皇のもとで摂政として政治の中枢にいた聖徳太子に、百済人味摩之が我が国に帰化して、「呉に学びて、伎楽の舞を得ました」と申し上げました。聖徳太子は、仏教の厚い信奉者としても有名ですが、彼はその仏教を国内に広めるためには音楽が必要であると考えます。そこで太子はこの伎楽を仏寺の祭楽にしようと考え、ここ大和の桜井というところで、少年たちにこの音楽を習わせました。この少年たちは、日本で初めて音楽を職業とした人たちだと言われています。
聖徳太子の奨励などによって伎楽は寺院楽としてその地位を高めていきます。伎楽の教習者には課税免除の措置がとられるなど、官の保護もありました。『延喜式』によると法隆寺をはじめ、大安寺、東大寺、西大寺などに伎楽を上演する一団がおかれていたようです。伎楽とはインド、チベットの仮面劇のことで、面をつけた踊りとともに野外で演じられる舞踊の音楽のことです。伎楽は、呉楽(クレノウタマイ)とも呼ばれ、西域をへて中国に伝わり、「散楽」と言われました。それまで日本には「神楽」がありましたがこの時以来、宮廷に伎楽が加わって日本の芸能はバラエティ豊かなものになりました。主に仏教行事に演じられましたが、外国の使節におもてなしをするときにも演じられていました。伎楽で使われた面や衣装などは今でも正倉院に保存されています。その後、衰えながらも江戸時代までは残っていたようです。呉に学んで伎楽を舞ったということで「呉楽」と言われてきましたが、これが「娯楽」の語源です。これを舞うこと、見ることが、当時の「楽しみ」だったのでしょう。聖徳太子が住んでいた上之宮から「土舞台」へ、伎楽の伝習を見るために通った石橋をうたった旋頭歌が『万葉集』に出ています。「はしだての椋橋川の石の橋はも栄えたる君が渡しし石の橋はも」聖徳太子は、免税措置までして、少年たちに習わせ、心配で見に行っていたというのは、ずいぶんと力の入れようが強いことがわかります。
投稿者 fujimori : 23:57 | コメント (3)
2007年05月06日 [旅先にて]
はじめて物語1
よく私が講演に使う「ネタ」ですが、「鎌倉幕府が成立したのは、何年ですか?」という問いに対して、年配者はほとんど即座にこう答えます。「“いい国つくろう鎌倉幕府”ということで、1192年です。」このように年号を、ひとつの文章に読み込んで覚えたものです。それらのいくつかは今でも覚えていますが、その中に、「ほっとけ、ほっとけ ごみやさん」ということで、仏教伝来が、538年であるというのがあります。しかし、この覚え方の怖いのは、年号は覚えていますが、それは誰がどうした時かとかいうような肝心なことは覚えていません。まあ、仏教伝来はどうやって行われたかということも、知らなくてもどうということもありませんが。ただ、いろいろなところに旅をして、それを知ったとき、教科書で覚えたのとは違って、昔をしのび、考え深いものがあります。今年のGWには、そんな地を訪ねてみました。中学校の教科書で習った「仏教伝来」の地に実際に立ってみると、感動を覚えます。奈良県桜井市金屋の河川敷を少し歩いてみました。このあたりは、昔、大陸からの船が大阪(難波津)から大和川をさかのぼって到着する船着場があった場所で、諸国や外国から多くの遣いや物資が上陸したと伝えられています。欽明天皇の時代に、百済からの使節も川をさかのぼり、この地に上陸し、仏教を伝えたと言われています。現在、その場所には金屋河川敷公園が整備され、「佛教伝来之地」の碑が建てられています。
