9月に入ったころ、なんとなく体がだるい気がしました。もしかしたら、「夏バテ」だったのかもしれません。皆さんは、どうでしょうか。夏バテは、どうして起こるのでしょうか。夏バテの回復方法をお教えします。
夏バテはおもに、冷房がきいた部屋と室外との気温差が激しいなど、暑さや湿気の急激な変化に体のリズムがついていけず、自律神経の働きが鈍くなることから起こります。症状としては、全身がだるい、思考力が鈍る、食欲がなくなる、夏カゼをひく、下痢をおこす、などがあります。また時には、頭痛、発熱、めまいといった症状を伴うこともあります。夏バテは、自律神経だけでなく、夏に冷たい食べ物を食べ過ぎたり、食欲がなく、毎日ソーメンで済ませたり、食事の不摂生からの胃腸の不調から来る場合もあります。これらの症状に悩まされる人は、まず体力を養うことが大切です。食欲がないときでも、たんぱく質やビタミン、ミネラルを中心に、良質なものを少量でも食べたほうがいいのです。さらに、食欲を刺激するために香辛料を使ったり、香りの強い野菜を摂取します。まだまだ暑い日がありますが、この時期は、極度な温度差は体に負担がかかるので、冷房はなるべく使わず、逆に寒い室内では、温かい飲み物やひざ掛け、カーディガンを利用するなどの工夫も必要です。食材にも、さまざまな効果がありますので、上手に取り入れましょう。エネルギー代謝の促進をしたいときには、ウナギ、えだ豆、ねぎ、豚肉が効果あり、食欲不振の改善には、ししとうがらし、しょうが、とうがらし、みょうががよく、消化活動の正常化には、パイナップル、もやし、胃の粘膜の保護には、おくら、やまいもで、良質なタンパク質を多く含むものとしては、豆腐、のぼせの解消には、とうがんをとるようにします。また、夏バテにはそうめんよりもおそばがおすすめです。小麦粉を原材料とするそうめんなどとそばでは、たんぱく質の性質が大きく違い、そば粉には穀類に少ないリシンやトリプトファンなどの必須アミノ酸が比較的多く、穀類中では最も良質のたんぱく質が含まれているといわれています。またそばの中でも、夏そばが一番ビタミンP作用を持つルチンを多く含んでいます。ただ、ルチンは水に溶ける性質があるので、そばの茹で汁の方に多く含まれます。ルチンは高血圧に良いと言われているので、そば湯も後で、飲んだりするほうが良いですね。もちろんそうめんなどでも、薬味や具を工夫することで栄養を摂ることはできますが、夏バテ気味で食欲がないという人は、おそばで体力の回復を図るといいかもしれません。また、先日、生姜湯を紹介しましたが、夏バテにお勧めは、「菊湯」などはどうでしょうか。菊の芳香には、カンフェンなどの精油成分があり、皮膚を刺激して血行を促進し、身体の痛みをやわらげる効果があります。また保温効果も高く、身体の芯まで温まるので、夏の疲れをほぐすにはピッタリのお風呂です。一般的に菊湯というと、乾燥したものを使いますが、葉をつんで生のまま使ってもよいですし、生の花びらを浮かべて秋の香りを楽しんでもよいでしょう。菊湯に用いるのは、野生で多くみられるリュウノウギクという種類です。リュウノウギクは、秋に花が咲いている時に地上部を刈り取り、陰干しにするか、その都度葉をつみ取り、生のまま使います。2つかみ(30g)を布袋に入れ、上から1升の熱湯をかけて15~20分ほど蒸らし、汁ごと浴槽に入れ、よくかき混ぜます。または少し多めの量を布袋に入れ、水から沸かしてもかまいません。夏バテ気味の人は、一度、試してみてください。
月別アーカイブ: 9月 2006
情報
先日のブログのほかにも、よく新聞紙上には、さまざまな調査結果や、アンケート集計が掲載されます。私たちは、その結果を見て、今の時代を知り、今の時代を嘆き、とるべき行動を決めることがあります。しかし、それは危険をはらんでいます。だからといって、一人の力では、傾向を探ることには限界があります。身の回りだけの情報では、偏る可能性が大きいからです。かつて、テレビで放送されていましたが、渋谷で未成年の女の子に喫煙を注意したところ、「タバコなんて、私の知っている子は全員吸ってるよ!」と答えていました。確かに、その子の周りの友達は全員吸っているかもしれませんが、逆に、違う仲間は、全員吸っていないこともあります。そのために調査は必要なのです。そして、その結果から、真実を見る目を持たないといけないのです。次の結果から、皆さんはなにを考えるでしょうか。
