日赤と佐野

 JR飯田橋駅を降りて目白通りを九段の方角へ歩いていくと、歴史のプロムナードと名づけられたこの道の所々に「歴史の標柱」が何本もあります。それを見ながら歩くと、かなりブログネタが集まります。その中のひとつを紹介します。それは、「日本赤十字社跡」という標柱です。
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この標柱は、最近のブログに関係がありますが、1894年に芝に移るまで、この地に日本赤十字社があったことを示すものです。1877年の西南戦争のとき、佐野常民が博愛社を結成して、敵味方の別なく傷兵の手当をしたのが、我が国における日本赤十字活動の始まりといわれています。その後、1886年、博愛社という病院が現在の飯田橋駅附近に建てられ、国際赤十字条約に加盟したのを機に日本赤十字社と名称を改めたのです。このとき、博愛社を結成した「佐野常民」は、日本赤十字社の初代社長になりますが、佐賀の弘道館出身なのです。佐賀に行った時に、時間がなくて見ることはできませんでしたが、見ようと思った施設に「佐野常民記念館」があったのです。佐野常民は文政5年(1822年)、肥前国佐賀郡早津江村(現・川副町)に生まれます。医学を修め、成績優秀だったため、佐賀藩主鍋島直正の信頼を得て、日本で第一級の蘭学者、化学者、医者について各一年ずつ学んでいます。その間に大村益次郎など維新に活躍した多くの人と知り合います。多分、その影響もあったのでしょう、常民は単なる医者にとどまることができず、勤皇運動に傾倒していきますが、それが藩の知るところとなり、急遽、長崎に転学を命じられます。そこで、幕府の海軍伝習所に入り、航海・造艦・射砲術などを学びます。ここで得た知識をもとに、佐賀藩に帰ると汽車、蒸気船の模型などを完成させ、各国で開催された万国博覧会に佐賀藩から参加します。そして、ウィーンの万国博覧会に参加した際、敵味方の区別なく戦場で負傷した将兵を看護する赤十字社があることを知り、元老議員に呼びかけ、岩倉右大臣に嘆願書を提出します。しかし、博愛社の規則第4条にある「敵人ノ傷者ト雖モ救ヒ得ヘキ者ハ之ヲ収ムへシ」とする規定、つまり「敵の傷者も差別なく救う」という博愛社設立の趣旨は、当時の政府には受け入れられませんでした。常民はひるまず、京都の天皇仮御所にも行きますが、要領を得られず、九州で征討軍総監有栖川宮熾仁親王に趣意書を出し、その日即決でやっと許されます。この日、5月1日が博愛社、のちの日本赤十字社創立記念日です。そして、1886年に日本政府がジュネーブ条約に加入したことに伴って、翌1887年に名称を日本赤十字社と改称し、現在の形となり、初代の社長に就任しました。最初、この博愛社の活動は、当時、敵の負傷者まで助けるという考えが理解できなかった人々を驚かせ、人道・博愛という精神文化の基礎をわが国に植え付けたのです。
 佐野は、9歳のときに佐賀藩の「弘道館」に通います。資料によると、ここでの生活で、難しいことに挑戦する喜びと、知らなかったことをこつこつ覚える楽しみを知り、勉強の面白さを感じています。もちろん、もともと頭がよく、勉強はできるほうだったのかもしれませんが、このように勉強と相対しているなら、未履修問題は、違う問題になっていたに違いありません。「学んで損をした」という感想は、なんとも情けない話です。「学ばなくて損をした」「知らなくて損をした」という感想は、学ぶ楽しさや、知る喜びがあってこそ出てくる感想でしょう。

