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2006年08月31日 [講演先にて]
九十九里浜
今日の銚子での講演のため、昨日夕方、近くの宿に入りました。そこの部屋の窓の前は、一面の九十九里浜です。千葉県九十九里浜は、66キロに渡る日本で2番目に長い砂浜の海岸です。砂浜に現れる風紋は、風の力や方向で刻々と姿を変え、波打ち際では波が砂を動かし波漣と呼ばれる模様を作り出します。この海岸は、日本の白砂青松100選と日本の渚百選に指定されています。古名は玉浦(玉の浦)ですが、源頼朝の命で6町(1町は約109メートル)を1里として、1里ごとに矢を立てたところ99本に達したという伝承から「九十九里浜」と言われるようになったとの説が有名ですね。その最大で幅100メートル近い広大な砂浜が広がっていたこの浜も、ここ数十年の間の侵食によりその幅は急速に狭まり、かつてのような景観は、無くなりつつあるそうで、残念ですね。まだ、訪れたことのない人は、早いうちに見ておいたほうがいいかもしれません。
九十九里浜といえば、小さいころの思い出の中で、「伊能忠敬」と結びつきます。伊能忠敬は,はじめて実測による日本地図を作った人として著名で,戦前は小学校の教科書に載せられ偉人とされました。その伊能忠敬が、九十九里浜を測量機械を引っ張って歩いている姿が浮かぶのです。しかし、本当の結びつきは、彼は、1745年 上総国山辺郡小関村(現・九十九里町小関)の名主・五郎左衛門家で生まれているのです。九十九里が出身地なのです。そして、彼は、18歳の時に、下総国香取郡佐原村(現・香取市佐原)の伊能家に婿養子に入り、以来しばらくは商人として活動します。今、佐原には、「「伊能忠敬記念館」があって、何年か前に妻と訪れたことがあります。伊能家は、酒、醤油の醸造、貸金業を営んでいた他、利根水運などにも関っていましたが、商人としてもかなりの才覚の持ち主であったようで、伊能家を再興し、かなりの財産を築いたほか、佐原の役職をつとめたなどの記録が残されています。そして、50歳の時に隠居し、家督を長男景敬に譲ります。伊能忠敬のすごいところは、これから後のことです。普通は、隠居後は、優雅な、のんびりとした余生を送るのでしょうが、忠孝は、そうはしませんでした。隠居後、江戸に出て、江戸幕府の天文方で、自分よりも19歳の年下の高橋至時に師事し、測量・天文観測などをおさめます。そして、56歳の時に、第1次測量を開始します。以後、17年間にも及ぶ全国測量の始まりです。合計旅行距離(陸路のみ)は 4万kmを超え、ほぼ地球を一周したことになります。最初の測量は蝦夷地およびその往復の北関東・東北地方において行われたのですが、これはもちろん、彼の測量が極めて高度なものであったからですが、実際は、とても大変な仕事です。はじめ幕府は忠敬の実力を信用していませんでした。しかし蝦夷地のあまりにも正確で立派な地図を作り上げたため、幕府は驚きそして彼に全国測量という任務を与えたのです。こうして作られたのが大日本沿海與地全図であり、これは最初の日本地図であっただけではなく、大変精度の高い地図として評価されています。完成したのは忠敬没後の1821年です。有名な長崎「シーボルト事件」というのは、シーボルトがこの日本地図を国外に持ち出そうとしたことが発覚し、これに関係した日本の蘭学者などが処罰された事件ですが、あまりにこの地図が正確であったために幕府もあわてたのでしょう。
今でいう「生涯学習」の元祖ですね。自分の年を考えても、まだまだこれからという気になります。
投稿者 fujimori : 21:18 | コメント (2)
2006年08月30日 [由来]
ラジオ体操
最近は、早まっているところもあるようですが、東京では、8月31日で夏休みが終わります。今日、明日は夏休みの宿題の追い上げで大変でした。最近は、あまり宿題が多くなくなりましたが、かつては、夏休み帳を始め、絵日記、昆虫採集、植物採集、朝顔の観察、天気調べ、写生、ずいぶんといろいろあったものです。しかも、さかのぼれないものもあって、あせったものでした。夏休み帳は後でまとめてやってもいいのですが、各ページに日付と、天気、気温を書く欄があって、気象庁に問い合わせたりしました。
もうひとつ、夏休みといえば、「ラジオ体操」がありました。私が小学生のときは、近くの鳥越神社の境内で行われていました。スタンプを押してもらう紙を首からぶら下げて、毎朝通ったものでした。今は、近くの小学校では、夏休みの最後の1週間だけしかしませんが、昔は、夏休み中、ずっと行っていました。全部押してもらいたくて、夏にどこにも出かけたくなかったほどです。どうしても、田舎に出かけなければならないときは、留守の間、判を押してもらうのを人に頼んで出かけました。ずいぶんとまじめだった気がしますが、ほかにあまり楽しみがなかったからかもしれません。
私が、隣の市で子ども会を父親たちと立ち上げたとき、父親たちで交代して、毎日ラジオ体操をしていました。しかし、近くの公園でやっていたら、朝早くから音がうるさいと苦情が来たので、ラジオを真ん中に囲んで、小さい音で丸くなってしたものでした。しかし、参加者が、子どもたちだけでなくお年寄りも含めて次第に増えていったので、もっと大きい公園でやることにしました。そして、その輪が広がり、そこに参加していたお年寄りからの提案で、夏の間だけでなく、1年中、毎日やりたいということになり、毎日になり、あの、巡回してくるラジオ体操の収録をしたこともありました。その地では、今はどうしているのでしょうか。簡易保険加入者協会で平成16年に行った調査では、全国の小学校におけるラジオ体操実施率は76.4パーセントで、現在でもかなり多くの小学校でラジオ体操が実施されているようです。また、児童が小学校以外でもラジオ体操を行う機会がある、と回答した小学校は83.3パーセントにも達しているようで、小学校の内外どちらにもラジオ体操をする機会がない児童は3.4パーセントに過ぎないようです。ですから、何かというとラジオ体操をしてもほとんど知っているのですね。
昭和3年11月に、逓信省簡易保険局が昭和天皇ご即位の大礼を記念し、「国民保健体操」という名称で旧ラジオ体操第一が制定され、NHKの電波にのって放送開始されました。昭和5年に万世橋警察署の巡査が地域の住民を集め、全国に先がけて近くの公園で早起きラジオ体操会を始めました。この公園は、JR秋葉原駅から近い東京都千代田区神田佐久間町にある「佐久間公園」で、ここにはこれを記念して「ラジオ体操発祥の地」と刻まれた石碑と、体操の各動作をあらわしたレリーフ、その由来が記されています。江戸時代、この佐久間町界隈には町人地と武家の屋敷地とが混在していました。「佐久間町」の名前の由来は、佐久間平八という材木商が住んでいたことに由来するそうです。また、万世橋は、東京最古の石橋が架けられた時に、時の大久保東京府知事が「万世不朽の橋」と称え万世橋(よろずばし)と命名したのが、いつのころか人々がこの橋を「まんせいばし」呼ぶようになったそうです。
万世橋
投稿者 fujimori : 21:23 | コメント (1)
2006年08月29日 [近頃思うこと]
テレビ
今月13日に、中国紙「北京青年報」で、「中国政府は、日本など海外のアニメ番組をゴールデンタイムに放映することを9月1日から禁止する方針を決定し、全国のテレビ局に通知した。」と報じていました。これは、どういうことかと読んでみると、中国では日本のアニメ番組が圧倒的に人気を集めており「日本文化に若者が感化されてしまう」と警戒感を示す声が高まっており、今回の措置はこうした懸念に応えるとともに、自国の「貧弱」(同紙)なアニメ産業を保護育成する狙いがあるとみられています。禁止方針を決めたのは中国国内の映画や放送を管理する国家ラジオ・映画・テレビ総局で、同局の「アニメ番組の放送基準に関する通知」では、午後5時から同8時までの間は、海外アニメ番組の紹介なども禁じています。しかし、国産アニメは最も視聴率の高い番組でも「『ドラえもん』の4分の1」(同紙)にすぎず、テレビ局関係者から不満の声が上がっているそうです。
理由は、まったく違いますが、アメリカの小児科学会では、1999年にすでに、2歳以下の子どものテレビの長時間視聴については、禁止に近い、とても厳しい提言を出しています。テレビや映画、ビデオ、テレビ、コンピュータゲーム、インターネットなどの映像メディアが、子どもたちの健康障害を引き起こす危険性を持っていることを指摘し、メディア教育の重要性について勧告を出しているのです。特に子どもの脳が発達する重要な時期に人と関わりをもつ必要があることを重視し、「子どもの健全な発育のためには『2歳未満の子どもはテレビ画面への接触は避ける、6歳までは1時間、6歳以降は2時間までに制限することが必要』」というもので、この提言をもとに養育者のための「メディア教育」として、「小児科医は、親たちが2歳以下の子どもにテレビを見せないよう働きかけるべきである。」としています。
日本は、世界の中でも、子どもに早くからテレビ視聴をさせ、また、テレビ視聴時間も非常に長いといわれています。2004年5月に行った、インターネットリサーチでの子どものテレビ・ビデオ視聴に関するアンケート調査によると、テレビ・ビデオ視聴を開始した時期については、「生後6ヶ月~1歳まで」と回答した人が最も多く34%です。視聴を開始している小学生以下の子どものうちの95%が2歳までにテレビ・ビデオ視聴を開始しているという結果です。テレビ・ビデオの1日の平均視聴時間は、小学生以下の子ども全体では「2時間」が最も多く36%、次いで「3時間」(24%)です。平均では、小学生以下の子どもが2.6時間、母親では3.5時間と、母親は子どもより約1時間長いという結果でした。 「6時間以上」と答えた人も、小学生以下では3%、母親では15%もありました。
アメリカだけでなく、日本小児科学会でも、「乳幼児のテレビ・ビデオ長時間視聴は危険です」と2004年に提言しています。それは、「こどもの生活環境改善委員会」が1歳半の子どもの調査を行った結果、「テレビ視聴時間が長いほど、言葉の発達が遅い子どもが多い」ことが分かったからです。また、子どもの言葉の発達を遅らせるだけではなく、視聴時間が長いほど子どもは肥満になりやすく、感情のコントロールもまずく、すぐにキレる傾向がみられるという専門家の指摘もあります。しかし、テレビ視聴を止めると改善が見られる例があることが報告されていますので、特に2歳以下の子どもには,今日からでもテレビ・ビデオを長時間見せないようにしたほうがよさそうです。
投稿者 fujimori : 20:40 | コメント (1)
2006年08月28日 [記念日]
誕生日
今日は、このブログ「臥竜塾」の誕生日です。昨年、8月28日から始めたからです。このブログを1年間書いてきたことで、いろいろなことを知りました。いろいろなことに目を向けるようになりました。新聞記事を丹念に目を通し、園庭をはじめ、道端にも目を配り、日曜日にどこに出かけるかを考え、講演先では、さまざまな地域を訪ね、飛行機に乗ると、機内誌に目を通し、新幹線に乗ると車内誌に目を通すようになりました。
「心を常に曇らさずに保っておくと、物事がよく見える。学問とは何か。心を澄ませ感応力を鋭敏にする道である。」 この文章は、ブログの初日に書いたものです。ブログをはじめるときの心がけを書いたものです。1年を経過して、果たして、この初志を貫けたか、と思います。
また、このブログのコメントを通して、さまざまな人と出会い、会話をしました。いろいろな人の顔を思い浮かべるとき、以前のブログで書いた「論語の学而篇」を思い出します。
「吾(われ)、わが身を日に三省す」ということです。それは、曾子のことばです。曾子は、「反省」の重要性を説いています。自己の内面を見つめること、これは儒家思想の基本の一つです。ただ曾子はそれを「日に三たび」と説くのです。この「三」は三つのことであるという理解もありますが、漢文では通常「たびたび」「何度も」というイメージを伝えることばです。では、どのようなことを「省み」(かえりみ)たのでしょうか。
「人の為に謀(はか)りて忠ならざるか。」(人のために世話をしながら、真心が足りなくはなかっただろうか)
「朋友と交わりて信ならざるか。」(友達との付き合いに、信義が欠けたことはなかっただろうか)
「習わざるを伝うるか」(人から教わったことで、まだ自分のものとなりきっていないものを、口先だけで人に受け売りしてはいなかっただろうか)
この「わが身を日に三省す」から、「省我」という言葉が生まれていることもブログで書きました。この言葉を、今日は、1年経過して振り返ってみました。
「学問はその知識や解釈を披露したりするものではなく、行動すべきものである。その人間の行動をもってその人間の学問を見る以外に見てもらう方法がない。」
そして、よく知ることは知るだけでとどめず実行を伴わないといけないと初日のブログで書きました。1年を振り返ってみて、このブログを書くことを通して、学んでいるだけでも、知識を蓄えるだけでも、憂えているだけでも、人に伝えるだけでもなく、何かの行動に移したでしょうか。
初日のブログを読み返すだけで、ずいぶんと振り返りが多くなります。誕生日とは、祝うことではなく、1年を振り返る日かもしれません。
投稿者 fujimori : 23:50 | コメント (4)
2006年08月27日 [講演先にて]
石工
