霊山

 私は、新幹線で関西方面に行くときには、できるだけ新幹線の席は進行方向右側の窓側を取ります。その理由のひとつは、午前中に日が当たらないからです。もうひとつの大きな理由に、窓から見える景色があります。左側は、海が見えます。しかし、大阪までの間では、熱海あたりくらいしか見ることができません。それよりも景色として魅力があるのは、窓一面に現れる「富士山」です。しかし、なかなかよい条件で富士山が見えることはできません。ですから、余計に見ようと挑戦したくなるのです。先日、京都の帰りに久しぶりにきれいな「富士山」を見ることができました。新富士の駅の辺りです。
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「富士山」という山は、不思議な山です。私の自宅からも見えるのですが、違う場所で見るとまた感動してしまうのです。時代を超えて、日本文化に大きな影響を与えてきました。それは、多数の神社・仏閣、伝説・伝承、万葉集や江戸時代の絵画・俳句、伝統的芸能・工芸等広い領域にまたがっています。最近見た復元された銭湯の壁画にも富士山が描かれていました。
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日本人であればだれでも、その姿を描くことのできる程の特別なイメージを持つ山です。また、単に美しいものとして憧れるだけでなく、霊的な存在としても感じてきました。富士山は、有史以来、「浅間大神」あるいは「木花開耶姫命」の鎮座する「神の山・信仰の山」として崇敬されてきたのです。これはアニミズムと日本独自の神道が融合した、日本文化の中においてもなお稀な例です。南麓と北麓には国の重要文化財に指定されている富士山本宮浅間大社や北口本宮浅間神社が建っていますが、これらが祀るご神体はなんと富士山そのものです。このように精神的なものを感じるためか、その姿のイメージは、実際の姿と異なる場合があります。たとえば、富士山の姿を写真にとってみると、実際に思っていたよりも小さく、そびえ立っているようには写りません。また、中学生のころ、富士山を等高線により組み立ててみると、やはりあまりそびえ立ちません。私が中学生の勉強を見ていたころ、その中学生たちと高尾山の山頂付近で富士山の写生をしました。すると、そこを通りすがったカメラを抱えた人が、私たちが書いていた絵を見ながら、「富士山の姿は、写真ではなく、絵でないと表せないんだよなあ。」とつぶやいたのを聞いて、絵を描いていた中学生たちは、なんとなく誇らしく思ったものでした。
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私が中学生といっしょに写生した富士の絵
太宰治も「富嶽百景」の書き出しでも、こんなことを言っています。「富士の頂角、広重の富士は八十五度、文晁の富士も八十四度くらゐ、けれども、陸軍の実測図によつて東西及南北に断面図を作つてみると、東西縦断は頂角、百二十四度となり、南北は百十七度である。広重、文晁に限らず、たいていの絵の富士は、鋭角である。いただきが、細く、高く、華奢である。北斎にいたつては、その頂角、ほとんど三十度くらゐ、エッフェル鉄塔のやうな富士をさへ描いてゐる。けれども、実際の富士は、鈍角も鈍角、のろくさと拡がり、東西、百二十四度、南北は百十七度、決して、秀抜の、すらと高い山ではない。」やはり、同じことを感じているのですね。そういう意味でも、不思議な山ですね。

霊山” への4件のコメント

  1. 今日のブログは思わずコメントしたくなるような内容です。霊山「富士山」といえば、もういろいろなことを書きたくなります。いつ見ても飽きるどころか、見るたびに心が洗われます。学生時代、少々左がかっていた時期、超左の同級生に「富士山は右翼のシンボルだ!あんな山をいいなんて言うやつのきがしれない。」と言われ、「美しいものを美しい、と言って何が悪い!いいものをいい、と言って何が悪い!」と言ってくってかかったことがありました。この気持ちはいまだに変わりません。ところで、湘南の平塚というところに15年間住んでいました。冬のこの時期、東京へ向かう電車の車窓から富士山がよく見えました。平塚の駅を出て、馬入川(相模川)を渡る時に見える富士山は絶品です。それでも、12月、空気のとても澄み切った川口湖畔からみた明け方朝日の昇る寸前の富士山、それはそれは神々しく、とてもこの世のものとは思えませんでした。20年経った今でも脳裡に焼きついて離れません。藤森先生の竜の絵も凄いと思いますが、この富士山の絵もなかなかのものです。生きている富士山を感じます。もっともっとコメントしたいことがありますが、今回はこの辺にして、次回、富士山ブログの時に続き

  2. 確かに富士山は写真より絵の方が険しく描かれているように思います。言われて初めて気づきました。日本人にとって富士山は特別なのでしょうね。いろんなところに○○富士という山があるのも富士山への思いからでしょうか。
    私は富士山の高さよりも裾野の広さの方が印象に残っています。裾野に立つと吸い込まれそうになる、そんなスケールの大きさにぞくぞくしたのをおぼえています。
    富士山の絵もすごいと思ったのですが、このブログの竜も藤森先生の絵なのでしょうか。びっくりです。

  3. 富士山をまだはっきりと見たことがありません。飛行機の上からは見たことがありますが、やはり富士山の全貌を「どーん」と感じるような場所に立って、その迫力を目の前で感じてみたいです!確かに絵の富士山は実際よりも鋭く描かれていますね!藤森先生の描かれた富士山の滑らかさには驚きました。私も思い出せば小学生の頃に葛飾北斎のあの赤い富士山を教科書を見ながら描いていたのを思い出しました。何が気に入ったのかは分からないのですが、よく描いていました。その富士山もかなり鋭いですね。
    霊山というと恐山をすぐにイメージしてしまいます。恐山は死者への想いによって支えられてきた。その想いが積み重なり、それが形になった場所が恐山であるというようなことを南直哉さんが言っておられますが、富士山もその雄大さと人の思いが何層にも重なり目には見えないものが形になり、それを私たちも感じているのかもしれませんね。

  4. よく、写真で見ていたものを実際に目で確認した時に、「あれ?」と思うことがあります。それは、自分の頭の中で想像を膨らまして確立していたものと、実際の見た目とのギャップでおこる現象のようにも感じます。富士山も、日本の象徴といった捉え方や、一番高いといったイメージが、山を鋭角に表現することへとつながっていくように思います。そう考えると、「富士山の姿は、写真ではなく、絵でないと表せないんだよなあ。」とつぶやいた方がいたのは、風景を絵で表現すると、その対象とその人の心の中との関わり方や、イメージが全面に表現され、それこそ一人ひとり異なる富士山の絵になっていくかもしれませんね。絵とその人の心の関係性は、そこにしか存在しないようですね。

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