中国事情 その2

 中国事情についての続編です。
中国では、幼稚園といっても、共働きが普通ですので、保育時間は、朝の7時半ぐらいから夕方5時過ぎまでで、子どもは朝食も園で食べるのが普通だそうです。そして、家庭では夕飯だけ準備すればいいのですが、それも無理なら全食お願いすることも特別ではなく、「子どもがかわいそう」などと人から後ろ指をさされるようなことでは決してないそうです。また、週末だけ迎えに行けばよいという全託の「託児クラス」が設けられている園も少なくありませんが、両親がそんなに多忙なのかといえば、そうでもなく、わが子を評判のいい教育機関に預けようとする、遠方の家庭である場合もままあるようです。そういえば、私が中国に行ったときに、全託の園の園長に「月から金まで親に会わないことは、親の愛情の面で、問題はないのですか?」と聞いたときに、怪訝な顔をされ、「だって、親は素人ですから」との答えから、愛情よりも教育を優先する姿勢がうかがえました。
 また、中国でも核家族が増えてきてはいるものの、祖父母と同居している家庭が断然多いようです。ブログを書いている武田さんの暮らす深セン市は、中国で最も早く改革開放を実施したところで、経済躍進にともない、仕事を求めてたくさんの労働者が地方から集まっている場所です。「移民の街」という異名を持つ深セン市の平均年齢は、なんと29才だそうで、地方から出てきた若者がこの街で結婚し、子どもが生まれると、赤ん坊や働く親の面倒を見るために、田舎から祖父母が出てきて同居する、というケースが多いようです。そういうこともあって、1979年から始まった一人っ子政策により、家庭では自然と、一人の子どもにたくさんの保護者の注意が集まります。そして幼稚園には、「わが子にもっと漢字を教えてくれ」「もっと朗読の練習を」「英語にも力を入れて」といった、学習に重きをおいてほしいという強い要望が寄せられるといいます。中国では、なぜこんなに早期教育に熱心なのかというと、武田さんが園長先生に、「保護者が、教育熱心なことをどう思うか?」と聞いてみたところ、次のような答えが返ってきたようです。「深センに働きに出て来た両親は、内陸部の貧しい農村の暮らしがどんなものかを知っています。そして、そこから抜け出すためには教育が必要であると痛感しています。周りが皆始めており、次々と習得しているというのに、スタート地点からわが子を遅らせてはなるまいと、競争はどんどんヒートアップしていくのでしょう」。25年という短い間に、広東省を代表する大都市に成長した深セン市では、<そこで何を教えてくれるのか> が、幼稚園はじめ、あらゆる事柄の選択重要項目になっているようであると分析しています。中国では、国土が広く、人口が多い国ですので、確かに地域間格差は大きいでしょう。ですから、一口に「中国教育事情」といっても、ほんの一部の地域であることは確かです。しかし、その中で、大きく発展した市では、日本と同じような傾向が見られます。そして、そのような最近の流れを見て、「日本でもこれに勝つためにもっとそうするべきだ」と思う人もいるでしょうし、「なんだか一昔前の日本のようだ」と思う人もいるでしょう。反面、こうした流れの中での弊害やひずみも生まれてきています。ただ、良い、悪いではなく、そこから、今後の日本の教育のあるべき姿を考えるモデルであることには違いありません。