秋葉原

 「通勤」のブログで書きましたが、私は、中学校への通学ルートは、浅草橋駅から秋葉原駅乗換え神田駅まで行っていました。ですから、秋葉原という場所はとてもなじみのある場所です。しかし、この駅ほど、昔のイメージと変わってしまったところはないくらいです。私が小中学生だったころの秋葉原は、電気関係のさまざまなパーツを売っている小さな店が所狭しと並んでいました。それは、終戦直後、近くに位置する電機工業専門学校(現東京電機大学)の学生が、ラジオの組み立て販売のアルバイトを大ヒットさせ、部品を供給する電器関係の露天商がそこに集中したからです。そして、戦後GHQが道路の拡幅整備のために露店撤廃令を施行したために、この闇市は廃止されようとしましたが、東京都と国鉄が救済措置として秋葉原駅のガード下に代替地を提供し、そこへ店を集めたのです。それが、私が訪れた電気街だったのです。もうひとつ、秋葉原に多くの電器商が集まってきたのには理由があります。戦前から店を構えていた廣瀬商会が総合問屋として、地方にネットワークを持っており、地方から仕入れに来る小売業、総合卸、二次卸し店で店がにぎわったために、秋葉原は安いという評判が広まったからです。また、「国鉄」だけではなく「都電」を利用するにも、秋葉原は非常に便がよかったのです。そして、電気店にとって、大きなな転機が二つ来ます。ひとつは、昭和26年の民放ラジオ局放送開始です。もうひとつは、昭和28年の「家電元年」ともいわれる「テレビ放送の開始」です。ちょうど朝鮮動乱の特需での好景気と相まって、現在、電気店として有名な店舗が続々できてきたのです。「電気のことなら石丸電気、石丸電気は秋葉原」の石丸電気は戦前から店を構えていましたし、「電器いろいろ秋葉原、オノデン」のオノデンは、昭和23年に店舗を構えています。昭和30年代前半では、「三種の神器」といわれた家電がありました。それは、「白黒テレビ」「電気冷蔵庫」「電気洗濯機」です。同時に「ラジオ」や「扇風機」や「アイロン」なども大きな飛躍を遂げています。それが、家電市場が徐々にコジマなどの郊外型量販店に奪われるに従って、秋葉原の電器店は主力商品をパソコンに移していきます。これにともなって秋葉原を訪れる客層も、親子連れから若い男性のパソコン・マニアへと、中心を移っていきます。さらに、この新たな客層が触媒となって、「電気街」という街の特質そのものを揺るがしかねない、さらに大きな変化がおきます。それは、同人誌やガレージキット専門店の集中に代表される、秋葉原の急激な「オタクのメッカ」へと変貌したのです。そして、秋葉原でいう「同人誌」は、基本的には人気漫画・アニメ・ゲームの特定作品のファンが集まり、その作品の登場人物や世界観を流用して描かれたアマチュア漫画の作品集のようなものであり、「ガレージキット」というのは、人気漫画・アニメ・ゲームに登場する美少女やロボットなどのキャラクターを主なモチーフにした、マニア向けの少量生産の模型のことなのです。以前の秋葉原も「マニア」の町でした。しかし、そのマニアは、子どもにもいましたが、今のマニアにはいません。なんだか悲しい気がします。それが、最近少し変わってきました。それは、2005年8月24日に、この秋葉原駅と茨城県つくば市を結ぶ58.3Kmの「つくばエクスプレス」が開通したことです。この電車に昨年乗ってみましたが、とても快適で、秋葉原駅もずいぶんときれいになりました。これから、秋葉原は、どんな変貌を遂げるのでしょう。

マイブーム去る

 私の中で、なんとなく最近マイブームが去ったのが、ラーメンです。特に、年をとったせいか、「とんこつラーメン」は遠ざかっています。一時期は、よく食べました。今は、各地に「ご当地ラーメン」がありますが、ラーメンといえば、東京、札幌、博多が日本三大ラーメンと言っても過言ではありませんでした。私が子どものころは、もちろん、東京ラーメンが中心でした。いわゆる「支那そば」とか「中華そば」とか言われていたものです。しょうゆ味のあっさり系です。そして、中学生のころに「タンメン」という塩味のラーメンを知りました。そして、大学生のころから「八王子ラーメン」を知りました。このラーメンは、しょうゆ味ですが、ねぎに「長ネギ」を使わずに、「たまねぎ」のみじん切りをいれます。たまねぎの甘さがよく出て意外とおいしくなります。そして、九州ラーメンを知ったのです。その中で、博多ラーメンは、熊本と並んで、九州とんこつラーメンの知名度を全国的に上げた功労者です。スープは、とんこつをグラグラと長時間炊き出し、髄のエキスを絞り出して脂を乳化させたこってりです。麺はで、茹で上がりの早い、低加水の細麺を使っていますが、伸びやすかった為に早く食べきれる少量におさまり、そのかわり麺のみをお代わりする「替え玉」システムがあります。具はチャーシューに白ごまと紅ショウガ。ネギは緑色で細い博多万能ネギ。辛子高菜を置いてある店もあります。東京で有名な博多ラーメン店は、「なんでんかんでん」「一風堂」「ふくちゃん」などです。
 昨日「赤のれん」という博多ラーメン店で食べました。その店内に、その由来が書かれてありました。昭和16年(1941)ごろから昭和55年(1980)ごろまで、森堅太郎さんという人が玉屋百貨店横の屋台「三馬路」で澄んだスープの支那そばを売っていたといわれ、これが博多における最初のラーメン屋だといわれています。そして、津田茂さんが、戦時中、中国・奉天(今の瀋陽)に兵役でいたときに食べた「十銭そば」という支那そばが忘れられませんでした。その時食べた白濁した豚骨スープは、アイヌ料理のソップであると聞いていました。その支那そばを作っていた中国人は、以前住んでいたことのある北海道でアイヌの人から教わったと言っていたそうです。このソップの味が忘れられなかった津田さんは、そのときの記憶を頼りに研究を重ね、豚骨を煮込んだ白濁スープを完成させました。そして、戦後まもない昭和21年頃「白濁豚骨スープの博多ラーメン」として、屋台を引き始めました。そして、昭和23年、福岡市箱崎に屋台ラーメン「赤のれん」という店を出したのです。これが、博多ラーメンの発祥です。屋台を始めた頃、当時アセチレンガスを灯して明かりにしていたためにのれんも顔もすすだらけになってしまったので、のれんを赤く染めたのが屋号の由来です。同じ福岡市で、昭和30年に長浜に魚市場が移転しました。そのとき、近くに並んだ屋台が「長浜ラーメン」の発祥で、忙しい魚市場の客を相手にしていたために、短時間で湯で上がるよう、麺がどんどん細くなっていき、これがストレートの細麺を生み出し、替え玉のシステムを考え出したのも長浜ラーメンが発祥です。この「博多」、「長浜」2つのラーメンが互いに良い所を取りあって、それぞれのラーメンを発展させてき手、九州ラーメンを日本中に広げていったのです。今では両者の区別はあまりなく、総称して博多ラーメンと呼ばれることもあります。若い人には、ずいぶんと人気があるようですね。

