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2007年01月31日 [近頃思うこと]
菜の花忌
今年の暖冬は、過ごしやすくてありがたいですが、なんだかいやですね。やはり、寒い寒いといいながら、また、雪が多くていやだねといいながら春を待つのが自然です。小さな川の土手をふと見ると、一面に菜の花が咲いていました。
水仙とか、菜の花はまだ冬の盛りに、春の訪れを感じる花です。この菜の花といって思う出すものはいろいろとあります。このブログを書いていると、すぐに思い出すものから順に取り上げて書いています。昨年は、お台場に咲いている菜の花から、「朧月夜」という歌と、二宮金次郎の業績について書きました。(4月13日)また、4月22日のブログでは、正岡子規の歌に出てくる菜の花を紹介しました。そのほか、八戸では食べる菜の花が有名です。というように、四季折々の花について、いろいろな話題があります。今年、菜の花といって思い出すもので、1冊の本を紹介します。数年前に読んだ本で、ちょうどその本を読んだあとの2000年に、NHKで竹中直人主演・竹山洋脚本による連続テレビドラマ化がありました。その本は、「菜の花の沖」という本で、司馬遼太郎の長編小説です。1979年4月から82年1月まで『産経新聞』に連載されていて、文藝春秋から刊行されたものです。私は、文春文庫に入ってから読みました。作者の司馬遼太郎の命日(2月12日)を、菜の花忌といいます。それは、司馬遼太郎が、野に咲く花、とりわけタンポポや菜の花といった黄色い花が好きだったこともあるのですが、この「菜の花の沖」という長編小説の題名にも由来しています。この本は、江戸時代の廻船商人である高田屋嘉兵衛を主人公とした歴史小説です。内容は、江戸後期、淡路島の貧家に生れた高田屋嘉兵衛は、悲惨な境遇から海の男として身を起し、ついには北辺の蝦夷・千島の海で活躍する偉大な商人に成長してゆく…。というものです。ロシア船に囚われ、遠くカムチャツカに拉致されても、もつれたロシアと日本の関係を独力で改善しようと、努力します。この嘉兵衛の行動を通して、子どもとは違う、大人としての行き方を訴えています。「しかし子供が大人より決定的に劣っているところはある。子供は衝動的で、志を持たないということである。ふつう、十四,五歳での元服のときに、烏帽子親が、「童心を去れ。」という。武家社会でも庶人社会でも、そのように言われる。しかし童心を去って何をするのか、そのことは説かれない。童心を去るとは、どうやら社会の縦横の関係の中での自分の位置を思いさだめ、分際をまもり、身を慎み、いわば分別くさくなれということらしいが、嘉兵衛のなかでの大人はそういうものではなく、自分の世界をつくりだす者といったことのようでもある。」おたがいがもたれあって生きてゆく多くの人々がいるなかで、嘉兵衛は自分の技能によってひとり生きてゆかねばならなかったのです。いまでも、依存から自立をしていくことが「大人になる」ということが、身に迫って感じていたのです。違う巻ではこうも言っています。「しかし大人というものは仕様のないもので、子供がもっている疑問を持たなくなる。天地人のさまざまな現象についてなぜそうであるのかという疑問を忘れたところから大人が出来上がっている。」子どもは、日々伸びようとしています。成長していきます。そのために必要なもののひとつに、私は、「疑問」があると思います。それは、子どもに限らず、伸びようとする大人には必要なものです。維持をすればいいだけの大人には「疑問」は要らないかもしれませし。疑問を持たない人は、成長しないでしょう。
投稿者 fujimori : 21:40 | コメント (3)
2007年01月30日 [近頃思うこと]
カラフル
もうひとつ、オランダに行って少し考えてしまったことがありました。ホテルのすぐに「チボリ公園」があるので、時間を見つけて中に入ってみました。倉敷のチボリはどうかわかりませんが、入ってびっくりしたのは、色がとてもカラフルなことです。あちらこちらに原色が塗られています。メリーゴーランドの動物も、とてもカラフルで、赤や青や緑に塗られています。どちらかというと、カラフルというよりも、どぎつく見えます。やたらと原色を使い、落ち着いた雰囲気というか、しっとりした感じがありません。この公園には、いたるところに花壇があり花が植えられています。また、園内は木がたくさんあり緑豊かです。そこで、不思議な感覚に襲われました。花壇には、様々な花が咲き誇っています。真っ赤な花や、青や黄色、ムスカリなどは、鮮やかな紫に近い青い色です。また、園内の木々の緑は鮮やかです。その鮮やかな緑越しに真っ青な空が広がっています。ふと気がつくと、なんと、園内のカラフルに塗られた施設とまったく同じではありませんか。そのときに思い出しました。イタリアに行った時のことです。イタリアはとても古い町並みで、石畳に、レンガ造りとか石造りの重厚な建物が並んでいます。その中で、数人の子どもたちが学校から帰ってくるところを見ました。その子たちは、そのころはやり始めた「ベネトンカラー」のバックを背負っています。ベネトンというと、イタリアのデザイナーで、カラフルな色で売り出して有名でした。石畳の石造り、レンガ造りの町並みの中で、このベネトンカラーはなんとも違和感がありました。そこで、イタリアの人に聞いてみました。「なんで、このような町並みの中で、あのベネトンカラーが生まれたのですか?」すると答えは、「ベネトンカラーは、自然の色だからです。」私たちからすると、どぎついように見えるカラフルな彩りは、自然の色と移るようです。石や、レンガの色は死んでいる色、パステルカラーというのは、人工的な色だといいます。花にしても、木にしても、草、空、海、どれも原色です。私たちは、どうも、人工的な色とか、古くなった、色あせた色が落ち着く色だと思っている節があります。ということは、自然の中にいると落ち着かないということになってしまいます。そんな考えの中で、子どもたちは原色に触れなくなっています。日本の花も、日本人好みに品種改良され、パステルカラーのものが増えてきました。真っ赤な、真っ黄色なチューリップよりも、ピンク色のものが好まれます。金色の金閣寺よりも、銀閣寺のほうがいいという人が多くいます。たまに、原色の建物を作ろうとすると、景観を壊すといって反対運動がおきます。本当は、背景の緑が一番映えるのは、赤なのにと思ってしまいます。外国の幼児施設に行って、壁に飾ってある幼児の絵を見る地、大胆な色使いをする子がたくさんいます。真っ赤なウサギ、真っ青な象などよく見かけます。日本の子どもは、白いウサギしか描きません。もちろん、だからといって、原色の中にいると落ち着くわけではありませんが、色に対する偏見は捨てて、子どもにはいろいろな色を体験させたいものです。今の園を開園するときに、職員に色の偏見を捨ててもらおうと、外国の風景の写真とか、カレンダーとかを見せました。自然とは、なんときれいな原色をしているのだということを感じてほしかったのです。
投稿者 fujimori : 20:57 | コメント (3)
2007年01月29日 [近頃思うこと]
ショーウィンドウ
私の子どものころのウィンドウショッピングを話します。ブログで書いた駄菓子屋だけではなく、地域にはその地域を形作る様々な店舗があります。その店は、駄菓子屋のように、どの地域にも同時期に見られる店をありますが、その地域しかない店もあります。私が子どもころ、幼稚園に通っていましたが、その道の途中に、とても興味深い店がたくさんあり、毎日いろいろな店を覗き込みながら通園したものです。今のように、車では通園しませんでしたし、時間に追われることもなく、寄り道をしながら行き帰りを楽しみました。そこから、人との出会いが生まれ、会話をし、店の品物を眺めることによって、生活の知恵など様々なことを学んだのです。車を使って、時間的余裕もなく、点で動くことの多い現代では、子どもたちは、学ぶ機会が少ないような気がします。幼稚園までの登降園途中の店の中で、特に私の心の興味をひきつけ、必ず覗き込んでいたショーウィンドウがありました。その店は、今でもあり、そのそばを通るときに、つい覗き込んでしまいます。このような店は、たぶん日本中どこにもないと思います。写りの悪い写真ですが、この店のショーウィンドウの中には何が展示されているかわかるでしょうか。
この店は、私の子どものころから営業しているというだけでなく、どうも、江戸時代からこの場所で、和漢薬店として営業していたようです。今の店としては、明治17年に創業されたそうです。扱っている品物は、子どもにとっては、神秘的であり、こわいもの見たさをかきたて、しかも、生きているのです。この店の「取扱商品」には、次のようなものがあげられています。「蒸焼・各種、強力 蝮(マムシ)蒸焼、深山 蝮(マムシ)蒸焼、縞蛇(しまへび)蒸焼、スッポン蒸焼など。マムシ蒸焼きは、マムシを姿蒸焼き(そのままの姿で蒸焼き)にし、それを砕いて粉末にしております。また、その場でこなすことも出来ます。黒焼も、イモリ黒焼、蝮(マムシ)黒焼、トンボ黒焼、なす黒焼、梅干 黒焼きなど、各種取り揃えております。」そして、注意書きとして、「日本産(国産)の材料を自社で加工し、販売しておりますので、商品の品質は通のお客様にもご満足いただけるものです。」国内産だそうです。こう、並べてみるとなんとも奇妙ですね。また、人間の知恵に感心します。漢方として、こんなものを工夫して食べようとしたこと、その勇気に感心します。また、この店では、生きた蛇や蝮(マムシ)、イモリなども販売しています。写真のショーウィンドウの中には、生きたシマヘビがたくさんはいっているのです。この店のブログもすごいですよ。ある日のブログにはこういう記述がありました。「また千葉へ行ってきました!茄子のヘタをとりに。ついでに蛇も!縞2蝮1ヤマカカシ1」いろいろな人、職業があるのですね。
この店のショーウィンドウを、小さかったころは、動物園で動物を見る感覚で見ていましたが、今見ると、こんな仕事もあるならば、どんな子でも、きっと自分に合う職業が見つかるような気がします。人は、いろいろなものに興味を持ち、特技を持っています。それを打ち消して、できるだけ平均的な人間に育てようとします。しかし、それは、本人にとってはとてもきついことですし、社会として損失かもしれません。この店の紹介をよんで、中には、気持ち悪いとか、こわいと思う人がいるかもしれませんが、そうではなく、もしかしたら、自分を生かす道、わが子を生かす道がどこかにあるかもしれないという期待が持てるような店ですね。
投稿者 fujimori : 21:17 | コメント (5)
2007年01月28日 [近頃思うこと]
ウィンドウショッピング
今日の研修会場は、「学校法人九州文化学園長崎国際大学」でした。この大学の場所は、長崎でも佐世保の「ハウステンボス」の近くにあります。ハウステンボスというと、1992年3月25日にオープンした、オランダの街並みを再現して作られたテーマパークです。昨日の夕方、少し時間があったので、中を散歩しました。
オランダというと、ブログの中では、「イエナプラン」という教育システムを紹介したものが多いのですが、他にもオランダというと思い出すことがあります。それは、10年以上前になりますが、オランダに行った時に、日本で持っている概念を見直したことがいくつかあります。そのときの宿泊ホテルは、オランダの首都アムステルダムの鉄道駅近くにあり、この鉄道駅とアムステルダム中心地を結ぶメインショッピングストリートであるカルファー通りが見渡せるところにありました。また、駅の向こうには、ハウステンボス同様、オランダをテーマとした倉敷チボリ公園というアミューズメントパークがモデルにしたチボリ公園があります。そのホテルに入ったのは、日曜日でした。そのホテルの脇のショッピングストリートは、有名なところであり、また日曜日ということもあって、多くの人出があります。日本の銀座並みに、ぞろぞろと人が行きかっています。さっそく、出かけることにしました。次の日からは研修なので、今日のうちに少し買い物をしようと思ったのです。その道を歩いてみて、びっくりしました。なんと、どの店も閉まっています。もちろん、日本でのシャッター商店街のように廃業しているわけではなく、この日は休業日なのです。それは、どうしてかすぐにわかりました。その日は、日曜日なのです。この国では、日曜日は働いてはいけないのです。というと、奇妙に聞こえますが、みんな協会に礼拝に出かけます。日本人としては、サービス業である商店などは、人出が一番出る日曜日こそ店を開き、一番人出がない月曜日とか、水曜日に休むという発想をします。では、ぞろぞろ歩いている人は何をしているのかを見てみると、一軒ずつ店のショーウィンドウを覗いていきます。いわゆる「ウィンドウショッピング」をしているのです。日本でウィンドウショッピングというと、「お金がない、買い物する時間がない、等の理由で、お店のショーウィンドウや店内を見て回る事。」をいいます。もちろん、本来はそういう意味かもしれませんが、なんだかこんなショッピングは、さびしい気がします。オランダでは、ショーウィンドウを覗き込んでいるのは夢を見ているようです。こんなものがほしいな、この商品はいいものだなと。そのために、どの店にも、シャッターは閉めても、格子のシャッターで店内が覗けますし、道に面したショーウィンドウが必ずあり商品が並べられています。仕方ないので、ガイドさんに日曜日に開いている店を何店か教えてもらって買い物をしました。それは、どれも日系人の経営していた店でした。これは、夕方も同様でした。5時になるとどの店も、みんな閉まってしまいます。かろうじて、マクドナルドとか、コンビニのような店だけが開いています。しかし、その店の店員は、どこでも学生のバイトでした。子どもを育てている人は、決して夜まで働いていません。そのときに、ですから、当時、乳児保育とか、延長保育のようなものはありませんでした。福祉が充実している北欧なのにどうしてかと思いましたが、福祉の充実とは、保育園を整備することではないのですね。ただ、今はどうなっているのでしょう。
