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2006年11月30日 近頃思うこと

押しくらまんじゅう

 以前、ある取材で、子どもたちの冬の遊びには何があるか聞かれたことがありました。そのときに先方が出した例として、「たとえば、押しくらまんじゅうとか」といわれたと言われたときに、なんだか懐かしい気になりました。そういえば、今の子は、押しくらまんじゅうはしませんね。よく、寒い冬の間、体を温めるために「押しくらまんじゅう!押されて泣くな!」と大きく声を掛け、何人もの子どもたちが体を互いに押し合って、元気よく遊びました。すると、体がほかほかしてきます。この遊びは、何のルールもありません。大勢で,ひとかたまりになって,押し合いへし合い,体のぬくもりを感じ合うだけの遊びです。道具もない、場所も要らない、人がいさえすればよい遊びです。場所も、必ずしも戸外だけでなく、戸外で遊べない時期には、学校の廊下や体育館でもしました。この遊びは、全国各地で見られたものでした。今、そのような冬の子どもの風物詩はあるのでしょうか。水谷・弘田が、この遊びの様子を活写して、歌にしたものがあります。この歌詞を読むと、そのときの遊びがイメージされます。「押しくらまんぢゅう」という題名です。(水谷まさる作詞)「押しくら、まんぢゆう、ぎゆう、ぎゆう、ぎゆう。やれ押せ、そら押せ、  みんな押せ。押したら、寒さが 逃げてくぞ。押しくら、まんぢゆう、ぎゆう、ぎゆう、ぎゆう。押してりゃ、ぽかぽか、あたたかい。出來たてまんぢゆう、けむが出る。押しくら、まんじゆう、ぎゆう、ぎゆう、ぎゆう。苦しい、いたいで、飛び出すな。つぶれた、まんぢゆう、しやうがない。」今、この歌詞を読むと、電車のラッシュを思い出しますね。この歌詞から、なんで「まんじゅう」なのか、なんとなくわかります。まず、一塊になることを「団子状態」というようにまんじゅうにたとえられます。また、湯気が立ち上ります。そして、下手に押すとあんこが飛び出すように、塊から押し出されてしまいます。みんな顔を真赤にして押し出されまいと頑張ります。ギュウギュウ押されて、はみ出された子は、また端の方から押し合うのです。ほかにも、「押つけもっこ こもこ 出たやつ あぶらげ」というような歌もあるようです。おつつけもっここもこ・・・」と声を合わせて叫びながら『おつけもっこ』をはじめます。古くは、「押しくら申そ」と歌っていたものが崩れて「押しくらまんじゅう」や「押つけもっこ」になったともいわれています。
 最近、他人に触られるのを嫌がる子が多くなりました。ちょっと触られただけでも、痛いと泣く子がいます。まして、押されでもしたら大騒ぎになることもあります。最近の脳科学の研究では、乳幼児期に、お互いに体を触れ合うことは、リラックス効果があるとか、脳の人間としての大切な前頭前野を育てるといわれています。これは、昔から言う「スキンシップ」です。ですから、子どもが小さいうちは、やたらとじゃれあって遊ぶとか、一緒に転がりまわるなど自然としているのでしょうね。それが、次第に触りあう遊びが少なくなってきて、一人遊びが多くなってきました。たとえば、鬼ごっこにしても、「手つなぎ鬼」などもあまり見かけません。このルールは、鬼は,つかまえた子と手をつないで追いかけなければなりません。鬼が3人までのときは1組,4人になったら2人ずつの2組に分かれて,追いかけることができます。ですから、鬼が増えるにしたがって、挟み撃ちをするとか、作戦が必要になります。また、チームワークが必要になります。知らないうちに人とふれあい、工夫をし、協力を知るなどまさに、脳の前頭葉が発達しそうですね。

投稿者 fujimori : 22:06 | コメント (4)

2006年11月29日 散歩

玉川上水

 昨日のブログで、太宰治中期の名作『富嶽百景』のことを書きましたが、その太宰が、愛人、山崎富栄と玉川上水で入水自殺したのは1948年6月13日のことでした。太宰はそれまでに3回心中未遂をしており、これが4回目でした。最近、いじめを受けた青少年の自殺が目立ちます。どうも、自殺は、定期的に伝染していくようです。江戸時代から心中が話題になることがよくありますが、この太宰の自殺も、事件を知らせる16日の朝刊の記事の見出しには「太宰治氏情死行 愛人と玉川上水へ投身か」とあるように心中のように見えます。しかし、その記事の中の「虚無を慕いて…」というところをみると、愛人との自殺はきっかけに過ぎないようです。最近のいじめによる自殺も、確かにいじめられているつらさが原因でしょうが、それを教員への懲罰でやめさせようとするだけでなく、子どもの心に潜み始めている「虚無のこころ」にも目を向ける必要があるでしょう。
 太宰たちをのみこんだ玉川上水は当時、「人恋川」とも呼ばれるほど流れが激しく、溺れると「死体もあがらぬ魔の淵」だったそうです。今は、その流れを覆いつくさんばかりに緑がうっそうと茂り、その脇を川に沿って続く道は散歩にうってつけです。
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 今週の日曜日に、その玉川上水の脇を少し歩きました。夕方でしたので、次第に暮れていく中を、秋の終わりを感じながら歩くのは、季節を感じることができます。この玉川上水は、多摩川を水源とし東京都羽村市から新宿区四谷までを流れる用水路(上水)です。多摩川水系は現在でも東京の水源の1/3ほどを占めていて、かつては、多くが新宿区の淀橋浄水場まで送られ取水されていました。その淀橋浄水場も廃止され、今は都庁を中心とした超高層ビルが立ち並ぶ新宿副都心を構成しています。ですから、今は、大半が羽村第3堰で取水し、鉄管で東村山浄水場に送られています。玉川上水は、このあたりの人にはよく知られていますが、玉川兄弟がその工事を行いました。江戸時代、徳川幕府が永く続き、安定してくると江戸の人口はふえ、水不足が心配になりました。そこで、幕府は玉川兄弟に、多摩川から水道を引くことを命じました。兄弟は、それまでも幕府が行う土木工事などを担当してきましたが、これほどの大きな工事は初めてでした。水道を作るには、川を掘るという土木の知識が必要なことはもちろんですが、水を流すためには、多摩川と江戸の標高がどれほどあるのか、どのくらいの傾斜で川を作ればよいのか、どのような方法で傾斜を測るか、といった測量の知識が必要になります。多摩川の取り入れ口の高さと江戸の高さの差は、わずか100mほどでしたから、100m進んで、25cmほど下がる正確な川を作らなければなりませんでした。玉川兄弟は、このような正確な測量を夜中にちょうちんや火をつけた線香の束をともし、それを見とおして行ったといわれています。そんな難しい工事でしたから、何度も失敗をしています。はじめは、今の国立市の青柳から掘りだしましたが、途中で土地の高いところに掘り進み、水が流れなくなりました。2度目は今の福生市から掘りましたが、JR拝島駅の近くまできたとき、水が地面に吸い込まれ、流れなくなりました。何度もこんなんな目に会いましたが、わずか八か月で玉川上水と、そこから江戸の町々に水を引く水道工事を完成させました。兄弟の墓所は台東区内の聖徳寺にあります。ここも散歩の途中で立ち寄ったことがあります。
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投稿者 fujimori : 23:04 | コメント (2)

2006年11月28日 近頃思うこと

霊山

 私は、新幹線で関西方面に行くときには、できるだけ新幹線の席は進行方向右側の窓側を取ります。その理由のひとつは、午前中に日が当たらないからです。もうひとつの大きな理由に、窓から見える景色があります。左側は、海が見えます。しかし、大阪までの間では、熱海あたりくらいしか見ることができません。それよりも景色として魅力があるのは、窓一面に現れる「富士山」です。しかし、なかなかよい条件で富士山が見えることはできません。ですから、余計に見ようと挑戦したくなるのです。先日、京都の帰りに久しぶりにきれいな「富士山」を見ることができました。新富士の駅の辺りです。
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「富士山」という山は、不思議な山です。私の自宅からも見えるのですが、違う場所で見るとまた感動してしまうのです。時代を超えて、日本文化に大きな影響を与えてきました。それは、多数の神社・仏閣、伝説・伝承、万葉集や江戸時代の絵画・俳句、伝統的芸能・工芸等広い領域にまたがっています。最近見た復元された銭湯の壁画にも富士山が描かれていました。
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日本人であればだれでも、その姿を描くことのできる程の特別なイメージを持つ山です。また、単に美しいものとして憧れるだけでなく、霊的な存在としても感じてきました。富士山は、有史以来、「浅間大神」あるいは「木花開耶姫命」の鎮座する「神の山・信仰の山」として崇敬されてきたのです。これはアニミズムと日本独自の神道が融合した、日本文化の中においてもなお稀な例です。南麓と北麓には国の重要文化財に指定されている富士山本宮浅間大社や北口本宮浅間神社が建っていますが、これらが祀るご神体はなんと富士山そのものです。このように精神的なものを感じるためか、その姿のイメージは、実際の姿と異なる場合があります。たとえば、富士山の姿を写真にとってみると、実際に思っていたよりも小さく、そびえ立っているようには写りません。また、中学生のころ、富士山を等高線により組み立ててみると、やはりあまりそびえ立ちません。私が中学生の勉強を見ていたころ、その中学生たちと高尾山の山頂付近で富士山の写生をしました。すると、そこを通りすがったカメラを抱えた人が、私たちが書いていた絵を見ながら、「富士山の姿は、写真ではなく、絵でないと表せないんだよなあ。」とつぶやいたのを聞いて、絵を描いていた中学生たちは、なんとなく誇らしく思ったものでした。
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私が中学生といっしょに写生した富士の絵
太宰治も「富嶽百景」の書き出しでも、こんなことを言っています。「富士の頂角、広重の富士は八十五度、文晁の富士も八十四度くらゐ、けれども、陸軍の実測図によつて東西及南北に断面図を作つてみると、東西縦断は頂角、百二十四度となり、南北は百十七度である。広重、文晁に限らず、たいていの絵の富士は、鋭角である。いただきが、細く、高く、華奢である。北斎にいたつては、その頂角、ほとんど三十度くらゐ、エッフェル鉄塔のやうな富士をさへ描いてゐる。けれども、実際の富士は、鈍角も鈍角、のろくさと拡がり、東西、百二十四度、南北は百十七度、決して、秀抜の、すらと高い山ではない。」やはり、同じことを感じているのですね。そういう意味でも、不思議な山ですね。

投稿者 fujimori : 21:20 | コメント (2)

2006年11月27日 近頃思うこと

ベルギー

 今、国立西洋美術館で、「ベルギー王立美術館展」が開催されています。実は、あまり知られていませんが、ベルギーは、油彩発祥の地なのです。ヨーロッパ絵画といえば油彩画をさすことが多いのですが、これは15世紀のフランドル地方で開発された技法でした。精緻な細部描写と質感を描き分けることのできる油彩画の誕生は、ルネッサンスからバロックにかけて、イタリア絵画と並んでヨーロッパを席巻した「フランドル絵画」の基本的性格を規定することになる大きな出来事でした。その緻密な描写や豊麗な色彩は、当時のヨーロッパ中の貴族を熱中させたのです。ベルギーと絵画というと、「フランダースの犬」を思い出します。この話は、イギリスのウィーダの書いた童話ですが、物語の舞台はベルギー北部のフランダース(フランドル)地方です。しかし、原作者がイギリス人ということで、ベルギーではあまり興味はなかったそうですが、ここを訪れる日本人がやたらとその場所がどこかと問い合わせたために、今は、ネロとパトラッシュの銅像が建てられたり、アントワープ・ノートルダム大聖堂前の広場に記念碑が設置されているそうです。この話は、今でもテレビアニメの中で泣ける話としていつもベストワンにあげられるほど、とても悲しい結末で終わりますが、この結末が日本人は好きなようです。フランダース地方の小さな村に住む少年ネロは、ルーベンスのような画家になることを夢見ていました。しかし、火事の放火犯との濡れ衣を着せられ、コンクールで落選し、希望を失ったネロは、大聖堂の中に飾られたルーベンスの絵の前で愛犬パトラッシュと共に天に召されるという結末です。私の子どもは、小さかったころ、この話が嫌いでした。「なんで、お話で、わざわざ泣かなければいけないの!」と、怒っていました。自ら進んで、泣くような、悲しい体験をすることは考えられないと思っていたのでしょうね。実際に、アメリカで出版されている「フランダースの犬」では、内容に救いがなさ過ぎるとして改変が加えられています。この改変されたストーリーでは、ネロとパトラッシュは聖堂で死亡せず、ネロの父親も名乗り出てハッピーエンドを迎えることになっています。
 同じフランダース地方といえば、ここの出身であるメーテルリンクの「青い鳥」があります。この話もさまざまな解釈をされるストーリーです。よく知られているストーリーは、子ども向けなので、青い鳥を探した結果、最後には、青い鳥が身近なところで見つかったというハッピーエンドで終わっています。そこで、「幸せは身近なところにある。だから、その身近にある日々の幸せを大切にしよう」というメッセージとして解釈するのが一般的です。しかし、原作では続きがあります。もともとの原作は童話として書かれたものではなく、戯曲、つまり舞台用に書かれたものなのです。ですから、原作では違うメッセージを出しています。家にいた青い鳥も結局逃げてどこかへ行ってしまうところで話が終わります。そしてチルチルが、こんなせりふを観客に投げかけて終わります。「どなたか、もし鳥を見つけたら、ぼくたちに返していただけませんか?…いずれしあわせになるには、ぼくたちには青い鳥が必要なんですよ…」どことなく謎めいた終わりになっています。この結末は、皆さんは、どう解釈するでしょうか。

