子どもたちが園で遊ぶもののひとつに「伝承おもちゃ」があります。その中で、人気のあるものに「カルタ」があります。昔は、カルタといえば正月の遊びでした。今は、いろいろなカルタがあり、子どもたちは1年中よく遊んでいます。日本の伝承おもちゃには、もともと農耕民族ということもあって、子どもがある程度大きくなると、複数で遊ばなくてはならないものが多くあります。日本の凧は、一人で揚げることができる外国の「ゲイラカイト」と違って、もち手が必要です。これは、歩き始めた男の子が、二人で協力をすることを学んだとも言われています。同様に「カルタ」も少なくとも、読み手と、捕り手が最低二人、みんなで3人以上がいないと遊べません。また、カルタの取り札は、読み札の文章の一番頭の音が、絵とともに書かれています。これも、この先、子どもたちが文字を習い始めてときに必要になります。日本のひらがなは、一音に一文字を当てはめます。ですから、まず、単語を音節に分解することが必要になります。小学校1年生の国語の教科書の一番初めのページに書かれているのは、この音節分解です。カルタは、文章の最初の音節が書かれている札を取る遊びなのです。同様に、子どもたちがよくする音節分解を学んでいる遊びに「しりとり」があります。この遊びも、片方の子が言った単語の最後の音が最初につく言葉をもう一方が捜すというものです。また、カルタには、重要な役目があります。それは、読み札の文章を覚えるためにカルタをするというものです。最初の音を言っただけで、その文章を思い出し、その札を拾うというものです。百人一首などはそういう意味がありますね。このようなものとして、古くから言い伝えや、人生を子どもに教えていたものに「いろはかるた」があります。たとえば、皆さんは、その最初の札の「い」は何を浮かべるでしょうか。多くの人は、「犬も歩けば棒にあたる」というものでしょう。この言葉はカルタで覚えた人が多いと思います。というのは、カルタの問題点は、その文章はすらすら出てくるのに、その意味は解説しないので、かなりあいまいで覚えています。勘違いしていることわざの多くは、私は、カルタから勝手に解釈をしていることも大きいのではないかと持っています。この「犬も…」も、意味は、棒はワルガキが犬を叩くのに使った棒.ということで,お散歩に出た無実の犬が,訳もなく災難に会う事を指しています.出しゃばって災難に逢うの意味です。それが、最近は、少し変化していて,むしろ幸運に行き当たる意味で、何もしないで,じっとしていてはいけないという意味に使われます。しかし、この「犬も…」も江戸の「いろはかるた」に使われるのであって、尾張では、「一を聞いて十を知る」ということわざですし、上方では、「石の上にも三年」とか「 一寸先闇の夜」とかが使われたり、大人には、「いやいや三杯」などというものもあります。この「いろはかるた」は、天明の頃(1780~) 上方で成立し、文化の頃には江戸でも作られ、1850年頃、尾張いろはかるたが作られました。そして、その採用されたことわざは、上方,江戸と同じ札もありますが,独自のものもあります。「いろはかるた」から学んだことわざは,かつては、子どもたちの中に無意識に日常の行動規範を形作っていっていたのでしょう。いろいろな意味のある、奥深い日本文化かもしれません。
月別アーカイブ: 12月 2006
プロ
私たちは、よく、「専門性」とか「プロ」という言葉を使います。園や学校を経営しているときに、よく、「最近の保護者はうるさい」ということを聞きます。しかし、保護者が子どもを思う気持ちを持つのは当然ですし、心配するのも当然ですし、何とかよくしたいと思うのも当然です。この子どもを一生懸命に思う気持ちは、とても望ましいことなので、それが「うるさい」と表現するのは抵抗があります。これが、教育や保育の「プロ」の言う言葉かと思ってしまいます。プロであれば、その思いを受け止め、専門性から将来を見据え、きちんと助言をしていくべきでしょう。
