若冲

 昨日の日曜日には、上野の東京国立博物館で開催中の「プライスコレクション 若冲と江戸絵画展」に行ってきました。8月14日には、入場者数が20万人を突破したそうです。ただ、昨日は、私も以前に行った「ルーブル展」が最終日ということもあって、そちらの方が混んでいたようです。
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 この絵画展は、伊藤若冲中心の江戸絵画展ですが、それよりも興味を持ったのは、アメリカ・カリフォルニアの「プライスコレクション」というものです。このコレクションは、魅力に満ちた江戸絵画のコレクションとして世界的に知られています。半世紀前、ジョー・プライス氏は当時美術史家にも見過ごされていた江戸時代の個性的な画家たちの作品に目を奪われ、収集を始めたそうです。彼は、大学を卒業して、彼の父親の友人であり、東洋美術のコレクターでもあった建築家フランク・ロイド・ライト(今明治村に保存されている帝国ホテルを設計した人)の付き添いで立ち寄ったニューヨークの古美術店で、画家の名前も伝記も知らない一幅の葡萄を描いた水墨画に心惹かれました。そこで、彼は、大学の卒業記念として買うはずのスポーツカーの代わりに、名前も知らない画家の1枚の絵を手にしたのです。これは1953年、彼が24歳の時のエピソードです。その水墨画こそが若冲の作だったというわけです。ここから、江戸絵画コレクションは始まり、その後「ただ見て気に入ったものだけを集め」たら、クオリティーの高い江戸絵画のコレクション、中でも超貴重な若冲コレクションが出来上がったというのです。彼自身が、そのときのことを、ブログでこう言っています。「50年前、まだ20歳過ぎの若者だった私は、遊びに行ったN.Y.にて伊藤若冲に出会い、そして衝撃を受けました。それが若冲の描いた絵であることも、さらには日本画であることさえ知らぬまま…。人生におけるターニングポイントとは突然やってくるものです。私にとって若冲との出会いは、大きな大きな分岐点でした。」コレクションの中心は若冲の作品ですが、その他にも、独自の自然観察眼と個性豊かな表現技術であり、今注目を集めている既成の江戸絵画観を変える力強い魅力にあふれた作品がコレクションされています。そんな彼ですから、絵の見方も独特で、こんな提案もしています。「学術的または資産的価値など“難しいこと”にはあまり興味がありません。作家名にすら、こだわらないほどです。大切なのは、作品の前に立ったときに何を感じるかということだけ。何かを感じられる作品が、すなわち“名作”なのですから。ぜひ、みなさんも同じように、素直な感覚で楽しんでいただければと思います。ただし、ファーストインプレッションだけで判断するのではなく、できれば、よーく心に染みこませるように鑑賞してみてくださいね。かつて、同じ日本、同じ江戸を中心に展開されていた文化、その中の人間模様を想像してみると面白いですよ。」そこで、展示法も工夫されています。「江戸時代にガラスケースはなかった」というプライス氏の鑑賞態度により、ガラスケースを用いず、光の効果に工夫を凝らした展示室を1室設けてあります。昔は自然光(日光、月光)や蝋燭の灯りで鑑賞をされており、時間によって、その光の当たり方が変わるということで、光が明るくなったり、暗くなったり変わるのです。そうすると、展示されている作品が、動くように、変化します。いろいろな意味で、とても、興味深い展示でした。

