花ざかりの森

 ブログに書いたもうひとつの作品、三島由紀夫の「花ざかりの森」について書いてみようと思います。この作品は、私のブログではとても意味があります。私のブログに登場した「三島由紀夫」は、2005年12月16日です。そのときに取り上げた作品は、「豊饒の海」の中の「春の雪」でした。三島は、昭和16年「花ざかりの森」が「文芸文化」に連載されてから、昭和40年代に「豊饒の海」四部作(昭和40?45年)まで、さまざまな作品を発表しつつ、劇的な人生を送るのです。
 昭和16年5月、学習院中等科五年生の平岡公威(16歳)は、国語教師の清水文雄に「花ざかりの森」の原稿を見せます。感銘を受けた清水は、自分も同人であった雑誌『文芸文化』の編集会議にかけ、全員の賛同を得て、「三島由紀夫」のペンネームで、同年9月号から4回にわたって連載しました。私がこの作品とであったのは、昭和46年に講談社から刊行された「三島由紀夫短編全集」です。その中で私が特に読みたかったのは、やはり初期の短編である「煙草」でした。この作品は、三島が、昭和21年、鎌倉に在住している川端康成の元を尋ね、「中世」「煙草」を渡したところ、「鎌倉文庫」の幹部であった川端は、雑誌「人間」に「煙草」の掲載を推薦し、これが文壇への足がかりとなった作品です。もうひとつ、この全集を購入した理由は、豊饒の海のときの動機に似ているところがあります。それは、本の装丁が、非常に「三島」のイメージに合っていたからです。豊饒の海シリーズは、表紙が絹の布でしたが、こちらの本は、銀で覆われています。
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 そのなかで、「花ざかりの森」はブログにも書いたとおり、特に桜の花には関係がありませんが、私には、満開の桜のイメージがあります。まず、書き出しである「序の巻」の前にはこう書かれています。「かの女は森の花ざかりに死んで行つた かの女は余所にもつと青い森のある事を知っていた シヤルル・クロス散人」三島は、「序の巻」でこういっています。「この土地へきてからといふもの、わたしの気持には隠遁ともなづけたいような、そんな、ふしぎに老いづいた心がほのみえてきた。もともとこの土地はわたし自身とも、またわたしの血すじのうえにも、なんのゆかりもない土地にすぎないのに、いつかはわたし自身、そうしてわたし以後の血すじに、なにか深い連関をもたぬものでもあるまい。」この書き出しは、16歳の高校生が書いたと思われないほど成熟しています。しかし、逆に、花ざかりの年齢ゆえに、追憶に対して盛りを過ぎたものとして捕らえています。「いくたびもわたしは、追憶などはつまらぬものだとおもいかえしていた。それはほんの一、二年まえまでのことである。わたしはある偏見からこんなふうに考へていた。追憶はありし日の生活のぬけがらにすぎぬではないか、よしそれが未来への果実のやくめをする場合があったにせよ、それはもう現在をうしなったおとろえた人のためのものではないか、なぞと。熱病のような若さは、ああした考えに、むやみと肯定をみいだしたりしがちである。」しかし、この花盛りを終え、現在をその中から見出したときに、こう思えてくるのです。「追憶は「現在」のもっとも清純な証なのだ。愛だとかそれから献身だとか、そんな現実におくためにはあまりに清純すぎるような感情は、追憶なしにそれを占ったり、それに正しい意味を索めたりすることはできはしないのだ。」三島の最後が予感されますね。