日赤と佐野

 JR飯田橋駅を降りて目白通りを九段の方角へ歩いていくと、歴史のプロムナードと名づけられたこの道の所々に「歴史の標柱」が何本もあります。それを見ながら歩くと、かなりブログネタが集まります。その中のひとつを紹介します。それは、「日本赤十字社跡」という標柱です。
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この標柱は、最近のブログに関係がありますが、1894年に芝に移るまで、この地に日本赤十字社があったことを示すものです。1877年の西南戦争のとき、佐野常民が博愛社を結成して、敵味方の別なく傷兵の手当をしたのが、我が国における日本赤十字活動の始まりといわれています。その後、1886年、博愛社という病院が現在の飯田橋駅附近に建てられ、国際赤十字条約に加盟したのを機に日本赤十字社と名称を改めたのです。このとき、博愛社を結成した「佐野常民」は、日本赤十字社の初代社長になりますが、佐賀の弘道館出身なのです。佐賀に行った時に、時間がなくて見ることはできませんでしたが、見ようと思った施設に「佐野常民記念館」があったのです。佐野常民は文政5年(1822年)、肥前国佐賀郡早津江村(現・川副町)に生まれます。医学を修め、成績優秀だったため、佐賀藩主鍋島直正の信頼を得て、日本で第一級の蘭学者、化学者、医者について各一年ずつ学んでいます。その間に大村益次郎など維新に活躍した多くの人と知り合います。多分、その影響もあったのでしょう、常民は単なる医者にとどまることができず、勤皇運動に傾倒していきますが、それが藩の知るところとなり、急遽、長崎に転学を命じられます。そこで、幕府の海軍伝習所に入り、航海・造艦・射砲術などを学びます。ここで得た知識をもとに、佐賀藩に帰ると汽車、蒸気船の模型などを完成させ、各国で開催された万国博覧会に佐賀藩から参加します。そして、ウィーンの万国博覧会に参加した際、敵味方の区別なく戦場で負傷した将兵を看護する赤十字社があることを知り、元老議員に呼びかけ、岩倉右大臣に嘆願書を提出します。しかし、博愛社の規則第4条にある「敵人ノ傷者ト雖モ救ヒ得ヘキ者ハ之ヲ収ムへシ」とする規定、つまり「敵の傷者も差別なく救う」という博愛社設立の趣旨は、当時の政府には受け入れられませんでした。常民はひるまず、京都の天皇仮御所にも行きますが、要領を得られず、九州で征討軍総監有栖川宮熾仁親王に趣意書を出し、その日即決でやっと許されます。この日、5月1日が博愛社、のちの日本赤十字社創立記念日です。そして、1886年に日本政府がジュネーブ条約に加入したことに伴って、翌1887年に名称を日本赤十字社と改称し、現在の形となり、初代の社長に就任しました。最初、この博愛社の活動は、当時、敵の負傷者まで助けるという考えが理解できなかった人々を驚かせ、人道・博愛という精神文化の基礎をわが国に植え付けたのです。
 佐野は、9歳のときに佐賀藩の「弘道館」に通います。資料によると、ここでの生活で、難しいことに挑戦する喜びと、知らなかったことをこつこつ覚える楽しみを知り、勉強の面白さを感じています。もちろん、もともと頭がよく、勉強はできるほうだったのかもしれませんが、このように勉強と相対しているなら、未履修問題は、違う問題になっていたに違いありません。「学んで損をした」という感想は、なんとも情けない話です。「学ばなくて損をした」「知らなくて損をした」という感想は、学ぶ楽しさや、知る喜びがあってこそ出てくる感想でしょう。

日赤と佐野” への4件のコメント

  1. うる覚えの知識がたくさんあります。今日のブログで紹介された佐野常民氏のこともその一つです。切手を集めていると切手図案に登場するたくさんの人物に出会います。しかし、時々その人が何をしたのか、忘れたり、時には間違えて覚えていたりすることがあります。お名前に「民」の字があるので、勝手に民俗学者と思い込んでしまうから恐ろしい話です。佐野常民氏は初代日赤社長。しっかり覚えておきたいと思います。佐賀県の弘道館出身者、ということも覚えておきます。佐賀県からもいろいろな偉人賢人が出ているのですね。ブログを読んでさまざまなことを学べて今日も得した気分です。「学んで損した」・・・このような言を耳にすると「怒髪天をつく」の心境に至ります。一言、アホか、と言いたくなります。

  2. 勉強の意味を考えると、テストでいい点を取ったり単位をとったりするためだけの勉強ではもったいないです。今回紹介されているような「勉強のおもしろさ」を感じながら学ぶことを大切にしてくれる授業が多くなれば、子どもたちの意欲も変わってくると思います。
    日本赤十字社の社長も出してしまう佐賀県。佐賀県から本当に多くのすごい人が出ていますね。あらためて教育の大切さを感じました。

  3. 藩によって長崎に転学を命じられるという佐野さんにとっては不本意なことだったのかなと思うのですが、そこから航海などの技術を学び、万博博覧会で赤十字社の存在を知り、その後に繋がっていくという話はどんな状況でも学びや学びのきっかけがあるということを感じます。また、それは状況というよりも本人の思い次第でもあるのかもしれません。どんな経験も、自分の学びにできたり、そこから何かを気づき、深めていけるような気持ちを持っていたいなと読んでいて感じました。このような歴史を巡るお散歩が今後、ブラヘイジに繋がっていくのでしょうか。そんなことも思ってみたりしました。

  4. 「学ばなくて損をした」「知らなくて損をした」といった考え方が、次への原動力を担っているようにも感じます。また、「難しいことに挑戦する喜び」や「知らなかったことをこつこつ覚える楽しみ」を知ることが、将来の佐野常民氏のような「理解できなかった人々」に対して新しい価値観を与える事につながるのですね。「敵の傷者も差別なく救う」ということは、よくよく考えてみると難しい視点ですね。自分の家族に危害を与えた人であっても、必ず救うといった覚悟がなければいけません。しかし、これによって救われる命が増えることは間違いないと思います。その人にも、きっと家族や大切な人がいるはずです。

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