それまで日本人は八万神を信仰していました。しかし、仏教の教えが、百済の聖明王の使いで訪れた使者が欽明天皇に金銅の釈迦如来像や経典,仏具などを献上したときに一緒に伝えられました。外国から来た神として、その信仰はまず貴族など上流階級の人々の間に広まっていきました。『日本書紀』によると、欽明天皇は、「いままでにこのような教えは聞いたことがない。」と喜んで大臣たちに仏教を受け入れるかどうかを尋ねました。このとき大臣のひとりの蘇我稲目は「大陸の優れた文化であり,西方の国々が礼拝している仏教を受け入れるべきである。」と答えたといいます。それに対して、物部尾輿、中臣鎌子は、「外国の神を受け入れれば,日本古来の「神(国つ神)」が怒る。」と仏教に反対し,徹底的に排除するべきと主張しました。そこで天皇は、仏像を蘇我稲目に授けて、ためしに礼拝することを許しましたが、仏教をめぐって蘇我氏と物部氏は対立することになります。この争いが、当時の政界を二分する主導権争いは、587年に蘇我馬子らによって物部守屋が殺され、物部氏が滅ぼされて決着がつきます。権力闘争に勝利した蘇我馬子や聖徳太子は,「仏法興隆」をめざし,その後本格的な寺院建設を行っていきます。今回訪れてみた法興寺は我が国最初の本格的な伽藍配置の寺院として蘇我氏によって建立されました。法興寺の「興」は法をおこすの意味をもち、現在は飛鳥寺として明日香村にあります。
飛鳥寺は日本で最初の瓦葺き寺院でもありました。掘っ立て柱の板葺き建物しか見ていない人々にとっては外国の文化を直接感じるものであったようです。瓦の使用の他にも寺院建築には多くの渡来人の技術が使われています。掘っ立て柱式の建築から石の上に柱を立てる礎石を用いた技法もその一つで,それまでの建築方法が一変しました。
中学生のころに行った京都・奈良は、そのころ特に興味も何もなかったのですが、しかし、一度は行ったことがあるという経験は、意外と後々よみがえり、深く見ることができるようになるのかもしれません。
投稿者 fujimori : 22:19 | コメント (4)
2007年05月05日 [旅先にて]
葉の効用
今日は、「こどもの日」です。先日、園で「子どもの日祭り」を行ったとき、なぜ柏餅を食べるようになったかという紙芝居を子どもたちに見せていました。その話が本当かどうかわかりませんが、内容は、3人きょうだいの末の子が、病気になったのを助けようと兄と姉が山に行って、動物が病のときに用いるといわれているふしぎな植物を探しに出かけます。そして、山で柏の葉を見つけ家に持って帰りますが、人間には硬くて食べられそうもないので、母親は餡を入れた餅を作り、それを柏の葉に包んで食べさせたところ、弟の病気が治ったというものです。この話は、どうもほかでは聞いたことがありませんので、この出展はどうでしょうか。では、どうしてこどもの日に食べるようになったかというと、柏の葉は、新芽が出ないと古い葉が落ちないという特徴があるので、これを「子どもが産まれるまで親は死なない」=「家系が途絶えない」という縁起に結びつけ、「柏の葉」=「子孫繁栄」との意味からのようです。ただ、柏餅の「餡」にはポリフェノールがいっぱいで、葉っぱは 抗菌作用があります。
それから、柏餅を食べるときに、とてもよいにおいがします。緑にあふれた森林に入って行くと爽やかな空気が広がり、かすかな香りがします。この香りの正体は、フイトンチッドです。これは主に樹木が作り出して発散する揮発性物質で、主な成分はテルペン類です。このテルペン類を人間が浴びることを森林浴と言います。「病を得たら森へ行け」と言う言葉があるように、フィトンチッドは、人体に対しては有益で私たちの生活に「生活の知恵」として広く有用されています。柏餅や柿の葉寿司はフィトンチッドの抗菌作用や防腐効果を利用したものです。また、同様に、五月の節句の菖蒲湯はフィトンチッドの疲労回復と精神を安らかにする効果を生かしたものです。ということで、今日は、柏餅と、柿の葉寿司を食べました。