中国

 昨日のテレビでも、中国の教育事情を放送していましたが、最近、北京オリンピックの開催が近いせいか、中国の話題が取り上げられることが多くなりました。一時期、韓国の教育事情が話題になっていましたが、最近は中国にも注目するようになっています。ひとつは、かつての東京オリンピックのときと同じように、国を挙げて伸びようという意欲に国民が燃えているからです。また、一人っ子政策において、親の子どもに対する期待や、国の次世代を担う子どもへの期待が高まってきているからです。その動きは、日本でも少子社会での子育てを振り返るのに参考になります。武田千夏さんは、中国留学中に知り合った韓国人の夫と、ソウル近郊で4年間過ごし、その後、年子の息子2人を連れ、一家で中国深セン市に移住し、その中国での暮らしのなかで感じた文化の違いなどについて、ブログ「住めば都。中国ほどオモシロイ国はない」を書いています。彼女が、幼稚園事情を書いている部分があります。参考になる部分を抜き出してみます。
「“やりたい子だけやったらいい、強要はしない”という日本の幼稚園とは違い、中国の幼稚園はどこも『現代化・国際化』をスローガンに掲げ、取りこぼしがないようきっちり管理されていました。 毎日ある英語のクラス、漢字の授業、そろばんを習う4歳児、全てのページを暗記している3歳児などに驚きました。子供に赤いクレヨン1本を渡し、印刷されたリンゴの絵をそれぞれが赤く塗りつぶすという「美術の時間」がありました。あらかじめ録音してある教科書の朗読テープを流しているだけの「読書の時間」を覗きました。「こっちにいらっしゃい」と呼びかけて、やって来た幼児に1からビリまで順番をつけた先生や、幼児に飴を与えて大人しくさせる様子に不満を覚えたりしました。」というように、息子を幼稚園に入れるためにいくつかの園を見学したときの感想です。結局、手で触って、耳で聞いて、興味を持たせることに重点を置いた教育をすると言う園長先生のいる、現地の幼稚園に決めています。そこには、男の先生が多いのも気に入った理由のひとつだったそうです。何年か前に中国に行ったときに、幼児施設を訪問した際、どの施設に行っても、男性の園長にびっくりされました。そのあと、一緒にいた中国の役人さんに、「中国では、女性の園長だから、子どもたちはひ弱になるのだ。やはり男性園長の方が、子どもがたくましくなっていい。」と言われたときに、「男性に園長だって、優しいのに」と思ったものでした。今は、男性の職員もいるのですね。幼稚園の先生にことを武田さんは、こう書いています。「いかにも幼稚園の先生らしい人と言えば、日本では大概、やさしそうな雰囲気の人を思い浮かべるに違いない。しかし中国の幼稚園の先生は、腕組みをし、少し離れたところから、まるで監視しているかのごとく立ちはだかり、厳しくてコワイという印象だ。手洗いしかり、お遊戯の時間しかり、幼稚園児なのだから、そんなにきっちり決着つけなくとも、もうちょっとなごやかに、あるいは適当にできないものかと感じることしばしばである。「開放日」と呼ばれる父兄参観の日、あれこれと指図して服従を強いる、常に眉間に皺を寄せている先生が私に言った。「子どもたちは家に帰ると、祖父母、両親、お手伝いさん、その他の大人に甘やかされ放題。だから幼稚園では厳しくする必要があるのです」と。」親の甘やかしの環境の中での保育の考え方ですが、日本では、甘やかす親は、園にも甘やかしを要求するので、その弊害は大きくなりますね。

共生と新陳代謝

  先日の日曜日、今話題の「国立新美術館」に行ってきました。
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そこは、ブログで書いたアートトライアングルのひとつです。この美術館は、東京国立近代美術館、京都国立近代美術館、国立西洋美術館、国立国際美術館に引き続く、日本で5番目の国立美術館(独立行政法人)として設立されました。規模は大きく、地下1階・地上4階建てで、展示スペースは14,000㎡と国内最大級の美術館になります。(同じ六本木の森美術館の展示スペースである2,000㎡の約7倍の大きさです。)外観は、前面を覆うガラスカーテンウォールが、波のようにうねる美しい曲線を描き、このガラスカーテンウォール越しに、青山公園など周辺の緑地にとけこむように植栽された庭園の眺めが楽しめます。透明で大波のようにうねる外壁面は、日射熱・紫外線をカットする省エネ設計でありながら、周囲の森と共生するようにできています。
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また、エントランスロビーのアトリウムは21.6mの天井高で、透明で大波のようにうねる外壁面が特徴です。
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 この美術館は、他の国立4館とは異なり、コレクションを持たないのが特徴です。作品を収集せず、国立新美術館の企画展や、新聞社などとの共催展を開催していくだけで、「常設展示」といったスペースはありません。高い所蔵品を持つよりは、いい企画展をしてもらったほうが私としてはいいと思います。
この建物の設計は、このたび知事選で強烈なキャラクターを都民に知らしめた「黒川紀章」氏です。名前だけは有名でしたが、あの独特のキャラクターは、岡本太郎につぐ存在としてマスコミに引っ張りだこだそうです。建築家としての彼は、作品の好みは別として、世界各地で、さまざまな賞を受賞しています。また、今回の「国立新美術館」の設計コンセプトにあるように、40年前から提唱している「共生」を提唱しており、時代のキーワードとして認知され、著書「新・共生の思想」の英語版とドイツ版は、海外でも大きな反響を呼んでいます。そんな彼が、最近、また違ったところで話題になっています。それは、1969〜1970年に設計された「中銀カプセルタワー」の建て替えです。
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この中銀カプセルタワービルは、世界で初めて実用化されたカプセル型の(それぞれの部屋の独立性が著しく高く、技術的には部屋=カプセルごとに交換が可能な)建築(マンション)として有名で、東京の銀座に、1972年竣工しました。この建物は、黒川の初期の代表作であるとともに、メタボリズムにとっても代表的な作品であるといわれています。鳥の巣を積み重ねたようなその特異な外見は、ユニット性のカプセル住宅(マンションであるが、事務所としても利用可能)としての機能をダイレクトに表現したもので、その評価は高い建物です。
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この建物が、竣工後30年が経過し,老朽化が問題になっているのです。黒川はカプセルの交換によって利用し続けることを求めていましったが、雨漏りの問題とか、アスベストの問題とかで、今年の4月15日に建て替えが正式に決定しました。本人は、コンセプトでもある「メタボリズム」ということで、新陳代謝、取換え、リサイクルを実現したサスティナブル建築の原型でもあることから、建て替えは望んでいないようです。この建物が、1996年Docomomo Internationalの国際委員会により、世界遺産にノミネートされています。建物は、確かに遺産としての価値もありますが、実用としての価値も重要です。この建物が良いか悪いかを別として、「共生」と「メタボリズム」の象徴しては、残してほしい気がします。