佐賀藩

 教育の意義は、将来どんな人材を輩出することになるのかにかかってきますが、そのよい人材というのがなかなか難しいですね。いわゆる「逸材」というものです。というと、抜きんでてすぐれた才能をもっている人ということになってしまいます。抜きんでないといけないとなると、どうでしょう。もちろん、たとえば農家の人でも、その道で抜きんでている人はいるでしょうし、漁師にしても、大工にしてもいるでしょう。しかし、それらの人は、世の中ではとても大切であるのにもかかわらず、歴史的にはなかなか名が残りません。ですから、歴史的な「逸材」となると、少し意味が違ってくるかもしれませんね。しかし、不思議なことに、この歴史的な逸材を輩出してきた地域はかなり偏っています。それは、気候風土が人を育てるという面はあるかもしれませんが、一番影響するのは、やはり「教育」ではないかという気がします。それが、良くも悪くも大きく影響してきます。たとえば、幕末のころ、中心になっていたのは薩長土というのが、馴染みがありますが、それは薩摩、長州、土佐藩のことです。しかし、本当は、「薩長土肥」と言います。この「肥」というのは、今月訪れた、肥前佐賀藩のことです。私は、あまり幕末の佐賀藩についてはあまりよく知りませんでした。それは、倒幕の時期、薩長土には英雄がいましたが、肥前佐賀藩は二重鎖国をひいていて、志士は居ても藩外には出ず、活躍した人物がいなかったからかもしれません。しかし、今回訪れてみて、佐賀藩は、国内に他とない厳しい教育制度を持ち、優秀な人材を抱えていたのです。彼等は倒幕後、明治政府の整備において活躍しました。
では、佐賀藩では、どんな教育をしていたのでしょう。この地から輩出された人材として、早稲田大学創始者で、日本で初めて政党政治を行った大隈重信は有名ですが、大隈自身、回顧録で弘道館や致遠館での勉強が役に立ち、ありがたかったと言っていたり、副島種臣や江藤新平なども外交問題で活躍しますが、ここにも弘道館で鍛えられたことが基になっていると言えるようです。このように、佐賀藩10代藩主鍋島直正は、諸藩に先んじて西洋文明を取り入れ、弘道館にて多くの人材を育成しました。この「弘道館教育」とはどんな教育だったのでしょうか。この弘道館は、第8代藩主治茂の時にできましたが、弘道館初代教授古賀精里の長男の古賀穀堂が30才という若さで弘道館教授に大抜擢されたときに、弘道館改革の新政策を「済急封事」として建白しています。そして、「学政管見」をつくり、これを基本として教育改革を行いました。これは、江戸時代にできた教育論としては、今も評価が高いものです。主な要点の第1は「国家に有用な人材を取り立て、一統の風俗を正しくして、御政治の根本となるべきこと。」2番目は、「だれでも勉強せねばならぬ。…」さらに「公明選挙」。3番目は、「誰でも学校には入れるようにしないといけない。」4番目は、「いい加減なことを言ってうだうだしてる人は、追放しなければならない。」5番目は、「学館経費を減少してはならない。それどころか3倍にしなければならない。」6番目は、「西洋の学問を振興させ、外国の勉強をして、外国に対する備えとする。」7番目は、「優秀な人材を江戸・上方・他藩へ留学させる。」でした。今の教育再生会議で出されたものと比べてどうでしょうか。私は、特に、5番目が気に入っています。

