通知表

 学校では、今、夏休みです。子どもたちは、どんなすごし方をしているのでしょうか。子どものころから夏休みは待ち遠しい、わくわくするものでした。しかし、夏休みが楽しいか辛いものになるかは、その前に学校から渡される「通知表」によります。(まあ、悪くても1週間くらい我慢すればそんなことは忘れてしまいますが)以前のブログに書きましたが、私が教員のときに書く立場を経験しましたが、そんなに厳密なものではないし、本当にその子の評価をしているかといえば、かなりいい加減な、印象的な部分がありました。(他の教員がどうかは、よく分かりませんが)
 私が子どものころは、5段階評価でした。親にも分かりやすく、就職や進学先からも序列がはっきりとわかるようにして欲しいなどの要望があったために、昭和30年に、小・中・高等学校とも5、4、3、2、1に統一したものです。これは正規分布を描くように7%・24%・38%・24%・7%の割合で5・4・3・2・1に成績をふり分けます。このふり分けで、私は通信簿をもらったのです。その後、46年、5段階評定を行うに当たって 「この場合、あらかじめ段階ごとに一定の比率を定めて、児童をそれに機械的に割り振ることのないように留意すること」というように改正されました。つまり「1」をつけなくてもよいことになったのです。このころ、私は通知表をつけていたのです。しかし、もともと通知表といわれるものは、法の定めがあるわけではありません。文科省では「子どもの学習状況を家庭に伝える連絡簿」という位置づけであり、作っても作らなくてもいいが、昔からの慣習で続いているだけです。ですから、私はつけていた立場からすると、それほど一喜一憂するようなものでないという思いがしたものです。そして、その後、2002年度施行の学習指導要領において、総合的な学習の時間の実施や、教科における成績の評価方法が、相対評価から絶対評価に変更されました。(相対評価とは、クラスの他の生徒の成績に対して、どういう出来かを評価するのに対して、絶対評価では、本人の成績だけについての評価をします)そう思っても、気になりますね。
 やはり以前のブログで語録を書いた「佐賀のがばいばあちゃん」(島田洋七著)のなかで、テストや通知表に対してがばいばあちゃんがこう助言しています。
“試験前、俺はばあちゃんに泣き言を言った。「ばあちゃん、英語なんかさっぱり分からん」「じゃあ答案用紙に、『私は日本人です』って書いとけ」「そうか。日本にいたら、別に困らんもんね。」「そう、そう」「でもばあちゃん、俺、漢字も苦手で……」「『俺はひらがなとカタカナで生きていきます』って書いとけ」「そうか。別にひらがなでも、分かるもんなあ。」「そう、そう」「歴史も嫌いでなあ……」「歴史もできんとか?」ここまで来て、ようやくばあちゃんは呆れた顔をした。さすがに、勉強しろと言われるかと思ったのだが、そこは、ばあちゃんのこと。しばらく考え込んだ末、こう言い放ったのだった。「答案用紙に、『過去には、こだわりません』って書いとけ!」天晴れである。が、俺は本当にこれを書いて、結果は……殴られた!”もうひとつの助言。“「1と2ばっかりでごめんね」とばあちゃんに言うと、「大丈夫、大丈夫。足したら、5になる」と笑った。「通知表って足してもいいの?」と聞くと、今度は真顔で、「人生は総合力」と言い切った。でも、俺にはあまり意味が分からなかった。”

通知表” への4件のコメント

  1. 我が家の3年生の息子も通信簿(ひがしの子)を持ってきました。よくできる・できる・もうすこしの三段階評価です。親としてはぜんぜん勉強しない割には、まあ良いかと思った内容でしたが、本人はもっと良いつもりだったようで、少しがっかりしていました。息子の性格からしてちょうど良い評価だったと思います。2学期はもうすこし勉強しようと思ってくれるような目標が持てるちょうど良い通信簿だったと思います。夏休みが始まって10日が過ぎようとしていますが、通信簿のことは忘れてしまったようです。子供たちの遊びの中心はサッカーと虫取り、そしてカードゲーム(遊戯王カード・ポケモンカード・ムシキングカードなど)です。

  2. 誰かと比較することのできるものさしがあると、やはり自分と他の子を比べてみたくなってしまうのかもしれません。誰かと自分を比べてしまう人生は結構辛いなと思ってしまいます。と、いっても私の場合は通知表の結果は毎回同じようなものでしたし、普段の成績がいつもと変わらないのに通知表の評価も変わる訳ではないので、「あーこんな感じだよね」という気持ちで通知表を見ていました。ただ、歴史と公民だけは他の教科とは違いそこだけは勉強をしていたので評価が気になっていました。あとは先生のコメントですね。普段からおちゃらけていたので、先生方からも私に対しておちゃらけた関わり方をされることも多かったので、通知表のコメントのあの自分に向けられた妙に丁寧な文章がおもしろく、それを楽しみにしていました。小学校の頃は職員室にいくのも楽しみでまずは教頭先生と話をして、おばちゃん先生と談笑して、若い女の先生に冗談を言って、担任の先生に早く帰れと言われて、そのうち職員室全体から早く帰れと言われて、でもそれはまた来いよというメッセージにも聞こえて、そんな先生との関わりがとても楽しい小学校時代でした。なので、あまり成績のことは、いや全く考えずに楽しく過ごさせてもらいました。

  3. 通知表、なつかしいいですね。私は正直、こんな紙ぺらで自分を評価してほしくないと皮肉った子どもであったと思います。なぜか、すべてが建前のようにも感じてしまいました。人と直接話さなければ、本当の気持ちが伝わらないと思っていたのでしょうか。きっと、自分のことを客観的に見ることができていなかったのだと、今は反省しています。評価は、それを付ける人の価値観が需要な役割を担い、評価する人のポイントが存在していると思います。つまり、その子どもの良い部分を見れていなければそこを評価することはできないですし、課題点が見えなければ、次につながりません。評価する人の力量によって、自分に見えてくるものが違ってくることが想像できます。だから、複数の価値観や視点によって物事を見つめる“チーム”が必要なのですね。評価も、チームで行うと新たな面が見れていいですね。

  4. 島田洋七さんのおばあちゃん、本当に素晴らしいと思いました。こうした発想ができるならば、人生がどれほど楽しいものになるか、計り知れませんね。さて「通知表」、今年中学生になったわが子が夏休み前の終業式が終わって「成績表」を持ち帰りました。私が帰宅して開口一番、「テストの点数の割には成績良かった」とのたまったのです。どれどれ、と拝見すると、確かにその通りでした。ただ、私も家内も、この成績で大丈夫?、と思いつつ、次の瞬間には、夫婦そろって、まっ、いいか、となり、以後、私たちはおろか、本人も頂いた成績表のことはきれいさっぱりと忘れ去ったようです。「まあ、悪くても1週間くらい我慢すればそんなことは忘れてしまいますが」どころか、成績表を閉じた時点で我が家ではおしまい、と相成りました。成績表にとらわれない人生、これもまた人生です、と親に言われなくても、すでに、そのことを悟っているわが子の偉さに頭が下がります。

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