今日の新聞の夕刊に、妹を切断容疑の兄の自供で「母への口調、我慢できず」という記事が掲載されていました。最近の子どもや若者は「我慢ができない」といわれます。それは、よく「キレる」という言葉でも表現されますが、それは、「行動抑制力が欠如している」とか、「自律」する力に欠けているという意味で、本当は、「我慢できない」ということと少し違うのです。昨日のブログで書いたように、もともとの意味が違ってきている言葉の一つです。いま、「我慢する」という言葉は、「辛抱をする」「耐えること」という意味に近い使われ方をし、どちらかといえばよい意味で使用されます。ですから、子どもが何かをねだったり、欲しがったりすると、母親は「我慢しなさい!」と言い聞かせます。かつて、ボンカレーのテレビCMにこんなのがありました。当時流行していた時代劇に「子連れ狼」というのがありましたが、そのパロディで、仁鶴が「子連れ狼」の主人公・拝一刀に扮し、「3分間待つのだぞ」という台詞に対して、「じっと我慢の子であった」というナレーションが入ります。このころから、「我慢」は美徳のように言われてきました。しかし、もともとの仏教語としては、あまり好ましい意味の言葉ではありません。我慢とは、サンスクリット語ではアートマ・マーナ、またはアスミ・マーナといい、自慢、慢心という場合のように、自己の中心に我があると考え、その我を中心として心が驕慢であること、おのれをたのんで心のおごる煩悩というように説明されています。「慢に七慢あり」と仏教では次のように説かれています。
「慢」とは、自分より劣った者に対して優越感をもつ心のことをいい、自分と同等の者に対しては自分と同等と思うことです。自分と同等と思うということは、相手を尊敬しない自分の驕りなのです。「過慢」とは、自分と同等の者に対しては、自分の方がエライと錯覚し、自分より勝れた者に対しては自分と同じと思うこころのことです。「慢過慢」とは、自分より勝れた者に対し、自分の方がさらに勝ると思う心です。「我慢」とは、仏教では無我を説いていますが、その無我の理を知らず、我が、我が(自分が、自分が)と自分に執着しておごりたかぶる心のことをいいます。「増上慢」とは、まだ悟りの域に達していない者が、自分はすでに悟ったという、うぬぼれ心のことをいいます。「卑慢」とは、他人がはるかに勝れているのに対し、自分はわずかしか劣っていないと思う心です。「邪慢」とは、自分が間違った行いをしても正しいことをしたと言い張る心です。これら七つの「慢」をよく読んでみると、自分にも思い当たることがあります。つい、誰でも表れてしまう心の「うぬぼれ」「おごり」「高ぶり」の心なのです。そのようにもともと「我慢」とは、自分に執着することから起こる慢心を意味し、そこから意味が転じ、「我を張る」「強情」などの意味で使われるようになり、さらに、強情な態度は人に弱みを見せまいと耐え忍ぶ姿に見えるため、近世後期頃から、現在使われている我慢の意味となったようです。もう一度、自分の心の中の「慢」を消していく努力が必要です。それが、自律につながり、今の若者に必要な力だと思います。
読んだ後に考え込んでしまいました。「七慢」は自分に思い当たることばかりです。我に執着する、自分から離れることができない自分の姿が見え、恥ずかしくなりました。でもそんな自分にしっかり向き合うことができました。自分の心の中の「慢」と向き合うことも大切なことかもしれないと思っています。
今日のブログの「我慢」のように、元の意味と異なって使われている仏教用語はいくつかあります。「覚悟」「愛」「方便」などなど・・・。大学時代、同級生の女の子に「増上慢」とか「卑下慢」とか言われたことがありました。確かに、己の性格を振り返るとそういうところが昔も今もあるな、と気づきます。お寺の境内にある保育所で仕事をしています。仏教行事になると子どもたちに何らかのお話しをする機会が与えられます。お釈迦様のお話をする時いつも言うのが「これは自分のもの、これは自分のもの、と思うから、お友達と喧嘩になるんだよ、お釈迦様は、そのことを一番お嫌いでした。」ということです。「我慢するから喧嘩になる」という元来の意味にのっとったお話しをします。「我慢」・・・その真意を今日のブログで確認できました。今日も勉強になりました。
藤森先生は儒教だけでなく仏教にもお詳しいですね。「我慢」についてのお話でしたので、
うちにあった仏教大辞典を見ていましたら、「我慢偏執」(がまんへんしゅう)という言葉を見つけました。
「自分をたのみたかぶって、我意を張り、他を軽んじて従わず、つまらぬものに執着する心。」とありました。
仏道修行において、我見を捨て、仏の教えを固く信じて実践することで成仏の境涯を得られるということのようです。
いずれの道でも、過去の経験からくる「刷り込み」や「自分流の考え」から抜け出すのは簡単ではないようです。