定着度

 小学校における学習指導要領は、「基礎・基本を確実に身に付け、それらをもとに、自分で課題を見つけ、自ら学び、自ら考え主体的に判断し、行動し、よりよく問題を解決する能力を育成すること」をねらいとしています。これらを「確かな学力」ととらえていますが、実際に、これらの力が子どもたちについているでしょうか。また、この「確かな学力」をつけるために、教育計画や指導方法を工夫しているでしょうか。どうすればよいかを明らかにするために、児童・生徒の学力の定着状況を、まず把握することが必要です。そんなこともあって、私の住んでいる八王子市では、平成16年、17年に小学校第6学年児童と、中学校第1学年生徒に対して学力定着度調査(国語・算数)と学習習慣等の学習意識調査をしました。「学習定着度」とは、学習指導要領の目標、内容に照らして、基礎・基本の定着状況と自ら考え問題を解決する応用力の伸びの状況ととらえています。調査の目的は、「児童・生徒一人一人が、基礎的・基本的な学習内容に関する自らの定着度を客観的に認識することにより、確かな学力を身に付けるための目標や課題を明確にした主体的な学習習慣を身に付ける。」ことを第1においています。平成17年度の小学校における結果は、「授業は理解している」けれど「好き」「楽しみ」とは感じていない児童・生徒が多くいることがわかりました。また、小学校・中学校とも、調査では、読書を好む児童・生徒は国語の学力定着度が高い結果となりました。そこで、学校においては、授業の中で読書活動を積極的に取り入れたり、家庭と連携した読書指導を行ったりするなど、児童・生徒自らが「本を手にする」ことを提案しています。また、小学校の意識調査では、授業の進度や難易度は、学力の定着度によって大きな差があり、児童・生徒一人一人に、基礎学力の確実な定着と個性や能力の伸長を図るためには、習熟の程度に応じた指導体制を整えるなど指導体制の一層の工夫が必要だと訴えています。そのための取り組みの例として、「 少人数授業においては、習熟の程度に応じた学習集団を編成した習熟度別学習を一層充実させる。」「学年内、異学年同士の教師の連携を密にし、教科担任制の推進、ティームティーチングの充実など学校を挙げての指導体制を工夫する。」などを提案しています。
 ところが、先日、近くの小学校からもらった資料を見て、少し考えてしまいました。それは、最近、市内の小学校4年生児童に対して学力定着度調査をした結果です。市内全体の数字ですが、平均到達度が、国語では72.8%、算数が83.0%で、達成率は、国語69.0%、算数66.6%なのです。4年生で、すでに、その教科内容を達成していない子が、4分の1以上いるのです。その子達は、そのまま5年生になります。そして、4年生の学習内容に積み重ねられた内容を学習することになります。ですから、達成率があがるはずはなく、下がっていく一方です。すると、すでに小学校を卒業する時点で、小学校の内容の半分もわからなくなっているのです。先日のブログではありませんが、人生の中で、生活をする上で、重要な知識は、小学生のころに習う内容です。掛け算九九を2年生で習いますが、それをきちんとマスターしていなくても、3年生では、二桁の掛け算、4年生では、三桁の掛け算と習っていきます。(かつては、三桁の掛け算は3年生で習いました) 当然、わからなくなる一方です。きちんとそれぞれの学年の内容を定着させなくて、いつ、わかるようになると思っているのでしょうか。ですから、外国では、「ステイ」といって、確実に習得するまでその部分をやるためにその学年にとどまります。いわゆる、日本では「落第」です。落第のない日本と、どちらが、子どもの将来にとっていいのでしょうか。