新聞記事

 毎日の新聞には、さまざまな情報が満ち溢れています。時には、その情報が偏った見方をしていたり、一部しか伝えていないこともあるので気をつけなければなりませんが、それが正しいのかどうかですら確かめようがありません。事実を伝えてはいても、当然それを取材する記者の目を通して伝わりますので、その解釈はさまざまになることがあります。昨日、宮崎県の東国原英夫知事は定例記者会見で、「定例会見って必要ですかね。特筆すべき発表がない時は、会見を開かなくてもいいのではないか」と述べ、記者会見の定例実施に疑問を呈しました。他の都道府県知事は全員、定例記者会見を開いていますので、その発言に対し、記者側が「発表がなくても、知事の今の考えを確認する場は必要だ」と指摘したところ、知事は「統一地方選や米軍再編についても、ずっとしゃべっている。今さら何を聞きたいのかな」と反論。「内容を2ページぐらい割いて(新聞に)載せてくれますか」などとまくし立てました。まあ、情報公開ということもあり、当然、公務内容は、何を伝えるべきかどうかは自分が決めるだけでなく、公的行動と認識するべきだとは思いますが、発言内容を、言った本意と違うように伝えられるのに対しての危険も感じているのでしょう。そんな報道の中で、事実を伝えるというだけでなく、さまざまな人の意見や考えが掲載されることもあります。それが、違う分野の人や、違う論点でもずいぶんと参考になることが多くあります。3,4月の新聞から、印象に残った記事を見直してみてください。その部分を抜き出してみると、意外に参考になります。「結婚は他人と共生する高い能力を必要とします。でもピュアな自分らしさや自己実現を追いかけ、自分のペースで生きたい人は他者を生活圏に受け入れにくい。そう、子どもと同じですね。」(神戸女学院大教授 内田 樹氏)彼は、都会的な消費生活の中で他者と共生する能力を失っていったと指摘しています。それが原因で、結婚できない人が増えているのではないかといっています。そして、結婚とは「横にいつもいて、相手の話をうなずいて聞く。そして相手が自分を発見していくプロセスをリアルタイムで見守る証人になる。そういう共同作業なんです。」と語っています。この他者を受け入れるという、他と共生するという能力は、結婚という形態をとるときだけでなく、園の保護者を見ると、欠けている人が増えている気がします。自分の価値観だけから物事を見ようとする人が多い気がします。違う記事で、東京大学助教授の本田由紀さんはこう言っています。「教師や親たちは、自分たちの古い経験に基づく、「こうしておけば大丈夫なはずだ」という考えに、あなたを合わせようとするでしょう。」あなたのためだからと思わされて、疑問を持つことも許されず、言うとおりにしてきた結果、「いざ学校を離れる段階になったとき、突然「お前は何がやりたいのだ」という問いが、ぎりぎりと投げかけられるでしょう。それまでの「言うことに従え」というメッセージが、一転して「自分で決めろ」に変わるのです。そしてあなたが戸惑ってしまったら、「お前には人間力が欠けている」という非難が浴びせられます。失敗は、あなたの「意欲」や「コミュニケーション能力」が足りなかったせいにされるのです。」小さいうちから、自分の考えを言うことを制止され、伝える前に叶い、すべて与えられて育てられた結果、そういう力が育っていないのは、決して若者のせいではなく、育てられ方の結果です。快と不快のブログを思い起こさせる記事ですね。

