先日のメールで、「八月のメモワール」と言う映画について少し書きましたが、最後を意味深で終わりました。なんだか、不消化を感じた人も多いと思います。この映画を見たことのある人はわかるのでしょうが、あまりこの映画は評判が今一だったこともあり、そんなに話題になりませんでした。ですから、ネットでもそのあらすじは紹介されていません。しかし、私の中でベスト3に入っているというのは、様々な批評と違う観点で感動したことにあります。この映画の原題は、「THE WAR」と言うものです。「戦う」、「争う」ということはどういうことであるかということがテーマになっています。
「ベトナム戦争から帰還した父親は、精神的にも深い傷を負っています。それは、彼は、何かをすればどこかで何かが変わるという父の言葉を信じて、良いことをしたいとベトナム戦争に従事したのですが、親友を殺す羽目になってしまって、自分を責めます。しかし、マイ・ホームを持ちたいという夢を抱き、危険な仕事に励むのです。それは、「子どもたちには希望を与えたい。奇跡を信じ、不可能はないと思う子に」という思いからです。そのころ、子どもたちが夢中になっていたのは、森にある大きな樫の木に“ツリーハウス”を作ることです。そのちっぽけな木の家は、彼らにとって日常の貧困や不安定な世界から逃れる唯一の場所だったのです。それを作る為に、仲の良い友達と材料を探し始めます。彼らが目をつけたのは近所の悪がきの縄張りであるガラクタ置き場です。ここに踏み入ったことで、この悪がきと喧嘩をします。父親はそんな子どもたちに「我慢を忘れると一生後悔することになる」と、忍耐と相手を理解する気持ちの大切さを説きます。そんな中で、次第にツリーハウスは出来上がっていきます。しかし、子どもたちと近所の悪がきたちとの間の縄張り争いは次第にエスカレートしていきます。そして、このツリーハウスを守るために戦いを始めます。ショベルカーを持ってきたりして、その戦いは激化していきます。そして、最後には、子どもたちは悪がきに勝つことができます。勝ち誇って喜ぶ子どもたちですが、改めて振り返ってみると、大切なツリーハウスは無残にも壊され、そこに残っているのは、ただの廃材だけです。いくら、大切なものを守るためであっても、戦うことで、人と争うことでは、結局は大切なものは守れないのです。そんな子どもたちに、父親は静かに語ります。「俺はお前に絶対に戦うなとは言えない。俺がどう思っているか知りたいかい?俺は人々の真の平和と幸せを与えるのは愛だけだと思う。愛が存在しないなら、この世に戦う価値のあるものは何もない。争うことの虚しさを知ってほしい…」
この後に、悲惨なことがこの一家を襲い、父親は亡くなってしまいます。しかし、私は、そのあたりは、どんなストーリーだったのかよく覚えていません。この戦いの虚しさ、「THE WAR」とは、どういうものであるかが深く胸に残っているからです。戦いの後に残るものは、決して勝利ではなく、虚しさと、その後の様々なひずみです。今、アメリカでベトナム戦争の後のひずみが出ているように、日本でも、戦後何十年もたった今でも、様々なひずみが、いろいろなところで出ている気がします。戦いとは、何世代にも影響を及ぼすほど、恐ろしいものです。決して、子どもたちに戦いごっこなどさせるべきではありません。
戦争は、何もかもを失くしますね・・・。
自然界での淘汰ならば、納得できますが、戦争は、人間が作り出すものですよね・・・。
ちょっとした争いが、どんどん拡大されて、戦争につながるんでしょうね。
日々、いかに個人個人が争わずに済むか、そこのところをもう一度きちんと考えないといけないと思います。
争ったとしても、謝罪の気持ち、反省の気持ち、自分を振り返る気持ちを持ち続けてさえいれば、大きな戦争にはつながらないように思います。
完璧にできなくても、ちょっと意識しているだけでも、何かが変わってくると思います。
と、エラソーに書いてますが、そんな私もしょっちゅう、園長や主任に噛み付いてしまいます。
自分が正しいという無意識の思い込みが、知らず知らず
肥大してしまっているのかと思うと、「イカンイカン」と深呼吸しています。
人間って、不器用な生き物ですね。
特に今の世の中では、人間の不器用さが悪循環になっている気がします。
そんなおとなや社会に育てられていく子どもたちは、これからどうなってしまうのでしょうか?
不安ですが、同時に、子どもに携わる私たちの使命を熱く感じます。
「決して、子どもたちに戦いごっこなどさせるべきではありません。」・・・全くその通りです。先日保育士の日誌に子どもたちが新聞紙か何かを丸めて細長い棒状のものをつくり、それを用いて、やがて戦いごっこが始まった、ということが書かれてありました。まずいな、と思いながらそのままにしていたことを今日のブログによって気付かされました。やはり、戦いごっこはよくありません。そのことを日誌の保育士さんに伝えなければなりません。先日藤森先生の園にお邪魔しました。子どもたちは同じように新聞紙を細長く丸めて棒状のものを作りました。格好の剣です。ちゃんばらが始まるのかと思いきや、そうではありません。広げられた新聞紙のところどころに輪が貼り付けられそこに先に作った新聞紙の棒を入れて広げられた新聞紙が傘になり、それを数人の子どもがその棒で支えて練り歩く、という行為に変わりました。戦いごっこではなく、友達と協働して練り歩くお祭りの出しのようになったことにエラク感動したことを思い出しました。同じ新聞紙の棒でも剣になったり新聞紙の傘を支える棒になったりします。なんだか私たちは戦いごっこを容認しているところがあります。そうした姿を子どもらしい、と
楽しみにしていた「八月のメモワール」の話ですが、想像していたものより深い内容で長い時間考えてしまいました。
戦争であればほとんどの人がすぐに「反対!」と言うでしょうが、子どもの戦いごっことなるとすぐに「反対!」という人は多くないように思います。以前のブログでも書かれていましたが、やはり日本人は戦いごっこに対して無頓着なのでしょうか。私自身も反省することがたくさんあります。戦いや戦いごっこに対してもっと敏感にならないといけないといけません。子どもたちのために、私たち大人が戦いや争い以外のことを選べる感性を養わなければいけないと強く思いました。
偶然でしたが「8月のメモワール」を観ることができました。『人は戦争を理解できるけど、戦争は人を理解できない』という最後の言葉に考えさせられました。悲しい体験をした日本は、戦いの後に残る虚しさについてもっと世界に訴えていかなければいけないと思うのですが、逆へ逆へと向かっているような気がしてなりません。