調査は7月、全国の高校1~3年の6168人(うち女子3311人)を対象に実施した、高校生向けの月刊紙「高校生新聞」が行ったモラルや人生観に関するアンケート調査です。その結果、高校生の5割は友人との飲酒や、電車内での携帯電話使用を容認していることが分かったそうです。同紙編集部は「教師や親など身近な大人の行動の影響が大きいと推測される。手本となるしっかりした大人が減っている表れでは」と分析しています。
また、調査は昨年11月に第一生命経済研究所が、「情報機器がシニアの生活に与える影響」について、50~79歳(シニア世代)の男女780人にアンケートを郵送し、731人の回答を得た結果です。携帯電話は58%、パソコンは51%が使っていました。携帯電話でメールを使う人に「メールの相手」を複数回答で聞いたところ、一番多かったのは「別居している子ども」(83%)で、「同居している子ども」(77%)、「配偶者」(60%)と続いています。「メールで親密になったと思う相手」もトップは「別居している子ども」(50%)。「同居している子ども」(34%)、「趣味・サークルなどの友人・知人」(32%)と続き、「配偶者」(21%)は7番目で、同居家族や配偶者は、メールの頻度に比べて親密になった割合は低かったそうです。調査した副主任研究員は「別居家族や友人などとのメールは、親密度を高めるのに大きな役割を果たしているが、同居家族とのメールは実用的な連絡手段という意味あいが濃いことがうかがわれる」と分析しています。
米誌ニューズウィークは先月、「世界の大学100校」を選定しました。こうしたランキングはどんな基準で選ばれ、どんな影響力を持つのでしょうか。1位は、ハーバード大、以下、2位スタンフォード大、3位エール大、4位カリフォルニア工科大。5位カリフォルニア大バークレー校、そして6位にやっと英国のケンブリッジ大(英)、7位マサチューセッツ工科大(米)、8位オックスフォード大(英)と続きます。100位までに入った日本の大学では、16位東京大、29位京都大、57位大阪大、68位東北大、94位名古屋大だけです。この結果に対して、数年前、USニューズの元編集担当者が「データには問題がある」と告白し、信頼性に疑問も出ていますが、各大学とも毎年、この順位変動に一喜一憂するほど影響力は大きく、連邦政府の予算配分の結果と序列がほぼ一致していたという報告もあるほどだそうです。そこで、「最も有力な調査で、より上位になるよう戦略を考えることが重要だ」との声も出ています。そこで、評価のからくりをよく知って、正当な評価が得られるよう努力することが求められているとむすんでいます。
生姜
今日、都内を歩こうと思って電車に乗っていたら、社内にはっぴを着た女性が二人乗っていました。どこかで秋祭りでもやっているのだろうかと携帯電話で調べてみたら、「だらだら祭り」というのをやっているようです。祭りの名前が面白いので行ってみることにしました。その場所は、「芝大神宮」通称「芝神明」といい、9月10日~21日まで例大祭の真っ最中でした。
浜松町の駅のそばで、港区役所や芝増上寺の近くにあります。この芝大神宮は、伊勢神宮の御祭神、天照大御神(内宮)、豊受大神(外宮)の二柱を主祭神としてお祀りしています。御鎮座は遠く平安時代に創建された由緒あるお社です。普通の祭りは数日間ですが、ここの祭りは10日間にも渡って行われるために、口の悪い江戸っ子は 「だらだら祭り」と呼びます。秋の長雨の頃にかかって、祭りの最中よく雨が降ったので「めくされ祭」とも云われました。このお祭りは、別名を「生姜市」と言います。それは、境内で「御膳生姜(ごぜん生姜)」と呼ばれる縁起物の生姜が売られているからです。
