菜の花忌

 今年の暖冬は、過ごしやすくてありがたいですが、なんだかいやですね。やはり、寒い寒いといいながら、また、雪が多くていやだねといいながら春を待つのが自然です。小さな川の土手をふと見ると、一面に菜の花が咲いていました。
dotenonanohana.JPG
 水仙とか、菜の花はまだ冬の盛りに、春の訪れを感じる花です。この菜の花といって思う出すものはいろいろとあります。このブログを書いていると、すぐに思い出すものから順に取り上げて書いています。昨年は、お台場に咲いている菜の花から、「朧月夜」という歌と、二宮金次郎の業績について書きました。(4月13日)また、4月22日のブログでは、正岡子規の歌に出てくる菜の花を紹介しました。そのほか、八戸では食べる菜の花が有名です。というように、四季折々の花について、いろいろな話題があります。今年、菜の花といって思い出すもので、1冊の本を紹介します。数年前に読んだ本で、ちょうどその本を読んだあとの2000年に、NHKで竹中直人主演・竹山洋脚本による連続テレビドラマ化がありました。その本は、「菜の花の沖」という本で、司馬遼太郎の長編小説です。1979年4月から82年1月まで『産経新聞』に連載されていて、文藝春秋から刊行されたものです。私は、文春文庫に入ってから読みました。作者の司馬遼太郎の命日(2月12日)を、菜の花忌といいます。それは、司馬遼太郎が、野に咲く花、とりわけタンポポや菜の花といった黄色い花が好きだったこともあるのですが、この「菜の花の沖」という長編小説の題名にも由来しています。この本は、江戸時代の廻船商人である高田屋嘉兵衛を主人公とした歴史小説です。内容は、江戸後期、淡路島の貧家に生れた高田屋嘉兵衛は、悲惨な境遇から海の男として身を起し、ついには北辺の蝦夷・千島の海で活躍する偉大な商人に成長してゆく…。というものです。ロシア船に囚われ、遠くカムチャツカに拉致されても、もつれたロシアと日本の関係を独力で改善しようと、努力します。この嘉兵衛の行動を通して、子どもとは違う、大人としての行き方を訴えています。「しかし子供が大人より決定的に劣っているところはある。子供は衝動的で、志を持たないということである。ふつう、十四,五歳での元服のときに、烏帽子親が、「童心を去れ。」という。武家社会でも庶人社会でも、そのように言われる。しかし童心を去って何をするのか、そのことは説かれない。童心を去るとは、どうやら社会の縦横の関係の中での自分の位置を思いさだめ、分際をまもり、身を慎み、いわば分別くさくなれということらしいが、嘉兵衛のなかでの大人はそういうものではなく、自分の世界をつくりだす者といったことのようでもある。」おたがいがもたれあって生きてゆく多くの人々がいるなかで、嘉兵衛は自分の技能によってひとり生きてゆかねばならなかったのです。いまでも、依存から自立をしていくことが「大人になる」ということが、身に迫って感じていたのです。違う巻ではこうも言っています。「しかし大人というものは仕様のないもので、子供がもっている疑問を持たなくなる。天地人のさまざまな現象についてなぜそうであるのかという疑問を忘れたところから大人が出来上がっている。」子どもは、日々伸びようとしています。成長していきます。そのために必要なもののひとつに、私は、「疑問」があると思います。それは、子どもに限らず、伸びようとする大人には必要なものです。維持をすればいいだけの大人には「疑問」は要らないかもしれませし。疑問を持たない人は、成長しないでしょう。

