昨日のブログで、太宰治中期の名作『富嶽百景』のことを書きましたが、その太宰が、愛人、山崎富栄と玉川上水で入水自殺したのは1948年6月13日のことでした。太宰はそれまでに3回心中未遂をしており、これが4回目でした。最近、いじめを受けた青少年の自殺が目立ちます。どうも、自殺は、定期的に伝染していくようです。江戸時代から心中が話題になることがよくありますが、この太宰の自殺も、事件を知らせる16日の朝刊の記事の見出しには「太宰治氏情死行 愛人と玉川上水へ投身か」とあるように心中のように見えます。しかし、その記事の中の「虚無を慕いて…」というところをみると、愛人との自殺はきっかけに過ぎないようです。最近のいじめによる自殺も、確かにいじめられているつらさが原因でしょうが、それを教員への懲罰でやめさせようとするだけでなく、子どもの心に潜み始めている「虚無のこころ」にも目を向ける必要があるでしょう。
太宰たちをのみこんだ玉川上水は当時、「人恋川」とも呼ばれるほど流れが激しく、溺れると「死体もあがらぬ魔の淵」だったそうです。今は、その流れを覆いつくさんばかりに緑がうっそうと茂り、その脇を川に沿って続く道は散歩にうってつけです。
今週の日曜日に、その玉川上水の脇を少し歩きました。夕方でしたので、次第に暮れていく中を、秋の終わりを感じながら歩くのは、季節を感じることができます。この玉川上水は、多摩川を水源とし東京都羽村市から新宿区四谷までを流れる用水路(上水)です。多摩川水系は現在でも東京の水源の1/3ほどを占めていて、かつては、多くが新宿区の淀橋浄水場まで送られ取水されていました。その淀橋浄水場も廃止され、今は都庁を中心とした超高層ビルが立ち並ぶ新宿副都心を構成しています。ですから、今は、大半が羽村第3堰で取水し、鉄管で東村山浄水場に送られています。玉川上水は、このあたりの人にはよく知られていますが、玉川兄弟がその工事を行いました。江戸時代、徳川幕府が永く続き、安定してくると江戸の人口はふえ、水不足が心配になりました。そこで、幕府は玉川兄弟に、多摩川から水道を引くことを命じました。兄弟は、それまでも幕府が行う土木工事などを担当してきましたが、これほどの大きな工事は初めてでした。水道を作るには、川を掘るという土木の知識が必要なことはもちろんですが、水を流すためには、多摩川と江戸の標高がどれほどあるのか、どのくらいの傾斜で川を作ればよいのか、どのような方法で傾斜を測るか、といった測量の知識が必要になります。多摩川の取り入れ口の高さと江戸の高さの差は、わずか100mほどでしたから、100m進んで、25cmほど下がる正確な川を作らなければなりませんでした。玉川兄弟は、このような正確な測量を夜中にちょうちんや火をつけた線香の束をともし、それを見とおして行ったといわれています。そんな難しい工事でしたから、何度も失敗をしています。はじめは、今の国立市の青柳から掘りだしましたが、途中で土地の高いところに掘り進み、水が流れなくなりました。2度目は今の福生市から掘りましたが、JR拝島駅の近くまできたとき、水が地面に吸い込まれ、流れなくなりました。何度もこんなんな目に会いましたが、わずか八か月で玉川上水と、そこから江戸の町々に水を引く水道工事を完成させました。兄弟の墓所は台東区内の聖徳寺にあります。ここも散歩の途中で立ち寄ったことがあります。

知らないと勝手な解釈をして納得しています。今日のブログの「玉川」などはその典型です。私はてっきり「多摩川」の当て字か何かで「玉川」になったと思っていました。玉川上水とか玉川大学とか二子玉川とか。全部「多摩川」が何かの理由で音だけ残して別の漢字を当てられた、と了解していました。「玉川」上水は玉川という兄弟によるものなのですね。初めて知りました。距離にして数十キロもあるのに高低さが100メートルしかない上水づくり・・・先人の偉業のひとつをまた教えていただきました。生きているといろいろなことが学べて楽しいのに・・・と思わず毎日ニュースとなっている悲しい出来事のことを考えてしまいました。
昔の技術で「100m進んで25cmほど下がる正確な川を作る」作業は本当に大変だっただろうと思います。こうすれば上手くできるという事例も少なかったんじゃないでしょうか。失敗してもまた考えて挑戦するという姿勢は見習わなければいけません。答えの決まっていない問題を考えることを楽しめるようになりたいです。