転勤

 今年度が終わろうとしています。今日、近くの小学校で学校評議委員会があり、出席しましたが、今後の話や、これからの取り組みの話を聞いても、いまひとつ身が入らないのは、もしかしたら、校長や教員の移動があるかもしれないと思うからです。その小学校の保護者アンケートの中に、「校長が交代するたびに、学校色が変わりすぎる」というのがありました。以前、ブログでも書きましたが、アメリカに行った時に思ったのですが、公立でも、小学校の校長は、本人の申し出がない限り異動はないそうです。それは、ドイツでも同じだと言っていました。それは、きちんと管理職が、自分のコンセプトを打ち出し、それに賛同し、実現する職員集団をきちんと養成していくからです。また、地域に対しても、きちんと責任を取っていくからです。今回、新宿区で園を開園するに当たって、今までの園から職員を何人か異動してもらいました。誰に異動してもらうかを考える観点の第一は、昨日のブログではありませんが、職住近接ということで、今の園よりも、新宿の園のほうが、住んでいるところから近いか、下宿をしていて、近くに越せる人を優先しました。そのメンバーで、最低の人数だけ(4人)を確保しました。その人数だけでは少しきついと思ったのですが、そのメンバーだけでも核にしてやるしかないと覚悟していたら、そのメンバーを見て、何人か自ら、行って手伝いたい、いっしょに勉強をしたいと申し出た職員がいました。そのメンバーが、結局異動することになったメンバーです。決して、私からの職務命令で異動を言いませんでしたので、みんな積極的に準備に取り組んでくれています。
昨日のブログで紹介した冷泉彰彦氏が、こんなことも言っています。(一部途中省略)「アメリカの雇用慣行の中で、もっと日本との違いが大きいのは「転勤」という考え方でしょう。終身雇用が薄れ、専門職のキャリアパスが主流ということもありますが、とにかく企業が従業員に勤務地移動を命じるということがあまりないのです。企業が発展して全く別の州なり、国に新しい事業所を設置するというような場合は、基本的にはその土地の労働市場で人材を調達するというのが主です。例えば銀行が新しい町に支店を出すというような場合は、支店長以下の全ての要員をそのローカルな労働市場で採用します。非常に簡単に言うと、アメリカでは労働力が土地に根付いているということがあり、逆に企業の方が人材のある場所に移ってくるということがあります。いわゆる一般職というべき「ノン・エグゼンプト」の人たちは動きません。その土地に家庭があり、近隣社会や子供の学校、教会や地域のスポーツ団体などの「コミュニティ」に属することが人生設計の重要な部分になっているので、職を求めて大きく移動することはありませんし、まして雇用主が転勤を命じることは不可能です。そう言うとアメリカの人は引っ越しをしないようなイメージがありますが、必ずしもそうではありません。人生の転機に当たって大きな決断をして西海岸から東海岸へ移動するというようなことは結構平気でします。ただ、それは全部自発的な移動です。そこには「会社都合」の「苦役」としての転勤という概念はありません。といいますか、全くないのです。明らかに本人の意志に反して「苦しい」転勤を強いるという社会的慣行は全くないと言えるでしょう。以上を要約しますと、アメリカの場合は「人間が半強制的な住居移動を伴う転勤を命令されることはない」ということと、「チャンスを求めての移動は本人が自分のコストで胸を張って行う」という発想が確立していると言って構わないと思います。もうすぐ4月、人事異動の季節ですが、それぞれの会社で行われる「転勤を伴う人事異動」が本当に将来の会社に必要な人材に必要なスキルを学ばせるような、つまり本当に生産性向上に結びつくような異動なのか、考え直してみてはどうでしょう。その中で「会社都合の転勤」という文化を、つまり個人や家庭を不幸にし、更に「イヤイヤ行っている人」と「自発的に行った人」を区別する文化そのものを見直してみることも必要なのではないでしょうか。」
 今回の新宿での開園に向けて私がしたのは、異動する職員だけではなく、しない職員を含めて、本当に、園児にとって、本人にとっての保育のスキルを発揮し、向上につながる場はどこか、また、異動をする、しないかの決定が、本人からの自発的な行動であるのかを考慮することでした。

