人の器量

 先週で、NHKの今年の大河ドラマ「功名が辻」が最終回を迎えました。私は、妻と休みの日にいろいろな場所を歩くのですが、少し遠出をするときにどこに行こうかと迷います。今年は、特に目的がないときには、この「功名が辻」に関連のある地を訪れてみました。そんなわけで、今年の最後に訪れる地として「高知」に来ました。高知は、山内一豊が最後に任された地で、「高知城」を築城しています。
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高知城
そのあと、戦国武士にしては子孫までその地を治めるのですが、司馬遼太郎の原作の「功名が辻」を読んだとき、最後の施政が気になりました。どんどん功名を立て、えらくなっていくのですが、それに伴って物事を進めることを急ぎ、強引になり、周りが見えなくなり、人の気持ちを推し量ることが軽んじられていく気がします。地位や名誉を得るにつれて謙虚になり、人の気持ちが判ってくるというのは、その人の器量によるのでしょうね。器量のない人に地位や名誉を与えると、ろくなことをしません。また、降って湧いたような地位や名誉も、金銭と同じで、それをすぐ失ってしまうような使い方をすることが多いようですね。そんなことを、今年の「功名が辻」で思いました。それを司馬は、原作の中で、妻の千代の口から一豊(伊右衛門)の印象を述べさせています。
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   一豊と千代
 「自分を勝者だと思っている。なるほど勝者にはちがいないが、勝者になりうる能力、器量のもちぬしだ、と思いはじめているようであった。土佐一国、という思いもよらぬ僥倖をひきあててから、どうも伊右衛門は、それ以前の伊右衛門にくらべてすこしかわったようである。(以前はこうではなかった。以前、この人は、自分が凡庸だと思いこんでいたし、それなりに功名をたててそれなりの加増があるとひどくよろこび、自分は運がいい、それほどの分際ではないのだが、というような謙虚さがあった。いまはそうではない。自分の力でかちえた、と思いはじめている)男に、出世とはこわい。分不相応の位置につくと、つい思いあがって人変わりのする例が多い。」
 また、器量のないものが周りを推し量ることができなくなると同時に、先を見ることができず、目先のことだけを見てしまうことも多くなるようです。もちろん、家来として、人と使われる身としては、今の実績が大切かもしれません。しかし、城主になって、その地を治めるようになったら、もっと先を見ていかなければならないと思います。仕事の面でも、少なくとも管理職になったら、目の先のことにとらわれずに、広く、様々な視点から物事を見、きちんと将来を見据えていく力が必要でしょう。他人の考え、意見に耳を傾ける必要があると思います。やはり、他人の意見に耳を傾けることのできる人は、器量のある人なのでしょう。一豊が目の先の安定を急ぐあまりに虐殺をしたときに、一豊と妻の千代との会話です。
「すくなくともこの国の人間どもにはわなが要るのだ。残忍かもしれぬが、もはやそういうわなを設けて虐殺する以外に治めてゆく方法がない」「人には子や孫がありまするぞ」「けものにもある」「しかしけものには言語がありませぬ。わなをつくって人を殺せばそのことが伝説になり子々孫々にまで伝わるでしょう。一時はおさまっても、いずれか時がきたときにその伝説で育てられた子孫たちがきっと山内家に復讐をくわだてるでしょう。政事というのはあなた様ご一代きりのものでございませぬ。杉苗を大木にするように百年千年ののちまで考えるべきものです」
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   一豊の墓