今、NHKで、「プロフェッショナル」という番組を放映しています。この番組は、かつての「プロジェクトX」に続くものですが、「プロジェクトX」は過去の業績に光をあてていましたが、この「プロフェッショナル」は、今と未来を描くドキュメンタリーです。この番組に登場するのは、誰もが認める、その道のプロです。斬新な試みに挑戦し、新しい時代を切り開こうと格闘中の挑戦者であり、数々の修羅場をくぐり、自分の仕事と生き方に確固とした「流儀」を持っている仕事人たちということが、この番組のテーマです。「時代の最前線にいる彼らはどのように発想し、斬新な仕事を切り開いているのか。これまでどんな試行錯誤を経て、成功をつかんだのか。そして、混とんとした今の時代をどのように見つめ、次に進んでいこうとしているのか。し烈な競争や成果主義、ニートの急増など、日本人の仕事をめぐる状況が大きく変わりつつある今だからこそ、プロフェッショナルな人々の姿を通して、仕事の奥深さ、働くことのだいご味を伝えたいと思います。」
この番組の12月7日放送の「りんごは愛で育てる」が反響を呼んでいます。青森のりんご農家の木村秋則さんの話です。化学的に合成された農薬や肥料を一切使わない不可能と言われたりんごの栽培を紹介しています。彼の畑では、あえて雑草を伸び放題にし、畑をできるだけ自然の状態に近づけることで、そこに豊かな生態系が生まれ、害虫を食べる益虫も繁殖することで、害虫の被害は大きくならない。さらに、葉の表面にもさまざまな菌が生息することで、病気の発生も抑えられる。彼は、人工的にりんごを育てるのではなく、りんごが本来持っている生命力を引き出し、育ちやすい環境を整えること。そして、こう言います。「育てない。手助けするだけ。」この言葉には、育児、保育に通じるものがあります。なかなかうまくいかず、6年目の夏、絶望した木村は死を決意します。そこでふと目にしたドングリの木を見て、「なぜ山の木に害虫も病気も少ないのだろう?」と疑問に思い、早速、山の環境を畑で再現します。そして、8年目の春、木村さんの畑に奇跡が起きます。畑一面をりんごの花が覆い尽くすのです。それは豊かな実りを約束する、希望の花なのです。彼の言葉には、このりんご育てた自信と、確かな実践に裏づけされた深みがあります。「主人公は、りんご」という言葉にしても、あたりまえのように聞こえますが、この言葉を実践するのは難しいでしょう。また、なかなかうまくいかない弟子に向かって、「答えは、りんごに聞け」といいます。なかなか落ち着かない子どもに対して、どうしたらよいかをよく聞かれます。そのときに「答えを、子どもに聞け」といえるかもしれませんね。最後にプロフェッショナルとはと聞かれて、「技術も心も一緒に伴った人が、プロじゃないでしょうか。」本当のプロの言葉は、どの世界にも通じますね。
チキン
日本ではあまりなじみがありませんが、絵本などに出てくるクリスマスの食卓には必ずといっていいほど七面鳥の丸焼きが描かれています。私が子どものころは、クリスマスが近づくと、年の瀬が迫った夜の町では、寒い中机を路上に出して七面鳥を売っている姿が見られました。もちろん、町といっても、銀座などにぎやかな町ですが。そのころ、日本では七面鳥を食べる習慣がないというだけでなく、あまりその姿を見ることがなかったので、何で七面鳥を食べるのか不思議でしたが、クリスマスのひとつの風物詩であったことは確かです。クリスマスに七面鳥を食べる習慣はアメリカからヨーロッパへ逆輸入されたものだそうです。コロンブスがヨーロッパ人としてはじめて西インド諸島を発見した後、ヨーロッパからアメリカ大陸への移住が始まりました。しかし住み慣れない土地では、それまで食用としていた豚を簡単に飼育することができませんでした。そこでヨーロッパの人々はアメリカ大陸に生息する野生の七面鳥に目をつけたのです。その後、アメリカに移り住んだピューリタン(清教徒)が、初めての収穫祭に、野生の七面鳥を食べたことがヨーロッパへ伝わり、クリスマスのメニューとして定着していったといわれています。現在、アメリカでは、感謝祭や結婚式、クリスマスに七面鳥をよく食べるそうです。七面鳥の肉は脂肪が少なくて淡白ですが、冬季は脂がのって身が締まり絶品です。