投稿者 fujimori : 19:06 | コメント (4)
2007年01月27日 [近頃思うこと]
疲労
最近、週末に地方に行くことが多く、私としては生活にひずみが出てきています。そのひとつは、健康です。平日はなかなか時間が取れないので、できるだけ日曜日は歩き回ることにしています。いわゆるウォーキングをしているのですが、それができません。どうも、最近運動不足です。すると、血圧は高くなるし、腰は痛くなるし、腹の調子はあまりよくないしで、人間、やはり適度な運動が大切なことがわかります。もちろん、普段でも階段を登るとか、タクシーには乗らないとかすればいいのでしょうが、日曜日に休みがないということは、2週間連続してしまうということになりますので、できるだけ疲れないようにと歩かなくなってしまうのです。また、いろいろなことをしたいので、少しでも時間を短縮しようとしてしまうのです。よくないですね。もうひとつのひずみは、精神的なものです。四六時中、同じ方向から物事を考えてしまうのです。週に一度は、普段の思考と違う方向から、保育、子どものことを考えないと、広く物事を見つめることができません。そういう意味で、このブログは、毎日大変ですが、とても自分で役に立っています。このブログを書かないと、違う分野に頭を切り替えることがまったくなくなってしまうような気がします。それから、家に帰ってからの妻との会話も、違う分野から社会を見つめるきっかけになります。事件のこと、芸能界のことを含め、様々な書籍を読んだ感想を言ってくれたり、紹介してくれるからです。しかも、ウォーキングをしなくなると、違う分野から物事を考えるきっかけのブログの「ネタ」が、見つけにくくなってしまいます。仕事をして、夜遅く家に帰って「さあ、ブログを書こう!」と思ってパソコンを開けても、1日、ただ仕事をしていたとなると、「何を書こうか?」と考えてしまうことがあるからです。本も、新聞も読まず、どこにも行かないとなると、ブログを書く上だけではなく、頭の中にも「ネタ」が詰まっていないということになるのです。これも、本当は、健康と同じように、日々の工夫で、いくらでも周りには様々なネタがあるはずですし、それを見つけることはできるのでしょうが、やはり疲れてくると、空いた時間に何も考えようとしなくなるのです。先日のブログではありませんが、これが、「忙しい」ということなのでしょうね。つくづく無理やりにでもブログを書くありがたさを感じます。あと、ブログを書く意味は、日記を書くことと同じでしょうが、その日1日を振り返ることが多くなります。もちろん、反省するという振り返りではなく、1日の出来事を、もう一度なぞってみるということです。「ネタ」探しに、今日1日朝から順に思い出していくのです。誰が来て、どんなことがあって、と思い出すこの作業は、きっと「ボケ防止」になっていると信じています。寝る前に、今朝の朝食のメニューを思い出すといいと聞いたことがあります。
休息は、何もしないことではなく、普段使わない部分を使うことだといわれています。頭を使ったから休めるのには、頭を使わなくするよりも、普段使わない頭の部分を使うということですし、体が疲れたら、普段使わない部分の体を使うことであり、精神的に疲れたときは、肉体的に疲れさせ、肉体的に疲れたときは、精神を使うことだともいわれています。そのためにブログを読んだり、コメントを書くのは、疲労回復になるかもしれませんし、ボケ防止になるかもしれませんので、たまには、コメントを書いてみてください。
投稿者 fujimori : 22:23 | コメント (7)
2007年01月26日 [近頃思うこと]
左右
地方に行くと戸惑うことのひとつに、その地方ならでは習慣があります。それは、民俗学的にというほど学問的ではなく、ほんの日常的なことでもあります。たとえば、昨日は大阪にいたのですが、関西に来て戸惑うのは、エスカレーターに乗ったときに、歩く側と止まっている側が、東京と反対ということです。東京では、左側に立っていて、「急いでいる人のために、右側を空けましょう。」というコメントが書いてあることがあります。それが、関西に来ると、止まっている人は右側で、歩く人は左側です。昨日も着いて最初にエスカレーターに乗ったときに間違えました。そして、慣れてきたころ東京に帰るとまた間違えてしまいます。どうして、そうなったのでしょうね。同じにすればいいのにと思ってしまいます。同じように戸惑ってしまうのが、道を歩くときに人は右側通行なのに、駅などの階段を登るときに,左側通行のところが多いからです。所によって、場所によって違うのは、たぶん、そのほうが、人がクロスしないとか、近道だとか、人の動線を考えて決めているのでしょうが、統一されていないと、人とすれ違うときに、どちらによけてよいかわからなくなり、同じほうによけてぶつかってしまうことがあります。この右か左は、もっとややこしいのは、国によっても違うことです。これは、みんな良く知っていることですが、外国の多くの国では、車は右側通行です。まっすぐ走っているときにはまだいいのですが、右折したり、左折したりするときに、反対の車線に入ってしまいそうになります。どうして、こうも違うかということには、様々な説があるようです。最も一般に流布している説によると、日本の左側通行は、江戸時代頃から武士などが左腰に差している刀が触れ合うことを避けて、自然と左側通行になっていたといわれています。また、また、襲われたときに、すぐに刀を抜いてきりつけるのには、相手が右側にいたほうが、右手で刀を抜いたまま相手を切れるので、自然と、左側によけてすれ違ったのでしょう。それに対して、欧州大陸諸国の右側通行は、馬車の馭者は右手で鞭を振るうので、対向する馬車に鞭を当てないために自然と右側通行になったといわれています。しかし、どうして日本は、人間だけが替わったのか知らない人が多いと思います。日本では、自動車が登場してきたころは、自動車も人と同じように左側通行をしていました。しかし、自動車の交通量が増え、それに連れて交通事故が増えてきました。ですから、車と人は対面交通をさせようということになりました。そのときに、本当は、人がそのまま左側通行で、車のほうを変えるべきだったのですが、自動車の通行区分のほうを変更すると、全国的に莫大な費用がかかることから、自動車のほうの通行区分をそのまま維持して、人の通行区分の方を変更したのです。そして、昭和24年に道路交通法が改正され、人は右側、車は左側に変更されたのです。変更した当初、つい人も左側を歩いてしまうので、やたらと、「人は右、車は左」と叫ばれてきたのです。そして、これを定着させるために、日本の小学校では廊下の右側通行を指導する事例が多く見られるのです。しかし、鉄道駅では、人が左側通行をすることを前提に設計されてきた為、一般道路で人の右側通行が採用されてからも、駅では人の左側通行が採用されているのです。エスカレーターの立ち位置が関東と関西が違うのは、「関東と関西こんなに違う辞典」(日本博学倶楽部著)によると、古い慣習を今に残しているのが関西で、関東は新しい習慣に従っていると書かれています。ちなみに、米国、欧州をはじめ、“右側に立つ”国が多いようです。慣習は、政策上の都合や人の心の動きなどで作られていきますね。
投稿者 fujimori : 21:41 | コメント (2)
2007年01月25日 [講演先にて]
ひとやすみ
今日、講演のために降り立った駅は、近鉄新田辺という駅です。その駅は、JRでいうと、京田辺という駅のそばです。その駅に降り立つと、バスロータリーの中心に橋を渡っている小僧の像があり、橋の欄干の片方には、「とんちばし」もう片方には「たなべいっきゅうばし」と書かれています。
それは、ここ京田辺市薪には、室町時代中ごろ、63才から88才で亡くなるまでの約25年間、とんちの一休さんが住んでいて、亡くなった一休寺の酬恩庵があるのです。一休さんのとんち話は、子どもにはとても人気がありますね。偉そうな大人をぎゃふんといわせる痛快さがあるからです。有名な逸話として、「評判の高い一休を困らせようと、自宅に招いた商人が、橋のたもとに「このはしわたるべからず」と書いた立て札をあげ、家に入れないようにした。ところが一休は、そしらぬ顔をして入ってきたので、商人は、札が目に入らなかったのかとなじったところ、一休は、「はい、見ましたから端をわたらず真ん中をわたってきましたよ」と答えたということです。」「和尚は、壷に入った水あめを自分だけ舐めていました。一休は自分たちも欲しいと言ったが、和尚は、これは大人が少し食べるだけなら薬になるが、子どもが食べると死んでしまうおそろしい毒だから、みんなにやるわけにはいかないと言います。しかし、小僧たちは、和尚の留守に、壷を取り出して、ほとんど舐めてしまいます。みんなは、和尚に怒られると青くなりますが、一休はあわてず、和尚が大切にしている硯を割って、泣きまねをさせます。そして和尚が帰ってくると、大事な硯を割ってしまったので死んでおわびをしようと思い、あの毒を舐めたと言います。」「和尚は自分だけ鯉汁を食べ、小僧には味噌汁しかやりません。そこで一休は池から大きな鯉をとらえ、料理しようとしたところ、和尚が「殺生はしてはならぬ!」と咎めます。すると一休は「毎日精進料理ばかりでは、お経にも力が入らないので、この鯉にちゃんと引導を渡しますから、大丈夫だ」と答えます。一休の生意気な言葉に「引導の渡し方など知っているのか」と問う和尚に、一休は「汝、元来生木の如し、水中にある時はよく捕うること難し、それよりは愚僧の腹に入って糞となれ、喝!」池でただの鯉として一生を終えるより、人の養分になって役に立て、という言葉で、形式だけの寺のあり方を皮肉ります。」
一休さんのアニメがありましたね。そのエンディングテーマが「ははうえさま~」と始まるのは、こんな経歴があるからです。一休は、後小松天皇を父として、天皇のそば近く宮仕えをしていた日野中納言の娘照子姫との間に生まれたといわれており、本来は、天皇の嫡子として世継ぎの地位にありました。しかし、照子姫をねたむ人たちの計略で、母親は宮中を出され、一休は洛西の民家で誕生するのです。そして、生母のもとで育てられますが、6歳の頃、母の考えで、臨済宗の安国寺で出家します。ここでの11年間での禅の修行中に、早くも12歳頃から詩文に才能をしめし、大人の僧侶でも理解するのが難しい清叟仁蔵主の維摩経の講義を熱心に受けて、周囲を驚かせたエピソードが残っています。ですから、「とんちの一休さん」としてのエピソードが数多く残っているのでしょう。また、アニメの中で、CMに入る前に、寝転んだ一休が、「ひとやすみ、ひとやすみ!」というせりふは、当時、しゃれかと思っていました。しかし、一休という号は、「有漏地から無漏地へ帰る一休み 雨降らば降れ 風吹かば吹け」という道歌からきています。一休というのは、煩悩の「有」の世界と、煩悩のない「無」の世界のはざまにあって、一休みするという意味です。子どものころの印象とは違って、深い意味がありますね。
投稿者 fujimori : 21:01 | コメント (2)
2007年01月24日 [近頃思うこと]
定年
私は、いわゆる団塊の世代です。会社勤めをしていたら、もうすぐ定年です。定年という言葉でなにをイメージするのでしょうか。「定年」という言葉は、その漢字からそのまま考えると、「年が定まる」のでしょうか。関沢まゆみ氏『隠居と定年』(臨川選書)によると、定年の語源は明治期の旧陸海軍の「現役定限年齢」の略語として定着したものだそうです。定限年齢なのですね。しかし、この「定年」を「停年」と表記する場合があります。前述の書籍の中では、「明治~大正初年においては停年とは武官の進級に関する制度上の用語であったものが、昭和十年頃には退職の年齢を意味するようになった」と紹介されています。そして、「停年」という漢字を当てるよりは「定年」という字が多く使われるようになったのは、昭和三十年に「民間企業における定年制度等の実態調査」を人事院が行ったことからのようです。定年制度は、もともと軍で制度化され、やがて官僚へと定着し、昭和初期に民間企業にも普及したものです。今、知事の退職金問題が浮上しているのも、この辺りの歴史と関係があります。現在、定年といえば六十歳である場合が多く、来年からは六十三歳に、数年先には六十五歳になるようです。昭和五十年代半ばまでは五十五歳が多く、さらに遡って明治時代の海軍工廠では五十歳でした。この変化はもちろん、最近の少子高齢化と高齢者の健康とライフスタイルなどによってです。
