なれあい

 私が教員だったころ、子どもたちといろいろなことをしました。いっしょにハイキングに行ったり、キャンプに行ったり、映画に行ったりとさまざまなところにもクラスで出かけました。しかし、そのころの私のことを子どもたちはどう思っていたのでしょうか。30年近く前、1年生のときに担任し、今は、よく食べに行くお蕎麦屋さんをやっている教え子に聞いてみると、「こわい先生」と答えました。また、そのころ一人で住んでいた私のところによく遊びに来たり、泊まっていったりしていた中学生に聞いても同じことを言うだろうと思います。私は、中学生のいわゆる「ワル」の子に対しても、決して偏見を持たず、一人の人格を持った人間として接していました。ですから、私の家では、たとえば決してタバコを吸うことを許しませんでした。そのころの私は、かなりのヘビースモーカーでしたので、よくタバコを買ってきてもらい、子どもの前でも吸っていたのに、子どもたちには決して勧めませんでした。それは当然のことのようですが、その子たちはタバコを吸っていたので、中学校では、喫煙室を設けたり、本音で話し合おうと教師からタバコを勧めるようなことも多かったようです。そのころ、私はそのような対応は、逆に差別だと思っていました。いくら悪い子でも、いけないことはいけないと言うべきでしょうし、その子の体を本気で心配するのであれば、成人になるまでは吸わせるべきではないと思っていました。都留文科大学の河村茂雄教授(心理学)が学級崩壊についての調査研究をしました。それによると、学級崩壊は平均で10校に1校の割合で起きており、そのプロセスは2種類の形があります。ひとつは、管理重視で、指導好きの教師に一部の子どもが反発、それが広がっていく「反抗型」です。もうひとつは、優しい教師による友達感覚の学級運営が、瓦解を招く「なれ合い型」という形です。16年の大規模調査では、なれ合い型のケースが特に小学校で急増しているそうです。首都圏の小学校で崩壊した学級の60?70%がなれ合い型だったほか、地方でも、県庁所在地や人口密度が高い新興ベッドタウンなどの学校で増えているといいます。なれ合い型の学級崩壊は、こんなプロセスをたどります。年度当初、保護者は「自分の子どもは受けいれられている」と感じ、教師との信頼関係が築かれます。しかし、内実は先生と個々の子どもの関係ばかりが大切にされ、集団としてのまとまりに欠けているのです。教師は友達口調で子どもに接し、子どもに善悪を理解させず、曖昧な態度を取ることが多くあります。そして、学級のルールが守れなくても「今日は仕方がない」などと特例を設けたり、私語を許すなどルール作りがおろそかになり、子ども側には「ルールは先生の気分次第」という空気が生まれます。やがて教室内には、教師の気を引く言動が無秩序に生まれ、「あの子がほめられて面白くない」「先生は私と仲良くしてくれない」などの不満が噴出してきます。告げ口が横行し、学級の統制が取れなくなり、学級崩壊になるというものです。教授は、「最近の学校は個性重視が説かれ、個に寄り添える教師が増えた。その半面で教師も子どもも集団形成や統制が苦手で、学級は集団というより群衆に近い状態になっている」と語っています。「フレンドリー」と「なれあい」はちがいます。教師が子どもに対して「毅然」としているのは、決して権威を笠に着たり、権力を行使することではありません。行き方のモデルを示すことです。

なれあい” への5件のコメント

  1. 小学校の教員をおやりになっていた頃の藤森先生が「こわい先生」とは驚きです。しかし、お蕎麦屋さんの教え子さんが「こわい」と言う場合の「こわさ」とはおそらく、芯の通った優しさ、という意味であろうと思います。ルールがきちんと確立され、それゆえルール違反は集団の崩壊ということを小学校1年生の子どもたちにそれとなく教えていらしたのだと思います。集団のルールを確立することが就学前も就学後も重要です。その集団のルールが確立されて始めて「個」が重視されるのだと思います。先生は導き手、あるいは学習や養護のアシスタントです。「なれあい」が学級崩壊を発生させる原因でしょう。そうならないためにも「先生」と呼ばれる存在は「モデル」になる必要があると思います。

  2. 反抗型となれあい型。比べると、なれあい型の学級崩壊の方が怖い感じがします。教師は良かれと思って対応していると思うのですが、このような結果を招いてしまうんですね。教師という資格よりもその人の人間性が大切なんだろうと思います。あれこれ教え込もうとしなくても、きちんとしたモデルを示すことが出来れば、それだけで子どもたちは多くのことを学んでくれそうです。

  3. 最低限のルールときちんとしたモデル、相手が子どもでも、一人の人間として接すること、おとなでも間違ったらきちんと謝ること、そういったことを教える側が徹底していれば、子どもたちも迷ったり、ご機嫌伺いをしたりせずにすみそうですね?。
    なれあいは、学校だけでなく、職場でも見られますね?。
    協力し合うこととなれあいを勘違いしている人も多いです。
    常に意識して生きることが面倒だと考える人も多いですが、常に自分と向き合って、省みることのできる人こそ本当に教師といえる人なんでしょうね。
    ちなみに、私も、最初に藤森先生を拝見したときは、「コワイひと」だと思ってました。
    ゴメンナサイ・・・。
    でも実際にお話してみると、何て優しくて穏やかな方なんだろうと、ビックリしました。そのときの印象がバッチリ私の中に根付いています。

  4. 先日、病院に行った際のお医者さんの対応を思い出しました。私の今だけを見るのではなく、将来のことも考えた対応を迅速にとっていただきました。お医者さんの対応は優しいというより、ちょっと強めな感じでしたが、それでも実際の対応から先のことまで考えてくださる姿勢に信頼感のようなものを抱きました。藤森先生がこわい先生というのはいつも怒っているから怖いという意味ではないですね。一人の人格をもった人間として関わってもらえることで怖さもまた信頼関係を含んだ言い方であるように感じました。なれあい型でもなく、管理重視でもなく、子どもたちのモデルになるような存在でなければならないし、そうなりたいなと思います。子どもたちに自分の人間としての度量の大きさや、人としてどうあるべきかを教えられるといいますか、鍛えられているような気がします。また、様々な大人が子どもと関われる環境の大切さも感じました。ちょっと優しい先生がいたり、ルールを守らないとというちょっと厳しいように感じる先生が共に一緒にいられるようなチームもまたいいチームなのかもしれませんね。

  5. 学級崩壊にも2種類あるということが理解できました。管理重視の一方的な指導というのも避けたいですが、「なれあい」がもたらす崩壊の方が子どもが社会に出てから不必要な困難に出会う確立が高いようにも思います。教育者は、生徒の教師である前に、一人の大人であるという考えをしっかりもっていなければ、大人代表としての「モデル」として見られている現実を受け止められないですね。学生時代、何が印象に残っているかと考えてみると、「こんな個性豊かな大人が世の中にはいっぱいいるんだ」といった感覚です。教育者は、自分が思っている以上に“見られている”意識を持たなければいけないのだと感じます。

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