26日から行われた「保育環境セミナー」のために前日から来ていた熊本で、「熊本日日新聞」の朝刊にこんな記事を見つけました。「季節ごとの恒例企画 夜の熊本城めぐり」というものです。25日に、ライトアップされた熊本城の天守閣など、昼間とは一味違う眺めを楽しんだようです。その中で、参加者がため息を漏らしたのは、「加藤神社の入り口からの眺め」で、眼下の堀や、ライトに照らされた宇土櫓と天守閣は格別だったようです。そこで、26日の夜、セミナーの後、夜にこの場所に行ってみました。
白壁が照らされたライトでまぶしいくらいに白く反射し、黒い空と対照的に浮き出て見えました。そして、その姿を、眼下の堀に映しています。その堀から、櫓以上の存在感を持って、石垣が反り返っています。これが、有名に「武者返し」です。「いまもむかしのままのこる熊本城の石垣は、『武者がえし』といって、美しいそりがあるので有名だが、この石がきのつみかたは、清正が朝鮮征伐にいっておぼえてきたといわれている。石ひとつひとつの重さによって、ますます強さをますように、力学的にくふうされたものである。こうした技術を、岩永三五郎は、石だけでつくるアーチ型のめがね橋に工夫したものであろう。」これは、「熊本の緑川に美しいアーチ型の霊台橋が築かれたのは,さむらいの時代が終わりをつげようとしていたころ.その石橋づくりには,つらい過去とたたかいながらも命をかけてその技術を弟子たちに伝えた名職人・岩永三五郎の物語がかくされていた…。」という国際アンデルセン賞国内賞、日本児童文学者協会賞、NHK児童文学奨励賞受賞した、今西祐行の初めての長編歴史小説「肥後の石工」の「はじめに」に書かれている文章です。この話は、教科書にも取り上げられています。肥後の石工たちが造る石橋には秘密がありました。それは、中央のひとつの石を取り外すと、重力の関係で、つぎつぎと石が崩れ落ち、簡単に取り壊せる仕組みになっていたといいます。敵が攻めてきたときに、橋を落として城を守る仕掛けだったのです。こうした秘密を守るために、工事が終わると、肥後の石工たちは、城からつかわされた刺客によって、人目につかないように国境で切り捨てられたのです。戦後、日本児童文学のなかで歴史小説は、どうしても、中央の英雄や偉人が主人公になり、その業績を語ることに偏りがちでした。しかし、この小説で、地方史を取材し、架橋工事という具体的なモチーフを通じて民衆の哀歓を描き出したことなど、新しい歴史児童文学として、このジャンルの可能性を広げることになった作品です。
肥後の石工集団は、アーチ式石橋を作る技術をもった当時のハイテク・プロジェクト集団として、高度な石組みの技術を用い各地に眼鏡橋を造り上げていき、またその技術は石橋のほかにも、河川工事や干拓などの事業にも活用され、社会基盤の整備等、人々の生活向上にも大いに貢献しています。江戸末期から明治中期までの約70年の間に、突然、彼らは出現し、熊本だけにとどまらず、鹿児島(高麗橋や西田橋、新上橋など)など九州各地や、東京(旧二重橋や日本橋、神田橋、万世橋など)など、至るところに、見事な石橋を作り続け、その名声を全国にとどろかせたのです。そしていつの間にか消えていきました。皇居の旧二重橋や日本橋などが、「肥後の石工」に関係があったとは、驚きます。
投稿者 fujimori : 23:56 | コメント (1)
2006年08月26日 [近頃思うこと]
ボランティア
夏は、園にさまざまなところから、ボランティアで来る人がいます。年齢もさまざまです。しかし、仕事が助かるかというと、「?」がつくことがあります。それは、動機がさまざまだからです。もともと、ボランティアとは、自発性に基づく活動であるために、動員・勧誘・強制などによる活動への参加は、本人の純粋な自由意思に基づかないので、厳密にはボランティアとは言えないからです。「学校から言われた」とか「親に言われた」からという人がいます。ただ、日本では奉仕活動と同義語に使われることがあるので、そういう意味から来るのでしょうか。しかし、もともとの語源は、よく知っての通り、ラテン語の自由意志「voluntas」ですから、本来は違います。そして、この「volunteer」の語の原義は志願兵であり(反語がdraft―徴募兵)、「志願者(しがんしゃ/自分からあることをやりたいと申し出た人)」あるいは、「自分から申し出る」という意味の英語です。ですから、国語辞典によると、「自分からすすんで社会事業などに奉仕する人」と書いてあります。また、基本的には、無償で労働する意味の表現としてボランティアと呼ぶ場合もあります。そうすると、成績評価のためとか、就職のためとかというと、金銭的報酬ではありませんが、やはり無償ではなくなりますね。子どもたちへのボランティアの説明としては、「人や生き物や地球のために役にたつことをする、報酬(ほうしゅう/お金や物をもらうこと)を目的としない行為のこと」としています。
「お江戸でござる」(杉浦日向子監修)を読むと、学ぶべきボランティアの考え方が江戸にはあったことがわかります。「企業による社会貢献が叫ばれる現代ですが、江戸の大商人たちは、当たり前のように自らの富を社会に還元しています。商売がうまくいけばいくほど町が潤っていくので、お金持ちは尊敬の対象になります。富を持てば持つほど、町のためにいろいろと考えていかなければならないのが大商人なのです。町政一般の管理、指導を行う町人を「町役人」といいます。名前からするとまるで武士の役人のようですが、その正体は地主や家主、商人などの民間人です。掃除、防災、道路整備などの維持補修に使われた町の経費を「町入用」と呼び、町役人たちがこれを支出します。ここには、捨て子や迷子の養育費も組み込まれています。親の見つからなかった子どもたちは、町で育てるのです。商人は「儲けたら儲けたなりに町のために出す」という姿勢がないと、人々の信用が得られません。「儲かった、儲かった」と、大笑いしているような金持ちは町に住めなくなってしまうのです。江戸では他人のために何かをするのは、特別なことではありません。町の中で暮らしていることが、そのままボランティアになります。親の帰りが遅い子は、よその家でご飯を食べるのが当たり前で、いたずらの度が過ぎれば、自分の子であろうと他人の子であろうと雷を落とします。おかずを余分に作ったら、隣にお裾分けするし、足りなくなれば、味噌、醤油などを貸し借りし合います。下町の気質として、「頼まれたら嫌とはいわない」というのは、押し付けがましくなく、相手のプライドもちゃんと考え、「困っているからちょっと助けて」といわれれば、何を置いても助けます。お互いのつながりを尊重しているのです。」介護も、育児も町ぐるみで負担していたようです。福祉とかボランティアに相当する言葉は江戸にはありませんでしたが、力のある人は力を貸し、お金のある人はお金を出す、それがごく当たり前のことだったようです。
投稿者 fujimori : 23:54 | コメント (0)
2006年08月25日 [新聞記事より]
理科
8月23日の 読売新聞に“「物理」嫌い減らせ”という記事が掲載されていました。
高校・大学の物理で、生徒が自分で考えて理解することを重視する米国生まれの授業法「アクティブ・ラーニング」が、「物理教育国際会議」で紹介されたそうです。この「アクティブ・ラーニング」とは、核物理の専門家だったメリーランド大のエドワード・レディッシュ教授らが、大学など教育現場での広範囲な実態調査を基に開発を続けている手法で、従来の物理学の専門家主導で作られた物理教育の手法は、一般的な学生の多くが理解できず、物理嫌いを作り出したとの反省から、教わる生徒の立場を重視するのが特徴です。ハーバード大でも取り入れられているそうです。この授業法は「学生の頭の中はまっさらではなく、頭の中には誤った予備知識や先入観が詰まっている」ことを前提とする。高い所から同じ大きさのボールと金属球を落とした場合、「重い金属の方が先に落ちるのが『常識』」と答える生徒が多くいる現実を踏まえて授業を考えます。そして授業では、それが誤りであることを生徒自身に気付いてもらうことを目指すのです。教師が概念や公式を丁寧に説明しても、理解は深まりません。そこで、生徒に意見を発表させたり、生徒同士で討議する時間を多く取って、自発的に考えを変えたり、深めるように導きます。
私が教員の頃、いくつかの子どもたちの思い込みを打ち破ることをしました。まず、本で知ったり、人から聞いたりすることは本当かを疑ったほうがいい、「教科書を信じるな!」から始まった1年生の授業は、今考えると乱暴な気がします。しかし、それは、まず自分の目で見、確かめ、そのなかから工夫をしていく必要性を説いたのです。たとえば、磁石は、同じ極は反発し合うということを知識で知っている子どもがいました。しかし、反発する様子を見て、「ああ、知ってる。同じ極だからだよ。」と片付けてしまうよりも、「ふしぎだな」「どうしてだろう?」「何かに使えないかな?」ということで、リニアモーターカーを考え出したんだよと話しました。誰かが言った「空気は、重さがあるだろうか。」という疑問にも、簡単に「あるよ。」と答えてしまう子がいたので、みんなで、しぼんだ風船と、空気を入れた風船とどちらが重いかを考え、実際にはかってみたこともありました。浮力という考えもないので、真理にはたどり着きませんでしたが、みんなどうしてだろう、実際にやってみようと考えるようになった思い出があります。
これは、私が中学生の頃に読んだ、アメリカの理科の教科書の影響があるかもしれません。そこに、こう書いてあったような気がします。「ある男の子が、森の中で道に迷い、夜を過ごすことになりました。寒いので焚き火をしようと思い、燃えるものを集めに森に入りました。子どもは、何が燃えるものかわからないので、手当たり次第に拾ってきて、燃やしてみました。拾ってきたものには、燃えるものと燃えないものがあります。そこで、次の日は、燃えるものだけをもってこようと思い、どんなものが燃えるかを分けてみたら、どうも、細長いものが燃えそうだということで、細長いものだけを拾ってきました。やはり、燃えるものと燃えないものがあります。また、それを分けていき、次第に燃えるものだけを集めてくることが出来るようになった。」という話が、イラスト入りで、最初のページに書いてあったのです。日本と外国の思考「帰納」と「演繹」の違いのようです。夏の宿題の定番である「アサガオの観察」も、日本では、日々克明に観察ノートを書かせますが、外国では、「南半球では、つるは、どっち蒔きになるでしょう。」と考えさせると聞いたことがあります。答えよりも、考える過程を大切にするようです。これからの時代は、この考えることが必要になってくる気がします。
投稿者 fujimori : 23:32 | コメント (0)
2006年08月24日 [近頃思うこと]
かっこよさ
今日、通勤途中の電車の中で、前に座った20代くらいの女性がとても魅力的でした。顔は、細めの伊藤美咲か松本伊予のようで、目が大きく、くりっとしています。そして、髪の毛は染めておらず、耳には、ピアスの穴もあけてはいません。とても清楚な感じで座っていたので、眺めていたら、脇に置いたかばんを開けました。中に見えたのは、マルボロの煙草の箱でした。それを見た瞬間、すべての魅力は消え、なんだか、みすぼらしい姿に見えてしまいました。隅のほうで、こそこそ煙草を吸っているイメージが湧いてきたからです。自分でも、なんてひどいのだろうと思いました。煙草を見ただけで、そう思うというのは、かつて煙草を吸っていた自分としては、おかしいと思いました。たぶん、少し前だったら、そんな女性が煙草を吸っている姿を見たら、「かっこいい」と思ったに違いません。颯爽と、煙草をすっている姿は、なんとなく、キャリアを思わせたものでした。昔の煙草のコマーシャルで、「煙草は、動くアクセサリー」とか、「男の赤、キャビン」とかありました。自分だけかもしれませんが、時代で、ずいぶん「かっこよさ」という基準が変わってきました。また、それは、個人でも違うでしょうね。最近のかっこよさは、どうもハンカチで顔を拭く姿のようです。少し前のかっこよさは、対戦相手の前で、わざとハンバーガーを食べたり、チキンを食べたりして威嚇する姿でした。しかし、ハンカチで顔を拭くのも、ハンバーガーを食べるのも、そのしぐさがかっこいいのではなく、その人に実力があるからです。その本来の試合でのかっこよさがあるからです。まねをして、同じハンカチで顔を拭いても、少しもかっこよくないと思うのですが。ですから、煙草をすう姿がかっこよかったのは、「できる女」、「できる男」が吸っていたからで、煙草がかっこよかったわけではありません。いま、逆に「できる女・男」は、「煙草は吸わない」というイメージです。
高校野球で、早実の斉藤投手が、かっこいいと人気者ですね。しかし、私は、捕手の方に興味があります。新聞記事に感動しました。「どんな球も後ろにそらさなかった。早実の捕手白川は斎藤のワンバウンドになるスライダーを体を張って止め続けた。5回2死1,2累のピンチでの空振り三振も、9回に本塁打を打たれた直後の三振も。『涙が出るくらい練習したんだから』と自信を持って低めのスライダーを要求した。2年生の春まで斎藤と同じ投手だった。ゴールデンウイーク明け、捕手がいなかったこともあり、監督からポジション変更を言い渡された。始めは捕球することすら出来なかった。それからピッチングマシンをワンバウンドになるスライダーに設定し、体で止める練習を繰り返した。『孤独な時もあった。』と白川。1日100~150球。腕があざだらけだった。騒がれるエースを裏で支え続けてきた。『目立つのは斎藤ですから。』というが、斎藤は白川がいたからこそ、3塁走者がいる場面でもワンバウンドになるスライダーを投げられた。」捕手に興味を持つのは、「バッテリー」という本からの影響です。この小説は、あさのあつこによる児童文学小説です。映画化も、来年には予定されているそうです。飛びぬけた才能と傲慢なまでの自信を持つピッチャー原田巧と、巧とバッテリーを組むキャッチャー永倉豪の、最高のバッテリーとしての2人の中学校生活が書かれています。なんだか、児童文学なので、力を合わせてバッテリーを組んでいくというストーリーを思い浮かべますが、この小説は「これは本当に児童文学なのか?!」とあとがきに書かれている通り、才能とは、努力とは、家族とは、協調性を1番に考える学校教育とは、を真摯に訴えかけています。どんな天才でも、それを受け止める人がいないと開花しませんね。