この「クリスマスには七面鳥」という習慣が、日本では「クリスマスにはチキン」になったのです。今は、もしかしたら、「ケンタッキーフライドチキン(KFC)」かもしれませんね。カーネル・サンダースは、ケンタッキー州のコービンで経営していたガソリンスタンドに併設して小さな食堂「サンダース・カフェ」を開業し、それがKFCの原点となります。ちなみに、「ケンタッキー」とは、先住の人達の言葉では「明日の大地」という意味だそうです。ちょっと、「うんちく」です。あの売っているピースは、1羽から、手羽(ウイング=wing)、あばら(リブ=rib)、腰(サイ=thigh)、脚(ドラム=drum)の部位がそれぞれ2ピースずつで、胸(キール=keel)が1ピース。あわせて9ピースです。試行錯誤の末、充分納得できる味のフライドチキンの調理法を完成させたのが1939年でした。日本にKFCができたのは1970年、大阪で開催された万国博覧会に出店した実験店は大盛況だったため、この年に日本ケンタッキーフライドチキン株式会社が誕生しました。そして、名古屋に日本の1号店(名西店)がオープンしました。しかし、商いに堅実な土地柄の名古屋でしたので、容易には認知されず、大変だったようです。翌年、神戸に4号店、東京1号店である 5号店を青山に出店し、若者を中心に一気に、人気のお店となっていきます。この東京の青山店で、「サンタクロースの格好をしてフライドチキンをデリバリーしてくれ」という外国人のオーダーを受けたのが、「クリスマスにフライドチキンを!」というようになったのです。このケンタッキー フライドチキンは、店舗数でいうとマクドナルドの1/3の規模ですが、ハンバーガーチェーンは、数多くあるのに比べて、フライドチキンを主体とした全国チェーンは、ケンタッキー フライドチキンしかありません。また、マクドナルドは、藤田田という強力なカリスマ起業家に支えられていたのに対し、ケンタッキーフライドチキンは、三菱商事という強力な後ろ盾がありました。どちらもマーケティング戦略を立案し、それが成功し、日本全土に広まっています。広げるための戦略は、どの分野でも必要かもしれませんね。
今日、新宿に行ってみたら大きな人だかりがありました。なんだろうと思ったら、なんと、New YorkやSeoulでしか食べることができなかったクリスピークリームドーナツの日本第1号店が今日開店でした。みんなよく知っていますね。
外食
いまや外食産業が時代の先端を走っている感があります。この「外食」とは、もちろん「外で食べること」ですが、なんとなく、マクドナルドやケンタッキーフライドチキンなどのイメージから、「外国の食べる文化」と思うほど、もともとがどこの国かわからないほど世界中で展開されています。しかし、もともとは、日本の「屋台」も外食かもしれませんし、「酒屋でつまみながらいっぱい」とか、「定食屋」「お好み焼きや」などというのも外食かもしれませんね。しかし、日本にファミリーレストランの歴史を作ってき、この「ファミリーレストラン」のフォーマットを開発したのは、日本の「すかいらーく」であり、創業者である横川4兄弟は、現在も、東京、そして、日本の外食界に大きな影響力を誇る外食界のカリスマなのです。1970年に「すかいらーく」、そして、ファミレスが始まりました。横川4兄弟(横川端氏 茅野亮氏、横川竟氏 横川紀夫氏)は、すかいらーく開業以前には、東京郊外で乾物商店「ことぶき食品」をオペレーションしていました。顧客思考が生んだ小分けパッケージなどのサービスが好評で、事業は成長していったのです。しかし、大型チェーンストア化の波が、1960年代に到来し、4兄弟は今後について思案します。そして、兄弟がターゲットを合わせたのが、「ファミリーレストラン」(いわゆる、ファミレス)だったのです。しかし、当時、「ファミリーレストラン」という概念はありませんでしたから、そういう言い方はしませんでした。今は一般名詞となったファミレスの根源は、すかいらーくが開発した業態にありますが、この業態のモデルは、アメリカのロードサイドのコーヒーショップにあるといわれています。ロードサイドコーヒーショップは、アメリカで発展した、車で移動する人向けにコーヒーとハンバーガーなどの軽食を出す業態です。これに、すかいらーくは、「ファミリーで楽しめる+充実したフード」という要素を追加し、「ファミリーレストラン」という今の形を完成させたのです。このときに開発したフォーマットとは、「駐車場(駐輪場)を完備」「立地は大規模幹線道路の脇」「気軽に入れる」という、アメリカのロードサイドショップが持つ特色に加え、「ファミリーで気軽に入れる」「誰でもなじみがあるハンバーグ、エビフライなどの洋食をリーズナブルで提供する」というスタイルです。