ここの生姜を食べると、風邪をひかないと言われています。生の生姜のほか、生姜飴、生姜湯なども売られているので、それらを買いました。昔このあたりには生姜畑がたくさんあったそうが、今は、高知生姜が売られています。昔は売れると柏手を打つくらい、そうまるで熊手市のようなにぎわいだったと言われます。生姜といえば、昔、浪人、由比正雪が幕府転覆の謀反を仕掛けたとき、川に毒を流したとの噂が流れました。しかし、上流で老女が生姜を洗っていたため、江戸は無事だったということから、毒消しの生姜は大変な人気になりました。お寿司の「ガリ」にも 殺菌作用があるということでつかわれています。生姜には、主に3つの種類があります。年中出回っている「ひね生姜(根生姜)」と、栽培した年にできた新物の「新生姜」、谷中生姜のような葉をつけたまま出荷する「葉生姜」です。「ひね生姜」は、皮に傷がなく、肉厚でみずみずしい鮮度感のあるものがよいといわれています。保存方法は、水分があるとカビが生えやすいので、湿ったものは少し陽にあてて乾かし、肌が白っぽくなったらラップで包むとよいそうです。冷蔵庫に入れたほうがより風味が保てるようです。また、季節の変わり目は、なにかと風邪を引きやすいものですが、風邪の引きはじめには、生姜汁にお湯を加え、砂糖かハチミツを入れて甘くした「生姜湯」をよく飲みますが、これは日本に限ったことではないそうです。中国ではスープや粥に生姜を入れて食べますし、スエーデンでは、生姜とハチミツ入りのビールを飲み、インドではこしょう入りのハチミツを生姜につけてなめるそうです。それは生姜に含まれている辛味成分と精油成分が、血行を促進させて身体を温める効果があるからです。また生姜の辛味成分には、防腐・抗菌作用と抗酸化作用があるほか消化を助ける働きもあります。日に日に寒くなるこの時期には、身体の芯から温めてくれる「生姜湯」のお風呂がお勧めです。熱めのお湯での足湯でも、十分に身体を温めることができます。風邪でお風呂に入れない時などに試してみてください。まず、市販の生姜をひと握り分(80g)をすりおろします。そして、そのしぼり汁を浴槽に入れてかき混ぜます。さらに、薄くスライスした生姜を布袋に入れ、揉みながら入浴すると芳香効果が増します。早速、今日買ってきた生姜をいただきました。
自然の脅威
昨日の土曜日に、福岡で研修会があり参加をしました。しかし、今日は、大型台風が九州に近づき、予定を変更して、昼前に飛行機から新幹線に切り替え、無事に帰ることができました。案の定、登場予定の飛行機の便は、欠航になりました。よく、日本に上陸しますね。日本に上陸したり、接近したりする台風がデータ的にも増えているようです。1976年から1980年の間の5年間では、上陸回数は11回だったのが、2001年から2005年の間では、20回あるそうです。接近した回数も、49回から67回に増えているようです。
「記録的な猛暑」「記録的な豪雨」「気象庁始まって以来の記録」「観察史上初めての」こんな言葉が気象情報ではよく流れます。そんなに、毎年記録を更新しているのでしょうか。こんな異常気象になんだか、寒気を覚えます。そして、それに慣れていく人々を見ると、心配になります。本当に、異常気象は起きているのでしょうか。しかし、数字で見たり、発表を聞くと、確かに自然現象に異変が少しずつ起きてきている気がします。これは、日本列島だけでなく、世界規模でもあるようです。たとえば、「記録的な豪雨」というところで見ると、1時間の雨量が50ミリ以上を「非常に激しい雨」と言うようですが、この量を降った回数は、1976年から1985年までの10年間の平均は、年209.0回だそうです。それが、1996年から2005年までの10年間では、289.8回に跳ね上がるのだそうです。そして、1時間に80ミリ以上の降水量のときを「猛烈な雨」といいますが、これになると、12.5回から21.5回と72%も増えているのだそうです。1時間あたりの降雨量だけでなく、1日あたりの降雨量でも、200ミリ以上あった回数も、162.7回から、239.0回へ、400ミリ以上という危険な降雨量は、6.3回から14.9回へと2.4倍になっているそうです。その原因は、上陸、接近した台風の回数が増えたこともありますが、今年は、梅雨のころも異常な豪雨がありました。また、冬は冬で、最近記録的な豪雪に見舞われることもしばしばあります。これらは、「自然の脅威」といわれますし、「自然を征服することはできない」というように、仕方ないかのように言われます。確かに、人間では、大自然の営みをコントロールするのは、難しいでしょう。しかし、これらの現象は、どうも、純粋な自然界の営みではなく、人間が引き起こしている部分が多くあるようです。となると、今後、ますます記録は更新されていくでしょう。