長崎の坂

 長崎といえば、坂の町のイメージがあります。吉田松陰が21才のとき、平戸藩の葉山鎧軒に儒学を、山鹿高紹から山鹿兵学を学ぶため、50余日間平戸に遊学しました。その際に、半坂峠(佐世保~佐々)を越えていきました。そのときのことをこう記しています。「この日の艱難(かんなん)実に遺忘すべからず。一には八里の間、皆山坂険阻(けんそ)の地なり・・・三は独行クク、呼びて応うるものなし、唱えて和するものなし。四は新泥滑々、行歩遅渋す。五は・・・」(西遊日記)。坂や峠は艱難のごほうびに、時にはすばらしい景色や、心の中にさわやかな風を運んでくれます。このように、長崎は間違いなく日本一の坂の町です。それは、データでもわかります。斜度5度を越える斜面面積比率が、長崎市は80%に達しているのです。ちなみに同じように坂の多い町として知られる神戸市は30%弱です。10度以上の急傾斜地が46.9%、14度以上が19.6%もあります。印象だけでなく、確かに多いですね。長崎の宿泊先の近くに「オランダ坂」があります。
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 先日行った長崎で、友人の案内による「長崎さるく」の始めは、この坂を登ることから始まりました。オランダ坂とは、一般的に梅ヶ崎の「切り通し」~活水大学前~大浦石橋とのあいだの坂道を呼んでいます。日曜ごとに沢山の外国人がこの道を通り教会に行ったので、この坂道がオランダ坂と呼ばれるようになったといいます。この坂と同じ石畳の東山手洋館群前の坂は、とても急です。ですから、自転車通行禁止だそうです。坂の多い長崎では、自転車はほとんど見かけません。長崎では、自転車通勤や通学風景がありませんし、長崎市内の学校で「自転車置き場」のある学校はありません。週刊ダイヤモンド(97/6/7号)によると、全国平均の一世帯当たり年間自転車購入金額は3591円であるのにたいして、長崎市ではわずか932円で、全国47都道府県庁所在市中、圧倒的に最下位だそうです。借家などの不動産物件の案内でも、「車庫付き」という表示のほかに、「車横付け」(車が行けるという意味です)とか「車不可」などの表現が使われます。たとえば、愛宕山手自治会(愛宕一丁目の一部)の98所帯中、横付け出来るのは、2所帯だそうです。ここを歩いていると、この場所で家を建てるときに資材を運ぶのは、大変だろうと思います。昔は、すべて人夫さんがかついで運んでいたそうです。その後、馬も手伝います。馬はまだまだ現役で活躍しているそうです。最近は、キャタピラ車もつかうそうです。坂は、大変そうに思えますが、意外と長崎は「住みやすい町」だとよく言われます。しかもその理由に「階段の多い坂道、狭い路地、斜面の地形に密集した家屋にある。」といわれます。建築家の黒川紀章氏は、「気分のいい人たちと一緒に住める街、ほどほどに助け合ってつき合える街、歩いて気分のよい雰囲気のある街」という快適で安全に住める条件を備えているといいます。また、「坂の上」に住む主婦は、「平地」に住む主婦に比べて、心臓や肺の機能が優れているという結果も出ているそうですし、疲れやすいとか肩がこるなどの自覚症状は、圧倒的に少ないことが分かっています。毎日の生活の中で、知らず知らずのうちに坂や階段を上ったりすることは、特別にお金と時間をかけないで、スポーツと同じ効果が得られるからでしょう。
 私からするとハンデと思うような「坂」も、生活の知恵として活用し、そこならではの文化を創っていくというのはすばらしいことです。郊外型大型店舗は、便利と引き換えにコミュニティーを壊しているのかもしれませんね。