銀座

 一昨日訪れた石見銀山を見て、日本が如何に銀の生産国として世界で有名だったかを知りました。銀山で採れた銀は、鋳造所に運んで貨幣にします。慶長3年(1598)、徳川家康は、伏見に銀貨鋳造所を設けます。これが、銀座の起源です。ここでは銀の品位を決め通貨を製造しましたが、同13年には京都に移されます。時を同じくして大坂にも銀座がおかれましたが、通貨の製造はしませんでした。主に生野・石見銀山の産銀や、粗銅から抽出した銀を京都に回送する役割を担ったようです。また、駿府(今の静岡市)にあった銀座を、1612年(慶長17年)に江戸に移しました。銀座の「座」とは、貨幣や、度量衡に従う特別な免許品を製造した場のことです。銀座の他に、金座、枡座、秤座、朱座、などがありました。金貨を鋳造した金座は、同じ江戸の常磐橋門外、今の日本銀行がある場所でした。寛政の改革の時、江戸、京都、大阪、長崎にあった4銀座を廃止し、のちに、江戸銀座のみ日本橋蠣殼(かきがら)町に移し、再興されたのです。銀座というのは、始めは地名ではなく、役所の名称にすぎませんでした。そして、銀座は、日本橋の金座があったあたりを両替町と呼んだことに合わせて、新両替町と呼ばれました。しかし、新両替丁と書かれたわきに、銀座という文字が書かれています。通称として銀座という呼びかたがされ、親しまれていたようです。銀座という町名になったのは、1869年(明治2年)のことです。
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江戸に幕府が置かれた初めの頃、銀座のあたりは浜と海でした。家康から家光にかけて、幕初の将軍たちは江戸の町づくりに、力をいれなければなりませんでした。そこで、海を埋め立てて、土地を造る工事に、譜代大名の力をあてたのです。この「天下普請」によって生まれた土地には、工事にあたった大名の領地名が付けられたのです。
銀座4丁目交差点の四つ角に「三愛ドリームセンター」が建っています。
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これは、三愛社長が、奈良法隆寺の五重塔からヒントを得て、真中の一本の支柱によって支えられた総ガラス張りの円筒の塔を、銀座の街の真ん中に作ることを考えたのです。オープニングは、昭和38(1963)年1月13日深夜0時でした。このオープン記念で、私は中学生の代表として三愛のビルから見た銀座の絵を、出来立てのビルのガラス越しに見て描いた覚えがあります。この「三愛ドリームセンター」は、「日本のモダン・ムーブメントの建築100選」に選ばれています。
また、銀座というと、若い人は知らないでしょうが、私たちの年齢では、柳を思い浮かべます。しかし、柳といえば川岸の木で、なんだか幽霊が出るというイメージで、街路樹というイメージはありませんね。ということで、最初に植樹されたのは日本の代表的樹木、桜と松、楓でした。しかし、銀座は、埋立地のため土地に水分が多過ぎ、植樹された木々が次々に根腐れをおこしました。そこで登場したのが、元来水辺の樹である柳でした。仕方なく植えた柳が、銀座のシンボルとなり、歌や詩歌にも登場するほどになりました。今は、銀座通りからは姿を消していますが、他の通りでは、復活しつつあります。
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 歌といえば、昭和4年、西條八十作詞、中山晋平作曲の「東京行進曲」の1番ですが、当時、モガ・モボ全盛の、アメリカナイズされた東京の尖端的都市という感じがあります。「昔恋しい 銀座の柳 仇(あだ)な年増(としま)を 誰が知ろ ジャズで踊って リキュルで更けて あけりゃダンサーの 涙雨」

石見銀山

時は16世紀、大航海時代。ポルトガルやスペインなどの欧州諸国が遠洋航海に乗り出していった時代に、世界に知られたひとつの名がありました。「プラタレアス」(銀の島)。それが日本です。フランシスコ・ザビエルは、「聖フランシスコ・ザビエル書簡抄」で、「カスチリヤ人は此の島々をプラタレアス群島(銀の島)と呼んでいる。」「…日本の島々の外に、銀のある島などは、発見されていない。」といっています。東アジア貿易の立役者として世界の脚光を浴びた鉱山「石見銀山」を、昨日訪れました。往時の姿を、山間部に、ひっそりと、しかし明確に残していました。その頃、日本の銀産高は、世界の銀産量の3分の1 を占めていたといわれていますが、石見銀山の銀がその大部分を占め、世界の産銀量の15分の1を産出したといわれています。この石見銀山遺跡は昭和44年に、龍源寺間歩をはじめとする14箇所、約27ヘクタールが国史跡に指定され、国内初の鉱山史跡になりました。今、世界遺産登録へ向け踏み出しています。
銀山に向かって車を走らせていると、突然山間に町並みが現れてきます。これは、銀山の北側の出入り口から続く大森地区の町並みです。
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ここには、江戸時代に代官所や役所などが置かれたことから、次第に武家屋敷や商家が増えていったところです。とても風情のある建物が並んでいるこの地は、昭和62年に国の重要伝統的建造物群保存地区に指定されています。住民みんなで、保存に力を入れており、床屋や医院、郵便局までとてもレトロなつくりです。
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その町並みを過ぎ、もっと山奥に入ると間歩と呼ばれる坑道があります。今は竹やぶで覆われた山内を歩いていると、所々に間歩や露天掘りの後が転々と残っています。全部で大小あわせて600以上あるそうですが、そのなかで「龍源寺間歩」は内部が公開されています。
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この間歩は、江戸時代には、開掘の長さは600mもあるそうですが、そのうち300mほど歩いて通り抜けられるようになっています。中は、ノミで掘った跡が当時のままの状態で全体に残っています。出口付近に展示されている資料を見ると、道を掘り進めるために、土や石を外に運び出す人、空気を中に来る人、あふれ出る水を外にくみ出す人、それぞれが必要なのです。
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この銀山を訪れてまず感じたことは、こんな地味な山の中で、よく銀山を見つけることができたなあということです。石見銀山が、いつ、誰に発見されたのかを確実に伝える資料は今のところ見つかっていないそうです。昔は、露出している銀をたまたま見つけたのでしょう。しかし、南北朝時代では、採掘の技術を知らず、露出した自然銀のみを採っていましたので、すぐに採り尽くしてしまいました。それが、銀の製錬法である「灰吹法(はいふきほう)」という方法が導入され、一転して銀の輸出国に変わったのです。戦国時代から、銀山を含む石見国は争奪の的となっていましたが、結局、毛利氏が石見国を平定します。豊臣秀吉が全国を統一した後は、毛利氏は豊臣氏の大名として中国地方を知行し、銀を豊臣氏へ納めます。徳川氏が将軍となり江戸に幕府を開いてからは、家康は全国の都市や鉱山を直轄地(天領)としましたが、石見銀山もその対象となっています。出来上がった灰吹銀は極印を押し、大坂の銀座に納めます。大坂までのルートは大森町から陸路尾道へ、尾道から海路大坂へ、というものだったようです。シルバー・ラッシュのころのシルバーロードですね。