通勤

 私は、4月から開園する園は新宿なので、自宅からの通勤時間はかなり長くなります。しかも、電車がラッシュの中での通勤です。今まで、車での通勤ですので、ずいぶんハードになります。私は、中学校は公立でしたが、電車通学でした。その昔から、電車はラッシュで、駅でドアが空いても、ドア付近に立っている人は、これ以上乗せまいとがんばります。こちらは、乗らないと遅刻してしまうので、なんとか乗り込もうとします。割り込めないときには、乗り込めずにホームに取り残されている人に、「すみません、押してもらえませんか」と頼んだものです。それでも、中学生という若いころだったことと、その混雑した車内は、浅草橋から秋葉原までの一駅で乗り換え、秋葉原から神田までの一駅乗っただけですから我慢もできました。しかし、今度は、そのラッシュの電車に1時間も乗らないといけないので、かなりつらそうです。しかし、そんなラッシュの電車を見るとき、こんな電車で毎日通勤している人が多いことに驚かされます。まあ、かなり多いのでラッシュになるので当然なのですが。この混雑の中を、長時間、毎日、何年も通勤しているのです。こうして通うのは、地価が高いために、郊外に家を買う人が多いからです。また、勤務先が都内に集中しているからです。以前、多摩ニュータウン学会の理事だったころ、外国では、よい住宅地は、企業にとってもよい地ということで、多摩ニュータウンによい企業を誘致しようといろいろと計画をしたことがありました。東京圏では、都心部に業務機能が集中する一方、居住地が遠隔化しながら巨大市街地が形成されてきました。このため、都心部における住機能がニューヨークやパリなどと比較して著しく低下する一方で、多摩地域では産業・雇用の場が不足するなど、職と住とのアンバランスが大きくなっています。そのために、職住が遠く離れることにより、この遠距離通勤、通勤混雑がおき、多くの人が著しい不快、不便をこうむるだけでなく、可処分時間が制約されています。そして、これからの時代、少子化を迎えると、高齢者や女性の社会進出が進み、日常生活における移動等が、安全に、かつ短時間に行えることが求められてきます。そこで、今後、人びとの生き方の幅が広がることに対応して、職住近接や、公共空間のバリアフリー化、子育てや介護といった日常生活に必要な各種施設の充実が必要になってきます。アメリカなどは、真ん中に企業があり、その周りが住宅街であるような職住一致や、職住近接が進められています。
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都心3区への通勤・通学時間が片道1時間未満の人の割合(定期券利用者)(「大都市交通センサス」運輸省)
 作家であり、ニュージャージー州在住の冷泉彰彦氏は、アメリカの事情を「USAレポート」で、こう言っています。「意外に思う方もあるかもしれませんが、アメリカの雇用契約には通勤手当という考え方は普通ありません。働く人間が「勤務の出来る状態」まで移動するのは、自分のカネと労力に任せるという考え方が主流だからです。労働とは生産される付加価値の分配だから、会社の近くに住んでいる人も遠くから電車賃をかけて通って来る人にも支払うカネは一緒で良い、そんな説明も可能でしょう。ただ、この点に関しては日本の経営者もそんなに違和感はないようで、最近では非正規雇用の場合などでは交通費は一律であったり、実費でも上限を低く抑えたりして「自腹」にする例が多くなっているようです。」
 以前、テレビで見たことがありますが、ヨーロッパのどこかの国の話でしたが、通勤時間が長い人は、電車の中で、たとえばパソコンなどで仕事をします。ですから、電車に乗り込んだときから勤務時間になります。私は、今、新宿への行き帰りには、なるべく快速ライナーに乗ります。この快速ライナーは、特急料金を払えば、全席指定で必ず座ることができ、新宿から八王子までは途中一駅しか止まりません。これに乗るのは、必ず座れるということや、ラッシュではないことがありますが、もうひとつの大きな理由は、車内でパソコンをやることができるからです。座席がいわゆる特急電車と同じようにみんな前を向き、机を出すことができるからです。この時間も、勤務時間に入れてもらえるといいのですが。ただ、この快速ライナーは、朝は、6時台に一列車しかないのが残念です。