「定年」の私の勝手な解釈ですが、この「定」ということには深い意味がある気がします。仏教では瞑想のことを、jhqnaと呼びます。この音の「ジャーナ」から採って訳したものが「禅」とか「禅那」で、瞑想という意味を採ると「定」と訳します。それとか「静慮」です。それは、心を一点に「定めること」、心を「静めること」であり、「定まった状態・静まった状態」を意味します。この音と意味の両方をとった言い方として「禅定」というのもあります。ということは、会社勤めでない私にとっての「定年」というのは、心を一点に定め、その心を静める年齢ということになります。ということから考えると、論語の「五十而知天命。六十而耳順、七十而従心所欲不踰矩。」ということは、とても興味深いものになります。「五十歳で天命を知り、六十歳で人の言うことを逆らわないで聴けるようになり、七十歳で心の欲するままに任せても限度を超えなくなった。」ということなのです。定年を六十歳とした時に、心を定めるためには、五十歳代で天命を知らなくてはなりません。そうすると、六十歳になって、「耳順」になれるのです。この「順」は「逆らわないで適合する」ということで、どんな価値観が違う人でも受け入れる広い心を持つということでしょう。それは、決して、他人に迎合することではなく、自分の天命を知ったからこそ、素直に人に意見にも耳を傾けることができるのです。そして、七十歳になって、「従」は「放任する、放つ」、「踰」は「すぎる・こえる」、「矩」は「枠」ということで、意識しなくても自然と自分ながらの限度を知ることができるようになるということになります。団塊の世代に聞いたアンケートで、「定年後のイメージ」は、「質素倹約」が221人と、「悠々自適」(79人)の3倍近くありました。自由気ままになれるほど質素になるのですね。お金を使い放題に使っている人は、お金がある人ではなく、自らの限度をまだ持っていない若さの証拠かもしれませんね。
投稿者 fujimori : 21:47 | コメント (3)
2007年01月23日 [近頃思うこと]
商人道
以前、ブログで書いた「江戸しぐさ」が注目されていますが、これはもともと商人道と呼ばれていたものです。武士に武士の道があり、商人には商人の道があり、知恵があります。昨年から「武士道」を注目されていますが、私は、どんな職業でもその職業なりに「道」があり、それは知恵というよりもあるべき姿であったり、生き方であったり、心得であったりするものだと思っています。ですから、特に人を相手にする職業は、私は常々考えているように、人格を高め、自らよい人格者になろうと努力し、常に精進していかなければならないでしょう。ということを考えると、私は、保育の仕事は、そのような仕事であると思っていますので、保育は「保育学」というよりも「保育道」といったほうがよいのではないかと思っています。「保育を学ぶ」のではなく、「保育者としての道を究める」というイメージです。いつか、そんな本でも書いてみたいと思っています。しかし、すぐにそんな堅い話をすると、一般の人にはなじみがないので、手始めにちょっと楽しんでみたいと思います。それは、「商人道」ということを書いた越川禮子さんの著(講談社+α新書)から、少し保育の仕事を考えてみたいと思います。
1.忙しい、忙しいと言うな(忙しいとは心を亡くすこと、決して自慢できることではない )保育者が忙しがっていると、子どもたちの情緒が安定しなくなり、自発的にいろいろなことをしようとしなくなります。また、大変だ、大変だといって子育てをされていると、子ども心にと子育てというものは大変だという刷り込みができてしまい、大きくなったときに子どもを持とうとしなくなる可能性があります。子どもと過ごすことは、生活に潤いを与え、精神的に豊かになるということを見直してみましょう。
2.知ったかぶりをするな、見てわかる事を聞くな(知らないなら知らないと言った方が良い)子どもといっても一人の人間としての人格を持っています。いわゆる「子供だまし」は、子どもには通じません。子どもにも、本物を与え、人間としての対応をするようにしましょう。
3.人の意見を無視する言葉を使うな(話している人は真剣だ)「愛」の反対語は、「無視」だといわれています。子どもは一生懸命に何かを伝えようとしています。それは、必ずしも「言葉」だけでなく、「表情」や「行動」や「態度」であることもあります。それは、ときに困った行動であることがありますが、それを通して何かを訴えようとしていることがあります。子どもの気持ちを理解してあげることが、耳を傾けることなのです。
4.打てば響く心意気を持て(説明しなければわからない輩とは付き合うな)子どもの発達を援助し、発達を助長しようとするときには、まず、その子の発達を理解しなければなりません。 それには、子どもをよく見ることであり、感じることなのです。
5.三つ心、六つ躾、九つ言葉、十二文、十五理で末決まる(江戸の稚児の段階的養育法。三歳までに人間の心の糸をしっかり張らせる。六歳までに躾を手取り足取りまねさせる。九歳までに人前でお世辞のひとつも言えるくらいの挨拶が出来るようにする。十二歳には一家の主の代書が出来るようにする。十五歳で森羅万象が実感として理解できるようにする。)商人道のほんの一部ですが、これに照らしてみると、通じるものがありますね。
投稿者 fujimori : 22:35 | コメント (2)
2007年01月22日 [近頃思うこと]
駄菓子
今年は暖冬のためか、そろそろ各地で梅の開花が伝えられてきます。梅といって思い出すのが、まず、今の時期受験生が頼りにする天神様です。これは以前にブログで書きました。もうひとつ、とてもマイナーな話として「梅ジャム」があります。

これは、たぶん、私くらいの年配で、下町育ちでないとわからないかもしれません。というのも、梅で作るジャムのことでなく、駄菓子のひとつだからです。駄菓子とは、子どもの持つ小銭程度で買える菓子のことです。この駄菓子を売っているのが、「駄菓子屋」です。私が子どもの頃には、家の近くにこの駄菓子屋がありました。駄菓子屋は、子どもたちが小銭を持って集まる社交場のようなところでした。特に、異年齢の子がつどい、そこには一種のコミュニティが成立したほか、店の屋号以外に世代を超えて利用された愛称があり、その名前を言えることが同じ地域で育った証でした。その駄菓子屋に売っている駄菓子は、その種類も豊富、安い値段というだけでなく、糸引き飴など、選ぶ楽しみと飽きさせない工夫がなされていました。クジ引きが出来たり、当りが出ればおまけが貰えるのも多くあり、子どもたちに人気がありました。しかし、私が子どもの頃は、この駄菓子屋では駄菓子を買ってはいけないと言われていて、ずいぶんとうらやましく見ていた思い出があります。しかし、駄菓子屋は、菓子だけでなく、玩具の販売もしていました。玩具類では銀玉鉄砲やカンシャク玉や爆竹・ロケット花火から花火セットまでさまざまな花火類、ベーゴマなどの独楽やめんこ・竹とんぼ・風船/水風船といった安いものから「スパイセット」や「昆虫採集セット」ちょっとした「プラモデル」など多岐にわたっています。この駄菓子屋は、日本では1980年代以前の町村では普通に見られていましたが、最近は、デパートとかスーパーの中に売り場を持っていることが多くなりましたが、もともとは、個人経営であり、何らかの商売(タバコ屋や文具店・雑貨商・軽食堂など)のついでに営業していた店も多く、その店番にお年寄りが多かったのも子どもの社交場になっていた要因かもしれません。そして、営業時間は子どもたちが外に出てよい時間まで(とーふ屋とかのラッパが聞こえ始める頃)であり、その店の作りは、ほんの3畳ほどの狭い広さの土間に、商品陳列用の棚に所狭しと大きなビンに入った駄菓子が並び、店の中央の木箱の上にも菓子などの入った、上にガラス板をはめ込んだケースが並べられ、天井から下げたフックには、くじとか、小さい袋入りの玩具が引っ掛けられてつるされていました。そして、その店は、その家の居間と障子一枚隔てて隣接しており、子どもたちがいないときには、その畳の部屋にいて、子どもが来ると出てきます。しかし、基本的には、セルフサービスとなっており、客である子どもたちは買いたいものを手にとって、店主に声を掛け、店主がそれらを合計して値段を伝え、その金額を支払うという形でした。たくさん買うと商品を入れる紙袋をくれますが、その紙袋は、大抵お年寄りの手作りで、片手間に新聞紙で作ったものでした。店の前には木箱や縁台が置いてあり、たまには、清涼飲料水やアイスクリームといった涼を取るために利用する大人も休んでいました。そこで売っていたあまりすっぱくない梅ジャムを、ミルクせんべいのような軽いせんべい2枚に挟んで食べるのが、「梅ジャムせんべい」といいます。ちょっと贅沢に1枚を半分に割って2枚に挟むとウサギになります。些細なことが喜びと感じた子どもの頃が懐かしいですね。
投稿者 fujimori : 23:21 | コメント (3)
2007年01月21日 [近頃思うこと]
学力
昨日のブログで書いたPISAの学力調査の結果は、かなり各国で影響を与えています。日本と並んで常に上位を占めている国は、韓国です。韓国は、日本が下がってきているのに反して、相変わらず上位を占めています。少し前に、韓国の保育、教育事情を聞く機会がありました。テレビなどでみな知っているように韓国では、受験が過熱し、親が月収以上の教育費をかけてまで子どもの教育に入れ込んでいます。また、国を挙げて幼児からの英語教育を始め、早期教育が盛んです。その様子の報告を聞いて、日本のある女性の園長がこんな感想を漏らしました。「こんなに小さいうちからやらせるよりも、もっと、充分と遊び、いろいろな体験をすることが必要ではないか。子どもの目がきらきら輝くようなことをするべきです。」これに対して、報告をした人が、「今の日本の子どもたちは、やる気がなく、目が死んでいる場合が多いけれど、韓国の子達は、みんな目がきらきらしています。」また、これに反発し、「でも、この韓国の子達の将来が心配ですね。」と言う言葉に、「では、日本の子どもたちが受けてきた保育、教育の結果、今の若者は心配がないのですか?」韓国は、国を挙げて頑張ろうというエネルギーに満ちている気がします。そんな韓国だからこそ、PISAの学力調査で上位を維持しようと、今までの教育を見直そうとしているのかもしれません。今月の19日の朝日新聞に「韓国、「人間教育」に力 詰め込み反省、多様化の兆し」と言う記事が掲載されていました。「豊かな環境で自発性を養うフリースクールが存在感を増し、情操面を育む塾にも人気が集まってきた。」というのです。このフリースクールは韓国で「代案学校」と言われ、進学を目指す従来の学校の代わりに、主に自発性や感性を養う「全人教育」を目指しています。ここの授業は、理科系の科目は減らし、「自立」授業と呼ぶ農業や住宅建設、「感性」授業といわれる音楽や陶芸などに充てます。また、授業以外の運営ルールは生徒自身が決めるのも特徴です。教育人的資源省関係者は、「親たちは入試優先で暗記式の教育方針に満足しなくなり、入試準備と全人教育の両方を求め始めている」として、政府はこうした要望に応えようと今春、「開放型自律学校」という代案学校の趣旨を採り入れた高校をソウルや釜山など4カ所で試験的に立ち上げるそうです。 一方、「リーダーシップ講座」が人気で、課題解決能力を養成しています。リーダーといっても、本物のエリート育成が目的ではなく、グループの中での意見交換や役割分担を通じて課題を解決する過程を学ぶのです。「昔はガキ大将と子分の関係から人との距離感や役割分担を体で覚えたが、それを担う地域が崩れた。学ぶ機会がほとんどなくなった人間的な力の育成を親たちは求めている」と人気の背景を説明しています。白淳根ソウル大教授(教育学)は、「代案学校などの人気や論述重視の入試など一連の動きは、最近韓国でよく言われる「創意的な問題解決能力の重視」というキーワードにつながる。韓国社会が成熟化するなか、新たな考え方を受け入れる余地が生じた結果だ。」と言っています。コミュニケーション能力、問題解決能力はなど、これからの子どもたちに求められる力です。その力をどのようにつけていったらよいか、教育、保育の質を考え始めています。決して、それは教える時間を長くすることでもなく、体罰を与えて教えること事でもなく、その内容の見直しです。まず、幼児教育を見直さないといけないかもしれませんね。
投稿者 fujimori : 21:05 | コメント (6)
2007年01月20日 [近頃思うこと]
良問
今日は、センター試験でした。どんな問題だったのでしょう。この年齢になると、自分の今の仕事に関係のあるところしか普段触れていませんので、たぶんちんぷんかんぷんでしょうね。それなのに、そのころは一生懸命に勉強したものです。私のころはセンター試験はありませんでしたが、この試験を受けた人は、その内容を将来使うことがあるのでしょうか。本当に将来に役に立つようなことを問題に出してほしいものです。そのような問題をOECDのPISA(国際的な学習到達度調査)では模索しているそうです。ですから、00年に始まったPISAは、国際的な学力の指標として関心が高まっているのです。03年の第2回での日本の成績は、「科学的リテラシー(活用能力)」こそ00年に続いて2位だったものの、「読解力」が00年の8位から14位に、「数学的リテラシー」は1位から6位に転落したことが、今回の教育再生会議での学力低下論議のきっかけになっています。今年4月、全国学力調査が約40年ぶりに復活しますが、文科省は、PISA型学力の指導資料を作成するなどてこ入れを急いでおり、全国学力調査の問題もこの方針に沿って練られると見られています。この調査に先駆けて実施した予備調査の問題の一部を、昨年末に公表しました。最大の特徴は、問題文を読み取って自ら文章にまとめ、記述式で答える問いが含まれていたことです。この問題に対して、現場の教師に戸惑いが広がっています。どんな問題だったのでしょうか。たとえば、算数の問題では、複数のグラフと表を使って考える設定の中で、解答を求めるのではなく、その解答の「わけ」を書く設問でした。「一つひとつの問題は簡単だが、問題文とグラフ、表を読む力がいる。算数と言ってもまるで国語のようで、慣れが必要」といわれています。全国学力調査は、基本的な計算や漢字など「知識」の問題と、知識や技能を実生活で「活用」できるかを問う問題に分かれます。この問題は「活用」のほうです。 この問題が現場の教師には不評ですが、それと対照的に、塾の関係者や研究者では「良問」との見方が多いようです。全国学習塾協会の稲葉秀雄専務は、「?マークをいつも頭に浮かべるような思考の訓練が必要になる。答えの理由にまで踏み込むことが今後、学校の授業で重視されるだろう。各設問は基本問題だけに、解けなければ大人が問題を読んであげ、一つひとつ丁寧に解く訓練をすれば理解できるようになる」と言っていますし、東京学芸大の藤井斉亮教授(数学教育)は、「単なる計算だけでなく、実生活の生のデータで算数、数学が使えなければ意味がない。教室の外でいかす能力を見ている」と言っています。この予備調査では、中3の数学でも、表とグラフを一つずつ示し、「理由」を記述させる問いが盛り込まれていますし、国語では小6で、グリーンピースを説明する資料を基に、グリーンピースが健康に良い理由を放送原稿にまとめさせる設問がありました。世界の学力調査から、次第にテスト問題が変わろうとしています。将来を見据えて、子どもたちが生きていくうえで必要な力をつけていこうとしています。そんな中で、ただ知識だけを覚えさせるような、言ったとおりに動く子どもを作っているような保育、教育を行っているようでは、世界においていかれるでしょう。親たちも、子どもには、どんな力をつけてあげなければならないかを考えてほしいと思います。