国引

 なんだか、週末になると地方めぐりです。どうしても、研修は土、日曜日しか取れないですね。今日宿泊しているのは、三瓶山の山間に有る宿です。
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 石見国と出雲国の国境に位置する三瓶山は、「出雲国風土記」が伝える「国引き神話」に登場しています。国引き神話とは、「八束水臣津野命(ヤツカミズオミヅノミコト)というとても力の強い男の神様が、出雲の国がまだ出来たばかりで、ちょうど幅のせまい布のような形をしているのを見て、何とか自分の力で広い大きな国に、作り直してやろうと考えました。そこで、海の向こうの新羅の国に余った土地のあるのが見つかったので、その端の所に大きな鋤を打ち込み力一杯ぐっと手元へ引き寄せ、太い丈夫な綱を結び付け、その網の一方を持って、「国来、国来(くにこ、くにこ)」と掛け声を掛けながら引っ張りました。するとその土地は、こちらに近づき、出雲の国の北側にくっつきました。その時、この北山が出雲の国から離れないため、南の山の中に1本の大きな杭を打ち込み、それに引いてきた綱の端をしっかり結び付けておきました。その杭が今の三瓶山で、引いてきた綱が長浜だということです。その後も、いろいろなところから余った土地を引っ張ってきて、出雲の国を広げたということです。」この国引神話には、北陸の能登半島の珠洲岬から新羅の岬までが入っているように、出雲の国だけでなく、対象範囲が非常に広く、ずいぶんとグローバルで、ダイナミックな神話ですね。たぶん、そのころは、新潟、北陸、更に新羅の国とも交流があったのでしょう。
 これが書かれている「出雲国風土記」は、713年の奈良時代に、時の政府は全国60余りの国に、その地方の地名の由来、特産物、古老の伝承などを調査し、報告するように命じ、作らせた風土記のひとつです。しかし、これらの『風土記』は1,300年もの長い間に、大半のものが部分的に散脱しており、すべてが完全に残っているのは『出雲国風土記』だけです。日本の古代の書物は、『古事記』『日本書紀』などが有名ですが、これらは中央政府(奈良の都)の政治史を中心に書かれており、地方のことは詳しく書かれていません。その点、風土記は、その地方がどのような姿をしていたかが克明に記されていますので、奈良時代の様子を知ることができます。風土記は、国を引っ張るというような途方もない話が登場するので、架空の世界ととらえられがちですが、ある程度は事実だろうと考えられています。これまでも、風土記の記述を頼りに、さまざまな建物や宝物が発掘されているからです。日本神話によると、日本列島はイザナギとイザナミが生んだということですが、「出雲國風土記」では、土地を造る手段は国引きであるとしています。この土地を引くというのは「出雲國風土記」だけでなく、「万葉集」の恋歌にも「山を引く」とでてきますし、朝鮮半島からシベリアにかけての北方にもあるそうです。この三瓶山は、風土記では、佐比売山(さひめやま)という名で記されています。「佐比売」の名は、1954年に大田市に合併するまでの地名「佐比売村」として残っていました。ここでは、町村合併で、由緒ある名前が消えてしまっています。現在では大山隠岐国立公園の三瓶山地域として年間多くの観光客が訪れています。三瓶山は標高1,126mの男三瓶を中心に、女三瓶、子三瓶,孫三瓶の四つの峰から成り立っている火山です。山麓には北の原,西の原、東の原という緩やかな平原や浮布の池などのレジャースポットが点在しています。また裾野には湧き出る温泉を利用して旅館施設などがあります。また平成10年には、噴火によって埋没した杉などが発見され話題になっています。今日は、それを見ることができずに、残念です。