もうひとつ、今日食べたものがあります。同じように殺菌作用があるものの「笹の葉」で包んだ寿司も食べました。柿の葉寿司は、江戸時代中頃には奈良吉野地方の各家庭の夏祭りのご馳走として作られていたようです。柿の葉は、身の回りに多くあり、香りに癖もなく、丁度包み込み易い大きさ、強さということで使われたそうですが、現代の化学分析では、柿の葉にはタンニンという高血圧を抑える成分が含まれていること、それが食品の保存に有効であること、ビタミン類が豊富に含まれていること等が認められています。笹の葉で包んだ食べ物といえば、新潟名物「笹団子」を思い出しますが、これは柏の葉の変わりに同じ効用のある笹の葉を使ったものといえます。戦国の昔、越後の上杉謙信公が出陣の折、携行保存食として作られたものが、今に伝えられているといわれています。しかし、今日いただいた笹の葉を利用した食べ物は、明日香名物?の「天笹寿司」です。
これは、あまごの甘露煮風のものを上に乗せた押し寿司で、柿の葉寿司のようにひとつずつ笹の葉で包んだものです。笹団子ほど笹の香りはしませんでしたが、笹の葉の殺菌作用を利用しての保存にはいいのでしょうね。これらのように、植物の葉を容器代わり、包装紙代わりにしたものはほかにもたくさんあります。それは、まさに体によいだけではなく、環境にやさしいでしょう。昨日のブログではありませんが、もっと昔からの知恵から学ぶべきことも多い気がします。
投稿者 fujimori : 22:31 | コメント (3)
2007年05月04日 [旅先にて]
座れば牡丹
『立てば芍薬、座れば牡丹、歩く姿は百合の花』、この言葉はよく耳にしますが、その牡丹の花が、今盛りを迎えています。盛りを少し過ぎた感がありましたが、今日、「長谷寺」の「ぼたんまつり」に行ってきました。期間が4月21日から5月13日ということですので、やはり時期的には少し遅いような気がしましたが、大輪の華やかさの魅力を、まだ放っていました。
牡丹の花言葉は「気品・風格・恥じらい」です。あの大柄な花から「気品・風格」というイメージは沸くのですが、「恥じらい」は、余り感じない気がします。「立てば芍薬、座れば牡丹」と昔から美人の慣用句として用いられてきた「芍薬」は、真っ直ぐに立ち上がった茎に咲く花が、美人の立ち姿に似ているためです。「歩く姿は百合の花」とは、たぶん、そよ風に揺れる百合の花が歩く美人にたとえられたのでしょう。
それに対して、「牡丹」は、葉の上にぽってりと座っているように咲くためです。その堂々とした美しさから「風格」という花言葉があるのでしょう。
この牡丹と芍薬と百合は、どれも、もともとは薬草として珍重されてきました。いずれも婦人病のくすりでした。シャクヤク(生薬名・芍薬=しゃくやく)は冷え性や月経不順・産後の疲労回復、ボタン(牡丹皮=ぼたんぴ)は月経困難や便秘、そしてユリ(百合=びゃくごう)は乳腺炎などのできもののくすりとして利用されてきました。紫式部をはじめ平安時代の女性たちが熱心に参詣した奈良の長谷寺や、一夜にして巨大な曼陀羅図を織り上げた中将姫伝説で知られた当麻寺のように、昔から女性の信仰厚い寺のなかには、さまざまな薬草を植え、女性用のくすりとして使っていたところも少なくありません。現在では、今日訪れた「長谷寺」にしても、当麻寺にしても「ぼたんの寺」として観光名所ともなっています。そうした薬草でもある花の名を上手に織りこみ、「立てば芍薬、座れば牡丹…」と健康な美人のイメージ・コピーをつくった昔の人のセンスには、なかなか卓抜したものがありますが、実際にくすりとして利用されたのは、花よりも、根や茎、葉などの部分でした。その芍薬と、牡丹は、なんとなく似ていますね。しかし、芍薬は、草なので冬になると根を残して枯れてしまい、春になるとまた新芽が出るのに対し、牡丹は、木なのでそのまま越年し、茎から芽が出ます。また、芍薬の葉にはほとんど切れ込みが見られませんが、牡丹の葉先には切れ込みが見られます。白楽天は、牡丹のことを「花咲き 花落つる 二十日なり 」と詠んでいます。