カラフル

 もうひとつ、オランダに行って少し考えてしまったことがありました。ホテルのすぐに「チボリ公園」があるので、時間を見つけて中に入ってみました。倉敷のチボリはどうかわかりませんが、入ってびっくりしたのは、色がとてもカラフルなことです。あちらこちらに原色が塗られています。メリーゴーランドの動物も、とてもカラフルで、赤や青や緑に塗られています。どちらかというと、カラフルというよりも、どぎつく見えます。やたらと原色を使い、落ち着いた雰囲気というか、しっとりした感じがありません。この公園には、いたるところに花壇があり花が植えられています。また、園内は木がたくさんあり緑豊かです。そこで、不思議な感覚に襲われました。花壇には、様々な花が咲き誇っています。真っ赤な花や、青や黄色、ムスカリなどは、鮮やかな紫に近い青い色です。また、園内の木々の緑は鮮やかです。その鮮やかな緑越しに真っ青な空が広がっています。ふと気がつくと、なんと、園内のカラフルに塗られた施設とまったく同じではありませんか。そのときに思い出しました。イタリアに行った時のことです。イタリアはとても古い町並みで、石畳に、レンガ造りとか石造りの重厚な建物が並んでいます。その中で、数人の子どもたちが学校から帰ってくるところを見ました。その子たちは、そのころはやり始めた「ベネトンカラー」のバックを背負っています。ベネトンというと、イタリアのデザイナーで、カラフルな色で売り出して有名でした。石畳の石造り、レンガ造りの町並みの中で、このベネトンカラーはなんとも違和感がありました。そこで、イタリアの人に聞いてみました。「なんで、このような町並みの中で、あのベネトンカラーが生まれたのですか?」すると答えは、「ベネトンカラーは、自然の色だからです。」私たちからすると、どぎついように見えるカラフルな彩りは、自然の色と移るようです。石や、レンガの色は死んでいる色、パステルカラーというのは、人工的な色だといいます。花にしても、木にしても、草、空、海、どれも原色です。私たちは、どうも、人工的な色とか、古くなった、色あせた色が落ち着く色だと思っている節があります。ということは、自然の中にいると落ち着かないということになってしまいます。そんな考えの中で、子どもたちは原色に触れなくなっています。日本の花も、日本人好みに品種改良され、パステルカラーのものが増えてきました。真っ赤な、真っ黄色なチューリップよりも、ピンク色のものが好まれます。金色の金閣寺よりも、銀閣寺のほうがいいという人が多くいます。たまに、原色の建物を作ろうとすると、景観を壊すといって反対運動がおきます。本当は、背景の緑が一番映えるのは、赤なのにと思ってしまいます。外国の幼児施設に行って、壁に飾ってある幼児の絵を見る地、大胆な色使いをする子がたくさんいます。真っ赤なウサギ、真っ青な象などよく見かけます。日本の子どもは、白いウサギしか描きません。もちろん、だからといって、原色の中にいると落ち着くわけではありませんが、色に対する偏見は捨てて、子どもにはいろいろな色を体験させたいものです。今の園を開園するときに、職員に色の偏見を捨ててもらおうと、外国の風景の写真とか、カレンダーとかを見せました。自然とは、なんときれいな原色をしているのだということを感じてほしかったのです。