この現象は、気象上記録を更新していくだけならまだいいのですが、実は、被害に影響するのです。たとえば、台風などの風水害や雪害による死者の数が、10年前の1994年には、36人で、その後この数を下回った年はないそうです。なんと、台風の上陸回数が観測史上最多の2004年には、259人も亡くなっています。この都市の水害による被害総額も2兆138億円と統計開始以来最悪の記録だったそうです。このような被害の拡大に向けて消防庁が今年の5月に「風水害対策の強化について」という通知を各都道府県に対して出しました。そこには、「避難体制の整備」「初動体制の確立」「防災知識の普及啓発」といった項目が並んでいます。保育園では、毎月1回以上は、避難訓練、消火訓練、通報訓練、そして、年1回広域避難訓練、引渡し訓練が義務付けられています。これは、風水害に対してというよりも、主に火災や地震に対してですが、やはり、きちんと避難訓練をやることが必要だと思います。そして、年1回は、給食に「すいとん」を食べ、隔年で、保存用パンと、飲料水を配っています。自然のことだからどうしようもないといわずに、日ごろからの意識が大切でしょうね。
調査結果
新聞などに、よく「調査結果によると」ということが発表されることがあります。しかし、その結果を見ると、「本当かな?」と思ってしまうこともよくあります。また、結果については改ざんできませんが、その分析では、どうにでも取れるものがありますし、自分の都合のよいように解釈して、やはり、「そんなことかな?」と思うことがあります。しかし、少なくともそんな傾向であることは間違いないでしょうが、この調査結果から、逆に違う問題点も見えてきます。
9月13日発表で、「公立小学生の校内暴力、過去最多に 対教師30%超増」という記事が掲載されていました。「05年度に公立の小学校内で児童が起こした暴力行為の件数は、前年度より6.8%増の2018件で、統計を取り始めた97年度以降、過去最多となったことが13日、文部科学省の調査でわかった。特に教師への暴力は38.1%増の464件と、3年連続で30%を超え、歯止めがかかっていない。公立の小中高生全体の校内暴力も0.9%増の3万283件となり、2年ぶりに増加に転じた。」というものです。この調査は、全国すべての公立小中高校が対象で、各教委を通じて実施したそうです。その中で、教師に対して、いすを投げつけたり故意にけがをさせたりといった、一定水準以上の暴力について、学校から上がった報告を集計したといいます。しかし、この数字で?と思うことがあります。この件数の各都道府県別を見ると驚きます。東京近郊の今年の件数の数字では、埼玉は113件、千葉は54件、東京は65件、神奈川は501件となっています。地域のよって差があるのは当然でしょうが、神奈川県に比べて、東京都が余りに少ない気がします。そんなに東京の子は、いい子なのでしょうか。これは、調査方法をもう一度見ると、「学校からあがった報告を」ということは、実際に起きた件数ではなく、学校の認識の違いかもしれません。しかし、「一定水準」を定めているので、認識にそんなに違いは出るはずはありません。では、どうしてでしょう。ラジオで尾木教授がこう言っていました。「東京は、今学校選択性を行っている地区が多いため、自分の学校が暴力が多いと、選択されなくなり、校長としての力量が問われることになる。また、教師も人事考課を行っているので、自分のクラスに起きているとなると、給料や昇進などに影響する恐れがあるので、報告しない場合がある。」こんなことでは、本当に子どものための教育を考えることができないでしょう。単純に、企業の競争原理を教育、福祉に持ち込むと、このようなことが起きる可能性は大いにある気がします。また、分析にしても、文科省によると、昨年より増えた原因のひとつに「なかには子どもの暴力行為がわかっても、保護者が注意しないといった事例も報告されている。」からと言っています。私は、この状況をすぐに保護者のせいにすることがありますが、もう少し、真摯に教育方法、教師のあり方を見直すべきだと思います。また、文科省は「はっきりとした原因は分からないが、けんかの仲裁に入った教師に逆上し、矛先を向けるケースが多いようだ。子どもの暴力について小学校側の危機意識は、もともと希薄。学級担任制で、担任一人に任せきりになるため、問題が放置されやすい状況がある」と分析しています。大人の目が届かないからという分析も、おかしい気がします。子どもがどうしてそのような行動をとるのかの検証がもっと必要でしょう。