単身赴任

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 「長崎さるく博」のひとつに、「出島タイムスリップ」というのがあります。江戸時代の鎖国政策の中で、西洋に開かれた唯一の窓口として日本の近代化に大きな役割を果たした「出島」の復元整備事業が進んでいます。そこを、ボランティアの人の解説によって歩いてみました。その復元されている建物の中心となるのは、オランダ商館長の住まいだった「カピタン部屋」です。ここの展示品として、カピタン部屋の十五畳の部屋に、1820年代のオランダ商館長を務めたブロムホフとその妻が使用したといわれる青色の長いすが置いてあります。これは、スタッフがオランダを訪れ、現地の出島研究者の協力で当時の物と大きさ、作り、色などが同じ長いすを購入してきたものだそうです。このブロムホフと妻にこんな話があります。
「幕府は、外国人女性の日本渡航を禁止しました。したがって、日本に来航する外国男性は、たとえ既婚でも単身赴任を余儀なくされ、それは、安政3年(1856)の日蘭条約書追加で妻子同伴が認められるまで続きます。このような制度のもとでは、たとえ家族連れで来日しても、強制的に別れさせられることになります。文化14年(1817)に長崎にやって来た新任の商館長コック・ブロムホフは、妻子と乳母、それに召使を同伴していました。しかし、幕府は、断固認めません。その妻が病弱であったため、コック・ブロムホフと旧商館長ドゥフが懸命に嘆願しましたが、幕府は妻子の出島滞在を認めず、そのままバタヴィアに帰ることを命じたのです。なぜ、そんなにしてまでも夫婦同伴を認めなかったのでしょうか。どうも、昔から日本では、単身赴任をさせるようです。参勤交代のころは、たぶん、妻子は人質だったからでしょう。しかし、外国では、あまり単身赴任は見られないようです。
 その出島に外国への窓口を移される前は、平戸が窓口でした。そこから、遣唐使も出発したのですが、その遣唐使として唐に行ったなかに、山上憶良がいました。彼は、こんな歌を読んでいます。
「瓜食めば 子ども思ほゆ 栗食めば まして偲はゆ 何処より 来たりしものぞ 眼交(まなかひ)に もとな懸かりて 安眠し寝さぬ」 反歌「銀も 金も玉も 何せむに 勝れる宝 子にしかめやも」
(瓜を食べれば、子どもにも食べさせてやりたいと、子どものことを思い出す。栗を食べればますます子どものことが気にかかってくる。いったい子どもというものは、どこからやってきたのだろう。しきりと目の前に子どもがちらついて、私は、夜もおちおち眠れない。)反歌(銀だとか金だとか真珠だとか、そういったものは自分にとっては何の魅力もない。大切な宝といったら、子どもに勝るものは、ありはしない。)
この歌は、今で言う単身赴任で家族と離れているときの歌ですが、何か美味しいものを一人で口にするとき、こんなものを自分の愛しているものに食べさせてやりたいと思う心は、今もかわることのないものです。「何処より~」というあたりは、床についてからの思いでしょうが、憶良は、四六時中、子どものことを忘れることができなかったのです。彼はかなり貧しかったようで、金銀に対する憧れは人一倍あったはずですが、それでもなお、子どもへの愛情の前には、それらへの執着を蹴散らしているのです。

