暴力

 最近の子どもは、よく戦いごっこという遊びをします。広告の紙で剣を作り、それで人をつついたりします。また、ヒーローの真似をして人に対してキックをしたり、パンチをしたりします。そこから「喧嘩」に発展してしまうこともあります。もちろん、この多くは、テレビやゲームが影響しています。保育者や親は、それはよくないことだと知りながら仕方ないと思っていることのほうが多い気がします。私はそのことに関して、日本は少し甘い気がします。ある園で、外国からの見学者を受け入れているとき、子どもがブロックでピストルを作って遊んでいるときにとても強く注意をしたそうです。そして、「日本の保育者は、なぜそれを止めないのですか?」と詰問されたそうです。外国では、戦いごっこどころか、遊びの中で武器をつくることをさせません。同時に、テレビでも、暴力シーンは子どもの目に触れないようにします。なぜならば、テレビと暴力の関係については、子どもが暴力シーンを見ると影響を受けて暴力的になるという「社会的学習説」が主流になっているからです。テレビゲームも同様です。坂元さんらが2001年に小学生を対象に行った調査では、かっこいい主人公が戦うゲームでよく遊んでいた子どもは、攻撃性が高まる傾向が表れたそうです。「ゲームは自分が主人公となって戦う場合が多く、影響はテレビより強くなることも考えられる。」と言っています。しかし、ただ、暴力がいけないのではなく、ある条件があるようです。それは「暴力が肯定的に描かれている」「暴力を振るう人が魅力的に描かれている」などです。主人公がかっこよく暴力で敵をやっつけた映画を見た人たちが映画館から出てくる姿を見ると、ほとんどの人が肩をいからせて出てくるのに似ています。一時、「バトルロワイヤル」という映画が、成人指定かどうか話題になったことがありました。この映画を見て、暴力はよくないと感じる人は多いでしょう。しかし、何割かは心の暴力性が引きだされてしまう人がいるそうです。日本の成人映画といえば、なんとなくポルノとか性描写とか、裸というイメージがありますが、外国では、暴力が成人映画というイメージがします。そうは言っても、日本では、テレビを子どもと見ていると、暴力シーンが出てくることがあります。そんなときは急いで消したりするとそれも変ですね。そういう時は、そばで見ている大人が、暴力へ嫌悪感を示すと、影響が減るなどの研究結果もあります。これはテレビだけではありません。よく、質問で、「子どもが戦いごっこをしたり、武器を作って遊ぼうとしたときにはどうしたらいいですか?」と聞かれることがあります。そのときにむきになって止めたりすると、子どもは余計に面白がってやることがあります。私は、こう答えます。「そんなときには、先生はとても悲しい顔をしてください。」子どもは、大好きな先生を悲しませることは心が痛みます。または、「いやな顔をしてください。」と言うこともあります。ことの善悪はまだ子どもはよくわかっていません。その判断を、大人の顔色を見てしていくのです。内心、悪いことだと薄々感じている事柄は、少しやってから大人の様子を見ます。その顔つきなどでそのことがよくないことかいいことかを判断します。今の子たちを嘆く前に、自分の行動を見直さなければなりません。大人の行動を子どもたちはじっと見ているのです。真似る(まねる)ことが学ぶ(まなぶ)ことですから。