投稿者 fujimori : 21:56 | コメント (3)

2006年11月26日 新聞記事より

塔とタワー

先日、テレビで、リリー・フランキーの小説を原作にしたテレビドラマ「東京タワー ~オカンとボクと、時々、オトン~ 」が放映されました。また、まもなくテレビ放送される映画に「ALWAYS 三丁目の夕日」があります。これは、建設中の東京タワーが劇中に登場します。私は、この映画を見ましたが(ブログに書きました)徐々に高くなっていく様子が正確に描かれています。今、ちょっとした東京タワーブームです。この東京タワーは、よく映画に登場します。そして、何度でも破壊されます。モスラの幼虫は、成虫になるためにここに繭を作り、怪獣ギャオスは巣を作りました。大怪獣ガメラやゴジラに破壊され、キングコングとメカニコングの決戦場となります。京都では、24日に市域全域で建築物の高さやデザインを規制する「新たな景観政策」案を発表しました。そこでは、建造物の高さ規制が強化されます。古い建造物が残っている京都では、ぜひ制限して欲しいと思っていますが、実は、人間というものは、昔から高いものにあこがれてきました。それは、バベルの塔に代表されるように、より天に近くなるからでしょうか。日本でも、この高さ制限をより強化しようとしている京都でも、五重塔に代表されるように、高い塔を作ってきました。そして、現代になると、天に近くなるというよりは、町を見渡す場所として、あるいはそれ自体がランドマークとして、その町の個性を浮かび上がらせるための建築になりました。東京、名古屋、大阪のそれぞれの都市には、その町のシンボルとして、東京タワー、名古屋テレビ塔、通天閣というそれぞれに個性豊かなタワーが立っています。しかし、高いものを立てるとなると、その構造が問題になります。高いと、倒れやすいからです。この三つの塔は今から約50年前に、一人の人物によって設計されました。NHKのプロジェクトXでも取り上げられたことがありましたが、設計者の名は内藤多仲というひとです。地震の多い日本の耐震構造理論を躍進させた人物で、建築の中でも構造が主役となる鉄塔を数多く設計した「塔博士」です。その中で、東京タワーは、正式名称は日本電波塔といいます。設計は、この内藤多仲と日建設計株式会社が共同でしました。およそ4000トンの鋼材と鳶職人の手作業により、1957年に起工し、わずか15か月で完成したのです。この途中が映画の中で描かれているのです。24日に、東武鉄道は、東京都墨田区の本社隣接地に2011年度の開業を予定している「新東京タワー」のデザインを発表しました。
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建築家の安藤忠雄・東京大学名誉教授と彫刻家の澄川喜一・元東京芸術大学学長がデザインを監修、日建設計が設計を担当したのですが、五重塔の中心部を貫く「心柱(しんばしら)」を鉄筋コンクリートで再現し、編みかご状の鉄骨が曲線状に周囲を取り巻く構造になっています。五重塔の構造を取り入れて耐震性・耐風性を高めるとともに、緩やかな曲線の外観で日本の伝統建築をイメージしたそうです。聖徳宗の総本山である法隆寺は、金堂や五重塔をはじめ現存する木造建築では世界最古といわれる建造物がいらかを並べています。その中で、五重塔は、木造塔として日本最古のもので、1300年以上もの間 幾多に及ぶ風雪、震災に耐え抜いて今もなお厳然と建つその姿は、工匠達の知恵と技術そして日本仏教の信念と情熱の結晶です。心柱は塔の構造とは独立していて、相輪を支えるためにのみ存在しています。結局は、昔の人の知恵に戻るのかもしれません。

投稿者 fujimori : 18:43 | コメント (4)

2006年11月25日 近頃思うこと

幼児教育

1872年に「学制」が定められて、それまで寺子屋などで勉強していた子どもたちは、その前後から、学校で学ぶようになりました。その学校は「幼稚園」、「小学校」、「中学校」と分かれていきます。学制には、幼稚小学の規定というものがもりこまれましたが、最初はどこも開校しませんでした。それが、明治8(1875)年12月に、京都府立第三十区柳池小学校の片隅を借りて開設した幼稚遊嬉場が、日本における初めての幼児教育です。以前のブログで、小学校発祥の地を書きましたが、そこと同じ場所にあり、その場所に昨日行っていました。
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しかし,この幼稚遊嬉場は、その時代としては幼児教育についての一般認識がまだ浅い段階であったために,約1年半で閉園されてしまいました。それが、昭和4(1929)年5月には改めて開園され,平成8年3月に閉園となり、ここにある石標は、その柳池幼稚園の跡を示すものです。しかし、では、それまでは幼児教育というものはなかったかというと、たぶん寺子屋の中に、幼児にたいしても教育を行っていたのでしょう。寺子屋は、造りにしても、今の時代の先端を行くようなものだったようですが、幼少一貫という点でも行われていたようです。それが明治に入って、京都の鴨東幼稚園、柳池幼穉遊戯場のような「子守学校」となり、さらに中村正直や関信三の肝入りで、東京女子市販学校(お茶の水女子大)の付属施設として本格化していったのです。当然、明治初期の幼稚園は、エリートの幼稚園でした。しかし、保育内容は、日本ではそれまでは、きちんと構築されていなかったために、たとえば「おなはし」「おゆうぎ」などをフレーベル譲りのもの、あるいはアメリカ幼児教育家譲りのものというように、また、「口演童話家」が活躍したような“桃太郎主義”ともいうべき独特の幼児教育精神が育まれていき、社会の動き同様に幼稚園の方針までもが「和魂洋才」だったのです。それを少しずつ日本の子どもたちの実情にあったものに変えていく努力がなされていったのです。そのようにいつの時代でも、子どもたちのために、その時代にあった、日本独特の形に変えていっています。しかし、安定してくると、なかなか変えようとしなくなります。しかも、子どもの情緒の安定のためというより、経営者の安定、保護者の安定を求めてしまい、かえって、子どもたちが不安になってしまっていくことが多い気がします。昨日のブログではありませんが、私は、もう少し、大人が子どもとの共生を考え、子どもが自然との共生の中で生活がしていけるような社会を作りたいと思います。橋詰せみ郎という不思議な名をもつジャーナリストを経験した人物がつくりあげた大阪の「家なき幼稚園」の園歌は、橋詰が作詞して山田耕筰が作曲したのですが、こんな歌詞です。「天地のあいだが おへやです 山と川とが お庭です みなみな愉快に 遊びましょう 大きな声で うたいましょう わたしがへやは 大きいな わたしが庭は ひィろいな 町の子どもは 気のどくな お籠のなかの 鳥のよう」自然との共生が感じられますね。私が作詞した園の「園歌」の歌詞は、やはり、そんな気持ちを歌っています。今歌っているのは、歌詞の「町」の部分を「園の名前」に変えていますが、もとは、このような歌詞です。「風と走ろう ぼくらの町で 光と踊ろう 私の町で みんなで声を掛け合えば、風と光が飛び交うよ 空を仰ごう ぼくらの町で 虹を渡ろう 私の町で みんなでいっしょに駆け出せば 空の虹も笑ってる 夢を探そう ぼくらの町で 愛を語ろう 私の町で みんなの夢を集めれば 愛のあふれる町になる」自然の中で、町の中で育つ子どもたちであって欲しいと思います。

投稿者 fujimori : 19:23 | コメント (3)

2006年11月24日 近頃思うこと

一葉

 紅葉がきれいだと眺めているうちに、葉が少しずつ散り始め、園に向かう街路樹の「ユリノキ」はもうすっかり葉を落としてしまっています。園庭にも、1本の大きなユリノキがあるのですが、私の部屋の窓から眺めてみると、なんと小さな葉っぱが揺らいでいます。
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今日はとても風が強いので、いつ吹き飛ばされるか、冷や冷やしながら見ていました。もちろん、いつかは散ってしまうのでしょうが、なんだか、1枚だけが必死で頑張っていると、気になり、何度でも「まだあるか」と見てしまいます。幸いと、今日は出かけるまでは散らないで頑張っていました。9月に職員みんなで訪れた神戸の「阪神淡路震災記念館 人と防災未来センター」には、「防災未来館」と「ひと未来館」があり、その「ひと未来館」では、「こころのシアター」といって、「いのち」へのいつくしみや生きる勇気を、葉っぱの「フレディ」を通して臨場感たっぷりに描き出していました。このフレディは、ユリノキの葉っぱです。「葉っぱのフレディ」という絵本は、1999年のころ、新聞などに紹介され、ブームになり、森繁久彌の朗読で、CDが発売されたり、劇やミュージカルとして上演されたりしているものです。「葉っぱのフレディいのちの旅」と題される絵本は、アメリカの著名な哲学者レオ・バスカーリア博士が「いのち」について子どもたちに書いた生涯でただ一冊の絵本です。内容は、「大きな木の太い枝で春に生まれたフレディは、数えきれないほどの葉っぱにとりまかれていました。はじめは、葉っぱはどれも自分と同じ形をしていると思っていましたが、やがてひとつとして同じ葉っぱはないことに気がつきます。フレディは親友で物知りのダニエルから、いろいろなことを教わります。自分達が木の葉っぱだということ、めぐりめぐる季節のこと...フレディは夏の間、気持ちよく、楽しく過ごしました。遅くまで遊んだり、人間のために涼しい木陰をつくってあげたり。秋が来ると、緑色の葉っぱたちは一気に紅葉しました。みなそれぞれ違う色に色づいていきます。そして冬。とうとう葉っぱが死ぬときがきます。死ぬとはどういうことなのか...ダニエルはフレディに、いのちについて説きます。「いつかは死ぬさ。でも”いのち”は永遠に生きているのだよ。」フレディは自分が生きてきた意味について考えます。「ねえダニエル。ぼくは生まれてきてよかったのだろうか。」そして最後の葉っぱとなったフレディは、地面に降り、ねむりにつきます。」というものです。
同じように、1枚の葉から、生きるということを書いた小説に、オー・ヘンリー作の「最後の一枚の葉」(The Last Leaf)があります。この葉は、つたの葉ですが、ストーリーは、誰でも学校で習ったと思いますし、今は、著作権が切れたので、ネットでも読むことができます。「患う女性主人公が窓から見える落葉に死を重ねます。しかし、窓から見える一枚の葉が冬の嵐に耐え、主人公は生への勇気を得ます。が、葉は知人の老画家が描いた絵で、それを描いた老人は死んでしまいます。」というものです。そのなかで、自殺が多い今、心に響く言葉がいくつかあります。「その見込みはあの子が『生きたい』と思うかどうかにかかっている。こんな風に葬儀屋の側につこうとしてたら、どんな薬でもばかばかしいものになってしまう。」「わたしが何て悪いことを思っていたか教えてくれたのね。死にたいと願うのは、罪なんだわ。」自殺をしようとする子が、「冬にはどんな外套の袖が流行るのか、なんて質問をさせることができるなら、望みは十に一つから五に一つになるって請け合うんだがね」とあるように、どんな些細なことにでも希望とか、夢を持ってくれたらと思います。

投稿者 fujimori : 22:45 | コメント (4)