選択
私の園では、食事のときには、自分で食べる量とか、食べたくないものの選択ができるようになっています。また、自分で、自分の体をコントロールできるようになると、お昼寝をするかしないかを自分で決められるようになります。そのほかの活動においても、基本的には、少なくとも二つ以上の選択肢が常にあるようにしています。たとえば、どの活動の時間帯でも、図書コーナーだけにはいってよいことになっています。それは、必ずしも自分勝手に好きなことをしてよいということでなく、提示した活動を子どもがしようとしないときに、その気持ちを考えることで、子どもの心が見えてくることがあるからです。その気持ちに沿い、共感することで、自ら提示した活動に取り組みようになるからです。また、別の意味では、活動を自ら選択することで、その選択肢が少なく、大人から見ると究極の選択であるかのように見えても、子どもからすると、自発的な活動をしている気になるのです。子どもたちに、絵を描かせたいと思ったときに、「描きたくない!」という子が、何人かいます。そのときに、「遠足の絵と、運動会の絵とどちらが描きたい?」と聞くと、思わず、どちらかの絵を言うことが多く見られます。そんなことに近い話が、9月15日の 読売新聞に掲載されていました。「『選択理論心理学』教育に成果、広がる実践」というタイトルです。「教師が強制するのではなく、子供に自分で行動を選ばせ、責任を持たせる教育手法が注目されている。選択理論心理学に基づくもので、アメリカでは多くの学校で取り入れられ、成果を上げている。国内でも、日本選択理論心理学会がサマースクールや教員への講習を通じ、実践を試みている。」というリードがあります。内容は、「自分で選び行動に責任」ということで、実践が紹介されていました。この選択理論心理学は、自ら行動を選択する心の動きを研究し、カウンセリングなど様々な分野に応用するものだそうで、1970年代、米国で教育分野に取り入れる試みが始まり、カナダやオーストラリアなどにも広がっているようです。「自分自身で選ぶことにより、子供は行動に責任を持つようになる」という考えに基づき、暴力を振るったり、騒いだりする子供についても、しからずに自分の行為を振り返らせ、間違いに気づかせます。米国ではこうした教育が約200校で採用され、暴力行為やいじめなどが減り、学力も向上したといいます。日本では80年代後半から研究が始まり、2002年には日本選択理論心理学会が発足。現在、教員や主婦、会社員ら約600人の会員がいる。同会の実施する講習を受けた教師たちが、学校での指導に同理論を生かしているケースもあるといいます。「学年の枠を超え、共同作業をさせることで、競争意識ではなく、協調する気持ちを育てる」と、指導の特徴を説明しています。これは、小学生以上を対象としていますが、私は、幼児の世界こそ、その考え方を持つべきだと思います。その理由のひとつには、幼児期こそ、発達の個人差が大きいことがあります。また、認知的なものよりも、体験からの発達を促すことに課題があるからです。しかし、きちんと、幼児においての選択能力の領域の把握が必要です。その能力の範囲内での選択肢を用意するべきです。これは、必ずしも幼児に限らないかもしれません。大人でも、自分で選択する能力がなければ、決めてあげるとか、強制せざるを得ませんね。最近の飲酒運転のニュースを聞くたびに、そんな気がします。
好き嫌い
「キャベツ」と「レタス」の話題をもうひとつお話します。皆さんは、キャベツとレタスのどちらが好きでしょうか。漠然とそう聞かれると、たぶん、食べるときの好き嫌いで答える人が多いでしょうね。食べるときでも、味だけでなく、舌触りや、色も影響するでしょう。また、違う聞き方をするとどうでしょうか?形はどちらが好きですか?色はどちらが好きですか?感触はどちらが好きですか?と聞かれると答えは違ってくるかもしれません。好きですか?と聞かれて、どの部分を優先して答えるのでしょうか。以前、子どもの絵本の編集委員をしていたことがありました。そのときに、4月号の表紙を決めることになり、「キャベツ」か、「レタス」か議論をしたことがありました。