感情

 皆さんは「感情労働」という言葉を聞いたことがありますか?今週号の「AERA」のトップ記事が「感情労働時代の過酷」というタイトルです。この内容は、いま、毎日感じていることなので、共感を持って読むことができました。労働を内容で分けると、体を使う「肉体労働」、頭を悩ませる「頭脳労働」それに対して、感情を切り売りするが如き「感情労働」の時代が来たというのです。その記事のリードでは、「教育も医療もまるでサービス産業だ。時にクレーマーと化すひと相手の仕事に灰にならずに、やりがいを達成する道はあるのか。」と書かれています。教育、医療はサービスではないとは言いませんが、専門性が求められる仕事ですし、人間としての将来や命をつかさどっている仕事であるにもかかわらず、クレーマーに振り回されている現状があります。「感情労働」という言葉は、看護の領域で知られているそうです。「人間を相手にするために高度な感情コントロールが必要とされる仕事」を指します。1980年代に、アメリカの社会学者が、当時の航空会社の客室乗務員の労働実態を、典型的な「感情労働」であり、「感情の搾取」に当たると指摘しました。まず、社会学の用語として広まります。簡単に言えば、「働き手が表情や声や態度でその場に適正な感情を演出することが職務として求められており、本来の感情を押し殺さなくてはやりぬけない仕事」のことです。保育の仕事も教育同様、人間を相手にする仕事です。ときたま、感情を押し殺さなければならないときを感じます。記事の中に例が書かれています。「給食の準備で忙しい時間帯、担任教員に急ぎの電話を入れ、“うちの子、風邪気味だから薬をちゃんと飲ませてよね”と命令する母親。」「運動会前日、“明日の天気は雨のようだが、なぜ雨の確率の低い日に設定しなかったのか?”と電話で詰問する親。」「運動会の場所取りで前夜から門前に並び、近隣住民から注意を受けると“学校の対応が悪い”とキレる親。」など、「ありそう、ありそう」と思わず頷いてしまいます。先日もこんな話をある園長から聞きました。台風で運動会が延期になったときに「何で、台風の進路が読めなかったんですか!」と苦情を言われたそうです。この状況をどう見ているのでしょうか。大阪大学大学院人間科学研究科の小野田教授は、「学校に対する保護者や近隣住民の要求が刻々と“いちゃもん化”する底流にあるものは、現代ニッポンの“コンビニ・ファミレス文化”と考える。たとえばコンビ二では立ち読みだけして出て行く客にも、店員が「ありがとうございます」と言いますし、ファミレスでは小さい子どもが一人で来ても『いらっしゃいませ』『なにになさいますか』と声をかける。本来なら『立ち読みやめんかい』『キミ一人で来たらあかんで』でしょう。こういう奇怪なコミュニケーションの積み重ねが、消費者サイドに間違った権利意識を植え付けてしまっている」と言っています。この分析はわかりますし、頷くことが多いのですが、保育、教育と、ここに他の例で出されている航空会社とか、看護現場であったり、販売店店員などの仕事と大きく違うことに気が着かなければなりません。私たち保育、教育の現場で相手にしている「人間」とは誰でしょう。当然、子どもたちです。ここで例に出されている相手は、すべて保護者です。保護者の苦情に対しては感情を押し殺さなくてはならないかもしれません。しかし、それは本来の仕事ではありません。もう一度、私たちが相手にしなければならないのは子どもであることを再認識しないと、このような記事にただ共感するだけで、大切なことを忘れてしまいかねません。

通学かばん

 もうすぐ衣替えですが、学生たちはおのおの衣替えをしているようです。それでもまだ律儀に冬服を着ている学生も多く見られます。通勤電車の中で、通学中の中高校生と一緒になります。その学生を眺めていると、男子は、都内では意外と詰襟の制服が多いのに驚きます。私の住んでいる八王子では、今ほとんどブレザー式のものに変わっています。私の息子も中、高ともブレザーにネクタイという制服でした。ですから、勤めだしてからネクタイの締め方がとても早く、上手です。それが、私の乗る電車は詰襟の学生服が多く、懐かしく眺めています。ただ、違うのは、襟のホックまで留めている子は誰もいません。それどころか、ボタンの上から一つ二つはずしています。後は私のころと余り変わりはありません。しかし、私のころと大きく違うのは、持っているかばんです。私が中学1年生のころは、男子は帆布製のいわゆるズックと言われる白い肩かけかばんでした。最近はあまりこのようなかばんは見かけませんね。昭和40年代くらいからあまり使われていないようです。このかばん、60年代にはヒッピーへのお土産に良いとアメリカ向けの日本土産として人気だったこともあったようです。今でも、ちらほら使っている中学校もあるようです。そして、中学2年生のころからは、通学かばんといえば、皮の手提げかばんでした。男子は黒く、女子は青い色でした。このかばんに最初のころはパンパンに教科書や参考書、辞書をつめていきましたが、次第にほとんど中に入れず、ぺしゃんこに薄くしてもって行くようになりました。そのほうがなんとなく、ワルぶって見えるからでした。学士ズボンの折り目をつけるために、寝るときに布団の下に入れてプレスしたものでしたが、かばんも薄くしたいために布団の下に入れて寝たものでした。そして、高校生になってはじめのうちはやはりこの革の手提げかばんでしたが、2年生になるころから、教科書とかノートをブックバンドに縛って持っていきました。こ私の高校は、1日3時間授業(ひとこま100分授業)でしたので、持って行くものが少なくてよかったのです。のブックバンドも最近はほとんど見ませんね。たまに打っていると思うと、本が開かないようにゴムで本を留めるようなもののことが多いです。しかし、私たちが使っていたのは、長い編みこんだ平の紐で、それで本を十字に留め金で留め、一方の端を長く残しそれを持って肩にかけるようなものです。若い人は知らないでしょうね。このブックバンドは、一時期アイビールックがはやったころのひとつのアイテムでした。アイビールックというのは、アメリカ東部アイビーリーグ(ハーバード、エール、プリンストン、コロンビア、ダートマス、コーネル、ペンシルベニア、ブラウンの8大学)の学生ファッションを、日本のファッションブランド「VAN」がアイビー革命を起こし、60年代の若者の心をとらえ大流行したものです。ボタンダウンのシャツ、金ボタンのブレザー、VANブランドのアイビールックは、男性ファッションに大きな影響を与えました。私の少し年齢が下の人たちの間で、学生かばんとして一世を風靡したものがあります。それは、「マジソン・スクエア・ガーデン」とプリントのあるボストンバッグで、通称「マジソンバッグ」といわれるものです。このマジソンバッグは日本のカバンの歴史の金字塔と言われ、2000万個のベストセラーで、当時の人口が1億としたら5人に1人は持っていたといわれています。しかし、どうも半分は類似品だったといわれています。しかも、ニューヨークのマジソン・スクエア・ガーデンに行ってもこのバッグは売っていないそうです。学生かばんは、その後も変化しています。

