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2007年03月31日 地域を知る

日赤と佐野

 JR飯田橋駅を降りて目白通りを九段の方角へ歩いていくと、歴史のプロムナードと名づけられたこの道の所々に「歴史の標柱」が何本もあります。それを見ながら歩くと、かなりブログネタが集まります。その中のひとつを紹介します。それは、「日本赤十字社跡」という標柱です。
nisseki.JPG
この標柱は、最近のブログに関係がありますが、1894年に芝に移るまで、この地に日本赤十字社があったことを示すものです。1877年の西南戦争のとき、佐野常民が博愛社を結成して、敵味方の別なく傷兵の手当をしたのが、我が国における日本赤十字活動の始まりといわれています。その後、1886年、博愛社という病院が現在の飯田橋駅附近に建てられ、国際赤十字条約に加盟したのを機に日本赤十字社と名称を改めたのです。このとき、博愛社を結成した「佐野常民」は、日本赤十字社の初代社長になりますが、佐賀の弘道館出身なのです。佐賀に行った時に、時間がなくて見ることはできませんでしたが、見ようと思った施設に「佐野常民記念館」があったのです。佐野常民は文政5年(1822年)、肥前国佐賀郡早津江村(現・川副町)に生まれます。医学を修め、成績優秀だったため、佐賀藩主鍋島直正の信頼を得て、日本で第一級の蘭学者、化学者、医者について各一年ずつ学んでいます。その間に大村益次郎など維新に活躍した多くの人と知り合います。多分、その影響もあったのでしょう、常民は単なる医者にとどまることができず、勤皇運動に傾倒していきますが、それが藩の知るところとなり、急遽、長崎に転学を命じられます。そこで、幕府の海軍伝習所に入り、航海・造艦・射砲術などを学びます。ここで得た知識をもとに、佐賀藩に帰ると汽車、蒸気船の模型などを完成させ、各国で開催された万国博覧会に佐賀藩から参加します。そして、ウィーンの万国博覧会に参加した際、敵味方の区別なく戦場で負傷した将兵を看護する赤十字社があることを知り、元老議員に呼びかけ、岩倉右大臣に嘆願書を提出します。しかし、博愛社の規則第4条にある「敵人ノ傷者ト雖モ救ヒ得ヘキ者ハ之ヲ収ムへシ」とする規定、つまり「敵の傷者も差別なく救う」という博愛社設立の趣旨は、当時の政府には受け入れられませんでした。常民はひるまず、京都の天皇仮御所にも行きますが、要領を得られず、九州で征討軍総監有栖川宮熾仁親王に趣意書を出し、その日即決でやっと許されます。この日、5月1日が博愛社、のちの日本赤十字社創立記念日です。そして、1886年に日本政府がジュネーブ条約に加入したことに伴って、翌1887年に名称を日本赤十字社と改称し、現在の形となり、初代の社長に就任しました。最初、この博愛社の活動は、当時、敵の負傷者まで助けるという考えが理解できなかった人々を驚かせ、人道・博愛という精神文化の基礎をわが国に植え付けたのです。
 佐野は、9歳のときに佐賀藩の「弘道館」に通います。資料によると、ここでの生活で、難しいことに挑戦する喜びと、知らなかったことをこつこつ覚える楽しみを知り、勉強の面白さを感じています。もちろん、もともと頭がよく、勉強はできるほうだったのかもしれませんが、このように勉強と相対しているなら、未履修問題は、違う問題になっていたに違いありません。「学んで損をした」という感想は、なんとも情けない話です。「学ばなくて損をした」「知らなくて損をした」という感想は、学ぶ楽しさや、知る喜びがあってこそ出てくる感想でしょう。

投稿者 fujimori : 21:19 | コメント (2)

2007年03月30日 近頃思うこと

秋葉原

 「通勤」のブログで書きましたが、私は、中学校への通学ルートは、浅草橋駅から秋葉原駅乗換え神田駅まで行っていました。ですから、秋葉原という場所はとてもなじみのある場所です。しかし、この駅ほど、昔のイメージと変わってしまったところはないくらいです。私が小中学生だったころの秋葉原は、電気関係のさまざまなパーツを売っている小さな店が所狭しと並んでいました。それは、終戦直後、近くに位置する電機工業専門学校(現東京電機大学)の学生が、ラジオの組み立て販売のアルバイトを大ヒットさせ、部品を供給する電器関係の露天商がそこに集中したからです。そして、戦後GHQが道路の拡幅整備のために露店撤廃令を施行したために、この闇市は廃止されようとしましたが、東京都と国鉄が救済措置として秋葉原駅のガード下に代替地を提供し、そこへ店を集めたのです。それが、私が訪れた電気街だったのです。もうひとつ、秋葉原に多くの電器商が集まってきたのには理由があります。戦前から店を構えていた廣瀬商会が総合問屋として、地方にネットワークを持っており、地方から仕入れに来る小売業、総合卸、二次卸し店で店がにぎわったために、秋葉原は安いという評判が広まったからです。また、「国鉄」だけではなく「都電」を利用するにも、秋葉原は非常に便がよかったのです。そして、電気店にとって、大きなな転機が二つ来ます。ひとつは、昭和26年の民放ラジオ局放送開始です。もうひとつは、昭和28年の「家電元年」ともいわれる「テレビ放送の開始」です。ちょうど朝鮮動乱の特需での好景気と相まって、現在、電気店として有名な店舗が続々できてきたのです。「電気のことなら石丸電気、石丸電気は秋葉原」の石丸電気は戦前から店を構えていましたし、「電器いろいろ秋葉原、オノデン」のオノデンは、昭和23年に店舗を構えています。昭和30年代前半では、「三種の神器」といわれた家電がありました。それは、「白黒テレビ」「電気冷蔵庫」「電気洗濯機」です。同時に「ラジオ」や「扇風機」や「アイロン」なども大きな飛躍を遂げています。それが、家電市場が徐々にコジマなどの郊外型量販店に奪われるに従って、秋葉原の電器店は主力商品をパソコンに移していきます。これにともなって秋葉原を訪れる客層も、親子連れから若い男性のパソコン・マニアへと、中心を移っていきます。さらに、この新たな客層が触媒となって、「電気街」という街の特質そのものを揺るがしかねない、さらに大きな変化がおきます。それは、同人誌やガレージキット専門店の集中に代表される、秋葉原の急激な「オタクのメッカ」へと変貌したのです。そして、秋葉原でいう「同人誌」は、基本的には人気漫画・アニメ・ゲームの特定作品のファンが集まり、その作品の登場人物や世界観を流用して描かれたアマチュア漫画の作品集のようなものであり、「ガレージキット」というのは、人気漫画・アニメ・ゲームに登場する美少女やロボットなどのキャラクターを主なモチーフにした、マニア向けの少量生産の模型のことなのです。以前の秋葉原も「マニア」の町でした。しかし、そのマニアは、子どもにもいましたが、今のマニアにはいません。なんだか悲しい気がします。それが、最近少し変わってきました。それは、2005年8月24日に、この秋葉原駅と茨城県つくば市を結ぶ58.3Kmの「つくばエクスプレス」が開通したことです。この電車に昨年乗ってみましたが、とても快適で、秋葉原駅もずいぶんときれいになりました。これから、秋葉原は、どんな変貌を遂げるのでしょう。

投稿者 fujimori : 23:46 | コメント (3)

2007年03月29日 近頃思うこと

マイブーム去る

 私の中で、なんとなく最近マイブームが去ったのが、ラーメンです。特に、年をとったせいか、「とんこつラーメン」は遠ざかっています。一時期は、よく食べました。今は、各地に「ご当地ラーメン」がありますが、ラーメンといえば、東京、札幌、博多が日本三大ラーメンと言っても過言ではありませんでした。私が子どものころは、もちろん、東京ラーメンが中心でした。いわゆる「支那そば」とか「中華そば」とか言われていたものです。しょうゆ味のあっさり系です。そして、中学生のころに「タンメン」という塩味のラーメンを知りました。そして、大学生のころから「八王子ラーメン」を知りました。このラーメンは、しょうゆ味ですが、ねぎに「長ネギ」を使わずに、「たまねぎ」のみじん切りをいれます。たまねぎの甘さがよく出て意外とおいしくなります。そして、九州ラーメンを知ったのです。その中で、博多ラーメンは、熊本と並んで、九州とんこつラーメンの知名度を全国的に上げた功労者です。スープは、とんこつをグラグラと長時間炊き出し、髄のエキスを絞り出して脂を乳化させたこってりです。麺はで、茹で上がりの早い、低加水の細麺を使っていますが、伸びやすかった為に早く食べきれる少量におさまり、そのかわり麺のみをお代わりする「替え玉」システムがあります。具はチャーシューに白ごまと紅ショウガ。ネギは緑色で細い博多万能ネギ。辛子高菜を置いてある店もあります。東京で有名な博多ラーメン店は、「なんでんかんでん」「一風堂」「ふくちゃん」などです。
 昨日「赤のれん」という博多ラーメン店で食べました。その店内に、その由来が書かれてありました。昭和16年(1941)ごろから昭和55年(1980)ごろまで、森堅太郎さんという人が玉屋百貨店横の屋台「三馬路」で澄んだスープの支那そばを売っていたといわれ、これが博多における最初のラーメン屋だといわれています。そして、津田茂さんが、戦時中、中国・奉天(今の瀋陽)に兵役でいたときに食べた「十銭そば」という支那そばが忘れられませんでした。その時食べた白濁した豚骨スープは、アイヌ料理のソップであると聞いていました。その支那そばを作っていた中国人は、以前住んでいたことのある北海道でアイヌの人から教わったと言っていたそうです。このソップの味が忘れられなかった津田さんは、そのときの記憶を頼りに研究を重ね、豚骨を煮込んだ白濁スープを完成させました。そして、戦後まもない昭和21年頃「白濁豚骨スープの博多ラーメン」として、屋台を引き始めました。そして、昭和23年、福岡市箱崎に屋台ラーメン「赤のれん」という店を出したのです。これが、博多ラーメンの発祥です。屋台を始めた頃、当時アセチレンガスを灯して明かりにしていたためにのれんも顔もすすだらけになってしまったので、のれんを赤く染めたのが屋号の由来です。同じ福岡市で、昭和30年に長浜に魚市場が移転しました。そのとき、近くに並んだ屋台が「長浜ラーメン」の発祥で、忙しい魚市場の客を相手にしていたために、短時間で湯で上がるよう、麺がどんどん細くなっていき、これがストレートの細麺を生み出し、替え玉のシステムを考え出したのも長浜ラーメンが発祥です。この「博多」、「長浜」2つのラーメンが互いに良い所を取りあって、それぞれのラーメンを発展させてき手、九州ラーメンを日本中に広げていったのです。今では両者の区別はあまりなく、総称して博多ラーメンと呼ばれることもあります。若い人には、ずいぶんと人気があるようですね。

投稿者 fujimori : 21:43 | コメント (4)

2007年03月28日 近頃思うこと

佐賀藩

 教育の意義は、将来どんな人材を輩出することになるのかにかかってきますが、そのよい人材というのがなかなか難しいですね。いわゆる「逸材」というものです。というと、抜きんでてすぐれた才能をもっている人ということになってしまいます。抜きんでないといけないとなると、どうでしょう。もちろん、たとえば農家の人でも、その道で抜きんでている人はいるでしょうし、漁師にしても、大工にしてもいるでしょう。しかし、それらの人は、世の中ではとても大切であるのにもかかわらず、歴史的にはなかなか名が残りません。ですから、歴史的な「逸材」となると、少し意味が違ってくるかもしれませんね。しかし、不思議なことに、この歴史的な逸材を輩出してきた地域はかなり偏っています。それは、気候風土が人を育てるという面はあるかもしれませんが、一番影響するのは、やはり「教育」ではないかという気がします。それが、良くも悪くも大きく影響してきます。たとえば、幕末のころ、中心になっていたのは薩長土というのが、馴染みがありますが、それは薩摩、長州、土佐藩のことです。しかし、本当は、「薩長土肥」と言います。この「肥」というのは、今月訪れた、肥前佐賀藩のことです。私は、あまり幕末の佐賀藩についてはあまりよく知りませんでした。それは、倒幕の時期、薩長土には英雄がいましたが、肥前佐賀藩は二重鎖国をひいていて、志士は居ても藩外には出ず、活躍した人物がいなかったからかもしれません。しかし、今回訪れてみて、佐賀藩は、国内に他とない厳しい教育制度を持ち、優秀な人材を抱えていたのです。彼等は倒幕後、明治政府の整備において活躍しました。
では、佐賀藩では、どんな教育をしていたのでしょう。この地から輩出された人材として、早稲田大学創始者で、日本で初めて政党政治を行った大隈重信は有名ですが、大隈自身、回顧録で弘道館や致遠館での勉強が役に立ち、ありがたかったと言っていたり、副島種臣や江藤新平なども外交問題で活躍しますが、ここにも弘道館で鍛えられたことが基になっていると言えるようです。このように、佐賀藩10代藩主鍋島直正は、諸藩に先んじて西洋文明を取り入れ、弘道館にて多くの人材を育成しました。この「弘道館教育」とはどんな教育だったのでしょうか。この弘道館は、第8代藩主治茂の時にできましたが、弘道館初代教授古賀精里の長男の古賀穀堂が30才という若さで弘道館教授に大抜擢されたときに、弘道館改革の新政策を「済急封事」として建白しています。そして、「学政管見」をつくり、これを基本として教育改革を行いました。これは、江戸時代にできた教育論としては、今も評価が高いものです。主な要点の第1は「国家に有用な人材を取り立て、一統の風俗を正しくして、御政治の根本となるべきこと。」2番目は、「だれでも勉強せねばならぬ。…」さらに「公明選挙」。3番目は、「誰でも学校には入れるようにしないといけない。」4番目は、「いい加減なことを言ってうだうだしてる人は、追放しなければならない。」5番目は、「学館経費を減少してはならない。それどころか3倍にしなければならない。」6番目は、「西洋の学問を振興させ、外国の勉強をして、外国に対する備えとする。」7番目は、「優秀な人材を江戸・上方・他藩へ留学させる。」でした。今の教育再生会議で出されたものと比べてどうでしょうか。私は、特に、5番目が気に入っています。