暑さ

いよいよ、高校野球も大詰めですね。今年は、東京勢が強いようです。この高校野球は、春夏行われますが、夏は、応援が暑くて大変でしょうね。甲子園球場は、一塁側が西で、三塁側が東にあります。ですから、朝は一塁側の日射しが強く、昼過ぎになると反対の三塁側の日射しが強くなります。実際にベンチの気温を測ったそうですが、やはり午前中は一塁ベンチが暑く、午後は三塁ベンチの方の気温が高くなったそうです。どのくらいの差があるのでしょうか。また、きっと、その日の気温よりは、ベンチは何度か高いでしょうね。何回かブログでその活動を紹介しましたが、八王子保育研究会で、いろいろなところの気温を測ってみて、その差がどのくらいあるかを調べたことがありました。たとえば、子どもと手をつないで外を歩くときに、大人の顔のあたりの温度と、子どもの顔のあたりの温度差を見ました。それから、そのときのベビーカーの中の温度も測ってみました。実は、アスファルトの上は、大人が体感する以上に熱くて、50℃?60℃近くにまでなるそうです。プールサイドなどを裸足で歩くと、熱くて歩けないほどです。その熱を子どもは、より近くで影響を受けているのです。いわゆる、地面からの反射熱は、地面からの距離が近いほど強いのは当然ですね。まして、ベビーカーの中は、とても高くなっているはずです。海辺で、パラソルなどで日陰を作って直射日光をさえぎっても、照り返しによる反射熱で、かなり熱くなってしまうのと同じです。
また、都市部の気温は年々上がり続けています。等温線をひくと都市の中心部に行くほど気温が高く、まるで都市の中心に熱い島があるような分布になるために「ヒートアイランド」といわれています。東京だけでなく、世界の各都市に見られる現象で、人が作り出した気候です。一面のアスファルトやコンクリートは、熱をため込み、暑さをしのぐクーラーから出る熱風が、更に気温を上昇させるという悪循環を引き起こしているのです。また、コンクリートは、昼間の熱を溜め込んで、夜になって放出しますから、昼間の気温が上がるだけではなく、夜間の気温も下がりにくくなります。郊外ではたくさんの木々が熱を吸収してくれますが、都市の緑は公園に残された程度で、街を冷やす効果はほとんどありません。どうしたら、この悪循環から抜け出すことができるのか、ということで、さまざまな提案がされています。有名なところでは、地域ぐるみで、打ち水をするというところがあります。他に、ベランダや窓辺に、つる性の植物を這わせた「緑のカーテン」をほどこす方法があります。「緑のカーテン」は直射日光を最大8割カットする上に、外からくる反射熱もシャットアウトします。その上、植物は「蒸散作用」によって周りの熱を奪い気温上昇を和らげる効果もあるのです。30℃を超える真夏日でも、部屋の温度を最大で5度程度低く抑えることができるため、これをしているマンションではクーラーに頼らない生活を送る人達が増えているそうです。更に、小学校でも緑のカーテンを導入したところ、「クーラーのない教室でも涼しく授業に集中できる」と大好評だそうです。
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 園舎内の緑
また、住宅地の真ん中に手作りの菜園を作り、街の中に涼しい風を吹かせようという実践もされています。調査では、菜園の中は常に1℃?3℃周囲よりも気温が低く、30℃を超える真夏日でも涼風が吹き抜けるそうで、更に、菜園で作られた冷気は風下の住宅地にも流れ、ヒートアイランドを緩和する効果があることが明らかになっています。やはり、緑はたいしたものですね。