バイキング料理

 今、ホテルなどで泊まると朝食が「バイキング」であるところが多くなりました。好きなものを好きに取れるからでしょう。また、和食でも洋食でも好きな方が食べられ、家族一緒でも別々のメニューが可能です。しかし、そのときに私は気になることがあります。それは、終わったときにお皿にいっぱい残す人がいることです。並んでいるものを見ると、思わず皿に乗せてしまうことがあります。みんなおいしそうに見えたり、あれもこれも食べたくなったりすることがあります。しかし、いざ食べてみると、それほど食べられません。そこで、別に残しても同じだからと残す人がいるのです。このバイキングは、決して、よそるのが一度だけということではなく、何回もいけます。そこで、足りなかったり、他のも食べてみたければ、もう一度とりに行けばいいことです。そんなに一度に多くよそる必要はないはずです。何度も行くのが面倒くさいのでしょうか。どうせ、同じ値段だから残したって何の問題もないと思っているのでしょうか。私は、それは、先の見通しが立てられない人のような気がします。最近、さまざまな場面において先の見通しが立てられない人が増えた気がします。先を読む力は、今話題の脳の前頭葉の働きだといわれています。人間以外ではかろうじて小さく前頭葉を持っているボルボというサルでさえ、1週間先を見るのが限界だと聞いたことがあります。それより先を見通せるのは人間だけです。それが、どうも、今がよければいいとか、今、いやなことを回避すれば解決するかのように考える若者が増えたのは、前頭葉の働きが衰えてきているのかもしれません。私の園で給食のとき、3歳以上児は自分で食べきれるだけを伝えて当番によそってもらいます。先日のテレビ取材で、その様子を見て、子どもたちに先の見通しをたてる力をつけているというコメントがありました。園でのバイキング方式は、好きなものを好きなだけよそるのではなく、自分で食べられる量を見通すということでもあるのです。
この「バイキング料理」とは日本だけでの言葉のようです。昭和32年、帝国ホテルの支配人がデンマークに渡航し、現地の「好きなものを取って食べる食事スタイル(スモーガスボード)」に感銘を受けたのがきっかけで、翌年、帝国ホテル内に「インペリアル・バイキング」というレストランを開きました。ここから「バイキング料理」という言葉が生まれ、今では日本中のレストランやホテルでこの形式が多用されています。この「スモーガスボード」の起源は、友人・知人が有り合わせの食べ物を持ち寄って、色々な食べ物を少しずつ食べようとしたことからです。欧州でこうした食事形式が普及したのは、「個人主義」とか「自己責任」が発達しているからでしょう。そもそも「バイキング」は、8世紀~11世紀にかけてヨーロッパ各地を荒らした「ノルマン人」のことで「海賊」の代名詞のように扱われています。彼らの食習慣は「自分の分だけとって食べる」というものだったのです。ところで、「バイキング」という単語は、海外では使わず、英語では”buffet”と言い、海外ではこう言います。立食形式で、好きなものを好きなだけ取って食べる事を言いますが、「立食」という形はほとんど見られませんので、立食またはテーブル席で利用するセルフサービスの食べ放題ということになり、先に記述した「バイキング」や「食べ放題」と同様の意味で使われているようです。ちなみに、バイキング店において「食べ残し」は禁止とされています。