投稿者 fujimori : 19:34 | コメント (2)
2006年08月23日 [新聞記事より]
心の病
朝日新聞の2006年8月21日の記事に「心の病、30代社員に急増」ということで、企業6割で「最多の世代」が書かれていました。「30代の会社員にうつ病や神経症など「心の病」が急増していることが、社会経済生産性本部メンタル・ヘルス研究所の実施したアンケートでわかった。30代に最も多いとした企業は、04年でほぼ半数だったのが、今年には61.0%に増えた。また、6割以上の上場企業が、「心の病」を抱える社員が増えたと回答した。専門家は「急速に進む成果主義や管理職の低年齢化が一因ではないか」と分析している。 」ということですが、各年齢による比較では、「心の病はどの年齢層で最も多いか」を聞いたところ、「30代」と答えた企業が最も多く、全体の61.0%をしめた。40代は19.3%、50代以上は1.8%だった。心の病で1カ月以上休んでいる社員のいる企業の割合は7割を超え、これも増え続けているそうです。そして、「職場でのコミュニケーションの機会が減ったか」との質問に対して、「そう思う」「ややそう思う」と答えたのは約6割。「職場での助け合いが少なくなった」と思っている企業も、ほぼ半数でした。さらに、コミュニケーションが少なくなった企業で、「心の病が増加傾向」と答えたのは7割超だったのに対し、減少していない企業では半数以下にとどまり、職場環境の違いが反映した結果となったようです。同研究所では「心の病の増加を抑えていくためには、職場内の横のつながりをいかに回復していくかが課題だ」としています。
『選択理論』心理学の大家ウイリアム・グラッサー博士によると、
1.ひとが不幸な理由の大半は、満足できる人間関係を持っていないからである。
2.ひとが満足できる人間関係を持っていないのは、どちらかあるいは両方が、関係を改善しようとして、外的コントロール心理学を用いているからである。
3.そのような関係からは苦痛がもたらされるので、どちらかあるいは両方が、相手が用いている外的コントロールから逃れようとしている。
この外的コントロールというのは、教育学では、「外発的動機付け」ということもありますが、外からの力で行おうとする場合です。よく言われるのは、1. 批判する、2.責める、3.文句を言う、4.ガミガミ言う、5.脅す、6.罰する、7.ほうびで釣る。などです。この方法は、確かに効果はありますし、即効力はあります。しかし、それによってコントロールされた力は、持続しませんし、自らの力にはなりませんし、それどころか、ストレスになります。そして、さらに、コミュニケーション能力が欠けてきます。どうも、最近、少子社会においては、親は子どもに対して、外的コントロールをしようとしすぎている気がします。では、どうすれば外的コントロールを使わなくて済むかというと、質問型のコミュニケーションを使い、相手に取るべき行動を自ら選択してもらえばいいのです。これが、最近注目を浴びている「コーチング」という手法のようです。(私は、あまり詳しく知らないので、少し違うかもしれませんが)園では、毎日の3歳児から6歳児の給食で、こんな場面があります。当番「どのくらいの量?」子ども「少し」、ある場面では、当番「何個ほしいの?」子ども「うん、3個かな」他の場面では、「どれがいい?」子ども「大きいの!」当番「どのくらい大きいの?」子ども「さっきの子のより大きいの!」毎日行われるこの場面では、コミュニケーション力をつけるための「コーチング」が行われているのかもしれませんね。
投稿者 fujimori : 13:26 | コメント (0)
2006年08月22日 [近頃思うこと]
河合隼雄
JALの機内誌の今月号に、「物語をつなぐ人」ということで、河合隼雄氏のことが特集で取り上げられています。河合氏は、文化庁長官として、奈良県明日香村の高松塚古墳で国宝の壁画が損傷した問題で、村を訪れて謝罪したあと、休暇を取っていたようですが、17日、奈良県内の自宅で、脳梗塞で倒れ、いまだに意識はなく、容体は重いようです。この機内誌ではありませんが、これからも物語をつないでいってほしい人ですので、回復して欲しいと思います。彼は、なんと300冊を越える本を出していますので、どれかを読んだことがある人は多いでしょう。その内容は、また別の機会に取り上げるとして、今回は、機内誌にある部分から興味のあったところを取り上げてみます。
彼のことをよく表していることが、最初のほうに書かれています。
「休みっ中のは無いですね。だから分刻みで動いている。だから、飛行機や新幹線での移動の時間は有効的に使う。僕は、ぼーっとするのが大好きやし、天才的にうまいんです。ひとりになったらさっそく、ぼーっ。文化庁からもらった携帯電話は、国の財産を失ってはいかんからと、大事に金庫に保管してありますよ。」彼は、最初、奈良の高校で数学教師として生徒と触れ合います。そこで、「心のはたらき」に興味を持ち、心理学を学び始めるのです。なぜ、私が機内誌の河合氏の特集に興味を持ったかというと、今、危篤であると同時に、神話の国「出雲」からの帰りだったということもあります。彼は、さまざまな研究や、さまざまな分野の本を書いていますが、もともとは、日本初のユング派分析家であり、その資格を得るための最終論文は、「日本神話」をテーマに選んでいます。その後も、ずっと神話や昔話の研究をライフワークにしています。「人は、“お話”が好きでしょ。それは結局、人間の心の深いところに関係してくるわけです」と言います。そんな今78歳の彼が、湧いてくるエネルギーに源を「ものすごい訓練です。それと、美しい音楽を聴くとか、フルートを吹くとか、景色を見るとか、僕は楽しみが多いですから。自分で自分の心を豊かにすることを知らなかったら、絶対にこの仕事はできないです。」と記者に語っています。「僕は毎日遊び半分で生きているから。楽しいことだらけで、いっぱいエネルギーを持って、たくさん使って。ものすごく流れがいいと、相当出ていっても大丈夫なんですね。自分の力というより、流れているわけだから。」まったく、今の私の心境と同じです。私も、今、遊び半分(半分は、あそび心を持つという心の余裕が必要)というか、適当(ちょうど適当)というか、道楽(この道を楽しんでいるということ)でこの仕事をしている気がしています。また、身の回りには楽しみもたくさんあるので、このブログのおかげで、それを出すことで、毎日の流れを作っている気がします。そして、「いちばんリラックスするのは、家に帰って茶飲んで、ウチの奥さんと馬鹿話しているとき。僕はホンマに馬鹿話が好きやから。」と彼が言っているように、私も妻と話す時が、とてもリラックスします。そんな彼が、こんなことも言っています。アメリカ人から「日本の話は男女が別れたりする悲しい結末が多いけれど、われわれの話はみんなハッピーエンドですよ。」と言われて、「はあ、あなたは結婚をハッピーエンドと思っているんですか。日本ではアンハッピービギニングと言いますよ。」と答えています。「お話は、そこで終わるからいいんですよ。人生は簡単に終わらへんでしょ。」何とかがんばって、人生を簡単に終わらせないでほしいものです。
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2006年08月21日 [散歩]
若冲
昨日の日曜日には、上野の東京国立博物館で開催中の「プライスコレクション 若冲と江戸絵画展」に行ってきました。8月14日には、入場者数が20万人を突破したそうです。ただ、昨日は、私も以前に行った「ルーブル展」が最終日ということもあって、そちらの方が混んでいたようです。
この絵画展は、伊藤若冲中心の江戸絵画展ですが、それよりも興味を持ったのは、アメリカ・カリフォルニアの「プライスコレクション」というものです。このコレクションは、魅力に満ちた江戸絵画のコレクションとして世界的に知られています。半世紀前、ジョー・プライス氏は当時美術史家にも見過ごされていた江戸時代の個性的な画家たちの作品に目を奪われ、収集を始めたそうです。彼は、大学を卒業して、彼の父親の友人であり、東洋美術のコレクターでもあった建築家フランク・ロイド・ライト(今明治村に保存されている帝国ホテルを設計した人)の付き添いで立ち寄ったニューヨークの古美術店で、画家の名前も伝記も知らない一幅の葡萄を描いた水墨画に心惹かれました。そこで、彼は、大学の卒業記念として買うはずのスポーツカーの代わりに、名前も知らない画家の1枚の絵を手にしたのです。これは1953年、彼が24歳の時のエピソードです。その水墨画こそが若冲の作だったというわけです。ここから、江戸絵画コレクションは始まり、その後「ただ見て気に入ったものだけを集め」たら、クオリティーの高い江戸絵画のコレクション、中でも超貴重な若冲コレクションが出来上がったというのです。彼自身が、そのときのことを、ブログでこう言っています。「50年前、まだ20歳過ぎの若者だった私は、遊びに行ったN.Y.にて伊藤若冲に出会い、そして衝撃を受けました。それが若冲の描いた絵であることも、さらには日本画であることさえ知らぬまま…。人生におけるターニングポイントとは突然やってくるものです。私にとって若冲との出会いは、大きな大きな分岐点でした。」コレクションの中心は若冲の作品ですが、その他にも、独自の自然観察眼と個性豊かな表現技術であり、今注目を集めている既成の江戸絵画観を変える力強い魅力にあふれた作品がコレクションされています。そんな彼ですから、絵の見方も独特で、こんな提案もしています。「学術的または資産的価値など“難しいこと”にはあまり興味がありません。作家名にすら、こだわらないほどです。大切なのは、作品の前に立ったときに何を感じるかということだけ。何かを感じられる作品が、すなわち“名作”なのですから。ぜひ、みなさんも同じように、素直な感覚で楽しんでいただければと思います。ただし、ファーストインプレッションだけで判断するのではなく、できれば、よーく心に染みこませるように鑑賞してみてくださいね。かつて、同じ日本、同じ江戸を中心に展開されていた文化、その中の人間模様を想像してみると面白いですよ。」そこで、展示法も工夫されています。「江戸時代にガラスケースはなかった」というプライス氏の鑑賞態度により、ガラスケースを用いず、光の効果に工夫を凝らした展示室を1室設けてあります。昔は自然光(日光、月光)や蝋燭の灯りで鑑賞をされており、時間によって、その光の当たり方が変わるということで、光が明るくなったり、暗くなったり変わるのです。そうすると、展示されている作品が、動くように、変化します。いろいろな意味で、とても、興味深い展示でした。
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2006年08月20日 [地域を知る]
銀座
一昨日訪れた石見銀山を見て、日本が如何に銀の生産国として世界で有名だったかを知りました。銀山で採れた銀は、鋳造所に運んで貨幣にします。慶長3年(1598)、徳川家康は、伏見に銀貨鋳造所を設けます。これが、銀座の起源です。ここでは銀の品位を決め通貨を製造しましたが、同13年には京都に移されます。時を同じくして大坂にも銀座がおかれましたが、通貨の製造はしませんでした。主に生野・石見銀山の産銀や、粗銅から抽出した銀を京都に回送する役割を担ったようです。また、駿府(今の静岡市)にあった銀座を、1612年(慶長17年)に江戸に移しました。銀座の「座」とは、貨幣や、度量衡に従う特別な免許品を製造した場のことです。銀座の他に、金座、枡座、秤座、朱座、などがありました。金貨を鋳造した金座は、同じ江戸の常磐橋門外、今の日本銀行がある場所でした。寛政の改革の時、江戸、京都、大阪、長崎にあった4銀座を廃止し、のちに、江戸銀座のみ日本橋蠣殼(かきがら)町に移し、再興されたのです。銀座というのは、始めは地名ではなく、役所の名称にすぎませんでした。そして、銀座は、日本橋の金座があったあたりを両替町と呼んだことに合わせて、新両替町と呼ばれました。しかし、新両替丁と書かれたわきに、銀座という文字が書かれています。通称として銀座という呼びかたがされ、親しまれていたようです。銀座という町名になったのは、1869年(明治2年)のことです。
江戸に幕府が置かれた初めの頃、銀座のあたりは浜と海でした。家康から家光にかけて、幕初の将軍たちは江戸の町づくりに、力をいれなければなりませんでした。そこで、海を埋め立てて、土地を造る工事に、譜代大名の力をあてたのです。この「天下普請」によって生まれた土地には、工事にあたった大名の領地名が付けられたのです。
銀座4丁目交差点の四つ角に「三愛ドリームセンター」が建っています。
これは、三愛社長が、奈良法隆寺の五重塔からヒントを得て、真中の一本の支柱によって支えられた総ガラス張りの円筒の塔を、銀座の街の真ん中に作ることを考えたのです。オープニングは、昭和38(1963)年1月13日深夜0時でした。このオープン記念で、私は中学生の代表として三愛のビルから見た銀座の絵を、出来立てのビルのガラス越しに見て描いた覚えがあります。この「三愛ドリームセンター」は、「日本のモダン・ムーブメントの建築100選」に選ばれています。