万葉集

GWに訪れた桜井市は、ブログのネタがこんなにも多いとは今まで気がつきませんでした。それは、この市には「日本に初めて」の足跡が数多く残されています。ブログで取り上げたものでは、「日本に初めて仏教が伝来した」のは桜井です。「日本最初の劇場、“土舞台”にて芸能が始まった」のも桜井です。一昨日のブログの「相撲の原型、力自慢の二人が力比べをした」のも桜井です。そのほかにも「最古の市(いち)」「最古の街道」「最初の蹴鞠」‥‥などなどはじまりがたくさんあります。そして、「万葉集が詠み始められた」のも桜井です。「万葉集」は、7世紀後半から8世紀後半頃にかけて編まれた、日本に現存する最古の歌集です。ですから、わからない部分がずいぶんあります。それに「万葉集」の原本は、まだ発見されていません。現存しているものはすべてのちに書かれた写本です。最も古い写本は、平安時代中期に書写された、巻4の一部が残っているだけの「桂本万葉集」です。現在、20巻すべてそろったもっとも古い写本は、鎌倉時代後期の写本で、「西本願寺本万葉集」と呼ばれているものです。東京都内の「お茶の水図書館」が所蔵しています。写本でも完全なものはほとんどありません。それは、たぶん習字の手本にしたり、床の間に飾るための軸にしたりするために切り取ったからといわれています。ですから一首または数首の歌が記された断簡の形で発見されるものが多いのです。「万葉集」という名前をどうしてつけたかもはっきりしません。ひとつの説は「万の言の葉」を集めたということで、「多くの言の葉=歌を集めたもの」と解するものです。ほかに、仙覚の「万葉集註釈」の中の「古今和歌集」「仮名序」に、「やまとうたは人の心をたねとしてよろづのことのはとぞなれりける」とあることからつけたという説、「末永く伝えられるべき歌集」とする説、葉をそのまま木の葉と解して「木の葉をもって歌にたとえた」とする説などがあります。現在、研究者の間で主流になっているのは、「古事記」の序文に「後葉(のちのよ)に流(つた)へむと欲ふ」とあるように、「葉」を「世」の意味であると解釈して、「万世にまで末永く伝えられるべき歌集」と取る考え方です。このように名前の由来だけでなく、「万葉集」の成立に関しても詳しくは判ってはいません。一人の編者によってまとめられたのではなく、巻によって編者が異なり、家持の手によって二十巻にまとめられたとする説が有力です。天皇、貴族から下級官人、防人ら様々な身分の人間が詠んだ歌を4500首以上も集めた万葉集ですが、そんな数ある歌の中で、巻頭を飾る歌が雄略天皇の歌です。この雄略天皇の泊瀬朝倉宮があったといわれているところが、桜井市黒埼にある白山神社あたりです。ですから、この境内には、万葉集がこの地からはじまられたことをたたえる意味で、「萬葉集發耀讃仰碑/保田與重郎拝書」と書かれた記念碑があります。そして、その碑のそばには天皇が歌った歌碑が建てられています。「籠もよみ籠もちふ串もよ 美ふ串もちこの岳に菜摘ます子 家告らせ名のらざね そらみつ倭の国は おしなべて 吾こそませ我をこそ背とは 告らめ家をも名をも」(― 万葉集 巻1-1 雄略天皇 ―)という歌です。訳すると、「かごよ、よいかごをもち、堀串(へら)よ、よい堀串をもって、この岳で若菜を摘んでいる乙女よ。名前をおっしゃい。この大和の国は、すべて私が所有している。いちめんに私が治めているのだ。この私からまず名乗ろう。家をも名をも」という意味になります。プロポーズをするのに、自信に満ち溢れ、ずいぶん大きく出たものですね。この時代の人々の素朴で活き活きとした姿が伝わってきます。