投稿者 fujimori : 23:20 | コメント (3)

2007年03月27日 近頃思うこと

定着度

 小学校における学習指導要領は、「基礎・基本を確実に身に付け、それらをもとに、自分で課題を見つけ、自ら学び、自ら考え主体的に判断し、行動し、よりよく問題を解決する能力を育成すること」をねらいとしています。これらを「確かな学力」ととらえていますが、実際に、これらの力が子どもたちについているでしょうか。また、この「確かな学力」をつけるために、教育計画や指導方法を工夫しているでしょうか。どうすればよいかを明らかにするために、児童・生徒の学力の定着状況を、まず把握することが必要です。そんなこともあって、私の住んでいる八王子市では、平成16年、17年に小学校第6学年児童と、中学校第1学年生徒に対して学力定着度調査(国語・算数)と学習習慣等の学習意識調査をしました。「学習定着度」とは、学習指導要領の目標、内容に照らして、基礎・基本の定着状況と自ら考え問題を解決する応用力の伸びの状況ととらえています。調査の目的は、「児童・生徒一人一人が、基礎的・基本的な学習内容に関する自らの定着度を客観的に認識することにより、確かな学力を身に付けるための目標や課題を明確にした主体的な学習習慣を身に付ける。」ことを第1においています。平成17年度の小学校における結果は、「授業は理解している」けれど「好き」「楽しみ」とは感じていない児童・生徒が多くいることがわかりました。また、小学校・中学校とも、調査では、読書を好む児童・生徒は国語の学力定着度が高い結果となりました。そこで、学校においては、授業の中で読書活動を積極的に取り入れたり、家庭と連携した読書指導を行ったりするなど、児童・生徒自らが「本を手にする」ことを提案しています。また、小学校の意識調査では、授業の進度や難易度は、学力の定着度によって大きな差があり、児童・生徒一人一人に、基礎学力の確実な定着と個性や能力の伸長を図るためには、習熟の程度に応じた指導体制を整えるなど指導体制の一層の工夫が必要だと訴えています。そのための取り組みの例として、「 少人数授業においては、習熟の程度に応じた学習集団を編成した習熟度別学習を一層充実させる。」「学年内、異学年同士の教師の連携を密にし、教科担任制の推進、ティームティーチングの充実など学校を挙げての指導体制を工夫する。」などを提案しています。
 ところが、先日、近くの小学校からもらった資料を見て、少し考えてしまいました。それは、最近、市内の小学校4年生児童に対して学力定着度調査をした結果です。市内全体の数字ですが、平均到達度が、国語では72.8%、算数が83.0%で、達成率は、国語69.0%、算数66.6%なのです。4年生で、すでに、その教科内容を達成していない子が、4分の1以上いるのです。その子達は、そのまま5年生になります。そして、4年生の学習内容に積み重ねられた内容を学習することになります。ですから、達成率があがるはずはなく、下がっていく一方です。すると、すでに小学校を卒業する時点で、小学校の内容の半分もわからなくなっているのです。先日のブログではありませんが、人生の中で、生活をする上で、重要な知識は、小学生のころに習う内容です。掛け算九九を2年生で習いますが、それをきちんとマスターしていなくても、3年生では、二桁の掛け算、4年生では、三桁の掛け算と習っていきます。(かつては、三桁の掛け算は3年生で習いました) 当然、わからなくなる一方です。きちんとそれぞれの学年の内容を定着させなくて、いつ、わかるようになると思っているのでしょうか。ですから、外国では、「ステイ」といって、確実に習得するまでその部分をやるためにその学年にとどまります。いわゆる、日本では「落第」です。落第のない日本と、どちらが、子どもの将来にとっていいのでしょうか。

投稿者 fujimori : 23:20 | コメント (3)

2007年03月26日 近頃思うこと

転勤

 今年度が終わろうとしています。今日、近くの小学校で学校評議委員会があり、出席しましたが、今後の話や、これからの取り組みの話を聞いても、いまひとつ身が入らないのは、もしかしたら、校長や教員の移動があるかもしれないと思うからです。その小学校の保護者アンケートの中に、「校長が交代するたびに、学校色が変わりすぎる」というのがありました。以前、ブログでも書きましたが、アメリカに行った時に思ったのですが、公立でも、小学校の校長は、本人の申し出がない限り異動はないそうです。それは、ドイツでも同じだと言っていました。それは、きちんと管理職が、自分のコンセプトを打ち出し、それに賛同し、実現する職員集団をきちんと養成していくからです。また、地域に対しても、きちんと責任を取っていくからです。今回、新宿区で園を開園するに当たって、今までの園から職員を何人か異動してもらいました。誰に異動してもらうかを考える観点の第一は、昨日のブログではありませんが、職住近接ということで、今の園よりも、新宿の園のほうが、住んでいるところから近いか、下宿をしていて、近くに越せる人を優先しました。そのメンバーで、最低の人数だけ(4人)を確保しました。その人数だけでは少しきついと思ったのですが、そのメンバーだけでも核にしてやるしかないと覚悟していたら、そのメンバーを見て、何人か自ら、行って手伝いたい、いっしょに勉強をしたいと申し出た職員がいました。そのメンバーが、結局異動することになったメンバーです。決して、私からの職務命令で異動を言いませんでしたので、みんな積極的に準備に取り組んでくれています。
昨日のブログで紹介した冷泉彰彦氏が、こんなことも言っています。(一部途中省略)「アメリカの雇用慣行の中で、もっと日本との違いが大きいのは「転勤」という考え方でしょう。終身雇用が薄れ、専門職のキャリアパスが主流ということもありますが、とにかく企業が従業員に勤務地移動を命じるということがあまりないのです。企業が発展して全く別の州なり、国に新しい事業所を設置するというような場合は、基本的にはその土地の労働市場で人材を調達するというのが主です。例えば銀行が新しい町に支店を出すというような場合は、支店長以下の全ての要員をそのローカルな労働市場で採用します。非常に簡単に言うと、アメリカでは労働力が土地に根付いているということがあり、逆に企業の方が人材のある場所に移ってくるということがあります。いわゆる一般職というべき「ノン・エグゼンプト」の人たちは動きません。その土地に家庭があり、近隣社会や子供の学校、教会や地域のスポーツ団体などの「コミュニティ」に属することが人生設計の重要な部分になっているので、職を求めて大きく移動することはありませんし、まして雇用主が転勤を命じることは不可能です。そう言うとアメリカの人は引っ越しをしないようなイメージがありますが、必ずしもそうではありません。人生の転機に当たって大きな決断をして西海岸から東海岸へ移動するというようなことは結構平気でします。ただ、それは全部自発的な移動です。そこには「会社都合」の「苦役」としての転勤という概念はありません。といいますか、全くないのです。明らかに本人の意志に反して「苦しい」転勤を強いるという社会的慣行は全くないと言えるでしょう。以上を要約しますと、アメリカの場合は「人間が半強制的な住居移動を伴う転勤を命令されることはない」ということと、「チャンスを求めての移動は本人が自分のコストで胸を張って行う」という発想が確立していると言って構わないと思います。もうすぐ4月、人事異動の季節ですが、それぞれの会社で行われる「転勤を伴う人事異動」が本当に将来の会社に必要な人材に必要なスキルを学ばせるような、つまり本当に生産性向上に結びつくような異動なのか、考え直してみてはどうでしょう。その中で「会社都合の転勤」という文化を、つまり個人や家庭を不幸にし、更に「イヤイヤ行っている人」と「自発的に行った人」を区別する文化そのものを見直してみることも必要なのではないでしょうか。」
 今回の新宿での開園に向けて私がしたのは、異動する職員だけではなく、しない職員を含めて、本当に、園児にとって、本人にとっての保育のスキルを発揮し、向上につながる場はどこか、また、異動をする、しないかの決定が、本人からの自発的な行動であるのかを考慮することでした。

投稿者 fujimori : 21:15 | コメント (3)

2007年03月25日 近頃思うこと

通勤

 私は、4月から開園する園は新宿なので、自宅からの通勤時間はかなり長くなります。しかも、電車がラッシュの中での通勤です。今まで、車での通勤ですので、ずいぶんハードになります。私は、中学校は公立でしたが、電車通学でした。その昔から、電車はラッシュで、駅でドアが空いても、ドア付近に立っている人は、これ以上乗せまいとがんばります。こちらは、乗らないと遅刻してしまうので、なんとか乗り込もうとします。割り込めないときには、乗り込めずにホームに取り残されている人に、「すみません、押してもらえませんか」と頼んだものです。それでも、中学生という若いころだったことと、その混雑した車内は、浅草橋から秋葉原までの一駅で乗り換え、秋葉原から神田までの一駅乗っただけですから我慢もできました。しかし、今度は、そのラッシュの電車に1時間も乗らないといけないので、かなりつらそうです。しかし、そんなラッシュの電車を見るとき、こんな電車で毎日通勤している人が多いことに驚かされます。まあ、かなり多いのでラッシュになるので当然なのですが。この混雑の中を、長時間、毎日、何年も通勤しているのです。こうして通うのは、地価が高いために、郊外に家を買う人が多いからです。また、勤務先が都内に集中しているからです。以前、多摩ニュータウン学会の理事だったころ、外国では、よい住宅地は、企業にとってもよい地ということで、多摩ニュータウンによい企業を誘致しようといろいろと計画をしたことがありました。東京圏では、都心部に業務機能が集中する一方、居住地が遠隔化しながら巨大市街地が形成されてきました。このため、都心部における住機能がニューヨークやパリなどと比較して著しく低下する一方で、多摩地域では産業・雇用の場が不足するなど、職と住とのアンバランスが大きくなっています。そのために、職住が遠く離れることにより、この遠距離通勤、通勤混雑がおき、多くの人が著しい不快、不便をこうむるだけでなく、可処分時間が制約されています。そして、これからの時代、少子化を迎えると、高齢者や女性の社会進出が進み、日常生活における移動等が、安全に、かつ短時間に行えることが求められてきます。そこで、今後、人びとの生き方の幅が広がることに対応して、職住近接や、公共空間のバリアフリー化、子育てや介護といった日常生活に必要な各種施設の充実が必要になってきます。アメリカなどは、真ん中に企業があり、その周りが住宅街であるような職住一致や、職住近接が進められています。
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都心3区への通勤・通学時間が片道1時間未満の人の割合(定期券利用者)(「大都市交通センサス」運輸省)
 作家であり、ニュージャージー州在住の冷泉彰彦氏は、アメリカの事情を「USAレポート」で、こう言っています。「意外に思う方もあるかもしれませんが、アメリカの雇用契約には通勤手当という考え方は普通ありません。働く人間が「勤務の出来る状態」まで移動するのは、自分のカネと労力に任せるという考え方が主流だからです。労働とは生産される付加価値の分配だから、会社の近くに住んでいる人も遠くから電車賃をかけて通って来る人にも支払うカネは一緒で良い、そんな説明も可能でしょう。ただ、この点に関しては日本の経営者もそんなに違和感はないようで、最近では非正規雇用の場合などでは交通費は一律であったり、実費でも上限を低く抑えたりして「自腹」にする例が多くなっているようです。」
 以前、テレビで見たことがありますが、ヨーロッパのどこかの国の話でしたが、通勤時間が長い人は、電車の中で、たとえばパソコンなどで仕事をします。ですから、電車に乗り込んだときから勤務時間になります。私は、今、新宿への行き帰りには、なるべく快速ライナーに乗ります。この快速ライナーは、特急料金を払えば、全席指定で必ず座ることができ、新宿から八王子までは途中一駅しか止まりません。これに乗るのは、必ず座れるということや、ラッシュではないことがありますが、もうひとつの大きな理由は、車内でパソコンをやることができるからです。座席がいわゆる特急電車と同じようにみんな前を向き、机を出すことができるからです。この時間も、勤務時間に入れてもらえるといいのですが。ただ、この快速ライナーは、朝は、6時台に一列車しかないのが残念です。

投稿者 fujimori : 21:49 | コメント (3)

