坂出

塩はすべて海水からつくられています。というと、いや、岩塩からとる方法もあると思う人があるかもしれません。今年2月に訪れたザルツブルグは、岩塩が取れることで、豊かになった地で、ザルツは、ソルトという塩から来ている地名です。確かに塩を作る方法は、海水をくんで塩をつくる方法のほかに、塩湖(えんこ)や岩塩(がんえん)などから塩をつくる方法もあります。しかし、塩湖は、大昔に海水が陸地に閉じ込められてできた湖で、その湖の水分が蒸発して塩分が残り、地中にたまってできた塩の層が岩塩です。ですからもとはすべて海水ということになります。海水はとってもしょっぱいのですが、実は塩分はたった3%ちょっとで、96%以上は水分です。世界にはほとんど雨の降らない地域があります。そこでは、海の近くにつくった広い池(なかには東京都23区と同じくらいの面積のものもあります)に海水をためて太陽と風の力で2年くらいかけて塩の結晶を取り出します。日本は岩塩などの塩資源に恵まれていませんので海水から塩をつくってきました。日本は、四方を海に囲まれているので、どこでも簡単にできるだろうと思いますが、実はとても大変なことなのです。なぜなら、海水の塩分濃度はたった3%であり、日本は多雨多湿なので、海水は天日では結晶しないので、煮つめるしかありません。ですから、広い土地を持ち、海水を陸に引き込んで1,2年放っておけば塩の結晶が採れる諸外国とは異なり、日本ではたった30gの塩をつくるのにも、1リットル近い水分を蒸発させなくてはならず、コストがかかってしまいます。そのため、海水をそのまま煮つめるのではなく、濃縮してから煮つめるという効率のよい方法で塩づくりが行なわれてきました。塩づくりには人間の知恵と工夫と努力の跡が見えます。それはまさに人間の歴史と文化の結晶です。
昨日の講演の場所であった瀬戸大橋の壮大な姿を望む坂出市は、その昔は、見渡す限りの塩田が広がっていました。塩田を開墾したのが久米栄左衛門通賢という人で、技術的に優れたこの塩田は「久米式塩田」と呼ばれ、その後の塩田開発のモデルとなっています。通賢は調査を重ねた結果、坂出の海岸が塩づくりに適していると確信し、財政難にあえぐ高松藩を救う手だてとして、切腹覚悟の建白書という形で藩に申し出ました。藩の役人となってからは、私財や身内親戚からかき集めた資金までも投入して塩田開発に心血を注いだのです。そして、久米栄左衛門が開いた塩田をきっかけとして、香川県では全国の塩の3分の1を生産するほどになり、砂糖・綿と並んで”讃岐三白”のひとつに数えられるほどになりました。
 塩は、私たちの生活には、なくてはならないものです。私たちの祖先は、昔から塩の効用に着目し、さまざまな使い方で、塩を活用してきました。現在、日本で年間に使われる塩のわずか3.5%が家庭で消費されるだけで、ほとんどの塩は工業に使われています。しかし、かつて、どれほど大切なものであったかというと、給料を意味するサラリー(salary)は、古代ローマでは、兵士の給料は塩で支給されたところから、塩(salt)に由来します。また、「敵に塩を贈る」という言葉がありますが、武田信玄と交戦中の上杉謙信が、武田方の領民が今川氏によって塩を絶たれていることを知り、越後の塩を送ったことから生まれたといわれています。各地に「塩」がついた地名も多く残っていきますが、町村合併で消えていくところもあるようで、さびしいですね。

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