また、銀座というと、若い人は知らないでしょうが、私たちの年齢では、柳を思い浮かべます。しかし、柳といえば川岸の木で、なんだか幽霊が出るというイメージで、街路樹というイメージはありませんね。ということで、最初に植樹されたのは日本の代表的樹木、桜と松、楓でした。しかし、銀座は、埋立地のため土地に水分が多過ぎ、植樹された木々が次々に根腐れをおこしました。そこで登場したのが、元来水辺の樹である柳でした。仕方なく植えた柳が、銀座のシンボルとなり、歌や詩歌にも登場するほどになりました。今は、銀座通りからは姿を消していますが、他の通りでは、復活しつつあります。
歌といえば、昭和4年、西條八十作詞、中山晋平作曲の「東京行進曲」の1番ですが、当時、モガ・モボ全盛の、アメリカナイズされた東京の尖端的都市という感じがあります。「昔恋しい 銀座の柳 仇(あだ)な年増(としま)を 誰が知ろ ジャズで踊って リキュルで更けて あけりゃダンサーの 涙雨」
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2006年08月19日 [講演先にて]
石見銀山
時は16世紀、大航海時代。ポルトガルやスペインなどの欧州諸国が遠洋航海に乗り出していった時代に、世界に知られたひとつの名がありました。「プラタレアス」(銀の島)。それが日本です。フランシスコ・ザビエルは、「聖フランシスコ・ザビエル書簡抄」で、「カスチリヤ人は此の島々をプラタレアス群島(銀の島)と呼んでいる。」「…日本の島々の外に、銀のある島などは、発見されていない。」といっています。東アジア貿易の立役者として世界の脚光を浴びた鉱山「石見銀山」を、昨日訪れました。往時の姿を、山間部に、ひっそりと、しかし明確に残していました。その頃、日本の銀産高は、世界の銀産量の3分の1 を占めていたといわれていますが、石見銀山の銀がその大部分を占め、世界の産銀量の15分の1を産出したといわれています。この石見銀山遺跡は昭和44年に、龍源寺間歩をはじめとする14箇所、約27ヘクタールが国史跡に指定され、国内初の鉱山史跡になりました。今、世界遺産登録へ向け踏み出しています。
銀山に向かって車を走らせていると、突然山間に町並みが現れてきます。これは、銀山の北側の出入り口から続く大森地区の町並みです。

ここには、江戸時代に代官所や役所などが置かれたことから、次第に武家屋敷や商家が増えていったところです。とても風情のある建物が並んでいるこの地は、昭和62年に国の重要伝統的建造物群保存地区に指定されています。住民みんなで、保存に力を入れており、床屋や医院、郵便局までとてもレトロなつくりです。

その町並みを過ぎ、もっと山奥に入ると間歩と呼ばれる坑道があります。今は竹やぶで覆われた山内を歩いていると、所々に間歩や露天掘りの後が転々と残っています。全部で大小あわせて600以上あるそうですが、そのなかで「龍源寺間歩」は内部が公開されています。
この間歩は、江戸時代には、開掘の長さは600mもあるそうですが、そのうち300mほど歩いて通り抜けられるようになっています。中は、ノミで掘った跡が当時のままの状態で全体に残っています。出口付近に展示されている資料を見ると、道を掘り進めるために、土や石を外に運び出す人、空気を中に来る人、あふれ出る水を外にくみ出す人、それぞれが必要なのです。

この銀山を訪れてまず感じたことは、こんな地味な山の中で、よく銀山を見つけることができたなあということです。石見銀山が、いつ、誰に発見されたのかを確実に伝える資料は今のところ見つかっていないそうです。昔は、露出している銀をたまたま見つけたのでしょう。しかし、南北朝時代では、採掘の技術を知らず、露出した自然銀のみを採っていましたので、すぐに採り尽くしてしまいました。それが、銀の製錬法である「灰吹法(はいふきほう)」という方法が導入され、一転して銀の輸出国に変わったのです。戦国時代から、銀山を含む石見国は争奪の的となっていましたが、結局、毛利氏が石見国を平定します。豊臣秀吉が全国を統一した後は、毛利氏は豊臣氏の大名として中国地方を知行し、銀を豊臣氏へ納めます。徳川氏が将軍となり江戸に幕府を開いてからは、家康は全国の都市や鉱山を直轄地(天領)としましたが、石見銀山もその対象となっています。出来上がった灰吹銀は極印を押し、大坂の銀座に納めます。大坂までのルートは大森町から陸路尾道へ、尾道から海路大坂へ、というものだったようです。シルバー・ラッシュのころのシルバーロードですね。
投稿者 fujimori : 20:56 | コメント (0)
2006年08月18日 [講演先にて]
国引
なんだか、週末になると地方めぐりです。どうしても、研修は土、日曜日しか取れないですね。今日宿泊しているのは、三瓶山の山間に有る宿です。
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石見国と出雲国の国境に位置する三瓶山は、「出雲国風土記」が伝える「国引き神話」に登場しています。国引き神話とは、「八束水臣津野命(ヤツカミズオミヅノミコト)というとても力の強い男の神様が、出雲の国がまだ出来たばかりで、ちょうど幅のせまい布のような形をしているのを見て、何とか自分の力で広い大きな国に、作り直してやろうと考えました。そこで、海の向こうの新羅の国に余った土地のあるのが見つかったので、その端の所に大きな鋤を打ち込み力一杯ぐっと手元へ引き寄せ、太い丈夫な綱を結び付け、その網の一方を持って、「国来、国来(くにこ、くにこ)」と掛け声を掛けながら引っ張りました。するとその土地は、こちらに近づき、出雲の国の北側にくっつきました。その時、この北山が出雲の国から離れないため、南の山の中に1本の大きな杭を打ち込み、それに引いてきた綱の端をしっかり結び付けておきました。その杭が今の三瓶山で、引いてきた綱が長浜だということです。その後も、いろいろなところから余った土地を引っ張ってきて、出雲の国を広げたということです。」この国引神話には、北陸の能登半島の珠洲岬から新羅の岬までが入っているように、出雲の国だけでなく、対象範囲が非常に広く、ずいぶんとグローバルで、ダイナミックな神話ですね。たぶん、そのころは、新潟、北陸、更に新羅の国とも交流があったのでしょう。
これが書かれている「出雲国風土記」は、713年の奈良時代に、時の政府は全国60余りの国に、その地方の地名の由来、特産物、古老の伝承などを調査し、報告するように命じ、作らせた風土記のひとつです。しかし、これらの『風土記』は1,300年もの長い間に、大半のものが部分的に散脱しており、すべてが完全に残っているのは『出雲国風土記』だけです。日本の古代の書物は、『古事記』『日本書紀』などが有名ですが、これらは中央政府(奈良の都)の政治史を中心に書かれており、地方のことは詳しく書かれていません。その点、風土記は、その地方がどのような姿をしていたかが克明に記されていますので、奈良時代の様子を知ることができます。風土記は、国を引っ張るというような途方もない話が登場するので、架空の世界ととらえられがちですが、ある程度は事実だろうと考えられています。これまでも、風土記の記述を頼りに、さまざまな建物や宝物が発掘されているからです。日本神話によると、日本列島はイザナギとイザナミが生んだということですが、「出雲國風土記」では、土地を造る手段は国引きであるとしています。この土地を引くというのは「出雲國風土記」だけでなく、「万葉集」の恋歌にも「山を引く」とでてきますし、朝鮮半島からシベリアにかけての北方にもあるそうです。この三瓶山は、風土記では、佐比売山(さひめやま)という名で記されています。「佐比売」の名は、1954年に大田市に合併するまでの地名「佐比売村」として残っていました。ここでは、町村合併で、由緒ある名前が消えてしまっています。現在では大山隠岐国立公園の三瓶山地域として年間多くの観光客が訪れています。三瓶山は標高1,126mの男三瓶を中心に、女三瓶、子三瓶,孫三瓶の四つの峰から成り立っている火山です。山麓には北の原,西の原、東の原という緩やかな平原や浮布の池などのレジャースポットが点在しています。また裾野には湧き出る温泉を利用して旅館施設などがあります。また平成10年には、噴火によって埋没した杉などが発見され話題になっています。今日は、それを見ることができずに、残念です。
投稿者 fujimori : 20:32 | コメント (1)
2006年08月17日 [近頃思うこと]
暑さ
いよいよ、高校野球も大詰めですね。今年は、東京勢が強いようです。この高校野球は、春夏行われますが、夏は、応援が暑くて大変でしょうね。甲子園球場は、一塁側が西で、三塁側が東にあります。ですから、朝は一塁側の日射しが強く、昼過ぎになると反対の三塁側の日射しが強くなります。実際にベンチの気温を測ったそうですが、やはり午前中は一塁ベンチが暑く、午後は三塁ベンチの方の気温が高くなったそうです。どのくらいの差があるのでしょうか。また、きっと、その日の気温よりは、ベンチは何度か高いでしょうね。何回かブログでその活動を紹介しましたが、八王子保育研究会で、いろいろなところの気温を測ってみて、その差がどのくらいあるかを調べたことがありました。たとえば、子どもと手をつないで外を歩くときに、大人の顔のあたりの温度と、子どもの顔のあたりの温度差を見ました。それから、そのときのベビーカーの中の温度も測ってみました。実は、アスファルトの上は、大人が体感する以上に熱くて、50℃~60℃近くにまでなるそうです。プールサイドなどを裸足で歩くと、熱くて歩けないほどです。その熱を子どもは、より近くで影響を受けているのです。いわゆる、地面からの反射熱は、地面からの距離が近いほど強いのは当然ですね。まして、ベビーカーの中は、とても高くなっているはずです。海辺で、パラソルなどで日陰を作って直射日光をさえぎっても、照り返しによる反射熱で、かなり熱くなってしまうのと同じです。
また、都市部の気温は年々上がり続けています。等温線をひくと都市の中心部に行くほど気温が高く、まるで都市の中心に熱い島があるような分布になるために「ヒートアイランド」といわれています。東京だけでなく、世界の各都市に見られる現象で、人が作り出した気候です。一面のアスファルトやコンクリートは、熱をため込み、暑さをしのぐクーラーから出る熱風が、更に気温を上昇させるという悪循環を引き起こしているのです。また、コンクリートは、昼間の熱を溜め込んで、夜になって放出しますから、昼間の気温が上がるだけではなく、夜間の気温も下がりにくくなります。郊外ではたくさんの木々が熱を吸収してくれますが、都市の緑は公園に残された程度で、街を冷やす効果はほとんどありません。どうしたら、この悪循環から抜け出すことができるのか、ということで、さまざまな提案がされています。有名なところでは、地域ぐるみで、打ち水をするというところがあります。他に、ベランダや窓辺に、つる性の植物を這わせた「緑のカーテン」をほどこす方法があります。「緑のカーテン」は直射日光を最大8割カットする上に、外からくる反射熱もシャットアウトします。その上、植物は「蒸散作用」によって周りの熱を奪い気温上昇を和らげる効果もあるのです。30℃を超える真夏日でも、部屋の温度を最大で5度程度低く抑えることができるため、これをしているマンションではクーラーに頼らない生活を送る人達が増えているそうです。更に、小学校でも緑のカーテンを導入したところ、「クーラーのない教室でも涼しく授業に集中できる」と大好評だそうです。
園舎内の緑
また、住宅地の真ん中に手作りの菜園を作り、街の中に涼しい風を吹かせようという実践もされています。調査では、菜園の中は常に1℃~3℃周囲よりも気温が低く、30℃を超える真夏日でも涼風が吹き抜けるそうで、更に、菜園で作られた冷気は風下の住宅地にも流れ、ヒートアイランドを緩和する効果があることが明らかになっています。やはり、緑はたいしたものですね。
投稿者 fujimori : 15:36 | コメント (2)
2006年08月16日 [近頃思うこと]
12個の惑星
誰でも暗唱している「水、金、地、…」という太陽系の9個の惑星が、一気に3個増え、12個になる可能性がでてきています。チェコ・プラハで開催中の国際天文学連合(IAU)総会で16日、惑星の新定義が提案されたためです。太陽系で惑星と認定されたのは1930年発見の第9惑星・冥王星が最後ですが、米観測チームが昨夏に冥王星より大きい「第10惑星(2003UB313)」の発見を発表するなど、近年、新天体の発見が相次ぎ、惑星の定義の見直しを迫られています。増える3個の候補は、第10惑星のほか、小惑星「セレス」と冥王星の衛星とされてきた「カロン」です。新定義を承認するかどうかの採決は、現地時間24日午後の予定です。どうなるでしょうか。なんだか、毎日の生活には関係しませんが、わくわくしますね。
惑星とは、太陽その他の恒星の周りを回る天体です。規模の小さなものは小惑星と呼んで区別しているようですが、実は、惑星と小惑星を区別する厳密な定義はないそうです。漢字の「惑星」という呼称は、長崎のオランダ通詞・本木良永が1792年、コペルニクスの地動説を翻訳する際に初めて用いた造語です。天球上の一点に留まらず、うろうろと位置を変える様子を「惑う星」すなわち「惑星」と表現したことから来ると言われています。天文学が発達する以前は、天動説の見地から太陽や月も惑星の中に分類されており、七曜、週の曜日名や占星術にその考え方の名残があります。太陽もうろうろと迷う星だと思われていたのですね。もちろん、現在の天文学上の定義では、太陽は恒星、月は衛星に分類されています。寛政年間からそのように呼ばれたとしても、それら惑星は大昔から人々の目には見えていたはずです。ですから、それ以前は、惑星は、遊星とも言ったり、「行星」との表記も行われていたようです。明治期、学術用語として東大学閥が「惑星」、京大学閥が「遊星」を主張し、結局東大閥が勝ち、現在、「遊星」の表記は行われず、「惑星」といわれています。しかし、「遊星」の方が見慣れぬ言葉で幻想的なイメージがあるためか、ファンタジーやSFの世界ではこちらが用いられることも多いようです。