2007年03月24日 記念日

 今日は、4月から新宿で開園する園の落成披露宴でした。よく人から言われますが、私はあまり形式的なセレモニーが好きではありません。何も、はっきりした主義主張があるわけではありませんが、いわゆる、決まったような挨拶がニガテなのです。園長という職種は、職員が若く、女性が多いので、結婚式に呼ばれることが多く、しかも主賓になるので、初めのほうで必ず挨拶をしなければなりません。私は、よく何百人を前に講演することが多いのですが、挨拶となるとあがってしまい、ドキドキしてしまいます。人は、平気で講演をするので大丈夫だろうと思うようですが、どうもニガテです。しかし、あがらない方法を見つけてからは、結婚式の挨拶が平気になりました。その方法は、挨拶をするのをやめてしまったのです。挨拶ではなく、ミニ講演をすることにしたのです。ありがたいことに、主賓であるために早い段階に、上司からということなので、講演でもおかしくないのです。最近の女性の生き方、社会の支援、少子化問題など、話題はたくさんあります。それが、最近はさらにありがたいことに、結婚式をやらない職員が増えてきました。職員が、「実は、…」と言い出すと、「今度、結婚します。」ということが多かったのですが、最近は、「結婚しました。」と言われます。式は挙げずに籍だけ入れたというのです。私はホッとします。堅苦しいことが本当にニガテです。
 しかし、けじめということもあって、今日は、落成式をしました。でも、式ではなく、「始まりを祝う会」です。招待客も、区役所の人、地元町会の人、地元区議くらいでした。その中に、これから給食の無農薬、不耕起栽培の食材を納品してくれる農家の人、今までの園の保護者の代表者がいます。来賓の区長さんは、その人たちにわざわざ挨拶をしてくれました。私がこだわった招待客だったからです。式次第も、あまり形式張らず、まず、来園した招待客に飲み物を飲みながら、園の中を見学してもらいます。保育室は、家具などを片付けず、どんな形で保育するのかを見てもらいます。よく、式典をするための広いスペースを空けるために、みんな片付けるところが多いのですが、それでは、どんな保育をするかが良く分かりません。そして見学が一段落したところで集まってもらって、簡単な経過説明と来賓二人から挨拶をもらいます。そのあと、会食ですが、会食というよりも試食をしてもらいます。不耕起栽培の古代米、赤米のおにぎり、雑穀のコロッケ、そのほか安全にこだわった素材で作った様々料理を試食してもらいます。場所も園児が給食を食べるコーナーで、園児と同じように食べてもらいます。もちろん、乾杯はありませんし、アルコールもありませんが、おにぎりのお米はとても美味しく、評判がいいので、農家のご夫婦はとてもうれしそうでした。私は、セレモニーはあまり好きではありませんが、けじめとしては、きちんとやるべきだと思いますし、興味関心のある方にもきちんと内部を公開する必要があると思っています。しかし、招待する方々、その式の見せ方などの企画は、ある意味でプレゼンテーションであるべきだと思っています。挨拶から、ミニ講演に変えたように、式から、情報公開であったり、提案であったり、表現であるべきでしょう。そうなると、式も楽しみになります。主義主張を人に伝えるよい機会になるからです。今日の式は、形式張らず、本当の姿を見てもらい、いっしょに考える会に少しはできたかと思います。出席していただいた方々、父親の会の方、今日は、ありがとうございました。

投稿者 fujimori : 22:32 | コメント (8)

2007年03月23日 近頃思うこと

中央分離帯

 車で道を走っていると、中央分離帯のある道路があります。この分離帯は、ガードレールや植込みなどの構造物である分離帯を指す場合と、右側車線の白線より中央側の路面部分である側帯も含めた中央帯を指す場合があります。それは、道路構造令第二条十項の中で「車線を往復の方向別に分離し、及び側方余裕を確保するために設けられる帯状の道路の部分をいう。」と定義されているからです。様々な分離帯の中でも、心が癒されるのは、中央分離帯が、植え込みなどで緑化されている場合です。この分離帯の緑化は、今後の高速道路のテーマのひとつであり、昨今、検討の必要性が急速に高まっています。既に緑化されているところは多くなってきたのですが、管理などの面では、非常に困難なので、どの様に取り組むべきかなど課題があるようです。そうした動きの中で、いろいろと、望ましい中央分離帯のあり方、アイディアなどが話し合われています。たとえば、「中央分林帯に可動式植裁を導入する」とか「一般に嫌われる植物の活用、タケやササ等の植裁をする」とか、「食べられる植物の導入をする」とか、いろいろと面白いですね。園庭のビオトープ作りと似ているところがあります。最初に園にビオトープを作ったときに、様々な意見が出されました。いま、修復の時期を迎え、今度は、食べられる水草を植えようと提案も出されています。定期的に水草を抜かないと、水がきれいにならないとかで、それなら、仕事として抜くよりも、食べるために抜くほうがいいのではないかという考えです。石原都知事が、都内の小学校の校庭をみな芝生にするという提案をしていますが、やはり、管理が大変なようです。
中央分離帯が緑化されていると、車を運転していてとても心が和みますね。緑を見るというだけでなく、そこに植えられている木が花をつけることによって、季節を感じることができるからです。近くの道の中央分離帯に植えられている桜は、まだつぼみは固いのですが、はなみずきは花をつけ始めています。そして、信号などで止まった車の窓からは、下草で、すずめやムクドリが、必死でえさをついばんでいる姿が見られます。そこに、もうすっかり春になった姿があります。と感傷にふける間もなく、がっかりすることがあります。それは、下草に、ごみが散乱していることです。
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多分、誰かが車の窓からごみを投げ捨て、そこにごみがあるから、次の人も投げ捨て、いつしか中央分離帯は、ごみ捨て場に変わろうとしています。たまに、前を走っている車の窓から、火がついたままのタバコが投げ捨てられたり、空き缶が投げ捨てられたり、ごみ袋を投げ捨てるのを見ると、このごみを、誰が片付けると思っているのだろうかと考えてしまいます。そんな姿から、簡単に「最近の若者は、道徳心が無くなった」と言うつもりはありませんが、何とかならないものかと思ってしまいます。各地では、美化行政の柱になる施策として「ポイ捨て防止条例」が制定されていますが、悲しいですが、やはり罰するしかないのでしょうか。2月にドイツに行った時に、機内で見た映画のタイトルは忘れましたが、道徳に反する行為をしたときの罰として、何日間かの労働を科せられるという内容でした。その労働が、芸術大学での掃除でした。掃除をしながら、貧しいながらも好きなダンスなどに励んでいる姿を見て、自分も大学に行くことを目指します。人は、自分の周りの人しか知りません。ですから、すぐに「みんな、そうしている」と思い込んでしまいます。そんなときに、罰として、違う世界の人と接する機会を与えたなら、何かを見つけるかもしれませんね。

投稿者 fujimori : 22:56 | コメント (2)

2007年03月22日 近頃思うこと

卒業

 今日は、小学校の卒業式でした。毎年近くの小学校に出席しているのですが、私の子どものころの卒業式とは変わってきています。変わったことを一番実感するのは、式の中で歌う歌です。毎年、私は聞いたことがない歌を歌います。それも、その年の先生の好みなのか、年度によって歌う歌が違います。それを聞くたびに、昔のように、どこでも「仰げば尊し」を歌っていました。それが必ずしもいいかわかりませんが、今は、子どもたちが大きくなってもその歌を覚えているだろうか、みんなでいっしょに歌うことはないだろうなと思うと、なんだかさびしい気がします。歌だけではなく、大人になってから共感するものが少ないような気がします。後、変わったといえば、いわゆる「送辞」「答辞」のような、代表という役割がなくなったことです。多くは、「よびかけ」といって、子どもたちが次々に一言ずつ言葉をつないでいきます。今日の式でも、式が始まることを予告するのに、5年生の「よびかけ」で始まりました。ただ、これもその年度の担任の好みのようです。私が出席した、園の近くの小学校の卒業生は、今年138人でしたので、卒業証書授与の時間が長くて参りました。この小学校は、私の園といっしょの平成9年開校ですが、最近生徒が増えてきて、開校のころは全校で生徒が70名あまりだったのが、今は789人、22クラスあります。今後、26クラスまで増えると予想されています。それでも、団塊の世代である私たちのころよりは少ないですが。また、最近のこのあたりの傾向ですが、138人中、私立中学校に進学する子が32名で、ほぼ4分の1は私立に行きます。そんな卒業式でしたが、その中での祝辞はいつも決まったことを言うことが多いのですが、今年の中学校の校長先生の話はとても面白いものでした。卒業生に問題を出しました。漢字のテストです。問題は五つです。手のひらに答えの漢字を書いてみてくださいと言います。「(1)白鳥の飛来が冬の訪れを(告)げる。(2)桜のじゅひ(樹皮)を使って絹糸を染める。(3)(燃)えるような夕日が校舎を赤く照らす。(4)世界一周のこうかい(航海)を終えた客船が母港に戻る。(5)観客席から選手のぜんせん(善戦)をたたえる拍手がわき起こる。」答えの漢字を生徒たちは一生懸命に手のひらに書いています。そのあとでこう言いました。「今出した問題の答えの漢字は、小学校2年生から6年生までに習う漢字です。それなのに、この問題は、今年の都立高校の国語の問題なのです。高校受験の漢字の問題は、すべて中学で習う漢字ではなく、小学校で習う漢字なのです。それは、如何に小学校時代が大切かということです。」これは、私が今年卒園式で話したことと似ています。私は、こんな話をしました。「小学校に行くと、いろいろな勉強が始まります。でも、心配は要りません。たとえば、国語という授業が始まり、字を習います。しかし、皆さんはいっぱい絵を描いたり、線遊びをしましたね。ぐるぐる線を描くと、それが「の」になったり、「し」になったりします。また、算数という勉強があります。みんなは、毎日給食のときに「いっぱい、すこし」「おおい、すくない」「はんぶん、ぜんぶ」「一個、二個」そんなことを言ってよそってもらっていました。それが算数です。園でやっていたことが、学校ではとても役に立ちます。」というようなことを話したのです。ただ、先をやることが役に立つのではなく、あとで伸びる力をつけてあげることのほうが重要ですね。

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2007年03月21日 記念日

太陽の動き

 今日は、春分の日です。もともと、春分日とか秋分日などは太陽の動きに関係しますので、天文学的な言葉です。簡単に言うと、太陽が真東から昇り真西に沈むため夜と昼の長さが同じ日とされ、春分の日は、二十四節気のひとつで、太陽黄経が0度(春分点)の日のことをいいますが、これを「春分の日・秋分の日」と呼んで、日本では、祝日として決められています。なんで、昼と夜が同じ時間の日が祝日なのでしょうか。よく考えると、不思議な気がします。なにを祝う日なのでしょうか。また、祝日と決められているのに、いつかがはっきりしません。というのは、祝日としての春分の日や秋分の日は、本当に昼夜が同じ日ではなく、国立天文台が作成する暦象年表という小冊子に基づき、閣議で決定され、これが官報によって公報されることによって正式に決まるのです。官報に載る時期は2月の最初で、ここに翌年の春分の日・秋分の日が記載されます。ということは、祝日である春分の日は、前年でないとわからないのです。そして、その日は、「自然をたたえ、生物をいつくしむ」国民の祝日とされています。しかし、この日は、昔から生活に密着した行事と関係しています。この春分の日にしても、前後三日間、計七日間のことを「彼岸」と呼び、初日を「彼岸の入り」、中の日を「彼岸の中日」、最終日を「彼岸明け」と呼びます。お彼岸は、正しくは「彼岸会」といい、先祖の供養をし、お墓参りをする行事です。それは、春分・秋分の日は昼夜の長さが同じになるから、仏教の説く「中道」の教えにかなうとか、太陽が真西に沈む時期なので、西方極楽浄土におられる阿弥陀仏を礼拝するのに ふさわしいとかいわれています。また、「暑さ寒さも彼岸まで」というように、季節の変わり目にあたり昔から農耕の区切りとして祭りが行われていた時期であり、 それが仏教と結びついて現在の年中行事として定着したのであろうともいわれています。明治初期には、春分の日が「春季皇霊祭」という国家の祭日になりました。それが、第二次大戦後に今の国民の祝日となったのです。また、この日は世界でも特別な日とされることが多いようです。たとえば、イースターとも呼ばれる復活祭はキリスト教の典礼暦における最も重要な祝い日で、十字架にかけられて死んだイエス・キリストが三日目によみがえったことを記念する日ですが、基本的に「春分の日の後の最初の満月の次の日曜日」に祝われるため、春分の日と同様に、年によって日付が変わる移動祝日なのです。
 このほかにも、太陽に関する日は意味があるとして考えられてきました。先日訪れた吉野ヶ里の環壕集落の構造は、夏至の日の出の位置と冬至の日の入りの位置とを結んだ線が軸になっている、という説があります。祠祭儀礼の場とされる「北内郭」は上空から眺めると、左右対称のホームベース型をしているのですが、この左右対称軸を北東に延長すると夏至の日の出の位置に一致するのです。古代遺跡の中には、このように太陽や天体の運行と関係するものが少なくありません。例えば、南イングランドのソールズベリー平原にあるストーンヘンジは、夏至の日の出を観測できるよう、巨石の一部が配置されていると言われています。また、アイ ルランドのボイン渓谷にあるニューグレンジ古墳の場合は、1年に一度、冬至の日にだけ、奥の墓室に太陽の光が差し込むように作られています。ちなみに、どちらも世界遺産に登録されている遺跡です。太陽、星、月など天体の動きは神秘的であると同時に、生活に、ある基準として取り入れられてきたのでしょう。