2006年11月23日 近頃思うこと

自然との共生

 昨日は、来年4月に開園する園の建物の引渡しが行われました。先日、この園を見に来たときに、思いがけない生き物と出会いました。園のベランダに出て、隣の家の庭を見ていたら、なんとその裏の公園から狸が2匹顔を出しました。たぶんつがいでしょう。じっとこちらを見ています。私が見ていることに気がつかないで出てきたのではなく、私を見に出てきた様子で、私がじっと見ていても逃げもせず、じっとこちらを見ているのです。挨拶に来たのでしょう。ここは、新宿です。新宿で園を開園するというと、「大変ですね。夜の仕事の人が多くて。」というように歌舞伎町を思い出す人が多いのですが、まだ、狸が出るところもあるのです。どうも、私の園は、狸と縁があるようです。今の園は、多摩ニュータウンにあるのですが、ここは、先日テレビで放送していましたが、「平成狸合戦ぽんぽこ」の舞台となっているところです。これは、スタジオジブリ制作の劇場アニメ作品です。開発が進む多摩ニュータウンを舞台に、その一帯の狸が化学(ばけがく)を駆使して人間に対し抵抗を試みる様子を描いた作品です。「スタジオジブリ」の名称は、サハラ砂漠に吹く熱風(ghibli)に由来しており、宮崎駿監督が命名したそうです。この映画のテーマは、ジブリの共通テーマである「自然との共生」です。私が、今の園を開園してまもなく講演依頼が徳島県小松島市から来ました。この市は、有名な金長狸の故郷であり、市内には、金長神社が祀られるほか、たぬき広場に、狸小路、市内を走るたぬきバスなどありました。この金長狸が、「平成狸合戦ぽんぽこ」のアニメの中で、開発を阻止するために、小松島から多磨ニュータウンに助っ人に来るのです。しかし、人間による開発は阻止することはできませんでした。そこで、昼間は人間の姿をして働き、夜にもとの狸の姿に戻り、広場でみんな集まって狸踊りをするところでこのアニメは終わりになります。しかし、現実は続きがあります。そのときに立てられたマンション群が、最近、耐震構造ではないことがわかり取り壊されるということで大騒ぎになっています。自然を征服しようとしても、結局は人間の知恵では無理のようです。かつての里山のように自然との共生を考えていかなければいけないのでしょう。最近、人里に熊が出没して問題になっています。先日、テレビで、どうしてかを解説していました。熊が住んでいる林を開墾して、人間が住み始めたとき、その家の周りに田畑を作りました。すると、林と人家の間に田畑が広がります。すると、熊は、この田畑を横切ると姿が丸見えになるので、そこから先の人家のところまでは出てこないのです。しかし、最近、田畑では作物を作らなくなり、そのまま放ったかされるところが多くなりました。すると、草が伸び放題になり、熊は姿をさらすことなく人家のところに出てくることができます。人家のあたりは美味しい食べ物があるので、そこまで出てくるようになったといいます。熊が出てきて困るといっても、結局は人間が出てくるような環境にしてしまい、共生する里山を壊してきている結果なのです。先日、新宿の園の保護者との懇談会の中で、「新しい園では、小動物はどんなものを飼うつもりですか?」と聞かれたときに、「裏山に住んでいる狸を保護するつもりです。」と答えました。子どもたちには、生き物を飼うよりも、自然との共生を教えていきたいと思っています。それが、都心の新宿でもやれるとは、うれしいですね。

投稿者 fujimori : 20:44 | コメント (3)

2006年11月22日 近頃思うこと

やめてほしいもの

 人には、それがよくないことだと頭の中ではわかっていても、なかなかやめられないものがあります。それが、本当によくないことであり、人に大きな危害を加える恐れがある場合には、法律によって規制します。そうなったら、なにがなんでもそれを破るのはいけないことですし、それをやることに対してどんな理由もつけることはできません。たとえば、最近の「飲酒運転」などはそうですね。これは、どうしてもやめられないと言っている場合ではありません。しかし、法律で規制するほどでもないけれど、やめて欲しいことがあります。また、本人も本当はやめたほうがいいと思っているのですが、やめられないものがあります。これは、世界で共通なようです。大人にとって、その代表的なものに「喫煙」があります。これは、健康を害するとか、家族や周りの人を危険にさらしているということを何度言ってもなかなか吸う人が減りません。いっそ、法律で規制すればいいと思いますが、今の段階では、難しいようです。各国でさまざまな警告を出していますが、効果が上がらないので、こんな手を考えた国があります。ニュージーランでの学者グループが、タバコによる健康被害を防ぐため、タバコの販売価格の段階的引き上げなどを盛り込んだ対策提案を発表しました。政府もこの提案を評価しており、有効性の検討が行われる可能性が強いようです。提案によると、タバコの外装は、健康被害を盛り込んだ警告文だけのシンプルなものとし、価格の引き上げによる増収分を、子どもの喫煙防止やタバコによる健康被害の削減などに充てるようです。ニュージーランドでは毎年、タバコによる健康被害が原因で約5000人が死亡しているとされ、がん死の4分の1を占めています。これまでもタバコ税の引き上げや禁煙エリアの拡大、禁煙セラピーへの補助などの対策がとられてきましたが、対策を強化するということで今回の提案になったのです。現在、ニュージーランドのタバコの値段はダンヒルスーパーマイルド1箱(20本入り)が約815円しています。日本と比べると、かなり高いですね。それを、更なる値上げでタバコ離れを狙っています。どうでしょうか。
 また、子どもの世界でなかなかやめられないもののひとつに「夜更かし」があります。睡眠時間の減少です。イギリスでは、子どもの肥満原因は、寝不足との研究結果を報告しました。イギリスのブリストル大学での研究結果は、子どもたちがゲーム機などに熱中するあまりに寝不足に陥り、それがこうして肥満の原因になっているといっています。その結果が、最近専門雑誌に発表され、イギリスの若い親たちに衝撃を与えています。それによると、子どもたちの睡眠時間が短くなると身体を動かすことが億劫になるので、運動量が減り身体の新陳代謝も急速に低下します。しかもそこにテレビゲームに熱中して間食したりすると肥満になりやすい、そればかりか子どもでも糖尿病や心臓疾患も出てくるといっています。同大学のタヘリ博士は、子どもの寝不足は学校のいじめやストレスなどで眠れないのではなく、子ども部屋でのテレビやコンピューターでのゲームへの熱中などが原因で、親がゲーム機などを取り上げるべきだと忠告しています。
どの国でも、やめて欲しいものに対してやめてもらうには、脅しなどの手を使おうとしますが、これらは、決して本人のためだけではありません。喫煙や夜更かしは、将来の医療費の増加や、労働人口の減少など、ほかの人の生活を脅かす可能性があるのやめてほしいものです。

投稿者 fujimori : 22:35 | コメント (3)

2006年11月21日 近頃思うこと

主張

 何年か前に、念願だった「ボローニャ児童図書展」に行ったことがありました。(何度かブログに書きました)このボローニャは、イタリアの都市です。私は、ある出版社の編集委員として参加させてもらったので、4日間の開催日は出入り自由でしたが、4日間もいても仕方ないので、その期間中、1日はフィレンツェに、もう1日はベニスに行きました。私は英語も満足に話せないのですが、ましてイタリア語などまったくわかりません。それなのに、イタリアの人はほとんど英語を話しませんので、この小旅行は、冒険でした。しかし、かろうじて、そのころよく歌っていた「ひとりとひとりが うでくめば…」という歌の最後の掛け声に「ウノ ドス!」というのがあったので、なんとか「ピッツァ、オニオン、ウノ!」と言って、食事は頼むことができました。しかし、ベニスに向かう列車の中で、事件が起こりました。外国の列車は、よく映画にも出てきますが、座席は数人ずつの個室になっています。私が座っていた個室には、社会科見学に行くらしい小学生が乗り合わせていました。そのうちの何人かが私に話しかけてきました。もちろん、ほとんどなにを言っているかわかりませんでしたが、そのうちの一人の子が片言の英語を話せたので、何とか会話をしました。すると、私が日本人だということを知って、とても興味を持っていろいろと聞いてきました。そして、他の個室にいる子たちもそれを聞いて私の個室に集まってきました。もう部屋ははちきれそうです。すると、そのうちの一人が網棚の荷物を取ろうとして、誤ってその脇にある非常レバーを引いてしまったのです。突然、列車内に大きなサイレンが鳴り響きわたりました。列車は急停車します。列車が止まったかと思ったら、車掌さんや生徒の先生たちが急いで駆け込んできました。私は困りました。その部屋には大人は私しかいないようでしたから、私が説明をしなければいけないだろうとと考えたからです。しかし、私には、事の事情は説明できません。ですから、申し訳ないのですが、自分は関係ないという顔をしていました。どうなるかとハラハラしていたのですが、なんと、その部屋にいた小学生たちが、一斉に大声で事情を説明し始めました。自分たちは、何も悪気でレバーを引いたのではなく、間違って引いたのだということを、ぺらぺらと、とめどもなく説明しているのです。先生や車掌さんになにを言われようが、負けずにきちんと主張しているようです。イタリア語だったので、余計そう思ったのかもしれませんが、どの子も、われ先にと説明をしています。そのうちに、先生は、「事情はわかった。しかし、この部屋にこんな大勢が集まることは良くないことだ。みんなは、それぞれの部屋に戻りなさい。」というようなことを言って、その場は収まりました。この光景を見ていて、日本の子どもたちは、このように説明できるだろうか。先生は、突然と怒鳴らないで、子どもたちの説明を聞くであろうか。車掌をはじめ、大人の人たちは、子どもが説明をし終わるまで、待っていてくれるだろうか。今、日本の子どもたちにコミュニケーション力が欠けてきているといわれますが、それを育てる大人の見守りが足りない気がします。どうも、最近の子どもたちに「話す力」が足りないというのは、大人たちの「聞く力」が足りないからかもしれませんね。

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2006年11月20日 近頃思うこと

裾模様

広島県廿日市市吉和のウッドワン美術館に行きました。この美術館は、平成8年に木質建材メーカーである株式会社ウッドワン(旧 住建産業)の所蔵する美術品約800点が展示されています。場所は、標高600mの高地の広島県北西部の西中国山地に位置し、原生林の残る自然豊かな好環境にあります。森林・小川・澄んだ空気の中で、周りを見渡すと、その所蔵品である絵画よりも美しいかと思われるほどの山々が見えます。このあたりの山は、広葉樹が多いことと、その種類がさまざまなので、紅葉の濃淡があり、それが夕日に映えてとても美しい姿を見せています。麓のほうは色の濃いかえでの木があり、それが山の裾の模様に見えます。近くに流れる川には、その赤いもみじの葉や、黄色く色づいた葉が浮かんでいます。という情景は、まさに4年音楽の歌唱教材にある「もみじ」(文部省唱歌・高野辰之 作詞)の歌詞そのものです。
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(1)秋の夕日に 照る山紅葉 濃いも薄いも 数ある中に 松をいろどる 楓や蔦は 山のふもとの 裾模様
(2) 渓の流れに 散り浮く紅葉 波に揺られて 離れて寄って 赤や黄色の 色さまざまに 水の上にも 織る錦
この歌は、1911年、『尋常小学校唱歌(ニ)』に発表された歌ですが、歌詞は、高野さんは、今は廃線になってしまった信越本線の碓氷峠の熊ノ平駅から眺めた紅葉の美しさをきっかけに作ったそうです。1番は、遠くから紅葉の山を見た様子が詠われていますが、2番では、もっと、もみじに近寄って、渓流にもみじが散って、それが流れている様子を詠っています。山の景色を裾模様に見立て、川に浮かぶもみじを錦に織られた模様と見立てています。昨日は、昨年のブログにも書きましたが、八王子市で「いちょう祭り」が行われていました。もみじと違って、いちょうは、美しい黄色い色を見せてくれます。先日行った「昭和記念公園」にも、ちょっとまだ緑の葉が多かったのですが、銀杏並木が続いていました。
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万葉集の歌に詠まれる「もみじ」は、漢字で書くと「黄葉」と書かれているものが圧倒的で、「紅葉」はごくわずかです。その理由として、「奈良時代には黄色く色づくものが注目されたためだ」、という説がありますが、否定的な説もあります。黄葉(もみち)を詠んだ歌は100首を越え、「万葉集」には76首あるなかで、紅葉を詠んだものは6首だけです。つまり、この時代は、黄色の葉の方が好まれていたようですが、赤い色はとてもいきれいだと思うのですが。先日、津和野で、「にしきぎ」という木を見つけました。
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今の時期、この木は、真っ赤に紅葉しています。この木は、秋の紅葉が美しいことから漢字で書くと、「錦木」と書きます。また、晩秋に赤い実をつけた姿は風情があり、野鳥たちも好んでこの実をついばみにやって来ますが、やはり、なんと言っても葉の赤くなった様子が好まれるようです。また、山錦木(やまにしきぎ)は、真弓(まゆみ)壇とも書きます。樹質は硬いが柔軟性があるので、昔この木で弓を作った事から「真弓」になったそうです。赤や黄色の美しい秋ですが、こんな小宇宙を表現したものに、「盆栽」の世界があります。やはり、昭和記念公園で、秋の盆栽展が開催されていました。ここは、1年中盆栽が展示されている場所ですが、その季節ごとに展示が変わり、今は、見事に日本の秋の風景を表現しています。
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2006年11月19日 近頃思うこと