ですから、ファミレスには、メニューに「ハンバーグ」があるのですね。もちろん、子どもが好きなメニューということもあるのでしょうが。このファミリーレストランというフォーマットは、すかいらーくが最初にオープンした東京・国立から、日本中に広まっていきます。また、すかいらーくの出店戦略も、不動産をはじめ多くの業界で使われていますが、外食業界ではあまり行われていない「リースバック方式」という方法をとっています。リースバック方式とは、地主にレストランを構築してもらい、それをある一定の期間、一定金額で借りる契約をし、多くの場合、地主は、土地を担保に建物を建設する資金を調達し、それを賃料で回収するという方式です。地主側のリスクも大きくなりますが、リターンも大きくなるこの方式は、すかいらーくが初めて大々的に行いました。これらフォーマットや戦略の成功は、日本人が伝統的に好きな横川四兄弟の「兄弟力合わせて」という結果で、「毛利3兄弟の矢」に続いて、東京で語り継がれている話だそうです。しかし、なんと言っても成功の秘訣は、時代を捉え、時代を読み取る力でしょう。
人の器量
先週で、NHKの今年の大河ドラマ「功名が辻」が最終回を迎えました。私は、妻と休みの日にいろいろな場所を歩くのですが、少し遠出をするときにどこに行こうかと迷います。今年は、特に目的がないときには、この「功名が辻」に関連のある地を訪れてみました。そんなわけで、今年の最後に訪れる地として「高知」に来ました。高知は、山内一豊が最後に任された地で、「高知城」を築城しています。
高知城
そのあと、戦国武士にしては子孫までその地を治めるのですが、司馬遼太郎の原作の「功名が辻」を読んだとき、最後の施政が気になりました。どんどん功名を立て、えらくなっていくのですが、それに伴って物事を進めることを急ぎ、強引になり、周りが見えなくなり、人の気持ちを推し量ることが軽んじられていく気がします。地位や名誉を得るにつれて謙虚になり、人の気持ちが判ってくるというのは、その人の器量によるのでしょうね。器量のない人に地位や名誉を与えると、ろくなことをしません。また、降って湧いたような地位や名誉も、金銭と同じで、それをすぐ失ってしまうような使い方をすることが多いようですね。そんなことを、今年の「功名が辻」で思いました。それを司馬は、原作の中で、妻の千代の口から一豊(伊右衛門)の印象を述べさせています。

一豊と千代
「自分を勝者だと思っている。なるほど勝者にはちがいないが、勝者になりうる能力、器量のもちぬしだ、と思いはじめているようであった。土佐一国、という思いもよらぬ僥倖をひきあててから、どうも伊右衛門は、それ以前の伊右衛門にくらべてすこしかわったようである。(以前はこうではなかった。以前、この人は、自分が凡庸だと思いこんでいたし、それなりに功名をたててそれなりの加増があるとひどくよろこび、自分は運がいい、それほどの分際ではないのだが、というような謙虚さがあった。いまはそうではない。自分の力でかちえた、と思いはじめている)男に、出世とはこわい。分不相応の位置につくと、つい思いあがって人変わりのする例が多い。」
また、器量のないものが周りを推し量ることができなくなると同時に、先を見ることができず、目先のことだけを見てしまうことも多くなるようです。もちろん、家来として、人と使われる身としては、今の実績が大切かもしれません。しかし、城主になって、その地を治めるようになったら、もっと先を見ていかなければならないと思います。仕事の面でも、少なくとも管理職になったら、目の先のことにとらわれずに、広く、様々な視点から物事を見、きちんと将来を見据えていく力が必要でしょう。他人の考え、意見に耳を傾ける必要があると思います。やはり、他人の意見に耳を傾けることのできる人は、器量のある人なのでしょう。一豊が目の先の安定を急ぐあまりに虐殺をしたときに、一豊と妻の千代との会話です。
「すくなくともこの国の人間どもにはわなが要るのだ。残忍かもしれぬが、もはやそういうわなを設けて虐殺する以外に治めてゆく方法がない」「人には子や孫がありまするぞ」「けものにもある」「しかしけものには言語がありませぬ。わなをつくって人を殺せばそのことが伝説になり子々孫々にまで伝わるでしょう。一時はおさまっても、いずれか時がきたときにその伝説で育てられた子孫たちがきっと山内家に復讐をくわだてるでしょう。政事というのはあなた様ご一代きりのものでございませぬ。杉苗を大木にするように百年千年ののちまで考えるべきものです」
