道徳心

 おととい、ある小学校で話をしましたが、またあさって違う小学校で話をします。それは、「道徳地区公開講座」で、学校公開のあとで意見交換会の講師として参加するのです。「いじめ」が問題になっているこの時期に、道徳の話をするのはなんだか憂鬱です。学校公開では、全学年、道徳の授業をします。資料を使って授業を進めるのですが、先生方は大変だなあという実感がします。友情とか、勇気とか、郷土愛などを授業で教えなければならないのですから。そして、それを子どもたちの力になったかを評価しなければならないのですから。たとえば、2年生に授業には、このような資料を使います。「おれた ものさし」という文です。
「何かが パシーンとわれる音がした。ぼくが見ると、ゆかの上に おれたものさしがおちていた。(たいへんだ。先生のものさしだ。)おれたものさしをもった のぼるが、じろっとあたりを見まわした。のぼるは、そばにいる ひろしのところへ行った。「おまえがおったんだろ、これ。」のぼるは ひろしにものさしをもたせた。「そうだ、そうだ。ひろしがおったんだ。」「ひろしが ものさしをおった。」のぼるのなかまたちが、つぎつぎとはやしたてた。ひろしは、おれたものさしをもたされて、今にもなき出しそうにしている。ぼくは むねがどきっとした。(あの時と同じだ……。)あの時も、ちょうど今みたいに、のぼるは われた下じきをぼくにおしつけた。みえちゃんの下じきをわったのは のぼるだったのに。あの時 ぼくは のぼるに何も言うことができなかった。(ひろし、きみは何もやっていないぞ。)と、ぼくは心の中で 何ども何どもつぶやきながら、ものさしをじっと見つめた。ぼくは ひろしのところにかけよって おれたものさしをうけとり、何も言わずにのぼるにさし出した。のぼるは しらんかおをして ものさしをうけとろうとしなかった。こんどは思い切って、「ものさしを おったのはきみだろ。ぼくは見ていたんだぞ。」と言って、ものさしを のぼるのかおの前につき出した。のぼるは、てれくさそうに おれたものさしをうけとった。」この文章を使って授業を進めたあとで、評価をします。「正しいと思ったことを進んで行おうとする気持ちを持つことができたか。」というものですが、それを、誰が、どのように評価するのでしょうね。もしかしたら、「みなさ?ん、今度、正しいと思ったことを進んでやりましょうね。」「は?い。」と全員が手を上げて、終わりになるのでしょうか。こんな授業をしなければならない教師に同情をします。
 生後6週のころになると、乳児は、泣いているとき親とか保育者から優しく話しかけられると、泣きやむようになります。泣きたい気持ちを、怒られたり、言い含められたりして我慢するのではなく、優しくされることによって我慢をします。生後10ヶ月ころになると、「いけません」と言うと、ちょっと手を引っ込めて親の顔をじっと見ます。このころになると、すでに大人の顔をじっと見て、親がどんな気持ちで制止しているのかを見て、やりたいことを我慢するかを判断します。このように、乳児の社会的行動の発達は、まず親とか保育者といった養育者との関係によって出現します。そして、自分が充分に容認されているといった確信が、次第に我慢をすることにつながり、自分の行動を保障される確信が、次第に自己の勝手な行動を抑えて集団に適応するようになるのです。我慢をすることを教えようとするならば、まず、教師が子どもを容認し、子どもたちが、自己を尊重されているという確信を持つことが大切ですよね。

道徳心” への5件のコメント

  1. 学校で、しかも授業としてやる以上は評価をしなくてはいけないのでしょうか。どんな評価になるんでしょうか。その評価がどのように子どもたちの心へかえっていくんでしょうか。いろいろ考えてしまいます。
    乳児の頃からの養育者との関係によって社会性の基礎が築かれていくとなると、私たちが考えなければいけないことがたくさんあります。小学校・中学校・高校などで様々な問題が起きていますが、人事のように思っていてはいけません。藤森先生が言われるように、まず我慢を教えるのではなく、子どもたちが「自己を尊重されているという確信を持つこと」ができるようにしたいと思います。

  2. 「道徳地区公開講座」の講師もお努めになられるのですね。藤森先生も大変ですね。もっとも先生のことですから、楽しんでみなさんに語りかけている様子を想像できます。「道徳」というと、お話をする先生もへんにつくり笑顔になったり、そうかと思うととても怖い顔になって話をされたり、なぜかそんなイメージを持っています。小中の時にも「道徳の時間」がありましたが、たしか「おれたものさし」という資料の延長線上にある資料または読本が使われていたような記憶があります。中学の時、弱いものいじめをしてはいけない、と道徳の時間に習いました。その後で、中学で番長をやっていた同級生が背の低い弱そうな同級生の男をからかって遊んでいて、その子が嫌そうにしていたので、正直な私は「やめろ」とかなんとか言って介入し、同じく背が低くて弱い私は返り討ちにあってしまいました。「道徳の時間」って一体何のためにあるのか、その時途轍もなく疑問に思いました。「我慢ができない子が多い」と私が小中学生のころから(30年も前から)言われて今日に至ります。「教育のせいだ」「いや、家庭のしつけがなっていないからだ」と世の大人たちは口を揃えて言います。子どもたちの気持ちを受け入れずに、大人の都合でこどもを動かしてきた結果だということにどうして気がつかないのでしょうか?こどもたちがやりたいことを小さい頃から保障してあげる環境をつくれば成長に応じてこどもたちはやっていることに責任を持ち、やがて、いわゆる我慢、といわれることも、意欲ということも自然に備わっていくような気がします。いくら「道徳」の授業を増やしても、問題の解決に至るのだろうか、とはななだ疑問になります。

  3. ●「道徳」の公開授業は、まず最初は、教育委員会や未履修高の先生方から受けた方が…。その道徳授業は「うそはつかない」というテーマで(すみません。茶化してしまいまして)●しかし、みんな“どこを向いて教育しているのか”。しかし、その方向が、今の正しい(?)道徳なのかもしれませんね●では、これからも仕事です。

  4. 「おれた ものさし」の文を読んでいて、なんとも言えない気持ちになりました。短い文章でしたが、自然と気持ちが入ってしまいました。道徳を教科として教えることの大変さは私が思っている以上に当事者の先生方は大変だと思います。先日もあるドラマ番組と省が連携して、道徳教育ということを打ち出していましたが、道徳教育について模索しているような印象を受けます。最後にもありましたが、教師や保育者が子ども達を容認し、自己を尊重されているという確信が大切だということから取り組みが広まるといいなと思います。教えられて身につくものではないのかもしれませんね。

  5. 「道徳」の意味を調べると『人々が、善悪をわきまえて正しい行為をなすために、守り従わねばならない規範の総体。外面的・物理的強制を伴う法律と異なり、自発的に正しい行為へと促す内面的原理として働く。』と書かれていました。一見、集団がそれを意識することでよい方向へと向かっていくような感覚にもなりますが、その規範があまりにも狭く、強制的な面が現れて行き過ぎてしまうと、逆効果になってしまう危険性もあるのでは感じました。「自発的に正しい行為へと促す内面的原理」とあるように、あくまでも“「自発的」に社会の中での正しさへと自分を近づけていく道”であるべきということでしょうか。自分を自分で正しいところへと向かわせるには「自律」が必要だと思いますし、それ以前に「自己を尊重されているという確信」を抱かせる必要があるということですね。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です