満開の桜 その2

 満開の桜の花を死に結びつけるという観念は、昔からあったようですが、明治以降、特に昭和の前半までは強かったようです。それは言うまでもなく、桜が幕末の頃から武と結び付けられたからでしょう。咲くときはパッと咲き、満開になったと思ったら、その盛りの時期も短く、あっという間に潔く散ってしまう桜の花びら。そこに武に必要な潔さを読み取ってきたからです。「同期の桜」という歌も、「咲いた花なら、散るのは覚悟。見事散りましょう。」という歌詞を見ると解ります。また、この歌のように、明治以降は、学校の庭などに桜の木を植えていくようになったために、同窓生のことを「同期の桜」などというのです。それはつまりは日本人に桜の美(開花の美より散る美学)と共に桜の観念を植え付ける狙いがあったようです。それは、特攻隊のシンボルとしての桜のイメージを活用し、「桜花」という名の人間爆弾でもあった特攻機もあったくらいです
 満開の桜からは、死のイメージだけでなく、さまざまな人間の心を映し出すものを感じていたようで、そんな小説が多く描かれました。昨日のブログで書いた坂口安吾「桜の森の満開の下」の最初のほうに「山賊はずいぶんむごたらしい男で、街道へでて情容赦なく着物をはぎ人の命も断ちましたが、こんな男でも桜の森の花の下へくるとやっぱり怖しくなって気が変になりました。そこで山賊はそれ以来花がきらいで、花というものは怖しいものだな、なんだか厭なものだ、そういう風に腹の中では呟いていました。花の下では風がないのにゴウゴウ風が鳴っているような気がしました。そのくせ風がちっともなく、一つも物音がありません。自分の姿と足音ばかりで、それがひっそり冷めたいそして動かない風の中につつまれていました。花びらがぽそぽそ散るように魂が散っていのちがだんだん衰えて行くように思われます。それで目をつぶって何か叫んで逃げたくなりますが、目をつぶると桜の木にぶつかるので目をつぶるわけにも行きませんから、一そう気違いになるのでした。」確かに、桜の花の下は、多くの人が騒ぎ、ぞろぞろ歩いていると華やかですが、頭上には満開の桜がある下に、ひっそりと一人でたたずんでいると、無限の虚空が満ち溢れる気がします。そこに、ひらひらと花びらが散ってきて肩にかかると、その孤独感は増長されます。本書では、ある山賊と、彼がさらってきた美しい女の話ですが、この女は都の住人で、つれてこられた山奥の家に着くなり、以前にこの男にさらわれてきた女たちをことごとく殺せと命じます。女が都を恋しがるために、山賊は都で暮すようにしたところ、やがて女は“首遊び”を始めます。姫の首、公卿の首、坊主の首。首と首は愛しあい、悲しみ、怒り、泣き、女はそれを楽しむのです。山賊は、何か変だと思いながらも、その女のもつ狂気になかなか目を向けようとはしません。それは、その女のあまりの美しさにすっかり魅了されてしまっているからです。これをこう感じています。「桜の森の満開の下です。あの下を通るときに似ていました。どこが、何が、どんな風に似ているのだか分かりません。けれども、何か、似ていることは、たしかでした。」桜の下にある、その美しく、しかし狂気を含んでいるものは、あるいは「孤独」というものであったかも知れません。冷たい虚空がはりつめ、人を狂わせてしまう「桜の森の満開の下」には、安吾のいう「生存それ自体が含んでいる絶対の孤独」があるといいたかったのかもしれません。