一豊の墓
りんご
今日、久しぶりに懐かしい歌を聴きました。少し前にCDから携帯電話にダウンロードしておいたものを聞いたのです。その曲は、泉谷しげるが歌っている「白雪姫の毒りんご」です。私は、学生時代にコンサートにも追っかけで行ったことがあるほど泉谷の歌が好きでした。この歌は、大学時代になんだかむなしい思いをしたときに、ふと口ずさんでいました。そして、気を取り直したものです。泉谷は、今は俳優として活躍していますが、あのしわがれ声と、あまり上手でないギターでうたう姿は、一見しての印象と違って、シャイに自分の心の中を見つめ、照れながら自分を励ましています。この歌の歌詞は、門谷憲二 が作詞しています。彼は、エレックレコード勤務を経て、作詞家として活動しましたが、他にも布施明の「君は薔薇より美しい」や西武ライオンズ応援歌の「若き獅子たち~We are the Lions」など1000曲以上も作詞しています。学生時代に気を取り戻した歌詞とは下記のようなものです。(1番だけ)「むなしいむなしいとつぶやいても また明日もむなしいだけ 空に浮かんでる白い雲も いまではなにもこたえてくれない 強く弱く 弱く強く ひざをたたいてみれば あー なんだか生きてる証のような むなしい痛みを感じるよ おお ぼくたちに今一番必要なものは あつい恋や 夢でなく まぶしい空から降ってくる 白雪姫の毒リンゴ」
りんごといえば、今から約330年位前、ニュートンがウルスソープの家の庭で、りんごが落ちるのを見て、「万有引力の法則」のヒントを得たといわれています。このオリジナルの木は1814年に枯れてしまったそうですが、そのりんごの木が枯れる前に、接木で子孫を残すことが出来たそうです。そして、今、その二代目のりんごの木は記念樹として現地で大事に保存され、この偉大な物理学者を偲ぶ記念樹となっています。また、このニュートンのりんごの木の分身は世界各地で見ることが出来ます。そして日本にも「ニュートンのりんごの木」(分身)は、小石川植物園(東大理学部附属植物園)に植えられてます。そして、その苗木が移植されて高知の「牧野植物園」にありました。
もうひとつ、りんごといえば、私が主宰している「ギビングツリー」という名前は、「一人の人間に限りない愛を捧げる与える木」という意味で、「りんごの木」なのです。日本の題名である「大きな木」シェル・シルヴァスタイン著の絵本は、「昔、1本のりんごの木がありました。この木には、小さな男の子の友達がいました。男の子は毎日やってきて、木の幹を登り、枝にぶら下がって揺らし、りんごを食べて遊びました。疲れると、木の陰で眠りました。男の子は木が大好きでした。木は幸せでした。」と、始まります。
もうすぐクリスマスです。クリスマスツリーによく飾るオーナメントとして「りんご」があります。それは、昔の人にとってりんごは貯蔵が可能な数少ない食べ物で、まさに自然からの贈り物だったため、幸福や生きる喜びをもたらす果物として尊ばれてきたのです。ですから、ドイツでは聖なる木に貴重なリンゴを吊るして神の愛を讃えたり、北欧の冬の祭りでは常緑樹に吊るして神への捧げ物としていました。
どんなりんごを子どもたちに与えることができるか、そんな課題をみんなと考えていきたいと思い、その集まりを「ギビングツリー」という名称にしました。
狸
最近、ブログで書いたように「狸」に縁があるようです。最近、園の周りでも狸の交通事故が多く、ずいぶんとかわいそうに思います。それよりも、どうも狸というと伝説が多いですね。それは、幻術を操り、幻覚を見せる事によって人を騙すと言われて、日本古来、狸霊として伝わり、悪戯好きが多く、人を化かしてからかうというイメージです。また、伝説として多い理由のもうひとつは、勢力争いをして、同種同士で合戦を行う事もあるために、「○○狸合戦」として人間にダブらせて語ったのでしょう。同じように人を化かす霊として狐がいますが、狸は、人などを操ったりするのではなく、幻術を用いて様々な状況を人に見せたりする些細な悪戯がほとんどなので、実際に退治されるような事は少ないようです。突然、こんな話をするのは、今日も狸に縁のあるところに来ているからです。