そこで、惑星の科学的データではなく、それぞれの惑星が、神話上では、どう見られていたかが、その命名でわかります。水星はローマ神話のメルクリウス(英語のマーキュリー)と同一視され、したがってギリシャ神話では、ヘルメスにあてます。(宵の水星と明けの水星が一つの天体であることを認識する以前は、明けの水星にはアポロンを充てていました)これは、最内周惑星で運行が速いことから、足の速い神の名をつけたものです。金星は、ギリシャ神話のアフロディテ、ローマ神話のビーナスと同一視され、とてもきれいな星のため、世界各国でも、金星の名前には女性名が当てられていることが多いようです。火星は、古代の人々は、血の色のように赤く見えることから、戦いの神「マーズ」と名付けました。ギリシャ神話では、軍神アレスです。今の時期、夜空に見える木星は、ギリシャ神話のゼウス、ローマ神話のユピテル(英語のジュピター)と同一視され、立派なので、惑星の王として表されています。土星は、ローマ神話のサトゥルヌス(英語のサターン)と同一視され、ギリシャ神話のクロノスと同一視されることもあります。元来は農耕神です。天王星は、古代ギリシャ神話のウラノスに由来し、海王星は、古代ギリシャ神話のポセイドン(ラテン名ネプトゥヌス)に由来し、冥王星は、古代ギリシャ神話の冥王ハデスの別名プルトンに由来します。海王星や冥王星は、古代人の命名ではなく、近世以降に発見された惑星に他の惑星に倣い「未使用の神話上の大物」の名が付けられたもので、天体の外見や運行上の特徴と付けられた神名の関わりはあまりありません。さまざまな思いで星を見ていたのでしょうね。
投稿者 fujimori : 19:07 | コメント (3)
2006年08月15日 [近頃思うこと]
ちゃぶ台
私が、ドイツの保育家具メーカーに行ったときのことです。そこの社長さんと話をしているときに、こう言われました。「わが社では、世界中からさまざまな保育家具の注文があります。しかし、その中で、日本からしかない注文があります。工場の人たちから、どうして、日本からこういう注文があるのか一度聞いて欲しいといわれていました。その注文は、『机の脚を、たためるようにしてほしい』というものです。日本では、机の脚は、たたむのですか?」確かに、日本の保育室にある机の脚はたたむことができるものが多いです。これは、まさに「ちゃぶ台」文化です。ちゃぶ台とは、「卓袱台」と書きますが、折り畳みのできる短い脚のついた食卓のことです。チャブは「茶飯」の中国音Cha-fan’または「卓袱」の中国音Cho-fuの訛りか、または、中国料理をいう米国語Chop-sueyの転かからといわれています。江戸時代は、家庭では銘々膳で食事をしていました。上下関係が厳しい社会、食卓も身分に応じて、個人別の銘々膳だったのです。ところが明治維新以降、家族みんなで仲良く食事をしたり、団らんすることが大事なこととされ、茶の間で家族全員が向き合うことのできるちゃぶ台が使われるようになったのです。ちゃぶ台は、畳に座って食べるという日本の文化に、みんなで食卓を囲むという中国や西洋の文化を取り入れたのです。その頃の茶の間は、食事をし、くつろぎ、布団を敷き、そこで眠るというように、家の中心的空間でした。そこで、その時に応じて片付けられるように、机として使った後は、立てて、足を折りたたみ、部屋の隅に転がして、片付けます。子どもでも、重くて持てなくても、転ばす事はできます。狭い部屋でも便利に使うことができました。ちゃぶ台によって、食事風景もだいぶ変わりました。おかずを銘々よそらずに、大鉢や大皿に盛り、それぞれが取り皿にとるようになりました。家族が同じものを、一緒の時間に食べるようになりました。食事のマナーも変わりました。銘々膳の食事においては、正座が原則でしたが、家長などの成人男性に限っては、あぐらを組んで食事をしてもよいとされていました。しかし、ちゃぶ台を、5・6人の家族が囲むと、必然的に、正座にならなければなりませんでした。つまり、食事の規範として、子どもに「正座をするしつけ」がされるようになったのです。
食事の後には、子どもの勉強机として利用されたり、母親が裁縫をする台としても使われたり、家族みんなでお茶をのみながらラジオを聞いたりして過ごしていました。ちゃぶ台は、そんな団欒の場になくてはならないものでした。ちゃぶ台というと正方形や長方形のものもありますが、丸形のものを思い浮かべます。丸形のものでは、ぐるりと囲んで座れるので、どこに座っても家族みんなの顔を見ながら楽しくおしゃべりできます。逆にその家の主人が怒るときには、そのちゃぶ台をひっくり返します。寺内貫太郎一家というテレビ番組では、よくひっくり返していました。確かに、狭い部屋の中で、さまざまなことをしていたので、机を片付ける必要があったのでしょうが、それは、決して貧困というだけでなく、家族のコミュニティー形成のために、とても意味のあるものだったに違いありません。初めて集団を意識し始める2歳児のままごとコーナーでは、こんなちゃぶ台を使っています。
投稿者 fujimori : 18:31 | コメント (0)
2006年08月14日 [近頃思うこと]
激辛
8月8日の日経スペシャル「ガイアの夜明け」で、「“韓流”ビジネス 日本上陸 ~ヨン様を超えろ!韓国企業の挑戦~」というテーマが放送されていました。世界を目指す韓国企業にとって、隣国の巨大市場・ニッポンは避けて通れない国なのです。番組の中で、ひとつは、「美肌の国のトップメーカーが日本デビュー」ということで、韓国最大手の化粧品メーカー「アモーレパシフィック」がこの夏、日本市場にデビューを果たした特集です。もうひとつは、 韓国で、145店舗チェーン展開している大人気の激辛料理店「ホーンチョ・ぶるだっく」の日本進出です。目指すのは「辛い味の世界化」だそうですが、そういえば、1986年(昭和61年)に、「激辛ブーム」がありました。当時の流行は、「ダイアナ妃フィーバー」「テレホンカード」「新人類」「おニャン子クラブ」そして、「激辛ブーム」です。これは、カレーだけではなく、ラーメン、お菓子、清涼飲料など、あらゆる食品に激辛をうたった製品が販売されました。この「激辛」という言葉は、煎餅屋「淡平」の社長さんが造った、一味唐辛子がびっしりまぶしてある「特辛子煎餅」が ブームの原点のようです。したがって、激辛ブームの立役者ともいわれています。この「激辛」で、流行語大賞も受賞しています。スナック菓子では、湖池屋の「カラムーチョ」も、激辛ブームの火付け役となります。ラーメンでも、「カラメンテ」「カライジャン」といった辛口ラーメンをはじめ、神田淡平の「辛口せんべい」、激辛ガムなど、さまざまな激辛商品が登場しました。そして、2004年の夏の記録的な暑さのおかげで、また激辛ブームがきます。そのときに急上昇した食材が、世界で一番辛い唐辛子「ハバネロ」です。このハバネロは、米が原産のタバスコで、ソースのおよそ10倍、赤唐辛子の20倍の辛さで、ギネスブックも世界一の辛さを認めています。これを材料に使ったスナック菓子「暴君ハバネロ」や「暴君ハバネロ激辛焼そば」などが当たりました。しかし、私は、唐辛子系の辛いものが苦手です。ですから、熱いそばには、七味唐辛子はかけませんし、四川風坦々麺もあまり食べません。(キムチや辛子明太子などはすきなのですが)同時に、熱いものが苦手です。ですから、熱いトムヤンクンなどは、食べたときに死ぬかと思いました。いわゆる「猫舌」です。熱い駅そばを食べると、時間がかかってしまって、何台も電車を乗り過ごしてしまいます。この猫舌は、どうも隔世遺伝のようです。私の祖父はうどんが好きで、よく家で母に手打ちうどんを打たせていましたが、食べるときは、非常に熱くしたうどんをめいめい膳に乗せ、その脇に、それをさますための団扇を置いておかないと怒ったそうです。それなら、さまして出せばいいのにと思いますが、それではだめだそうです。熱いものを、自分で程よくさまして食べるのが通だそうです。わがままですね。そういえば、いつも、毒見役が先に毒見をして、時間がたってさめたものをいつも食べていた殿様は、猫舌だったようです。目黒で初めて焼きたての秋刀魚を食べて美味しかったので、「さんまは目黒にかぎるゾョ」と言った寄席話は有名ですね。私は、辛いものだけでなく、下町の銭湯に浸かって育ったわりには、熱い風呂が苦手です。温泉地へ行って、その湯がぬるいとうれしくなります。きっと、辛いものが苦手な人は、おおむね猫舌で、ぬる湯好きであるという関係があると思っています。NHKテレビで以前、その関係を実験していた気がします。「猫舌の長風呂入り」という言葉があるように、「ぬる湯好き」を「猫舌」と表現しています。他の人は、どうなのでしょうか。
投稿者 fujimori : 17:58 | コメント (0)
2006年08月13日 [教員の頃]
読み聞かせ
8月10日の朝日新聞の朝刊に「雄アフリカゾウで国内最高齢 多摩動物公園のタマオ急死」という記事が小さく載っていました。私は、多摩動物園は近いので、よく行きますし、園の遠足でもよく行きます。「賢くて、みんなに慕われた。性格も穏やか。元気だったのにね」と、同園教育普及係長の金子美香子さんは言っていますが、ゾウは賢いですね。というと思い出すことがあります。小学校で2年生を担任していたとき、教科書に「かわいそうなぞう」という話が載っていました。私は、この話を、「文章を読む」のではなく、「内容を理解させよう」「内容を感じさせよう」と思いました。そのために、子どもが自分で読む前に、私が読み聞かせをしたのです。子どもたちには、机に顔を伏せさせ、耳だけを働かせて聞いてもらいます。よく、国語の授業で、教師は「文章を解説する」ことをしようとします。しかし、このような解説教育によっては、「主体的な学習」とか、「思考する学習」とか「理解する学習」は、生まれてきません。まだまだ、文字を読むことに労力を使う2年生です。どうしても、文字を読もうとし、内容の理解は遠ざかると思って、私が読んであげたのです。「かわいそうなぞう」は、土家由岐雄作のノンフィクション童話です。絵本や紙芝居としても出版されています。内容は、「第二次世界大戦が激しくなり、東京・上野動物園では空襲で檻が破壊されて猛獣が街に逃げ出したら大変だということで、猛獣を殺すことを決定します。ライオンや熊が殺され、残すは象のジョン、トンキー、ワンリーだけになります。象に毒の入った餌を与えますが、象たちは餌を吐き出してしまいます。仕方がないので、毒を注射しようにも針が折れて注射が出来ないため、餌や水を与えるのをやめ餓死するのを待つことにします。」私は、この話を読んでいるとき、次の部分になったときに声を詰まらせて、読めなくなってしまいました。聞いていた子どもたちは、びっくりして、みんな顔を上げ、私をじっと見ていたことを思い出します。この話は、よく読んでいたのですが、声を出して読むと、自分でもわかりませんが、こみ上げてくるものがあるのです。「ある日、トンキーとワンリーが、ひょろひょろと体をおこして、ぞうがかりの前にすすみ出てきました。おたがいに、ぐったりとした体をせなかでもたれあって、げいとうをはじめたのです。後ろ足で立ち上がりました。前足を上げておりまげました。はなを高く高く上げて、ばんざいをしました。しなびきった体じゅうの力をふりしぼって、よろけながらいっしょうけんめいです。げいとうをすれば、もとのようにえさがもらえるとおもったのでしょう。」
同じようなことがもう一度ありました。中学生数人の勉強を見ていたとき、夏休みの宿題で「読書感想文」がありました。あまり成績のよくない子達でしたので、私が読み聞かせをしてあげたのです。その本は、「猫は生きている」(早乙女勝元/作 田島征三/絵)です。このときも、途中で声が詰まって、読むことができなくなってしまいました。これは、「大空襲でほとんどの人間は死に、その中で逞しく生きて行こうとする猫たち」という話です。母親が爪がはがれても地面を掘って、赤ちゃんを守ろうとして死んでしまうところなどは、読み続けられません。もうすぐ終戦記念日です。ハワード・ガードナー教授は、講演の中で、「戦争を知ることでなく、理解をしなければならない」というようなことを言っていました。
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2006年08月12日 [近頃思うこと]
帰省
今日の朝のNHKニュースで「お盆の帰省ラッシュ ピークに」という内容が放送されていました。保育園というところは、休みが日曜、祝祭日、年末年始休暇以外はないので、お盆休みという感覚がありません。逆に、その時期は登園する子どもが減るので、お盆というと、ゆったりと、少ない人数で日を過ごすというイメージです。また、職員も若い人が多いので、何も混雑の、費用が高いお盆にどこか行くというより、それを避けて休みを取ります。私自身も、今は我が子が大きくなったので、何も混雑している夏にどこかに行くということはありません。そんなわけで、最近、ニュースで帰省ラッシュといわれても実感がありませんでした。ところが、昨日、上田に来るために長野新幹線に乗ったのですが、自由席の車両は、着く列車ごとに乗り切れない人が出るほど大混雑でした。ホームにも、小さい子どもを連れた家族であふれかえっていました。改めてNHKニュースの「JR各社によりますと東京から各地に向かう東海道・山陽新幹線や東北、秋田、山形の各新幹線は終日、ほとんどの列車が予約でほぼ満席となっています。」が実感できました。