そのときは、どの観点から選ぶのでしょうか。そこで、現場の保育者さんに、ふたつの写真を見て、なにもいわずに印象でどちらがいいか聞いてみることにしました。何園かで行いましたが、どこの園でも、まったく答えが、同数で分かれました。おおよその傾向として、年配者は「キャベツ」、若い人は「レタス」と答えた人が多くありました。キャベツを選んだ人は、その理由として、「色がはっきりしているから」「形がはっきりしているから」で、レタスを選んだ人は、その理由として、「形がソフトだから」「色が淡いから」そして、なにより「フレッシュで、さわやかな感じがするから」というものでした。そのときの私の意見は、「絵本を指導するときに、4月号として、モンシロチョウなどと関連して春を認識させたり、身近な食事からのイメージを膨らませるには、料理法の多い「キャベツ」のほうが子どもに話しやすいのではないだろうか。また、葉の筋を道になぞらえたりして、そのあとに子どもの好奇心を膨らませやすいのではないだろうか。」といろいろと考えてしまいます。

キャベツをテーマにした運動会プログラム
そこで、当の本人である子どもはどう思うかを聞いてみることにしました。すると、ほとんどの子が、食べるのは「キャベツ」の方が好きなのに、絵として、雰囲気として、理由はよくわからないけれど、「レタス」の方が好きと答えました。でも、それでいいのかもしれません。子どもたちの毎日は、理屈ではありません。大人の好みの押し付けで過ごすのでもありません。絵本の内容にしても同じようなことに出会うことがあります。どうしてこれが面白いのか大人にはよくわからない場合があるのです。逆に、面白いのではと思うのに、子どもは少しも喜ばないこともあります。とくに、読んでほしいような、ためになるような本は、その思いが強いほど子どもは嫌がることが多くあります。矢玉四郎さんの「はれぶた」シリーズや、那須正幹さんの「ずっこけ」シリーズなどは、始めは大人の評価はあまり高くありませんでした。しかし、子どもの絶大な人気を得て、あらためて評価されたものです。私の好きな作家の山中恒さんも、「児童書は、ただ面白ければよい:」とまで言い放ち、自分の書いたものを「児童文学」と呼ばずに「児童読み物」と呼びます。子どもたちが、なんとなく「おもしろい」と思う裏には、それなりの理由が潜んでいるのかもしれません。それは、決して、大人の世界での享楽的なものとかではなく、子どもの共感を得るものだからです。そこで、子どもに「この本を読みなさい!」「この本は、おもしろいよ」と押し付ける前に、本を読み聞かせたあとなどに、「ああ、面白かった!」とか、「ああ、かわいそうだね。」と、自分の感想を、大人は言うだけでもいいと思います。
利用と収集
ある小冊子に池谷裕二氏という気鋭の脳研究家がこんな記事を書いていました。「私たちは、情報の“利用”と“収集”という背反する二つの選択の中で生きている。スーパーマーケットでサラダ用にレタスを買っている女性を例に考えてみよう。彼女は、レタスが大好物である。逆にキャベツやきゅうりは好きでないので、あまり買うことはない。そんなある日、いつものように買い物に出かけると、レタスの隣に“甘さたっぷり”とかかれた新種のキャベツが並んでいた。いつも通りレタスを買えば、美味しいサラダが食べられることは約束されている。しかし、新しいキャベツはどうだろう。もしかしたらこの新種キャベツはレタス以上に自分の嗜好にあっているかもしれない。もちろん、この新野菜に挑戦したところで、やはりニガテな味だったということもありえるだろう。この例では、“いつも通りレタスを買う”という選択が、過去の情報を“利用”することに相当し、“新種キャベツを買ってみる”ことが新しい情報を“収集“するという冒険に相当する。安全の確保かリスクに賭けるか―彼女は、この背反する選択肢から意思決定しなければならない。この時、脳はどのようにして判断を下すのだろうか。」このときの脳を、今年の6月にロンドン大学のドウ教授という人が報告したそうです。私は、性格だと思いますが、どうも新しいことを多少リスクがあってもやろうとしてしまうところがあります。分かれ道にくると、つい、今まで行ったことのないほうの道を選んでしまいます。また、以前、ある人とイタリアに行って、レストランに入ったときのことです。