12個の惑星

 誰でも暗唱している「水、金、地、…」という太陽系の9個の惑星が、一気に3個増え、12個になる可能性がでてきています。チェコ・プラハで開催中の国際天文学連合(IAU)総会で16日、惑星の新定義が提案されたためです。太陽系で惑星と認定されたのは1930年発見の第9惑星・冥王星が最後ですが、米観測チームが昨夏に冥王星より大きい「第10惑星(2003UB313)」の発見を発表するなど、近年、新天体の発見が相次ぎ、惑星の定義の見直しを迫られています。増える3個の候補は、第10惑星のほか、小惑星「セレス」と冥王星の衛星とされてきた「カロン」です。新定義を承認するかどうかの採決は、現地時間24日午後の予定です。どうなるでしょうか。なんだか、毎日の生活には関係しませんが、わくわくしますね。
 惑星とは、太陽その他の恒星の周りを回る天体です。規模の小さなものは小惑星と呼んで区別しているようですが、実は、惑星と小惑星を区別する厳密な定義はないそうです。漢字の「惑星」という呼称は、長崎のオランダ通詞・本木良永が1792年、コペルニクスの地動説を翻訳する際に初めて用いた造語です。天球上の一点に留まらず、うろうろと位置を変える様子を「惑う星」すなわち「惑星」と表現したことから来ると言われています。天文学が発達する以前は、天動説の見地から太陽や月も惑星の中に分類されており、七曜、週の曜日名や占星術にその考え方の名残があります。太陽もうろうろと迷う星だと思われていたのですね。もちろん、現在の天文学上の定義では、太陽は恒星、月は衛星に分類されています。寛政年間からそのように呼ばれたとしても、それら惑星は大昔から人々の目には見えていたはずです。ですから、それ以前は、惑星は、遊星とも言ったり、「行星」との表記も行われていたようです。明治期、学術用語として東大学閥が「惑星」、京大学閥が「遊星」を主張し、結局東大閥が勝ち、現在、「遊星」の表記は行われず、「惑星」といわれています。しかし、「遊星」の方が見慣れぬ言葉で幻想的なイメージがあるためか、ファンタジーやSFの世界ではこちらが用いられることも多いようです。
 そこで、惑星の科学的データではなく、それぞれの惑星が、神話上では、どう見られていたかが、その命名でわかります。水星はローマ神話のメルクリウス(英語のマーキュリー)と同一視され、したがってギリシャ神話では、ヘルメスにあてます。(宵の水星と明けの水星が一つの天体であることを認識する以前は、明けの水星にはアポロンを充てていました)これは、最内周惑星で運行が速いことから、足の速い神の名をつけたものです。金星は、ギリシャ神話のアフロディテ、ローマ神話のビーナスと同一視され、とてもきれいな星のため、世界各国でも、金星の名前には女性名が当てられていることが多いようです。火星は、古代の人々は、血の色のように赤く見えることから、戦いの神「マーズ」と名付けました。ギリシャ神話では、軍神アレスです。今の時期、夜空に見える木星は、ギリシャ神話のゼウス、ローマ神話のユピテル(英語のジュピター)と同一視され、立派なので、惑星の王として表されています。土星は、ローマ神話のサトゥルヌス(英語のサターン)と同一視され、ギリシャ神話のクロノスと同一視されることもあります。元来は農耕神です。天王星は、古代ギリシャ神話のウラノスに由来し、海王星は、古代ギリシャ神話のポセイドン(ラテン名ネプトゥヌス)に由来し、冥王星は、古代ギリシャ神話の冥王ハデスの別名プルトンに由来します。海王星や冥王星は、古代人の命名ではなく、近世以降に発見された惑星に他の惑星に倣い「未使用の神話上の大物」の名が付けられたもので、天体の外見や運行上の特徴と付けられた神名の関わりはあまりありません。さまざまな思いで星を見ていたのでしょうね。