抱月

 週末訪れていた島根県金城町で、突然流れてきた曲がありました。それは、「カチューシャの唄」です。以前のブログで、都内JRの駅ごとにちなんだ曲が流れることを書きました。高田馬場駅では、「鉄腕アトム」でしたね。それと同様に、様々な町で、ある時刻になると流れる曲があります。主に、朝とか、夕方に流れます。特に夕方流れる曲は、子どもたちに家に帰る時刻を知らせる役目を持ったりしています。八王子市では、夕方になると、「夕焼け小焼けで 日が暮れて?」という曲が市内全域に流れます。これは、この歌の作詞で有名な、「中村雨紅」は、八王子市上恩方町に生まれたからです。町に流れる曲は、その曲の作詞家か作曲家の生まれ故郷の場合が多いようです。金城町で聞いた「カチューシャの唄」は、島村抱月が1番の歌詞を作詞し、2番以降を早大時代の教え子で詩人の相馬御風(早大校歌『都の西北』の作詞者)に託しました。作曲は御風の進言により、抱月のもとで書生をしていた中山晋平に依頼したものです。中山晋平にとっては、これが作曲家としてのデビュー曲となりました。その「島村 抱月」は、ここ島根県浜田市金城町に生まれています。東京専門学校(現在の早稲田大学)で文学を坪内逍遙に、哲学を大西祝に学びます。卒業後は、イギリス、ドイツに留学、帰国して早稲田大学の講師となり、美学、文芸史の講義を担当します。その後、逍遥との関係から、新劇運動にかかわるようになり、日本でのヨーロッパ近代劇の普及に努めるため、女優、松井須磨子との不倫の恋が原因で早大教授の座から追われた島村抱月は、松井須磨子と共に劇団「芸術座」を立ち上げました。「カチューシャの唄」は、松井須磨子が、トルストイ原作の「復活」(芸術座)の劇中歌として歌い、劇そのものの評判と共に大変な話題を呼んだ歌です。日本の歌謡曲第1号とも言われるほど大ヒットしました。なお、トルストイの「復活」は、友人から聞いた実話が元になっているといわれています。内容は、「貴族ネフリュードフは青年時代、伯母の小間使カチューシャ・マースロワを誘惑して捨てます。そのため、彼女は娼婦にまで身を落とし、やがて法廷の手続ミスのためにシベリアへ流刑となります。皮肉にも、彼女の裁判に陪審員として立ち会うことになったネフリュードフは、深い罪の意識から彼女を救うために努力し、自らもシベリアに赴きます。」しかし、実話では、カチューシャは流刑地で病死してしまいますが、トルストイはそれをネフリュードフと結婚するというハッピーエンディングに変えました。ところが、貴族が娼婦と結婚するという結末は、政府から危険思想とにらまれたため、やむをえず、カチューシャは他の流刑者と結婚するという筋書きに変えました。これが、今も読まれている「復活」の結末です。ずいぶんと激しい恋ですが、カチューシャ役を演じた須磨子も、抱月がスペイン風邪で島村が病死すると、世を悲観して2ヶ月後に、芸術座の道具部屋において自殺(縊死)しています。そういえば、作曲した「中山晋平」は長野県中野市の出身、歌った「松井須磨子」は長野県長野市(松代)の出身で、共に長野県出身です。カチューシャの唄の歌詞を口ずさみながら、長野で入ったりんごを浮かべた温泉を思い出していました。
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「1.カチューシャかわいや わかれのつらさ せめて淡雪 とけぬ間と 神に願いを(ララ)かけましょか 2.カチューシャかわいや わかれのつらさ 今宵一夜に 降る雪の 明日は野山の(ララ)路かくせ 3.カチューシャかわいや わかれのつらさ せめて又逢う それまでは おなじ姿で(ララ)いてたもれ」