早矢仕

 今日の給食は、定番のカレーでした。最近、町の中を歩くと、カレーの店が目に付きます。もしかしたら、私が歩く商店街では、ラーメン屋より多いかもしれません。もちろん、日本人が好きなメニューですが、新宿のあたりは、インド大使館も近いために、本格的インド料理も多いようです。私の子どものころに住んでいた下町では、カレーをよく出前でとりました。重ねると、カレーがつぶれてしまうので、皿の周りに丸い枠をはめて重ねます。今でも、そういう出前はあるのでしょうか。また、私の家で頼んでいたのは洋風レストランですが、一般的にカレーと言えば、日本ソバ屋さんのメニューでした。今でも、日本ソバ屋でカレーのメニューや、カレーうどんがありますね。カレーのレトルトについては、以前にブログで書きましたが、カレー専門店も、青春とともに思い出があります。私の思い出は、やはり昭和48年に展開され始めた、エスビー食品株式会社100%出資の「カレーの王様」です。現在のメニューは、「ポークカレー」「ビーフカレー」のほかに売り上げナンバーワンの「ほうれん草カレー」などがありますが、私の思い出は、「ミートボールカレー」です。今は、そんなメニューはないようです。また、最近よく見る店は、昭和53年に名古屋市に1号店をオープンした「CoCo壱番屋」です。この店舗は、ハワイ、上海、台湾などにもあるようです。この会社が最近急成長しているのは、きちんとした企業理念があるからかもしれません。「壱番屋の企業マインドを形づくっているのは、3つの要素です。「社是」「ミッション」「経営目的」。言葉で表現するといかめしい感じがしますが、いっぽんの樹を想像してみてください。しっかりと大地に張り巡らされ、全体を支えている“根”が「社是」になります。私たちが行動するすべての源になる規範です。ぐんぐん成長していく“幹”は「ミッション」。日々これを実践し、より大きく確かなものをめざします。そして、天空に向けて青々と豊かな葉を茂らす“枝”が「経営目的」。到達を願ってやまないゴールです。壱番屋は、みなさんに心地よく感じてもらえる、いっぽんの樹でありたいと思います。」この理念の作り方は、どんな世界でも参考になりますね。そういえば、今年の3月に閉館になった「横濱カレーミュージアム」という博物館がありましたね。全国のカレー有名店と、レトルトカレー博物館がありました。その博物館には、さまざまなカレー店がありましたが、カレーは、誰にでも馴染みがあるので、その味はかなり好みがあるようです。今日の給食のカレーは、開園して初めての調理の味付けのためか、「ちょっと?」と思った人が多かったようです。かなり微妙ですが、慣れ親しんだ味と違うと、「あれっ?」と思うようです。ところで、話は変わりますが、「早矢仕有的」という人の名前は、どう読むかわかりますか?そのとおりに読めばいいのですが、「はやし ゆうてき」と言います。かれは、洋書などの販売で有名な「丸善」の創業者です。丸善は、明治2年福沢諭吉の門下生であった早矢仕が福沢の勧めで商社として創業したのが始まりです。横浜で創業した丸善は、翌年日本橋に移りますが、その日本橋店が、今年3月にリニュアルオープンをしました。その前に東京駅のオアゾの中に2004年秋にオープンした本店に行ったときに念願叶って食べてみたのが、「ハヤシライス」です。そうです。ハヤシライスの生みの親は、早矢仕氏です。ですから、「ハヤシ」なのです。子どものころに、カレーライス同様、ハヤシライスに凝ったことがありましたが、最近は、あまり食べなくなりましたね。