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2007年03月20日 近頃思うこと

最終回

 先日、派遣社員の哀歓をユーモアたっぷりに描いたドラマ「ハケンの品格」が最終回を迎えました。その主役を演じた篠原涼子さんとご主人の市村正親さんに、都内のとんかつ屋さんでお会いしました。(といっても、ただ、偶然カウンター席が二人置いて隣だったというだけの話ですが。)このドラマは、視聴率は18.8%(ビデオリサーチ調べ・1月第4週)もあったそうで、ドラマ部門で堂々の4位だそうです。何回かしか見ることはできませんでしたが、第1回と、最終回だけは偶然と見ることができました。なんだか、漫画みたいなドラマでしたが、なんとなくスカーッとするのでしょうね。それは、何かと軽く見られる派遣社員のほうが、ありとあらゆるスキルを身につけていて、並の正社員では太刀打ちできず、会社の命運がかかる仕事になると、頼りになるのはいつも派遣社員のスキルであって、正社員のほうはふがいなく描かれています。このドラマの始まるときのフレーズは、「おごれる正社員は久からず。今や派遣社員なくして会社は回っていかず」というものです。実際に、今は民間のシンクタンクの調査によれば雇用者のうち派遣やパートなどの非正規社員が占める割合は32.6%にものぼり、3人に1人が非正規社員だそうです。4月から開園する園でも、派遣会社からの紹介も多く、その履歴書からも様々な職場で、派遣されて働いている人が多くみられます。このように派遣が多くなったのは、このドラマの中で主人公がよく言うせりふ「働かない正社員がいるおかげで私たち派遣は“お時給”が貰えるんですから」に表されているかもしれません。
 もうひとつ、最終回の視聴率が、関東地区で30.4%、関西地区で39.3%と堂々の30%台を見事に達成したのが、「華麗なる一族」です。このドラマも、日曜日放送なので、私は日曜日に出かけることが多かったためにきちんと見ることはできませんでしたが、最終回は見ることができました。このドラマの原作は、山崎豊子氏の政財界の様々な策略などを通して人間を描いた小説ですが、伏線として、キムタク演じる主人公が、父親から冷たくされるのは、実は父の子ではなく、祖父と母との間の子であるからだと思っています。父親もそう思っていて弟のほうをかわいがります。それが悲劇を生むのです。JR東日本の車内誌の特集「みちのくの西行を旅する」を読んでいたら、とても面白いことを思い出しました。歌人として有名な西行は、もとは、鳥羽上皇に仕える北面の武士でした。鳥羽院は、5歳で即位しますが、政務は祖父の白河院が執っていました。そして、待賢門院璋子を中宮とします。そして、天皇を退位後、次の崇徳、近衛、後白河天皇の三代にわたり、28年間院政を行います。ところで、次の天皇の崇徳天皇は、この鳥羽院の第1皇子で、5歳で即位しますが、父親に疎んじられます。それは、実は崇徳院は、鳥羽院の実子ではなく、祖父の白河上皇と鳥羽院の中宮であった待賢門院璋子との間に生まれた子どもであったといううわさが流れたからです。ですから、実の父親であった白河院が亡くなったとたんに、異端分子扱いされ、無理やりに天皇の位を追われたのです。それがずっと尾を引き、父、鳥羽法皇が亡くなったとき、最後の対面をするため鳥羽院に駆けつけますが、院を守る武士たちに阻まれて会わせてもらえず、仕方なく退去します。そんなこともあって、鳥羽院が死んだあとは、弟の後白河天皇と対立します。これが、「保元の乱」です。「華麗なる一族」は、これを参考にしたかわかりませんが、歴史を学校で習ったときは、ただ、「保元・平治の乱」をテストのために覚えたものですが、父と子の確執のドラマとしてもう一度見てみると、テレビドラマ以上の面白さがありますね。

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2007年03月19日 近頃思うこと

睡眠

 「早起き」「朝ごはん」というキャンペーンではありませんが、朝早く起きると考えることがあります。私は、割と睡眠時間は少なくてよいほうですし、寝覚めはよいほうだと思っています。しかし、それでも朝起きるのがつらい時と、すっきり目覚めるときがあります。それは、意外と睡眠時間の多少というよりも、起きるタイミングのようです。よく「レム睡眠」(Rapid Eye Movement)と「ノンレム睡眠」(Non REM)といわれているものです。この言葉は、聴いただけでは良く分かりませんが、もとの英語を見るとその意味はわかりますね。レムは、速い目の動きという意味だったのですね。ですから、レム睡眠は、「急速眼球運動を伴う眠り」ということで、「眠っていても目玉が動き、脳は覚醒に近い浅い眠り」のことをいいます。ですから、ノンレム睡眠は、そうでない眠りのことで、「ぐっすりと熟睡した深い眠り」をいいます。「睡眠の不思議」(井上昌次郎著 講談社現代新書)によると、一般には、入眠するとすぐに深い眠りのノンレム睡眠に入るそうです。これは、睡眠が脳を休息させている状態と考えられています。このとき体温は下がり、体内の熱を出すため発汗作用が活発になります。この入眠時をスムーズにさせることが、翌日の目覚め感に影響するようです。このとき、脳が休息しているので揺り起こしても容易には起きませんので、深い眠りといわれるゆえんです。逆に、浅い眠りのレム睡眠のときに体温は上昇し、眼球は運動していますが、筋肉の緊張は解け、だらりとした状態になります。ですから、こちらの眠りは、体のほうが休息しています。そして、時間が経つにつれノンレム睡眠の段階は少なくなり、レム睡眠の割合が多くなってきます。次第に、眠りが浅くなっていくのです。そして、眠っている間に、なんどもこのレム睡眠とノンレム睡眠が繰り返されていきます。それがどうしてかというと、とても面白いことが書かれています。深い眠りは体温が低いときにおきるのではなく、体温が下がっていく過程で起きます。ですから、ずっと低いと、深い眠りはおきません。定期的に上げて、そこから下げていくことを繰り返さないといけないので、途中で、レム睡眠を入れる必要があるということです。また、体温を下げようとするときに汗をかきますが、このレムとノンレムが繰り返されるので、睡眠中に何回も発汗作用が起こるようになり、睡眠中の発汗が大切だということがわかります。そして、目覚めるときに浅い眠りのレム睡眠から起きると、体温は上昇していますから目覚め感は良好ということになります。脳が休息している深い眠りのノンレム睡眠のときに、無理やり起こされると目覚め感は良くありません。したがって快適な眠りには、スムーズな入眠と、起きるタイミングとが大きく関ってくるのです。そこで、レム睡眠とノンレム睡眠は90分サイクルで成り立っていますので、入眠から目覚めまでの時間を90分の倍数にすると快適な目覚めをえる事ができます。
 私は、寝覚めはよいほうですが、胃の調子の寝覚めは悪いほうです。起きてすぐに朝食は食べられません。大体30分くらいして胃が動き始める気がしますが、わが子を見ていて感心します。おきてきて、すぐに食べ始めるのです。しかも、まだ半分寝ていながらで、若いことに感心します。しかし、それは、若さでもなさそうです。朝早く空港で、軽い朝食を取っていると、隣のお年寄りが、朝からかなりのボリュームのかつサンドを、大きなビールジョッキを片手に食べているのを見て、私は、あの年まで元気でいる自信がなくなりました。

投稿者 fujimori : 07:28 | コメント (4)

2007年03月18日 近頃思うこと

両面

 今日は、園で卒園式を行いました。子どもたちは、将来何になりたいかを毎年発表します。その夢がかなう人もいるでしょうし、途中で夢が変わる人もいるでしょうし、夢がかなわない人もいるでしょう。また、親にも、子どもにどうなって欲しいかという夢もあるでしょう。また、逆にどうなるか心配もするでしょう。この性格では、世の中でやっていけるのか、きちんと職業に就けるだろうかと心配は次々に現れます。
 ある雑誌に、有名人が小さかったころのことを自分で語っているのが掲載されていたことがありました。まず、お笑いコンビ「爆笑問題」のボケ役として最近活躍している「太田光」氏がこう語っています。「人見知りで、正月に親戚が大勢集まるときは、存在を消して一切話さないような子どもでした。そういう場所で民謡なんか歌い始めちゃう従兄弟を見ると、引いてましたね。必要のないところでふざけたり目立つのは嫌いで。小学校の入学式も嫌でした。だって、知らない場所で何されるかわからないじゃないですか。」いま、あんなにおしゃべりで、余計なことも、口を挟もうとしている太田氏を見ると想像できない反面、少し思い当たるようなところもあるかなと思います。と言うことは、性格は両面あって、それがどうよく生かされるかで、成功するかどうかのような気がします。それを自覚するのは、誰かの一言であったり、ある出来事がきっかけになります。「国語の授業で、新しいお話を勉強するとき、先生に、“読むのがうまい太田君に読んでもらおう”と言われて初めて“ 俺は読むのがうまいんだ”と自覚して、それから調子にのって朗読するようになりました。」また、「4年学芸会で裁判劇をやりましたが、自分の検事役が気に入らなくて、裁判官の隣でいちいち裁判官の真似をするというボケ役を提案したんです。それがバカ受けしたときはうれしかったですね。」何がきっかけになるかわかりません。また、ハードル競技で、初の銅メダルを獲得した「為末大」氏は、子どものころの事をこう語っています。「“思慮に欠ける”と、よく通信簿に書かれていました。喜怒哀楽が激しくて、何も考えず思ったまま行動するんですよ。」やはり、小さいころの性格は、両面あって、それが生かされるようになるか、欠点になるかがありますね。また、運動神経にしても「足が速いのを褒められてうれしかったけれど、運動神経がないので球技はまったくできなかったんです。野球もサッカーもまるでダメでした。」また、「集中力が持続しないんです。だから授業中も落ち着きがなく、勉強もしなかったですね。当時通っていた学習塾も嫌で嫌で教室から逃げ出し、ついには宿題のプリントを破って捨てたことも。コツコツ練習すれば成果が出ることを教えてくれたのは陸上でしたが、それ以外はまったくダメでした。でも、するべき時に勉強しなかったおかげか今ごろ好奇心がわいてきていて、今はすごく勉強したい気持ちでいっぱいです。」好きなこと、得意なことが見つかると、嫌いだった勉強もしたくなるようです。ソロ歌手として活躍している「野宮真貴」さんは、こう言っています。「幼いころ、私が会話するのは家族と、幼稚園と近所に一人ずついたお友達だけでした。人見知りで内向的。」意外と、大人になって活躍する人は、あまり人とも話せなかった人が多いようです。「コツコツ努力するのが苦手で、勉強が特別できるわけでもない。家でバービー人形のお洋服を作って一人遊びするような目立たない存在でした。」そんなことが、意外に今ファッションリーダーとして活躍することになったのかもしれません。小さいころの性格が将来生かせるかは、親や周りの人の理解と、それを伸ばすか、打ち消されてしまうかが重要かもしれません。

投稿者 fujimori : 21:22 | コメント (2)

2007年03月17日 近頃思うこと

18日から

 明日からは、いよいよ「パスモ」の使用が可能になります。以前ブログでも書きましたが、JRと私鉄がICチップで乗り入れが可能になります。ICチップを埋め込んだカードがあれば、買い物もJRも、私鉄も、バスもすべてかざすだけで利用できるようになります。4月から開園する私の園も、ICチップを埋め込んだカードをかざすだけで、入り口の開閉ができるようになります。しかも、そのカードを渡した保護者は、番号を控えておくので、誰が、いつ、どの時間にドアを開閉したかが記録されますし、落としても届け次第、すぐそのカードの使用を停止することができます。今後、たとえば本とかに埋め込むことが検討されているように、いろいろなところで使われるようになるでしょうね。
 明日からパスモの利用が可能になるだけでなく、四国を除くJRの旅客5社と一部私鉄は、ダイヤ改正を実施します。それに伴って、特急の禁煙車が大幅に拡大し、JR東日本の新幹線と特急は、寝台列車などの一部を除いて全面禁煙となります。私は、よく新宿に行くときに特急「かいじ」とか「あずさ」に乗りますが、そのときは禁煙車にもちろん乗るのですが、降りてホームを歩いていくとき、喫煙車両の脇を素通るだけでも、息を止めたくなるほどくさい思いをします。(以前、吸っていたのに勝手ですね。)この列車は、JR東日本ですが、全車両禁煙にする理由をこういっています。「2003年に健康増進法が施行され、公共施設における受動喫煙を防止するための努力義務が課せられるようになりましたが、列車という限られた空間では、扉の開閉により禁煙車に煙が流入するなど、受動喫煙がなくならないというご意見を多数いただいておりました。そこでこのたび、2007年3月のダイヤ改正に合わせてJR東日本の新幹線・特急列車の全面禁煙化に踏み切ることにいたしました。同時に、長時間列車を利用されるお客さまのために、ホームの喫煙所に加え、新幹線などの主な駅ホームに排煙設備のある喫煙ルームを増設し、お客さまが、乗車前後にたばこを吸われる環境を整備いたします。お客さまには、乗車中は大変な我慢をしていただくことになりますが、何卒ご理解とご協力をお願いいたします。」ということで、新幹線では、東北新幹線、上越新幹線、山形新幹線、秋田新幹線などすべて全面禁煙になります。(長野新幹線「あさま」はすでに全面禁煙です)特急でも東海道本線、中央本線、東北本線、高崎線、常磐線、羽越本線、信越本線、奥羽本線などすべて全面禁煙になります。
 この動きは、もちろんJR東日本だけでなく、東海道・山陽新幹線には喫煙車が残るものの、JR北海道も寝台列車以外はすべて禁煙になります。JR西日本は、列車内では既に全ての在来線普通列車を全面禁煙ですし、明日からは、乗車時間がおおむね3時間まで、九州は2時間程度の特急が全車禁煙になります。JR東海は禁煙車を増やすだけですが、小田急のロマンスカーや東武の特急でも、喫煙車は廃止されます。そして、今まで喫煙車両だった車両は、入念な消臭対策(清掃、カーテン取替等)を施し、できるだけ早くタバコ臭を除去するようにしてくれるそうです。そこまでするのに、なんで、法律で認めるのでしょうかね。それにしても、タバコを吸う人にとっては、次第に吸える場所が狭まってきて、肩身が狭くなりますね。明日をきっかけに、タバコをいっそ止めたらどうでしょうか。

投稿者 fujimori : 21:09 | コメント (2)