プロキオン

 先日、羽田空港で滑走路を眺めていると、そこに待機している飛行機の前の方に小さな犬の絵と「Procyon」という文字が書かれていました。
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 「B777」シリーズという、ボーイング社の最新鋭機があります。JALでは、このB777シリーズに「スタージェット」という別名がつけられており、1機ずつに星の名前が付けられています。例えば、「シリウス」「べガ」「アルタイル」「ぺテルギウス」「プロキオン」などあるそうです。これらの名前は「STAR JET」と共に航空機材の横にプリントされています。ですから、もちろん「Procyon」は、そばの絵にあるように、こいぬ座α星の「プロキオン」のことです。この星は、おおいぬ座のシリウス、オリオン座のベテルギウスとともに冬の大三角形を形成しており、冬の代表的な星です。この星は、太陽との距離が11.4光年しかなく、1等星としてはシリウスに次いで近い恒星です。その大きさは、太陽の1.86倍もあります。この星の名前の「プロキオン」とは、「プロ」という「前に」という言葉に、ギリシャ語で「犬」という意味の「キオン」がついたものです。ということで、プロキオンとは「犬の前」という意味で、おおいぬ座のシリウスに先駆けて東の空から昇ってくるということです。おうし座のある恒星のアルデバランという名前は、アラビア語のアル・ダバランに由来していますが、これは、「後に続くもの」という意味であり、アルデバランが東の地平線から昇ってくるときに、プレアデス星団の後に続いて昇ってくることからその名前がつけられています。日本でも、後星(あとぼし)、統星の後星(すばるのあとぼし)と呼ばれています。プロキオンとは、その逆の意味ですね。このプロキオンに続いて上ってくるのが、おおいぬ座の「シリウス」です。シリウスは白色でギラギラと輝いて見えますが、全天で最も明るい-1.4等星の恒星です。普通の1等星よりも2ランク以上等級が明るいので、他の1等星と比べてみてもすぐにシリウスだとわかります。シリウスは、ギリシャ語で「焼き焦がすもの」という意味です。この星が明るいのは、質量が太陽の2倍、直径が1.7倍、明るさが40倍というだけでなく、シリウスまでの距離は8.6光年しかなく、非常に地球に近い恒星だからです。しかし、誕生してから数億年しか経っていない若い星ですが、今後5億年以内に燃え尽きてしまうのだそうです。(太陽の寿命はあと50億年といわれています)
 この「おおいぬ座」「こいぬ座」の二つの星の神話はいろいろありますが、最も一般的には、おおいぬ座はオリオンの猟犬で、オリオンがこの犬を連れてウサギ(うさぎ座)を追いかけているところとか、あるいは、雄牛(おうし座)を追いかけているといわれています。ローマ神話では、おおいぬ座はエウロパの番犬でしたが、大神ユピテルがエウロパ(ギリシア神話ではエウロペ)を誘拐するのを防がなかった功績を称えて、ユピテルにより星座にされたといわれています。「こいぬ座」のほうは、残酷な話です。アクタイオンが、猟犬メランボスを連れて狩りをしていたところ、泉で狩りの女神アルテミスが水浴びをしているのを目にしました。自分の裸を見られて怒ったアルテミスは、アクタイオンをシカの姿に変えてしまったのです。それが自分の主人の姿だとは知らない猟犬メランボスは、アクタイオンをかみ殺してしまいました。この猟犬メランボスの姿が「こいぬ座」です。冬は、星座が見つけやすいので、子どもに星の世界を教えるのにはよい季節かもしれません。

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2006年11月18日 講演先にて

鹿

 昨日の夜は、六日市町のログキャビンを貸切りにして、園長ほか有志で、懇親会を開いてもらいました。そのログでは、囲炉裏を囲んで、「鹿肉」の焼肉をご馳走になりました。他にも猪の肉や鴨肉を食べたのですが、特に鹿肉はとても肉が柔らかく、美味しい肉でした。そういえば、ここ六日市町は、「島根県鹿足郡(かのあしぐん)」です。「鹿の足」と書くのです。どうしてそんな名前がついたか、地元の人に聞けばよかったのですが、たぶん、鹿が多く住んでいたのでしょう。そういえば、車で走っていると、近くには、「鹿野町」という町もありました。ここは、都濃郡にありますが、やはりこのあたりは鹿が多いのだと思いました。そういえば、鹿児島の名の由来は、野生の鹿の子が多く生息していたからと説があります。しかし、意外なことがわかりました。この鹿足郡は、島根県の西の端に位置し、日原町、津和野町、六日市町、柿木村の3町1村からなる山間地です。鹿足郡というのは聞いたことがなかったのですが、あの有名な、「つわぶきの生い茂る野」をその名のルーツにもつといわれる津和野があるのです。
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今日の午前中に案内してもらった津和野には、時期的には終わってしまっていますが、つわぶきの黄色い花がその名残をとどめていました。鯉のいる堀のあるこの町を歩いていると、なんとなくあることを思い出します。戦国時代末期、亀井武蔵守茲矩が鳥取県の鹿野城主となり、戦乱を乗り越えながら築き上げた小さな城下町が、鳥取県鹿野なのです。しかし、その町づくりはすぐに終わってしまいます。それは、2代目である政矩が、この津和野へお国替えとなったのです。なんだか、この島根県にある鹿野町に関連がありそうです。それをさかのぼると、さらに「鹿」つながりが見えてきます。島根県の月山の麓に、尼子氏の重臣の子として「山中鹿之助」という人が生まれます。尼子氏は、そのころ飛ぶ鳥を落とす勢いの毛利軍によって次々に支城を攻略され、ついに、白鹿城(島根県松江市)に落ちますが、ついに落城してしまいます。この城にも「鹿」がついていますね。そのとき何とか生き延びた鹿之助が、尼子氏の再興を三日月祈ったのが、講談などでよく知られている逸話で、「願わくば、我に七難八苦を与えたまえ」というものです。この尼子氏の家臣の娘の子が、鹿野城主であった亀井茲矩なのです。話は少しずれますが、この亀井茲矩の子孫が衆議院議員亀井久興で、兄・吉助の子孫が衆議院議員亀井静香だそうです。というのは、どうでもいいのですが、なんと、島根県生まれの「山中鹿之助」の仕えていた尼子氏が滅びたのが「白鹿城」で、そのあとその家臣の娘の子が鳥取県「鹿野城」城主になり、その子が津和野城に移り、そこが、「鹿足郡」であり、近くに同じ「鹿野町」という名前の町がある、となると、ただ、鹿が多いからとはいえない気がしますね。これらは、まったく関係がないかもしれませんが、鹿の肉を食べたことから、このように次々に妄想を膨らませていくことが歴史の面白さかもしれません。世界史の未履修で問題になっていますが、もし、歴史をこのように次々に関係付けていくというロマンを学ぶことだとすれば、未履修のほうが損をすると思いますが、今の議論は、しかたなく世界史を学んだ学生のほうが損をしたと思われています。学問は、損得だけですることではないと思うのですが。

投稿者 fujimori : 23:53 | コメント (4)

2006年11月17日 近頃思うこと

晩秋

 日本という国は、季節の変わり目ごとにつくづくいい国だと思いますね。あまり広くない国土の中でも、それぞれの地方独特の気候があり、季節ごとの変化があるのです。私が、大学のときに、卒論でなぜ「学校建築」をテーマにしたかというと、列車に乗って窓から外を眺めていても、飛行機から下界を見ても、すぐにわかる建物が、学校だったので、それはおかしいと思ったことがひとつの理由でした。しかも、小、中、高校の区別もわかりやすいです。建物もわかりやすいのですが、その建物に付属している施設(体育館、校庭、プールなど)や設置されている遊具(鉄棒、サッカーゴールポストなど)は、日本中どこに行っても、ほぼ同じです。外国に行くと、どれが学校かわからないほど町に溶け込んでいます。それは、設計の意図だけでなく、町なかでは、たぶんセキュリティーの問題から、なるべく目立たないようにしているか、地方に行くと、校庭が芝生になっていて、その周りには柵がめぐらされていないため、公園のように見えるからです。日本では、こんなに地域による季節感も違うのに、どこでも同じというのはおかしいですね。確か、明治時代に文部省が学校建築の統一モデルを出したときに、北側廊下、南側教室としたら、宮崎県から南に教室なんか置いたら、暑くて授業などできないのではないかという苦情が来たのですが、いや、全国は統一するものだということで押し切られたと聞いています。この考え方が、もしかしたら、今の「いじめ」につながっているのかもしれませんね。
今頃の季節、晩秋の十一月は、冬の訪れを感じさせる冷たい雨が降り、弱い木枯らしが吹きはじめます。しかし、それもすぐにおさまり、また、柔らかい日ざしがさしこむ暖かい日が二、三日続きます。このような日を昔から私たちは「小春日和(こはるびより)」と呼んでいます。なんとなく、ほんのりと暖かなイメージがあり、心が癒され、日本語の表現力のすばらしさを感じますね。最近、テレビコマーシャルでも「小春日和は、春の日のことではありません!」というのをやっていますが、「小春」とは旧暦十月の呼び名です。今の暦で言えば十一月から十二月のはじめごろにあたります。明日は、冷たい雨が降るようですが、今日のような天気のことを言うのでしょう。(東京では)小春日和の天気をもたらしているのは移動性高気圧といって、大陸の気団(揚子江気団)が日本の上空を吹く西風にのって、日本列島をおおうことが原因です。ただ、このよい天気は長続きせず、そのあとに続く低気圧のために冬の前ぶれの冷たい雨が降り、弱い木枯らしが吹きます。このくりかえしで季節はだんだんと冬に向かうのです。実はこれと同じ移動性高気圧におおわれる天気は、春にもあります。春の場合はお花見日和の天気や五月晴れの天気をもたらします。この小春日和というなんだかあいまいのような気候は、いかにも日本らしいのですが、実は、日本だけでなく中緯度の国や地方にも同じようにあるそうです。それぞれの地方でも、やはり、このような天気には、独特の名前がついています。アメリカでは「インディアンの夏」、ドイツでは「おばあちゃんの夏」とか呼んでいて、春ではなく必ず夏ということばがつきます。日本は海で囲まれていて湿度が高い日が多いのにたいして、アメリカやドイツでは乾燥した、からっとした天気になるので春よりは夏というイメージがあるようです。なんといっても、小さい春という表現がやはり好きです。

投稿者 fujimori : 18:43 | コメント (3)

2006年11月16日 近頃思うこと

便利

 昨日、新宿から高田馬場まではJRの山手線で行ったのですが、新宿までは、京王線です。東京には、さまざまな電鉄会社があります。そして、それぞれの路線には、速さの違うさまざまな種類の電車が走っています。しかし、速さが違うというのは、スピードが違うということではなく、止まる駅が違うので、よく知らないと、乗るときに厄介です。おなじJRでも、路線によって違います。たとえば、東京駅から高尾駅まで走っている「中央線」だけでも、いろいろな種類があります。「中央ライナー」は、東京・新宿~高尾間、「青梅ライナー」は、東京~青梅間を結ぶホームライナーで、ライナー券が必要です。「通勤特快」は、平日朝のみの運転で東京行のみの設定です。料金不要の列車では最も停車駅が少ない電車です。略称「通特」と呼びます。そして、「中央特快・青梅特快」は、いわゆる特別快速であり、略称「特快」といいます。「通勤快速」は、平日夕方から夜間下りのみ、特快に代わって運転されています。「快速」は、中央快速線の基本列車です。そして、「各駅停車」と呼ばれているものは、早朝と深夜は、三鷹から御茶ノ水まで並行して走っている総武線との直通運転がないため、快速線の電車が各駅停車として運行されます。この路線で走っている中央本線の定期列車として、特急「スーパーあずさ」「あずさ」「かいじ」があります。特急は、特急券が要ります。これらの電車が、どの駅でどの電車に接続し、どの電車に抜かれ、どの電車が一番早く着くかを考えます。当然、私は、よく乗るので、一番早く行くのには、なにに乗って、どこでなにに乗り換えて、どれに乗っていけばよいかわかります。また、少し時間があるときは、なにに乗ればよいか、楽に行くには、座っていくには、乗換えが少ない場合はといろいろと行くときに考えます。しかし、昨日は、全国から園に見学者が50名くらい来たのですが、地方から来ると、きっと、どの電車に乗ったらいいか迷うでしょうね。それは、JRにこれだけの種類の電車があるだけでなく、ほかの会社の路線では、呼び方も、乗る列車によって料金が違う場合があるからです。私も、地方に行くと、特急などに乗るときに、別に料金がいるのか迷います。また、その列車は、行き先の駅に止まるのか心配になります。たとえば、いつも乗る「京王線」では、「特急」「準特急」「急行」「通勤快速」「快速」「各駅停車」があり、すべて、特別料金はありません。そして、下り電車は、途中から、行き先が3路線に分かれますし、上り電車は、都営地下鉄に乗り入れているのです。普段は、何気なく乗っていますが、いろいろな選択肢がありますね。ほかの会社の路線でも、さまざまな呼び方があります。小田急では、「特急ロマンスカー」は特急券がいりますが、ほかにも「快速急行」「急行」「多磨急行」「準急」「区間準急」「各駅停車」があります。羽田空港に行くときに乗る京浜急行では、「快特」「特急」「急行」「普通」とあり、いつも乗っている京王線のイメージで、一番早いのは特急かと思ってしまいます。また、西武線は、乗りなれていないとややこしいです。というのは、西武新宿と西武池袋線があり、その路線が途中でクロスするのです。また、種類も、西武新宿線では、「特急レッドアロー号」「快速急行」「急行」「通勤急行」「準急」「各駅停車」ですが、西武池袋線では、そのほかに、「快速」「通勤急行」「通勤準急」があり、有楽町線直通もあります。たぶん、これらがあると早く目的地に着くことができたり、混雑が緩和したりするのでしょうが、皆さんのコメントではありませんが、便利になることが、ゆとりを生むのではなく、ゆとりをなくしている気がします。