メニューに何が書いてあるかわからなかったので、何でもいいと思い、上から適当に何品か頼んでみました。そして、食べ終わった後で、最後のもう一皿頼もうとしたとき、仲間たちは、「頼んだ中で一番美味しかったものを最後に頼もうか。」と言ったのに対して、私は、「どうせ、あと一皿頼むのだったら、まだ食べていないものを頼んでみようよ。」と言ったのです。どうも、私は、「安全」よりも「冒険」を好むようです。この冊子の最後には、「日常生活でも、当初最もよい選択であったからといって、安全パイばかりを選んでいると、知らぬ間に世界が変わっていて、浦島太郎よろしく、気づけば大損をしていることもありうる。だからといって、根拠のない賭けばかりでは、これもまた問題である。つまりは、“情報利用と情報収集のバランスを保て”ということになるのだが、不思議なことに、年を重ねると、私たちは情報収集型人間から情報利用型人間へと変化していく傾向がある。身近な人との会話だけで1日が終わっていないだろうか。新しいレストランが開店しても、行きつけの店ばかりに通っていないだろうか。改めて生活習慣を見直してみれば思い当たる方もいるだろう。たまには思い切って冒険脳“前頭極皮質”を開放すれば、普段とは違ったワクワクするような道が開けるかもしれない。」
子どもを相手にする仕事や、人を相手にする仕事は特に時代によっての情報をきちんと得ていかなければなりません。子どもの育つ環境、文化をきちんと理解しないと、適切な援助が行えないからです。古い情報からだけの「利用」は、安全パイどころか、危険パイに変わっていることがあるからです。新しいものへの改革とか、変化とかは、とかく「向こう見ずな冒険」と勘違いされることがあります。しかし、きちんとした「情報収集」があれば、「冒険」は、長い目で見た安全パイを見つけることになるのです。
IT活用
最近、学校での授業にずいぶんとコンピュータが活用されるようになりました。しかし、これは、あくまでも機械であるので、ヒューマンパワーとしての教育界では、まだまだ抵抗があります。しかし、どうも反対を唱える人は、コンピュータを駆使していない人に多いようです。なんだか、自分が使うことに抵抗あったり、改めてその勉強をするのを避ける人に多い気がします。私は、幼児を対象にいろいろと考えることが多いので、特にその活用には慎重になります。しかし、最近、特に先進国と呼ばれている国々では、幼児に対してもそのつかい方をきちんと考えている気がします。アメリカで、乳幼児施設を評価する基準があります。法律文化社から「保育環境評価スケール①<幼児版>」の翻訳版が出版されていますが、その中で、こんな基準があります。幼児施設の評価を7段階で評価します。(番号が大きいほうが望ましい環境)
1段階:使われている教材が発達段階にふさわしくない (例.特に暴力的・性的な内容、闘争的な登場人物や物語、むずかしすぎるコンピュータ・ゲーム)。
2段階:テレビ/コンピュータが使われているときに他の活動ができない。 (例. 全員が一斉にビデオを見る)。
3段階:どの教材も暴力的なものではなく、文化的に配慮されたものである。テレビ/コンピュータが使われているときに他の活動ができる。テレビノビデオを使う時間が限られている(例・テレビノビデオは全日保育であれば1日1時間以下に限られている。コンピュータは最長20分で交代する)。
5段階:教材は「子どもにふさわしいもの」に限られている。(例.セサミ・ストリート、教育的なビデオとコンピュータ・ゲーム、あまりに漫画的でないもの)。コンピュータは多くの自由選択活動のひとつである。ほとんどの教材は子どもが主体的に取り組めるものである(例.ビデオを見て踊ったり/歌ったり/運動ができる、コンピュータのソフトで考えたり意思決定ができる)。保育者はテレビ、ビデオ、コンピュータを積極的に利用する。(例.ビデオを見て子どもと話し合いをする、教育的なテレビ番組で見たことを実際にやってみる、子どもがコンピュータ・プログラムを使って学ぶのを手助けする)。
7段階:創造性を刺激するようなコンピュータ・ソフトがある(例.創造的な絵画・描画、コンピュータ・ゲームで問題解決ができる)。教材が保育室での活動のテーマや内容を発展させるのに役立っている。(例.自然をテーマにした活動に昆虫のビデオやDVDからの知識が役立つ、農場についてのビデオで遠足の準備をする)。