2007年03月16日 近頃思うこと

免疫力

 今年は暖冬だと思っていたら、ここのところにきて、とても寒い日が続きます。しかし、桜のつぼみは確実に膨らんでいますし、さまざまな花も咲く準備を始めています。同時に、花粉も飛び始めています。その中で、ブタクサアレルギーは、杉、ヒノキのような鼻水、くしゃみ、目のかゆみなどより少し強いようで、喘息の発作を起こしたりします。また、花粉や細菌が、風で舞い上がったほこりと一緒になり、強くなり始めた日差し、汗をかくようになる気温、虫刺されなどで吹き出物も多くなります。そんなときには、薬で治療するよりも、人間は本来、これら細菌やウイルスなどから体をまもる力が自然に備わっています。かんぽの宿においてあった小冊子「夢閑歩」の中で、医学博士の星野泰三氏が「免疫力を鍛えましょう」という記事を書いています。人間が本来持っている、細菌やウイルスから自然にまもる力の主役は、免疫を担当するリンパ球などの細胞の総称「白血球」だそうです。しかし、ここ30年間で免疫力の性質も変わってきたようです。本来は外からの攻撃に対して防ぐ役割をしていた白血球が、自分を襲ってしまう異常な免疫反応というアレルギーというものがあるからです。「免疫力を鍛えるというと、30年ほど前なら、美味しいものを食べて、運動するというだけでよかったのですが、21世紀には、いかにアレルギーを抑えながら免疫力を上げるかという工夫が必要なのです。」それをこのように解説しています。「どうして自分を攻撃するようになったかというと、幼いころから清潔な環境にいて、あまりにも雑菌と接しなくなったからです。」そんな状況の中で、どのようにしたら、自らの免疫力を取り戻すことができるのかを、こう提案しています。「できれば無農薬のものなど多少雑菌のあるものも取り入れて、1年のうち何回かは鳥や虫など自然とも触れ合い、人間本来の免疫力を取り戻しましょう。自然の中で何日か滞在することをきっかけにして、家での食材選びに留意するとか、ガーデニングをしたり、ペットを飼うとか、上手に自然と一緒に暮らす工夫を都会の家でも心がけたいものです。」また、リンパ球は、摂氏36度以下になると小さくなって働きが弱くなり、36度台だと活発化するそうです。ですから、温泉で体を温めるとかが効果があるのです。また、肺の免疫力を保つには、森林浴でマイナスイオンをたくさん含む空気を肺に入れ、排気ガスにより肺が錆びている状態を、活性酸素で浄化させるのもよいと言います。また、胃腸の免疫力を高めるためには、冷たいものを取らないようにし、乳酸菌を取るのがいいそうです。肝臓の免疫力を高めるのには、シジミ、昆布、ターメリックなどが効果的だそうです。コーヒーも胆汁を分泌するのでよいそうです。また、赤ワインなどに入っているポリフェノールが、リンパ球が錆びるのを防ぐ役目をするそうです。また、免疫力は、精神とつながっています。「ストレスがあると、それを回復しようとして、副腎からステロイドホルモンが出てきます。ステロイドホルモンは体を守る替わりに、リンパ球の働きを抑えてしまいます。ですから、ストレスは、免疫力を下げる非常に大きな要因になるので、風邪をひきやすくなります。逆にうれしいこと、楽しいことがあると、ステロイドホルモンが減って、免疫力が浮き上がるように増えていきます。気持ちの余裕が、まわりの人を優先して考えるというプラス思考を呼び起こし、ちょっとやそっとの困難に出会ってもそれほど大変と思わずに、克服できるようになります。」ストレスは、免疫力を弱めるだけでなく、まわりの人への思いやりもなくなってくるようですね。

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2007年03月15日 近頃思うこと

葉隠れ

 どんな教育論議でも、また、昔から伝えられてきた「心得」でも、哲学書でも宗教書でも教育書でもそれなりの真理が含まれています。しかし、その伝えたいことは、本当はそのすべてを理解しないと、つまみ食いではその伝えたいことは理解できないかもしれませんが、人は理解するときに、その人なりの取捨選択をしているのでしょうね。たとえば、教育勅語の中にはとても人として大切なことが書かれています。今の行き方にも十分通じることがあり、現代人が忘れていることが書かれています。だからといって、今、「教育勅語を復活しよう」というのはおかしな話です。というのは、それが作られた意図や背景が今の時代と違うからです。同じように「武士道」が見直されています。確かにそこには、とても大切なことが書かれていますし、今の行き方でもう一度見直さなければならないことが書かれています。だからといって、今武士でもない私たちがそのまま受け継いでもへんなことになります。私たちは、もう一度、それらの過去の文化、教えの中で、今の時代に必要なものとして見直し、新しい時代の生き方を探っていかなければならないでしょう。「武士道」の中で、私が気に入っているフレーズは、「慈愛」「正義や勇気」「名誉や卑怯を憎む心」であり、「惻隠の情」という「弱者、覇者、虐げられた者への思いやり、共感と涙」を持ちたいと思います。またいつかきちんと解説見たい気がしますが、今日は、先日せっかく佐賀に行ったので、佐賀鍋島藩に伝わる心を少し考えてみたいと思います。それは、「葉隠」といって、江戸時代中期に出された肥前国鍋島藩藩士、山本常朝の武士としての心得について見解を「武士道」という用語で説明した言葉を田代陣基が筆録した記録です。(全11巻)「我が身を主君に奉り、すみやかに死に切って幽霊となりて二六時中主君の御事を嘆き」とか「武士道と云ふは死ぬ事と見付けたり」の文言はとても有名ですね。常に死を意識して自省する態度を説いています。この考え方は、当時の儒学の思想とは大きく離れていたため、最初は、藩内でも禁書の扱いをうけましたが、徐々に藩士に対する教育の柱として重要視されるようになり、「鍋島論語」とも呼ばれました。これが、明治中期以降、新渡戸稲造によりアメリカ合衆国で出版された英語の書「武士道」として逆輸入紹介され、最近、また話題になっています。しかし、有名なフレーズだけでは、その時代に都合のように使われてしまいます。たとえば、「武士道と云ふは死ぬ事と見付けたり」は、曲解解釈された物が軍隊教育に利用され、太平洋戦争中の玉砕や自決を推奨する理由にもなった事実もあり、戦後は軍国主義を推奨した悪書として理解されていました。また、いかにも三島由紀夫が好きそうなフレーズですので、「葉隠れ入門」という本を書いていますが、本来は、「葉隠れ」は死を美化したり自決を推奨する書物では無く、意外と生活に密着したことや、現代のビジネス書や礼法マニュアルに近い内容の記述が殆どです。「大慈悲を起し人のためになるべき事」などは、今に通じます。また、こんなことを書いてある部分もあります。「最近の若者はなっていない。修行もせずに流行を追いかけチャラチャラしてだらしが無い」と嘆いています。「武士道」同様、親子、兄弟、会社、その他、過去、現在、未来においての生き方の真理を説いているのですから、あらゆる国で翻訳されて読まれ、支持されているのも当然でしょう。

投稿者 fujimori : 20:36 | コメント (3)

2007年03月14日 記念日

色の日

 今日は、いわずと知れた「ホワイトデー」です。この日は、バレンタインデーにチョコレートなどをもらった男性が、そのお返しとしてキャンデー・マシュマロなどのプレゼントを女性へ贈る日とされていますが、何でホワイトデーというかというと、バレンタインデー同様に企業の作戦があるようです。この日に、キャンデーを贈るということを販売促進に結びつけ、全国飴菓子工業協同組合関東地区部会が、飴の材料である砂糖が白色だったため「白=ホワイト」から「ホワイトデー」として催事化したものです。もうひとつの説では、福岡市の老舗菓子屋「石村萬盛堂」が、バレンタインチョコのお返しとして、白いマシュマロを売り出したことから命名したとも言われています。どちらもまったく日本での発想なので、欧米ではみられません。ただ、韓国や台湾などでは行われているようです。外国の記念日は、人の名前をとったものが多いようですが、このほかに、色のつく記念日があるでしょうか。日本では、グリーンデーがあります。いわゆる「みどりの日」です。1989年から2006年までは4月29日でした。最初は、「天皇誕生日」とされていたのが、天皇誕生日は12月23日と改められると同時に、自然に親しむとともに、その恩恵に感謝し、豊かな心を育むことを願う日として、新緑の季節として緑豊かな自然に親しむ上で最も相応しい時期であり、ゴールデンウイークの始まりの休日として国民の間に定着している4月29日をみどりの日としました。そして今年からは、その日は「昭和の日」になり、5月4日が「みどりの日」になったのです。そのほか記念日にはありませんが、語呂合せで、色のつく日があります。「白の日」は、「し(4)ろ(6)」の語呂合せで、4月6日です。また、9月6日は、「黒の日」、11月16日は、「いいいろの日」「いいいろ塗装の日」です。語呂合わせは、ほかにもいろいろありますが、ホワイトデーに関連して、ほかにも各月14日ごとに色をつけた記念日を考えたのが韓国です。たとえば、ブラックデーは、4月14日で、バレンタインデーやホワイトデーで贈り物を受け取れずそのまま恋人ができなかった者同士が黒い服を着て集まり、チャジャン麺(黒いあんかけをかけた韓国の麺料理)やコーヒーを飲食する日、とされています。なんだか、わびしいですね。この4月14日は、日本ではオレンジデーです。欧米では、オレンジは多産のシンボルとされ、新婚のカップルなどに贈られることに目をつけ、愛媛県の柑橘類生産農家が、2人の愛を確かなものにする日として、オレンジまたはオレンジ色のプレゼントを持って相手を訪問する日というキャンペーンを行っています。韓国では、このブラックデーに付加して、次々に面白い記念日を作っています。5月14日は、イエローデーといって、ブラックデーが過ぎても恋人ができなかった男性は、この日に黄色い服を着てカレーライスを食べないと恋人ができないとされています。7月14日は、シルバーデーといい、銀を意味するシルバーと、年長者を意味するシルバーがあり、先輩達がデート費を出してくれる日でもあり、まわりの人たちに自分の恋人を紹介します。8月14日は、グリーンデーといい、蒸し暑い夏に涼しい山に行き、森林浴をする日である一方で、まだ恋人がいない人たちが「グリーン」という名前の焼酎を飲みながらお互いに慰めあう日でもあります。そして、11月14日が、オレンジデー&ムービーデーといい、恋人と共に感動的な映画を見て、ほんのりと甘いオレンジジュースを一緒に飲む日とされています。なんだかこじつけですが、面白いですね。

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2007年03月13日 近頃思うこと

教育論議2

 まだまだWEDGEでは、教育論議が交わされています。藤原繁士氏は「首相のリーダーシップなくして教育再生は不可能」という記事を感懐という連載の中で書いています。そこでは、これまでの教育現場の崩れと、議論の混迷に決着をつけようとすれば、二つの条件があると言います。ひとつは、不規則、無原則に飛び交う議論を一定の整合的な道筋に整理し、具体的実行案までに仕上げる、強力的なコーディネーターの存在であると言います。これはわかるのですが、これが首相の断固たるリーダーシップとなるとちょっと心配なところもありますね。もうひとつは、今まで議論の対立する多くのポイントについて、先送りをしてきたが、時間をかけて徹底して決着をつけるための時間の覚悟であると言っています。確かに、性急な改革は危険でしょうが、決着つけるというと、その決着は、いつまで有効なものかが不安です。子どもの環境は日々変わっています。確かに、子どもの育ちにはいつの時代でも普遍性があります。しかし、それが何であるかを論議するのではなく、それを守るためには、今、どんな教育が必要なのかを話し合わなければならないでしょう。小タイトルの「教育問題は、国家百年の計。うやむやな方針はゆるされない」ということは、本当にそう思います。きちんと議論をしてもらいたいものですね。
また、「子どもは変わる大人も変わる」という連載記事の中で、夢街道・国際交流子ども館理事長である比嘉昇氏が「“落伍者はダメ”を変えれば、イジメだらけの社会は変わる」ということを言っています。イジメは、イジメっ子の家庭教育にのみ原因があるのではない。今大事なのは、「点数主義」「拝金主義」を肯定する社会構造そのものに、一人ひとりが本気で異議申し立ての声を上げることだといいます。親も教師も、今は画一化された価値観にがんじがらめになっているので、同居のかつて、子どもの貴重な話し相手になっていた祖父母のような役割を、地域社会が果たせないものかと提案しています。それには、今年から団塊の世代の定年退職が始まるので、企業から地域に戻るその世代に、地域の子どもたちのために立ち上がってほしいと要望しています。確かに、地域に戻ってくる団塊の世代には、何か役割があるかもしれません。これからは、新しい生き方、新しい社会を作っていかなければならないでしょう。拝啓オヤジという連載の中で、相米周二氏は「場の空気は無用。しっかり自己主張。これが俺の生きる道」ということを言っています。中学・高校時代のクラス討議や、大学でのゼミ・合コンや、バイト先で、自分の主張や考えをズバッと言おうとしたり、相手の意見や主張に異議を申し立てようとすると、必ず出てくるのが「場の空気を読めよ」だそうです。「場を恣意的に支配している人間がいて、その人間が場の空気を左右する。それを敏感に周りの人間たちが察知し、さらに場の空気に染まらざるを得なくなり、自分の意見、反論、異論なんかできなくなる。こんな縛りが日本中に蔓延して行ったらどうなるのか」こんなことでは、世界から置いてきぼりを食ってしまうと心配します。3年間外国を放浪してきた相米氏が、外国では、「場の空気」はなかったそうです。「シンドいけれど、相手が誰であろうが、主張し続けていかないと自分たちの立場が脅かされるし、存在も認められない。それが民主主義だ」と言います。これからは、グローバルな時代になります。世界でも通用するような人材を育てる教育が必要になるでしょうね。