投稿者 fujimori : 22:06 | コメント (2)

2006年11月15日 近頃思うこと

山手線

 今日、園から高田馬場駅まで行きました。そのときに乗っていく交通路線は、南大沢駅から京王線で新宿まで行き、新宿からJRの山手線に乗り換えて高田馬場駅まで行きます。山手線は、列車の速さによる区別はありません。みんな、各駅停車です。ただ、山手線に乗るときにややこしいのは、山手線では環状運転のために、上りとか下りとかは言いません。その代わりに「外回り」「内回り」といいます。複線のうち、環状線の外側の線路を時計回りに運行するものが外回りと呼びます。たとえば、新宿から池袋に行き、上野から東京、品川、渋谷と回って新宿に戻るルートです。逆に、内側の線路を反時計回りに運行するものを内回りと呼びます。なれないとややこしいかもしれません。あと、よく間違えるのが、山手線内の田端駅から品川駅までの間は、京浜東北線と並行して走っており、その間は、複々線として機能しています。このうち田端から田町間では、方向別配線となっており、同じホームで、反対側(京浜東北線が外側で、山手線が内側)に行くことでお互いの路線に乗り換えることができます。呼び方も、元来は「やまのてせん」だったのですが、私が子どものころは、山手線を「やまてせん」と言っていました。それは、戦後GHQの命令に従い、各路線名にローマ字を併記した際に、山手線に「YAMATE」とローマ字を振ってしまったため、「やまてせん」という読み方が一般に定着し、「やまのてせん」という読み方は死語となっていました。しかし、群馬県内の吾妻線(あがつません)が開通するときに、この吾妻線を「あづません」と読まれないようにするため、国鉄では全路線の線路名称にふりがなを付することを決定し、山手線には「やまのてせん」というふりがなを振ったのです。それは、国鉄当局が、線名の由来・発祥からして、「やまのてせん」の方が伝統的に正しいこと、もう一つの理由として、根岸線に山手駅(やまてえき)が存在しており、混同を避けるために「やまのてせん」にしたのです。今日、この山手線に乗るときに、ホームにあがるとちょうど止まっていたのですが、急いで飛び乗ると危険だと思って次の電車まで待つことにしたのですが、何人も飛び乗っていきました。先日、乗るときに手を挟まれた人がいました。その人の悲鳴で、みんな息を飲みました。そばにいる人が急いで、ドアをこじ開けて手を抜いてあげようとしたら、なんと、手を抜き取らないで、こじ開けたドアから、体を差し入れてきました。そして、無理やり入れたために、車掌がもう一度ドアを開けました。すると、開けた瞬間にホームにいた友達を呼んで、中に招き入れました。そして、乗り込んだ車内で、しゃあしゃあと、「うまくいったね!」と言うではありませんか。呆れてしまいました。この山手線は、平日の朝の東京駅の発着本数は、なんと、7時台で、内回りが21本、外回りが19本、8時台では、内回りが23本、外回りが23本もあるのです。ほぼ3分おきに来るのです。1台乗り過ごしても3分待てば来るのに、なにをそんなに急ぐのでしょうね。もしかしたら、急いで、どうしても乗り込みたい人は、2,3時間に列車が1本しか来ないような場所に住んでいた人なのでしょうね。東京の人は、そんなに、その電車に乗れるかどうかは、問題ではないと思うですが?? 駅に着いたときに、あせって乗り込む人を見るたびに、そう思ってしまいます。

投稿者 fujimori : 21:27 | コメント (4)

2006年11月14日 近頃思うこと

年代による名前

昨日は、ズックという言葉を使いましたが、今は、その言葉は死語になりつつありますね。「68年のメキシコ五輪」で、デザイン性の高い運動靴が登場し、スニーカーという呼び名が広まりました。さまざまなものの呼び方で、出身地が推測できるということを以前のブログで書きましたが、今年の9月の毎日新聞に、呼び名で、その人の年代がわかるという記事が掲載されていました。よく例に出されますが、「今日はパンツをはいてくれば良かった」と聞いて、あせるのは、大体1970年以前の生まれだそうです。そのころは、パンツと言えば下着のことだったからです。今は表着(うわぎ)の意味でも使われます。それは、60年代に登場したジーパンすなわちジーンズパンツの影響だといわれています。本当に英語でそういうか、外国ではそう言うかに関係なく、移り変わりが激しいアパレル(衣料・既製服業界)では、ファッション的な意味からでも新しい言葉を使うようです。特に、アパレル言葉の転換期は、60年代だといわれています。スニーカーもそうですが、このほか、衣類系では「チョッキ」と「ベスト」、「バンド」と「ベルト」、「チャック」と「ファスナー」、「ジャンパー」と「ブルゾン」、「トレーナー」と「スエット」などがあります。それぞれ、どのようないきさつから変わってきたのかわかりませんが、新しいほうの言葉を使わないと、なんだか年寄りくさく、若い人に馬鹿にされそうなので、新しぶりながら使っているうちに、その言葉に変わっていくという要素が強い気がします。たとえば、「トレーナー」という言葉にしても、それは英語ではなく、はVANの創業者の石津謙介さんの造語です。同様に、「チャック」は、「巾着」から来ている和製語だということは知られていますね。このように流行に敏感な業界では、常に新しい言葉が生み出されています。
この言葉の変化は、使い慣れた商品名にも影響しています。暑い季節に汗やあせも予防に使う白い粉のことを、かつては「天花粉」と呼び、年代を経るにつれて「シッカロール」と呼んでいましたが、今は「ベビーパウダー」が主流です。天花粉と呼ぶのは、主原料はウリ科のキカラスウリの根で、本来は、シッカロールとは成分から違い、1703年に書かれた「小児必用養育草」という書物に記載があるように歴史はとても古いようです。それに比べて、シッカロールという言葉は、ベビー用品メーカー、和光堂の商標で、1906年に発売されたものです。鉱物のタルクなどが原料で、ラテン語で「乾かす」という意の「シッカチオ」から名付けられています。製品名に一般名詞の「ベビーパウダー」を使っているジョンソン・エンド・ジョンソンによると、ベビーパウダーは1890年に同社が世界で初めて発売し、日本に入ってきたのは戦後の1958年だったので、60年以降に生まれた人が多く使うそうです。
 また、料理の呼び方も、時代で変わってきました。「スパゲティ」といえば、ナポリタンとミートソースというイメージですが、最近はさまざまな種類が現れ、練った小麦粉製品の総称であるパスタが一般的になりつつありまする。また、「いり卵」も「スクランブルエッグ」、「ビフテキ」も「ステーキ」が一般的になりました。これらの変化は、名前だけでなく、その食品の持つイメージも変えます。名前を時代によって変えるだけでなく、本来そのものの持っている機能も大切にしてほしいですね。

投稿者 fujimori : 21:53 | コメント (2)

2006年11月13日 近頃思うこと

いなかっぺい

 皆さんは、「いなかっぺい」といって、何を思い浮かべるでしょうか。普通に使う言葉としては、今は、差別用語として使わなくなりました。私は、東京生まれですので、みんなは、よく子ども同士でけんかをするときなど、相手をけなす言葉として使っていました。ですから、今でも心が痛む思い出があります。中学の修学旅行で京都・奈良に行ったとき、修学旅行列車「ひので号」には、2校が乗り込みました。私たちの中学校は、千代田区立でしたが、外を歩くときには、革靴でなければいけませんでした。(ひとつには、構内履きと区別するために)その列車に乗っていたもう1校は、やはり都内の公立校だったのですが、靴はいわゆるズック(今で言うスニーカー)だったのです。ですから、列車の境目に乗っていた同級生たちは、相手の中学生に向かって、「いなかっぺ、いなかっぺ!」とはやし立てていました。私が言っていたわけでもありませんでしたが、それを聞いていて特別に悪いことだとは思っていなかったので、申し訳なく思っています。それは、言った相手に対してではなく、なんだか、田舎の子のことをけなしているように感じるからです。子どもは、特別に差別的な意味を持っているわけではありませんが、「おまえの母ちゃん、でべそ!」と言ったりしたものでした。今でも、子どもたちは、けんかをしたときなど、相手をけなす言葉を言うことがあります。そのなかで、人格を否定したり、本人のせいではないものであったり、他の人を差別的にあつかうような言葉は、大人として使わないようにしたいものです。子どもたちは、始めはそんなに悪気ではなく使うことも多いのですが、大人の言葉を真似し、それが次第に刷り込みになっていくからです。
 また、少し硬くなりましたが、この「いなかっぺ」という言葉を思い出したのは、先日八戸に行ったからです。地元の人たちは一緒にされるのを嫌がりますが、私は、八戸も青森県なので、どうして津軽地方も一緒に考えてしまいます。ということで、思い出すものに青森出身の柔道少年『いなかっぺ大将』があります。これは、川崎のぼる原作の少年漫画作品で、通称「大ちゃん」が、赤い越中褌に、風呂敷で作った袴をトレードマークにして、修行に励むつもりが、いつもずっこけてばかりの日々を続けているというはなしです。もうひとつ、伊奈かっぺい(いな かっぺい)という、青森県弘前市生まれの、津軽弁を愛する根っからの津軽衆であるタレントがいます。「いなかっぺい」というと、そんなイメージですが、越川禮子さんの「江戸の繁盛しぐさ」には、こう書かれています。「井戸の中の蛙は世間知らずで何でも自分が一番と思い勝ち。そういうことでは世間は渡れないよ、と戒めて呼んだのが『井蛙っぺい(せいあっぺい)』だ。『いなかっぺい』は、この井の中の蛙がもとだという。つまり、学歴、職業、地位などで差をつけたがる根性の人をさしている。」そうだったのです。「いなかっぺい」は、田舎の人のことではなく、井の中の人のことを言うのだったのです。もし、そうであったら、その言葉をけなし言葉として使ってもよいかもしれませんね。ですから、今は、差別用語なので使わないのではなく、誤解されやすいので使わないのだそうです。人の人格を否定するようなけなし言葉がいけないというと同時に、人の人格を見ないで、外側の姿を見て人を判断するのもいけないことだということも子どもたちに伝えていきたいですね。

投稿者 fujimori : 22:48 | コメント (2)

2006年11月12日 講演先にて

猪苗代と磐梯山

 昨日の講演が遅くなったので、会津に泊まることにしました。しかし、会津若松の宿は、土曜日ということもあって、なかなかいい宿がありませんでした。そこで、猪苗代に泊まることにしました。駅からのタクシーで数分のところでしたが、数メートル先も見えない濃霧の中を走ったので、ずいぶんと山の中まで来たという感じでした。濃霧だけでなく、雷も鳴っていました。タクシーの運転手さんは、「最近、どうも、変な天気ですね。」と、声をかけてきました。着いた宿の部屋はとてもこぎれいで、なんと、部屋の中に囲炉裏がありました。もちろん、今日は使えないのですが、囲炉裏のある部屋に泊まったのははじめてです。そんな部屋で今朝目覚めて、部屋の窓の障子を開けて見ると、空は青空で、目の前に猪苗代湖が広がっています。
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写真を撮ろうと思ったのですが、少し雲があったので、もう少し晴れてからにしようと思っていたら、みるみる雲が広がり、薄暗くなってきました。そのうちに雪が降り始め、吹雪のような降りです。宿の人たちが、雪だ雪だと騒いでいるうちに、頭の上が明るくなり、今度は、また霧が広がり始めました。それほど山の中ではないのに、次々に変わる天気に驚いていると、テレビでは、竜巻のニュースをやっています。昨日の食の問題ではありませんが、もう一度、いろいろな生活を見直していく時代かもしれません。いじめにしても、校長が謝ったからといって、文科省が調べさせてみたところで、連鎖的に起きてきています。「裕福」になった代償を払わされ始めているのでしょうね。
猪苗代という名は、その字を見ても面白いですが、そのいわれははっきりしていません。字のとおり、磐椅明神が昔、野猪に苗代を耕作させたのでそう呼ぶようになったという説や、イナワシロはアイヌ語だという説などがあります。しかし、稲作農業と深い関わりがあったことだけは確かなようです。いまから1万年前頃にはすでに湖畔には先住民が住んでいたと想像されています。猪苗代湖での魚介類や山奥の渓流にも魚影が多く、狩猟は広大な山麓を中心にして行われ、谷間に追い落とす巻狩りや湖沼に追い込むなどの方法で動物を捕獲し、食肉や衣服に利用したものと思われます。自然豊かな原始時代にあっても磐梯山周辺は格別に食料獲得が容易だったのでしょう。広い山麓を提供している磐梯山は、天高くそびえ立つ岩(磐)のはしご(橋)にたとえられ「いわはし山」と呼ばれていました。
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また、宝の山という別名もあります。この山を歌った民謡の、このフレーズを思い出します。「小原庄助さん なんで身上つぶした 朝寝 朝酒 朝湯が大好きで それで身上つぶした もっともだ もっともだ」この庄助さんは、どんな人かはっきりしませんが、朝湯はともかく、朝寝と朝酒で身上つぶしたのではなく、体を壊した気がします。今の子どもにたとえるならば、土、日、ハッピーマンデーは、「朝寝、朝ファストフード」で、体を壊したということになるでしょう。土、日に、学校が休みになって、ゆとりがなくなっただけでなく、子どもたちの生活が壊れた気がします。理想のように、休みの日に家族で博物館などに出かけるどころか、前日は遅くまで起きていて、休みの日は、遅くまで寝ているような生活リズムが乱れていることが多い気がします。日曜礼拝がある欧米と同様、休みの日に、子どもを受け入れる社会システムが必要でしょうね。

