毎日の新聞には、さまざまな情報が満ち溢れています。時には、その情報が偏った見方をしていたり、一部しか伝えていないこともあるので気をつけなければなりませんが、それが正しいのかどうかですら確かめようがありません。事実を伝えてはいても、当然それを取材する記者の目を通して伝わりますので、その解釈はさまざまになることがあります。昨日、宮崎県の東国原英夫知事は定例記者会見で、「定例会見って必要ですかね。特筆すべき発表がない時は、会見を開かなくてもいいのではないか」と述べ、記者会見の定例実施に疑問を呈しました。他の都道府県知事は全員、定例記者会見を開いていますので、その発言に対し、記者側が「発表がなくても、知事の今の考えを確認する場は必要だ」と指摘したところ、知事は「統一地方選や米軍再編についても、ずっとしゃべっている。今さら何を聞きたいのかな」と反論。「内容を2ページぐらい割いて(新聞に)載せてくれますか」などとまくし立てました。まあ、情報公開ということもあり、当然、公務内容は、何を伝えるべきかどうかは自分が決めるだけでなく、公的行動と認識するべきだとは思いますが、発言内容を、言った本意と違うように伝えられるのに対しての危険も感じているのでしょう。そんな報道の中で、事実を伝えるというだけでなく、さまざまな人の意見や考えが掲載されることもあります。それが、違う分野の人や、違う論点でもずいぶんと参考になることが多くあります。3,4月の新聞から、印象に残った記事を見直してみてください。その部分を抜き出してみると、意外に参考になります。「結婚は他人と共生する高い能力を必要とします。でもピュアな自分らしさや自己実現を追いかけ、自分のペースで生きたい人は他者を生活圏に受け入れにくい。そう、子どもと同じですね。」(神戸女学院大教授 内田 樹氏)彼は、都会的な消費生活の中で他者と共生する能力を失っていったと指摘しています。それが原因で、結婚できない人が増えているのではないかといっています。そして、結婚とは「横にいつもいて、相手の話をうなずいて聞く。そして相手が自分を発見していくプロセスをリアルタイムで見守る証人になる。そういう共同作業なんです。」と語っています。この他者を受け入れるという、他と共生するという能力は、結婚という形態をとるときだけでなく、園の保護者を見ると、欠けている人が増えている気がします。自分の価値観だけから物事を見ようとする人が多い気がします。違う記事で、東京大学助教授の本田由紀さんはこう言っています。「教師や親たちは、自分たちの古い経験に基づく、「こうしておけば大丈夫なはずだ」という考えに、あなたを合わせようとするでしょう。」あなたのためだからと思わされて、疑問を持つことも許されず、言うとおりにしてきた結果、「いざ学校を離れる段階になったとき、突然「お前は何がやりたいのだ」という問いが、ぎりぎりと投げかけられるでしょう。それまでの「言うことに従え」というメッセージが、一転して「自分で決めろ」に変わるのです。そしてあなたが戸惑ってしまったら、「お前には人間力が欠けている」という非難が浴びせられます。失敗は、あなたの「意欲」や「コミュニケーション能力」が足りなかったせいにされるのです。」小さいうちから、自分の考えを言うことを制止され、伝える前に叶い、すべて与えられて育てられた結果、そういう力が育っていないのは、決して若者のせいではなく、育てられ方の結果です。快と不快のブログを思い起こさせる記事ですね。
昨今の新聞記事に占める「育児」関連の割合は増えているようです。少子化でもあり、それだけ人々の関心が集まるのでしょう。今日も読売新聞は「よみうり子育て応援団大賞」創設に関して大きく紙面を割いています。その中で武蔵大学教授の武田信子さんは「今の子育ては、なぜ困難なのだろう」という言葉を投げかけ「今一度、考えてみたい。現在行われている子育て支援は本当に対象者を尊重しているだろうか。(略)例えば子どもを大切にするという視点が抜けて親の支援だけが中心になっていないか...。」とても難しい問題で一朝一夕には答えは出るものではないでしょうが、こうやって毎日真摯に議論を重ねていけば、少しずつ良い方向に進歩していくのではないかと思います。
たとえば、保育を「保育サービス」といいます。保育者はいろいろな研修で「サービス」としての保育ということを教えられます。「やってあげる」ことが自分たちの仕事、と勘違いすることがあります。かと思うと、徹底して「しつけ」ることが自分たちの使命だと思い込んでいる節が無きにしもあらずです。その際、その両者に共通していることは、目の前にいる子どものことが棚上げされるていることです。そんなことはない、という反論があるかもしれませんが、これまでの経験からその両極端にふれている場合は往々にして、子どもが棚上げされて保育のための保育、に徹しています。今日のブログでも指摘されていた「意欲」や「コミュニケーション能力」は「やってあげる」でも「しつけ」でも育つ力ではないと思います。このことは強く主張したいと思いました。
過去に印象に残った記事が浮かんでこず、新聞を読み返そうと思っても4日前までの新聞しかなく、これといった記事は見つけられませんでした。気になる記事に出会ったときには、後からでも見ることができるようにしておいたほうがいいですね。そういったことも習慣にしてみようと思います。
ブログの最後の記事のような育てられ方によって、子どもに必要な力が育っていかないということがないようにしなければいけません。記事のような話を聞くと、そのたびにやるせない気持ちになります。子どもから軸がぶれていないか、自分自身も確認を忘れないようにします。
●私は、保育にしても、世の中ののもろもろの出来事にしても、結局は、自分の意見をもつことだ、と思います。自分の頭で考えるためには「一般新聞で報道してある保育・教育の記事を読んで、考えるクセをつけよう」と、その頃、定期購読をしていた幼児の専門報道誌をチョッとやめてみています。一般新聞にしたのは、昔、日本に来た外国のスパイが、一般新聞だけ読んでいても国内の情報はよく分かった、ということがあったからです●新聞を読んで見ると、少し深く(?)考えれば、この記事はスペース埋め用の記事かな?、と思うものもあります。少し冷静に読めるようになったように思います●その点、このブログは、読んで、感想・気づき・多少の意見も書ける(「書く」ということがいいと思います)ので、自分の考えも確認できます。私は、このブログをこのように利用させてもらっています。
昨年度から保育形態をちょこちょこと変えて現在に至ります。
とにかく、子どもたちに「考える力」と「コミュニケーション力」身につけさせたくて・・・。
今年度になって、保護者との質疑の時間が増えました。
うちの園のやり方に疑問を持ったり、意見があったり・・・。
その都度、時間をかけて、同じ事でも何度もお話します。
そのときに、私自身が忘れないようにしているのは、藤森先生に教えて頂いた、「どんな保護者だって、自分の子どもがかわいいと思っている」、ということです。そこを踏まえてお話をしていると、ずいぶんと気分的にも楽になり、保護者の方も、素直にあれこれ話してくれるようになりました。
共生、と一言で言っても、なかなか難しいことですが、相手を尊重することから始めないと、コミュニケーションも取れないし、コミュニケーションが取れないと共生はまず無理だろうと思います。根気は必要ですが、まずそこから始めないといけないんだな~、と最近実感する日々です。
子どもを受け入れることは簡単にできるんですが、おとなを受け入れるってなかなか難しいですね・・・。
支離滅裂なコメントになってしまいました。
これも私自身に考える力が不足しているからでしょう・・・。
それもこれも、これまでの教育の弊害、と責任転嫁しちゃいそうですね~。