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2007年03月12日 近頃思うこと

教育論議

 いつの時代も、教育論議はよくされますが、最近は特に多いような気がします。それは、価値観が多様化し、人それぞれの考え方を持っているからでしょう。また、最近の事件は、青少年が起こすことが多くなり、その原因が教育にあるとする意見が多いこともあるでしょう。また、地域ごとの学力調査、世界での学力調査などが行われ、地域間格差とか、時代による比較をすることが多くなったこともあるでしょう。また、いろいろなメディアから発信することが可能になったおかげで、いろいろな意見を知ることができるようになったこともあるでしょう。それだけいろいろな意見があると、どれかは自分の意見と同じものを見つけて「やはり、そうだ!」と納得することが多くなります。駅の売店や新幹線のグリーン車内においてある「WEDGE」という、主に経済のことが書かれている雑誌の今月号を見ただけでも様々な教育論議がされています。まず、最初のほうで大きく特集されているのは、あの「国家の品格」を書いた藤原正彦氏の「子どもにおもねった初等教育 こうすれば改革できる」というものです。学力低下、学級崩壊、いじめなど、初等教育の現場で噴出している様々な問題の原因は、戦後60年間、国民すべてが子どもにおもねってきたからだとする意見です。戦前への反動から、子どもの尊厳や個性を尊重しようという風潮が社会に広がリ、宿題をしないのも、1日6時間テレビを見るのも個性とされたからと言います。最後に、「子ども中心主義から脱却した教育を与えれば、彼らが親になるころに、次の世代を真剣に育ててくれるだろう。」と結んでいます。最近の目を覆うばかりの道徳観の欠如に対して、このように憂える人たちはいるでしょうね。本当は、戦後の青少年犯罪のほうが、今の事件数の何倍もあったのにと思ってしまいますが。小さい記事ですが、「一人っ子政策の影響で中国に結婚難民が増加」というものがありました。中国では2020年までに結婚適齢期男性の約3000万人が結婚危機に直面する可能性があることが指摘されています。中国では、人口の増加に対して、一人っ子政策という子どもは一人しかもってはいけないという政策を採ったことは知られています。しかし、どうしても跡継ぎがほしいために、男児優先の風潮があり、結果男女比の不均衡が生まれ、結局は多く生まれた男性で結婚ができない人がふえ、跡継ぎがいなくなるという現象が起きます。また、以前、韓国では男児に教育を与えようと、母子が父親を置いてアメリカなどに留学する家庭が増えてきたというニュースをやっていましたが、そのように教育されたわが子が、教育された女性と結婚できたとしても、その女性は、また夫をおいて母子だけでアメリカに行ってしまい、幸せを願って息子を教育したのに、結局は不幸になってしまうと思うのですが。子どものためと思っても、大人の一方的な、利己的な育児、教育は、その子が親になって、人のためになるようなことをするようになるのでしょうか。他の所の記事「相手を知り自分を語らなければ人はついてこない」という亜細亜大学陸上部監督の岡田正裕氏が、記事の最初でこう言っています。「教える立場の人が、教わる人の心情を察していません。点取り教育だけを受けてきた人が、上司になり、先生になり、親になっているからです。痛みのわかる人間を育てる社会にならなければいけないと思います。」上司と部下、先生と生徒、親と子。指導される側は、常に弱い。しかし今、上に立つ人間が、教わる人間がどのような気持ちでいるのか、教わろうと思っているのか、少しずつ変わろうとしているのか、その心情を量れなくなってくると、「こうやれ」と一方的に言うばかりで、伝わったかどうかを考えないと言います。

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2007年03月11日 講演先にて

賢母

 今日は、4月から開園する園の保護者説明会がありました。どの保護者も、子どものことを思い、一生懸命に説明を聞いていました。しかし、年々、一所懸命に子どものことを思い、心配するあまりに、逆に子どもに対して過剰に保護しようとする保護者が増えてきた気がします。怪我をさせないように、ストレスを感じさせないように、つらい目にあわせないようにと心配するあまりに、それらに対して自ら乗り越えようとする力を奪っていることがあるのです。我が子のために何をしてあげればよいかを考えるのは、よほど広い視野を持っていないと、逆効果になってしまいます。
 先日、佐賀に行った時に大隈重信の生家を訪れました。
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 佐賀大隈記念館前に保存されている生家は、父・信保が買い取り、居宅としていたもので、当時は藁葺きの平屋でしたが、のちに大隈重信の勉強部屋として、2階部分の八畳間などが建て増しされています。この家で大隈は、知行300石、物成(年貢高)120石を受ける佐賀藩の砲術長であった父と、慈愛にあふれた母の愛情をうけて幼年時代を過ごしました。ここで受けた母親の愛情を大熊は忘れることがなかったのでしょう。官僚として、政治家として東京で活躍するようになったからは、大熊は佐賀に帰る回数は多くありませんでしたが、ある時、生家の前で車をとめさせ、もはや人手にわたり貸家となっていた生家を感慨深げに眺めていたといいます。随行していた当時の佐賀市長は、それまで大隈の生誕地を放っておいたことにすっかり恐縮し、その生家を保存すべく「大隈候記念物保存会」を組織しました。大隈の父信保は、佐賀藩主鍋島家に仕えて石火矢頭人(砲台司令長官)を勤めていたため、わが子には早くから砲術の名手になることを望んでいましたが、不幸にして大隈12歳のときに病死してしまいます。その後、彼は母三井子の手で育てられることとなりました。その母は、几帳面で度量が広く、慈愛に満ちあふれた母でした。その母も、夫信保を失ってからは、八太郎らをかかえて家計のやりくりに苦労しましたが、自分は質素を旨としながら、子どもには不自由な思いをさせない良き母でした。大隈はその母を回想して、「わが輩は母一人の手で育てられたが、15、6歳の時分からすこぶる乱暴者で、まるでがき大将のようであったが、友人が盛んに遊びにきましたが、母は大層人を愛し客を好まれたから、友人が訪ねてくるのを非常に喜んで、手料理をこしらえて馳走してくれられた。」(「大隈伯百話」)と言っています。大隈の来客好きは、この母の影響によるものかも知れません。こんな逸話も残っています。大隈は子どもの頃、いたずら者で毎日毎日けんかばかり、生傷の絶える間がありませんでした。母は、非常に仏法の信仰が厚く、慈善を施すことを好みました。そんな息子を心配して、「お前、これから朝起きたら顔を洗ってすぐ手のひらへ「南無阿弥陀仏」と書きなさい。そしてけんかを始めるときには「南無阿弥陀仏」を十ぺん繰り返し唱えて、なおかつ敵愾心が消えないなら、そのとき、はじめてけんかをしなさい。」と教えます。また、大隈の厄年に何とか息子の安全を守りたいという一念から、自分で蓮の糸をつむいで一反の織物をつくり、それを四十八に切って、子安観音の絵を描き、全国の主な寺四十八寺へ納めます。大隈もこれにこたえて、孝養のかぎりをつくしました。こうして三井子は幸福な晩年を送り、90歳の天寿を全うしました。賢母になるのは、難しいですね。

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2007年03月10日 講演先にて

吉野ヶ里

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この二枚の写真は、とても似ていると思いませんか、私は、あまりに似ていたのでちょっとびっくりしました。1枚は、今年の2月に行ったドイツでの保育室内の写真です。もう1枚は、今日訪れた「吉野ヶ里歴史公園」の中の集落の中のひとつの工房で、布を染めているコーナーです。もう少しいくと、今度は、大工コーナーがありました。これも1枚はドイツの保育室で、もう1枚は吉野ヶ里です。
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ドイツの保育室は、今年訪れたばかりのほやほやの部屋ですが、吉野ヶ里遺跡は、その時代の再現ではありますが、日本で稲作の文化が始まり、定住文化が根付いた日本の文化の原点ともいえる時代の紀元前 3 世紀から紀元後 3 世紀までの弥生時代の写真です。もうひとつの写真は、糸を紡いで、それを縒って、布を織る作業をしているのですが、やはりドイツのシュタイナー学校での作業を見ているようでした。
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不思議ですね。一人の人間の発達、成長は、人類の進化してきた過程に似ていると言われます。もしかしたら、幼児期は、弥生時代かもしれませんね。この時代は、稲作が伝わったということはよく知られていますが、それによって、弥生時代前期(紀元前3~前2世紀)には、分散的に「ムラ」が誕生しました。集団での営みをするようになったのです。やがてその「ムラ」が、「クニ」へと発展する兆しが見えてきます。弥生時代中期(紀元前2~紀元1世紀)になると、この集落の周りを一周する大きな外環壕が掘られます。そして、首長を葬る「墳丘墓」やたくさんの「甕棺墓地」も見られます。それは、集落の発展とともに、その防御も厳重になってきていることから「争い」が激しくなってきたことがうかがえます。そして、弥生時代後期(紀元1~3世紀)には、国内最大級の環壕集落へと発展し、大規模なV字形の外環壕によって囲まれ、さらに特別な空間である2つの内郭(北内郭・南内郭)をもつようになります。この内郭は、役割分担をするようになったために、役割によって場所が定められたのです。特に北内郭では大型の建物が登場し、ここで、いろいろなことを決めていくのです。今の国会議事堂のようなものだったそうです。
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ここ吉野ヶ里遺跡は、我が国最大の遺跡で、弥生時代における「クニ」の中心的な集落の全貌や、弥生時代 600 年間の移り変わりを知ることができます。それは、日本の様子を記した最古の記録である 魏志倭人伝に出てくる「邪馬台国」の時代を彷彿とさせるもので 国の特別史跡にも指定されています。以前から、何度かそのあたりの通過するときに車窓から、背振山を背景に、高く聳え立つ建造物を見るたびに行きたいと思っていたのですが、やっと佐賀での講演があったので、思い切って訪ねて見たのです。着いてみると、やはり思っていたとおり、広大な敷地に、建物が70棟以上も復元されています。しかも、まだ、その何倍かの復元の地が、このあと公開される予定とか。以前に、縄文時代の遺跡である「三内丸山遺跡」に並ぶ感動を得ることができました。この弥生時代の巨大な環壕集落が見つかったのは、この場所に昭和61年、大規模な工業団地の造成が計画され、それに先立って発掘調査が始まったそうです。復元された建物は、祭殿・祀堂・斎堂などの祭祀関係や、物見櫓・高床住居・高床倉庫が掘立柱建物として復元されました。
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また、住居や工房を竪穴建物の型式で復元したものもあります。復元建物は数が多いだけでなく、構造形式が多種多彩で、弥生時代を彷彿できるように工夫検討されています。

投稿者 fujimori : 23:28 | コメント (2)

2007年03月09日 講演先にて

生卵

 よく、宿泊した宿で、朝食に「生卵」が出ることがあります。今は、ほかに、目玉焼き、いり卵、卵焼き、温泉卵、ゆで卵など様々な卵料理が出ますが、昔は、たとえば修学旅行の時などは必ず生卵が出ました。今日の旅館では、朝食に生卵が出ました。そんなときには、皆さんは、どのようにしてその卵を食べますか?ほとんどの人は、「卵かけご飯」して食べるようです。これは、生の卵と飯を混ぜ、少量の醤油等で調味して作る飯料理ですが、呼び方は地域によって違うようです。「卵ぶっかけご飯」、「卵ご飯」、「卵かけかけご飯」、「卵かけ」、「たまご飯」などと呼ばれていますが、一般的には、関東では「卵かけご飯」、関西では「卵ご飯」と呼ぶ傾向があるようです。この食べ方は、手が空かないときに発明されたあの「サンドイッチ」に匹敵する日本特有の食文化ではないかと思います。朝食によく食べられるのには理由があります。第一に短時間で食べ終わることができる点です。この理由は、ご飯に生卵を加えることで、炊いた米特有の弱い粘り気が減り、米粒一つ一つが分離して流動化し、流し込むように掻き込んで食べることができるためである。このため、たとえば前日の酒量がたたって、食欲不振で昼食までの間に必要とする量が摂れない気分の時でも、流し込むように食べることができ、多くの量を摂ることができるからです。しかし、鳥類が産む卵を食用とするようになった歴史は比較的新しく、卵かけご飯を食べるようになったのは明治時代だそうです。平安時代以降、卵は神仏に供えるものであり、食べると罰が当たるとされていました。そこで、一般的に鶏卵を食べるようになったのは、江戸時代だといわれています。また、現代の日本では卵は生食できる食品として広く知られていますが、外国の殆どの国では、卵を生食する食習慣はなく、火を通した調理が一般的です。それは、生卵はサルモネラ食中毒などを起こしやすく、衛生や伝染病感染の背景から生卵を安全に食べられる地域は限られているからです。日本では、生で食べることを前提にしているので、鶏卵農家が抗生物質を含んだ飼料を与えたり、衛生管理全般が行き届いていますが、日本でも最近、サルモネラ食中毒が増加しているそうです。私は最近は、普段あまり卵かけご飯は食べません。納豆ご飯もそうですが、ご飯は、白いご飯として味わいたいために、何かを混ぜたり、ご飯に何かをかけたりするということはせずに、別々にして食べます。ちなみに、今日は、コンロで温める味噌汁だったので、その中に卵を割りいれて食べました。ご飯に混ぜると言えば、とても美味しいので、小さいころによく食べたものがあります。それは、まず、茶碗にほかほかのご飯をよそります。そのご飯の上に、バターをひとかけのせ、融けるのを待ちます。その上に、少量の醤油をかけ、ご飯、ベター、しょうゆを絡めるようにかき混ぜます。そのマッチングは、微妙な融合があります。子どものころは、とても美味しくて、よくそうして食べました。最近の子どもは、そのように食べることもあるのでしょうか。もし、食べたことのない人がいたら、ぜひ試してみてください。あまり美味しくないとしたら、こんなものを昔はおいしいと言って食べた時代もあったのだということを思い出してみてください。食文化には、消えていくものが多くありますが、その時代を反映していることが多いので、大切にしていきたいですね。

投稿者 fujimori : 23:41 | コメント (3)

