先日のブログで、「礼に始まり礼に終わる」ということを書きましたが、改めて、この「礼」とは何であるかを考えてしまいました。というのも、この言葉の、ある英訳を見るとこう書いてあるのです。「『礼に始まり礼に終わる』はそのまま begin and end with a bow で表現すればいいでしょう。」そういえば、別の資料で、柔道の指導マニュアルにこう書いてあります。柔道をはじめるときに、その気持ちを高めるためにこんなやり取りからはじめます。「姿勢を正して。」「黙想……ヤメッ。」(先生) 『礼ッ!』 『おねがいします!』(生徒)「おねがいします」そして、練習が終わったときには、『礼ッ。ありがとうございました。』「ありがとうございました。」もちろん、これは形のことであって、武道では形を通して違うことを言いたいのでしょうが、これでは、「お辞儀で始まり、お辞儀をすることで終了する」だけで終わってしまいそうです。もっと、真の意味を伝えていかなければならないような気がします。たとえば、三国志のなかにある「三顧の礼」という、劉備玄徳が諸葛亮孔明を迎えたときの礼というのがありますが、これは、孔明に玄徳が頭を下げてお願いしたことではないと思います。
もともと「礼」とは、さまざまな行事のなかで規定されている動作や言行、服装や道具などの総称をいいました。それが、春秋戦国時代、儒家によって観念的な意味が付与されたのです。そして、この「礼」が、人間関係を円滑にすすめ社会秩序(儒家にとっては身分制階級秩序)を維持するための道徳的な規範をも意味するようになったのです。ですから、なんだか、目上の人にきちんと挨拶をするという意味にとられても無理はありません。先日、ある場所で食事をしていたとき、高校生の部活の生徒といっしょになりました。その高校生は、食べ終わると、顧問の先生の前に行って、頭を深々と下げ、直立不動の姿勢で、何かを言って去ります。ある当番らしき高校生は、先生が食べ散らかした食器をきちんと方付け、先生の前のものを自分のテーブルの上に移しきれいにしていました。それを、姿勢をだらしなく、ふんぞり返って眺めている先生を見ると、これが「礼」かと思ってしまいます。「仁義礼智信」と儒教でいう五常の徳(人間が守らなければいけない5つのルール)のなかで、「礼」とは、「礼儀正しいことはもちろんで、謙虚、感謝の心 へりくだり人に譲る心がやがて「礼」になる」とあります。そして、信を除いた「仁義礼智」を体の四肢になぞらえて、四端(したん)といいます。孟子と弟子の問答集の第三巻「公孫丑章句」にも、こう書かれています。「いたたまれない感情は、仁の端緒である。羞恥の感情は、義の端緒である。謙遜の感情は、礼の端緒である。是非の感情は、智の端緒である。人がこういう四つの端緒をそなえていることは、人間が四肢をそなえているようなものである。この四つの端緒をもちながら、自分で仁義礼智を実行できぬというのは、自殺者である。」とまで言っています。したがって、相手を尊敬し、自分を謙遜し、行いを丁寧にすることが「礼」です。そして、この「礼」を時に即し、場合に応じて、自分の行動ができるようにわきまえる事が「節」です。「礼節」を知って初めて一人前の人間といえるのです。「礼」は、相手に求めることではなく、自分の行動を振り返り、自分の品位を築き、高めることなのです。生徒にお辞儀させることではなく、教師自ら、生徒のために自分の人格を高めることなのです。