円空

 昨日、「大賀ハス」を見るために新幹線を「岐阜羽島」駅で降りて、タクシーでハス園に向かう途中、道の両脇に広がる一面の水田の中に突然、「円空」の彫刻らしきものが立っていました。円空の彫刻は、荒々しく、野外の田んぼのわきに立っていてもよく似合います。何でそんなところにたっているのか不思議に思い、帰りに駅の反対側に回ってみたところ、駅のロータリーにある看板がたたっていました。そこには、「円空、誕生の地」と書かれています。
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そうなんです。江戸初期の遊行造像僧である「円空」は、美濃国(岐阜県羽島市上中町)の生れだそうです。(一説には、郡上郡美並村ともいわれています)そして、若くして出家し、尾張国(愛知県)師勝村の高田寺で金剛・胎蔵両部の密法を受け、諸国遊行の旅にでます。美濃地方から蝦夷(えぞ)地に渡り、志摩半島、日光、山間僻地にも多くの仏像をのこしています。また、最後にはふたたび美濃・飛騨地方にもどって、晩年の円熟した彫像を刻んでいます。生涯、東日本を遊行し、造像活動をつづけたのです。最後は、関市弥勒寺近くの長良川河畔で入寂します。言い伝えでは、円空は長良川の岸辺に穴を掘らせ、節を抜いた竹を通風筒として立てると穴の中に入り、鉦をたたきながら念仏を唱え、断食して即身成仏をとげたといわれています。円空入定の地には山藤の蔓がからみついた巨木が鬱蒼と立ち、この蔓を切ると血が出ると伝えられています。この円空はなんと、生涯で12万体の造像を発願して,多くの木彫仏を特異な彫法で刻みました。現存作だけでも5000体を数えるそうです。この円空仏は、今でも人々の心を打つ魅力にあふれています。彼の彫刻の顔は、いかめしい不動明王や仁王でさえも、口元に微笑がこめられ、慈愛に満ちています。また、彫り方は、丸木の原材をいくつかに割り,割った面を巧みに生かして、そこに岩肌のような面の構成を生み、造形の簡略化をしています。それは、単に荒削りということではなく、逆に木目や節や割れ目といった、木という素材の魅力をダイナミックに引き出しています。普通の仏像は時間を掛け彫るために仏閣に奉るため、一部のあるところにしか置かれませんでした。ところが、円空仏の簡略化は仏像の量産を可能にし、多くの人々が身近に拝観できる仏像も提供しました。道端に転がっていそうな木の破片を削った、いわゆる「木っ端仏」も円空は多く製作していますが、それらが飢えや疫病や災害に苦しんでいた当時の民衆に安らぎを与えたことでしょう。木の破片から生まれた荒削りな仏像にもかかわらず、その多くは捨てられることなく現在まで大切に受け継がれています。ですから、田んぼの脇に立っていても似合うのですね。
 円空が生きていた時代は、徳川体制が強固になってきた時代です。幕府は、キリシタン禁圧を目的に宗門人別帳という戸口調査をして、各人がどの宗門に属しているかを厳密に記帳しました。さらに僧侶の市井での法談を禁じる命令を出して、行動を大きく制限したのです。こうした状況下で諸国を遊行できたのは、円空が「聖」と呼ばれる下級宗教者だったためです。「聖」は、寺ももたず学識もなく、一所不在の放浪をしながら庶民の要求にこたえる宗教者でした。民衆にとっては、わかりやすい因縁話で生きる道を教えてくれる「聖」こそが高僧でした。円空は仏像を彫ることで、一宿一飯の恵みを受けながら諸国を巡りました。円空は生涯を通じて旅をし、民衆とともに生きたのです。