投稿者 fujimori : 18:46 | コメント (4)

2006年11月11日 講演先にて

食育

 今日は、珍しく「食育」についての講演をしました。食育基本法が、平成16年の第159国会に提出され、平成17年6月10日に成立したので、最近は、その研修が多くなりました。しかし、もともと「食育」とは、消費者に対し、「食」の安全に関する知識、「食」の選び方や組み合わせ方などを教えることです。ですから、園や学校での取り組みだけではなく、国民運動のひとつです。しかし、「食育」という言葉は、我が国では明治時代以降、体育や知育とならぶものとして用いられてきました。また、出版物などでは、1898年に石塚左玄が、「通俗食物養生法」の中で「今日、学童を持つ人は、体育も智育も才育もすべて食育にあると認識すべき」といっています。また、1903年の報知新聞連載の人気小説「食道楽」の中で「小児には徳育よりも、智育よりも、体育よりも、食育が先き。体育、徳育の根元も食育にある。」と、「食育」について記述しています。ということから、食育なしでは健全な心身を育むことができず、他の教育も身につけることはできないという考え方があるので、学校とか園での取り組みが中心になっているのです。もちろん、食べることは重要なのはわかりますが、「食育」となると、ただ食べることが大切というだけではないはずなので、何をすることなのでしょうか。食育基本法では、食育を「知育」「体育」「徳育」という三つの教育の基礎と位置付けています。そのうえで、食に関する知識と、選択する力を身につけ、健全な食生活を実践することができる人間を育てると規定しています。こうした基本理念を踏まえ、(1)国民の心身の健康の増進と豊かな人間性の形成(2)食に関する感謝の念と理解(3)食育推進運動の展開(4)子どもの食育における保護者、教育関係者の役割(5)食に関する体験活動と食育推進活動の実践(6)伝統的な食文化、環境と調和した生産などへの配意および農山漁村の活性化と食料自給率の向上への貢献(7)食品の安全性確保などにおける食育の役割――の七つの観点から、家庭、学校、保育所、地域などの役割を明記しています。はっきりいって、よくわかりません。まず、前提の「食に関する知識」と「選択する力」とどう関係するのでしょう。選択するために知識が必要だというのであればわかるのですが。「力」となるとわからなくなります。結局は、本文の中の第二十五条の「国及び地方公共団体は、すべての世代の国民の適切な食生活の選択に資するよう、」ということのようで、「食に関して根拠のない情報が多過ぎて「何を選択したらいいか分からない」といった悩みや、牛海綿状脳症(BSE)やO―157、鳥インフルエンザの発生などによる食品の安全性に対する不安もあります。」しかし、何を選択したらいいかをわからなくしているのは政府で、私たちにその力を付けろというのは、なんだかへんです。など、どうも屁理屈を言うことが多くなりました。ただ、確かに最近の「食」文化は変になってきています。そのひとつに、五つの「こ食」があります。(1)孤食(一人で食べる)(2)小食(食べる量が少ない)(3)個食(自分が好きなものをおのおのが食べる)(4)粉食(スパゲティやパンなど粉を使った主食を好んで食べる)(5)固食(固定された自分の好きなものしか食べない)です。こ食も、ずいぶんと幅広くなったのですね。また、十代女性の七〇%がダイエット願望をもち、朝食を食べない子どもは二〇%もいます。確かに問題ですが、この問題は、食育の問題というよりは、生活の持ち方であったり、人としての生き方の問題でしょうね。

投稿者 fujimori : 20:18 | コメント (2)

2006年11月10日 新聞記事より

GS

昨日11月9日の 読売新聞の夕刊にこんな記事が掲載されていました。
「企業戦士のころは楽器演奏どころではなかったが、定年が見えてきたころ、再び音楽への熱い思いをよみがえらせる――。」という見出しです。最近、団塊の世代を対象にしたさまざまな記事が目に付きます。私は、団塊の世代ですので、どうしてもそんな記事に目が言ってしまいます。しかし、団塊の世代を正確に言うと昭和22,23,24年生まれの、たった3年間のことですので、記事の中には、これは団塊の世代より少しあとだとか、少し時代がずれていると思うことがあります。しかし、どうも、団塊の世代というと、思い出すものに、あるイメージがあります。やはり、今年の6月23日の読売新聞に、ユーキャンが「団塊」の世代にあたる56~59歳の男性300人を対象に今年2月実施したアンケートの結果が出ていました。それによると、「“団塊”を言い換えると何の世代か」という質問(複数回答可)に対して、「ビートルズ」と答えた人が135と最多で、2位の「全共闘」(91)を圧倒しました。そして、3位は「グループサウンズ(GS)」(85)で、「ニューファミリー」(58)、「アイビー」(47)と続いています。ですから、「オレたちは永遠のビートルズ世代だ」というイメージです。ですから、グループサウンズは、少しあとの世代のイメージです。そうは言っても、グループサウンズは懐かしいですね。最近、ブームですね。昨日の夕刊の記事は、「加瀬邦彦&ザ・ワイルドワンズ公演-結成40周年を迎えた平均年齢60歳の“永遠の青年”たちが、シニア層の後押しもあって、初めての日本武道館公演を実現させた。」というものです。その記事の中に出てくる歌は、みんな口ずさめるものばかりです。あの時代の歌は、そんな特徴がありました。たぶん、団塊の世代前後の人たちは、思い当たるでしょうね。歌った曲は、ママス&パパスの名曲「夢のカリフォルニア」に始まり、続いて「風」「バラが咲いた」といった日本のフォークソング、さらに、ザ・タイガースのジュリーこと沢田研二を迎えて、「サイモン・セッズ」「サティスファクション」と、洋楽ヒット曲。会場が最大の盛り上がりを見せたのは、沢田が熱唱した「君だけに愛を」と「TOKIO」。終盤は「夕陽と共に」「青空のある限り」で、最後はもちろん「想い出の渚」です。これらを並べてみると、涙が出るほど懐かしいですね。つい先だっての9月の「つま恋」でも、懐かしい思いをしたばかりです。9月23日に静岡県掛川市のつま恋で「吉田拓郎&かぐや姫Concert inつま恋2006」を開いた南こうせつさんが、31年ぶりに思い出の地でコンサートを開いた理由をこう話しています。「それまで日本で5万人もの観客を一堂に集め、オールナイトでコンサートを開いた前例がありませんでしたから、31年前の「つま恋コンサート」は、当時としては非常にインパクトのある出来事でした。」このように、グループサウンズは、とてもあの時代にインパクトがありましたので、それを復活させて町おこしをした町があります。それは、この春から伊豆市修善寺温泉街で始めた「湯の街コンサート」です。団塊の世代を対象に、グループサウンズ(GS)やフォーク歌手らを招き、にぎわいを取り戻そうとする草の根の取り組みです。あの一世を風靡した「グループサウンズ」は、圧倒的に人数の多い、定年を迎え始めた団塊の世代をひきつけたり、よみがえらせたりするのに格好の材料かもしれません。

投稿者 fujimori : 21:53 | コメント (5)

2006年11月09日 近頃思うこと

商品の名札

 名札というものは、どのような情報を、誰に、どのように伝えたいかがないと意味はありません。そういう意味では、園や学校ではいろいろな情報を、さまざまな人に発信しようとする場合が多くあります。かつて、近くの多摩美術大学の学生の課題として、「園のさまざまな情報をデザインしろ」という課題が、情報学科の学生に出され、私の園をモデルにしていろいろなアイデアが出されたことがありました。その中に、名札に関して面白いものがありました。この作品は、親が、わが子が風邪気味であるということを携帯で入れると、その子の名札にマスクマークが出て、下痢気味であるというと、トイレマークが出て、すべての職員が見ることができ、注意することが出来るというようなものでした。そのように、親が先生に伝えたいことが、名札に表示されるものです。面白いですね。表示にはいろいろありますが、先日訪問した八戸の長坂保育園では、給食の材料を、「血や肉になるもの」「熱や力になるもの」「体の調子を整えるもの」と分けて貼ってあるパネルから、その日の給食に入っているものだけを当番の子が取り出して、展示食と一緒に展示していました。
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また、私の園では、給食のとき、幼児では、量とか種類を当番に伝えてよそってもらっていますが、その代わり、よそったものは全部食べきらなくてはいけません。あるとき、子どもたちから、「全部食べろというのであれば、注文をするときにそれに何が入っているか知らないと困るので、材料を書いてほしい」という要望が出たので、料理の前に、その中に入っている材料を表示することにしました。本当は、子どもはわからないかもしれませんが、その材料の産地や生産者とか、カロリーとかも書けるといいのかもしれませんね。
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 さまざまな商品には、消費者が知りたいと思うさまざまな情報が書かれています。店頭の商品表示や商品陳列に関しては、商品選択に必要な情報が、すべての人に適切に提供されていなければならないからです。最近は、食品の消費形態の多様化や、味・鮮度・健康・安全に対する関心が高まって、食品を選ぶときに安全性に留意することがよくあります。そこで、JAS法により2000年から、さまざまな表示が義務付けられました。野菜では、原産地の表示が基本です。国産品は都道府県名、輸入品は原産国名と品名がともに記してあります。精肉の国産品は「国産」、輸入品は原産国名が表示されます。地名は「主な飼養地」として表示することもあります。2ヶ所以上の飼養地がある場合は飼養期間が最も長い飼養地を表し、「国産」は、日本で育った牛を指しますが、肉牛用に育てられた外国の牛を輸入し、3ヶ月以上日本で育てれば「国産」として出荷できます。「和牛」と表示できるのは黒毛和種、褐色和種、日本短角種、無角和種の4種のみで、産地は問いません。魚介類は、国産品は水域名か地域名が表示され、水揚げ港や水揚げ港が属する都道府県名で表示されることもあります。しかし、刺身盛り合わせ、塩干商品、魚卵は加工食品として扱われます、養殖の場合は「養殖」、冷凍は「冷凍」、解凍したものは「解凍」と表示されます。他にも、加工食品の表示、複合原材料の原材料表示などがあり、賞味期限は、この期間内に食べればおいしく食べられるという期限で、品質保持期限は、この期間内に食べなければ劣化するという期限、消費期限は、この期間内に食べれば食中毒などの危険がないという期限です。食品添加物表示、食品アレルギー表示などは、最近の特徴ですね。しかし、どんな表示をしても、その読み取り方が正しく出来ないと、名札同様、意味がありませんね。

投稿者 fujimori : 19:45 | コメント (4)

2006年11月08日 近頃思うこと

子どもの名札

 先生がつける名札をブログで書きましたが、子どもはどうでしょうか?ぴかぴかの1年生のイメージは、「黄色いカバーをつけたランドセル、黄色い帽子、胸につけた名札」です。それが、朝日小学生新聞にこんな記事が掲載されていました。「みなさんは登下校のときや学校内で、名札をつけていますか。名前や学年を人に知られることで起こる犯罪をふせぐため、学校を出るときにはずしたり、裏返せる名札を使ったりする学校がふえています。校内でも名札をつけず、上ばきに名前を書いて対応する学校もあります。」かつては、名札の表面には、「学校名」、「学年」、「組」、「氏名」が書いてあり、裏面には「保護者の氏名」、「住所」、「電話番号」、「血液型」まで書いてありました。そして、「学校に限らず、家から出るときはいつも名札を付けるように」と、先生方や親はいつも子どもたちに注意をしていました。それは、万一、事故などに遭った際には、名札に記載してある情報からすぐに保護者に連絡してもらえるので、結果として子ども達を守ることができるからです。そのような意味で名札を付けていたとなると、戦争中や、戦後まもなく子どもたちだけでなく、みんな、布に名前を書いた札を胸からぶら下げていましたね。しかし、小学生新聞ではありませんが、最近では、この名札を見て「○○君」などと、いかにも親しげに声を掛けてくる不審者が現れている事などがあり、登下校時など、学校外では名札を着用しないように指導しているところが多く、さらに、体操着なども、昔は遠くからでも分かりやすいように、大きく背中や胸に苗字を書き込んだりしていましたが、これについても犯罪防止の観点から書き入れるのをやめている学校が多いようです。しかし、本当は、その名札を見て親しげに声をかける地域の人がいるということは、子どもにとってはうれしいことでなければならないはずです。子どもは、名前を読んでもらえることで満たされことがあるからです。私が小学校で教員をしていたときに、ちょうど名札をどうするか議論になったことがありました。そのときに、名札は学校の中だけにしていました。登校すると、教室にある箱から自分の名札を出して、服にとりつけます。そして、帰りの会のときに、名札係が、みんなの名札を集めます。しかし、その取り外しが面倒ということもあって、名札はやめようという話になったのです。担任は、クラスの子はみんな名前を知っているはずだから、名札なんかなくてもいいのではないかということでした。その意見に、校長と私は反対でした。なぜかというと、校長と私は、ある競争をしていました。それは、どちらが先に全校生徒の名前を覚えるかの競争をしていたのです。全校生徒に、どこで会っても、名前を読んで話しかけようとしていたからです。しかし、そのころの教員たちは、自分が担任していないクラスの子どもに声をかけるのは、越権行為だと思っていました。直接私に言った先生がいました。担任しているクラスの子が、他のクラスの先生と話をすると、クラス経営がやりにくくなると言われたのです。ですから、自分のクラスの子の名前を他のクラスの先生が覚える必要はないといいます。その時は若かったので「あなたのクラスの子どもたちは、あなたの所有物ではありません。」と、食って掛かったものです。子どもたちは「登下校時も名札をつけて、近所の人に『○○さんちの○○ちゃん』とおぼえてもらえる方がのぞましい。でもいまは、そのプラス面よりも危険度の方が高い。」という、残念だけど仕方ない状況ですね。