「帰省」という言葉になぜ、「省」という字を使っているのか不思議に思いました。「省」という字を「しょう」と読む場合は、主に行政機関をさす場合です。また、「せい」と読む場合は、自ら反省するような意味に使われます。辞書を引いてみると、「省する(せいする)」という意味に二つあって、ひとつは、「反省する」ですが、もうひとつに「親の安否をたずねる。見舞う。」というのがあります。ということで、「帰省」という語源は、「故郷に帰って親の安否を気遣う」という唐の詩人、朱慶余の漢詩が出典だそうです。単に故郷に帰る場合には、帰省ではなく、薮入りとか、里帰りとかの言葉が使われていました。それが、経済の高度成長にともなって、高等教育の大衆化に伴う進学機会の増大や、就労場所の都市への集中が進み、地方から都市への人口の流入が促進され、そんな都市圏に在住している人が、年末年始やゴールデンウィークやお盆などに出身地である地方などに一時帰ることも、帰省というようになったのです。
インターネットポータルサイト「goo」で検索されたキーワードの検索回数の7月ランキング1位は、夏の行楽シーズン、帰省を前に鉄道の運行情報やきっぷをネット上で入手するためか「JR」が1位だったそうです。そのほかに、この季節ならではのキーワードとしては、「高速バス」(15位)、「新幹線」(30位)などの移動手段や、「じゃらん」(10位)、「JTB」(13位)といった旅の情報を探すためのキーワードが多く検索されているようです。また、季節の定番キーワード、「高校野球」(7位)、「花火大会」(11位)、「自由研究」(31位)も夏休みらしいですね。
今月、明治安田生命保険相互会社が、夏に関するアンケート調査を実施しました。それによると、夏休み平均日数は6.3日。会社員・公務員では5.4日だそうです。学生は38.2 日だそうで、うらやましいですね。しかし、自営業・自由業の方は、休み無しの方が38.6%もいます。また、帰省の費用平均は4万4千円。10世帯に1世帯が10万円以上の出費だそうです。「夏休みの過ごし方」では、理想・現実ともにトップは「自宅でゆっくり」だそうです。 帰省の楽しみの第1位は、「両親兄弟の笑顔」です。上田駅の改札口で、駆け寄ってきた孫をうれしそうな顔で抱き上げ、「よう来た、よう来た」と孫に何度も頬ずりしている祖父母を見ると、混んでいても帰省っていいなあと思います。
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2006年08月11日 [講演先にて]
上田
明日の午前中、長野県上田市で講演があるために、上田に来ました。午後、少し時間があったので、上田城に行ってきました。
私は、上田城は初めてですが、なんだかわくわくします。この城は言わずと知れた、「真田昌幸」によって築かれました。この城が有名なのは、さほど強固な石垣もなく、また、登りにくい山の上にあるわけでもないのに、2度も徳川の軍から城を守ったことです。第一次上田合戦では、昌幸は巧みな戦術で徳川の大軍を撃破、「家康の城攻め下手」と言わせるまでになりました。第2次上田合戦では、中山道別動隊3万余の軍勢を、わずか2000の兵で撃退しています。また、真田家の紋所は、「六文銭」です。この六個の銭は、六道(地獄、餓鬼、畜生、阿修羅、人間、天上)の衆生を救うため、三途の川を渡る渡船料を意味するといわれています。しかし、私がわくわくするのは、そんな歴史的なことではなく、(しかし、子どもころは、徳川を翻弄した原因であると思っていました)大坂の陣で、真田幸村が活躍したときに中心になった「真田十勇士」の活躍です。「真田十勇士」とは、「猿飛佐助、霧隠才蔵、三好晴海、三好伊三、穴山小助、筧十蔵、由利鎌之助、海野六郎、望月六郎、根津甚八」のことです。
街の住所表示の下にある絵
もちろん、歴史上に実在した人物ではなく、明治から大正にかけて刊行され大人気を博した「立川(たつかわ)講談文庫」で創作され、確立したと言われていますが、私が子どもころは、この十人が子どもたちのヒーローでした。読む漫画といえば、ほとんどこの活躍話です。そのなかでも、「猿飛佐助」が最も人気がありました。そのキャラクターは、ほとんどの場合、忍術を使う少年として書かれていました。映像化も何度もされ、子どもたちは、みんなその真似をしました。手で印を結ぶと姿が消え、相手から見えないのでどんな豪傑でもテンテコ舞いさせることができたのです。彼は、甲賀流の忍者です。信濃の郷士・鷲尾佐太夫の子で、山中で猿の群れと遊び戯れているところを戸沢白雲斎という白髪の甲賀流忍術の名人に見込まれ、忍術の修行をしたあげく極意を授けられます。そして、鳥居峠にやってきた幸村に見出され、その家来となるのです。そして、女、子どもなどの「弱きを助け」、山賊などの「強きを挫き」、それらを懲らしめたりと大活躍します。そして、忍術を使って、徳川方の軍評定の内容を探ったり、地雷火を仕掛けて、敵方を混乱に陥れたりするのです。佐助に対照的なのは、「霧隠才蔵」です。彼は、物静かで慎重な伊賀流の忍者です。姫路近くの山中で山賊となっていたところで佐助と遭遇して、甲賀流の猿飛佐助と忍術比べのあげく幸村に仕えることになるのです。やはり、大坂夏の陣では、電光の如き大活躍をして、徳川軍の大軍を悩ませ、家康の本陣に忍び込み首を掻こうとしますが、失敗します。彼は、よく、大きなガマに乗って、口に巻物をくわえて忍術を使います。そのほかにも、陽気で豪快、一本気な好漢で、重さ十八貫の鉄棒を縦横無尽に振るう怪力の「三好清海入道」、その弟の「三好伊三入道」、誠実な性格で、与えられた仕事をよく果たす、みんなのまとめ役の「穴山小助」、鉄砲の名手の「筧十蔵」、槍と鎖鎌が得意な「由利鎌之助」、参謀として働いた「海野六郎」、爆薬や火術に長け、地雷火や大筒を製造した「望月六郎」、俳優がその名前を取った「根津甚八」が真田十勇士です。もう一度、立川文庫が読みたくなりました。思い出では、戦国時代なのに、人を殺しあわないで、「あたふたさせる」痛快さがありました。
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2006年08月10日 [近頃思うこと]
園庭の野菜の花
私は、園庭を歩くのが好きです。いろいろな花が咲いているからです。先日は、大きなハスの花を見ましたし、一昨日は、へくそかずらという野草も見ることができました。園庭には、ブログの材料がたくさんあります。今日は、園庭にある菜園で咲いている野菜の花を紹介します。野菜は、最近その花を食べることもありますが、多くは、その実を食べるために栽培するものです。ですから、花は、その実を結ぶためにあるものであり、観賞用ではありません。しかし、そんな野菜の花ですがよく見ると結構美しいものです。
形のかわいらしさといい、色の美しさでいうと私は、「ナス」の花が好きです。ナスは子どもにとって好き嫌いが多い野菜ですが、ナスの味噌汁や冷たく冷やした焼きナスは美味しいですね。また、ナスは、夏にとれる野菜で夏の実から、成す、生すにつながり「茄子は成すに通じる」ことから縁起物としてあつかわれました。ですから、お正月の縁起のいい初夢として「一富士、ニ鷹、三茄子(イチフジ、ニタカ、サンナスビ)」といわれています。日本へは、中国から渡来し、すでに奈良時代には栽培されてい手、とても古い野菜です。当時の「正倉院方書」に、なすを献上したという記録があります。また、「なす」というよび名は宮中の女房言葉からきたもので、初めは「奈須比」とよばれていました。ナスにはいろいろな種類がありますが、それは大きさもありますが、主に形が違います。主な形は、「なすび型」といわれる形で、英語でエッグプラント(卵植物)、ドイツ語でアイエル・アプフェル(卵形りんご)といいます。また、ナスは一年中ありますが、本来の旬は9月から11月ですが、特に花が咲いた後、実が大きくなる時期の陽当たりで品質が決まってしまうので、 晴天の多い夏から秋に育ったナスが一番おいしく育ちます。しかし、「秋ナスは嫁に食わすな」ということわざがありますが、これは「おいしい秋ナスは嫁なんかには食べさせられない」という嫁いびりの言葉ととられがちですが、そうではなく、夏野菜であるなすは、食べると体を冷やす作用があるので、妊婦の体には良くないといういたわりの言葉なのです。
そのほかにも、ナス科の花はみなきれいです。とりわけオクラの花は意外ですが、大きく、立派な花を咲かせます。

ナスとオクラ
また、北海道の風景であるジャガイモも立派なナス科の野菜です。しかし,ジャガイモは花のあとに実は付けません。食べている部分は、地下にありますが、根の部分ではなく地下茎です。
昨年行った北海道の一面のジャガイモ畑
トマトやピーマンもナス科です。とても小さく、一見冴えないのですが、よく見ると、かわいらしい形をしています。

ミニトマトとピーマン
きゅうりはウリ科の一年草の野菜です。 江戸時代には苦味が強かったようで、貝原益軒は、「菜譜」の中で、「これ瓜類の下品なり。味良からず、かつ小毒あり」といっています。しかし、今は苦味も無くなって最もなじみ深い食材の一つとなりました。食感と香りで涼を楽しむ夏野菜の代表です。西方から来た瓜という意味で”胡瓜”という名前になりましたが、日本では、 江戸時代以前には完熟して黄色くなってから食べていたので、黄瓜(きうり)と呼ばれました。ウリ科の花は,美しさにかけては,ナス科には、はるかに及びませんが、きゅうりやカボチャの花のような激しい黄色の粗野な感じの花は、炎天下の夏に似つかわしい力強さを持っています。

しし唐ときゅうり
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2006年08月09日 [近頃思うこと]
日本の印象
先日のハワード・ガードナー教授の講演会のレジメの来日の挨拶に「日本は美しい国であり、だれもが礼儀正しく、親切な素晴らしい市民社会です。また、日本は私の思案上、大切な国でもあります。」彼は、MI理論を構築する過程で、日本文化等が大いに参考になったといっています。

今年は、生誕500年ということで、日本にキリスト教を伝えた宣教師フランシスコ・ザビエルの足跡が、中国で見直されているという記事が、朝日新聞の7月15日付朝刊で取り上げられていました。たまたま、私も今年平戸にプライベートで行ったために、あらためて、ザビエルを見直し、またテレビなどで取り上げられるたびに気になっています。彼は、日本に来たときにどう「日本」という国が映ったのでしょう。ペドロ・アルベ、井上郁二訳「聖フランシスコ・ザビエル書簡抄」には、こうあります。
「私は、今日まで自ら見聞し得たことと、他の者の仲介によって識ることのできた日本の事を、貴兄等に報告したい。先ず第一に、私たちが今までの接触に依って識ることのできた限りに於いては、此の国民は、わたしが遭遇した国民の中では一番傑出している。私には、どの不信者国民も、日本人より優れている者は無いと考えられる。日本人は総体的に良い素質を有し、悪意が無く、交わって頗る感じが良い。彼らの名誉心は特別に強烈で、彼らにとって名誉が凡てである。日本人は大抵貧乏である。しかし武士たると平民たるとを問わず、貧乏を恥辱だと思っている者は一人もいない。」
彼が、誰と会い、誰と接触したのかはわかりませんが、ほんの一部の人からだけの印象ではないはずです。ザビエルは、1506年、現在のスペイン北部にあったナバラ王国ザビエル城で生まれました。ですから、今年、生誕500年にあたります。彼は、1549年8月15日、鹿児島へ上陸しています。(以後よく見かけるキリスト教、ということで“いごよく1549”と覚えたものです)しかし、日本での伝道は、容易なものではなかったようです。最初は、薩摩藩主の島津貴久に謁見し、宣教のための許可を求めました。ポルトガルとの貿易を望んでいた貴久は、快く許可を与え、小さな家も貸し与えました。しかし、ポルトガル船が、鹿児島ではなく平戸に停泊したことを契機に、貴久はキリスト教を禁止しました。そこで、ザビエルは平戸に行き、領主 松浦隆信に謁見し、宣教の許可を得ました。そして、彼は家臣の木村家に滞在しました。 2カ月の滞在の後、都へ旅立ちますが、応仁の乱で荒廃した京都において、天皇との謁見も、宣教も許されず、その後、山口、そして、豊後、その後、中国へ渡ろうとし、1552年に、熱病で息を 引き取ったのです。ずいぶんと密度の濃い人生でしたね。その彼が、こうも言っています。
「日本人の生活には節度がある。ただ飲むことに於いて、いくらか過ぐる国民である。住民の大部分は読むことも書くこともできる。彼らは盗みの悪を非常に憎んでいる。大変心の善い国民で、交わり且つ学ぶことを好む。」(抜粋)これらが、武士道とか日本の品格とか言われると、いかにも日本独特のもののような気になりますが、そうではなく、もっと広く、人としてどうあるべきかを考える必要があると思います。
投稿者 fujimori : 19:22 | コメント (0)
2006年08月08日 [近頃思うこと]
花の名前
昨年の9月23日のブログで、野の花の中で名前がまさにそれを言いえているということで、「継子の尻拭い」という花を書きました。それは、茎と葉のとげを見立てたものです。また、4月9日のブログでは、花の形がさまざまなものに似ていることから命名された野の花を書きました。そのほかに、その「におい」から命名された傑作があります。私は、遊びに来た小中学生と散歩して、この花を見つけると、その花と葉のにおいをかいでもらいます。そして、この花の名前を教えてあげると、みんな喜んだものです。特に、子どもたちにとって、とても好きな?名前だから、なおさらです。花などをもむと、いやなにおいがします。それは、「屁」と「クソ」を混ぜたような匂いです。ですから、この花の名前は、「ヘクソカズラ」(屁糞葛)といいます。日本全国どこへ行っても見られるお馴染みの植物ですが、なんとも強烈な名前ですね。その花を、今日、園庭で見つけました。