飴屋

江戸時代、京都で仏像の彫刻を習っていた男が、そのとき知り合った京都の女性と恋人どうしになりました。しかし、国元から“早く帰って来るように!”という催促に、かならず迎えに来るからと、固く約束して長崎に戻ったのですが、親の決めた婚約者と、結婚してしまいます。京都の恋人は男の言葉を信じて待っていましたが、疑惑の思いは消せず、長崎まで訪ねていきます。苦難を乗り越え、長崎に着いたときに待っていたのは、恋人が自分を裏切ったという事実でした。絶望の淵をさまよい続け、ついに精魂つきはてて、日ならずしてはかなくなってしまったのでした。男は、泣きながら光源寺に葬り、手厚く供養しました。その夜、真っ青な顔をした、若い女が長崎の麹屋[こうじや]町という所にある飴屋の戸を、叩きました。そして、飴を売って欲しいとか細い声で言って、一文銭を差しだしました。それが毎晩続いた7晩めの夜は、おかねを持っていません。飴屋は、毎日やってくる女をあわれに思い、気持ちよく分けてあげました。そして、そっと後を付けてゆくと、大きな寺が八つも並んでいる寺町筋を抜けて八つめの光源寺の前までやってくると、本堂横の暗がりに消えました。そこで翌日、お寺に出かけて和尚さんと一緒に墓にやって来たところ、新しく土盛のしている墓の中から、元気な赤ん坊の泣き声が聞こえました。すると、その墓のなかで、男の子が母親の遺骸の側で飴をしゃぶりながら泣いています。女は棺に入れて貰った、冥土への6文銭を一文ずつ使って、毎日のように赤ん坊に飴を買って与えていたのです。女を捨てた男は、自分は何というむごい仕打ちをしたことかと思い、亡き恋人の絵姿を一心に彫りました。その像が光源寺の寺宝となっている「幽霊さま」の女人像です。また、女が飴屋にお礼と掘る場所を教えたのが、「幽霊井戸」という井戸です。こんな場所を歩くのが、今長崎で行われている「さるく博」です。きのう、その寺町を「さるく」しました。「さるく博」のことは別の日に報告しますが、この話を聞いて、我が家に水飴があるのを思い出しました。それは、掛川に行ったときに買ってきたものです。こちらには、こんないわれがあります。
「その昔、お石という身重の女が小夜の中山に住んでいました。ある日お石がふもとの菊川の里で仕事をして帰る途中、中山の丸石の松の根元で陣痛に見舞われ苦しんでいたのを、通りがかった轟業右衛門という男がしばらく介抱していましたが、お石が金を持っていることを知ると斬り殺して金を奪い逃げ去ってしまいました。その時、お石の傷口から子どもが生まれましたが、お石の魂魄がそばにあった丸石にのりうつり、夜毎に泣きました。里人はおそれ、誰と言うことはなく、その石を『夜泣き石』と言いました。傷口から生まれた子どもは音八と名付けられ、久延寺の和尚に飴で育てられ立派な若者となり大和の国の刃研師の弟子となりました。久延寺の隣にある扇屋は、江戸時代から、夜泣き石にちなんだ『子育て飴』が売られています。ある日、音八は客の持ってきた刀を見て「いい刀だが、刃こぼれしているのが実に残念だ」というと、客は「去る十数年前、小夜の中山の丸石の附近で妊婦を切り捨てた時に石にあたったのだ」と言ったため、音八はこの客が母の仇と知り、名乗りをあげて恨みをはらしたということです。」曲亭馬琴の『石言遺響』にあります。
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   夜泣き石と飴屋
 母というものは、自分が死んでも子どもを育てようとするものですね。子どもを殺して、自分が生きようとする事件が起きると、悲しくなります。

