石工

26日から行われた「保育環境セミナー」のために前日から来ていた熊本で、「熊本日日新聞」の朝刊にこんな記事を見つけました。「季節ごとの恒例企画 夜の熊本城めぐり」というものです。25日に、ライトアップされた熊本城の天守閣など、昼間とは一味違う眺めを楽しんだようです。その中で、参加者がため息を漏らしたのは、「加藤神社の入り口からの眺め」で、眼下の堀や、ライトに照らされた宇土櫓と天守閣は格別だったようです。そこで、26日の夜、セミナーの後、夜にこの場所に行ってみました。
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 白壁が照らされたライトでまぶしいくらいに白く反射し、黒い空と対照的に浮き出て見えました。そして、その姿を、眼下の堀に映しています。その堀から、櫓以上の存在感を持って、石垣が反り返っています。これが、有名に「武者返し」です。「いまもむかしのままのこる熊本城の石垣は、『武者がえし』といって、美しいそりがあるので有名だが、この石がきのつみかたは、清正が朝鮮征伐にいっておぼえてきたといわれている。石ひとつひとつの重さによって、ますます強さをますように、力学的にくふうされたものである。こうした技術を、岩永三五郎は、石だけでつくるアーチ型のめがね橋に工夫したものであろう。」これは、「熊本の緑川に美しいアーチ型の霊台橋が築かれたのは,さむらいの時代が終わりをつげようとしていたころ.その石橋づくりには,つらい過去とたたかいながらも命をかけてその技術を弟子たちに伝えた名職人・岩永三五郎の物語がかくされていた…。」という国際アンデルセン賞国内賞、日本児童文学者協会賞、NHK児童文学奨励賞受賞した、今西祐行の初めての長編歴史小説「肥後の石工」の「はじめに」に書かれている文章です。この話は、教科書にも取り上げられています。肥後の石工たちが造る石橋には秘密がありました。それは、中央のひとつの石を取り外すと、重力の関係で、つぎつぎと石が崩れ落ち、簡単に取り壊せる仕組みになっていたといいます。敵が攻めてきたときに、橋を落として城を守る仕掛けだったのです。こうした秘密を守るために、工事が終わると、肥後の石工たちは、城からつかわされた刺客によって、人目につかないように国境で切り捨てられたのです。戦後、日本児童文学のなかで歴史小説は、どうしても、中央の英雄や偉人が主人公になり、その業績を語ることに偏りがちでした。しかし、この小説で、地方史を取材し、架橋工事という具体的なモチーフを通じて民衆の哀歓を描き出したことなど、新しい歴史児童文学として、このジャンルの可能性を広げることになった作品です。
肥後の石工集団は、アーチ式石橋を作る技術をもった当時のハイテク・プロジェクト集団として、高度な石組みの技術を用い各地に眼鏡橋を造り上げていき、またその技術は石橋のほかにも、河川工事や干拓などの事業にも活用され、社会基盤の整備等、人々の生活向上にも大いに貢献しています。江戸末期から明治中期までの約70年の間に、突然、彼らは出現し、熊本だけにとどまらず、鹿児島(高麗橋や西田橋、新上橋など)など九州各地や、東京(旧二重橋や日本橋、神田橋、万世橋など)など、至るところに、見事な石橋を作り続け、その名声を全国にとどろかせたのです。そしていつの間にか消えていきました。皇居の旧二重橋や日本橋などが、「肥後の石工」に関係があったとは、驚きます。