投稿者 fujimori : 22:30 | コメント (3)

2006年11月07日 近頃思うこと

教師の名札

 先日、小学校の授業参観をして、どうも腑に落ちなかったのは、授業の進め方だけではありませんでした。いろいろあるのですが、「へんだなあ」と思ったひとつに、「名札」があります。いつの頃かわかりませんが、今、教職員はみんな首から名札を下げて授業をしています。見ていて、とても奇妙です。子どものほうにかがむと、名札が「ブラ~ン」と子どものほうに振れますし、女性教員は、そうしないためにたすきがけをしていますが、後ろから見ると、ポシェットを提げて授業をしているように見えます。何で、名札を首から下げて授業をしなければいけないのでしょう。こんな例が報告されていました。「一番の成功要因は、今回の名札の着用が事務職員に限られていることが挙げられると思います。今なら学内で名札を下げていれば、その人は大学の事務職員であるとすぐに分かります。これまでは学内で出会っても学生なのか、教員なのか知っている人にしか分からなかったのが、今は違います。」これは、名札のひとつの役割かもしれません。しかし、学校内で生徒が教員と出会ってときに、名札を見ないと先生だということがわからないのでしょうか。しかも、事業中であれば、出会う人は、クラスの子どもだけなのに、わからないのでしょうかね。ある市の通達にこんなことが書かれていました。「来校者に名札を着用させるなど、受付を通過した者であるか否かが判別できるようにすること。(できれば、バッジなどよりも、首から提げる名札のようなものの方が、後ろから見てもひもで着用の有無を識別できることから、好ましい。)」確かに、これまでの、学校施設は「学校が活動している昼間の時間帯に、不審者が侵入してくることを防ぐ」という観点では作られてきませんでした。しかし、今の学校は、地域開放や地域の人材活用など必然的に利用形態が複雑となり、様々な目的を持った多くの人々が訪れるようになりました。ですから、来校者に名札を付けてもらうことはわかります。また、これを読んで、何で首からぶら下げるタイプが多いかもわかります。しかし、最近は、役所の人や会社の人でもぶら下げている人が多くなりましたので、下げているかどうかの確認だけで、不審者対策にはならない気がします。しかも、教職員が付ける理由はわかりません。それなのに、教職員が付けることを義務付けている市は多くみられます。何で、教職員が付けるかを記述した報告がありました。それは、「現実的な不審者対策を考える」と題して、大阪教育大附属池田小学校への視察から考察をした、ある助教授の報告書です。「(2)施設面での対応」の中の「①死角が少ない」という部分です。「附属池田小学校では仮校舎といえども、廊下が整然としている。余計な荷物も置いていない。防災にも必要な手立てである。もちろん死角が少なく、例え、教師といえども、学校指定の名札をつけないといけない。ここでは子どもの荷物は廊下に吊り下げてあり、整理整頓の指導にも適していることも付け加えたい。」この文を読んで、面白くありませんか?申し訳ありませんが、この文脈は、とても奇妙です。他の文献を読んでも、結局のところ、不審者の侵入を防ぐ対策として保護者に、校内に入るときに名札や腕章をつけることをお願いしているので、「保護者にお願いするのだから教師もつけるべきだ」という考え方のようです。やっぱり変です。中には、「担任以外の教師の顔と名前がなかなか一致しない」といった保護者の声があることもあるようですが、それでしたら、普段、つける必要はないような気がします。

投稿者 fujimori : 20:30 | コメント (5)

2006年11月06日 近頃思うこと

紅葉

 先日、八戸に行ったとき、駅前のもみじが真っ赤に紅葉していました。
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車窓から見える景色も、盛岡を過ぎたころから、山々は赤や黄色できれいに色づいていました。しかし、青森県の紅葉の名所である奥入瀬では、そろそろ見ごろは終わりそうだといいます。それに比べて、東京では、もう少しあとでしょう。日本は、南北に細長い地形をしています。ですから、日本国内での気候、気温の移ろいは、日本国土を縦断していきます。このような気温の移ろいにつれて、植物や動物の状態も変化していきます。紅葉する場所が、季節によって移動していくのです。このような現象を生物季節現象と言い、その現象の観測を「生物季節観測」と言います。生物季節観測の目的は、生物に及ぼす気象の影響を知るとともに、その観測結果から季節の遅れ進みや、気候の違いなど総合的な気象状況の推移を知ることにあります。気象庁の全国約98か所の気象官署で、この現象を観察しています。ウメの開花、ウグイスの初鳴、サクラの開花・満開、モンシロチョウの初見、イチョウの黄葉、イロハカエデ(イロハモミジ)の紅葉などの生物季節現象を観測しています。そして、日本地図上にその現象が起きた日の同じ地点を結んだ線を「○○日の等期日線図」と言い、この等期日線図は、その現象が起きた地域とこれからその現象が起きる地域の境目が、天気図の前線とよく似ていることから、一般には「○○前線」と呼ばれています。「○○前線」と呼ばれているものは、さまざまあります。たとえば、「桜開花前線」「つつじ開花前線」「田植え前線」「稲刈り前線」「もみじの紅葉前線」「初雪前線」「ウグイス初鳴き前線」「熱帯魚回遊前線」「ヒガンバナ前線」「虫の鳴き声前線」などです。その中で、春本番を告げるサクラの開花・満開と、秋の美しい現象である紅(黄)葉は一般に高い関心があります。そこで、これらは「桜前線」と「紅葉前線」と呼ばれ、よく気象庁から発表されます。しかし、この二つの前線の動きには、大きな違いがあります。それは、桜前線は北上していきますが、紅葉前線は南下していくのです。当たり前ですが、なんだか面白いですね。では、気象庁で発表するからには、基準があるはずです。調べてみると、サクラ前線での「開花」とは、数輪以上の花が開いた状態をさします。そして、観測するサクラの種類として、九州地方から北海道地方南部はソメイヨシノでしますが、ソメイヨシノのない地方の沖縄・奄美地方では、ヒカンザクラ(カンヒザクラ)、北海道地方北・東部はエゾヤマザクラ(オオヤマザクラ)またはチシマザクラの花で見ます。開花から満開までの日数は、おおよそ、沖縄・奄美地方は16日、九州~東海・関東地方は6~8日、北陸・東北地方は5日、北海道地方は3~4日です。同様に、秋の黄葉、紅葉はどのような判断をしているのでしょうか。「黄葉日」は、イチョウを対象として観測し、「紅葉日」は、イロハカエデ等を対象として観測しています。それにして、紅葉はきれいですね。紅葉を眺めて楽しむことを「紅葉狩り」といいますが、本来「狩り」とは、獣を捕まえる意味で使われていましたが、野鳥や小動物を捕まえる意味に広がり、さらに果物などを採る意味にも使われるようになりました。ですから、「いちご狩り」や「ぶどう狩り」といいますね。それが、草花を眺めたりする意味にも使われるようになったのです。四季がはっきりしている日本では植物の色の変化がみられ、それが日本各地で時期がずれながら、私たちの目を楽しませてくれます。

投稿者 fujimori : 23:56 | コメント (2)

2006年11月05日 講演先にて

はやて

1958年(昭和33年)から1959年放映されたテレビ番組で、最高視聴率67.8%(平均40%台)を記録した超人気番組といえば、「月光仮面」です。この番組は、国産初のスーパーヒーローもので、そのころは、ほかにあまり面白いテレビ番組がないということもあって、ものすごい人気でした。しかし、あまりにもすごい人気のために、月光仮面の真似をして、高い所から飛降りて怪我をする子どもが続出し、惜しまれつつも短期で終わりになってしまいました。この人気は、まるで、「疾風」のように駆け抜けていきました。というと、その年代の人は、だれでも思い出すのが、この番組の主題歌です。「どこの誰かは 知らないけれど、誰もがみんな 知っている 月光仮面の おじさんは 正義の味方よ 善い人よ 疾風のように 現われて 疾風のように 去って行く 月光仮面は 誰でしょう 月光仮面は 誰でしょう」という1番の特にさびの部分、「はやてのように あらわれて、はやてのように さっていく~」というところは、思わず口ずさむでしょう。この「疾風」(はやて)という言葉は、普段はあまり使わなくなりました。しかし、思わないところで復活したのが、今日、八戸からの帰りに乗った、新幹線「はやて」です。「はやてのように」というのは、今の子だったら、新幹線の「はやて」のように速い、と思うでしょうね。本当は、はやての「はや」は「早い」の意味で、「て」は風を表しています。ですから、早い風ということで、「急に激しく吹く風」で、寒冷前線に伴って吹くことが多い風です。また、陣風(じんぷう)ともいいます。漢字では「疾風」と書き、「しっぷう」と読みこともあります。そのほか「早手」とも書かれ、「はやち」とも呼ばれます。このように「風」を「ち」と読むことがありますが、たとえば、「東風ふかば」の「東風」を「こち」と読むのと同じです。また、このように早いということから、「かかるとすぐ死ぬ」ということで、疫痢(えきり)のことをさすこともあります。しかし、何で、新幹線の名前に「はやて」が採用されたかというと、いろいろといきさつがあるようです。というのも、この「はやて(疾風)」は、農作物に被害をもたらす風や疫病の異名でもあるために、はじめは、採用されませんでした。公募したときは、「はやて」という名称はトップ10にも入っておらず、「みちのく」・「はつかり」などが上位だったのです。しかし、将来の新青森延伸も視野に入れ、斬新でスピード感を表す名称として、敢えて採用されたのです。この「はやて」が、盛岡で連結されるのが、秋田から来る「こまち」です。この列車名は、公募の結果1位でした。ちなみに、2位は「おばこ」、3位は「たざわ」でした。この「こまち」は、お米の品種の「あきたこまち」を思い出しますが、もともとは、あの美人で有名だった「小野小町」のことです。彼女は、秋田県湯沢市小野出身とされているのです。やはり、昔から、秋田美人ということがあったのですね。しかし、「はやて」と違って、逆におとなしい女性のイメージなので、秋田県内では「新幹線という超高速列車の名前としてふさわしくないのではないか」という意見もあったそうです。同じ路線で、仙台までと、盛岡まで走る新幹線に「やまびこ」があります。この名称は、「はやて」「こまち」と比べて、古い歴史があります。1959年 福島駅から盛岡駅間を運行する準急列車の愛称として使用されていたものが、格上げになったのです。列車の名称にもいろいろな歴史がありますね。

投稿者 fujimori : 21:24 | コメント (3)