投稿者 fujimori : 22:43 | コメント (3)
2007年01月19日 [新聞記事より]
富太郎と栄一
昨日18日は、私のブログによく登場する植物分類学者である「牧野富太郎」の没後50年の忌日でした。そのことに関して、 読売新聞の編集手帳にこんな記事が書かれていました。
「植物学者の牧野富太郎は小学校を中退したあと、学校と名のつく所では学んでない。49歳で東京帝大の講師となり、77歳で退職するまで肩書は講師だった。学識の世評は高くとも学歴のない老講師に、ひと恥かかせる魂胆だろう。野外観察の折、ひとりの学生が枯れ草の根を取り出し、牧野の前に黙って差し出した。名前を当てられるものなら当ててごらん。学生たちが好奇の目で見つめるなか、牧野は草の根をそっと口に含むと、関東地方では見られない南方種のヒルガオの名を静かに告げた。特徴として、その根にはサツマイモに似た甘味のあることを言い添えた。渋谷章著「牧野富太郎」に記された挿話である。生涯に50万点の標本を採集し、1000種の新種を発見した植物分類学の巨人が94歳で死去したのは1957年(昭和32年)の1月18日、きょうは没後50年の忌日にあたる。「学者には学問があれば何も要らない」。冷遇と貧窮の時代にも、そう語っていたという。学者の誇りを捨てた「論文捏造(ねつぞう)教授」や、欲に良心を売り渡した「研究費流用教授」が世を騒がす昨今、折に触れて思い出される人である。たわむれに詠んだ都々逸が残っている。「草を褥(しとね)に木の根を枕 花を恋して五十年」。教育というのも煎(せん)じ詰めれば、ひと筋に恋する人をつくることかも知れない。」
彼については、時に触れこのブログに登場すると思いますので、特に今日はあまり触れませんが、同じようにあくまでも在野にこだわり、考古学を研究し続けた人がいます。以前にやはりブログで紹介をしたことがある「藤森栄一」です。「藤森栄一を読む 人間探究の考古学者」という昨年3月に発行された本の書評が 読売新聞に掲載されていました。「部数はともかく、著作が最も読まれた考古学者は、江上波夫でも佐原真でもなく、間違いなく藤森栄一(1911~73)であろう。本書を読めば、その理由がよくわかる。1978~86年にかけて学生社が刊行した『全集』(全15巻)に掲載された解説と、亡くなる5か月前に行われたインタビューを収録した1冊。戸沢充則・明治大名誉教授(編集代表)ら教え子を中心に11人が、師の学問や生き方を深い敬愛の念をこめてつづっている。松本清張の短編「断碑」で知られる夭折の考古学者、森本六爾を師と仰ぎ、信州・諏訪で在野を貫いた藤森には、縄文農耕や諏訪大社の研究など、今なお色あせることのない数多くの優れた業績がある。そして、激しい情念から生まれた「かもしかみち」「旧石器の狩人」「古道」など珠玉の作品たち。そこに共通するのは、古代に生きた人間の「心」をひたむきに追い求める、歴史探求のあるべき姿であると教えられる。一刻も早くじかに藤森に触れたくなって、放り投げてしまいそうになる皮肉な本である。」
彼が小中学生向けに書いた「心の灯」という本のあとがきで本人がこういっています。「自叙伝を読んでいただくほど、私は豪傑でも、偉人でもありません。それどころか、学校はできない、学歴もない、財産も地位もない、それでいて執念ばかり強く、妄執は人一倍というぐあいで、本来なら、まるで他人につまはじきされて終わるべき、まったくの雑草でしかなかったのですが、ここまで来てみますと、すくなくともわたしひとりは、ああよかった、おれという人間は幸福だったと、すこしは誇らしく思っています。」他人の評価よりも、自分の人生が誇れるようになりたいものです。
投稿者 fujimori : 21:52 | コメント (2)
2007年01月18日 [近頃思うこと]
フォント
そろそろ新1年は、小学校に入学する準備が始まっているでしょう。机を買い、ぴかぴかのランドセルも買い揃え、わくわくしていることでしょう。反面、新しく始まる勉強についても不安があるでしょう。特に保護者の皆さんは、心配でしょうね。今、ニュースで、さまざまな学校での事件や、問題が報道されているからです。また、勉強についていけるか、まだ文字が書けない、数がわからないという心配もあるでしょう。よく、学校の先生は、自分の名前が書ければいいですよと言いますが、実際は、ほとんどの子が、文字を書くことができます。しかし、実際は、書けるかどうかよりも、1年生になって文字を習ったときに、習った文字が書けるかです。それは、文字を書くには、まず、手首の動きが自在にできるようになっていないといけないからです。そして、適度な筆圧が必要です。ですから、十分に落書きをしたり、迷路遊びをしたり、なぞり書きをしたりすることが、文字を習ったときに、見本のとおりに書けるようになるのです。
子どもにはそう言っておいて、大人になると、文字を書くことが減りました。ワープロが出来、パソコンがあるので、手書きが少なくなりました。ですから年賀状だけは、一時は、パソコンで宛名を印刷していたのですが、今は、できるだけせめて宛名だけでも手書きで書くことにしています。手書きで書くと、字の形、大きさなど、宛名の住所の長さや、相手によって少し雰囲気を変えることができます。それが、パソコンで書くとなると、「フォント」という字の形を決め、「フォントサイズ」という字の大きさを決めます。本来フォントとは、同一書体で同一の大きさの大文字・小文字・数字など、欧文活字の一揃いのことを指すのですが、コンピュータの普及に伴い、コンピュータ上で表示したり印刷したりする際の文字の形、という解釈が生まれたのです。また、文字の形をデータとして表したものをフォントと呼ぶ場合もあります。主に使うフォントには、ゴシック体、明朝体など多くの種類があり、文章の種類に応じて使い分けることで、文書の表現力を向上させることができます。その中で、MSが着くゴシック、明朝体がありますが、これはマイクロソフト社が作ったということです。そして、すべての文字を同じ幅で表現するフォントを等幅フォント、文字ごとに最適な幅が設定されたフォントをプロポーショナルフォントと呼ぶびます。ですから、Windows日本語フォントで、「MS ゴシック」というと、Microsoft 等幅ゴシックのことを言い、「MS Pゴシック」というと、Microsoft プロポーショナルゴシックのことを言うのです。しかし、子どもたちが実際に教科書でお目にかかる書体は、パソコンには入っていません。文部省の学習指導要領(その中でも漢字の学年別配当表)で提示されている字体は、「教科書体」といいます。低学年では手書き文字から離れた明朝体では同じ字形と認識することは難しいということで、「手書き文字に近い書体を教科書にしよう」と教科書体が生まれました。しかし、教科書に使われている文字は教科書体だけではなく、ゴシック体、丸ゴシック体もありますが、これらも字形は教科書体に近いものになっていて、中にはそのために「教科書用のかな」をもつ写植の書体まであります。ずいぶんと、手書き文字への影響ということから、使われる書体に関してはかなりの配慮がなされていますね。もう少し、パソコン上でも、そんな配慮をしてほしいと思います。
投稿者 fujimori : 22:04 | コメント (3)
2007年01月17日 [映画]
THE WAR
先日のメールで、「八月のメモワール」と言う映画について少し書きましたが、最後を意味深で終わりました。なんだか、不消化を感じた人も多いと思います。この映画を見たことのある人はわかるのでしょうが、あまりこの映画は評判が今一だったこともあり、そんなに話題になりませんでした。ですから、ネットでもそのあらすじは紹介されていません。しかし、私の中でベスト3に入っているというのは、様々な批評と違う観点で感動したことにあります。この映画の原題は、「THE WAR」と言うものです。「戦う」、「争う」ということはどういうことであるかということがテーマになっています。
「ベトナム戦争から帰還した父親は、精神的にも深い傷を負っています。それは、彼は、何かをすればどこかで何かが変わるという父の言葉を信じて、良いことをしたいとベトナム戦争に従事したのですが、親友を殺す羽目になってしまって、自分を責めます。しかし、マイ・ホームを持ちたいという夢を抱き、危険な仕事に励むのです。それは、「子どもたちには希望を与えたい。奇跡を信じ、不可能はないと思う子に」という思いからです。そのころ、子どもたちが夢中になっていたのは、森にある大きな樫の木に“ツリーハウス”を作ることです。そのちっぽけな木の家は、彼らにとって日常の貧困や不安定な世界から逃れる唯一の場所だったのです。それを作る為に、仲の良い友達と材料を探し始めます。彼らが目をつけたのは近所の悪がきの縄張りであるガラクタ置き場です。ここに踏み入ったことで、この悪がきと喧嘩をします。父親はそんな子どもたちに「我慢を忘れると一生後悔することになる」と、忍耐と相手を理解する気持ちの大切さを説きます。そんな中で、次第にツリーハウスは出来上がっていきます。しかし、子どもたちと近所の悪がきたちとの間の縄張り争いは次第にエスカレートしていきます。そして、このツリーハウスを守るために戦いを始めます。ショベルカーを持ってきたりして、その戦いは激化していきます。そして、最後には、子どもたちは悪がきに勝つことができます。勝ち誇って喜ぶ子どもたちですが、改めて振り返ってみると、大切なツリーハウスは無残にも壊され、そこに残っているのは、ただの廃材だけです。いくら、大切なものを守るためであっても、戦うことで、人と争うことでは、結局は大切なものは守れないのです。そんな子どもたちに、父親は静かに語ります。「俺はお前に絶対に戦うなとは言えない。俺がどう思っているか知りたいかい?俺は人々の真の平和と幸せを与えるのは愛だけだと思う。愛が存在しないなら、この世に戦う価値のあるものは何もない。争うことの虚しさを知ってほしい…」
この後に、悲惨なことがこの一家を襲い、父親は亡くなってしまいます。しかし、私は、そのあたりは、どんなストーリーだったのかよく覚えていません。この戦いの虚しさ、「THE WAR」とは、どういうものであるかが深く胸に残っているからです。戦いの後に残るものは、決して勝利ではなく、虚しさと、その後の様々なひずみです。今、アメリカでベトナム戦争の後のひずみが出ているように、日本でも、戦後何十年もたった今でも、様々なひずみが、いろいろなところで出ている気がします。戦いとは、何世代にも影響を及ぼすほど、恐ろしいものです。決して、子どもたちに戦いごっこなどさせるべきではありません。
投稿者 fujimori : 23:52 | コメント (4)
2007年01月16日 [近頃思うこと]
巻頭言
昨日、このブログを読んでいる人に「少しも保育のことや子どものことが書いてないから、参考にならない。」と言われました。私のブログは、その題名のところに書いているように子どものことをいっしょに考えようという趣旨ではありますが、何を書けば子どものことになるのでしょうか。私は、先日、ある研究者の集まりに呼ばれて、保育者の研修についての意見を求められました。保育者というのは、教師同様、人、特に子どもを相手にする職業です。そのような職業では、子どもに何を伝えるか、伝わるかと言うのは、たとえば手遊びのやり方を伝える、折り紙の折り方を教えるというようなことであれば、本を見るなり、資料を見ればすみます。しかし、保育、教育とはそれ以前に保育者、教師の人格が子どもに伝わるのです。ですから、研修として一番大切なことを、その人の人格を高めてもらうことですと答えました。ですから、人格を磨くために、道端の花を見、夜の星を眺め、その土地の歴史を知り、人々との出会いのよって学んでいくのです。また、ブログは、読む人を特定しませんので、どの人にも自分に興味のある話題が見つかるように、様々な分野について書くことを意識しています。ただ、それは、切り口であり、どの分野からも子どものこと、保育・教育のこと、人としての生き方について関連してきます。そういう意味で、このブログを主体的に読んで欲しいと思っています。
そうはいっても、少しは保育のことを書いてみようと思います。私は、毎月園便りの巻頭言で、保護者向けに保育について書いています。そのひとつを紹介します。