属名 Paederiaも、ラテン語の「悪臭 paidor」に由来するとのことです。万葉の頃はクソカズラと呼ばれていましたが、後に「屁」も付け加えられたとのことです。しかし、そんなかわいそうな名前だけではありません。花の中心部の赤いところが、灸(やいと:お灸のこと)をすえた跡のように見えることから、あるいはこの花を逆さにして人の肌に伏せると灸をすえているように見えることから。「ヤイトバナ(灸花)」とも呼ばれています。は、付けられたとか言われています。もっときれいなところでは、花を並べて早乙女が田植えをしている姿に例えて、サオトメバナ(早乙女花)とか、サオトメカズラということもあります。しかし、誰が考えても、まさにその花を言い当てているのは、「ヘクソカズラ」だと思います。(しかし、果実は光沢のある球形で、茶花としても用いられますが、そのときにはもちろんサオトメバナという名前を使います)このヘクソカズラは、野の花だけあって、なかなか優れものです。この葉や茎の上を、いつもアリがせわしげに往来しています。それは、花が落ちるときに萼が露出しますが、そこに残った蜜が目当てなのです。こうして、アリを呼び集めて、害虫を追い払ってもらっているのです。臭気という防衛手段を持っていて、その上にアリまで呼び集め、守ってもらおうというのです。
ほとんどの花は、その形から名づけられていますが、同じように、においから名前がつけられたものがあります。それは、「沈丁花」という花で、その香りは、千里のかなたまで香りが届くということで千里花とも呼ばれます。この花はこうしてつけられました。香木という心地よい芳香を持つ木材があります。その中で特に有名なものに、沈水香木(じんすいこうぼく、または沈香、じんこう)と白檀(びゃくだん)があります。また、カレーやシチューに入れると味が引き立つ香辛料にクローブというものがありますが、この日本名の「丁子(ちょうじ)」といいます。その強い香気は洋の東西を問わず珍重され、正倉院の宝物のなかにも当時輸入された丁子があるそうです。香りは沈香(じんこう)という香りに似ており、葉の形が丁子という植物に似ているところから「沈丁花」と付けられたのです。においそのものを表しているわけではありませんが、ずいぶんと、贅沢な名前をもらったものですね。
投稿者 fujimori : 18:50 | コメント (0)
2006年08月07日 [新聞記事より]
風呂
今日の毎日新聞に、夏の風呂の入り方が書いてありました。最近、暑い夜が続きますので、つい、湯船に入らず、簡単にシャワーで済ませたくなります。なんだか、汗が洗い流せて、すっきりするからです。しかし、専門家は「シャワーと入浴では、体への効果が大きく違う。夏も面倒がらずに入浴してほしい」と話ています。エアコンによる冷えや日ごろの疲れの解消に、夏のお風呂を上手に活用して欲しいというのです。どうしてかという記事によると、「シャワーは体の表面を流すだけ。一方、湯船につかれば、血液循環が促進されし、毛穴が開いて汚れが落ちやすくなるなどの効果が期待できる。そして、体が温まると、体内の不要物質を取り除くフィルター役の腎臓や肝臓が活発に働き始める。エアコンの冷えなどで働きが悪くなった新陳代謝も回復し、疲労や肩こりの原因となる血液中の乳酸などの老廃物が排泄されやすくなる。また、じっくり温まれば汗が出て、毛穴の汚れが押し出される。しばらく汗が出ると、新しい皮脂が分泌され、皮膚の潤い保持に役立つ」といっています。しかし、注意事項として、「肩までドボンとつかる全身浴は心臓や肺への負担が大きく、高血圧や心臓に病気のある人、高齢者は注意が必要だ。また、熱い湯に入ると血液粘度増し、脳卒中の危険もあるそうなので、39度前後のぬるめのお湯に入ると、副交感神経の活動が優位になり、高ぶった精神状態を静めたり、筋肉の緊張を解く効果がある」そうです。
年を取ると、どうしても昔のことを思い出して、その話題が多いのですが、私は、高校卒業するまで銭湯に行っていました。下町は、ほとんどの家には風呂がありませんでした。この銭湯のような湯槽式入浴は、江戸時代から始まったものですが、当時は内風呂を持てるのは大身の武家屋敷に限られ、火事の多かった江戸の防災の点から内風呂は基本的に禁止されていたのです。当時の銭湯の建築様式は、全国的に神社仏閣や城郭の天守を想起させる切り妻の屋根飾りがありました。そして、正面の入り口には大判ののれんがかけられています。まず、最近の居酒屋などで見られるような下駄箱があり、木の札の鍵をかけます。そして、男湯と女湯にわかれ中に入ると、番台が、男湯と女湯の脱衣所を共に見渡せる位置にあります。そこでお金を払って、積んである脱衣かごをとって、なんだか儀式的にそれを逆さにして床に「トン!」とします。たぶん、ほこりとか、何か入っているのを払ったのでしょう。番台の先には、男湯と女湯が行き来できる戸があって、店の人や、小さい子どもは自由にそこを行き来します。そこを行き来しなくなると少し大人になった気分です。そして、どういうわけか、片隅に小さな日本風の植栽などしてある坪庭があります。その廊下をいくとトイレがあります。浴槽は、大小あり、片方は深くなっています。そして、その境の壁は、下のほうがあいています。もぐって、そこを行き来するのが冒険でした。しかし、たいていの場合は、湯はとても熱くてそんなことをするどころか、水の蛇口近くにそっと入ります。水で薄めると怒られたものでした。ですから、大人になった証拠として、その熱さを我慢して、肩まで入るのです。ちょっとでも動くと熱く、おならの泡が背中を伝っただけでもやけどをしたくらいでした。そして、浴室正面の壁面には、富士山と松林のある浜辺のペンキ絵が広がっています。(どうも、女湯の浴室のペンキ絵は、富士山でなく、子どもが喜ぶ汽車や自動車が描かれることが多かったようです)定期的に、その絵は、書き換えられていました。他に、タイル絵もありました。図柄は主に「宝船」や「鯉の瀧昇り」、「七福神」などでした。こんな銭湯も、今は歴史館にあるだけになりつつあります。
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2006年08月06日 [研修]
理解
今日は、「なぜ深い理解がすべての教育の中心になるべきなのか?」というテーマの講演会を聞きに行きました。案内のチラシには「ほとんどの教育者は学生が事実と数字の丸暗記を超えて、知識を取得し、応用する必要があることに合意する。それは彼らの人生を通して役に立つ理解の水準を発展させるためである。しかし、不幸にして、伝統的な教育はしばしば、この目標に達していない。ハーバード教育大学院とそのリサーチプロジェクトは、この問題に対して、よりシステマチックな教育手法、”理解のための教育”Teaching for Understandingを開発し、世界的に導入してきた。プロジェクトの発足から、一貫して、このテーマにも携わって来たハワード・ガードナー教授に聞く。」とあります。ハワード・ガードナー教授は、ハーバード大学教育学大学院(認知・教育学)教授で、同大学の心理学教授も兼担しています。このチラシのなかにある「伝統的な教育」とは、どういう教育なのでしょうか。今の画一化された学校では,主に,言語的知性,論理・数学的知性だけが重んじられ,他の能力はおざなりになっていることが問題なのです。そこで、ガードナーが提唱するのが、進化論的証拠や,小さいときに才能を発揮する子ども(神童),脳の作用,自閉症の子どもなどの研究成果から「多重知性」です。マルティプルインテリジェンス理論(MI理論)というもので、「多元的知能(Multiple Intelligence)」という本があります。彼は、人間には7つの別個の知能が存在すると提唱しています。それは、言語的知能(言葉を扱う)、論理数学的知能(数、記号、図形を扱う)、音楽的知能(リズムと音のパターンを扱う)、身体運動的知能(身体と運動を扱う)、空間的知能(イメージや映像を扱う)、対人的知能(他人とのコミュニケーションを扱う)、内省的知能(自己とその精神的リアリティーという内的側面を扱う)です。このように知能は単一ではなく、複数あるというのです。さらに彼は、この考え方を教育実践の場に応用するためのヒントを示しています。今日の講演は、このMI理論の話ではなく、「理解」をもたらすための教育についての話でした。読み、書き、計算などの学習は、「理解のための教育」を達成するための手段でしかないといいます。「理解」とは、これらの知識、スキル等を習得した後、新たな状況下で首尾よく、その知識・スキルを活用できることであるとしています。従来の知能検査によって表される数値は、この先もなくなることはないでしょうが、今後は、そのような認知の世界だけでなく、真の理解が教育の目的となるであろうといいます。しかし、事態をさらに悪化させているものに、詰め込み式や、丸暗記の教育、マルティブルチョイス式のテストなどがあるといいます。本のなかでも、アメリカの教育業界が人間の能力を画一的かつ脱文脈的にとらえており、過度のテスト主義に陥いっていると批判しています。そして、「文脈の中で人間の多元的な能力を評価すること」の重要性を主張しています。ガードナーによると,知性とは,ある文化的背景において活性化され,問題を解いたり,その文化において価値があるとされるプロダクト(製品,成果)をつくることができるといっています,この本の初版は、10年以上前に出されていますが、いまだにアメリカの教育は変わらずに、それどころか、この主張と全く反対の方向の「合理主義」「科学主義」「市場原理の導入」「競争原理」が進められようとしています。どうも、状況が日本の問題と似ていますね。しかし、チラシのメッセージのなかにある「リーダーなら、人の心を変えなさい」という言葉が、心に残ります。
投稿者 fujimori : 21:24 | コメント (0)
2006年08月05日 [近頃思うこと]
礼
先日のブログで、「礼に始まり礼に終わる」ということを書きましたが、改めて、この「礼」とは何であるかを考えてしまいました。というのも、この言葉の、ある英訳を見るとこう書いてあるのです。「『礼に始まり礼に終わる』はそのまま begin and end with a bow で表現すればいいでしょう。」そういえば、別の資料で、柔道の指導マニュアルにこう書いてあります。柔道をはじめるときに、その気持ちを高めるためにこんなやり取りからはじめます。「姿勢を正して。」「黙想……ヤメッ。」(先生) 『礼ッ!』 『おねがいします!』(生徒)「おねがいします」そして、練習が終わったときには、『礼ッ。ありがとうございました。』「ありがとうございました。」もちろん、これは形のことであって、武道では形を通して違うことを言いたいのでしょうが、これでは、「お辞儀で始まり、お辞儀をすることで終了する」だけで終わってしまいそうです。もっと、真の意味を伝えていかなければならないような気がします。たとえば、三国志のなかにある「三顧の礼」という、劉備玄徳が諸葛亮孔明を迎えたときの礼というのがありますが、これは、孔明に玄徳が頭を下げてお願いしたことではないと思います。
もともと「礼」とは、さまざまな行事のなかで規定されている動作や言行、服装や道具などの総称をいいました。それが、春秋戦国時代、儒家によって観念的な意味が付与されたのです。そして、この「礼」が、人間関係を円滑にすすめ社会秩序(儒家にとっては身分制階級秩序)を維持するための道徳的な規範をも意味するようになったのです。ですから、なんだか、目上の人にきちんと挨拶をするという意味にとられても無理はありません。先日、ある場所で食事をしていたとき、高校生の部活の生徒といっしょになりました。その高校生は、食べ終わると、顧問の先生の前に行って、頭を深々と下げ、直立不動の姿勢で、何かを言って去ります。ある当番らしき高校生は、先生が食べ散らかした食器をきちんと方付け、先生の前のものを自分のテーブルの上に移しきれいにしていました。それを、姿勢をだらしなく、ふんぞり返って眺めている先生を見ると、これが「礼」かと思ってしまいます。「仁義礼智信」と儒教でいう五常の徳(人間が守らなければいけない5つのルール)のなかで、「礼」とは、「礼儀正しいことはもちろんで、謙虚、感謝の心 へりくだり人に譲る心がやがて「礼」になる」とあります。そして、信を除いた「仁義礼智」を体の四肢になぞらえて、四端(したん)といいます。孟子と弟子の問答集の第三巻「公孫丑章句」にも、こう書かれています。「いたたまれない感情は、仁の端緒である。羞恥の感情は、義の端緒である。謙遜の感情は、礼の端緒である。是非の感情は、智の端緒である。人がこういう四つの端緒をそなえていることは、人間が四肢をそなえているようなものである。この四つの端緒をもちながら、自分で仁義礼智を実行できぬというのは、自殺者である。」とまで言っています。したがって、相手を尊敬し、自分を謙遜し、行いを丁寧にすることが「礼」です。そして、この「礼」を時に即し、場合に応じて、自分の行動ができるようにわきまえる事が「節」です。「礼節」を知って初めて一人前の人間といえるのです。「礼」は、相手に求めることではなく、自分の行動を振り返り、自分の品位を築き、高めることなのです。生徒にお辞儀させることではなく、教師自ら、生徒のために自分の人格を高めることなのです。