快と不快

 これからの時代に必要とされる力のひとつにコミュニケーション能力があります。それなのに、最近の若者に足りない力と言われています。たとえば、英語が話せるようになっても、コミュニケーション力がなければ、外国の人と会話はできません。それは、語彙の豊富さではなく、話そうという意欲と、自分の考えを伝える能力です。それが、最近欠けてきていると言われる原因のひとつに、「少子化」があると思います。赤ちゃんが生まれて、最初にコミュニケーションをとろうとする相手は、当然、養育者です。赤ちゃんは、まだ、自分で生きていく力がないために、代わりに自分の思いをかなえてくれる養育者に、気持ちを伝えようとするのです。人は、生まれてすぐの情緒は「興奮」しかありません。興奮から泣くことによって、息を大きく吸い込んだりします。そのうちに「快」と「不快」に情緒が分化します。そうなると、同じ泣くにしても泣き声が変わってきます。快のときと、不快のときとでは泣き声が変わるのです。特に、不快のときは、何とかその状況から脱しようとしますが、自分の力では無理なので、周りの人に頼む手段が「泣く」という行為なのです。「お腹がすいた」「どこかが痛い」「暑い」「気持ち悪い」などの不快を訴えているのです。それを周りが、気がつかないと、より大きな声で鳴きます。この行為は、いわば、コミュニケーションをとろうとする初めと言っていいかもしれません。その泣くという行為を、最近の親はかわいそうと思ってしまうのです。もちろん、不快の状況はかわいそうですので、早く快の状況にしてあげるべきでしょうが、だからといって、不快な状況を体験させない(オムツがぬれても気持ち悪さを感じないようなオムツを使う)とか、泣く前に解消してしまう(時間を決めてミルクを与えてしまう)ということは、情緒の分化を遅らせ、コミュニケーション能力が育たないことになってしまうのです。これは、何も赤ちゃんにだけに言えることではないようです。ウォーキングの小冊子に、東京学芸大の教授「池田克紀」氏がこんなことを書いています。「文明人は、自分を取り巻いている自然、自分を養っている生きた自然を荒廃させ、自らを生態学的に崩壊させる恐れがある。地球温暖化など地球環境の荒廃がすでに始まっている。さらに、快を求め、不快を避ける本能的な衝動であまりにも成功しすぎるのは決して良いことではない。不快をもたらすあらゆる刺激を避ければ、危険でしかもおそらくしばしば文化の衰退に通じる虚弱化が引き起こされるからである。」それは、どういうことかというと、「現代人は不快を解発するあらゆる刺激に敏感に、快を解発する刺激にますます鈍感になる方向にある。そしてその結果、後にならなければ快を得られそうもない仕事に励めなくなってきた。虚弱化と感性の衰退である。」と言うことのようです。今の若者が、今の快を求めすぎるあまりに、将来の快が得られなくなってしまうことが多いようです。将来の快のために、今の不快に耐えるということをしなくなってきているのです。また、こう言っています。「人間は豊かさや快適を求める知的な動物ゆえ、またそれを手に入れたことが理由で、豊かさや快適さを手放せない。真の豊かさや快適さを科学、工業や経済の発達に置き換えてはいないだろうか。巨額の富を築くことに豊かさを求めていないであろうか。正のフィードバックに慣れた人類は、豊かさの先に爆発的に増大する豊かさを求める飽くなき欲望を止められず、人類の滅亡そのものを迎えるかもしれない。」子どものことをかわいそうと思って、不快の状況をただ避けるということが人類の存続にもかかっているかもしれないと思うと、今こそ、幼児教育を本気で考えなければならないときかもしれませんね。