相撲

今、大相撲が終盤を迎えています。最近は、モンゴル力士が強いですね。相撲は日本の国技といわれ、強さだけでなく、品格も問われています。しかし、どうしても格闘技の要素が強いだけに、勝つ力士が重んじられていきます。人は戦いをいつからし始めたかというと、人間が半ば本能的に行っていた戦いから自然発生的に生まれてと思います。ですから、モンゴルを始め、アジアのみならず全世界で、大昔から現在まで、相撲と同じような格闘技が行われていたのは当たり前の話でしょう。しかし、一応、相撲の発祥についてはいわれがあります。それは、GWに行った奈良県「桜井市」と、週末訪れた出雲に関係があります。それは、日本書紀の中にはじめて相撲がとられたときの話です。「その昔、垂仁天皇の時代のことです。大臣の一人が「当麻に当麻蹴速(たいまのけはや)という、ものすごく強いものがいるようです。命がけで力比べしたいものだ、と言っております。」と言いました。するとまた、別の大臣が「出雲の国に野見宿禰(のみのすくね)というすごい力持ちがおります。」と言いました。そこで、天皇の前(今でいう天覧試合)で、当麻蹴速と野見宿禰に力比べをさせようということになりました。」これが、相撲の始まりだといわれていますが、その戦い方はどう見ても「キックボクシング」とか「K1」とか「プライド」に近いものだったようです。というのも、日本書記によると、「二人はお互い足をあげて蹴り合った末に、宿禰は蹶速の脇骨を蹴り折り、腰を踏み砕いて殺してしまった。天皇は蹶速の領地をことごとく宿禰に与え、その地は後に「腰折田」と呼ばれることになった。その後宿禰は天皇に仕えた」とあります。なんだか死まで天覧試合として戦わせるのは、ローマなどで、皇帝の前で一方が死ぬかで戦わせたのと似ていますね。この宿禰はいまでも「相撲の祖」「相撲の神様」として遇され、東京都墨田区亀沢にある宿禰神社では、年三回の東京場所ごとに、日本相撲協会関係者らが出席して例祭が営まれているそうです。そして、始めてこの相撲を取った場所が、桜井市三輪の相撲神社で、この境内には、勝った宿禰を祀る祠や、土俵などがひっそりとたたずんでいます。また、出雲地区には、野見宿禰の墓といわれる塚や、ゆかりの地の十二柱神社があります。この相撲は、戦国の時代がおわってからさかんになりましたが、興業になった相撲で、力士が命にかかわることはありませんでした。しかし、闘争心発露の場としての相撲は、庶民に人気があり、武芸の道をとざされた力自慢の浪人が力士とりの仲間入りをすることもあったようです。そして、その人気が、見物人同士の乱闘をまねくこともありました。その狼藉の被害が周辺の町におよんで、幕府が相撲興業の水をさした時期もあったようです。最近、ヨーロッパでサッカーのサポーターが乱闘騒ぎをしたというニュースをやっていましたが、同じようなものですね。もともと「すもう」の語は、「すまふ」の連用形「すまひ」が名詞化したものが語源であり、「すまふ」の意味が「あらそうこと」や「あらがうこと」であることからわかるように、本来闘争や格闘一般を指した語ですから、当たり前と言ったら当たり前ですね。その言葉に当てられた漢字の「相撲」も、そもそもは力くらべ、格闘を意味した漢語であるようです。考えてみれば、こうした歴史を持つ「相撲」が、国技になり、心技一体としたスポーツに昇格したのはふしぎですね。これからは、どうなるでしょう。

