石見銀山

時は16世紀、大航海時代。ポルトガルやスペインなどの欧州諸国が遠洋航海に乗り出していった時代に、世界に知られたひとつの名がありました。「プラタレアス」(銀の島)。それが日本です。フランシスコ・ザビエルは、「聖フランシスコ・ザビエル書簡抄」で、「カスチリヤ人は此の島々をプラタレアス群島(銀の島)と呼んでいる。」「…日本の島々の外に、銀のある島などは、発見されていない。」といっています。東アジア貿易の立役者として世界の脚光を浴びた鉱山「石見銀山」を、昨日訪れました。往時の姿を、山間部に、ひっそりと、しかし明確に残していました。その頃、日本の銀産高は、世界の銀産量の3分の1 を占めていたといわれていますが、石見銀山の銀がその大部分を占め、世界の産銀量の15分の1を産出したといわれています。この石見銀山遺跡は昭和44年に、龍源寺間歩をはじめとする14箇所、約27ヘクタールが国史跡に指定され、国内初の鉱山史跡になりました。今、世界遺産登録へ向け踏み出しています。
銀山に向かって車を走らせていると、突然山間に町並みが現れてきます。これは、銀山の北側の出入り口から続く大森地区の町並みです。
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ここには、江戸時代に代官所や役所などが置かれたことから、次第に武家屋敷や商家が増えていったところです。とても風情のある建物が並んでいるこの地は、昭和62年に国の重要伝統的建造物群保存地区に指定されています。住民みんなで、保存に力を入れており、床屋や医院、郵便局までとてもレトロなつくりです。
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その町並みを過ぎ、もっと山奥に入ると間歩と呼ばれる坑道があります。今は竹やぶで覆われた山内を歩いていると、所々に間歩や露天掘りの後が転々と残っています。全部で大小あわせて600以上あるそうですが、そのなかで「龍源寺間歩」は内部が公開されています。
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この間歩は、江戸時代には、開掘の長さは600mもあるそうですが、そのうち300mほど歩いて通り抜けられるようになっています。中は、ノミで掘った跡が当時のままの状態で全体に残っています。出口付近に展示されている資料を見ると、道を掘り進めるために、土や石を外に運び出す人、空気を中に来る人、あふれ出る水を外にくみ出す人、それぞれが必要なのです。
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この銀山を訪れてまず感じたことは、こんな地味な山の中で、よく銀山を見つけることができたなあということです。石見銀山が、いつ、誰に発見されたのかを確実に伝える資料は今のところ見つかっていないそうです。昔は、露出している銀をたまたま見つけたのでしょう。しかし、南北朝時代では、採掘の技術を知らず、露出した自然銀のみを採っていましたので、すぐに採り尽くしてしまいました。それが、銀の製錬法である「灰吹法(はいふきほう)」という方法が導入され、一転して銀の輸出国に変わったのです。戦国時代から、銀山を含む石見国は争奪の的となっていましたが、結局、毛利氏が石見国を平定します。豊臣秀吉が全国を統一した後は、毛利氏は豊臣氏の大名として中国地方を知行し、銀を豊臣氏へ納めます。徳川氏が将軍となり江戸に幕府を開いてからは、家康は全国の都市や鉱山を直轄地(天領)としましたが、石見銀山もその対象となっています。出来上がった灰吹銀は極印を押し、大坂の銀座に納めます。大坂までのルートは大森町から陸路尾道へ、尾道から海路大坂へ、というものだったようです。シルバー・ラッシュのころのシルバーロードですね。