今年、よく愛媛の松山の話題が多いのですが、それは、隔月松山で勉強会を開いているからです。この松山は、意外にも「日本三大狸伝説」のひとつになっています。以前訪れた「證誠寺・狸ばやし」それから、「群馬県館林市茂林寺・分福茶釜」そして、「愛媛県松山市・八百八狸物語」なのです。「八百八狸物語」というのは、享保年間の大飢饉の際に起こったお家騒動「松山騒動」をモチーフにした物語に、狸や妖怪を登場させて怪談仕立てにした講談です。享保17年(1732)、かつてない大飢饉に襲われ、窮した松山藩は、幕府から多額の救済金を借り受けます。この金に目がくらんだ家老・奥田久兵衛が松山藩横領の大望をも企てたのが、「松山藩お家験動」の始まりです。その悪巧みを阻止しようとしたのが、天智天皇の時代以来、この地に住み着き、松山城主から刑部の位を授かり、家中から深く信仰され、八百八家の眷属を従える狸の総大将として君臨していた古狸の「隠神刑部(いぬがみぎょうぶ)狸」です。そんな刑部狸は、得意の幻術で久兵衛を陥れようとしたが失敗します。そこに至って江戸の忠臣組が国元の異変に気付き、奥平一派を成敗しました。そして、この時にお家騒動を起こしたという理由で、刑部狸は神通力を封じ込められ、久万山の洞窟に閉じこめられます。それ以来、八百八狸の力は衰えましたが、土地の人と仲良く、幸せに暮らしたといわれています。いま、松山市久谷町の山口霊神社前に「松山騒動伊予八百八狸の碑」が建っています。
この松山の八百八狸の一人である本陣狸の男狸と、千葉・木更津の萩乃狸一族からでた上総御前の女狸の二人は証誠寺の大和尚の仲立ちと、札幌市長の媒酌で夫婦となりました。昭和48年夏のことです。昭和51年、この夫婦狸に「鶴の宮藻里豊姫」という娘狸が生まれました。娘は登別 市の新和デパートに嫁ぎ、登別本陣大明神社が誕生します。平成13年、札幌市狸小路商店街と銀天街商店街振興組合連合会は、狸が取り持つ縁で姉妹縁組を結びました。松山市ではそれを記念したモニュメントを制作し、同時に伊予の狸の復権活動を推進して、「八百八狸トッポ話(滑稽話)」を核に大人にも子どもにも親しまれる文学のまちづくりを実現しようとしています。どこからが今の話で、どこからが本当の話かわからないような話は、あまりに現実だけを突きつけられている今日の話題からすると、息が抜くことができますね。また、なんども同じ場所を訪れると、ブログのおかげでいろいろなものが見えてきます。「習う」という漢字は、「自ら羽を何度も動かす」という字からできているといわれています。
ホトトギス
今日、園に着いたときに、ふと門柱の脇の目立たないところに面白い花を見つけました。その花が何か少し調べたのですが、はっきりとはわかりませんでしたが、なんとなく「タイワンホトトギス」の気がします。
「ホトトギス(杜鵑)」という花は、今年の10月22日に高知の「牧野植物園」の庭で見つけました。この花は、ユリ科ホトトギス属多年草で、別名を時鳥草、杜鵑草、鶏脚草などといいます。夏から晩秋にかけて紫紅色の斑点のある花を咲かせますが、この斑点が鳥のホトトギスの胸から腹にかけてある斑点と似ているので名付けられました。鳥の名前そのものがついているのはこの植物だけです。別名を「油点草」ともいいますが、これは花がまるで油が注がれたような斑点がいっぱいあるからです。6枚の花びらはそれぞれ離れたところから出ていて花の季節が終わると1枚ずつハラハラと散ります。夏から秋までの長い期間ただひたむきに咲き続けることから「永遠にあなたのもの」という健気な花言葉が生まれたようです。
牧野植物園で
園で今咲いている花は、これに似ているのですが、やや小型の花が茎の頂部に枝分かれしてついていますし、今咲いているので、「ホトトギス」よりは開花の遅い「タイワンホトトギス」か、その交配種の気がします。しかし、なかなか素人の私では、正確に花の名前を言い当てることは難しいので、もし違っていたら、申し訳ありません。ただ、ついでに、「ホトトギス」について思い出したことがあります。ホトトギスを漢字で書くといろいろとあります。不如帰、杜鵑、時鳥、霍公、霍公鳥、郭公、子規などがあります。まず、ひどい鳥だと思ったのは、カッコウなどと同様に、自分で子育てをせず、ウグイス等の巣に卵を産みつけ、かえった雛がもともとの卵を巣から突き落とし、すまして自分が子どもの顔をして育てさせるという習性です。鳴き声も特徴的です。オスの鳴き声はけたたましいような声で、「キョッキョッ キョキョキョキョ!」と聞こえ、この鳴き声の聞きなしとして「特許許可局」や「テッペンカケタカ」が知られています。日本では、激情的ともいえるさえずりのために、古今ホトトギスの和歌が数多く詠まれ、万葉集では153首にも登場します。その年に初めて聞くホトトギスの鳴き声を初音といい、これも珍重しました。枕草子ではホトトギスの初音を人より早く聞こうと夜を徹して待つ様が描かれています。