このため、廿日草とも呼ばれています。この牡丹は、寺院の天井画や屏風や襖絵などにも好んで描かれています。昨日のブログのたけのこにも、効用はありましたが、その美しさから鑑賞されている植物にも、体にもよい効用を持っているものが多いのですね。いろいろなものを、バランスよく食することは、栄養価だけでなく、視覚的にも、たぶん、嗅覚的にも、人間にとって、意味があることだったのでしょう。それは、誰が発見したということではなく、長い間の経験から来ているものだったのでしょう。もう少し、人間本来が持っているさまざまな感覚を、刺激し、活用することを見直すべきだと思います。先日参加したイタリアのレッジオ市の幼児教育セミナーでも、そんなことを感じました。
投稿者 fujimori : 21:39 | コメント (2)
2007年05月03日 [講演先にて]
たけのこ堀り
先週、長崎に行ったときに、先方の好意で経験をしたことのない体験をさせてもらいました。研修の最終日の午後、毎年いろいろと考えてくれます。去年は、ブログで書いた「漁船の運転」をさせてもらい、西海橋の下の渦潮の中を乗り切り、その船で長崎空港に横付けしたのです。今年は、普段の運動不足を考えて、「たけのこ堀り」を計画してくれました。地元の園長宅で、ジャージとTシャツをかりて、それに着替えて竹やぶに出発です。そこまでは、軽トラックの荷台に積まれた、ビールケースを逆さにした台に座り、風を切って走ります。すぐに竹やぶに着いたのですが、そこは「孟宗竹」の竹やぶです。
たけのこは「古事記」に登場していることから、日本では古くから食べられていたようですが、現在一般的に食べられている孟宗竹という種類が日本に入ってきたのは江戸時代のことだそうです。そのほかに、現在食用として食べられているのは、淡竹、真竹などの種類です。孟宗竹の林に入って、掘るたけのこを選びます。形はずんぐりしていて、ずっしりと重いものを選びます。皮にツヤと湿り気があり、頭が黄色く開いていないものが新鮮なたけのこだそうです。頭の部分が緑色になったものは、陽にあたり育ちすぎて、えぐみが強く固くなっています。竹やぶには、にょきにょきとたけのこが生えていますが、そんなに顔を出したものよりは、枯れた笹の葉を除けると頭が出てきたくらいがいいのですが、そのたけのこを掘るのが、とても大変だということをすぐに悟ります。まず、たけのこを傷つけないように周りの土を掘ります。すると、根元に赤い斑点が出てきます。そうしたら、道具で「エイッ」と、根っこを切り落とします。
そのときに、頭がほとんど出ていないものは、掘る量が多くなります。また、根っこを切り落とすのが、太く大変で、なかなか切り落とせません。背が高いのは、すぐに折れるので、簡単に掘れます。ですから、疲れてくるとつい、かなり顔を出している大きなものを掘ってしまいます。それでも、かごいっぱいになりました。汗びっしょりになってしまいましたので、シャワーを借りてさっぱりしてから空港に向かいました。数日後、そのたけのこを湯がいて、たくさん送ってもらいました。とてもやわらかく、おいしくいただきました。みんなにも、「私が掘ったんだ」と自慢して配ったのですが、たぶん、送ってもらったたけのこは、私が掘ったものではないと思います。私が掘ったのは、大きくなりすぎたものばかりで、硬く、おいしくないので、ほかに掘ったものを送ってくれたのでしょう。次の日の筋肉痛を感じながら、その思いやりを感じました。じつは、たけのこは、GWか終わった時に、とても役に立ちます。なんとなくやる気がわかないというような「五月病」には筍ごはんがおすすめです。10年ほど前は、栄養学的は何にもなく、香りや歯触りを楽しむだけの食材という扱いでした。ところが最近たけのこに、やる気を高める成分が含まれていることがわかり注目されています。その成分とは、「チロシン」といい、タンパク質に含まれるアミノ酸の一つです。