ちゃぶ台

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私が、ドイツの保育家具メーカーに行ったときのことです。そこの社長さんと話をしているときに、こう言われました。「わが社では、世界中からさまざまな保育家具の注文があります。しかし、その中で、日本からしかない注文があります。工場の人たちから、どうして、日本からこういう注文があるのか一度聞いて欲しいといわれていました。その注文は、『机の脚を、たためるようにしてほしい』というものです。日本では、机の脚は、たたむのですか?」確かに、日本の保育室にある机の脚はたたむことができるものが多いです。これは、まさに「ちゃぶ台」文化です。ちゃぶ台とは、「卓袱台」と書きますが、折り畳みのできる短い脚のついた食卓のことです。チャブは「茶飯」の中国音Cha-fan’または「卓袱」の中国音Cho-fuの訛りか、または、中国料理をいう米国語Chop-sueyの転かからといわれています。江戸時代は、家庭では銘々膳で食事をしていました。上下関係が厳しい社会、食卓も身分に応じて、個人別の銘々膳だったのです。ところが明治維新以降、家族みんなで仲良く食事をしたり、団らんすることが大事なこととされ、茶の間で家族全員が向き合うことのできるちゃぶ台が使われるようになったのです。ちゃぶ台は、畳に座って食べるという日本の文化に、みんなで食卓を囲むという中国や西洋の文化を取り入れたのです。その頃の茶の間は、食事をし、くつろぎ、布団を敷き、そこで眠るというように、家の中心的空間でした。そこで、その時に応じて片付けられるように、机として使った後は、立てて、足を折りたたみ、部屋の隅に転がして、片付けます。子どもでも、重くて持てなくても、転ばす事はできます。狭い部屋でも便利に使うことができました。ちゃぶ台によって、食事風景もだいぶ変わりました。おかずを銘々よそらずに、大鉢や大皿に盛り、それぞれが取り皿にとるようになりました。家族が同じものを、一緒の時間に食べるようになりました。食事のマナーも変わりました。銘々膳の食事においては、正座が原則でしたが、家長などの成人男性に限っては、あぐらを組んで食事をしてもよいとされていました。しかし、ちゃぶ台を、5・6人の家族が囲むと、必然的に、正座にならなければなりませんでした。つまり、食事の規範として、子どもに「正座をするしつけ」がされるようになったのです。
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食事の後には、子どもの勉強机として利用されたり、母親が裁縫をする台としても使われたり、家族みんなでお茶をのみながらラジオを聞いたりして過ごしていました。ちゃぶ台は、そんな団欒の場になくてはならないものでした。ちゃぶ台というと正方形や長方形のものもありますが、丸形のものを思い浮かべます。丸形のものでは、ぐるりと囲んで座れるので、どこに座っても家族みんなの顔を見ながら楽しくおしゃべりできます。逆にその家の主人が怒るときには、そのちゃぶ台をひっくり返します。寺内貫太郎一家というテレビ番組では、よくひっくり返していました。確かに、狭い部屋の中で、さまざまなことをしていたので、机を片付ける必要があったのでしょうが、それは、決して貧困というだけでなく、家族のコミュニティー形成のために、とても意味のあるものだったに違いありません。初めて集団を意識し始める2歳児のままごとコーナーでは、こんなちゃぶ台を使っています。
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激辛