 今日は、4月から新宿で開園する園の落成披露宴でした。よく人から言われますが、私はあまり形式的なセレモニーが好きではありません。何も、はっきりした主義主張があるわけではありませんが、いわゆる、決まったような挨拶がニガテなのです。園長という職種は、職員が若く、女性が多いので、結婚式に呼ばれることが多く、しかも主賓になるので、初めのほうで必ず挨拶をしなければなりません。私は、よく何百人を前に講演することが多いのですが、挨拶となるとあがってしまい、ドキドキしてしまいます。人は、平気で講演をするので大丈夫だろうと思うようですが、どうもニガテです。しかし、あがらない方法を見つけてからは、結婚式の挨拶が平気になりました。その方法は、挨拶をするのをやめてしまったのです。挨拶ではなく、ミニ講演をすることにしたのです。ありがたいことに、主賓であるために早い段階に、上司からということなので、講演でもおかしくないのです。最近の女性の生き方、社会の支援、少子化問題など、話題はたくさんあります。それが、最近はさらにありがたいことに、結婚式をやらない職員が増えてきました。職員が、「実は、…」と言い出すと、「今度、結婚します。」ということが多かったのですが、最近は、「結婚しました。」と言われます。式は挙げずに籍だけ入れたというのです。私はホッとします。堅苦しいことが本当にニガテです。
 しかし、けじめということもあって、今日は、落成式をしました。でも、式ではなく、「始まりを祝う会」です。招待客も、区役所の人、地元町会の人、地元区議くらいでした。その中に、これから給食の無農薬、不耕起栽培の食材を納品してくれる農家の人、今までの園の保護者の代表者がいます。来賓の区長さんは、その人たちにわざわざ挨拶をしてくれました。私がこだわった招待客だったからです。式次第も、あまり形式張らず、まず、来園した招待客に飲み物を飲みながら、園の中を見学してもらいます。保育室は、家具などを片付けず、どんな形で保育するのかを見てもらいます。よく、式典をするための広いスペースを空けるために、みんな片付けるところが多いのですが、それでは、どんな保育をするかが良く分かりません。そして見学が一段落したところで集まってもらって、簡単な経過説明と来賓二人から挨拶をもらいます。そのあと、会食ですが、会食というよりも試食をしてもらいます。不耕起栽培の古代米、赤米のおにぎり、雑穀のコロッケ、そのほか安全にこだわった素材で作った様々料理を試食してもらいます。場所も園児が給食を食べるコーナーで、園児と同じように食べてもらいます。もちろん、乾杯はありませんし、アルコールもありませんが、おにぎりのお米はとても美味しく、評判がいいので、農家のご夫婦はとてもうれしそうでした。私は、セレモニーはあまり好きではありませんが、けじめとしては、きちんとやるべきだと思いますし、興味関心のある方にもきちんと内部を公開する必要があると思っています。しかし、招待する方々、その式の見せ方などの企画は、ある意味でプレゼンテーションであるべきだと思っています。挨拶から、ミニ講演に変えたように、式から、情報公開であったり、提案であったり、表現であるべきでしょう。そうなると、式も楽しみになります。主義主張を人に伝えるよい機会になるからです。今日の式は、形式張らず、本当の姿を見てもらい、いっしょに考える会に少しはできたかと思います。出席していただいた方々、父親の会の方、今日は、ありがとうございました。

中央分離帯

 車で道を走っていると、中央分離帯のある道路があります。この分離帯は、ガードレールや植込みなどの構造物である分離帯を指す場合と、右側車線の白線より中央側の路面部分である側帯も含めた中央帯を指す場合があります。それは、道路構造令第二条十項の中で「車線を往復の方向別に分離し、及び側方余裕を確保するために設けられる帯状の道路の部分をいう。」と定義されているからです。様々な分離帯の中でも、心が癒されるのは、中央分離帯が、植え込みなどで緑化されている場合です。この分離帯の緑化は、今後の高速道路のテーマのひとつであり、昨今、検討の必要性が急速に高まっています。既に緑化されているところは多くなってきたのですが、管理などの面では、非常に困難なので、どの様に取り組むべきかなど課題があるようです。そうした動きの中で、いろいろと、望ましい中央分離帯のあり方、アイディアなどが話し合われています。たとえば、「中央分林帯に可動式植裁を導入する」とか「一般に嫌われる植物の活用、タケやササ等の植裁をする」とか、「食べられる植物の導入をする」とか、いろいろと面白いですね。園庭のビオトープ作りと似ているところがあります。最初に園にビオトープを作ったときに、様々な意見が出されました。いま、修復の時期を迎え、今度は、食べられる水草を植えようと提案も出されています。定期的に水草を抜かないと、水がきれいにならないとかで、それなら、仕事として抜くよりも、食べるために抜くほうがいいのではないかという考えです。石原都知事が、都内の小学校の校庭をみな芝生にするという提案をしていますが、やはり、管理が大変なようです。
中央分離帯が緑化されていると、車を運転していてとても心が和みますね。緑を見るというだけでなく、そこに植えられている木が花をつけることによって、季節を感じることができるからです。近くの道の中央分離帯に植えられている桜は、まだつぼみは固いのですが、はなみずきは花をつけ始めています。そして、信号などで止まった車の窓からは、下草で、すずめやムクドリが、必死でえさをついばんでいる姿が見られます。そこに、もうすっかり春になった姿があります。と感傷にふける間もなく、がっかりすることがあります。それは、下草に、ごみが散乱していることです。
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多分、誰かが車の窓からごみを投げ捨て、そこにごみがあるから、次の人も投げ捨て、いつしか中央分離帯は、ごみ捨て場に変わろうとしています。たまに、前を走っている車の窓から、火がついたままのタバコが投げ捨てられたり、空き缶が投げ捨てられたり、ごみ袋を投げ捨てるのを見ると、このごみを、誰が片付けると思っているのだろうかと考えてしまいます。そんな姿から、簡単に「最近の若者は、道徳心が無くなった」と言うつもりはありませんが、何とかならないものかと思ってしまいます。各地では、美化行政の柱になる施策として「ポイ捨て防止条例」が制定されていますが、悲しいですが、やはり罰するしかないのでしょうか。2月にドイツに行った時に、機内で見た映画のタイトルは忘れましたが、道徳に反する行為をしたときの罰として、何日間かの労働を科せられるという内容でした。その労働が、芸術大学での掃除でした。掃除をしながら、貧しいながらも好きなダンスなどに励んでいる姿を見て、自分も大学に行くことを目指します。人は、自分の周りの人しか知りません。ですから、すぐに「みんな、そうしている」と思い込んでしまいます。そんなときに、罰として、違う世界の人と接する機会を与えたなら、何かを見つけるかもしれませんね。