「われわれの仲間、ほ乳類の多くはもともと夜行性でした。恐竜が闊歩していた時代に出現したほ乳類は、体の大きな恐竜など天敵に襲われないように、暗い夜に活動することで生き延びてきたのです。そのころの地球は、昼と夜の温度差が激しく、夜は太陽熱から体の乾燥を避けられるというメリットもありました。そして、6500万年ほど前、恐竜が絶滅するとほ乳類は一気に行動範囲を広げ、多様に進化していきました。霊長類の祖先はすでにこのころ出現しており、昼行性の行動をとるサルが多く出てきました。このなかに人間の祖先がいたであろうと考えられています。」東京大学大学院理学系研究科助教授の石田貴文さんが、「人類の進化の決め手は、夜からの移行?」という記事の中で書いています。霊長類が夜行性から昼行性に変わったことが、人への進化につながったといっています。昼間の世界に進出することによって視覚が発達し、色彩を識別し、三次元のものが見えるようになります。そこで、目が顔の表面に移ることによって顔のつくりが変わり、三次元の情報を頭の中に呼び込むことによって脳が大きくなったと考えています。しかし、夜行性から昼行性へ、昼行性から夜行性への移行は起こりやすいといいます。そして、こう言って結んでいます。「もしかしたら、今後、人間が夜行性になることだってあるかもしれませんよ。もちろん何百万年も先のことでしょうが。」どうも、最近の子どもたちを見ると、夜行性になってきたのかと疑うことがあります。昼間から眠くなる子が多くなり、夜遅くいつまでも起きている子が多くなりました。夜行性になってきたということは、退化してきたということで、脳も小さくなってくるということかもしれません。」
投稿者 fujimori : 22:54 | コメント (5)
2007年01月15日 [近頃思うこと]
隠れ家
1月12日の 読売新聞に、こんな記事が掲載されていました。「男は縄張りにこだわる」という目白大(東京)の渋谷昌三教授(社会心理学)のレポートです。高い緊張感を強いられる現代社会では、ストレスを完全に断ち切る時間がほしいと思うのが当然で、特に、職場で神経をすり減らす男性はなおさらのようです。また、神経をすり減らすのは、職場だけではなく、満員の通勤電車、渋滞する道路、込み合う繁華街……。いつも他人と隣り合わせでいるうちに「自分だけの空間に避難したい気持ちが強くなる」と言っています。これは、集団の中で生活するものの宿命かもしれません。しかし、集団で生活するというのは、人間社会では普通のことであり、一人でいるときに不自然を感じるのが普通ですが、その中でも自分の領分を持ちたいと思うようです。書斎のような小部屋やスペースを指す「DEN」という言葉が数年前、住宅業界で使われました。この「デン」というのは、本来は英語で、獣のすみか、穴倉を意味しますが、不動産用語では、お父さんのための書斎、隠れ家の意味で用いられます。特に広さや形、機能での基準はなく、住宅の中では小部屋を指し、趣味を楽しむための部屋や家事室として使用される空間も含み、使い方自由の多目的スペースをさす場合もあります。また、「アルコーブ」という空間も提案されています。アルコーブとは、部屋や廊下、ホールなどの壁面の一部を後退させてつくった空間のことで、たとえば、マンションの玄関前で、外壁面から少しくぼんだ形になっている空間の事を言います。この空間があることで、玄関ドアを開け閉めするときに共用廊下を人が歩いていてもぶつかりませんし、外からの視線が遮られるなどのメリットがあり、プライバシーを高めます。語源は、凹所を表すアラビア語です。建築用語では、部屋の壁を後退させて設けた付属的な入り込み空間、奥まった私室、書斎コーナー、床の間などもアルコーブの一種です。このアルコーブ、デンは、学校建築や保育園、幼稚園建築の中で、あるとよい空間として提案されています。2006年4月に開校した同志社小学校の校舎の説明文にこう書いてあります。「校舎内部は一つの巨大な空間になっています。広々とした自由空間は、子どもたち同士が自然な形でふれ合える場。「あそび」や「無駄」の空間が随所に散りばめられ、隠れ家のようなデンと呼ばれる空間が配されるなど、子どもたちの創造性をかきたて、夢がいっぱいに広がるような、温かい工夫がなされています。」ここに記されているように、子どもにとっても、広々とした空間と、隠れ家のような、もぐりこめるような空間が必要なようです。それに比べて、ほとんどの今の校舎建築は、なんだか貧しい気がしますね。子どもを閉じ込め、管理し、いっせいに教育をすることが効果的な空間を持った校舎、保育室は子どものためでないというだけでなく、人間のためでない、人格を尊重していない施設という感じがします。そういえば、1994年制作で、ケヴィン・コスナー主演の「八月のメモワール」という映画がありました。この映画は、私の好きな映画ベスト3に入っているものなので、その内容はまたゆっくりと書きたいと思いますが、その映画は、子ども達が、遊び場としての秘密基地であるツリーハウスを巡って争う事が物語の中心になっています。必死に守るために戦う姿は、その基地が子どもたちにとってとても大切なものであることがわかります。しかし、その大切なものは、戦いでは守れないのです。
投稿者 fujimori : 23:02 | コメント (2)
2007年01月14日 [近頃思うこと]
牡牛座
この数年私は、ドイツの幼児教育、学童保育事情を勉強するためのツアーをくんで、ミュンヘンを訪問しています。昨年、訪問したときには、現地からその報告をブログでしました。そのブログを読まれた方はわかると思いますが、このツアーのうわさが口コミで流れている話は、「観光がほとんどなく、夜もホテルで研修が毎日あるらしい。」というものです。確かに外国にはめったにいけないかもしれませんが、観光で行くのであれば、今は安いパックがいくらでもあるので、思い切り観光で楽しめばいいと思います。その代わり、研修でいくのであれば、何か、自分の仕事に役に立つものを持って帰ることのできるような訪問をするべきだと思っています。どちらも中途半端になってしまうと、ただの思いで作りになるだけでしょう。今年も来月にドイツに行くので、その事前研修が今日行われました。訪問先では、じっくりと保育を見てもらいたいので、ドイツの子どもの環境や、制度などの現状の把握と、研修の目的とポイントなどを事前に理解してもらっておこうというものです。その研修をしていて思い出したことがありました。それは、昨日入間で行われたセミナー会場のあたりを朝早かったのでぶらぶらしていたら、隣にプラネタリウムがありました。まだ、開館していなかったのですが、そこの壁にこんな垂れ幕が下がっていました。
「牡牛座物語」というものです。冬の星座の代表的なオリオン座に突きかかるように角を振り上げているのが牡牛座です。たぶん、この時期の星座である牡牛座にまつわる神話を特集しているのでしょう。この牡牛座と、来月訪れるドイツと少し関係があります。神話は、こういう話です。「フェニキアという国にエウロペという美しい王女がいました。天の神ゼウスは、海の近くの野原で花摘みをするエウロペの姿に魅せられてしまいました。そしてゼウスは真っ白な牡牛に姿を変えてエウロペに近づきました。ゼウスが変身した牡牛は全身が雪のように白く、やさしい目をしており、吐息はクロッカスの匂いがしました。エウロペは首をなでたり、つんだ草をあげたりしていると、牡牛はエウロペの手を甘えるようになめたりしました。そのうち、牡牛は美しいエウロペの足もとにすわり、背中を向けてエウロペを振り返り、背中にのりなさいというゼスチャーをしました。エウロペは牡牛にすすめられるままに背中にまがたりました。すると突然牡牛が走り出して海に飛び込みました。必死にしがみつくエウロペを乗せたまま、牡牛は海を渡ってクレタ島へ上陸しました。そしてもとのゼウスの姿にもどり、エウロペに愛を打ち明けました。こうしてエウロペはゼウスと結婚し、3人の子どもを生みましたが、3人ともそれぞれ偉大な王になったということです。このうちの一人が後にクレタ島のミノス王です。ゼウスはいつもエウロペに特別の愛情をいだいていました。彼はエウロペへの求愛を記念して星のシャンデリアを空にかけ、これを「牡牛座」と名づけたということです。」ドイツがあるヨーロッパという名は、このギリシア神話に登場する美女「エウロペ」 (エウロパ、ユーロパ) に由来するといわれています。現在のヨーロッパ及びユーラシア大陸を意味する地理的名称として「エウローペー」という名称を用いた最初の人は、「エジプトはナイルのたまもの」という有名な言葉を言った「歴史の父」といわれているヘロドトスです。ヨーロッパという言葉は、美女の名前だったのですね。
投稿者 fujimori : 23:51 | コメント (2)
2007年01月13日 [セミナー]
忍と「やりがい」
昨日と今日二日間で保育環境セミナー埼玉ブロックが開催されました。対象者は、保育園、幼稚園、保育関係者で、二日目の今日は参加者200名あまりの参加がありました。昨日の公開保育に続き、今日の最初は、実践園の発表でした。その中で、保育者が保育に取り組む中で、「大変だ大変だ」と言いながら、顔が輝き、生き生きとしているという話がありました。確かに保育という仕事は、体とかは大変かもしれませんが、充実感があるようです。以前、仕事の満足度調査をしたことがありましたが、保育者は仕事が大変であると思っている人の率は他の職業に比べて多いのですが、その仕事への満足度はどの職種の人より高いのが特徴でした。人を相手にする職業、特に子どもを相手にする職業はそういうものかもしれません。仕事ではなくとも、子育てに対しても、マスコミでは、子育ての負担感を感じる親が多いという報道が多いのですが、実際は大変だけれど、子育ては楽しく、充実感があると思う親は多いようです。少し前、なにかに団塊の世代のアンケートが掲載されていたことがあります。そのひとつに「働くことを漢字一字で表すと?」の質問では、「忍」が71人とトップで、以下、「生」(34人)、「苦」(17人)、「耐」(15人)と、シビアなとらえ方が多かったようです。仕事に対する印象としてそのような言葉で象徴されることが多いとしたら、保育、教育という仕事はどんな一文字で表されるでしょうか。今日の研修会に集まった人たちは、たぶんそんな言葉を挙げないような気がします。また、「仕事で得られたこと」(複数回答可)という問いに対しては、「知識・教養」が178、続いて「忍耐力」(169)、「専門的スキル」(162)、「協調性」(161)、「社会的信用」(145)の順でした。この答えでも、忍耐力が2位というのは、なんだか切ないですね。団塊の世代は、よほど仕事で「忍」の毎日だったのですね。
ニート問題の第一人者として有名な玄田有史氏が「働く過剰」の中でこういっています。「希望=求職欲求の実現が重要なのではない。確かに調査によれば、小さい頃求職欲求を抱いていた者は、その後ついた職業に「やりがい」を感じることができている者が多い。」そういう意味では、保育者は子どものころの、なりたい職業の上位にいつの時代でも挙げられています。私の園にも、職員として私の園の卒園児がいますが、彼女の卒園文集の「将来なりたい職業」欄に「保母さん」と書かれています。そんなころから思い描いていた職業に実際に付くことができるなんて、幸せですね。しかし、この本の中では、それだけでなく、こう言っています。「もちろん、求職欲求がなかった者も、その後「やりがい」を見つけることができている。また、当初の求職欲求が挫折したとしても、その挫折の経験の中で別の求職欲求が生まれ、結果的に「やりがい」に出会うケースも多い。」それは、自分が希望する職業でなくても、その仕事をしているうちに、充実感を得てくると、やりがいを感じてくるということのようです。「やりがい」と出会うための導入部分として、仕方なく仕事に就くということも大切であるということです。そして、その仕事が「仕方なく」から「やりがい」に変わるときは、「他者の承認」が必要といっています。そういう意味で、今回のセミナーでの公開保育は、公開した園の職員が、「やりがい」をより強く確認したきっかけになった気がします。
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2007年01月12日 [近頃思うこと]
味覚の歴史
