何年か前に、念願だった「ボローニャ児童図書展」に行ったことがありました。(何度かブログに書きました)このボローニャは、イタリアの都市です。私は、ある出版社の編集委員として参加させてもらったので、4日間の開催日は出入り自由でしたが、4日間もいても仕方ないので、その期間中、1日はフィレンツェに、もう1日はベニスに行きました。私は英語も満足に話せないのですが、ましてイタリア語などまったくわかりません。それなのに、イタリアの人はほとんど英語を話しませんので、この小旅行は、冒険でした。しかし、かろうじて、そのころよく歌っていた「ひとりとひとりが うでくめば…」という歌の最後の掛け声に「ウノ ドス!」というのがあったので、なんとか「ピッツァ、オニオン、ウノ!」と言って、食事は頼むことができました。しかし、ベニスに向かう列車の中で、事件が起こりました。外国の列車は、よく映画にも出てきますが、座席は数人ずつの個室になっています。私が座っていた個室には、社会科見学に行くらしい小学生が乗り合わせていました。そのうちの何人かが私に話しかけてきました。もちろん、ほとんどなにを言っているかわかりませんでしたが、そのうちの一人の子が片言の英語を話せたので、何とか会話をしました。すると、私が日本人だということを知って、とても興味を持っていろいろと聞いてきました。そして、他の個室にいる子たちもそれを聞いて私の個室に集まってきました。もう部屋ははちきれそうです。すると、そのうちの一人が網棚の荷物を取ろうとして、誤ってその脇にある非常レバーを引いてしまったのです。突然、列車内に大きなサイレンが鳴り響きわたりました。列車は急停車します。列車が止まったかと思ったら、車掌さんや生徒の先生たちが急いで駆け込んできました。私は困りました。その部屋には大人は私しかいないようでしたから、私が説明をしなければいけないだろうとと考えたからです。しかし、私には、事の事情は説明できません。ですから、申し訳ないのですが、自分は関係ないという顔をしていました。どうなるかとハラハラしていたのですが、なんと、その部屋にいた小学生たちが、一斉に大声で事情を説明し始めました。自分たちは、何も悪気でレバーを引いたのではなく、間違って引いたのだということを、ぺらぺらと、とめどもなく説明しているのです。先生や車掌さんになにを言われようが、負けずにきちんと主張しているようです。イタリア語だったので、余計そう思ったのかもしれませんが、どの子も、われ先にと説明をしています。そのうちに、先生は、「事情はわかった。しかし、この部屋にこんな大勢が集まることは良くないことだ。みんなは、それぞれの部屋に戻りなさい。」というようなことを言って、その場は収まりました。この光景を見ていて、日本の子どもたちは、このように説明できるだろうか。先生は、突然と怒鳴らないで、子どもたちの説明を聞くであろうか。車掌をはじめ、大人の人たちは、子どもが説明をし終わるまで、待っていてくれるだろうか。今、日本の子どもたちにコミュニケーション力が欠けてきているといわれますが、それを育てる大人の見守りが足りない気がします。どうも、最近の子どもたちに「話す力」が足りないというのは、大人たちの「聞く力」が足りないからかもしれませんね。
もし自分が話の中の小学生の立場になったらきちんと説明できるだろうかと考えました。多分この子たちのようには説明できません。この小学生たちの「話す力」はすごいと思います。
大人たちの「聞く力」が足りないかもというのは納得です。しっかりと聞いてもらった経験が話す意欲・話す力につながっていくと考えると、子どもたちの話を聞くことは大切です。同時に大人がきちんと「話す力」も持っていなければいけないと思います。しっかり聞くことができ、しっかり話すことができる。そんな大人にならなければいけないと思いました。
決して広いとは言えない列車のコンパートメントの中での子どもたちの自己主張。しかもイタリア語!わざとじゃないんだという表情を浮かべた子どもたちの顔、そしてその口からそのことを滔々と説明する姿、はたでことの成り行きを注目する日本人の藤森先生、そうした情景を想像できます。世界中の人々が集まって何かの会議等の現場に参加するという経験をたびたびしました。会が盛り上がってくると発言者のしゃべりの早いこと早いこと。自らをおしゃべり、と自認ていますが、もう私のおしゃべりの域を超えています。どこで息をつくのだろうかと思われるほど、しゃべりとおします。自説をまくし立てる、という表現がぴったりです。子どもの頃から、何であれ、自己行為の説明責任を果たす習慣が身についているイタリア人の様子を今日のブログから垣間見ることができました。フニクリフニクラやオーソレミオなどが頭の中で流れてきます。