脳を活性化させ、やる気や集中力をたかめるドーパミンやノルアドレナリンなどの神経伝達物質の原料となるのです。最近では、うつ病を初め認知症、パーキンソン病の予防・治療に効果があるともいわれ、研究が進められています。たけのこをゆでると、節の隙き間に白いモロモロとしたものが入っていますが、それはチロシンが結晶化したものです。たけのこを水煮してもチロシンの量はほとんど変わらないと言われています。またたけのこにはアスパラギン酸という疲労回復に役立つ成分も含まれています。今年も貴重な体験をさせてもらいました。
投稿者 fujimori : 21:59 | コメント (3)
2007年05月02日 [近頃思うこと]
自律
今日は、駅の売店で1冊の本の特集の見出しが目に付きました。そのタイトルは、「自律型人間になれば 目標は必ず叶う」というものです。昨年、私の園で卒論を書きたいという学生が4名いました。その4名にそれぞれ課題を提案して、それについて論文を書いてもらいました。そのうちの一人に与えた課題は、「子どもの自律は、どうやって育っていくのか」というものでした。私の園は、各部屋の仕切りも壁もありません。行こうと思えば、2歳以上であれば、どこにでも自由に行くことができます。3,4,5歳児はいっしょに生活しているのですが、2歳児はその空間に接して部屋があります。その間には、なんとなく境があります。見ていると、2歳児の子どもたちは、どんなにふざけていても、注意をしなくても、その境から、決して出ることはないのです。どうして、その境を心の中に持っているのか、いったい、いつごろからそのように心の中に、境を持つようになったのかを常々不思議に思っていたからです。私は、自由になるというのは、規律がなくなることではなく、「他律から、自律に変わることである」と思っています。この自由と規律について、池田潔氏の『自由と規律』(岩波新書)という名著があります。これは、パブリック・スクールで若き日に学んだ著者が、その学校にこそイギリス人の性格形成に基本的な重要性をもっているのではないかということで、自由の精神が厳格な規律の中で見事に育まれてゆく教育システムを,体験を通して興味深く描いた本です。この中では、「最も規律があるところに自由があり、最も自由なところに規律がある」という精神が、まさに英国の精神の骨頂だといいます。つまり、規律なき自由は、放縦であり、自由なき規律は専制だからです。多くの人は、ときとして自由と放縦を取り違えていることが多く、子どもを自由にするのはよくないと思っている人がいます。私の園で、3歳以上になると、自由にやりたいことを自分で選ぶことができ、自由に好きなところで遊ぶこともできます。ですから、2歳児のころから、「自律」を身に着けるようにしています。たとえば、2歳児専用のベランダがあり、そこには避難滑り台が着いています。その滑り台には、柵をしてありません。2歳児の子どもは自由に行くことができます。しかし、誰も行きません。柵をしていないのは、自由にいけるようにではなく、行ってはいけないことを子どもたちは知っているからです。柵で止めるのではなく、自律心が止めるのです。ですから、本当に避難するときに自由に行くことができるのです。普段、行ってしまうからといって、柵を閉め、開けないようにと鍵をしていたら、いざというときには不自由です。
特集を組んでいた週刊誌は、「Associe」という雑誌ですが、リードの部分には、こんなことが書かれています。ビジネスパーソンとして成功するために「自分の心の中に自分だけのモノサシを持った“自律型人間”になろう。“自律”とは自らを律すると書く。つまり“外部からの制御から脱して、自身の立てた規範に従って行動すること(広辞苑)”である。」とあります。自律しない人が多くなると、当然他律が多くなります。「ごみを捨ててはいけない」と自分で考え、捨てなければいいのですが、捨てる人が多くなれば、「捨てると罰する」という規則ができてきます。人は自分ひとりだけで生きているわけではありません。人々の中で心地よく生きるためには、ビジネスで成功するためだけではなく、それぞれが自律心を持つことが大切です。
