ファジー

 昨日のブログの法則2の内容「倍、半分は、誤差のうち」ということを考えてみました。というのは、最近の園の保護者を見ると、その言葉を実感として感じることが多いからです。何度か紹介しましたが、私が若いころに地域の園長仲間で毎年テーマを決めて「乳幼児の世界展」を開催していました。ある年のテーマが、「ファジー育児のすすめ」というのがありました。そのころ、ファジーという言葉がはやっていました。それは、ファジーやニューロを使った掃除機やエアコンなどの電気製品が、 一時ブームになったからでした。 しかし、「ファジーとは何か」「ニューロとは何か」と聞かれると、なかなかきちんと説明はできません。そこで、もう一度、そのファジー理論について考えてみます。まず、ファジー理論の特徴は、人間の情報処理で重要な意味を持つ「曖昧さ」を取り扱っているということです。なんだか学問的に言うと難しくなりますが、従来科学との違いを比較するとわかりやすくなります。基本的立場として従来は「必ず客観的である」ものが、「主観的でも良い」ということになります。すなわち「完全で正確」でなければならないものが「あいまいでも良い」という、なんともありがたい話です。理論的には、「数学的・理論的に厳密に扱わなければならない」ものを「必ずしも理論的には厳密でなくでもよい」ということになります。そのかわり、従来からの「経験」や「勘」が必要になってくるのです。私たちは、そのころ「育児」にもっとこのファジー理論を活用するべきだと考えたのです。体温計で熱を測るよりも、抱っこして、「なんだか熱っぽい」を大切にする必要があると思ったのです。最近、親は、目の前の子どもの細かい部分ばかりを気にして、特にデータとか、数値を見て、子どもの全体像を見ようとしないような気がします。数字の1や2の違いを気にして、一桁違うのに気がつかないということがあるのです。厳密にとか、正確にということにこだわりすぎて、相手のことを思いやったり、共感したりすることが後回しになることがあるのです。また、子どもに対しても、そんなことは将来には関係ないことでも、強く怒ったり、ムキになったりすることがあります。これは、「木を見て山を見ず」という言葉がありますが、子どもの育ちは、山を見ていかなければなりません。老子にこんな言葉があります。「小を見るを明といい 柔を守るを強という 其の光をもって 其の明に復帰せば 身の殃(わざわい)を残すこと無し 是を常の習いと為す」(その諸々の事象をありのままに見ることを明といい、柔軟である事を強という。その光のはたらきをもって、再び物事をありのままに見て知るところに戻れば、後々に身のわざわいをのこすような事もない。これを常の習いとする。)外国では、子育てで「タイムアウト」ということがあります。どんどん細かいところを見ていくと、その本質、真の姿を見失うことがあるので、一度ちょっと間をおいたり、離れてみたりして考えてみようというものです。もう一度、考えてみるとたいしたことでないことを気にして、本当に大切なことを見逃していたことに気がつくことがあります。もっと、気を楽にして、肩の力を抜いて、子育てをした方が結局は子どもとっても良い結果を生むことが多いと思うのですが、どうしても目の前のことが気になるようです。