2007年03月08日 新聞記事より

連載

 今日の東京新聞の1面にこんな記事が掲載されています。“「ほのぼの君」さようなら”というものです。かつて、夕刊だった東京新聞が朝刊発行に伴い、新聞漫画を通算44年間描いてきた佃 公彦さんが、今日をもって降板するといいます。1956年、「ほのぼの君」の連載を開始します。途中7年間の休載を挟み、本日付まで合計15451回(うち「ちびっこ紳士」5000回)にわたって描き続けてきたそうです。これは、日本の新聞漫画の最長記録だそうです。世界でも、1950年間から50年間描いたアメリカのチャールズ・シュルツ氏がいるそうです。彼は、あの有名なスヌーピーの作者です。日本での記録の2位以下は、毎日新聞の夕刊に連載されていた「まっぴら君」(加藤芳郎 13615回)、そして、読売新聞夕刊に連載されていた「「サンワリ君」(鈴木義司 11240回)、4位は、今、毎日新聞の朝刊に連載中の「アサッテ君」(東海林さだお 11135回)、5位は、朝日新聞で最初は夕刊に連載されていて途中から朝刊に代わった「フジ三太郎」(サトウサンペイ 8166回)、その連載の前に、やはり最初は朝日新聞の夕刊に連載されていて、途中から朝刊に連載されることになった「サザエさん」(長谷川町子 6477回)は6位で、1949年12月1日からの連載です。そして、7位は、毎日新聞の朝刊に連載されていた「フクちゃん」(横山隆一 5534回)です。どの作品も、その新聞をとっていなくても知っていますね。それは、これらのキャラクターは、世代を代表し、生きた時代を表現してきたからでしょう。ですから、新聞を飛び出して、広告、テレビ、商品キャラクターなどにも使われています。
それにしても、佃さんの連載回数はすごいですね。記録更新中の東海林さだおさんでさえ、今のペースで描き続けても、佃さんの今日の連載15451回に到達するのは、あと12年かかかるそうです。佃公彦さんは、先日訪れた徳島県で少年時代を過ごしました。1955年、文春漫画読本に掲載された「ほのぼの君日記」で漫画家としてデビューし、翌年、26歳のときから東京新聞に「ほのぼの君」の連載を開始します。彼の作品の特徴は、登場人物が子どもと動物だけというのと、自然、環境問題をテーマにした作品が多いことでしょう。ここ数年は、直腸がんや腹部大動脈瘤の手術で休載することも有りましたが、そのたびに復帰します。しかし、昨年暮れにはパーキンソン病を発症し、薬の副作用で手がしびれ、絵筆が持てなくなるなどから降板を決意、今日の掲載分をもって「ほのぼの君」の連載が終了したのです。もう今は、喜寿だそうですが、毎日の連載していたここ50年間、長い旅行にも行ったことはないそうです。
最終回の主人公は、題名の「ほのぼの君」ではなく、途中からメインキャラクターになっている「りきまる」というやんちゃな男の子です。最後のせりふは、「月にむら雲、花に風、さよならだけが人生さ…(ナーン チャッテ…)」という三コマ漫画です。最後のこまは、チャップリンを思わせるような、一人後姿を見せながら道を歩いていく「りきまる」の姿が描かれています。しかし、その道のかなたには、山並みが見え、太陽がさんさんと輝いています。作者のコメントで、「毎朝楽しみにしてくださって本当に感謝しています。こういう機会がなければ、僕なんかの漫画でも人に希望や幸せを与えられるんだってことは多分一生分からなかった。連載で元気をもらったのは僕の方です。」と言っています。私のブログは、そんなに続きませんが、今のところ毎日書いて元気をもらっているのは、私のほうです。

投稿者 fujimori : 23:11 | コメント (4)

2007年03月07日 近頃思うこと

成長

 昨日、卒園児と一緒に「お別れ遠足」に行きました。行き先は昨年同様「小山田緑地」です。今も残る里山の間を縫って歩きます。途中の、トンボ池には、小さなおたまじゃくしが泳ぎ、まだかえっていない蛙の卵が水の底に沈んでいます。あさざ池には、カルガモのつがいがえさをついばんでいます。昨日の雨で少しぬかるんでいる道には、何かの獣の足跡がついています。高台に立つと、下のほうには里山が広がっています。こんもりした林の下には、そのあたりの人の墓地があり、いくつかの墓石がこじんまりと立っている姿も懐かしい景色です。その周りには畑が広がり、その畑では、なにをしているのかわかりませんが、屈んで草をむしっているのか、大根でも引き抜いているのか、そんな姿も小さく見えます。家からは、まだ時間が早いのですが、薄煙が立ち上っています。ふとみると、目の前の原を狸が駆け抜けていきます。のどかな里山の風景です。ただ、ひとつ残念なことがあります。この里山の周辺は、ゴルフ場なのです。里山の道は、時折ゴルフ場のコースを横切らなくてはなりません。そのときだけは興ざめですね。子どもたちには、「今日の道のりを歩きとおすと、立派な1年生になれるよ。」と話しておいたので、最後まで、声を掛け合ったり、自分で掛け声を上げてがんばっています。また、「山道では、すれ違う人には、こんにちはと挨拶をするんだよ。」と教えているので、すれ違う人にみんな声をかけます。かけられた人たちは、みんなうれしそうに、笑顔で声を返してくれます。ただ、子どもたちには、「町の中の道や、電車の中では挨拶はしないように」と注意しなければならないのは、少し心が痛みます。
歩いている道端に「カントウタンポポ」を見つけました。
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最近、ほとんどセイヨウタンポポです。セイヨウタンポポは、日があたれば運動場や道路のような場所でも大丈夫ですから、セイヨウタンポポが多ければ、人が切り開いた場所であり、日本のタンポポは、木や草が多いところで、冬から春にだけさくので、日本のタンポポがあれば、木々や緑が多い場所ということができます。タンポポというと、あのきれいな黄色い色をして咲いている姿と、綿毛になった姿を思い浮かべます。その途中の姿をあまり見ませんので、どのように変わっていくのか不思議です。このタンポポの,花が咲き終わってからの様子に注目して,さまざまな事象とその理由を説明しているのが、小学校2年国語の教科書の「タンポポのちえ」です。立つ(伸びて花が咲く)、ねる(花が咲き終わると横に垂れる)、立つ(実の中の種子が熟してくると花茎は立ち上がる)と表されています。その姿は、大自然に逆らうことなく,与えられた環境のもとで,精一杯知恵を働かせて生きているたんぽぽの姿です。種を飛ばすための綿毛に姿を変える前には、きれいに咲いた花がかれ、いったんは倒れます。それは、決して終わりではなく、次に綿毛として起き上がるための休息なのです。休息が終わると、また生き返ったかのように凛として立ち上がるのです。
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この姿を見ると、成長というものは、アナログの世界で、過程がとても大切なものだという実感を持ちます。その瞬間の姿であるデジタルなものとして判断をしてしまうと大切なものを見失ってしまうことがあります。枯れて倒れている姿は、未来の希望を含んでいることがあるのです。卒園児とお別れ遠足に来て、つくづく子どもの成長もアナログの世界だという気がしました。

投稿者 fujimori : 22:58 | コメント (3)

2007年03月06日 講演先にて

遍路

 今日の読売新聞に、「モラルを問う」ということで、「遍路道 ポイ捨て」という記事が掲載されていました。「遍路の旅で人生を見直したい」という遍路が、ごみを路上にポイ捨て、不法投棄が多いそうです。「癒しの道とも言われる遍路道だが、地元ではこのままでは嘆きの道に変わってしまうと心配する声も上がり始めた。」というものです。しばらく、癒しシリーズをこのブログで続けましたが、「癒しの道」というものもあったのですね。
 この四国八十八か所の霊場は、弘法大師が開いたものですが、これら霊蹟をめぐる四国遍路は、伊予国温泉郡荏原村の長者、衛門三郎が自分の非を悟り、大師のあとを追って四国を廻ったのがはじまりだと言われています。私は、四国に行くことが多いので、行った先々にある霊場をめぐればよかったと思っています。これら四国霊場は、阿波の国(徳島県)を発心の道場と言い23ケ寺、土佐の国(高知県)は修行の道場で16ケ寺、伊予の国(愛媛県)は菩提の道場で26ケ寺、讃岐の国(香川県)は涅槃の道場で23ケ寺。全て合わせて八十八ケ寺、三百余里(1200~1400km程)の旅です。この霊場は、四国の山野に開かれた心と体の修行の道場で、八十八の煩悩を除き、八十八の功徳をもたらすと言われています。最近、管直人さんが回ったことでも有名になりましたが、四国遍路がはやってきた気がします。それは、団塊の世代が、自分を見つめるためということで回り始めたということと、観光バスや車を利用して回ることもできるようになったことがあるでしょう。遍路(巡礼者)は札所に到着すると、ある程度決められた手順(宗派によって多少異なる)に従い、本堂と大師堂に参り、般若心経など決められた読経を行い、その証として納札を納め、納経所で寺の名前や本尊の名前、本尊をあらわす梵字などを墨書し納経印を押したものを納経帳に受領することができます。この回り方が、スタンプラリーと揶揄されることもあります。八十八か所すべてを廻りきると「結願成就」となり、その後、高野山(奥の院)に詣でてそれを収め、「満願成就」となります。先日、徳島に行ったときに「霊山寺」を訪れました。ここは、第一番札所ということで多くの巡礼者が集まり、巡礼用具である白衣や金剛杖、菅笠さらに納経帳、掛け軸などが売店で売られていました。
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 弘法大師といえば真言宗の開祖として知られていますが、嵯峨天皇、橘逸勢と共に「三筆」と呼ばれるほどの書の名人としても有名でした。その弘法大師が字を書き損じたという話は「今昔物語」におさめられています。京の都の大内裏に応天門という門があります。弘法大師は勅命を受けてこの門に掲げる額を書くことになりました。ところが書き終えて額を門に掲げてみると、「応」の字の一番上の点を書き忘れていたのです。ということで、「弘法にも筆の誤り」「弘法も筆の誤り」という「かの書の大家、弘法大師ですら書で間違いを起こしたことがある」ということから、「どんな人間でも間違いは起こすもの。」という意味で使われます。しかし、それをどうしたかというと、さすがは弘法大師、筆を投げつけて点を打ったといいます。やはり器が違う、誤りの直し方が違う、ということで、「しかし、弘法大師は書き直し方さえ、常人とは違う」という、誉め言葉としての意味も併せ持つ諺とされています。間違いは誰でもすることがありますが、それをどのように直していくかが大切なのですね。

投稿者 fujimori : 23:51 | コメント (5)

2007年03月05日 新聞記事より

企業評価

 日経新聞社が日経リサーチと共同開発した多角的企業評価システム「PRISM(プリズム)」による優良企業ランキングベスト300が、今日の日経新聞に掲載されていました。この評価システムのプリズムとは、四つの因子で企業を評価します。もちろん、大きく影響する因子として「収益・成長力」です。その次に重視されるのは、「柔軟性・社会性」です。これは、社会貢献、リスク管理、環境経営、法令順守、顧客対応、海外IRなど22も指標があるそうです。三つ目の因子が、「若さ」です。具体的には、部長最年少昇格年齢、非正社員の制度、中途採用者比率などです。最後の因子が、「開発・研究」で、売上高研究開発費比率、研究開発従業員比率、特許出願状況などです。今回のランキングで浮き彫りになったのはグローバルな競争力を高めようとしている企業ほど高い評価を得ている事実だそうです。そして、グローバルで勝てるような競争力をつけるには、事業再編戦略が必要です。よく、保育、教育界で聞かれることは、「変えない」ことに価値があるように言われることがあります。民営化などするときに、「変えないこと」が条件になることがあります。それは、子どもの情緒が安定しないからだと言うことがありますが、日々成長している子どもにとって、変えない事、一所にじっとしているほど苦痛なことはないはずです。今回1位になったのは「コマツ」ですが、この会社は、私の園が2001年度にグッドデザイン賞を受賞したときに、いっしょに大賞候補に選ばれていました。「新領域部門」での大賞候補は5社で、最後に受賞したのは、「ナイキ」でしたが、最後まで、私の園もナイキとか、小松製作所と競ったのです。同様に、私がもうひとつグッドデザイン賞を受賞した2005年度に、グランプリを受賞した注射針を開発した「テルモ」も今回順位を46位から20位に上げています。これら上位の会社は、なるほどと思いますね。ちなみに2位は「キャノン」、3位は「トヨタ」でした。これら上位を占める企業は、グローバル感覚を磨く環境に自らを置いています。今回の評価だけではなく、今回2位のキャノン、3位のトヨタは、米誌フォーチュンが、昨年、世界の大企業幹部の意識調査をもとに選んだ「世界でもっとも尊敬される企業」の上位50社にも入っているそうです。日経によると、「企業の評価基準は変わっていく。今年1月、世界経済フォーラムの年次総会で、あるランキングが発表された。“世界で最も持続力のある企業100社”。重視するのは地球温暖化への対応をはじめ、収益性などの伝統的な物差しとは一線を画す社会的な指標。プリズム上位10社中、選ばれたのはトヨタだけだ。温暖化防止を目指す規制に見られるとおり、環境問題への対応の遅れは経営リスクでもある。ルールが変わればプレーヤーも変わる。新たなルールが得意な企業は浮き、適用できない企業は沈む運命にある。」
 保育の新たなルールとは、何でしょうか。もちろん「保育の質」です。いままでのルールであった「制度」に守られていた時代は終わろうとしています。それは、何も企業的になるということではありません。企業的競争原理の中で質を高めていくことでもありません。評価の高い企業は、ただ競争に勝とうとしたわけでもなく、やはり最後は、「世界で尊敬される企業」でなければならないのです。私たちも、保育の質を高め、よりグローバルな観点から再編を考え、「尊敬される園」になっていかなければならないのです。

投稿者 fujimori : 20:30 | コメント (3)