衣替え

花が一斉に咲く春になると四季の移ろいに感動し、つくづく日本はいい国だなあと思うことがあります。このような日本の美しい四季の変化と生き物の変化は、4つの気団によるものです。そしてこの4つの気団は、私たちの生活を豊(ゆた)かでうるおいのあるものにしています。それは、「オホーツク海気団(しめっていて冷(つめ)たい)」、夏の「小笠原気団(おがさわらきだん)(しめっていて暑(あつ)い)」そして春と秋の「揚子江気団(乾(かわ)いていて暖(あたたか)かい)」、さらに冬の天気の主役(しゅやく)となる大陸そだちの「シベリア気団(乾いていて冷たい)」、この4つの特徴(とくちょう)の違う大気のかたまりがかわるがわる日本をおおって、日本の天気を支配しているのです。もうすぐ訪れるであろう「梅雨」は、オホーツク海気団が起こすものです。5月から6月にかけてとても暑い日が続きます。園でも、お昼寝をそろそろタオルケットだけにしようかという意見が出ました。子どもたちは暑くて、寝苦しいようです。しかし、そう思って布団を片付けてしまうと、梅雨のころにまた寒い日があることがあります。ですから、今の時期に完全に夏支度をすることをためらいます。この暑さ、寒さの変化には時期的な目安はありますが、それはあくまでも目安であって、年によってかなり異なります。ですから、最近は一斉に制服の衣替えということをする学校が減りました。しかし、警察官や駅員さんは、衣替えで夏服に代わります。これは世界でも同様のようで、以前イギリスに行ったときにバッキンガム宮殿で、直立不動の姿勢で警衛を行う近衛兵の隣で写真を撮りました。(隣でなにをしようと、姿勢は崩しません)その近衛兵の制服は、赤い上着に黒い熊の毛皮の帽子をかぶっています。しかし、行った季節が冬だったので、グレーの制服でした。機能的にその服が暑い、寒いというよりも、その制服で季節を感じるということもありますね。そういう意味では、「衣替え」も大切な季節行事かもしれません。そういえば、我が家にある「裃(かみしも)」にも、夏服と冬服があります。いつごろから、衣替えをするようになったのでしょうか。歴史はずいぶんと古いようです。それは、平安時代から始まった習慣で、当時は中国の風習に倣って4月1日および10月1日に夏服と冬服を着替えると定め、これを「更衣」と呼んでいました。それは、宮中行事のひとつとして、衣類はもとより、調度品なども含めて、季節に合わせた入れ替えが行われていたのです。ですから「更衣」とは、「衣を変更する」ということで、季節の推移に応じて衣服を替えることだけでなく、それに伴って衣服の収納場所を変更することをも言っていたようです。しかし、更衣というと、天皇の着替えの役目を持つ女官の職名であり、後には天皇の寝所に奉仕する女官で女御に次ぐ者を指すようになったために紛らわしいので、民間では更衣とは言わず衣替えと言うようになったそうです。その時期が4月1日というのはずいぶんと早い気がしますが、もちろん旧暦の話です。それが、江戸時代ごろから、衣替えは6月1日と10月1日に行うようになりました。そして、太陽暦採用後は、官庁・企業・学校が旧暦の日附をそのまま新暦に移行して6月1日と10月1日に行うようになったのです。ずいぶんと最近の話ですね。それにしても私の中高校のころの制服はいわゆるつめ襟の学生服でした。それを脱いでワイシャツだけになるのはどんなに暑くても6月1日でなければ許されていませんでした。ずいぶんと辛抱強かったですね。

緑化

 先日、園の一部のベランダに芝生を植えようと業者に来てもらいました。最近は、屋上緑化をしようとするところが増えました。そのときに業者の人と芝について話をしました。園庭や校庭の緑化もするところも増えてきていますが、踏みつけることが多いところではなかなか芝が定着しません。校庭が二つあるといいのですが、いつも半分は養生のために使えない状態が起きてしまいます。もともと激しい動きをするところの芝生化は無理があるのかもしれません。たとえば、クローバーのようなほかの植物はどうかと聞いたところ、もっと無理で、中でも芝が一番踏みつけられることには強いようです。ですから、私は、ベランダや、屋上はどうかと思っています。そこを緑化する意味は、「ヒートアイランド現象の解消」で、都市部の灼熱砂漠現象を和らげます。10%緑化率を上げると、1?3℃、都市部の気温を下げる効果があり、それが進めば夏60℃にもなるコンクリートの温度を30℃以下に下げることも夢ではないそうです。それから、「断熱による省エネ効果」で、冷暖房費の大幅削減となります。500?の屋上緑化を有する10階建てのビルは年間180万円の省エネ効果があると言われています。そして、「環境にやさしい」ことです。二酸化炭素を吸収し、空気をきれいにします。それから、「癒し効果」があります。植物のグリーンが人に活力を与えます。ということで少しずつ考えていこうと思っています。
 では、庭の地面はなにで覆っていたのでしょう。地被植物(ground cover plants)という植物があります。これは、地表面を覆って地肌を隠す為に植栽する植物の総称で、草丈が低く性質強健な木本及び草本類の事をいいます。地表面を密に覆い、美しい樹姿(草姿)の種類で、そのためにある条件があります。「草丈が低く多年草で、植物体が柔らかい」「繁殖力が強く容易に増やせる(地下茎ほふく茎の伸張) 」「性質が強健で環境条件に対する適応性が大である。(利用・用途が多様)」「病害虫に対して強く、管理が容易である」その中で、草として使われるの野主なものが、芝草類で、日本芝、西洋芝、クローバー、ダイコンドラなどが使われます。そして、日本人が好きなものに「コケ類」があります。
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   コケで覆われた庭
 これには、おもにスギゴケ類やハイゴケなどが使われます。日本の庭園は、校庭や園庭のように運動をしたり、リクリエーションをする場として発展してきたヨーロッパの庭園と違って、もっと深い意味を持っていました。 日本では、庭は仏教の教えを形にする、茶の湯の精神を表すものとして、歴史や文化の変遷とともにさまざまな様式を生み出してきたのです。特に、寺社の庭園には宗教的な深い意味が込められています。そして、作られた自然の中には、テーマとかストーリーなど精神文化的要素が多分に含まれていることが明白になっています。日本庭園とは、必ず自然を取り入れて何かを表現します。役者が舞台で演ずるように、庭では木や石が代役を演じ役木・役石と称して庭を構成します。すなわち、庭の鑑賞は、「材料の名前や色、かたち、傾き加減、方位方角(東西南北)数量などをヒントにして、連想し、石は意志、木は気、流れは時代や歴史の流れ、松は待つ、梅は生むや創造など、同音同意の考えを取り入れ、空想し、思い出にひたり、時をすごすことによって、からだの疲れをいやし、明日への活力を養うことにあります。」といわれています。また、日本庭園には水があり土があり、その土地の植物を用いて景観が形づくられるために、自然と共生するという一種のビオトープであるということもいえます。

