佐賀藩

 教育の意義は、将来どんな人材を輩出することになるのかにかかってきますが、そのよい人材というのがなかなか難しいですね。いわゆる「逸材」というものです。というと、抜きんでてすぐれた才能をもっている人ということになってしまいます。抜きんでないといけないとなると、どうでしょう。もちろん、たとえば農家の人でも、その道で抜きんでている人はいるでしょうし、漁師にしても、大工にしてもいるでしょう。しかし、それらの人は、世の中ではとても大切であるのにもかかわらず、歴史的にはなかなか名が残りません。ですから、歴史的な「逸材」となると、少し意味が違ってくるかもしれませんね。しかし、不思議なことに、この歴史的な逸材を輩出してきた地域はかなり偏っています。それは、気候風土が人を育てるという面はあるかもしれませんが、一番影響するのは、やはり「教育」ではないかという気がします。それが、良くも悪くも大きく影響してきます。たとえば、幕末のころ、中心になっていたのは薩長土というのが、馴染みがありますが、それは薩摩、長州、土佐藩のことです。しかし、本当は、「薩長土肥」と言います。この「肥」というのは、今月訪れた、肥前佐賀藩のことです。私は、あまり幕末の佐賀藩についてはあまりよく知りませんでした。それは、倒幕の時期、薩長土には英雄がいましたが、肥前佐賀藩は二重鎖国をひいていて、志士は居ても藩外には出ず、活躍した人物がいなかったからかもしれません。しかし、今回訪れてみて、佐賀藩は、国内に他とない厳しい教育制度を持ち、優秀な人材を抱えていたのです。彼等は倒幕後、明治政府の整備において活躍しました。
では、佐賀藩では、どんな教育をしていたのでしょう。この地から輩出された人材として、早稲田大学創始者で、日本で初めて政党政治を行った大隈重信は有名ですが、大隈自身、回顧録で弘道館や致遠館での勉強が役に立ち、ありがたかったと言っていたり、副島種臣や江藤新平なども外交問題で活躍しますが、ここにも弘道館で鍛えられたことが基になっていると言えるようです。このように、佐賀藩10代藩主鍋島直正は、諸藩に先んじて西洋文明を取り入れ、弘道館にて多くの人材を育成しました。この「弘道館教育」とはどんな教育だったのでしょうか。この弘道館は、第8代藩主治茂の時にできましたが、弘道館初代教授古賀精里の長男の古賀穀堂が30才という若さで弘道館教授に大抜擢されたときに、弘道館改革の新政策を「済急封事」として建白しています。そして、「学政管見」をつくり、これを基本として教育改革を行いました。これは、江戸時代にできた教育論としては、今も評価が高いものです。主な要点の第1は「国家に有用な人材を取り立て、一統の風俗を正しくして、御政治の根本となるべきこと。」2番目は、「だれでも勉強せねばならぬ。…」さらに「公明選挙」。3番目は、「誰でも学校には入れるようにしないといけない。」4番目は、「いい加減なことを言ってうだうだしてる人は、追放しなければならない。」5番目は、「学館経費を減少してはならない。それどころか3倍にしなければならない。」6番目は、「西洋の学問を振興させ、外国の勉強をして、外国に対する備えとする。」7番目は、「優秀な人材を江戸・上方・他藩へ留学させる。」でした。今の教育再生会議で出されたものと比べてどうでしょうか。私は、特に、5番目が気に入っています。

佐賀藩” への5件のコメント

  1. 「学政管見」のことは知りませんでした。なかなか厳しいことも書かれています。私はうだうだしてることが多いので、きっと追放されてしまうでしょう。
    きちんとした教育を整備していくことが、優れた人材が多く育ってきたことに関係していたんですね。当然のことかもしれませんが、こういった過去の例をみればよくわかります。だとすれば、子どもたちが必要な力を確実につけていくために、教育のことを一部の人に任せるのではなく、できるだけ多くの大人が関わっていくべきではないかと思います。いろんな分野で逸材を出すことができる教育になっていくことを望みます。

  2. ●いつの世にも「いい加減なこと」を言う人はいるんですね●30歳でこのような建白書を書いた人がいたことに驚かされますし、これが採用されたことにも驚きます●次年度の方針など、これからのことを考えているこの時期に、勇気を湧かせていただきました。

  3. 古賀毅堂氏の「学政管見」には頷かされます。私も5番目が気に入りました。どの項目もその通りで思わず快哉と叫びたくなります。今日のブログの「佐賀藩」については詳しくはわかりませんでしたが、幕末明治期の偉人存在が光りますね。「弘道館」と言えば「水戸藩」をすぐに連想しますが、佐賀の同じ「弘道館」もなかなか優れた人材を輩出していることがわかります。私が大学院で学んでいた時の指導教官が佐賀出身の方でした。その先生が東大への入学が決まった時ご祖母さまにその旨報告すると「なにも灯台なんかへ行くことないのに」と言われて大笑いをしたという話を聞かしてもらいました。同じ大学院の学生時代、長崎の帰りに武雄温泉でひと風呂浴びたことも今日のブログで思い出しました。こちらはセンチメンタルジャーニーの1コマです。再び「学政管見」・・・第7番目は私も息子もその心境にて実行に移しているところです。

  4. 佐賀藩、弘道館のことは知りませんでした。「古賀穀堂が30才という若さで…」とありました。吉田松陰も松下村塾で教えていた頃の年齢が若かったこと、そして、若くして亡くなったことを知った時は驚きました(もっと年齢の高い人だと思い込んでいました)。きっとお二人ても国をなんとかしなければいけないという危機感の強さがあったのかもしれませんが、同時に学ぶことが好きで、好奇心の強い人でもあったのかなと想像します。私も気がつくとそんな年齢に近づいてきました。偉大な人たちではありますが、なんだか刺激を受けるようです。弘道館の弘道の意味も知る事ができました。「人々こそが真理の道を高める。真理の道が人々を高めるのではない」という論語からきているとありました。学びたいという人の思いは尊いですね。

  5. なんと、水戸にも「弘道館」という学びの場所があったのですね。帰省する時に、ぜひ訪れてみたいです。その場所には「要石歌碑」というものがあり、そこには「行末(いくすえ)も ふみなたがへそ蜻島(あきつしま) 大和の道ぞ要なりける」と、徳川斉昭の自詠自筆が石に彫られているそうです。「日本古来の人倫の大道は、永久に変らないものであり、日本人はこの道を踏み違いするということがあってはならない」という意味だそうで、人と人の間に置ける秩序などの“人道”を大切にしてきたことが読み取れます。その頃の教育とは、今で言う教科というよりも、人としての学問が主流としてあったという印象が強いです。

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