2007年03月04日 講演先にて

第9

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 この写真の看板は、何を表していると思いますか?ドイツに行ったことがある人はすぐにわかると思います。そうです。あのドイツのパン「プリッェル」です。この看板は、ドイツのパン屋さんの看板です。この看板に、思いがけず、今日の朝に来た、徳島県鳴門で見ました。どうして徳島にあるのでしょうか。この建物は実は映画のロケ現場です。その映画とは、昨年6月に全国東映系でロードショーされた「バルトの楽園」です。この映画は、言語や習慣、文化の異なる国民が収容所生活という特殊な環境で、ドイツ人捕虜と日本人がどのように交流していったのか?そして現代に何を残したのか?と問いかけながら、捕虜達の技術、職業、知識、経験が生んだ地域住民との友好と産業の興隆、軍人でありながら、生きる自由と平等の信念を貫き通した所長・松江豊寿を始めとした所員達のヒューマニズムを描き、反人権と暴力が衝突し、混迷を極める現代社会に警笛を鳴らし、希望の光を灯してゆくことを目指したものです。
 1914年、第一次世界大戦で日本軍は、3万の大軍を送り込み、ドイツの極東根拠地であった中国の青島(チンタオ)を攻略しました。その戦いの結果、ドイツ兵4700人が捕虜として送還され、日本各地にある俘虜収容所に収められる事となりました。ふつう、厳しい待遇が当然な俘虜収容所の中で、約1000人の俘虜たちが収容された奇跡のような収容所が、徳島県鳴門市の板東に存在していました。
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 それは、ここ板東俘虜収容所の所長を務める会津人の松江豊寿は、陸軍の上層部の意志に背いてまでも、ハーグ条約に則りドイツ人捕虜達の人権を遵守し、ドイツ人俘虜収容所としては例のない寛容な待遇をさせたのです。そこで、ドイツ人の捕虜達は、言語・習慣・文化の異なる地域住民と民族を越えた素朴な人間愛を育みながら収容所での生活を送ることができました。そこで、様々な技術が日本人に伝達されたのです。たとえば、パンの伝承は、徳島県の農業技師が自宅の庭に小屋を建てて俘虜を数人宿泊させ、そこから敷島パンに通勤させてパンの製法を伝授していたそうです。また、鳴門市内にある『ドイツ軒』というパン屋は、俘虜たちが教えた製パン技術を今も守っているそうです。そして、ソーセージは、 日本ハムの創業者である故・大社義規氏が食肉加工技術を俘虜たちから学び、徳島市内に日本ハムの前身となる「徳島ハム」を創業したそうです。さらに、ロースハムの名付け親である俘虜のアウグスト・ローマイヤー氏は、解放後に帝国ホテルでハム・ソーセージ職人として従事し、やがて東京銀座に『ローマイヤー』というレストランを開いたそうです。そして、俘虜のハインリヒ・ヴェーデキント氏は、解放後に月星ゴムに迎えられ、50余年を勤め上げ、日本のゴム産業発展に寄与したそうです。有名なところでは、ドイツ人菓子職人カール・ユーハイム夫妻が神戸に創立し、戦後バター納品業者だった河本春雄前社長が出資、株式会社化したのが、バウムクーヘンが有名な「ユーハイム」です。ただ俘虜を痛めつけ、過酷な処遇を与えていたなら、ずいぶんと日本も損したことでしょうね。人はいがみ合うことからは、恨みを生みこそすれ、得られるものは何も生みだしません。助け、援助するところから、また、共生し、協力するところから後世に残るものが得られるのです。
 もうひとつ、重要な遺産があります。これが映画の主題です。それは、ここの収容所内で、ベートーヴェンの「交響曲第九番」がドイツ兵捕虜による全曲演奏がなされたのが、日本における第9の初演とされています。

投稿者 fujimori : 23:01 | コメント (2)

2007年03月03日 記念日

園のビジョン

 建物を新築するときに、何を設計者の方に伝えようとするでしょうか。よく、保育園、幼稚園を新築するときに、きちんと使う人、現場も設計者と話をして、考えを伝えるべきだということで、現場の職員と何度も話し合いを重ねているということを聞いたことがありますし、参考にしようと私の園に見学に来る方がいます。そんなときに、「いったい、この人はどんな園を作りたいと思っているのだろうか?」と不思議に思ってしまうことがあります。というのは、私の園に着くなり、メジャーを取り出して、机の高さ、椅子の高さ、窓枠の高さなどを測り始めます。確かに、建物にはあるスケールが必要です。机や椅子の高さも必要かもしれません。しかし、スケールを考える前に、その机や椅子をどのような場面で、誰が使い、それを使うことによって何をしようとするのかを考える必要があるのです。たとえば、私の園でこんなことがありました。3歳児から6歳児がいっしょに活動をするときに、3歳児と6歳児では体がずいぶんと違うので、同じ大きさの家具を使うのは無理ではないかと考えました。座る椅子にしても、子どもの体の大きさで変えたほうがいいのではと思いました。そこで、小さい椅子から大きい椅子まで何種類かそろえ、大きい子には大きい椅子を、体が小さい子は小さい椅子を使うようにしたのです。すると、そのことに間違いがあることに気がつきました。確かに、その椅子に座って、人の話を聞く場合はそれでいいのですが、その椅子に座って机で食事をするとき、机の高さは変わりませんので、体の小さい子には大きい椅子、逆に体の大きい子には小さい椅子に座ったほうが食べやすいのです。このように、同じ椅子でも用途によって、何を優先するかということで違ってきます。ですから、椅子の高さをただ片っ端から測っても意味がないのです。また、どのような建物を作るかといって要望を出させると、「なるべく収納を多くしてほしい」とか、「木をふんだんに使ってほしい」とかという要望が出ますが、それよりもまずは、そこでどんな保育を展開しようとするのかということをきちんと伝えないといけないのです。後で、その建物を見ただけでも、ここでどんな保育が展開されるのかがわかるような空間作り、部屋の配置、家具の配置でなければならないのです。
2003年にNHKの「トップランナー」という番組にデザイナーの佐藤可士和氏が出ました。彼は、現在日本を代表するアートディレクターの一人で、SMAPのアートワークやキリンビールの「極生」などの商品開発・広告キャンペーンなどを手がけたことで知られています。そんなデザイナーのトップランナーである彼が番組の中で、「たとえば幼稚園とかをやってみたい。教育とか医療とか、アートディレクションの力が、ほとんど利用されていないところでなにかをやってみたい。ぼくはデザインの力をとても信じているから」というような話をしました。また、「教育のカリキュラムをいじるより、アートディレクションのアプローチで解決できることだってたくさんあるかもしれないですから。」と言っています。その佐藤氏が、あるきっかけで幼稚園建築のディレクションをすることになったのです。その舞台となったのは、東京都立川市にある「ふじようちえん」(定員:保育児含め600人)です。
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「具体的な園舎のデザインではなく、新しい幼稚園の在り方やその状況をデザインし、園のビジョンを提示する」その園の落成披露式に今日行ってきました。

投稿者 fujimori : 23:10 | コメント (3)

2007年03月02日 近頃思うこと

平手と吉良

 春になった気配は身の回りにいろいろとあります。今日、帰りに渡った利根川にかかる朧月を見たときに、もう春だなあと思いました。そのあと、連想ゲームではありませんが、なにを思い出したでしょう。たぶん、若い人はまったくわからないでしょうね。私は、次のような歌詞を思い出したのです。「あれを御覧と 指差す方に 利根の流れを ながれ月昔笑うて ながめた月も 今日は 今日は涙の 顔で見る」昭和14年に、田端義夫の歌でレコード発売された「大利根月夜」(作詩:藤田まさと 作曲:長津義司)です。これは、何を歌った歌かというと、2、3番の歌詞を見るとわかります。「愚痴じゃなけれど 世が世であれば 殿のまねきの 月見酒 男平手と もてはやされて 今じゃ 今じゃ浮世を 三度笠」「もとをただせば 侍育ち 腕は自慢の 千葉仕込み 何が不足で 大利根ぐらし 故郷じゃ 故郷じゃ妹が 待つものを」そうです。浪曲や講談で有名な「天保水滸伝」に出てくる「平手造酒」(ひらてみき)のことです。平手は、もともと北辰一刀流の達人でした。そして、千葉周作門下の使い手として将来を期待されていましたが、生まれつき窮屈な事が嫌いな性分と不身持が不幸となり道場を破門され、落ちぶれて利根川沿岸の博徒の大親分の用心棒になります。昨日のブログで書いたように利根川は土地を潤すために、昔からその利権をめぐり縄張り争いが行われていました。その縄張り争い「大利根川原の決闘」で助っ人として、活躍し、奪戦しますが、重傷を負い、31才で死去したということになっています。彼を主人公として、他にも三波春夫が昭和34年に歌った「大利根無情」(作詞:猪又良 作曲:長津義司)にも描かれています。特に、その歌に挟まれているせりふにその心情が描かれます。「佐原囃子が聞こえてくらー 思い出すなァ‥‥御玉ケ池の千葉道場か うふふ‥‥平手造酒も今じゃやくざの用心棒 人生裏街道の枯落葉か」「止めてくださるな妙心殿 落ちぶれ果てても平手は武士じゃ 男の散り際だけは知っております 行かねばならぬ そこをどいて下され 行かねばならぬのだ」もと武士としての誇りと、一宿一飯の義理を貫く人生に共感を覚えた人が多かったのでしょう。もう一人、私が小さかったころに聴いてあこがれた人に、「吉良仁吉」(きらのにきち)がいます。昭和13年に発表された「人生劇場」(作詞:佐藤惣之助 作曲:古賀政男)の歌詞からあこがれたのです。「やると思えばどこまでやるさ それが男の魂じゃないか 義理がすたればこの世は闇だ なまじとめるな夜の雨 あんな女に未練はないが なぜか涙が流れてならぬ 男ごころは男でなけりゃ 解るものかと諦めた 時世時節は変ろとままよ 吉良の仁吉は男じゃないかおれも生きたや仁吉のように 義理と人情のこの世界」この3番の歌詞の仁吉のように生きたいとこの歌の主人公が思うところです。この歌のもとの「人生劇場」は、愛知県吉良町出身の作家尾崎士郎の自伝的大河小説です。これを手本としたものに、同じ早稲田大学の後輩五木寛之の自伝的な大河小説「青春の門」があります。吉良仁吉については、昨年TVで、中村雅俊が仁吉役をやったドラマが放映されていました。彼も没落武士の子として生まれ、3年間清水次郎長の下で過ごし、その後故郷に帰って吉良一家を興します。しかし、わずかな恩に報いるために、恋女房と別れてまでも負けるとわかった戦に挑み28歳の若さで散った吉良の仁吉は、義理と人情そのものだったのです。今は、こんな人生は馬鹿らしいと思いながらも、なんだか惹かれるものもあります。しかし、次の時代には、まったく引き継がれないでしょうね。

投稿者 fujimori : 23:28 | コメント (2)

2007年03月01日 講演先にて

利根川

 よく、自然とか、地理 、歴史。建物。組織などを表すとき、その規模、特徴などによって順位を決め、その順位で呼ぶことがあります。よく使われるのは、「ナンバーワン系」といわれる場合です。「世界一○○」「日本一○○」「宇宙一○○」という表し方をします。それとか、「初系」で言う場合は、「日本初の○○」「日本最古の○○」「日本最後の○○」「日本唯一の○○」とずいぶんいろいろな言い方がありますね。このような言い方をすれば、どんな地域でも何かは有りそうな気がしますし、それを観光の売りにするところが多くあります。今日、夕方渡った「利根川」は、「日本一流域面積が広い川」といわれています。この利根川は、群馬県・長野県・栃木県・茨城県・埼玉県・千葉県・東京都にまたがり、全長約16,840kmあります。また、ほかに「三大系」という言い方で表すことがあります。「世界三大○○」「日本三大○○」と呼ばれるもので、「三冠」とも言われることがあります。この中に利根川が入る場合は、「日本三大河川」として、信濃川・利根川・石狩川が挙げられています。また、「三大暴れ川」として、利根川・筑後川・吉野川が選ばれています。ちなみに、川に関係するものとして、「日本一長い川」は、信濃川(367km)「日本一短い川」は、沖縄県の塩川(300m)、「日本三大急流」が、最上川・富士川・球磨川で、「日本三大清流」が、柿田川・長良川・四万十川です。「世界三大河川」は、アマゾン川・ナイル川・{ミシシッピ川・長江}で、世界一流域面積が広い川は、アマゾン川 (705万km²)、世界一長い川は、ナイル川 (6650km ないし 6695km)です。
 話はずいぶんとそれましたが、今日渡った利根川は、千葉県と茨城県を分けています。全長は約322kmで、信濃川に次いで日本第二位で、流域面積は約16,840km²に及び日本で最大です。また、日本三大暴れ川の一つに数えられるために、それらの川を人にたとえて利根川を長男と見立てて「坂東太郎」の異名を持ち、「筑紫次郎」は、筑後川(筑紫三郎といわれる場合もある)、「四国三郎」は、吉野川(四国次郎といわれる場合もある)を指します。この利根川がどう流れているかというと、源流は良く分からないのですが、海に流れ込むところは、あの房総半島のとがったところの銚子あたりだということは、日本地図を思い浮かべるといっしょに思い出されますね。しかし、これは、人工的に無理やり流れを変えたことはあまり知られていません。江戸時代初期までは、江戸湾(現在の東京湾)に注ぐ川であったのです。そして、今では利根川の支流となっている渡良瀬川や鬼怒川は独立した河川でした。
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  1000年頃の関東平野の水脈想定図
ところが、江戸幕府は食糧を賄うために関東平野の新田の開墾、東北地方や北関東から江戸の街への舟運の開発と安定化、水害の軽減、飲料水の確保などを目的として、利根川を渡良瀬川筋に、さらに常陸川筋に、そして鬼怒川水系と繋ぐように、少しずつ東に付け替える大工事を実施しました。最終的には利根川の本流は銚子の方へ流れるようになったのです。(治水上の利根川本流が銚子への流路に確定するのは明治時代です)多くの人の努力によって、江戸の人口密集地帯を避けるように流れを変えていった利根川は、分流後の20kmほどの部分は、人工的に開削されたものであり、現在、利根川の流域面積は日本一となっていますが、その大半は、瀬替えによって生じたものです。これを「利根川東遷(とうせん)事業」といいます。その結果、江戸では水田や交通路の開発を中心とした経済基盤の整備が進み、関東の発展の土台を築いたのです。こんなことも、利根川を渡らないと思い出しません。

投稿者 fujimori : 23:58 | コメント (3)