ダイヤ

 「人は ボールを前に投げるために 後ろにいったんふりかぶる 人は 高く上に飛ぶために 下に一度かがむ 前や上を未来 後ろや下を過去だとすれば 人は 未来のために過去を振り返る ここに生きる希望をつくるために 水俣は 起きたことを明らかにしながら 犠牲を無駄にしない社会づくりに役立て 受難者たちと共に 受難の大地水俣の未来に生きる希望をつくる」(水俣病資料館館長 吉本哲郎)水俣病事件は20世紀世界最大の公害事件です。50年を越えた今もなおいろいろな問題を投げかけています。それまで、公害受難で病魔に犯され亡くなった方だけでなく、生き残った人たちも、嫌がらせ、いじめ、中傷、偏見、差別の中にいました。水俣という地名を代えようと思ったこともあったそうです。しかし、あえて、それに正面から向かい合い、環境を考える新しい街づくりに取り組んでいます。
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今日「水俣病資料館」を訪れたとき、科学化を進める時代に犠牲になり、便利、欲望の犠牲になってきた姿に触れ、少し前に見た映画を思い出しました。それは、本年度アカデミー賞5部門ノミネートされた「ブラッド・ダイヤモンド」という映画です。主演は、レオナルド・ディカプリオで、残念ながらアカデミー賞主演男優賞は逃しましたが、なかなかいい演技をしていました。監督は『ラスト サムライ』のエドワード・ズウィックです。ダイヤモンドなど宝石は、国際市場で、高値で取引されます。そのために産出国にとっては貴重な外貨獲得資源とされていますが、その産出国が内戦など紛争地域だと、その国は輸出したダイヤモンドなど宝石類で得た外貨を武器の購入に宛てるため、内戦が長期化および深刻化することになるのです。とくに反政府組織はこれら鉱物資源による外貨獲得とそれによる武器購入を広く行っています。その際には無辜の人々を採掘に苦役させることから人道上も大きな問題があります。これら内戦の早期終結を実現するには内戦当事国の外貨獲得手段を奪うのが有力な手立てであり、国際社会はそれに取り組むべきだとされています。内戦当事国に外貨が流れ込まないようにするために内戦国から産出するダイヤモンドなどを、「紛争ダイヤモンド」と定義し、関係業界はそれらを取引の対象外にすることが求められていました。この映画の舞台は、シエラレオネ共和国はアフリカの西部、大西洋岸に位置し、北はギニア、南東はリベリアと国境を接しています。奴隷制から解放された黒人達の移住地として1808年にイギリスの植民地となり、1961年に独立しました。また、ここは世界でもっとも平均寿命が短い国として知られています。この映画は、地域紛争が激化する「ブラッド・ダイヤモンド」の現実問題に言及した内容について、米国務省が批判したことでも話題となった問題作です。この映画を見た後、先進国といわれる国々が、自己の満足と、豊かさゆえにダイヤを欲しがるので、こんな不幸がおきるのだということを思いましたが、一方、アフリカ諸国をはじめとする世界のダイヤモンド産出国でいかにダイヤモンドが人々の生活の向上に大きく貢献しているかということについては残念ながらあまり知られていません。そこで、2000年に各国政府、非政府組織、ダイヤモンド業界が一丸となってこの問題の解決のために立ち上がり、2002年には国連主導下で「キンバリー・プロセス証明制度」が確立されました。キンバリー・プロセスは紛争地ダイヤモンド取引の撲滅に大きく貢献することとなり、現在では、世界中で取引されるダイヤモンドの99%以上が紛争と関係のない地域から採掘されたものとなっています。贅沢の裏には、犠牲になっている人がいることを忘れてはいけないという思いをした日でした。