園に対してよく出る質問に「給食」があります。その悩みの多くは、「好き嫌いのある子にどう対応するのですか?」というものです。そこには、子どもにはいろいろなものを食べてほしいというかつての悩みから、最近は、嫌いなものを無理やりに食べさせないで欲しいと思う保護者が増えてきた気がします。しかし、そのどちらも栄養からの問題で、楽しく食べさせて欲しいとか、食べたいと思う意欲をつけてほしいということは少ない気がします。食べることに関して豊かになった今では、食べることの意味は変わってきています。特に、給食の役割も変わってきています。よく、私もブログに書きますが、食を文化として捕らえ、生きるための手段だけでなく、豊かに生きるための食事として見直さないといけないと思っています。最近、NHK「プロフェッショナル 仕事の流儀」で司会をしている脳科学者の茂木健一郎さんが、脳科学の最先端研究の視点から、様々な「食」のエッセイをまとめた『食のクオリア』(青土社刊)を出版したそうですが、日経の記事の中で、人間にとって本質的な「食」の現象学について脳との関係について、第2回「味覚とは脳内文化」では、こんなことを言っています。「海外のいわゆる三ツ星レストランのシェフには、漁村や農村出身の人が多いそうです。「食」は常に官能的なもので、自分の身体の成り立ちに関わっているものですね。そういう秘儀にかかわっているシェフが、農村や漁村出身だということに、不思議なつながりを感じます。昔で言えば、王侯貴族のような高い身分の人たちも、自分の官能を満たすときには、文化文明で統治してきたはずの自然が恵んでくれる素材に頼らざるを得ない。そこが「食」の面白いところですね。」食が文化であるということがこの話からもわかりますね。ですから、そこにはこだわりがあるのです。「生命を維持するだけでしたら、本当は何を食べてもいいわけです。イギリス人はそういう感覚を持っている人が多いですね。でも、「食」を芸術として極めていく人々もいます。生命維持を目的にするだけなら、ホワイトアスパラはどこの産地がいいとか、利尻の昆布じゃなきゃだめだとか、とりたてて突き詰める必要はない。官能を突き詰める姿勢が人間にはあるんですね。」食は、栄養を満たすだけではないはずですが、最近はサプリメントで済ます人が多くなりました。そこには、もう人間としての営みがなくなってきた気がします。しかし、人間にとって必要な栄養は、体にとってだけでなく、心の栄養もあるはずですし、心の栄養というのは、脳の栄養ということで、食が脳にどのような影響を及ぼすのかという考察も必要になるはずです。その観点から、こんなことを言っています。「味覚とは、脳内文化なんです。例えば、寿司なんておいしいのに、生魚はかたくなに食べない民族がいるわけです。逆に日本人は、牛とか豚の内臓を口にするのは遠慮しがちだった。フランス人はよく食べますが。これは文化の差なんですよね。文化とは、幼少期から脳の中に蓄積されていく記憶の連なりによって成り立っているので、何が自分の食欲をかき立てるのかは、記憶によるところが大きいわけです。」「味覚って、単においしいとか、食べているときに感じるクオリアだけじゃなくて、時間の流れの中で今まで自分がどういうものを食べてきたかっていう歴史が形づくっていくものなんですね。」子どもたちに、味覚の歴史を作って行ってあげたいですね。
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2007年01月11日 [近頃思うこと]
鏡
今日は、鏡開きです。餅を男性は具足にお供えしたので「具足餅」、女性は鏡台にお供えしたので「鏡餅」といい、それぞれ雑煮にして食べたことがこの行事のはじまりです。私は、昨日、鏡餅をお汁粉でいただきました。鏡に映る世界は、太古の昔から人類を魅了してきました。もちろん、人類が始めて使った鏡は「水の鏡」だったでしょう。ナルシスは、水に映った自分に恋したように、古代の人々は池や水たまりの水面に自分の姿形などを映して眺めていました。その後、石や金属を磨いて鏡として使用していたことが遺跡の発掘などから分かっています。現存する金属の鏡で最も古いものは、エジプトの第6王朝(紀元前2800年)の「銅の鏡」があります。そして、ガラスの鏡は14世紀始めにイタリアで初めて作られました。日本に初めてガラスの鏡を伝えたのは1549年、ポルトガルの宣教師フランシスコ・ザビエルだといわれています。鏡は、日本においては、日常的な道具だけでなく、三種の神器(鏡・玉・剣)の1つとして祭られていますし、西洋でも、「白雪姫」や「鏡の国のアリス」のように鏡が登場する童話がいろいろあります。そういえば、ロンパールームのお姉さんの定番の台詞で「鏡よ鏡よ鏡さん。」というのがありましたが、その原型は白雪姫の継母が所有していた魔法の鏡のようです。また、「鏡の問題」と呼ばれ、多くの人の頭を悩ませてきた問題があります。それは、「鏡の像は左右が逆になるが、どうして上下は逆にならないのか?」という問いです。これは、科学啓蒙書の名著として名高い「自然界における右と左」(マーチン・ガードナー著)の中で、はじめに問われています。
鏡は、よく真実を映すといいます。それは、現実の姿をそのまま映すからです。しかし、その姿が真実でしょうか。私の好きなミュージカルに「ラ・マンチャの男(Man of La Mancha)」がありますが、これはセルバンテスの小説『ドン・キホーテ』をもとにしたミュージカル作品です。小説『ドン・キホーテ』は、騎士道物語を読み過ぎて妄想に陥った下級貴族の主人公が、みずからを伝説の騎士と思い込み、従者サンチョ・パンサを引きつれ遍歴の旅に出かける物語です。この作品は、旧態依然としたスペインなどへの批判精神に富んだ作品であり、また、主人公の自意識や人間的な成長などの「個」の視点を盛り込むなど、それまでの物語とは大きく異なる技法や視点が導入されていることから、最初の近代小説ともいわれています。その彼が、年老いてからも夢や希望、正義を胸に遍歴の旅を続ける姿がとても感動的なのですが、ミュージカルでは、鏡の盾を持った「鏡の騎士」を名乗る遍歴の騎士が、ドン・キホーテと一騎打ちをして遍歴を止めようと、「本当の自分の姿を直視せよ」と、夢を追っている姿を鏡に映し、追い詰めます。そして、その姿を見て、抜け殻のようになって自宅に戻っていくのです。しかし、正気には戻ったものの、彼の夢を追う姿を愛する周りの人によって再び夢を追いもとめ、死んでいきます。最後に歌う歌は、私の大好きな「見果てぬ夢」です。「夢は稔り難く 敵は数多なりとも 胸に悲しみを秘めて 我は勇みて行かん 道は極め難く 腕は疲れ果つとも 遠き星をめざして 我は歩み続けん これこそは我が宿命 汚れ果てし この世から 正しきを救うために 如何に望み薄く 遥かなりとも やがて いつの日か光満ちて 永遠の眠りに就く時来らん たとえ傷つくとも 力ふり絞りて 我は歩み続けん あの星の許へ」人の真実の生き方は、決して鏡に映る姿ではない気がします。
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2007年01月10日 [近頃思うこと]
松
皆さんは、花言葉をいくつか知っていますか?花言葉は、その花を見てどう思ったかという地域柄、故事・伝説・言い伝え・宗教・小説(物語)等から引用されているので世界各国で花言葉が違ってきてしまいます。また、私は、花言葉なので、花についての言葉かと思っていましたが、じつは、樹や草にもついています。たとえば、縁起のよい植物として、門松など正月の飾りの主役になっているものに「松」がありますが、もちろん、花言葉はあります。四季を通して変わらぬ緑から、葉が緑を「保つ」ということから、また、「四時常に緑」であること、つまり、未来をはらんだ永遠の若さを象徴するものとされ、長寿、不変、節操の象徴とされています。そのほかにも、あわれみ・同情・慈悲・不老長寿(東洋)、勇敢などの花言葉があります。常緑樹から不老長寿というと東洋的のような気がしますが、実は、ギリシャ神話にこんな話が載っています。「クロノスの妻であり、ゼウスの母でもあるレアが羊飼いに恋をしました。しかし、羊飼いには恋人がいたのでレアは相手にされませんでした。レアは思い通りにならない羊飼いを松の木に変えてしまいました。それでもレアは羊飼いのことを忘れられず、その松の木の下でずっと嘆き悲しんでいました。その様子を見たゼウスは、レアに同情して、レアの大切な松の木を常緑樹にしてあげました。」同じギリシャ神話には、別の話もあります。「牧神パンは、ニンフのピテュスを気に入って追いかけました。そこでピテュスはパンから逃れるために松の木に姿を変えました。その時から、松はパンにとって聖樹となりました。それでパンはいつも松の枝の冠をかぶるようになりました。」また、キリスト教では、松は、幼いイエス・キリストを抱いた聖母マリアを、ユダヤ王の追っ手から守るために隠したとされています。イエス・キリストが松の木の優しさを喜んだので、松の実(松ぼっくり)は幼いイエス・キリストの握りこぶしの形になったとされています。東洋では樹齢の長さから不老長寿の象徴とされていますが、西洋では、この故事から「慈悲」という花言葉があります。西洋でもこんなに待つにまつわる話が多いのですから、もちろん日本でも多くあります。有名なものに「はなさかじいさん」があります。おじいさん、おばあさんが飼うことになった犬は、町へ行く手前の松原の松の木の根元いた犬です。そして、その犬を隣の爺さんに貸したところ殺されてしまい、その死んだ犬を畑の片隅に埋めてやり、その上に松の木を一本植えます。じいさん、ばあさんふたりが、松の木に毎朝・毎晩水をやるとすっすすっすと伸びて、大きな太い松の木になります。ある日のこと、きれいな鳥が松の木に止まって「じいさま じいさま、この木を切って臼にせ。」と不思議な声で鳴いたので、その松の木で臼を作り、米をつくと、宝物が出てきます。ということは、枯れ木に花を咲かせる灰は、松の木を燃やしたあとの灰です。こんな昔話を、今の子は聴く機会があるのでしょうか?どのくらいの年齢の子まで知っているのでしょうか。お正月の門松の松を見て、思い出すものがどのくらいあるのでしょうか。知っていてどうということはありませんが、なんだか連想するものが多いほど、生活をしたり、町を歩くときに楽しくなる気がします。
投稿者 fujimori : 21:06 | コメント (2)
2007年01月09日 [近頃思うこと]
我慢
今日の新聞の夕刊に、妹を切断容疑の兄の自供で「母への口調、我慢できず」という記事が掲載されていました。最近の子どもや若者は「我慢ができない」といわれます。それは、よく「キレる」という言葉でも表現されますが、それは、「行動抑制力が欠如している」とか、「自律」する力に欠けているという意味で、本当は、「我慢できない」ということと少し違うのです。昨日のブログで書いたように、もともとの意味が違ってきている言葉の一つです。いま、「我慢する」という言葉は、「辛抱をする」「耐えること」という意味に近い使われ方をし、どちらかといえばよい意味で使用されます。ですから、子どもが何かをねだったり、欲しがったりすると、母親は「我慢しなさい!」と言い聞かせます。かつて、ボンカレーのテレビCMにこんなのがありました。当時流行していた時代劇に「子連れ狼」というのがありましたが、そのパロディで、仁鶴が「子連れ狼」の主人公・拝一刀に扮し、「3分間待つのだぞ」という台詞に対して、「じっと我慢の子であった」というナレーションが入ります。このころから、「我慢」は美徳のように言われてきました。しかし、もともとの仏教語としては、あまり好ましい意味の言葉ではありません。我慢とは、サンスクリット語ではアートマ・マーナ、またはアスミ・マーナといい、自慢、慢心という場合のように、自己の中心に我があると考え、その我を中心として心が驕慢であること、おのれをたのんで心のおごる煩悩というように説明されています。「慢に七慢あり」と仏教では次のように説かれています。
「慢」とは、自分より劣った者に対して優越感をもつ心のことをいい、自分と同等の者に対しては自分と同等と思うことです。自分と同等と思うということは、相手を尊敬しない自分の驕りなのです。「過慢」とは、自分と同等の者に対しては、自分の方がエライと錯覚し、自分より勝れた者に対しては自分と同じと思うこころのことです。「慢過慢」とは、自分より勝れた者に対し、自分の方がさらに勝ると思う心です。「我慢」とは、仏教では無我を説いていますが、その無我の理を知らず、我が、我が(自分が、自分が)と自分に執着しておごりたかぶる心のことをいいます。「増上慢」とは、まだ悟りの域に達していない者が、自分はすでに悟ったという、うぬぼれ心のことをいいます。「卑慢」とは、他人がはるかに勝れているのに対し、自分はわずかしか劣っていないと思う心です。「邪慢」とは、自分が間違った行いをしても正しいことをしたと言い張る心です。これら七つの「慢」をよく読んでみると、自分にも思い当たることがあります。つい、誰でも表れてしまう心の「うぬぼれ」「おごり」「高ぶり」の心なのです。そのようにもともと「我慢」とは、自分に執着することから起こる慢心を意味し、そこから意味が転じ、「我を張る」「強情」などの意味で使われるようになり、さらに、強情な態度は人に弱みを見せまいと耐え忍ぶ姿に見えるため、近世後期頃から、現在使われている我慢の意味となったようです。もう一度、自分の心の中の「慢」を消していく努力が必要です。それが、自律につながり、今の若者に必要な力だと思います。
投稿者 fujimori : 23:07 | コメント (3)
2007年01月08日 [近頃思うこと]
弱冠
言葉というものは、どの使い方が正しいかということに関して普遍ではありません。それは、使う人が多くなると、それが通称となっていくからです。しかし、時代によって使い方が変わってきても、その言葉の成り立ちは、その本来の言葉の意味を知る上でとても大切なことです。