山吹

 園の前の通りをはさんで向かい側に落合第4小学校があります。この小学校の校歌の1番の歌詞は、「みのをからんというひとに はなをささげて ふみのみち はげましたりし えにしのち わがまなびやは たちにけり われらのこころ みがかんと」日本語は、難しいですね。音だけだとどういう意味か良くわかりません。これが、漢字かな混じり文で書いてあると良くわかるのですが。たぶん、こうなると思います。「蓑を借らんという人に、花を捧げて 文の道 励ましたりし 縁の地 我が学び舎は、建ちにけり われらの心 磨かんと」私なりに解釈すると、「急に雨が降ってきたので、蓑を借りようと思って訪ねた人に、歌を添えて花を差し出されたことをきっかけに、歌の道に精進をしたといわれている地に、私たちの学校は建てられています。私たちもそれに習って、心を磨かなければなりません。」というような意味かと思います。その校歌に歌われている逸話は、有名ですね。それは、こういうことです。「江戸城を築城した太田道灌は、ある日の事、道灌は鷹狩りにでかけて俄雨にあってしまい、みすぼらしい家にかけこみました。道灌が「急な雨にあってしまった。蓑を貸してもらえぬか。」と声をかけると、思いもよらず年端もいかぬ少女が出てきました。そしてその少女が黙ってさしだしたのは、蓑ではなく山吹の花一輪でした。花の意味がわからぬ道灌は「花が欲しいのではない。」と怒り、雨の中を帰って行ったのです。その夜、道灌がこのことを語ると、近臣の一人が進み出て、「後拾遺集に醍醐天皇の皇子・中務卿兼明親王が詠まれたものに【七重八重花は咲けども山吹の(実)みのひとつだになきぞかなしき】という歌があります。その娘は蓑ひとつなき貧しさを山吹に例えたのではないでしょうか。」といいました。驚いた道灌は己の不明を恥じ、この日を境にして歌道に精進するようになったといいます。」実は、この太田道灌が鷹狩の際に俄雨にあったときの山吹伝説は、埼玉県越生の他、東京都豊島区高田、東京都荒川区町屋、神奈川県横浜市六浦などの伝承地がありますが、そのうちのひとつに、新宿のこのあたりがあります。都内ではもう数少なくなった路面電車のうちの一つ都電荒川線が走っているのですが、その荒川線の駅の終点「早稲田駅」から一つ目の駅が「面影橋」です。その駅のすぐ近くに「山吹の里」の碑が建っています。
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この場所から、もっと東のほうに行ったところに新宿区山吹町があり、そこからこの辺りまでの一帯を通称「山吹の里」といったそうですが、それもやはりこの伝説にちなんだもので、近くには「山吹の里公園」もあります。「山吹の里」の碑の目の前にある川は神田川で、そこにかかっている橋が「面影橋(俤橋)」です。面影橋は別名「姿見の橋」ともいいます。この橋の名前の由来にも、様々な説があります。在原業平が、鏡のような川面に姿を映したからという説や、鷹狩りの鷹をこの辺りで見つけた徳川家光が名づけたとか、なかでも一番有名なのは、近くに住んでいた和田靭負の娘・於戸姫が、自分の美しさゆえに周りの男たちが争うのを嘆き、この橋から身を投げたという説です。山吹は、そろそろ花の盛りを迎えます。山の中に生え、花の色が蕗(ふき)に似て、金色で美しいことからこの名前になったといわれています。そして、しなやかな枝が風にゆれる様子から「山振」の字があてられ、じきに「山吹」になったともいわれています。その鮮やかな色から日本古来の色として「やまぶきいろ」と呼ばれる鮮やかな黄色があります。「山吹の色に酔うてもコップ酒」という歌もありましたね。