ショーウィンドウ

 私の子どものころのウィンドウショッピングを話します。ブログで書いた駄菓子屋だけではなく、地域にはその地域を形作る様々な店舗があります。その店は、駄菓子屋のように、どの地域にも同時期に見られる店をありますが、その地域しかない店もあります。私が子どもころ、幼稚園に通っていましたが、その道の途中に、とても興味深い店がたくさんあり、毎日いろいろな店を覗き込みながら通園したものです。今のように、車では通園しませんでしたし、時間に追われることもなく、寄り道をしながら行き帰りを楽しみました。そこから、人との出会いが生まれ、会話をし、店の品物を眺めることによって、生活の知恵など様々なことを学んだのです。車を使って、時間的余裕もなく、点で動くことの多い現代では、子どもたちは、学ぶ機会が少ないような気がします。幼稚園までの登降園途中の店の中で、特に私の心の興味をひきつけ、必ず覗き込んでいたショーウィンドウがありました。その店は、今でもあり、そのそばを通るときに、つい覗き込んでしまいます。このような店は、たぶん日本中どこにもないと思います。写りの悪い写真ですが、この店のショーウィンドウの中には何が展示されているかわかるでしょうか。
hebi.JPG
 この店は、私の子どものころから営業しているというだけでなく、どうも、江戸時代からこの場所で、和漢薬店として営業していたようです。今の店としては、明治17年に創業されたそうです。扱っている品物は、子どもにとっては、神秘的であり、こわいもの見たさをかきたて、しかも、生きているのです。この店の「取扱商品」には、次のようなものがあげられています。「蒸焼・各種、強力 蝮(マムシ)蒸焼、深山 蝮(マムシ)蒸焼、縞蛇(しまへび)蒸焼、スッポン蒸焼など。マムシ蒸焼きは、マムシを姿蒸焼き(そのままの姿で蒸焼き)にし、それを砕いて粉末にしております。また、その場でこなすことも出来ます。黒焼も、イモリ黒焼、蝮(マムシ)黒焼、トンボ黒焼、なす黒焼、梅干 黒焼きなど、各種取り揃えております。」そして、注意書きとして、「日本産(国産)の材料を自社で加工し、販売しておりますので、商品の品質は通のお客様にもご満足いただけるものです。」国内産だそうです。こう、並べてみるとなんとも奇妙ですね。また、人間の知恵に感心します。漢方として、こんなものを工夫して食べようとしたこと、その勇気に感心します。また、この店では、生きた蛇や蝮(マムシ)、イモリなども販売しています。写真のショーウィンドウの中には、生きたシマヘビがたくさんはいっているのです。この店のブログもすごいですよ。ある日のブログにはこういう記述がありました。「また千葉へ行ってきました!茄子のヘタをとりに。ついでに蛇も!縞2蝮1ヤマカカシ1」いろいろな人、職業があるのですね。
hebizen.JPG
 この店のショーウィンドウを、小さかったころは、動物園で動物を見る感覚で見ていましたが、今見ると、こんな仕事もあるならば、どんな子でも、きっと自分に合う職業が見つかるような気がします。人は、いろいろなものに興味を持ち、特技を持っています。それを打ち消して、できるだけ平均的な人間に育てようとします。しかし、それは、本人にとってはとてもきついことですし、社会として損失かもしれません。この店の紹介をよんで、中には、気持ち悪いとか、こわいと思う人がいるかもしれませんが、そうではなく、もしかしたら、自分を生かす道、わが子を生かす道がどこかにあるかもしれないという期待が持てるような店ですね。

ウィンドウショッピング

今日の研修会場は、「学校法人九州文化学園長崎国際大学」でした。この大学の場所は、長崎でも佐世保の「ハウステンボス」の近くにあります。ハウステンボスというと、1992年3月25日にオープンした、オランダの街並みを再現して作られたテーマパークです。昨日の夕方、少し時間があったので、中を散歩しました。
mise.JPG
 オランダというと、ブログの中では、「イエナプラン」という教育システムを紹介したものが多いのですが、他にもオランダというと思い出すことがあります。それは、10年以上前になりますが、オランダに行った時に、日本で持っている概念を見直したことがいくつかあります。そのときの宿泊ホテルは、オランダの首都アムステルダムの鉄道駅近くにあり、この鉄道駅とアムステルダム中心地を結ぶメインショッピングストリートであるカルファー通りが見渡せるところにありました。また、駅の向こうには、ハウステンボス同様、オランダをテーマとした倉敷チボリ公園というアミューズメントパークがモデルにしたチボリ公園があります。そのホテルに入ったのは、日曜日でした。そのホテルの脇のショッピングストリートは、有名なところであり、また日曜日ということもあって、多くの人出があります。日本の銀座並みに、ぞろぞろと人が行きかっています。さっそく、出かけることにしました。次の日からは研修なので、今日のうちに少し買い物をしようと思ったのです。その道を歩いてみて、びっくりしました。なんと、どの店も閉まっています。もちろん、日本でのシャッター商店街のように廃業しているわけではなく、この日は休業日なのです。それは、どうしてかすぐにわかりました。その日は、日曜日なのです。この国では、日曜日は働いてはいけないのです。というと、奇妙に聞こえますが、みんな協会に礼拝に出かけます。日本人としては、サービス業である商店などは、人出が一番出る日曜日こそ店を開き、一番人出がない月曜日とか、水曜日に休むという発想をします。では、ぞろぞろ歩いている人は何をしているのかを見てみると、一軒ずつ店のショーウィンドウを覗いていきます。いわゆる「ウィンドウショッピング」をしているのです。日本でウィンドウショッピングというと、「お金がない、買い物する時間がない、等の理由で、お店のショーウィンドウや店内を見て回る事。」をいいます。もちろん、本来はそういう意味かもしれませんが、なんだかこんなショッピングは、さびしい気がします。オランダでは、ショーウィンドウを覗き込んでいるのは夢を見ているようです。こんなものがほしいな、この商品はいいものだなと。そのために、どの店にも、シャッターは閉めても、格子のシャッターで店内が覗けますし、道に面したショーウィンドウが必ずあり商品が並べられています。仕方ないので、ガイドさんに日曜日に開いている店を何店か教えてもらって買い物をしました。それは、どれも日系人の経営していた店でした。これは、夕方も同様でした。5時になるとどの店も、みんな閉まってしまいます。かろうじて、マクドナルドとか、コンビニのような店だけが開いています。しかし、その店の店員は、どこでも学生のバイトでした。子どもを育てている人は、決して夜まで働いていません。そのときに、ですから、当時、乳児保育とか、延長保育のようなものはありませんでした。福祉が充実している北欧なのにどうしてかと思いましたが、福祉の充実とは、保育園を整備することではないのですね。ただ、今はどうなっているのでしょう。