投稿者 fujimori : 23:40 | コメント (3)
2007年05月01日 [地域を知る]
神田明神
この連休が終わると、下町では次々と祭りが始まります。その案内が、地下鉄やJRの駅のホームに貼り出されています。つい、その日程を確認してしまいます。なんとなく、下町育ちとしては、血が騒ぐのです。そのはじめを飾るのが、5月10日から始まる「神田明神」の大祭です。神田明神は、東京都千代田区外神田二丁目にある神社で、正式名称「神田神社」といいます。神田・日本橋・秋葉原・大手町・丸の内・旧神田市場・築地魚市場など108か町会の総氏神です。一昨年かその前の年に、その祭りの中で最も醍醐味のある「神輿宮入」を見に行きました。今年は、13日に行われます。この神輿宮入とは、神田明神宮入参拝を目指し、約八十基の神輿は各連合及び町会の出発地に集合。式典後に宮入巡行神輿渡御となり、徐々に熱気と興奮が高まります。この宮入を見たのです。私の地元であった鳥越神社は、千貫神輿といわれる大きな神輿一騎を、各町内が担ぎ次いで、最後の「宮元」という、神社のある町会が宮入をしました。(私は、高校卒業まで、その宮元の町内に住んでいました)しかし、この神田明神は、各町会の持っている神輿が次々に宮入をし、宮入参拝を済ませた二十基以上の神輿が、秋葉原中央通りお祭り広場で繰り広げる神輿降りは、熱気溢れるものです。この神田明神は、先日ブログで取り上げた「築土神社」と関係があります。承平5年(935年)に敗死した平将門の首が京から持ち去られて当社の近くに葬られ、将門の首塚は東国の平氏武将の崇敬を受けました。嘉元年間に疫病が流行したとき、これが将門の祟りであるとして供養が行われ、延慶2年(1309年)に当社の相殿神とされました。その将門の首を納めたという桶が社宝として伝わっていたのが、「築土神社」なのです。もうひとつ、神田明神といえば、当神田明神下の長屋に住居を構えていたというのが、野村胡堂の代表作「銭形平次捕物控」の主人公・銭形平次です。「へいじ」という名前が、私の名前と同じこともあって、小さいころから私は、「銭形平次」とか、「へいじ、へいじ」とか、「親分」とか呼ばれていました。もちろん、銭形平次は架空の人物ですが、神田明神の敷地内に碑があります。

銭形平次は、テレビ時代劇や映画、舞台などによく取り上げられますので、「平次は神田明神下に住む十手を預かる岡っ引で、長屋に女房のお静と二人暮し。ひとたび事件が起こると、八五郎(通称:ガラッ八)との捜査で、卓越した推理力と寛永通宝を使った「投げ銭」を得意とする鮮やかな捕縛をみせる。」ということは有名です。また、ルパン三世シリーズに登場する銭形警部は、銭形平次の子孫とされていることもしられています。しかし、銭高組の看板と社章から「銭形」の名前を思いついたということや、『水滸伝』の登場人物のひとりである没羽箭張清が投石を得意にしていたというエピソードから、投げ銭のヒントを得たということはあまり知られていないかもしれません。また、何で投げ銭かというと、人を殺傷する刀や弓などの武具と異なり、当たったからといって命を落とすことはありません。銭形平次の不殺生主義にはうってつけの武器だったのです。また、どんな人柄であったかは、関沢新一作詞、安藤実規作曲で、舟木一夫が歌う歌の3番の歌詞を見ればわかります。「道はときには 曲りもするが 曲げちゃならない 人の道 どこへゆくのか どこへゆくのか 銭形平次 なんだ神田の 明神下で 胸に思案の 胸に思案の 月を見る」