数 その2

 「東洋経済」に掲載されている畑村式の法則の第3は、「何でもパソコンで計算する」から「自分のアタマで計算する!」に発想を変えることです。「自分でまったく作業をせずに、出来上がった成果だけを聞いても覚えられないし身に付かない。物事を数量的にとらえるならば、安易にエクセルなどに頼らず、自分の頭と手を使って実際に計算をやってみるべきだ。」と提案をしています。先日、NHKのプロフェッショナルで、建築家隈研吾氏が、同じようなことを語っていました。パソコンなど使わないそうです。自分の中に「数」のモノサシを持つ必要がある。自分の身体感覚をベースのした「数感覚」を作ることだといいます。これは、数感覚だけではなく、いろいろなことにも言える気がします。物事を判断するときに、数値や情報などに振り回されることなく、自分の中に判断基準を持つことが必要です。「自分のアタマで判断する」ということでしょうか。法則第4は、「数は合計が大事」ということから「何でも一人当たりで見る!」と発想を変えることを提案します。この本に紹介されている事例はとても面白いです。「会社四季報」によると、ここには、トータルな数字が載っていますが、一人当たりの経常利益で比較すると、トヨタはソニーの4倍の稼ぎがあり、ヤフーはトヨタよりも5倍近く多くなります。逆に、平均年収では高い順にソニー、トヨタ、ヤフーとなります。一人当たりの数字に置き直すことで、全社ベースの数字だけではわからない、企業の違った側面が見えてくるといいます。これも、いろいろなところでも言えることです。よく、「みんなが思っている」と言うことがありますが、みんながどうということではなく、それぞれがどう思っているかが大切であり、そうしてみると、違った側面が見えてきます。最近、アンケートをとるにしても、多くのサンプルをとって集計するよりも、一人ひとりから事情を聞いたほうが参考になることが多いようです。最後の第5の法則は、「数は量で見る」ことから「数の質も見る」ということの大切さを提案します。畑村氏は、急激な数の変化が起きたときに「量的変化が質的変化をもたらしているのではないか」と意識することが重要だと指摘しています。真の経営者とは「数字の変化を表出させている条件はこれまでと同じなのか、それとも同じでないのか」をいつも徹底的に吟味できる人たちであるといいます。少子化をあらわす合計特殊出生率の数字にしても、量の変化だけを捉えるのではなく質の変化をきちんと見ていかなければなりません。単一のデータの変化だけを見ている人は、全体像が捉えられない。目先の数に一喜一憂していると、もっと大きな構造的変化を見落とす可能性があるのだといいます。こうした能力が傑出した経営者を例に出し、「彼らは、物事を数量的にとらえる力が圧倒的に強く、しかも数を静止したものとは見ていない。これまでの延長上に未来があるわけではないということを理解している。」と言っています。量的な変化ばかりを見て、数の後ろで起きている大きな質的変化を見逃した企業は競争から脱落してしまいます。「今までこれで来たのだから、これから先も同じだろうと考えたくなる。会社の経営がダメになるのは、こうした考え方を始めるときです。」という言葉は、どの世界でも当てはまることのような気がします。数字は、説得力がある反面、大切なものを見失わせる力があります。法則4,5は、そんなことをいっている気がします。

ファジー

 昨日のブログの法則2の内容「倍、半分は、誤差のうち」ということを考えてみました。というのは、最近の園の保護者を見ると、その言葉を実感として感じることが多いからです。何度か紹介しましたが、私が若いころに地域の園長仲間で毎年テーマを決めて「乳幼児の世界展」を開催していました。ある年のテーマが、「ファジー育児のすすめ」というのがありました。そのころ、ファジーという言葉がはやっていました。それは、ファジーやニューロを使った掃除機やエアコンなどの電気製品が、 一時ブームになったからでした。 しかし、「ファジーとは何か」「ニューロとは何か」と聞かれると、なかなかきちんと説明はできません。そこで、もう一度、そのファジー理論について考えてみます。まず、ファジー理論の特徴は、人間の情報処理で重要な意味を持つ「曖昧さ」を取り扱っているということです。なんだか学問的に言うと難しくなりますが、従来科学との違いを比較するとわかりやすくなります。基本的立場として従来は「必ず客観的である」ものが、「主観的でも良い」ということになります。すなわち「完全で正確」でなければならないものが「あいまいでも良い」という、なんともありがたい話です。理論的には、「数学的・理論的に厳密に扱わなければならない」ものを「必ずしも理論的には厳密でなくでもよい」ということになります。そのかわり、従来からの「経験」や「勘」が必要になってくるのです。私たちは、そのころ「育児」にもっとこのファジー理論を活用するべきだと考えたのです。体温計で熱を測るよりも、抱っこして、「なんだか熱っぽい」を大切にする必要があると思ったのです。最近、親は、目の前の子どもの細かい部分ばかりを気にして、特にデータとか、数値を見て、子どもの全体像を見ようとしないような気がします。数字の1や2の違いを気にして、一桁違うのに気がつかないということがあるのです。厳密にとか、正確にということにこだわりすぎて、相手のことを思いやったり、共感したりすることが後回しになることがあるのです。また、子どもに対しても、そんなことは将来には関係ないことでも、強く怒ったり、ムキになったりすることがあります。これは、「木を見て山を見ず」という言葉がありますが、子どもの育ちは、山を見ていかなければなりません。老子にこんな言葉があります。「小を見るを明といい 柔を守るを強という 其の光をもって 其の明に復帰せば 身の殃(わざわい)を残すこと無し 是を常の習いと為す」(その諸々の事象をありのままに見ることを明といい、柔軟である事を強という。その光のはたらきをもって、再び物事をありのままに見て知るところに戻れば、後々に身のわざわいをのこすような事もない。これを常の習いとする。)外国では、子育てで「タイムアウト」ということがあります。どんどん細かいところを見ていくと、その本質、真の姿を見失うことがあるので、一度ちょっと間をおいたり、離れてみたりして考えてみようというものです。もう一度、考えてみるとたいしたことでないことを気にして、本当に大切なことを見逃していたことに気がつくことがあります。もっと、気を楽にして、肩の力を抜いて、子育てをした方が結局は子どもとっても良い結果を生むことが多いと思うのですが、どうしても目の前のことが気になるようです。