よくアナウンサーなどが、すばらしいことをした人などを紹介するときに、若いのにすごいと言おうとして、「弱冠○○歳にして」というように「弱冠(じゃっかん)」という言葉を頭につけることがあります。しかし、もともと古代中国では男子のことを、しなやかで一人前の体格になった若者ということで「弱」といい、「冠」とは、成人になった祝いに着用する冠のことをいい、昔の中国で元服をした時にかぶったといわれています。ですから、「弱冠」とは「男子二十歳」のことをいい、先日のブログでも取り上げた「礼記」の中の「曲禮上」にこう書かれています。「人生十年曰幼,學。二十曰弱,冠。三十曰壯,有室。四十曰強,而仕。五十曰艾,服官政。六十曰耆,指使。七十曰老,而傳。八十、九十曰耄,七年曰悼,悼與耄雖有罪,不加刑焉。百年曰期,頤。」(人は生まれて10年したら、「幼」と言い、学問を始める。20年したら、「弱」と言い、冠を着ける。30年したら、「壮」と言い、妻を迎える。40年したら、「強」と言い、(父の職を継いで)仕官する。50年したら、「艾」(かい)と言い、重要な官職政務を扱う。60年したら、「耆」(き)と言い、多くの者を指揮する。70年すると、「老」と言い、地位を人に譲る。80年90年を「耄」(もう)と言い、生まれて7年までを「悼」と言い、耄と悼の者は、罪を犯しても、刑を加えない。100年の人を、「期」と言い、ねんごろに養う。」古代の士大夫級の長男を標準とした、人生区分です。ですから、「弱冠18歳にして」とか、「弱冠20歳にして彼女は」というように、二十歳より上にも下にも用いないし、女子には用いません。すなわち、今日、成人式を迎えた男子が「弱冠」なのです。しかし、誤って使われているうちに、「年若くして~」と言う意味にも使われるようになり、現在は定着しつつありますが、やはり、正しい使い方をしたほうがいいかもしれません。しかし、それ以上に使い方でおかしいのは、「若干19才」などと「若干」という誤記が多いことです。「若」という字には「~のごとし」と言う意味があり、若干に使われる「干」という字は「干す」と言う意味ではなく、「一」と「十」を合わせた字という意味のほうです。つまり「若干」とは「一のごとし、十のごとし」という事で、「採用者若干名」というのは、一人採用するかも知れないし、10人採用するかもしれない、という意味です。ですから、「弱冠」とは、まったく違う言葉です。
論語にしても、礼記にしても、人生の目安が書かれています。それは、目標でもあり、自分の振り返りでもあります。そして、それは特に人生の節目に行われます。そういう意味では、今日の成人式はとても意味のあることかもしれません。しかし、成人式をやる意味とか、そのやり方などいろいろと議論を生んでいるところですが、成人式をやることによって、成人を迎えた若者に振り返りを求めるよりも、さまざまな行動をする成人を見て、それまでの教育のあり方、社会のあり方などを、大人が振り返るきっかけの日にしなければいけないのだと思います。
投稿者 fujimori : 21:55 | コメント (2)
2007年01月07日 [記念日]
旧暦
今日1月7日は七草の日で、我が家でも七草粥を食べました。これは、よく知られていることですが、お正月の間のご馳走で胃袋を始めとする臓器も疲れてくるので、さまざまな効用がある若菜を入れた粥を食べるのがよいとされています。この若菜とは、春の七草のことを指し、それを摘む姿が、百人一首に読まれ、とても有名ですね。「君がため春の野に出て若菜(七草)摘む わが衣手にゆきはふりつつ」(光孝天皇)という歌ですが、雪がちらちら舞うというのはわかるのですが、今日のような日は、まだ野には若菜など顔を出していません。この歌の情景として浮かぶのは、暖かくなってきた七草の日に、やっと寒い冬を越えて顔を出した若菜を摘もうと出かけてきて、お互いにおしゃべりをしながら摘んでいると、雪がちらついてきたというイメージですね。ですから、この歌が読まれた季節は、もちろん、旧暦の1月7日です。ということで、七草粥を食べるのは、本当は、旧暦の1月7日で、今の暦で言うと、2月中旬のころになります。しかし、正月も旧暦ですので、食べる意図は変わりません。日本の四季や年中行事の季節感は、当然旧暦で感じたり、行われていたものがほとんどですので、今の暦に当てはめると1カ月ほど早まってしまいますから、おかしくなるものが多いですね。梅雨のころで雨が多い6月のことを「水無月」と呼ぶのも変ですね。年賀状にも、「賀春」とか「迎春」と書くのも本当は、旧暦の話です。旧暦では1~3月が春、4~6月が夏、7~9月が秋、10~12月が冬と決められているので、1月1日は「春」なのですが、今は、その日付をそのまま新暦に持ってきただけなので、実際の季節感とは、ほど遠くなってしまっています。
それにしても、眺めを楽しむ「秋の七草」にくらべて、「春の七草」には、ずいぶんと、薬効がありますね。例えば「せり」には便秘や風邪の予防、利尿作用、消化を助け黄疸をなくす効用があり、「なずな」には、肝臓病や高血圧の予防、視力、五臓に効果があるといわれ、「はこべ」は腫れや痛み止めに効き、母乳分泌促進作用があると云われ、歯ぐき、排尿に良いともいわれています。「ごぎょう」は、吐き気、痰、解熱に効果があるといわれ、「ほとけのざ」は、歯痛に効くといわれています。カブラの異名である「すずな」には、消化促進、しもやけ、そばかすに効用があり、大根の異名である「すずしろ」には、胃健、咳き止め、神経痛に聞くといわれています。そして、全体的に緑黄色野菜には、生体内でビタミンAとして働くカロチン、ビタミンB1・B2・C,ニコチン酸、カルシウム、鉄などが含まれ、これらビタミン、ミネラルが糖質、タンパク質、脂肪の代謝をスムーズにするため。食べ過ぎで疲れた臓器を癒し、不足したミネラルを補ってくれるのです。こうした自然の野草のはたらきを昔の人は科学的に分析しなくても、ちゃんと体で知っていたのでしょう。自然と共生をしていた生活の知恵が感じられますね。今、旧暦カレンダーが、ちょっとしたブームとなっていて、カレンダー売り場には数種類の旧暦カレンダーが並んでいます。以前から潮汐と関係深い漁業関係者は旧暦を活用しているといいますし、このカレンダーがあると、各種の行事、たとえば旧正月、旧七夕、中秋の名月(旧8月15日)の日付の決定など「旧暦」で見たほうが実際と合うことが多いからです。昔からの知恵が旧暦と結びついているとしたら、そこを埋める何かよい工夫がないものですかね。
投稿者 fujimori : 22:42 | コメント (3)
2007年01月06日 [近頃思うこと]
教師という仕事
礼というものについて、昨年の8月5日のブログでも触れましたが、この礼に関することを、周から漢にかけて儒学者がまとめた書物のことを「礼記」といいます。49篇にわたり、唐代以降には五経の1つとして尊重されました。この礼記の中の学記編に次のような文があります。「君子之教喻也,道而弗牽,強而弗抑,開而弗達。道而弗牽則和,強而弗抑則易,開而弗達則思」(君子の教喻(ゆ)するや、導きて牽(ひ)かず、強(つと)めしめて抑へず、開きて達せしめず。導きて牽かざれば則ち和(やわら)ぎ、強めしめて抑へざれば則ち易(やす)く、開きて達せしめざれば則ち思ふ)これは、「教師は、指導はするけれども無理に引っ張ってはいけない。強く励ますけれども抑えつけてはいけない。いとぐちを開いてはやるがすぐに答えを出すところまでは教えないで、自分で考えさせるようにせよ。なぜなら無理に引っ張らなければ生徒は抵抗せず、抑えつけなければ生徒の心は和やかであり、糸口を与えるだけにすれば自分で考えるようになるからである。」ということです。昨日のブログの教師ではありませんが、どうしても、口があれば、目があれば子どもたちを無理やり引っ張ろうとしてしまったり、抑えつけようとすることをしがちです。この礼記に書かれている教師のあり方は、「見守る」に通じます。子どもが自ら持っている「伸びようとする力」を信じ、教師は、教え込むのではなく、自発的に学ぼうとする意欲を育て、そのような環境、ヒントを与えることであるのです。論語の述而編には、こう書いてあります。「不憤不啟,不悱不發,舉一隅不以三隅反,則不復也。」(憤せざれば啓せず、悱(ひ)せざれば発せず、一隅を挙げて三隅を以て反せざれば復(ふたた)びせざるなり)この前半のほうの意味は、「生徒自身に何かをしようとする心が盛り上がってこなければ、教え開いてあげることはむずかしい」ということです。まず、教師は、意欲を育てなければいけないと言っています。しかし、どうすればいいのでしょうか。その方法を、後半の部分で言っています。「生徒に四角いもののひとつの隅をヒントとして示し与えて、あとの三つの隅については、与えられたヒントから類推し、何らかの反応を生徒が示すまでは、静かに生徒の思考が成熟するのを待つようにせよ」ということです。辛抱強く子どもを「見守っていなさい」ということです。しかし、見守るというのは、放って置くのではなく、ひとつの隅は示さないといけないのです。また、その子によっては、二つの隅を示さなければならないときもあるでしょう。示すためには、その子の発達や理解をきちんと把握しておく必要があるのです。同じ論語の雍也編に冉求(ぜんきゅう)という弟子が孔子にこう言ったと書かれています。「非不說子之道,力不足也。」(子の道を說(よろこ)ばざるに非ず、力足らざるなり)「私は、先生の教えを喜ばないのではありませんが、力が足りなくて、なかなか思うようについていけないのです。」これに対して、孔子は、こう答えます。「力不足者,中道而廢。今女畫。」(力足らざる者は、中道にして廃す。今汝は、画(かぎ)れり)「本当に力のない人はここまで来る途中にとっくの昔に脱落してしまっているはずだ。だが、お前は今日まで皆とともに歩いてきたではないか。今、お前は、自分の力がこれしかないと限定してしまっているだけで、本当は、もっと能力はあるのだ。」と励ましています。意欲を持つためには、ヒントと、励ましが必要であり、それ与えるのが教師です。
投稿者 fujimori : 22:22 | コメント (3)
2007年01月05日 [映画]
教師
今日の午後、テレビで「機関車先生」という映画をやっていました。この映画を映画館で見ました。原作は、伊集院静の小説で、94年に第7回柴田錬三郎賞を受賞しています。そして、今日テレビ放映されている実写映画のほかに、同名のアニメ映画として公開され、伊集院自らが機関車先生の声を務めています。昭和30年代の瀬戸内海に浮かぶ葉名島の小学校に、北海道より臨時教師として赴任してきた先生は、子どもの頃の病気の影響で口をきく事が出来ません。そこで、「口をきかん先生」ということで、子どもたちは、「機関車先生」と呼びます。この先生が、初めて教壇に立った日、どのような出会いを子どもたちとしたのでしょうか。生徒の一人であるヨウという子が感想をこう言っています。「ヨウは機関車先生がひとりひとりの顔をたしかめるように見ているのに気づいて、はずかしくなってうつむいた。ゆっくりと顔を上げると、機関車先生の目がじっと自分を見つめていた。やさしそうな目だった。」子どもたちは、優しい言葉がけより、やさしく扱われるより、まず、優しいまなざしに気がつきます。そんなときには、たぶん言葉は邪魔なのかもしれません。というよりも、言葉に頼ってしまうことで、心を伝えることを後回しにしてしまいがちです。言葉のまだよくわからない子どもに対して、言い聞かせるよりも、怒りつけるよりも、優しいまなざしの方に説得力があります。また、歌が好きと言う先生に、「どうやって歌うんじゃ」との問いに対して、「機関車先生は指を胸に当て、胸から喉元の方へゆっくりと手をひろげるようにしてから自分の耳に手をそえて何かを聞く仕種をした。」声を出さなくても、心の中で歌うということ言います。そんな機関車先生と7人の子どもたちの交流の中から、子どもたちは、勇気を学び、少しずつ成長していきます。教師にとって、声とはどんな役割があるのでしょうか。
同じように、障害を持っていながら教師になった実話があります。全盲の普通中学教師河合純一です。彼が教育実習をしていたときの日記が、当時我が子が読んでいた中学生新聞に掲載されていました。彼は、生まれつき視力が弱く、一時は右目の視力を取り戻しますが、中学3年の時、右目の視力も失い全盲となってしまいます。彼は絶望の淵に沈みかけますが、恩師の支えもあって、東京の盲学校へ進学し、夢を設定し達成すべく邁進していきます。最初の夢は、パラリンピックに出場しメダルをとること。次は大学進学。そして地元で教師になることです。高等部入学後、トレーニングに励み、17歳の時、バルセロナ パラリンピック全盲部門出場し、銀2個、銅3個受賞、大学入学後、アトランタ で、金2個、銀1個、銅1個、大学卒業後、22歳で、母校の舞阪中学に社会科の教師として着任し、全盲では初めて1年生の副担任を担当します。その後の25歳のときにも生徒の支援を受けて、シドニー パラリンピック出場し、金2個、銀3個受賞します。この実話が「夢追いかけて」という単行本になっており、その半生が映画化されています。この映画も見に行きました。夢がないと言われて人を殺してしまった事件がありましたが、夢は自分で決めるものです。殺人を犯した彼の夢は、ないのではなく、人が決めた夢を押し付けられていたのかもしれません。「五体不満足」のベストセラーで知られる乙武洋匡さんも小学校教師に転身するそうです。「犯罪者になりたくて生まれてきた子供はいない。SOSを発している子供たちのために、大人が動けることはないか」と考えたといいます。その結果「1番の現場は学校」と小学校の教師を目指すようになったそうです。どんな教師になるのでしょうか。
投稿者 fujimori : 21:41 | コメント (4)
2007年01月04日 [近頃思うこと]
地域の歌
