日本の印象

 先日のハワード・ガードナー教授の講演会のレジメの来日の挨拶に「日本は美しい国であり、だれもが礼儀正しく、親切な素晴らしい市民社会です。また、日本は私の思案上、大切な国でもあります。」彼は、MI理論を構築する過程で、日本文化等が大いに参考になったといっています。
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 今年は、生誕500年ということで、日本にキリスト教を伝えた宣教師フランシスコ・ザビエルの足跡が、中国で見直されているという記事が、朝日新聞の7月15日付朝刊で取り上げられていました。たまたま、私も今年平戸にプライベートで行ったために、あらためて、ザビエルを見直し、またテレビなどで取り上げられるたびに気になっています。彼は、日本に来たときにどう「日本」という国が映ったのでしょう。ペドロ・アルベ、井上郁二訳「聖フランシスコ・ザビエル書簡抄」には、こうあります。
「私は、今日まで自ら見聞し得たことと、他の者の仲介によって識ることのできた日本の事を、貴兄等に報告したい。先ず第一に、私たちが今までの接触に依って識ることのできた限りに於いては、此の国民は、わたしが遭遇した国民の中では一番傑出している。私には、どの不信者国民も、日本人より優れている者は無いと考えられる。日本人は総体的に良い素質を有し、悪意が無く、交わって頗る感じが良い。彼らの名誉心は特別に強烈で、彼らにとって名誉が凡てである。日本人は大抵貧乏である。しかし武士たると平民たるとを問わず、貧乏を恥辱だと思っている者は一人もいない。」
 彼が、誰と会い、誰と接触したのかはわかりませんが、ほんの一部の人からだけの印象ではないはずです。ザビエルは、1506年、現在のスペイン北部にあったナバラ王国ザビエル城で生まれました。ですから、今年、生誕500年にあたります。彼は、1549年8月15日、鹿児島へ上陸しています。(以後よく見かけるキリスト教、ということで“いごよく1549”と覚えたものです)しかし、日本での伝道は、容易なものではなかったようです。最初は、薩摩藩主の島津貴久に謁見し、宣教のための許可を求めました。ポルトガルとの貿易を望んでいた貴久は、快く許可を与え、小さな家も貸し与えました。しかし、ポルトガル船が、鹿児島ではなく平戸に停泊したことを契機に、貴久はキリスト教を禁止しました。そこで、ザビエルは平戸に行き、領主 松浦隆信に謁見し、宣教の許可を得ました。そして、彼は家臣の木村家に滞在しました。 2カ月の滞在の後、都へ旅立ちますが、応仁の乱で荒廃した京都において、天皇との謁見も、宣教も許されず、その後、山口、そして、豊後、その後、中国へ渡ろうとし、1552年に、熱病で息を 引き取ったのです。ずいぶんと密度の濃い人生でしたね。その彼が、こうも言っています。
「日本人の生活には節度がある。ただ飲むことに於いて、いくらか過ぐる国民である。住民の大部分は読むことも書くこともできる。彼らは盗みの悪を非常に憎んでいる。大変心の善い国民で、交わり且つ学ぶことを好む。」(抜粋)これらが、武士道とか日本の品格とか言われると、いかにも日本独特のもののような気になりますが、そうではなく、もっと広く、人としてどうあるべきかを考える必要があると思います。