 今、ちょっとした「数学ブーム」です。これは、映画にもなって話題になった、小川洋子の小説「博士の愛した数式」が影響しているかもしれません。4月2日(月)から毎週月曜にNHK教育で「マテマティカ2」という新番組が始まりました。この番組案内は、「図工のような感覚で楽しみながら学ぶ算数教育番組。割り算の概念や、面積・体積の計算など、抽象的でわかりにくいと思われがちな内容を、アニメーションや現実の生活の実写映像を通じて、明快に解き明かす。」というもので、対象は、算数でつまずきやすい小学校4年生から6年生です。カリキュラムを細分化することなく、算数の根底に一貫して流れる数学的な考え方に焦点をあてていますが、畑村洋太郎東京大学名誉教授のベストセラー「直観でわかる数学」の考え方を取り入れ、ものを考える上で最も大切な「直観力」を育てることを目指しています。この畑村式発想法が、今週の「東洋経済」で「畑村式 数の極意&超学習法」という特集が組まれています。最近の企業では、欲しい人材として「地アタマのよさ」を挙げることも珍しくなくなったようです。この「地アタマ」という言葉は、ビジネスの世界ではいつの間にか定着しつつあるようです。本来のアタマのよさ、とか、偏差値では測れない現場での応用が利く知力といった意味で使われることが多いようです。また、「地アタマ」は、問題解決型で、汎用性が高く、論理の構成力があり、反応が早いなどが言われています。畑村氏は、その「地アタマ」を磨く発想法を提案しています。それは、「常識に縛られずに本質を捉えている」といった意味では、異業種でも1流の人物は同じことを言っています。たとえば、「君は階段を何段上ってきた?」と聞かれたとき、1、数えてこなかったので、わかりませんと正直に答える。2、今から調べてきますと言って部屋の外に出ようとする。3、後から数えて返事をしますと答える。4、とりあえず、あてずっぽうで答えてみる。の答えはどれも不合格だそうです。日立製作所に入社した畑村氏は、「今、自分がいる部屋の天井までおおよそ3メートルほどあり、階段1段あたりの段差は20センチとすれば、階段は15段。」ということで、「大体15段です。」と答え、合格をもらったといわれています。必要なのは、法則1、「その場で、必要な数を自分でつくることができるかどうか」であるとしています。「自分では作業をせずに、出来上がった成果だけを聞いて覚えろと言われても人は覚えられないし、まったく身に付かない。ところが、自分で数を作るという動作をすれば、それが自分のものになるんです。」ということのようです。法則2として提案しているのは、「倍・半分の誤差は許される!」というものです。数字に弱い人ほど、「数字は正確でなくてはならない」という思い込みが強く、「数アレルギー」の原因のひとつになっているといいます。この法則は、そんな固定概念を瞬時に粉砕します。「数字を扱ううえでは正確でなければいけないと徹底的に教えられるから、数が大嫌いになってしまう。もっとアバウトでいい」そうです。倍は誤差の許される範囲といわれても「えっ?」と思ってしまいます。それは、こういうことのようです。「1トンだといわれた荷物が実際には2トンだったとしても、現場ではどうにかなってしまう。だけど10トンだったら、それは無理」というように、細かい数字に気をとられてケタが違うような大きなミスをしないということです。つまり、ケタ違いで大やけどをしないための心得でもあるのです。文系には、目からうろこといわれている所以です。