投稿者 fujimori : 21:00 | コメント (1)
2006年08月04日 [近頃思うこと]
大河ドラマ
今年、NHK大河ドラマは「功名が辻」ですが、最近にしては、ずいぶん視聴率がいいようです。千代という「できる女」という姿に共感を覚えるのか、一豊の出世する姿にサラリーマンの姿をダブらせているのか分かりませんが、伝説めいた部分が多くあるというのも理由のひとつかもしれません。私は、このドラマにちなんだ地域を今年歩いていますが、特別に好きというわけではありません。しかし、テーマに沿っていろいろと歩くと、普段いけないところにも行くことができますし、その地域にまつわることを知ることができるからです。来年は、山本勘助を主人公とする「風林火山」が放映されることになっています。どうも、日本人が好きな英雄があるようです。また、よく知っている時代のほうが人気があるようです。来年の武田信玄に関しては、1988年に新田次郎原作の「武田信玄」が、中井貴一が信玄役で放送されています。ビデオリサーチによると、平均視聴率が歴代大河ドラマの中で2位(39.2%)で、初回の視聴率はダントツ1位です。(ちなみに平均視聴率の1位は、1987年度の「独眼竜政宗」で39.7%です)信玄が主人公でないにしても、この戦国時代が人気があるようです。戦国時代をテーマにしたものは、1965年、豊臣秀吉を主人公に「太閤記」、1969年、上杉謙信を主人公に「天と地と」、1973年、齋藤道三を主人公で「国盗り物語」、1981年、ねねを主人公で、「おんな太閤記」、1983年、「徳川家康」、1992年、織田信長を主人公で、「信長」、1996年、豊臣秀吉を主人公で、「秀吉」、2000年、徳川家康、徳川秀忠、徳川家光を主人公で、「葵徳川三代」、2002年、前田利家とその妻のまつを主人公で、「利家とまつ」があります。懐かしいですね。私は、大河ドラマの最初の井伊直弼が主人公であった「花の生涯」はあまり印象にありませんが、次の年の「赤穂浪士」は、大石内蔵助が長谷川一夫です。あの口先で話す「おのおのがた」という口ぶりはまだ覚えています。そして、浅野内匠頭 が尾上梅幸、吉良上野介が滝沢修、蜘蛛の陣十郎という架空の人物ながら重要な役目を宇野重吉、そして、堀田隼人というかっこいい役を林与一が演じました。このドラマの視聴率は優に30%を超え、浪士の討入りが放送された回には視聴率53%という大河ドラマ史上最高視聴率記録をも打ち立てました。(ちなみに、この記録は2006年現在まで未だに破られていません)全話の平均視聴率は31.9%で歴代4位です。(ちなみに3位は、「春日の局」です)また、この大河ドラマは、その主題歌も印象に深いです。赤穂浪士は、あのムチのような音が入った曲が頭に浮かびます。たぶん、大河ドラマの半分くらいは、曲を覚えていて、この主題歌を集めたレコードを持っています。また、この大河ドラマは、せりふも世間に流行りました。そのせりふとは、視聴率1位の「独眼竜政宗」で、幼い政宗(幼名梵天丸)が仏像を見て言った「梵天丸もかくありたい」。そして2位の「武田信玄」では、語りを担当していた若尾文子が、毎回ドラマのおわりで言う「今宵はここまでに致しとうございます」というのが流行りました。
先日の1日、2008年の大河ドラマを「篤姫」にするとNHKが発表しました。島津斉彬の養女から13代将軍の徳川家定の正室となり、幕末の動乱期を生き抜いた女性の半生を描きます。原作は宮尾登美子さんの小説「天璋院篤姫」です。私は、あまりよく知らない主人公なので、楽しみですが、視聴率はどうでしょうか。
投稿者 fujimori : 23:40 | コメント (1)
2006年08月03日 [近頃思うこと]
健全
ボクシングの昨日の判定をめぐり、また普段の態度に対して、亀田選手の言動が問題になっています。また、相撲界でも、国技のという「礼」に始まり、礼に終わるスポーツ界での素行や言動が問題になっています。また、夏の甲子園に向かって今、地区大会が行われていますが、毎年、高校球児の問題行動が報じられ、辞退をする高校が出たりします。最近、何もスポーツ界には限りませんが、どうも、人としての生き方に問題が多いようです。
トリノ冬季五輪のオフィシャル・スポンサーにもなり、いまや世界的スポーツ用品ブランドに成長したアシックス(asics)の社名の由来は、古代ローマの風刺作家ユベナリスが残した名句「もし神に祈るならば、健全な身体に健全な精神があれかしと祈るべきだ」(Man Sana in Corpore Sano)」という言葉のMan(人間)をより動的な意味を持つAnima(生命)に置き換え、その頭文字、A、S、I、C、Sを並べたものだといわれています。また、合併時に、3社の代表が集まる際に足が6本ある(人が3人)から「アシックス(アシシックス)」になったという説がありますが、これは、どうもこじつけのようです。それにしても、このユベナスリの言葉を、「健康な肉体に健康な精神が宿る」という格言として伝わっていますが、この言葉をそのままとるにしては、最近のスポーツマンの言動を見ると、疑ってしまいますね。この言葉の出てくるのはユベナスリの十番目の詩で、その内容を簡単に言うと次のようです。「人々は間違ったことばかりを神様にお願いしている。例えば金持ちになること、例えば長生き、例えば美貌。しかし、これらはなかなか手に入りにくいだけでなく、手に入ったところで決して持ち主を幸福にはしない。金持ちになっても泥棒の心配が増えるだけ。長生きしても、もうろくした人生にいいことはない。美人になっても不倫に陥って苦しむだけだ。『心身ともに健康であること』願うならこの 程度にしておきなさい。これなら誰でも自分の力で達成できるし、それが手に入ったことによって不幸になることもない。しかし、けっしてそれ以上の大きな願いを抱いてはいけない。」とあるようです。これによると、ずいぶんと違って使われてきていることに気がつきます。どうも、「健全な肉体に健全な精神が宿る」この言葉は、本来は「祈り」の言葉なのです。「健全な肉体に健全な精神が宿りますように」ということで、『宿る』事実を言っているのではありません。ということは、本来は、「健全な体を持ち、同時に健全な精神を持つ」ことは難しい、現実には、なかなかそうならないということなのでしょう。これは、世界保健機関(WHO)の健康の定義に通じるものです。それによると、健康とは、「完全な肉体的、精神的及び社会的福祉(social well-being )の状態であり、単に疾病又は病弱の存在しないことではない」(WHO憲章前文より)といっています。ですから、子どもが健康であることは、単に「病弱ではない」ということではなく、からだ・心・さまざまな環境への興味関心を示し、よりよく生きるエネルギーに充ちていることなのです。
また、バーナード・ショーは「『健全な精神は健全な身体に宿る』なんてとんでもないことだ。健全な精神が健全な身体を生むのだ」と言っています。私も、まず、健全な精神を作るべきだと思います。
投稿者 fujimori : 18:48 | コメント (1)
2006年08月02日 [旅先にて]
円空
昨日、「大賀ハス」を見るために新幹線を「岐阜羽島」駅で降りて、タクシーでハス園に向かう途中、道の両脇に広がる一面の水田の中に突然、「円空」の彫刻らしきものが立っていました。円空の彫刻は、荒々しく、野外の田んぼのわきに立っていてもよく似合います。何でそんなところにたっているのか不思議に思い、帰りに駅の反対側に回ってみたところ、駅のロータリーにある看板がたたっていました。そこには、「円空、誕生の地」と書かれています。

そうなんです。江戸初期の遊行造像僧である「円空」は、美濃国(岐阜県羽島市上中町)の生れだそうです。(一説には、郡上郡美並村ともいわれています)そして、若くして出家し、尾張国(愛知県)師勝村の高田寺で金剛・胎蔵両部の密法を受け、諸国遊行の旅にでます。美濃地方から蝦夷(えぞ)地に渡り、志摩半島、日光、山間僻地にも多くの仏像をのこしています。また、最後にはふたたび美濃・飛騨地方にもどって、晩年の円熟した彫像を刻んでいます。生涯、東日本を遊行し、造像活動をつづけたのです。最後は、関市弥勒寺近くの長良川河畔で入寂します。言い伝えでは、円空は長良川の岸辺に穴を掘らせ、節を抜いた竹を通風筒として立てると穴の中に入り、鉦をたたきながら念仏を唱え、断食して即身成仏をとげたといわれています。円空入定の地には山藤の蔓がからみついた巨木が鬱蒼と立ち、この蔓を切ると血が出ると伝えられています。この円空はなんと、生涯で12万体の造像を発願して,多くの木彫仏を特異な彫法で刻みました。現存作だけでも5000体を数えるそうです。この円空仏は、今でも人々の心を打つ魅力にあふれています。彼の彫刻の顔は、いかめしい不動明王や仁王でさえも、口元に微笑がこめられ、慈愛に満ちています。また、彫り方は、丸木の原材をいくつかに割り,割った面を巧みに生かして、そこに岩肌のような面の構成を生み、造形の簡略化をしています。それは、単に荒削りということではなく、逆に木目や節や割れ目といった、木という素材の魅力をダイナミックに引き出しています。普通の仏像は時間を掛け彫るために仏閣に奉るため、一部のあるところにしか置かれませんでした。ところが、円空仏の簡略化は仏像の量産を可能にし、多くの人々が身近に拝観できる仏像も提供しました。道端に転がっていそうな木の破片を削った、いわゆる「木っ端仏」も円空は多く製作していますが、それらが飢えや疫病や災害に苦しんでいた当時の民衆に安らぎを与えたことでしょう。木の破片から生まれた荒削りな仏像にもかかわらず、その多くは捨てられることなく現在まで大切に受け継がれています。ですから、田んぼの脇に立っていても似合うのですね。
円空が生きていた時代は、徳川体制が強固になってきた時代です。幕府は、キリシタン禁圧を目的に宗門人別帳という戸口調査をして、各人がどの宗門に属しているかを厳密に記帳しました。さらに僧侶の市井での法談を禁じる命令を出して、行動を大きく制限したのです。こうした状況下で諸国を遊行できたのは、円空が「聖」と呼ばれる下級宗教者だったためです。「聖」は、寺ももたず学識もなく、一所不在の放浪をしながら庶民の要求にこたえる宗教者でした。民衆にとっては、わかりやすい因縁話で生きる道を教えてくれる「聖」こそが高僧でした。円空は仏像を彫ることで、一宿一飯の恵みを受けながら諸国を巡りました。円空は生涯を通じて旅をし、民衆とともに生きたのです。
投稿者 fujimori : 16:17 | コメント (0)
大賀ハス園
投稿者 fujimori : 12:38 | コメント (0)
2006年08月01日 [旅先にて]
大賀ハス
今朝、園に行って私の部屋に入ると、窓からのぞいているものがあります。なにかと思ってみると、りっぱな「ハス」の花です。花が首を長くして、中を覗いているかのようです。
今年も見事に咲きました。「蓮」はスイレン目ハス科です。以前はスイレン科とされていましたが、現在はハス科として独立しています。モネの絵で有名なスイレン(睡蓮)はスイレン目スイレン科で、和名をヒツジグサ(羊草)といいます。ハスの葉は、水面に浮く「浮き葉」と水面より高く上がる「立ち葉」があり、花は水面より高くそびえて咲きます。園児たちは、そのハスの葉の上に乗っている水の玉にとても興味を示していました。水をはじいて、表面張力で、きれいな球体になっているので、何度もそれをつかもうとするのです。それに対して、スイレンの葉は水をはじきません。また、葉には切れ込みがあります。スイレンの葉が水をはじかなかったり、切れ込みがあるのは、増水時に水に沈みやすくして茎や根に負担をかけない為です。
ハスといえば、「大賀ハス」というのが有名です。1951年(昭和26)、植物学者の大賀一郎博士は、地元の花園中学校の生徒たちと共に遺跡の発掘調査しました。そのとき、中学校女子生徒が、千葉市検見川、地下約6メートルの泥炭層からハスの実1個を発掘しました。1週間後、2個のハスの実を発掘し、発見したハスの実は、合計3粒になりました。それを、大賀博士は、シカゴ大学へ送って年代分析、鑑定を依頼した結果、それらが弥生時代(約2000年前)のものであることが判明したのです。そこで、大賀博士は発見した3粒の発芽を試み、2粒は失敗に終わりましたが、1粒が発芽に成功しました。ピンク色の見事な花(古代ハス)が咲いたのです。これが、千葉県天然記念物に指定され(千葉市の花にもなっています)、「大賀ハス」と呼ばれ「世界最古の花」として、海外でも大きい反響を得たのです。その古代ハスは千葉公園から日本各地をはじめ、世界各国へ根分けされ、友好親善を深めています。
ハスの根を「蓮根(れんこん)」といいますね。(以前のブログで書きました)岐阜県羽島市は蓮根の伝統的生産地です。ですから、昭和54年市制施行25周年と東海道新幹線岐阜羽島駅の開設15周年の記念事業として、千葉市より「大賀ハス」を譲り受けて増殖しました。それが、「大賀ハス園」で、7月のひと月間、ハス祭りが行われていました。
明日、大阪での講演のための移動の途中で、昨日で祭りは終わってしまったのですが、寄ってみました。夕方ということで、花が閉じてしまったものが多かったのですが、いくつか見ることができました。今年は、ちょっと涼しい夏ですが、少しずつ薄暗くなっていく空の下、弥生人も観ていたかもしれない薄紅色のハスの花の間を歩いていると、なんだか古代の夢とロマンを感じます。今朝、ちょうど園のハスの花を見てきたばかりです。美しさは、ちょうど花盛りということもあって、園のほうがきれいかもしれません。しかし、そのもののなかにある美しさは、見るのではなく、感じるものであり、また、思いをめぐらすものかもしれません。