疲労

 最近、週末に地方に行くことが多く、私としては生活にひずみが出てきています。そのひとつは、健康です。平日はなかなか時間が取れないので、できるだけ日曜日は歩き回ることにしています。いわゆるウォーキングをしているのですが、それができません。どうも、最近運動不足です。すると、血圧は高くなるし、腰は痛くなるし、腹の調子はあまりよくないしで、人間、やはり適度な運動が大切なことがわかります。もちろん、普段でも階段を登るとか、タクシーには乗らないとかすればいいのでしょうが、日曜日に休みがないということは、2週間連続してしまうということになりますので、できるだけ疲れないようにと歩かなくなってしまうのです。また、いろいろなことをしたいので、少しでも時間を短縮しようとしてしまうのです。よくないですね。もうひとつのひずみは、精神的なものです。四六時中、同じ方向から物事を考えてしまうのです。週に一度は、普段の思考と違う方向から、保育、子どものことを考えないと、広く物事を見つめることができません。そういう意味で、このブログは、毎日大変ですが、とても自分で役に立っています。このブログを書かないと、違う分野に頭を切り替えることがまったくなくなってしまうような気がします。それから、家に帰ってからの妻との会話も、違う分野から社会を見つめるきっかけになります。事件のこと、芸能界のことを含め、様々な書籍を読んだ感想を言ってくれたり、紹介してくれるからです。しかも、ウォーキングをしなくなると、違う分野から物事を考えるきっかけのブログの「ネタ」が、見つけにくくなってしまいます。仕事をして、夜遅く家に帰って「さあ、ブログを書こう!」と思ってパソコンを開けても、1日、ただ仕事をしていたとなると、「何を書こうか?」と考えてしまうことがあるからです。本も、新聞も読まず、どこにも行かないとなると、ブログを書く上だけではなく、頭の中にも「ネタ」が詰まっていないということになるのです。これも、本当は、健康と同じように、日々の工夫で、いくらでも周りには様々なネタがあるはずですし、それを見つけることはできるのでしょうが、やはり疲れてくると、空いた時間に何も考えようとしなくなるのです。先日のブログではありませんが、これが、「忙しい」ということなのでしょうね。つくづく無理やりにでもブログを書くありがたさを感じます。あと、ブログを書く意味は、日記を書くことと同じでしょうが、その日1日を振り返ることが多くなります。もちろん、反省するという振り返りではなく、1日の出来事を、もう一度なぞってみるということです。「ネタ」探しに、今日1日朝から順に思い出していくのです。誰が来て、どんなことがあって、と思い出すこの作業は、きっと「ボケ防止」になっていると信じています。寝る前に、今朝の朝食のメニューを思い出すといいと聞いたことがあります。
 休息は、何もしないことではなく、普段使わない部分を使うことだといわれています。頭を使ったから休めるのには、頭を使わなくするよりも、普段使わない頭の部分を使うということですし、体が疲れたら、普段使わない部分の体を使うことであり、精神的に疲れたときは、肉体的に疲れさせ、肉体的に疲れたときは、精神を使うことだともいわれています。そのためにブログを読んだり、コメントを書くのは、疲労回復になるかもしれませんし、ボケ防止になるかもしれませんので、たまには、コメントを書いてみてください。

