九十九里浜

 今日の銚子での講演のため、昨日夕方、近くの宿に入りました。そこの部屋の窓の前は、一面の九十九里浜です。千葉県九十九里浜は、66キロに渡る日本で2番目に長い砂浜の海岸です。砂浜に現れる風紋は、風の力や方向で刻々と姿を変え、波打ち際では波が砂を動かし波漣と呼ばれる模様を作り出します。この海岸は、日本の白砂青松100選と日本の渚百選に指定されています。古名は玉浦(玉の浦)ですが、源頼朝の命で6町(1町は約109メートル)を1里として、1里ごとに矢を立てたところ99本に達したという伝承から「九十九里浜」と言われるようになったとの説が有名ですね。その最大で幅100メートル近い広大な砂浜が広がっていたこの浜も、ここ数十年の間の侵食によりその幅は急速に狭まり、かつてのような景観は、無くなりつつあるそうで、残念ですね。まだ、訪れたことのない人は、早いうちに見ておいたほうがいいかもしれません。
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 九十九里浜といえば、小さいころの思い出の中で、「伊能忠敬」と結びつきます。伊能忠敬は,はじめて実測による日本地図を作った人として著名で,戦前は小学校の教科書に載せられ偉人とされました。その伊能忠敬が、九十九里浜を測量機械を引っ張って歩いている姿が浮かぶのです。しかし、本当の結びつきは、彼は、1745年 上総国山辺郡小関村(現・九十九里町小関)の名主・五郎左衛門家で生まれているのです。九十九里が出身地なのです。そして、彼は、18歳の時に、下総国香取郡佐原村(現・香取市佐原)の伊能家に婿養子に入り、以来しばらくは商人として活動します。今、佐原には、「「伊能忠敬記念館」があって、何年か前に妻と訪れたことがあります。伊能家は、酒、醤油の醸造、貸金業を営んでいた他、利根水運などにも関っていましたが、商人としてもかなりの才覚の持ち主であったようで、伊能家を再興し、かなりの財産を築いたほか、佐原の役職をつとめたなどの記録が残されています。そして、50歳の時に隠居し、家督を長男景敬に譲ります。伊能忠敬のすごいところは、これから後のことです。普通は、隠居後は、優雅な、のんびりとした余生を送るのでしょうが、忠孝は、そうはしませんでした。隠居後、江戸に出て、江戸幕府の天文方で、自分よりも19歳の年下の高橋至時に師事し、測量・天文観測などをおさめます。そして、56歳の時に、第1次測量を開始します。以後、17年間にも及ぶ全国測量の始まりです。合計旅行距離(陸路のみ)は 4万kmを超え、ほぼ地球を一周したことになります。最初の測量は蝦夷地およびその往復の北関東・東北地方において行われたのですが、これはもちろん、彼の測量が極めて高度なものであったからですが、実際は、とても大変な仕事です。はじめ幕府は忠敬の実力を信用していませんでした。しかし蝦夷地のあまりにも正確で立派な地図を作り上げたため、幕府は驚きそして彼に全国測量という任務を与えたのです。こうして作られたのが大日本沿海與地全図であり、これは最初の日本地図であっただけではなく、大変精度の高い地図として評価されています。完成したのは忠敬没後の1821年です。有名な長崎「シーボルト事件」というのは、シーボルトがこの日本地図を国外に持ち出そうとしたことが発覚し、これに関係した日本の蘭学者などが処罰された事件ですが、あまりにこの地図が正確であったために幕府もあわてたのでしょう。
 今でいう「生涯学習」の元祖ですね。自分の年を考えても、まだまだこれからという気になります。

九十九里浜” への4件のコメント

  1. 九十九里浜とは対照的な岩手陸中海岸に住んでいると、平らな海岸線が続くさまはまさにカルチャーショックです。中学生の時、地図帳を眺めながら、海岸線の違いに驚いていました。いつかは訪ねてみたいと思っております。
    藤森先生は伊能忠敬さんとは領域は別にしても、全国各地の行脚、という点では類似点があるような気がします。これからの時代に求められる保育教育のあり方を伝えるミッション行です。じきに、世界中を駆け回ることになるかもしれませんね。そうすれば、もっともっといろいろなことをご教示頂けると思います。これからますます楽しくなります。

  2. 伊能忠敬が実測で地図を作り上げたという話を授業で聞いたとき、すごく興味を持ち、その様子を勝手に想像して地図作りを真似しようとしたことがあるのを思い出しました。隠居後の活動だと考えるとあらためてすごいことだと思います。
    九十九里浜には何度か行ったことがありますが、島根県の海の景色との違いに驚かされました。砂浜の侵食は近くでも進んでいます。景色が昔と変わっていくのを見るとちょっと寂しい気がします。

  3. あの測量にはそんな物語があったのですね。年下の人に師事するという姿からも学ぶことの本質や伊能忠敬の人間性を感じるようでもあります。いくつになっても学ぶ姿勢を忘れない姿からは長い人生、どんなおもしろいことがあるか分からないというそんなワクワクした思いも感じます。いい意味で長い目で人生を考えることも必要なのかもしれませんね。また当時の幕府の柔軟な姿勢も感じます。有能な人材であると分かればそれを認め、役割をしっかりと与えるのですね。暦を作る際にもそのような柔軟な人材登用があったと聞いたことがあります。適材適所という表現までいくのか分かりませんが、そのような姿勢が幕府にあったのかと思うとイメージと違う部分もあるので、驚いてしまいます。

  4. 50歳で隠居し、56歳の時に全国測量のため、第1次測量を開始したとは驚きですね。単純に、測量や歩くのが好きであったという答えだけでは済ましたくない功績を感じます。今、何の苦労もなく日本地図を眺められるのも、伊能忠敬氏のおかげなのですね。こういったような先人たちの苦労によって、自分たちの今の生活が成り立っていると考えると、未来は今の自分たちの働きによって大きく変わっていくことが理解できます。それを、「もう年だから…」と言ってあきらめるよりも、生涯を通して自分にできることをしていく姿には、多くの共感が寄せられると思いますし、自分もそうありたいですね。

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