一昨日訪れた石見銀山を見て、日本が如何に銀の生産国として世界で有名だったかを知りました。銀山で採れた銀は、鋳造所に運んで貨幣にします。慶長3年(1598)、徳川家康は、伏見に銀貨鋳造所を設けます。これが、銀座の起源です。ここでは銀の品位を決め通貨を製造しましたが、同13年には京都に移されます。時を同じくして大坂にも銀座がおかれましたが、通貨の製造はしませんでした。主に生野・石見銀山の産銀や、粗銅から抽出した銀を京都に回送する役割を担ったようです。また、駿府(今の静岡市)にあった銀座を、1612年(慶長17年)に江戸に移しました。銀座の「座」とは、貨幣や、度量衡に従う特別な免許品を製造した場のことです。銀座の他に、金座、枡座、秤座、朱座、などがありました。金貨を鋳造した金座は、同じ江戸の常磐橋門外、今の日本銀行がある場所でした。寛政の改革の時、江戸、京都、大阪、長崎にあった4銀座を廃止し、のちに、江戸銀座のみ日本橋蠣殼(かきがら)町に移し、再興されたのです。銀座というのは、始めは地名ではなく、役所の名称にすぎませんでした。そして、銀座は、日本橋の金座があったあたりを両替町と呼んだことに合わせて、新両替町と呼ばれました。しかし、新両替丁と書かれたわきに、銀座という文字が書かれています。通称として銀座という呼びかたがされ、親しまれていたようです。銀座という町名になったのは、1869年(明治2年)のことです。
江戸に幕府が置かれた初めの頃、銀座のあたりは浜と海でした。家康から家光にかけて、幕初の将軍たちは江戸の町づくりに、力をいれなければなりませんでした。そこで、海を埋め立てて、土地を造る工事に、譜代大名の力をあてたのです。この「天下普請」によって生まれた土地には、工事にあたった大名の領地名が付けられたのです。
銀座4丁目交差点の四つ角に「三愛ドリームセンター」が建っています。
これは、三愛社長が、奈良法隆寺の五重塔からヒントを得て、真中の一本の支柱によって支えられた総ガラス張りの円筒の塔を、銀座の街の真ん中に作ることを考えたのです。オープニングは、昭和38(1963)年1月13日深夜0時でした。このオープン記念で、私は中学生の代表として三愛のビルから見た銀座の絵を、出来立てのビルのガラス越しに見て描いた覚えがあります。この「三愛ドリームセンター」は、「日本のモダン・ムーブメントの建築100選」に選ばれています。
また、銀座というと、若い人は知らないでしょうが、私たちの年齢では、柳を思い浮かべます。しかし、柳といえば川岸の木で、なんだか幽霊が出るというイメージで、街路樹というイメージはありませんね。ということで、最初に植樹されたのは日本の代表的樹木、桜と松、楓でした。しかし、銀座は、埋立地のため土地に水分が多過ぎ、植樹された木々が次々に根腐れをおこしました。そこで登場したのが、元来水辺の樹である柳でした。仕方なく植えた柳が、銀座のシンボルとなり、歌や詩歌にも登場するほどになりました。今は、銀座通りからは姿を消していますが、他の通りでは、復活しつつあります。
歌といえば、昭和4年、西條八十作詞、中山晋平作曲の「東京行進曲」の1番ですが、当時、モガ・モボ全盛の、アメリカナイズされた東京の尖端的都市という感じがあります。「昔恋しい 銀座の柳 仇(あだ)な年増(としま)を 誰が知ろ ジャズで踊って リキュルで更けて あけりゃダンサーの 涙雨」
昭和4年、西條八十作詞、中山晋平作曲の「東京行進曲」も大好きな曲の一つですが、やはり、「銀座の柳」をその歌詞に織り込んだ曲、そうです、「東京ラプソディー」。私のカラオケおはこの一曲です。昭和11年に【作詞】門田ゆたか 【作曲】古賀政男、藤山一郎さん歌で大ヒットしたそうです。この曲大好きです。ご年配の方とカラオケをする時にはいつも歌わせてもらいます。昭和11年は亡き父の生まれた年です。戦後、父は東京に出稼ぎに行き、東京駅前の「丸ビル」の建設に一職人として携わりました。私の父は東京が大好きでした。その血を引いた私も東京大好きです。ところで「銀ブラ」という日本語はもう死語でしょうか?おそらく、そうかもしれません。
大田の講演会 ありがとうございます。いつもおいでになって思うこと。 もう少し時間があればゆっくりと見ていただける・・・。今後ともよろしくお願い致します。
遠路おいでいただきましてありがとうございました。
会場の準備などで、ほとんどお話ができませんでした。
残念です。
次回11月は、温泉とログハウスの囲炉裏端で皆様とまざりお話を伺えればと思っております。