左右

地方に行くと戸惑うことのひとつに、その地方ならでは習慣があります。それは、民俗学的にというほど学問的ではなく、ほんの日常的なことでもあります。たとえば、昨日は大阪にいたのですが、関西に来て戸惑うのは、エスカレーターに乗ったときに、歩く側と止まっている側が、東京と反対ということです。東京では、左側に立っていて、「急いでいる人のために、右側を空けましょう。」というコメントが書いてあることがあります。それが、関西に来ると、止まっている人は右側で、歩く人は左側です。昨日も着いて最初にエスカレーターに乗ったときに間違えました。そして、慣れてきたころ東京に帰るとまた間違えてしまいます。どうして、そうなったのでしょうね。同じにすればいいのにと思ってしまいます。同じように戸惑ってしまうのが、道を歩くときに人は右側通行なのに、駅などの階段を登るときに,左側通行のところが多いからです。所によって、場所によって違うのは、たぶん、そのほうが、人がクロスしないとか、近道だとか、人の動線を考えて決めているのでしょうが、統一されていないと、人とすれ違うときに、どちらによけてよいかわからなくなり、同じほうによけてぶつかってしまうことがあります。この右か左は、もっとややこしいのは、国によっても違うことです。これは、みんな良く知っていることですが、外国の多くの国では、車は右側通行です。まっすぐ走っているときにはまだいいのですが、右折したり、左折したりするときに、反対の車線に入ってしまいそうになります。どうして、こうも違うかということには、様々な説があるようです。最も一般に流布している説によると、日本の左側通行は、江戸時代頃から武士などが左腰に差している刀が触れ合うことを避けて、自然と左側通行になっていたといわれています。また、また、襲われたときに、すぐに刀を抜いてきりつけるのには、相手が右側にいたほうが、右手で刀を抜いたまま相手を切れるので、自然と、左側によけてすれ違ったのでしょう。それに対して、欧州大陸諸国の右側通行は、馬車の馭者は右手で鞭を振るうので、対向する馬車に鞭を当てないために自然と右側通行になったといわれています。しかし、どうして日本は、人間だけが替わったのか知らない人が多いと思います。日本では、自動車が登場してきたころは、自動車も人と同じように左側通行をしていました。しかし、自動車の交通量が増え、それに連れて交通事故が増えてきました。ですから、車と人は対面交通をさせようということになりました。そのときに、本当は、人がそのまま左側通行で、車のほうを変えるべきだったのですが、自動車の通行区分のほうを変更すると、全国的に莫大な費用がかかることから、自動車のほうの通行区分をそのまま維持して、人の通行区分の方を変更したのです。そして、昭和24年に道路交通法が改正され、人は右側、車は左側に変更されたのです。変更した当初、つい人も左側を歩いてしまうので、やたらと、「人は右、車は左」と叫ばれてきたのです。そして、これを定着させるために、日本の小学校では廊下の右側通行を指導する事例が多く見られるのです。しかし、鉄道駅では、人が左側通行をすることを前提に設計されてきた為、一般道路で人の右側通行が採用されてからも、駅では人の左側通行が採用されているのです。エスカレーターの立ち位置が関東と関西が違うのは、「関東と関西こんなに違う辞典」(日本博学倶楽部著)によると、古い慣習を今に残しているのが関西で、関東は新しい習慣に従っていると書かれています。ちなみに、米国、欧州をはじめ、“右側に立つ”国が多いようです。慣習は、政策上の都合や人の心の動きなどで作られていきますね。

