今日来ている福井県丸岡町が主催して、郵政省後援で、平成5年から始まったものがあります。第1回のテーマは、「母への手紙」というものでした。このときの入賞作品を納めた単行本は、多くの人たちの共感を呼び、ベストセラ-となり、これまでに文庫本を含め140万部以上が読まれています。(入賞作品は毎年作品集として出版されています。今日の宿の部屋にも置いてあります。)更にビデオやグッズも売り出され、丸岡町の名は一気に全国に知れ渡りました。それは、「一筆啓上」というイベントで、この地が発信地として全国の自治体主催の公募イベントの先駆として全国で同じような公募が行われるきっかけとなりました。
日本のなかで最も古い丸岡城の天守閣の石垣には、日本一短い手紙として有名な「一筆啓上 火の用心 お仙泣かすな 馬肥やせ」の書簡碑が建てられています。これは400年程前に徳川家康の功臣であった「本多作左衛門重次」が陣中から妻に送った手紙文であり、簡潔で分かりやすい名文として知られています。それは、この短い文のなかに、家族への「愛」が込められているからです。これからヒントを得て、同町が日本で一番短い手紙文の再現、手紙文化の復権を目指そうということから「一筆啓上」が始まりました。文中の“お仙”とは重次の息子仙千代で、後の丸岡城6代目城主となった本多成重のことです。信長から、恩賞として柴田勝家が越前の守護職を賜り、北ノ庄(今の福井市)に築城を命じました。そこで、勝家の甥の伊賀守勝豊を豊原に派遣して、この地に宮城(みやしろ)を構えさせましたが、交通の利便性などから、豊原より丸岡に移り築城したのが、現在の丸岡城です。丸岡城は、その昔、戦があるたびに大蛇が現れ、一面に霞を吹いて城を隠し、敵の攻撃を免れたという伝説により、この城を一名「霞ヶ城」とも言われています。この地は『継体(けいたい)天皇』発祥の地で、城のあるこの丘は、天皇の第二皇子椀子(まるこ)王を葬った所と言い伝えられています。古くは、「麿留古平加(まるこのおか)」と呼ばれていたものが、「丸子の岡」となり、やがて「丸岡」という地名になったといわれています。この椀子皇子が大蛇に化身し、霞を吐いて、この地を守護してくれるのだというのです。実際に、この地方は九頭竜(くずりゅう)川の支流竹田川が流れているために多雨多湿で、気象的に霞がよく立ち込める土地柄のようです。今日の宿のあたりにも霧が立ち込めていました。
城とか、街道には、さまざまな伝説がありますね。その伝説には、母親の子への愛情に関係するものが多くあります。ここにもそんな伝説があります。
「一度ならず二度、三度と崩れ落ちる石垣に、ついに人柱を立てることになりました。そこで選ばれたのが、美しい生娘でなく、お静という夫に先立たれた、片目を失明した二人の子持ちの後家でした。お静は、二人の息子を侍に取り立てることを条件に、石垣の底奥深く埋められたのです。お陰で石垣積みは見事に完成し、その上に天守も立ったのですが、お静の約束は、果たされませんでした。お静の怨みは、やがて亡霊となり、その姿は片眼の蛇となって城の井戸深く棲みつくようになり、そして時折現れては、恨みごとを述べたといいます。今もその井戸は、本丸跡に『蛇の井』と呼ばれて残っています。また、お静が人柱に立たされた四月中旬になると、きまって長雨が降り続き、これがまた、誰いうことなく「お静の涙雨」と呼ばれるようになりました。今日も、時折この涙雨が降った1日でした。