また、鳴かないホトトギスを三人の天下人がどうするのかで性格を言い表した有名な川柳がありますが、もちろん本人が実際に詠んだ句ではありません。これらの川柳は江戸後期の平戸藩主・松浦静山の随筆『甲子夜話』に見えます。「夜話のとき或人の云けるは、人の仮托に出る者ならんが、其人の情実に能く恊へりとなん。郭公を贈り参せし人あり。されども鳴かざりければ、「なかぬなら殺してしまへ時鳥」織田右府、「鳴かずともなかして見せふ杜鵑」豊太閤、「なかぬなら鳴まで待よ郭公」大權現様。このあとに二首を添ふ。これ憚る所あるが上へ、固より仮托のことなれば、作家を記せず。「なかぬなら鳥屋へやれよほとゝぎす」「なかぬなら貰て置けよほとゝぎす」とあります。織田信長の短気さと気難しさを、豊臣秀吉の好奇心旺盛なひとたらしぶりを、徳川家康の忍耐強さを表しています。その川柳の本歌取りとして、種田山頭火が「鳴かぬなら鳴かなくてよいほととぎす」と詠んでいます。どれが皆さんの人生観でしょうか。
すすはらい
今日12月13日は、「正月事始めの日」「正月迎え」といいます。正月などずいぶん早い気がしますが、「こと」とは祭り、つまり正月を意味し、12月13日は正月を迎える準備をはじめる日というわけです。では、どんな準備からするのでしょうか。それは、「煤払い(すすはらい)」といって、13日に家の中の大掃除をするのです。この恒例は、単に大掃除というより、神聖な御紋の行事でした。年神さま(歳徳神としとくじんともいわれ、新しい年の五穀の豊作を約束してくれる神さま)をまつる準備のための、宗教的な行事でした。その年神さまを迎えるために、屋内外の煤ほこりを払い清めるのです。すすはらいを煤掃きともいいますが、その日を「煤取節句」「煤掃節句」とよぶ地方があることからも神祭りのはじまりであったことがわかります。すすはらいの日には、仕事を休み、家じゅうが総出で大掃除をし、それがすむと、神様に「煤取り団子」を供えたり、「煤掃き餅」や「煤掃き粥」「煤雑炊」といって、一家で餅や雑炊、粥などを食べる習慣がありました。また、すすはらいのあとで入る風呂を「煤湯」といいますが、身も心も、住まいも、できる限り清潔にして年の神を迎えようとしたのです。この習慣は、この日江戸城の御煤納めが行われたこともあって、江戸時代には一般家庭にも定着し、大正時代までつづきましたが、13日のように早い時期に大掃除をすると、また汚れてしまうので、しだいに年末近くに繰り下げて行ったようです。今では、すすはらいは寺院が年末の行事として行うくらいで、一般家庭は昔ほど大々的な掃除はやらなくなりました。昔は、かまどで薪を焚いたので、煤がたまりやすく、掃除には新しく切り出した笹竹のほうきが使われました。そのすすはらいに使われた竹を正月の終わりの1月14日に,門松や古いお札などと一緒に持ち寄って焼く日が、「どんど焼き」です。(ちなみに、私の育った近くの鳥越神社では、どんど焼きは、1月8日に行われていました。)神さまはこのけむりにのって天へ帰られます。子どもたちの「書きぞめ」もこのとき燃やし,それが高くまい上がるのを見てよろこんでいました。