 8月8日の日経スペシャル「ガイアの夜明け」で、「“韓流”ビジネス 日本上陸 ?ヨン様を超えろ!韓国企業の挑戦?」というテーマが放送されていました。世界を目指す韓国企業にとって、隣国の巨大市場・ニッポンは避けて通れない国なのです。番組の中で、ひとつは、「美肌の国のトップメーカーが日本デビュー」ということで、韓国最大手の化粧品メーカー「アモーレパシフィック」がこの夏、日本市場にデビューを果たした特集です。もうひとつは、 韓国で、145店舗チェーン展開している大人気の激辛料理店「ホーンチョ・ぶるだっく」の日本進出です。目指すのは「辛い味の世界化」だそうですが、そういえば、1986年(昭和61年)に、「激辛ブーム」がありました。当時の流行は、「ダイアナ妃フィーバー」「テレホンカード」「新人類」「おニャン子クラブ」そして、「激辛ブーム」です。これは、カレーだけではなく、ラーメン、お菓子、清涼飲料など、あらゆる食品に激辛をうたった製品が販売されました。この「激辛」という言葉は、煎餅屋「淡平」の社長さんが造った、一味唐辛子がびっしりまぶしてある「特辛子煎餅」が ブームの原点のようです。したがって、激辛ブームの立役者ともいわれています。この「激辛」で、流行語大賞も受賞しています。スナック菓子では、湖池屋の「カラムーチョ」も、激辛ブームの火付け役となります。ラーメンでも、「カラメンテ」「カライジャン」といった辛口ラーメンをはじめ、神田淡平の「辛口せんべい」、激辛ガムなど、さまざまな激辛商品が登場しました。そして、2004年の夏の記録的な暑さのおかげで、また激辛ブームがきます。そのときに急上昇した食材が、世界で一番辛い唐辛子「ハバネロ」です。このハバネロは、米が原産のタバスコで、ソースのおよそ10倍、赤唐辛子の20倍の辛さで、ギネスブックも世界一の辛さを認めています。これを材料に使ったスナック菓子「暴君ハバネロ」や「暴君ハバネロ激辛焼そば」などが当たりました。しかし、私は、唐辛子系の辛いものが苦手です。ですから、熱いそばには、七味唐辛子はかけませんし、四川風坦々麺もあまり食べません。(キムチや辛子明太子などはすきなのですが)同時に、熱いものが苦手です。ですから、熱いトムヤンクンなどは、食べたときに死ぬかと思いました。いわゆる「猫舌」です。熱い駅そばを食べると、時間がかかってしまって、何台も電車を乗り過ごしてしまいます。この猫舌は、どうも隔世遺伝のようです。私の祖父はうどんが好きで、よく家で母に手打ちうどんを打たせていましたが、食べるときは、非常に熱くしたうどんをめいめい膳に乗せ、その脇に、それをさますための団扇を置いておかないと怒ったそうです。それなら、さまして出せばいいのにと思いますが、それではだめだそうです。熱いものを、自分で程よくさまして食べるのが通だそうです。わがままですね。そういえば、いつも、毒見役が先に毒見をして、時間がたってさめたものをいつも食べていた殿様は、猫舌だったようです。目黒で初めて焼きたての秋刀魚を食べて美味しかったので、「さんまは目黒にかぎるゾョ」と言った寄席話は有名ですね。私は、辛いものだけでなく、下町の銭湯に浸かって育ったわりには、熱い風呂が苦手です。温泉地へ行って、その湯がぬるいとうれしくなります。きっと、辛いものが苦手な人は、おおむね猫舌で、ぬる湯好きであるという関係があると思っています。NHKテレビで以前、その関係を実験していた気がします。「猫舌の長風呂入り」という言葉があるように、「ぬる湯好き」を「猫舌」と表現しています。他の人は、どうなのでしょうか。

読み聞かせ

 8月10日の朝日新聞の朝刊に「雄アフリカゾウで国内最高齢 多摩動物公園のタマオ急死」という記事が小さく載っていました。私は、多摩動物園は近いので、よく行きますし、園の遠足でもよく行きます。「賢くて、みんなに慕われた。性格も穏やか。元気だったのにね」と、同園教育普及係長の金子美香子さんは言っていますが、ゾウは賢いですね。というと思い出すことがあります。小学校で2年生を担任していたとき、教科書に「かわいそうなぞう」という話が載っていました。私は、この話を、「文章を読む」のではなく、「内容を理解させよう」「内容を感じさせよう」と思いました。そのために、子どもが自分で読む前に、私が読み聞かせをしたのです。子どもたちには、机に顔を伏せさせ、耳だけを働かせて聞いてもらいます。よく、国語の授業で、教師は「文章を解説する」ことをしようとします。しかし、このような解説教育によっては、「主体的な学習」とか、「思考する学習」とか「理解する学習」は、生まれてきません。まだまだ、文字を読むことに労力を使う2年生です。どうしても、文字を読もうとし、内容の理解は遠ざかると思って、私が読んであげたのです。「かわいそうなぞう」は、土家由岐雄作のノンフィクション童話です。絵本や紙芝居としても出版されています。内容は、「第二次世界大戦が激しくなり、東京・上野動物園では空襲で檻が破壊されて猛獣が街に逃げ出したら大変だということで、猛獣を殺すことを決定します。ライオンや熊が殺され、残すは象のジョン、トンキー、ワンリーだけになります。象に毒の入った餌を与えますが、象たちは餌を吐き出してしまいます。仕方がないので、毒を注射しようにも針が折れて注射が出来ないため、餌や水を与えるのをやめ餓死するのを待つことにします。」私は、この話を読んでいるとき、次の部分になったときに声を詰まらせて、読めなくなってしまいました。聞いていた子どもたちは、びっくりして、みんな顔を上げ、私をじっと見ていたことを思い出します。この話は、よく読んでいたのですが、声を出して読むと、自分でもわかりませんが、こみ上げてくるものがあるのです。「ある日、トンキーとワンリーが、ひょろひょろと体をおこして、ぞうがかりの前にすすみ出てきました。おたがいに、ぐったりとした体をせなかでもたれあって、げいとうをはじめたのです。後ろ足で立ち上がりました。前足を上げておりまげました。はなを高く高く上げて、ばんざいをしました。しなびきった体じゅうの力をふりしぼって、よろけながらいっしょうけんめいです。げいとうをすれば、もとのようにえさがもらえるとおもったのでしょう。」
 同じようなことがもう一度ありました。中学生数人の勉強を見ていたとき、夏休みの宿題で「読書感想文」がありました。あまり成績のよくない子達でしたので、私が読み聞かせをしてあげたのです。その本は、「猫は生きている」(早乙女勝元/作 田島征三/絵)です。このときも、途中で声が詰まって、読むことができなくなってしまいました。これは、「大空襲でほとんどの人間は死に、その中で逞しく生きて行こうとする猫たち」という話です。母親が爪がはがれても地面を掘って、赤ちゃんを守ろうとして死んでしまうところなどは、読み続けられません。もうすぐ終戦記念日です。ハワード・ガードナー教授は、講演の中で、「戦争を知ることでなく、理解をしなければならない」というようなことを言っていました。