ひとやすみ

 今日、講演のために降り立った駅は、近鉄新田辺という駅です。その駅は、JRでいうと、京田辺という駅のそばです。その駅に降り立つと、バスロータリーの中心に橋を渡っている小僧の像があり、橋の欄干の片方には、「とんちばし」もう片方には「たなべいっきゅうばし」と書かれています。
ikkyu1.JPG
 それは、ここ京田辺市薪には、室町時代中ごろ、63才から88才で亡くなるまでの約25年間、とんちの一休さんが住んでいて、亡くなった一休寺の酬恩庵があるのです。一休さんのとんち話は、子どもにはとても人気がありますね。偉そうな大人をぎゃふんといわせる痛快さがあるからです。有名な逸話として、「評判の高い一休を困らせようと、自宅に招いた商人が、橋のたもとに「このはしわたるべからず」と書いた立て札をあげ、家に入れないようにした。ところが一休は、そしらぬ顔をして入ってきたので、商人は、札が目に入らなかったのかとなじったところ、一休は、「はい、見ましたから端をわたらず真ん中をわたってきましたよ」と答えたということです。」「和尚は、壷に入った水あめを自分だけ舐めていました。一休は自分たちも欲しいと言ったが、和尚は、これは大人が少し食べるだけなら薬になるが、子どもが食べると死んでしまうおそろしい毒だから、みんなにやるわけにはいかないと言います。しかし、小僧たちは、和尚の留守に、壷を取り出して、ほとんど舐めてしまいます。みんなは、和尚に怒られると青くなりますが、一休はあわてず、和尚が大切にしている硯を割って、泣きまねをさせます。そして和尚が帰ってくると、大事な硯を割ってしまったので死んでおわびをしようと思い、あの毒を舐めたと言います。」「和尚は自分だけ鯉汁を食べ、小僧には味噌汁しかやりません。そこで一休は池から大きな鯉をとらえ、料理しようとしたところ、和尚が「殺生はしてはならぬ!」と咎めます。すると一休は「毎日精進料理ばかりでは、お経にも力が入らないので、この鯉にちゃんと引導を渡しますから、大丈夫だ」と答えます。一休の生意気な言葉に「引導の渡し方など知っているのか」と問う和尚に、一休は「汝、元来生木の如し、水中にある時はよく捕うること難し、それよりは愚僧の腹に入って糞となれ、喝!」池でただの鯉として一生を終えるより、人の養分になって役に立て、という言葉で、形式だけの寺のあり方を皮肉ります。」
ikkyu2.JPG
 一休さんのアニメがありましたね。そのエンディングテーマが「ははうえさま?」と始まるのは、こんな経歴があるからです。一休は、後小松天皇を父として、天皇のそば近く宮仕えをしていた日野中納言の娘照子姫との間に生まれたといわれており、本来は、天皇の嫡子として世継ぎの地位にありました。しかし、照子姫をねたむ人たちの計略で、母親は宮中を出され、一休は洛西の民家で誕生するのです。そして、生母のもとで育てられますが、6歳の頃、母の考えで、臨済宗の安国寺で出家します。ここでの11年間での禅の修行中に、早くも12歳頃から詩文に才能をしめし、大人の僧侶でも理解するのが難しい清叟仁蔵主の維摩経の講義を熱心に受けて、周囲を驚かせたエピソードが残っています。ですから、「とんちの一休さん」としてのエピソードが数多く残っているのでしょう。また、アニメの中で、CMに入る前に、寝転んだ一休が、「ひとやすみ、ひとやすみ!」というせりふは、当時、しゃれかと思っていました。しかし、一休という号は、「有漏地から無漏地へ帰る一休み 雨降らば降れ 風吹かば吹け」という道歌からきています。一休というのは、煩悩の「有」の世界と、煩悩のない「無」の世界のはざまにあって、一休みするという意味です。子どものころの印象とは違って、深い意味がありますね。