隅田川と橋

 橋といえば、思い出があります。私が子どものころに住んでいた場所は、台東区でした。台東区は、隣の墨田区との間には隅田川が流れていました。小学校での社会で「私たちの台東区」という冊子をサブテキストとして使っていましたが、そこには、隅田川に架かる橋が出ていて、それを覚えさせられました。時代で、覚えさせられたものは違いますが、有名なものは、歴代天皇の名前でしょう。私の時代にはそれはありませんでしたが、歴代総理大臣の名前や徳川家代々の名前などは覚えたものです。
私は昨日の多摩川の土手の散歩ではありませんが、よく川の土手を散歩します。よく散歩する川は、昨日の多摩川、その支流の浅川、神田川、目黒川、そして、隅田川です。隅田川は、そこに架かる橋は小学校のころ覚えたこともあり、なんとなく名前だけでも懐かしく思います。そして、それぞれ特徴のあるデザインで目を楽しませてくれますし、歴史的にもいわれのあるものが多く見られます。たとえば、「言問い団子」で有名な「言問橋」は、「名にしおはば いざこと問はむ都鳥 わが思ふ人はありや無しやと」という在原業平の歌にちなんで名付けられています。なんだか優雅な橋のように思えますが、実は、昭和20年3月の東京大空襲の際に、戦火に追われた人々が、両岸から、向こう岸へ行けば助かると信じてこの橋に殺到し、千人近い人々が折り重なり、橋上を埋め尽くし犠牲になったと言われています。隅田川に架かる橋の歴史には古いものがあるのですが、実は江戸時代は、「千住大橋」「両国橋」「新大橋」「永代橋」「吾妻橋」の五橋のみでした。幕府が隅田川の架橋を制限していた理由は、莫大な架設費用がかかるというだけではなかったようで、江戸時代の初期、まだ徳川幕府が安定期を迎える前は、「隅田川」は江戸城を守る重要な「濠」 の役目を果していたのです。ですから、外敵の侵入を防ぐために「隅田川」に橋を架けさせなかったのです。ですから、隅田川を渡るのには、「渡し舟」を使っていました。浅草の玄関であり、水上バス発着場所としても有名な「吾妻橋」の場所には、以前は「竹町の渡し」がありました。どじょうを食べさせることで有名な「駒形どぜう」という店のある「駒形橋」にも、「駒形の渡し」がありました。このあたりには七不思議といわれる伝説があります。「置いてけ堀」(魚を釣った釣人に堀の中から「置いてけ、置いてけ」という声が聞こえ、釣った魚がなくなってしまう)、「送り提灯」(夜道にふと現れ、近寄ると消えてゆく)等有名な怪談があります。やはり「厩橋」あたりには、江戸時代は蔵前にある幕府の米蔵に付属する厩が並び、対岸へ渡す手段として「御厩の渡し」がありました。私が育った場所の近くにかかっていた橋は、「蔵前橋」です。幕府の貢米を収納していた米蔵94棟、他に御蔵奉行などの付属物があった広大な土地の大路を蔵前通りと呼び、それに因んでこの名前になりました。その下流へ次の橋が、相撲で有名な国技館がある「両国橋」です。私が子どものころは、「蔵前国技館」といって、蔵前橋のたもとにありました。「中洲の渡し」があったところには「清洲橋」は、世界でも美しい橋として知られていたライン川に架かるドイツの ケルンの大吊橋をお手本に作られ、曲線的な優美さをもった女性的な橋とされています。
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 清洲橋
「永代橋」は、「深川の大渡し」に代わって架けられました。
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   永代橋
「勝鬨の渡し」は、日露戦争の戦勝(勝ち鬨)を記念して名付けられたものですが、それが、大型船を通過させるため、時間を決めて中央部が 2つに分断されて跳ね上がるという開閉式で有名な「勝鬨橋」になります。橋は、美しさだけでなく、多くの歴史を刻んできたものも多くあります。
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  相生橋