この評価基準には、すこし抵抗があるものもありますが、積極的に活用している姿勢が分かります。
2006年6月28日の毎日新聞に、「1人1人の子供にふさわしい学習を」ということで、イギリスでの取り組みが紹介されていました。イギリス教育技能省のケビン技術局戦略遂行本部長は「学力を向上させるためには、教育を学習者中心に考え、生徒1人1人に適した学習を提供する必要がある。それはITで実現できる」と語っています。イギリスでは、ITを活用しているかどうかが学校選択の理由のひとつになっているようです。
子の心
よく「親の心子知らず」といわれます。親がどれほどの愛情を注ぎ、また、どれほど苦労しているか、当の子どもは気付き難い。子どもは親の望むような振る舞いをしないものだということです。英語では、No child knows how dear he is to his parents.といいますが、このような言い方もあります。It is a wise child that knows its own father.これは、逆説的に「 親の気持ちがわかれば賢い子」という意味です。これとまったく反対にいう場合もあります。「子の心親知らず」ということわざです。この意味は、「親というものは我が子をいつまでも幼いままに見てしまうので、年々成長し発達する子どもの気持ちがなかなか理解できないということ。」と書かれていますが、私は少し違うような気がします。「親の心…」の反対で、「子がどれほど親を思い、慕い、信頼しているかということを、当の本人の親はなかなか気づかない」という意味の方が当てはまる気がします。ですから、違う言い方をすれば、「子の気持ちがわかれば、賢い親」ということになります。一昨日のブログの「アンパン」では、どんな仕打ちをされようが、どのような扱いをされようが、子どもは親を信用しているのです。また、子どもは、一生懸命に親からの愛情を受けるために、親の望みの通りの子どもになろうとします。最近、依存症の若者が増えています。これは、少子化の中で、一生懸命子どものために尽くそうとする親に対して、自立をしてしまうと、親がさびしがり、悲しがると思って、いつまでも親に甘えているのです。子どもなりに気を使っているのです。
有名なシェークスピアのリア王のなかで、父親であるリア王が、娘3人に自分への気持ちを問いただすこんな場面があります。娘は、このような言葉で父親への愛を表現します。長女「私は、言葉で言い尽くせないほど、お父上を愛しています。私のこの目よりも、自由よりも、命よりも、もっともっと愛しています。」次女「お父様を愛することだけが、私の喜びです。その喜びのためには、世の中のどんな喜びだって、捨ててしまいます。」そして、最後の3女がこう言います。「私は、お父様の子として生まれ、育てられ、かわいがられてきました。そのご恩に報いるため、子としての務めを果たします。お父様の仰せにはよく従い、愛しもし、敬いもいたします。」それぞれ、3人の誰の言葉の中に、深い愛を感じるでしょうか。この言葉の中から、本当の子として親を思う気持ちを感じ取れなかったリア王は、不幸な最後を迎えることになるのです。また、親と子どもの気持ちのすれ違いからの不幸もいろいろとあります。「ピーターパン」でも、あの大活躍する話の前の原作には、こうあります。ピーターのお父さんとお母さんが「この子が大きくなったら、どんなになるだろうね。兵隊さんかな。お役人さんかな。」と話し合っているのをピーターが聞いて、「大きくなるのなんか、いやなこった。」と思います。そして、外に飛び出します。しばらくして、母親の元に戻ってきたら、母親は、窓をぴったりと閉め、中でかわいい赤ちゃんを抱いて、幸せそうに眠っていて、ピーターが大声でいくら呼んでも気がつきません。そこで、ピーターは、もうお母さんのことは忘れることにし、しかも、大人になることを拒否してしまったのです。一時期、ピーターパンシンドロームと呼ばれる若者が問題になりました。いつまでも大人になりたくない若者にみられる精神的症候をさすこの言葉の語源は、ここからきています。過度の親の期待は、子どもの気持ちを無視することになり、かえって自立を遅らせてしまうのです。