早期教育

 中国、韓国などでの過熱した早期養育、幼児教育を見るにつけて、ではどうあるべきかを考えてしまいます。たとえば、よく言われるように、「字を覚えるのは小学校に入学してからで大丈夫なので、それまでは、勉強などせずに、元気に遊んでいればよい」ということがあります。しかし、この言い方は少し違っている気がします。まず、「勉強」と「遊び」を並列して考えている点です。同じような考え方に、「勉強の時間」と「遊びの時間」と分けて考えることです。それは、勉強を教科として捉える場合はそういうこともありえるでしょう。また、勉強を「勉めることを強いる」とすればそういう分け方はあるかもしれません。しかし、勉強を「学び」としたときは、その考え方はおかしくなります。しかも、生きていく知恵を学びことが中心である幼児期では、遊びの時間=勉強の時間であり、生活の時間=勉強に時間になるのです。ですから、最初の文の「勉強などせずに、遊んでいればいい」ではなく、「遊んでいることから幼児は勉強をしている」ことになるのです。また、字を覚えるのは小学校に行ってからというのも、少しおかしいと思います。小学校では、まず、ひらがなを50音、濁点半濁点を入れると6?70字ほどあります。カタカナを入れるとその2倍、その上漢字を80字あまり。全部で、200文字以上覚えるのです。大体学校へは、年間200日通学します。その中で国語の授業となると何日あるでしょうか。そうでなくとも、子どもたちは、ほぼ毎日1文字ずつ覚えていくことになります。もし、私たちが、毎日1文字ずつアラビア語を覚えなさいとか、ハングル文字を覚えなさいといわれても無理のような気がします。それを、あの小さな1年生が成し遂げているのです。どうしてでしょう。それは、身の回りに文字がたくさんあり、文字に触れるのは、何も授業中だけ、国語の時間だけではないからです。テレビを見ても、町を歩いていても、電車に乗るときも、小さいうちから文字と触れ合っているからです。もし、一部屋の中だけで育てられているとしたら、いくら机に向かわされて、毎日覚えることを強いられても覚えられるものではありません。しかも、覚えなければならないものは、ほかにもたくさんあるのです。これだけを見ても、幼児にとっての勉強は、ある時間内だけのものではありませんし、教わることだけでもないのです。しかし、いくら遊びが大切であり、遊ぶことから学ぶといっても、たとえば、毎日テレビゲームで遊んでいるだけで学びがあるのでしょうか。ただ、走り回っているだけで学びがあるのでしょうか。それも違います。さまざまな経験が、さまざまな学びを支えているのです。生きていくということは、総合的な営みです。ですから、小学校で「総合的学習」の時間を創設したのでしょう。しかし、教科として総合的学習を位置づけてしまうと、「飛騨地方」がどこにあるかを考えないで、「さるぼぼ」がどんなものであるかだけを覚えることになってしまうのです。飛騨地方に伝わる伝説の人形の「さるぼぼ」から、その地方の歴史を知り、その背景の日本の歴史を調べ、その地方の地理的条件から、日本の地理に興味を持ち、地域ごとに伝わる文化から、自分の住んでいる地域の文化を大切にし、昔の人の暮らしを知ることによって、これからの生きていく知恵を学んでいくというようにどんどん興味関心が広がり、学ぶ意欲がわいてきてこそ、「総合的な学び」といえるのでしょう。今日から長崎で行われている研修の今年のテーマは、そんなことです。

早期教育” への4件のコメント

  1. こういう研修に参加したい!という気持ちがどんどん大きくなっていく内容です。ブログからしか判断はできませんが、今年の研修も充実した中身なんだろうなと勝手に想像しています。「そうだそうだ」とうなずきながら、一気に読ませてもらいました。
    子どもたちのために、まずは「勉強」と「遊び」の定義を日本中の人々とそろえるところから始めたいという思いが湧いてきました。本当に何とかしたいです。今日は近所の方が園に来られ、中国の学校を見学したときの話をしてくれました。中国の学生の「学ぶ意欲」の高さに驚かされたそうです。方法や内容は別としても、意欲に関して、意欲の持ち方に関しては、学ぶことがあるように思いました。

  2. 自称「学習人」の私としては、いつでも「学び」です。「勉強」と「遊び」の区別が基本的についていません。強いて区別をつけるとすれば、苦痛と感じれば「勉強」、快感と感じれば「遊び」、ということになるのでしょうか。わが子に対しては「教育」などという2字熟語で表現できることはしておりません。息子は勝手にいろいろなことを学んでいるようです。学ぶ楽しさを味わえるように環境を整えているだけです。「楽勉」が一番身に付く勉強方法です。楽しくなければモノは身に付きません。勉強はとは本来楽しいものです。「勉強」が苦痛の代名詞になったのは「強制される」要素が強かったからでしょう。まぁ、何が勉強になるかわかりません。その時々で集中して取り組めることを是としたい、と思います。もっともゲームにはまったらどうしよう、という危機意識がないわけではありません。

  3. 遊びと勉強は別なものという認識の仕方をされている部分はまだまだ大きいように思います。幼稚園は勉強をするところ、保育園は遊ぶところなんていう認識もされているのかもしれません。藤森先生の言われるように勉強を学びと捉えると小学校に入学してから始まるものではないですね。私たち保育者もそのように学ぶこと、勉強することを捉えると日々の保育の中で子どもたちに数や文字、科学といったことを意識してもらえるような関わり方であったり、環境の構成につながっていくように思います。それは決して先取り教育ではなく、小学校への学びにつながる体験を通じた学びを考えていきたいなと思います。乳幼児教育の中の学びを実践しながら、その大切さを発信することもまた大切ですね。

  4. 「遊んでいることから幼児は勉強をしている」というような位置づけがしっかりとあれば、これまで抽象的であった遊びも、良い意味での早期教育として捉えることができるわけですね。「勉強などせずに、元気に遊んでいればよい」といった考えも違うと同時に、短期記憶だけに頼る勉強でもなく、「生きていく知恵を学んでいく」場であり、「総合的学習の場」であるということですね。私のイメージは、教科というものは“全く別もの”といった認識がありました。しかし、全ては総合的につながっているのであり、一つのことをより深めるために教科というものが存在しているのだと感じることが出来ました。

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