定年

 私は、いわゆる団塊の世代です。会社勤めをしていたら、もうすぐ定年です。定年という言葉でなにをイメージするのでしょうか。「定年」という言葉は、その漢字からそのまま考えると、「年が定まる」のでしょうか。関沢まゆみ氏『隠居と定年』(臨川選書)によると、定年の語源は明治期の旧陸海軍の「現役定限年齢」の略語として定着したものだそうです。定限年齢なのですね。しかし、この「定年」を「停年」と表記する場合があります。前述の書籍の中では、「明治?大正初年においては停年とは武官の進級に関する制度上の用語であったものが、昭和十年頃には退職の年齢を意味するようになった」と紹介されています。そして、「停年」という漢字を当てるよりは「定年」という字が多く使われるようになったのは、昭和三十年に「民間企業における定年制度等の実態調査」を人事院が行ったことからのようです。定年制度は、もともと軍で制度化され、やがて官僚へと定着し、昭和初期に民間企業にも普及したものです。今、知事の退職金問題が浮上しているのも、この辺りの歴史と関係があります。現在、定年といえば六十歳である場合が多く、来年からは六十三歳に、数年先には六十五歳になるようです。昭和五十年代半ばまでは五十五歳が多く、さらに遡って明治時代の海軍工廠では五十歳でした。この変化はもちろん、最近の少子高齢化と高齢者の健康とライフスタイルなどによってです。
 「定年」の私の勝手な解釈ですが、この「定」ということには深い意味がある気がします。仏教では瞑想のことを、jhqnaと呼びます。この音の「ジャーナ」から採って訳したものが「禅」とか「禅那」で、瞑想という意味を採ると「定」と訳します。それとか「静慮」です。それは、心を一点に「定めること」、心を「静めること」であり、「定まった状態・静まった状態」を意味します。この音と意味の両方をとった言い方として「禅定」というのもあります。ということは、会社勤めでない私にとっての「定年」というのは、心を一点に定め、その心を静める年齢ということになります。ということから考えると、論語の「五十而知天命。六十而耳順、七十而従心所欲不踰矩。」ということは、とても興味深いものになります。「五十歳で天命を知り、六十歳で人の言うことを逆らわないで聴けるようになり、七十歳で心の欲するままに任せても限度を超えなくなった。」ということなのです。定年を六十歳とした時に、心を定めるためには、五十歳代で天命を知らなくてはなりません。そうすると、六十歳になって、「耳順」になれるのです。この「順」は「逆らわないで適合する」ということで、どんな価値観が違う人でも受け入れる広い心を持つということでしょう。それは、決して、他人に迎合することではなく、自分の天命を知ったからこそ、素直に人に意見にも耳を傾けることができるのです。そして、七十歳になって、「従」は「放任する、放つ」、「踰」は「すぎる・こえる」、「矩」は「枠」ということで、意識しなくても自然と自分ながらの限度を知ることができるようになるということになります。団塊の世代に聞いたアンケートで、「定年後のイメージ」は、「質素倹約」が221人と、「悠々自適」(79人)の3倍近くありました。自由気ままになれるほど質素になるのですね。お金を使い放題に使っている人は、お金がある人ではなく、自らの限度をまだ持っていない若さの証拠かもしれませんね。

商人道

以前、ブログで書いた「江戸しぐさ」が注目されていますが、これはもともと商人道と呼ばれていたものです。武士に武士の道があり、商人には商人の道があり、知恵があります。昨年から「武士道」を注目されていますが、私は、どんな職業でもその職業なりに「道」があり、それは知恵というよりもあるべき姿であったり、生き方であったり、心得であったりするものだと思っています。ですから、特に人を相手にする職業は、私は常々考えているように、人格を高め、自らよい人格者になろうと努力し、常に精進していかなければならないでしょう。ということを考えると、私は、保育の仕事は、そのような仕事であると思っていますので、保育は「保育学」というよりも「保育道」といったほうがよいのではないかと思っています。「保育を学ぶ」のではなく、「保育者としての道を究める」というイメージです。いつか、そんな本でも書いてみたいと思っています。しかし、すぐにそんな堅い話をすると、一般の人にはなじみがないので、手始めにちょっと楽しんでみたいと思います。それは、「商人道」ということを書いた越川禮子さんの著(講談社+α新書)から、少し保育の仕事を考えてみたいと思います。
1.忙しい、忙しいと言うな(忙しいとは心を亡くすこと、決して自慢できることではない )保育者が忙しがっていると、子どもたちの情緒が安定しなくなり、自発的にいろいろなことをしようとしなくなります。また、大変だ、大変だといって子育てをされていると、子ども心にと子育てというものは大変だという刷り込みができてしまい、大きくなったときに子どもを持とうとしなくなる可能性があります。子どもと過ごすことは、生活に潤いを与え、精神的に豊かになるということを見直してみましょう。
2.知ったかぶりをするな、見てわかる事を聞くな(知らないなら知らないと言った方が良い)子どもといっても一人の人間としての人格を持っています。いわゆる「子供だまし」は、子どもには通じません。子どもにも、本物を与え、人間としての対応をするようにしましょう。
3.人の意見を無視する言葉を使うな(話している人は真剣だ)「愛」の反対語は、「無視」だといわれています。子どもは一生懸命に何かを伝えようとしています。それは、必ずしも「言葉」だけでなく、「表情」や「行動」や「態度」であることもあります。それは、ときに困った行動であることがありますが、それを通して何かを訴えようとしていることがあります。子どもの気持ちを理解してあげることが、耳を傾けることなのです。
4.打てば響く心意気を持て(説明しなければわからない輩とは付き合うな)子どもの発達を援助し、発達を助長しようとするときには、まず、その子の発達を理解しなければなりません。 それには、子どもをよく見ることであり、感じることなのです。
5.三つ心、六つ躾、九つ言葉、十二文、十五理で末決まる(江戸の稚児の段階的養育法。三歳までに人間の心の糸をしっかり張らせる。六歳までに躾を手取り足取りまねさせる。九歳までに人前でお世辞のひとつも言えるくらいの挨拶が出来るようにする。十二歳には一家の主の代書が出来るようにする。十五歳で森羅万象が実感として理解できるようにする。)商人道のほんの一部ですが、これに照らしてみると、通じるものがありますね。