2006年11月04日 講演先にて

地域グルメ

 各地を訪れたときの、その地の楽しみ方はよくこのブログでも書きますが、いろいろとあります。その中のひとつに食事の楽しみがあるのですが、なかなかその地方独特の食べ物、特に、特別なご馳走ではなく、最近はやっているB級グルメはなかなか食べる機会がありません。たとえば、今回の八戸は、以前のブログで書いた「第1回B級グランプリ」が開催されたところです。グランプリを受賞したのは富士宮の焼きそばでしたが、八戸からのエントリーは、「八戸せんべい汁」というもので、南部せんべいを、肉や野菜などで取ったおいしいだし汁に割り入れて煮込んだ、心も身体も温まる素朴な郷土料理です。
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 これを、今回は食べる機会がありました。初めは、なんだかお鍋の中にせんべいが入っているとは、奇妙な気がしました。しかし、中に入るせんべいは、おつゆ用に作られた南部せんべいで、沸騰したお鍋にせんべいを割って入れると、鶏肉や野菜などのおいしい出汁を吸って、モチモチとした食感になり、秋田の人といっしょに食べたのですが、秋田の「きりたんぽ鍋」に似ているといいます。それはそうです。どちらもお米から作られているからです。
 だし汁といえば、昨日の食事のときの最後に出たのが、「いちご煮」という汁でした。これも、苺を汁に入れたものかと思うと違います。新鮮なウニとアワビでお吸物風に仕立てたものなのです。材料がいいので、当然その味は、添えられた青ジソの香りと相まって格別な味となります。いちご煮の名は、お椀に盛り付けた時、乳白色の汁に沈む黄金色のウニの姿が、まるで『朝靄の中に霞む野いちご』のように見えることから名づけられたといわれています。面白い名前をつけたものですね。それにしても贅沢な材料ですが、ここ八戸地方は、太平洋の豊かな海を背景にして、ウニとアワビがよく採れるのです。八戸地方の方言で、ウニのことを「カゼ」、アワビを「アンビ」と呼ぶそうです。このあたりの漁村では、すもぐりで漁をする「かづき」と呼ばれる男たちがいました。彼らは、夏になると、カゼやアンビをふんだんに採り、海水で煮込み、食べていたのが「いちご煮」で、漁師の浜料理だったのです。それが、明治時代に料亭料理として供され、お椀にきれいに盛り付けてお吸い物として飲むようになり、日本料理の代表的な汁になり、青森県を代表する郷土料理の一つとなっているのです。
 日本料理といえば、昨夜食べた刺身に、大盛りの「菊の花」がありました。また、菊の花のてんぷらも出てきました。そういえば、酢の物にも、菊の花が入っています。秋ということもあるのでしょうが、実は、ここ八戸は、食用菊の特産地なのです。この地方特産の食用菊は「阿房宮」と呼ばれていて、通常は、干し菊として売られ、酢の物や味噌汁の具として食べます。当地方以外の土地に移植すると、独自の甘味がなくなってしまう特性を持つ不思議な食用菊だそうです。食用菊は苦味がなく歯ざわりがよく、とてもおいしい上に、健康によい成分をたくさん含み、眺めても美しいので、日本料理には合いますね。
 このほかに、昨日、昼食として食べたのもここの名物でした。私が食べたのは、八戸らーめん。
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 煮干しをふんだんに使った、あっさりとした醤油ベースのスープと細めのちぢれ麺が特徴で、70年あまりの歴史を持っているそうで、昔懐かしい味がします。他の人が食べたのは、「イカ飯」です。八戸は、イカの町といわれるように、イカの水揚げでは日本の約3割を占め全国第1位です。今日見学した保育園では、「せんべい汁」と、菊の和え物が出ていました。「いちご煮」もよく出るそうです。園は、伝承文化を子どもに伝えている大切な場かもしれませんね。

投稿者 fujimori : 23:55 | コメント (4)

2006年11月03日 講演先にて

数字

 今日は、明日から二日間開かれる「見守る保育 研究セミナー東北ブロック」のために八戸に来ました。ここ八戸は、私の住んでいる市と関連があります。どうしてかというと、私の住んでいる市は、「八王子」で、ここは、「八戸」ということで、どちらも数字の「八」がつきます。そういえば、全国の地名には、数字が着く市や町や名所があります。どのくらいあるか、知りたくなりました。そんな好奇心は、私はなかなか消すことができないので、忙しいのに、すぐに「中学校地図帳」の索引に載っている地名で、数字が着いているものを数えてみました。すると、全部で、146箇所ありました。意外に多いですね。検索項目に載っていないものを含めると、いたるところにありそうです。たとえば、今日八戸に向かう新幹線も「一ノ関」と「二戸」という駅を通ります。数がつく地名で、最も多い数は、45箇所あった「三」でした。数は、大きく分けて「量」を表す場合と、「順序」をあらわす場合があります。地名にもこの二つに分けられます。たとえば、「八王子」は、八人の王子から取ったので、「八」は、量を表します。それに比べて、「八戸」の「八」は、「二戸」という地名があることからわかるように、順序を表しています。岩手県北から青森県南にかけて一から九の数字に「戸」が付く地名が残されています。これらの地域は、古代末期から中世にかけて「糠部郡」と呼ばれていた地域です。そして、この「戸」は、古代律令に基づくものと考えられており、馬産地として知られていたこの地域の牧場に関連させる考え方や、蝦夷支配のために北進する朝廷側の前進基地とする考え方があります。そして、その地域を、糠部の中の地名として一から九の数字を順につけて呼ばれたものが残ったと考えられています。いずれにしても、八戸は「糠部」の中の8番目の「戸」ということを意味しています。まさに、順序数ですね。そう思って、皆さんの地域にある数字は、どちらを表しているか考えてみると、その由来がわかりやすくなります。しかし、それだけであれば、「三」という数字が特別に多くなるわけはありません。では、どうしてでしょう。それは、二番目に多い数を見ればわかります。二番目に多いのは、「八王子」の「八」という数字が着く地名で、31箇所もあります。次に多いのは、15箇所の「五」ですから、いかに「三」と「八」が多いかがわかります。それは、たぶん、数字そのもののもつ意味があるからです。縁起がよい数だとか、たくさんの数という意味を表しているとかです。そういう意味では、「八」が最も使われます。まず、「たくさんの」という意味で使われます。「八重」ということは、「幾十にも重なった」という意味で、地名の「八雲」などは、幾十にも重なった雲のことを歌った「八雲立つ出雲八重垣…」からとったといわれています。とくに「八百」とか、「八百万」はとても多い数の代表で、たとえば、「八百万の神」(やおよろずのかみ)とか「八百屋」(やおや)とか「江戸八百八町」(えどはっぴゃくやちょう)などに使われています。また、「八」は、漢数字で書くと、下のほうが広がっていて、「末広がり」という縁起のよい数字ともいわれています。また、たぶん、地名ではそんな意味で使われることはないでしょうが、「8」を横にすると、「∽」となって、「無限」を表しているということで、使われることがあります。数字は、占いにも使われることがあるなど、神秘的な意味を持つことがあります。数字の着く地名も、神秘を感じますね。

投稿者 fujimori : 17:36 | コメント (2)

2006年11月02日 研修

授業

 今日は、道徳の授業参観に行ってきました。あまり、その感想は書きたくなかったのですが、今の教育の問題点がいくつか見えたので、ちょっと書いてみます。
 先日のブログで書いた2年生の授業を含めて、1年生から6年生までの13学級の道徳の授業を参観しました。どのクラスも先生は、参観日ということもあって、とても熱心に、一生懸命に授業をしていました。また、事前に、黒板に貼り付ける文や絵、子どもが書き込むプリントなどの教材も用意され、いかにも研究授業のような、私からすると、絵に描いたような授業展開がどのクラスも行われていました。また、それぞれのクラスは、そのクラスの担任のカラーがそれなりに出ていて、授業の進め方にその担任の特徴が良く出ていました。ですから、その授業そのものは、別に問題はないので、それをとやかく言うつもりはありません。どの先生も、今日はご苦労様でした。準備が、大変だったでしょう。とねぎらいの言葉を送ります。しかし、気になる点がいくつかありました。まず、13学級すべてのクラスが、一斉授業でした。どのクラスもすべて、先生が前に立ち、生徒が全員前を向いて座っていました。そして、授業中、声が聞こえるのは、どのクラスも、声の90%は先生の声です。生徒は、30人はいるのに対して、先生は一人しかいないのに、ほとんど話しているのは先生だけです。また、時折聞こえてくる生徒の声は、先生の問いかけに対して、答える声です。友達同士で話し合うとか、相談しあうとか、議論しあう声はどのクラスからも聞こえてきません。たとえば、5年生の授業では、こんな調子です。
自分の気持ちよりも、相手の気持ちを考えてしまう「ねずみ」と、自分のことばかり考えて、相手の気持ちを考えない「かいじゅう」と、自分を大事にし、相手の気持ちも大事にする「さわやかさん」がいました。「A君と遊ぶ約束をしました。そこへB君が来て、A君とは遊ぶのをやめて、僕と遊ぼうよといいました。さあ、どうしますか?」というときに、「次のせりふは、誰が言ったでしょう。」というプリントを子どもたちにやらせていました。
①いいよ、B君の方が面白いから。②困ったな、……(もじ、もじ、もじ)③だめだよ、今日はA君と遊ぶんだから。④今日は用ができて、A君とも遊べなくなったから、君とも遊べない。⑤いいよ、A君も一緒に遊んだほうが楽しいよ。一緒に遊ぼう。⑥今日はA君と約束守るよ。B君とは、明日はどう?面白いゲームが明日来るんだ。
子どもたちが思い思いに書いた頃、先生は「①をねずみだと思う人?」と、順に生徒に手を挙げさせました。答えが、かなりバラバラです。全部かいじゅうと答えた子どももたくさんいました。こんなに違った答えをする子に、どうするのだろうと思って、みていると、聞き終わった後で、「先生は、こう思うよ」と言って、その設問は終わって、次にいってしまいました。「あれ?」と、拍子抜けしました。たしかに、そうやって進めなければ、時間内に終わりそうもないのです。先日の「おれた ものさし」の授業でも、最後の「おまえがおったんだろ。これ」というせりふをみんなで大きな声で、そろえて言わせていました。そして、ベルがなる手前で、「これから勇気を持てる人?」と聞いて手を上げさせました。やはり思って通りだと思ったのですが、少し違っていました。手を上げたのは二人しかいなかったのです。こんな授業をしている先生が少しかわいそうになりました。

投稿者 fujimori : 18:41 | コメント (5)

2006年11月01日 近頃思うこと

引き売り

 今日は、先日お芋掘りに行って掘ってきた芋を、みんなで、園庭で焼いて食べました。昔だったら、たきびに暖まりながら、その中に入れたサツマイモをみんなで食べるというイメージなのでしょうが、今は、落ち葉たきは煙があまりにあがるので、近所迷惑ということでできなくなりました。そこで、キャンプファイヤーのように木をくべてのたきびです。その中に入れるサツマイモも、今は、アルミホイールに包んでから入れます。それでも、そこで焼いたサツマイモは、とても甘く、子どもたちは、みんな「美味しい、美味しい」と言って食べていましたし、近所の親子で参加した人たちも、こんなに甘いお芋はあまり食べたことがないということで、とても評判がよかったです。しかし、その評価は、その畑の芋にあったのですが、実は違うのです。この焼き芋は、石焼き芋と同じで、間接的にゆっくり加熱することで、アミラーゼ(デンプン分解酵素)が、デンプンをブドウ糖に変えるため、通常の焼き芋よりも甘く仕上がるのです。また、石焼き芋は「甘い」ということから「食べると太る」という誤解が多いのですが、実際には砂糖ではなくデンプンの甘みなのでむしろ健康によいと言われています。
 石焼き芋といえば、ちょうど昼ごろ、園の外で「石や~きいも~!ほっぺが落ちてもしらないよ…」という声が聞こえてきました。今は、軽トラックに乗せて、1年中売りに来るでしょうが、私の子どもの頃は、冬の寒い日に、リヤカーに専用の釜を積み、独特の節回しで呼びかけながら売り歩きに来ました。そして、母親に「買ってきて!」といわれ、急いでリヤカーの後を追いかけて、注文すると、アツアツの石焼き芋を新聞紙にくるんで、渡してくれました。それを家にもって帰り、家族皆で、フウフウ言いながらほおばったものでした。そのころの昭和30年代から40年代に掛けては、石焼き芋屋の最盛期で、当時の売り子は東京だけで2千人以上もいたといわれています。経済の高度成長の波に乗って伸びてきたのですが、昭和45年の大阪万博を機に、海外のファストフードの有力企業がわが国に続々と上陸し、いたるところに店を出したために次第になくなっていきました。ひとつ冬の風物詩がなくなった気がします。この売り声は、ほかにも「石や~きいも~、いも!」というのもありますが、子どもの頃は、単に「石やき~いも~!」と言っていたような気がします。同じ、引き売りの声で思い出すのが、「なっと~ なっとなっと なっと~」という納豆売りの声です。そして、たぶん、これは朝売りに来たような気がします。朝ごはんのおかずにしたのでしょう。ですから、納豆売りの声が聞こえると、朝起きるというような目覚ましにもなっていました。しかし、反対に、夕方になって、そろそろ家に帰る時間だと教えてくれた音に、豆腐ラッパの音がありました。「プープー」とあの独特のラッパを吹きながら、自転車で豆腐を引き売りしていた姿を思い出します。昭和30年代の物売りは、かなり地味でしたが、今にくらべたら、ずっと味がありました。リヤカーとか屋台とか大八車とかいうような人がひっぱり、歩いて売り歩いたので、ちょうど追いかけるには都合の良い早さでした。また、豆腐屋とか、紙芝居屋は、自転車に乗せてきました。売り声もそれぞれ独特で、今でも耳に残っています。声だけでなく、豆腐屋のラッパ、紙芝居屋の拍子木、それらの音や声は、私たちの生活に密着していましたね。

投稿者 fujimori : 20:12 | コメント (4)