今朝のテレビで、私にはよく分からなかったのですが、大阪の歌らしき歌を歌っていました。そこで、妻と全国で「都道府県民歌」というのがあるだろうかという話題になりました。どうも日本では、ほぼすべての都道府県が歌を制定しているようです。その中には、第二次世界大戦後に連合国軍最高司令官総司令部 (GHQ/SCAP) の奨励を受けて作られた歌もありますが、起源を明治時代に持つ歌や近年になって作られた歌などのように連合国軍最高司令官総司令部の奨励と無関係に作られた歌もあるようです。その中で一番有名なのが、以前のブログで取り上げた長野県歌「信濃の国」です。有名というのは、全国の人がよく知っているというのではなく、全県の人がどのくらい知っているかということです。ということは、いろいろな場面で、どのくらい県歌を歌う機会があるかということです。この「信濃の国」は、かつては長野県内のほとんどの小・中学校、高校で種々の行事の際に歌われてきたため、よく「長野県内で育った者なら全員『信濃の国』を歌える」「会議や宴会の締めでは必ず『信濃の国』が合唱される」と言われるほど、県民に深く浸透しています。しかし、昭和末期から長野県内でも「信濃の国」を歌わない学校が増え、「信濃の国」を歌えない県民も徐々に増えつつあるそうですが、カラオケのレパートリーや携帯電話の着信メロディに用いられるなど、長野県民の支持は依然根強いものがあります。どのくらい歌うのかは、歌の歌詞によるのでしょうが、県歌で多いのは、その地の歴史や地形を表しているものです。郷土を知ったり、郷土を愛するという意味で歌うことには特に問題はないのですが、地元意識が強くなり、他県を排他的にみたり、変な団結心を植えつけようとする意図で歌わせるようであれば、少し問題かもしれません。しかし、改めて、自分の地域の歌の歌詞をじっくり考えてみるのもいいかもしれません。たとえば、私が住んでいる東京都にも「東京都歌」といわれるものがあり、昭和22年に制定されています。「原田重久作詞、深尾須磨子補作 、加須屋博作曲」です。歌詞は、「1.朝緑 澄みたる空に 飛ぶ鳩の 白き翼も 自ずから 平和のしるし 生産の 力に満ちて 大東京 今日も明けゆく 2.新しき 政治の都 東西の 文化の粋を 育てゆく 自由の光 永遠の 理想に燃えて 大東京 今日も明けゆく 3.美しき われらの都 豊かなる 緑の園に 黒潮の 響きもかよう 天地の 果て無きところ 大東京 今日も明けゆく」ですが、なかなかきれいな歌詞です。作詞を全国紙で募集したところ、応募作詞は6532作もあったそうです。そのあとで、この当選作詞による作曲募集をし、決定したものです。しかし、私は歌った記憶がありません。私が覚えているのは、出身中高校の所在地の「千代田区歌」です。あるテレビ番組で、ゲストの山本コウタロウ(私の高校のひとつ先輩)と司会の古館伊知郎(中学の後輩)が、盛り上がって一緒に歌っていましたが、この歌を、かなりいろいろなところで歌った記憶があり、私も今でも歌えます。昭和32年制定で、作詞が佐藤春夫、作曲山田耕作です。「1.並ぶ官庁 広場 堀 帝の宮居とりめぐり わが千代田区に誉あり 大東京の中心地 江戸の名残も風情にて こ々を都の都ぞと 澄めり千代田の城の月 2.オフィスセンター テレビ搭 世界の文化ひしめきて わが千代田区に栄えあり 新日本の心臓部 国の要と他も見む こ々を都の都ぞと 住めり千代田の区民われ」今考えると、やたらと千代田区を誇らしげに詠っていますね。皆さんの地域の県歌、市町村歌を調べてみたら面白いかもしれません。
投稿者 fujimori : 20:09 | コメント (4)
さいころ

園にあるさまざまな「さいころ」
投稿者 fujimori : 10:38 | コメント (0)
2007年01月03日 [近頃思うこと]
さいころ
私が中学生に勉強を教えていたときに、よく出していた課題に「さいころを作ってくること」というのがありました。展開図を書くことで、立体を理解しやすくなります。それができると、もっとむずかしい課題を出します。それは、「20面体のさいころを作ること」です。これは、かなり難しいので、展開図を描いてあげて、それを作らせます。園の子どもたちにも、すごろくをやるときのさいころに、正6面体以外のさいころを使ってもらっています。我々の住む3次元の世界において正多面体は、正4面体、正6面体、正8面体、正12面体、及び正20面体の五種類があります。(いま、ホビー専門店などでこれらのさいころを売っています)これらのさいころを使えば、20までの数を使うことになりますし、二つ振って、それを足した数だけ進むこともできます。また、それでは数が大きくなりすぎるときは、4面体さいころを使います。このさいころは、1つの面に3つの数字を書き、底面でない残り3面に共通する数字が出目とします。また、14面体のさいころもあります。また、100面体さいころも売られていますし、10面体ダイス2個で代用することもできます。10面体2個を振り一方を十の位として他方を一の位として読みます(十面体ダイスには0から9までの数字が書かれているのです)。二つとも0の場合は、100と読み替えます。もともと、さいころは出る目が予測できないために、何かに迷ったときに使うことが多くありました。いわゆる「占い」に使われていたのです。そして、さいころの持つ偶然性がゲームにおける参加者の対等性、公平性を担保しており、賭博にもよく使われました。ですから、今使われている言葉のいくつかの語源になっています。たとえば、「ピンからキリまで」というピンは、ポルトガル語のPinta(点)に由来し、カルタやさいころの1の目のことで、キリは、ポルトガル語のcrut(十字架)に由来し、転じて10のことをさします。また、「思うツボにはまる」というときの「ツボ」はサイコロ博打の壺のことです。熟練の壷振り師の場合、思った通りのサイコロの目を出せることから、あらかじめ仕組まれたことが上手く行くことから、期待したとおりになることとか、予測通りにことが起こったさまのことを「思うツボ」というのです。また、「一か八か」は、運を天に任せて思いっきりやってみることをいいますが、やはりサイコロ賭博で使われていた隠語で、一は丁、八は半を意味し(丁・半の漢字の上部に一と八が書かれている)、丁か半か一挙に勝敗を決することをいった。これが転じ、一か八かは成功するかどうかわからないことに対し、運を天に任せて思いっきりやってみるという意味になりました。「裏目に出る」というのもサイコロ賭博から来ている博奕用語で、サイコロの一つの面の目とちょうどその裏側にあたる面の目との関係は、一の裏が六であるように、奇数と偶数の関係になっています。ですから、たとえば「丁」に賭けて「半」が出ると「裏目が出た」ことになります。最近よく使われる「ため口をたたく」という「ため」とは同目(ぞろめ)の意味で、同目から五分五分となり、それが同じという意味に変わりました。ですから「ため口」というと「年下の者が年上の者と同等の口をきく」という意味になります。出鱈目(でたらめ)もサイコロ賭博用語で、目はさいころの目を指し、「出たら、その目」というところから来たといわれています。「三下」というのも、さいころの目が三以下の場合は勝てそうにないことから、目の出そうにない者を言います。さいころは、ずいぶんと言葉を作ってきましたね。

園にあるさまざまな「さいころ」
投稿者 fujimori : 22:20 | コメント (2)
2007年01月02日 [近頃思うこと]
すごろく
今年の正月は天候が穏やかで、町は静かですが、どうも年々、新年を迎えたという実感はしなくなっています。それは家庭の中でも、テレビ番組でも、町の中でも、あまり、正月という気がしません。ただ、それは、私の個人的な郷愁もあり、必ずしも今の人にとっての正月のイメージは変わってきているのかもしれませんが。特に、最近はわが子が大きくなったので、正月の過ごし方が変わってきていますが、子どもが小さかったころの正月の屋内の遊びの代表に「すごろく」がありました。今でも、園では子どもたちはすごろくで遊んでいますが、家庭ではどうでしょうか。私の小さかったころは、新聞にしても、雑誌にしても付録にすごろくが付いていました。それを正月まで楽しみにとっておいて、正月になると、親といっしょにそれらのすごろくを片っ端からやった気がします。わたしは、このすごろくには、以前のブログで書いた「日本凧」を通しての様々な学びがあるのと同様、いろいろなことを学ぶ要素が入っている気がします。すごろくというのは、一般的に「さいころ」を振って、その出た目の数だけ駒を進めるというものです。そして、スタートするマスを「ふりだし」といい、ゴールを「あがり」といいます。このゲームは、歴史的にはかなり古く、我国最初の歴史書である「日本書紀」の、持統天皇時代に「禁断双六」と記述されています。たぶん、最初は、賭博性があったようです。ですから、何度も禁止されていますが、庶民に広まり、物語や古文書にも記されています。ただ、子どもたちがよくやるすごろくは、ふりだしから上がりまでがひとつのストーリーになっているものが多く、その経過が人生のようなので、出世物語のようなものが多かった気がします。そして、途中で、「一休み」があったり、戻ったり、いくつも進んだり、近道をしたり、抜きつ抜かれつのシーソーゲームの要素があり、興奮したものです。このゲームに学校教育の「算数」の基礎が入っています。進める数を決めるのに「さいころ」を使います。多くのさいころは、正6面体で、各面に「ドット(1は赤丸で、その他は黒丸)」で1から6まで描かれています。その描き方は、裏表は足して7になる数字で、左回りです。このドットによる数の表し方が、数を表す基本です。1種類だけで数を表すので、「1進法」ともいえます。まず数を数えるのに、最初は、そのものを並べて数えます。たとえば、魚を捕ってきたら、その魚を並べて数えます。しかし、それを並べると大変なので、それに対応する印にします。その印に、ドットを使ったり、学校では「タイル」を使います。さいころは、このドットを使って数を表し、上面に出たドットを数えて、その数だけマスを進めるのです。1年生で習う数の基本に「4者関係」というものがありますが、この「具体物」「ドットやタイル」のあとに、それを「数字」に当てはめることと、その読み方である「数詞」があり、その関係を結びつけることが算数の最初です。私の園でのさいころには、この4者で作られたさいころが用意されています。意外ですが、ミュンヘンに行った時に、ドイツ博物館のショップで、具体物(1には、葉っぱが1枚書かれています)と、漢数字で書かれた(一から六)さいころが売られていましたので買ってきました。あとは、厚紙で正六面体を作り、各面に「1~6」まで書いたものと、「いち~ろく」と書いたさいころを作って、それを使ってすごろくをやると自然と4者関係が理解できます。そのほかに、さいころにはいろいろな面白いことがありますので、あとは明日書いてみます。
投稿者 fujimori : 20:50 | コメント (2)
2007年01月01日 [記念日]
1月1日
あけまして おめでとうございます。今日1月1日は「鉄腕アトムの日」です。突然、ずいぶんと突拍子もないことですが、わたしにとっての今年と関係があります。というのも、今年開園する園がある場所は新宿区ですが、駅でいうと「高田馬場駅」です。この駅では、2003年3月1日から、発車メロディーが鉄腕アトムの旧シリーズのテーマ曲となっています。それは、その作者である手塚治虫が社長を務めた手塚プロダクションが高田馬場にあることと、お茶の水博士が長官を務める『科学省』が高田馬場にあったという設定から選定されました。お茶の水博士といえば、あの巨大な鼻という特徴から、殆どの日本人が知っているキャラクターです。因みにこの鼻は、作者である手塚治虫の団子っ鼻に由来しています。しかし、この博士がアトムの生みの親ではなく、「育ての親」です。御茶の水と言う名前の由来はもちろんJR御茶ノ水駅です。アトムの生みの親は、天馬午太郎で、幼くして事故死した息子、飛雄への思いからアトムを製作します。しかし、アトムをロボットの王にし、ロボットだけの世界を作る事が夢であるため、アトムの心については不信感を抱き、お茶の水博士とはよく衝突します。その鉄腕アトムの日が今日1月1日であるのは、1963年、フジテレビで日本初の国産テレビアニメシリーズ『鉄腕アトム』の放映がスタートした日を記念日にしたのであって、誕生日は、2003年4月7日で、高田馬場の「科学省」で生まれたという設定になっています。作品が発表されたのは、1951年から1年間連載された「アトム大使」の一登場人物(ロボット)であったアトムを主人公として、1952年から1968年にかけて、「少年」(光文社)に連載されたものです。それが、テレビ紙芝居や特撮ドラマ化やテレビアニメ化され、このアニメ第1作は平均視聴率30%を超える人気を博し、その後、世界各地でも放映されました。ですから、当時、アトムの誕生は未来の夢だったのです。その夢の時代であった日を迎えることになり、その日を記念して、新宿区は、アトムを「新宿未来特使」に任命しました。漫画やテレビなどで永遠のヒーローであるアトムは、人間と同じ温かい心を持ち、正義感が強く、環境問題等の解決にも多大な貢献をしてきということで、新宿区民の夢先案内人として、子どもたちとともに大きく育ってくれることを願って任命されています。また、新宿区の区長室に行った時に見たのですが、入り口に、未来都市をバックにアトムが飛び立つ様子が活き活きと描かれている大きな油彩がかかっていました。この鉄腕アトムを通して、手塚治虫は、何を伝えようとしたのでしょうか。こんな言葉を残しています。「大宇宙の果てしない闇の深さにくらべ、この水の惑星の何という美しさでしょう。それはもう、神秘そのものかもしれません。ひとたび、そんな地球を宇宙から見ることができたら、とてもそのわずかな大切な空気や緑、そして青い海を汚す気にはなれないはずです。もしも、ぼくが、わたしが、宇宙からの眼差しを持ったなら、創造の力は光速を超えて、何万何千光年のはるかな星々にまで瞬時に到達できるでしょう。その創造の力こそ、人類ゆえの最高に輝かしいエネルギーなのです。」人間として持てる最高の力である創造力を持って、かけがえのない美しい地球を大切にしていかないといけないと思います。人間の知恵、創造する力が、結果的に地球を汚し、破壊するようであれば、それを教えてきたことは、教育ではありません。子どもたちに伝えていかなければならない真の教育を考えていきたいと思います。