ところで、掃除といって思い出すのが、学校で掃除をしたことです。子どもに掃除をさせ、掃除に教育的意味を持つのは儒教の国だけであると聞いたことがありますが、私の園では、必ずしも教育的効果だけでなく、運動能力をつけるために子どもたちが、雑巾がけをしています。また、自分で製作をした後の紙くずは、次にやりやすいように自分で掃除をします。ダスキンが平成13年にしたアンケートによると、学校での掃除用具といえば、ぞうきん(96.4%)が最も多く、ジザイボーキ(78.2%)、座敷ぼうき(74.6%)の3種です。私が子どものころにあった「はたき」は、今はなさそうです。次に外用ほうき(65.5%)、デッキブラシ(53.0%)と外まわりの道具が続きます。そして4~50%台というのが掃除機、スポンジ、ブラシです。また、掃除さぼりに関しては、小学校では48.4%、中学校では24.3%で約半分となっています。また、「一部の人で、さぼるのは男子に多い」というのが、小学校(18.5%)と中学校(17.1%)と大差ありませんが、「男女を問わず、一部がさぼる」は小学校(31.8%)に比べて、中学校(47.0%)でかなり開きが出ます。女子生徒のさぼりの度合いが年齢に左右されているようです。これからは、次第に子どもに掃除をさせることは少なくなるような気がします。やる意味は、ないのでしょうか。
夜昼
今日は、夕方に小雨も降り、とても寒い日でした。12月ですからあたりまえかもしれませんね。今日、新宿に行って、園に戻った5時頃は、もうあたりはすでに真っ暗です。日本では、季節を感じるものに、寒暖、植物、星空などがあり、私のブログのネタによくなりますが、もうひとつ、季節を感じるものに、夜昼の長さがあります。だんだんと昼が短くなってくると、冬が近づいたことを感じます。しかし、それは、身に感じる冬の到来とは少しずれますが、逆に訪れを先立って感じることができます。北半球では、一年中で最も昼が短い日は冬至で、今年は12月22日です。一日の長さを24時間と決めています。これは、太陽が真南を通ってから次の日に真南にくるまでの時間をもとにしたもので、平均太陽日といいます。そして地球が1日に1回自転するときに自分の住んでいる場所が太陽に照らされる方にあるときは昼、反対側にくると夜です。なんだか当たり前ですが、子どもたちに説明するときは、このように言います。また、地球は自転しながら太陽のまわりを一年間で一周するのですが、この時、地球の自転軸が、公転面に対して垂直より23.4度傾いているために、太陽の高さが変わったり、日の出や日の入りの位置が変わったりもします。日本では、夏至の日に昼が最も長く冬至の日に最も短くなり、春分・秋分の日が、昼と夜の長さがほぼ等しいのですが、実は、春分・秋分の日は昼の方が夜より約18分長いのです。その原因はおもにふたつあります。ひとつは日の出と日の入りの太陽の位置のきめ方にあります。太陽の中心ではなく上のはしが水平線上に出た瞬間を日の出、水平線に沈んだ瞬間を日の入りとします。このために太陽の直径分を太陽が動く時間だけ(約2.6分)昼の長さが増えます。考えると、なるほどと思います。さらに、大気による光の屈折のため、太陽は実際の位置より浮き上がったように見えます。このために日の出入りで約5.8分昼の時間が長くなります。あわせて8~9分だけ昼が長くなります。その分、夜が短くなるのですから昼と夜の長さのちがいは18分ほどになります。なんだか、今日も算数の計算になりました。正確に昼と夜の長さが同じになるのは3月17日と9月27日だそうです。
冬至に話は戻しますが、この日は冬至かぼちゃを食べて金運を祈り、冬至風呂(ゆず湯)に入って無病息災を祈る行事を各家庭で行います。ゆず湯に入ると肌がスベスベになる美肌効果があり、冷え性やリュウマチにも効き、体が温まってカゼをひかないとも言われています。また、何故、冬至に風呂かというと、冬至の読みは「とうじ」といいますが、この言葉と湯につかって病を治す「湯治(とうじ)」にかけています。更に「柚(ゆず)」も「融通(ゆうずう)が利(き)きますように」という願いが込められているのです。また、冬至かぼちゃを食べるのは、西洋野菜が日本に入るまでこの時期に取れる野菜は少なく、保存できる野菜も少なかった中で、かぼちゃは保存がきき、保存中の栄養素の損失が他の野菜に比べて少ないので、冬至の時期の貴重な栄養源でもあったのです。「かぼちゃ」の名は、16世紀中頃ポルトガル船によってカンボジアからもたらされ、このときの伝来先に由来しています。かぼちゃの栄養成分のカロチンは、体内でビタミンAにかわって肌や粘膜を丈夫にし、感染症などに対する抵抗力をつけてくれます。ですから、「冬至にかぼちゃを食べると風邪をひかない」といわれているのです。こんな寒い夜は、冬至に限らず、ゆず湯に入って、かぼちゃでも食べて、冬を乗り切りましょう。