駄菓子

 今年は暖冬のためか、そろそろ各地で梅の開花が伝えられてきます。梅といって思い出すのが、まず、今の時期受験生が頼りにする天神様です。これは以前にブログで書きました。もうひとつ、とてもマイナーな話として「梅ジャム」があります。
umejamu.jpg
 これは、たぶん、私くらいの年配で、下町育ちでないとわからないかもしれません。というのも、梅で作るジャムのことでなく、駄菓子のひとつだからです。駄菓子とは、子どもの持つ小銭程度で買える菓子のことです。この駄菓子を売っているのが、「駄菓子屋」です。私が子どもの頃には、家の近くにこの駄菓子屋がありました。駄菓子屋は、子どもたちが小銭を持って集まる社交場のようなところでした。特に、異年齢の子がつどい、そこには一種のコミュニティが成立したほか、店の屋号以外に世代を超えて利用された愛称があり、その名前を言えることが同じ地域で育った証でした。その駄菓子屋に売っている駄菓子は、その種類も豊富、安い値段というだけでなく、糸引き飴など、選ぶ楽しみと飽きさせない工夫がなされていました。クジ引きが出来たり、当りが出ればおまけが貰えるのも多くあり、子どもたちに人気がありました。しかし、私が子どもの頃は、この駄菓子屋では駄菓子を買ってはいけないと言われていて、ずいぶんとうらやましく見ていた思い出があります。しかし、駄菓子屋は、菓子だけでなく、玩具の販売もしていました。玩具類では銀玉鉄砲やカンシャク玉や爆竹・ロケット花火から花火セットまでさまざまな花火類、ベーゴマなどの独楽やめんこ・竹とんぼ・風船/水風船といった安いものから「スパイセット」や「昆虫採集セット」ちょっとした「プラモデル」など多岐にわたっています。この駄菓子屋は、日本では1980年代以前の町村では普通に見られていましたが、最近は、デパートとかスーパーの中に売り場を持っていることが多くなりましたが、もともとは、個人経営であり、何らかの商売(タバコ屋や文具店・雑貨商・軽食堂など)のついでに営業していた店も多く、その店番にお年寄りが多かったのも子どもの社交場になっていた要因かもしれません。そして、営業時間は子どもたちが外に出てよい時間まで(とーふ屋とかのラッパが聞こえ始める頃)であり、その店の作りは、ほんの3畳ほどの狭い広さの土間に、商品陳列用の棚に所狭しと大きなビンに入った駄菓子が並び、店の中央の木箱の上にも菓子などの入った、上にガラス板をはめ込んだケースが並べられ、天井から下げたフックには、くじとか、小さい袋入りの玩具が引っ掛けられてつるされていました。そして、その店は、その家の居間と障子一枚隔てて隣接しており、子どもたちがいないときには、その畳の部屋にいて、子どもが来ると出てきます。しかし、基本的には、セルフサービスとなっており、客である子どもたちは買いたいものを手にとって、店主に声を掛け、店主がそれらを合計して値段を伝え、その金額を支払うという形でした。たくさん買うと商品を入れる紙袋をくれますが、その紙袋は、大抵お年寄りの手作りで、片手間に新聞紙で作ったものでした。店の前には木箱や縁台が置いてあり、たまには、清涼飲料水やアイスクリームといった涼を取るために利用する大人も休んでいました。そこで売っていたあまりすっぱくない梅ジャムを、ミルクせんべいのような軽いせんべい2枚に挟んで食べるのが、「梅ジャムせんべい」といいます。ちょっと贅沢に1枚を半分に割って2枚に挟むとウサギになります。些細なことが喜びと感じた子どもの頃が懐かしいですね。