帰省

 今日の朝のNHKニュースで「お盆の帰省ラッシュ ピークに」という内容が放送されていました。保育園というところは、休みが日曜、祝祭日、年末年始休暇以外はないので、お盆休みという感覚がありません。逆に、その時期は登園する子どもが減るので、お盆というと、ゆったりと、少ない人数で日を過ごすというイメージです。また、職員も若い人が多いので、何も混雑の、費用が高いお盆にどこか行くというより、それを避けて休みを取ります。私自身も、今は我が子が大きくなったので、何も混雑している夏にどこかに行くということはありません。そんなわけで、最近、ニュースで帰省ラッシュといわれても実感がありませんでした。ところが、昨日、上田に来るために長野新幹線に乗ったのですが、自由席の車両は、着く列車ごとに乗り切れない人が出るほど大混雑でした。ホームにも、小さい子どもを連れた家族であふれかえっていました。改めてNHKニュースの「JR各社によりますと東京から各地に向かう東海道・山陽新幹線や東北、秋田、山形の各新幹線は終日、ほとんどの列車が予約でほぼ満席となっています。」が実感できました。
 「帰省」という言葉になぜ、「省」という字を使っているのか不思議に思いました。「省」という字を「しょう」と読む場合は、主に行政機関をさす場合です。また、「せい」と読む場合は、自ら反省するような意味に使われます。辞書を引いてみると、「省する(せいする)」という意味に二つあって、ひとつは、「反省する」ですが、もうひとつに「親の安否をたずねる。見舞う。」というのがあります。ということで、「帰省」という語源は、「故郷に帰って親の安否を気遣う」という唐の詩人、朱慶余の漢詩が出典だそうです。単に故郷に帰る場合には、帰省ではなく、薮入りとか、里帰りとかの言葉が使われていました。それが、経済の高度成長にともなって、高等教育の大衆化に伴う進学機会の増大や、就労場所の都市への集中が進み、地方から都市への人口の流入が促進され、そんな都市圏に在住している人が、年末年始やゴールデンウィークやお盆などに出身地である地方などに一時帰ることも、帰省というようになったのです。
 インターネットポータルサイト「goo」で検索されたキーワードの検索回数の7月ランキング1位は、夏の行楽シーズン、帰省を前に鉄道の運行情報やきっぷをネット上で入手するためか「JR」が1位だったそうです。そのほかに、この季節ならではのキーワードとしては、「高速バス」(15位)、「新幹線」(30位)などの移動手段や、「じゃらん」(10位)、「JTB」(13位)といった旅の情報を探すためのキーワードが多く検索されているようです。また、季節の定番キーワード、「高校野球」(7位)、「花火大会」(11位)、「自由研究」(31位)も夏休みらしいですね。
 今月、明治安田生命保険相互会社が、夏に関するアンケート調査を実施しました。それによると、夏休み平均日数は6.3日。会社員・公務員では5.4日だそうです。学生は38.2 日だそうで、うらやましいですね。しかし、自営業・自由業の方は、休み無しの方が38.6%もいます。また、帰省の費用平均は4万4千円。10世帯に1世帯が10万円以上の出費だそうです。「夏休みの過ごし方」では、理想・現実ともにトップは「自宅でゆっくり」だそうです。 帰省の楽しみの第1位は、「両親兄弟の笑顔」です。上田駅の改札口で、駆け寄ってきた孫をうれしそうな顔で抱き上げ、「よう来た、よう来た」と孫に何度も頬ずりしている祖父母を見ると、混んでいても帰省っていいなあと思います。