卒業

 今日は、小学校の卒業式でした。毎年近くの小学校に出席しているのですが、私の子どものころの卒業式とは変わってきています。変わったことを一番実感するのは、式の中で歌う歌です。毎年、私は聞いたことがない歌を歌います。それも、その年の先生の好みなのか、年度によって歌う歌が違います。それを聞くたびに、昔のように、どこでも「仰げば尊し」を歌っていました。それが必ずしもいいかわかりませんが、今は、子どもたちが大きくなってもその歌を覚えているだろうか、みんなでいっしょに歌うことはないだろうなと思うと、なんだかさびしい気がします。歌だけではなく、大人になってから共感するものが少ないような気がします。後、変わったといえば、いわゆる「送辞」「答辞」のような、代表という役割がなくなったことです。多くは、「よびかけ」といって、子どもたちが次々に一言ずつ言葉をつないでいきます。今日の式でも、式が始まることを予告するのに、5年生の「よびかけ」で始まりました。ただ、これもその年度の担任の好みのようです。私が出席した、園の近くの小学校の卒業生は、今年138人でしたので、卒業証書授与の時間が長くて参りました。この小学校は、私の園といっしょの平成9年開校ですが、最近生徒が増えてきて、開校のころは全校で生徒が70名あまりだったのが、今は789人、22クラスあります。今後、26クラスまで増えると予想されています。それでも、団塊の世代である私たちのころよりは少ないですが。また、最近のこのあたりの傾向ですが、138人中、私立中学校に進学する子が32名で、ほぼ4分の1は私立に行きます。そんな卒業式でしたが、その中での祝辞はいつも決まったことを言うことが多いのですが、今年の中学校の校長先生の話はとても面白いものでした。卒業生に問題を出しました。漢字のテストです。問題は五つです。手のひらに答えの漢字を書いてみてくださいと言います。「(1)白鳥の飛来が冬の訪れを(告)げる。(2)桜のじゅひ(樹皮)を使って絹糸を染める。(3)(燃)えるような夕日が校舎を赤く照らす。(4)世界一周のこうかい(航海)を終えた客船が母港に戻る。(5)観客席から選手のぜんせん(善戦)をたたえる拍手がわき起こる。」答えの漢字を生徒たちは一生懸命に手のひらに書いています。そのあとでこう言いました。「今出した問題の答えの漢字は、小学校2年生から6年生までに習う漢字です。それなのに、この問題は、今年の都立高校の国語の問題なのです。高校受験の漢字の問題は、すべて中学で習う漢字ではなく、小学校で習う漢字なのです。それは、如何に小学校時代が大切かということです。」これは、私が今年卒園式で話したことと似ています。私は、こんな話をしました。「小学校に行くと、いろいろな勉強が始まります。でも、心配は要りません。たとえば、国語という授業が始まり、字を習います。しかし、皆さんはいっぱい絵を描いたり、線遊びをしましたね。ぐるぐる線を描くと、それが「の」になったり、「し」になったりします。また、算数という勉強があります。みんなは、毎日給食のときに「いっぱい、すこし」「おおい、すくない」「はんぶん、ぜんぶ」「一個、二個」そんなことを言ってよそってもらっていました。それが算数です。園でやっていたことが、学校ではとても役に立ちます。」というようなことを話したのです。ただ、先をやることが役に立つのではなく、あとで伸びる力をつけてあげることのほうが重要ですね。