読み聞かせ

 8月10日の朝日新聞の朝刊に「雄アフリカゾウで国内最高齢 多摩動物公園のタマオ急死」という記事が小さく載っていました。私は、多摩動物園は近いので、よく行きますし、園の遠足でもよく行きます。「賢くて、みんなに慕われた。性格も穏やか。元気だったのにね」と、同園教育普及係長の金子美香子さんは言っていますが、ゾウは賢いですね。というと思い出すことがあります。小学校で2年生を担任していたとき、教科書に「かわいそうなぞう」という話が載っていました。私は、この話を、「文章を読む」のではなく、「内容を理解させよう」「内容を感じさせよう」と思いました。そのために、子どもが自分で読む前に、私が読み聞かせをしたのです。子どもたちには、机に顔を伏せさせ、耳だけを働かせて聞いてもらいます。よく、国語の授業で、教師は「文章を解説する」ことをしようとします。しかし、このような解説教育によっては、「主体的な学習」とか、「思考する学習」とか「理解する学習」は、生まれてきません。まだまだ、文字を読むことに労力を使う2年生です。どうしても、文字を読もうとし、内容の理解は遠ざかると思って、私が読んであげたのです。「かわいそうなぞう」は、土家由岐雄作のノンフィクション童話です。絵本や紙芝居としても出版されています。内容は、「第二次世界大戦が激しくなり、東京・上野動物園では空襲で檻が破壊されて猛獣が街に逃げ出したら大変だということで、猛獣を殺すことを決定します。ライオンや熊が殺され、残すは象のジョン、トンキー、ワンリーだけになります。象に毒の入った餌を与えますが、象たちは餌を吐き出してしまいます。仕方がないので、毒を注射しようにも針が折れて注射が出来ないため、餌や水を与えるのをやめ餓死するのを待つことにします。」私は、この話を読んでいるとき、次の部分になったときに声を詰まらせて、読めなくなってしまいました。聞いていた子どもたちは、びっくりして、みんな顔を上げ、私をじっと見ていたことを思い出します。この話は、よく読んでいたのですが、声を出して読むと、自分でもわかりませんが、こみ上げてくるものがあるのです。「ある日、トンキーとワンリーが、ひょろひょろと体をおこして、ぞうがかりの前にすすみ出てきました。おたがいに、ぐったりとした体をせなかでもたれあって、げいとうをはじめたのです。後ろ足で立ち上がりました。前足を上げておりまげました。はなを高く高く上げて、ばんざいをしました。しなびきった体じゅうの力をふりしぼって、よろけながらいっしょうけんめいです。げいとうをすれば、もとのようにえさがもらえるとおもったのでしょう。」
 同じようなことがもう一度ありました。中学生数人の勉強を見ていたとき、夏休みの宿題で「読書感想文」がありました。あまり成績のよくない子達でしたので、私が読み聞かせをしてあげたのです。その本は、「猫は生きている」(早乙女勝元/作 田島征三/絵)です。このときも、途中で声が詰まって、読むことができなくなってしまいました。これは、「大空襲でほとんどの人間は死に、その中で逞しく生きて行こうとする猫たち」という話です。母親が爪がはがれても地面を掘って、赤ちゃんを守ろうとして死んでしまうところなどは、読み続けられません。もうすぐ終戦記念日です。ハワード・ガードナー教授は、講演の中で、「戦争を知ることでなく、理解をしなければならない」というようなことを言っていました。