初めて物語

 昨日、プライベートで長崎県の「平戸」を歩きました。友人が平戸にいるので、案内してもらいましたが、平戸に行くと言った時、「平戸には何もないのに」と言っていました。もちろんこれは謙遜ですが、もうひとつこういうことが言えます。
「いつも果てのない蒼い大海原の景色を眺めている者はその大きさを知らず。いつも原野の限りないところに住んでいる者はその広さをしらず。それは長い間の事で慣れてしまっているからでる。これは唯、海野のみのことであろうか。」これは、山鹿素行の「中朝事実」の自序(序文)の現代訳の一部です。素行の教えは武士社会に大きな影響をあたえました。忠臣蔵の大石内蔵助ら赤穂藩士へも影響を与えています。また、幕末の吉田松陰も幼い頃より山鹿流兵学を学び、21歳の時、西国遊学で54日間平戸へ滞在し山鹿高紹に入門しています。この書籍は、なんとなく「国家の品格」に似たところがあり、もう一度日本のよさを見直そうというものですが、そうであっても、そこにいると、そこのよさがなかなか解らなくなるということでは、頷くことができます。素行は平戸藩主29代松浦鎮信と同年生まれで、江戸で生涯極めて親交深かったようです。弟、山鹿義行そして後に孫、高道が平戸藩家老に仕官しています。平戸藩は山鹿流兵学を藩学とし平戸城縄張りもそれによるものでした。
ここ平戸は昔より中国大陸や朝鮮との交流の要地でした。遣隋使や遣唐使もここから出発しています。倭寇といって恐れられていた水軍で名高い松浦党は、平安時代末期に誕生し、鎌倉時代以後には平戸を根拠地として私貿易や海賊行為などを行いました。天文19年(1550)には黄金の国ジパングをめざしていたポルトガル船が平戸に入港し、ポルトガルとの貿易が始まり、外国との貿易で栄えた平戸は「西の京」と呼ばれるようになりました。この当時にフランシスコ・ザビエルも鹿児島から平戸にきてキリスト教を布教しています。今、平戸には日本初の南蛮貿易の舞台となった当時の面影を残す遺跡が市内に多く残っています。
 そんな平戸ですから、「日本で初めて」というものがたくさんあります。平戸城に登る途中には、こんな碑があります。
tabako.JPGタバコの伝来
「日本最初 たばこ種子渡来の地」それは、日本に初めてタバコの種をもたらしたのは、1601年平戸に入稿したスペイン人宣教師といわれています。甘藷(さつまいも)は、1615年、ウィリアム・アダムズが貿易のため東南アジアに渡航した時、船の故障で寄港した琉球で甘藷を見つけ、当時の平戸イギリス商館長に贈ったと言われています。そして、彼は現在の千里ヶ浜で日本で初めて甘藷の栽培を行っています。1613年、英国船「グローブ号」が平戸に来航しましたが、長旅の疲れを癒すために積まれていたビールが、その時、船員たちとともに上陸したのが、日本へのビール初伝来と言われています。珍しいところでは、ペンキは、1609年、オランダ商館が平戸に建てられた時、その外観を彩ったのが、日本で最初に使われたペンキでした。当時は、建物に彩色を施す事自体が日本人の目には珍しかったでしょう。また、西洋医学は、長い航海を続ける船員たちの健康管理術として日本にもたらされました。その医学を学んだ嵐山甫庵は、平戸判田家の出身で、西洋医学(蘭学)の先駆者として知られています。また、臨済宗の祖・栄西は、渡宋の帰途、平戸に数カ月滞在し、「冨春庵(ふしゅんあん)」と呼ばれるお堂を拠点に禅宗を広めました。また、中国で入手したお茶の種子を冨春庵の裏山にまき、製茶や喫茶の方法を日本の人々に伝えています。
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    冨春庵

坂出

塩はすべて海水からつくられています。というと、いや、岩塩からとる方法もあると思う人があるかもしれません。今年2月に訪れたザルツブルグは、岩塩が取れることで、豊かになった地で、ザルツは、ソルトという塩から来ている地名です。確かに塩を作る方法は、海水をくんで塩をつくる方法のほかに、塩湖(えんこ)や岩塩(がんえん)などから塩をつくる方法もあります。しかし、塩湖は、大昔に海水が陸地に閉じ込められてできた湖で、その湖の水分が蒸発して塩分が残り、地中にたまってできた塩の層が岩塩です。ですからもとはすべて海水ということになります。海水はとってもしょっぱいのですが、実は塩分はたった3%ちょっとで、96%以上は水分です。世界にはほとんど雨の降らない地域があります。そこでは、海の近くにつくった広い池(なかには東京都23区と同じくらいの面積のものもあります)に海水をためて太陽と風の力で2年くらいかけて塩の結晶を取り出します。日本は岩塩などの塩資源に恵まれていませんので海水から塩をつくってきました。日本は、四方を海に囲まれているので、どこでも簡単にできるだろうと思いますが、実はとても大変なことなのです。なぜなら、海水の塩分濃度はたった3%であり、日本は多雨多湿なので、海水は天日では結晶しないので、煮つめるしかありません。ですから、広い土地を持ち、海水を陸に引き込んで1,2年放っておけば塩の結晶が採れる諸外国とは異なり、日本ではたった30gの塩をつくるのにも、1リットル近い水分を蒸発させなくてはならず、コストがかかってしまいます。そのため、海水をそのまま煮つめるのではなく、濃縮してから煮つめるという効率のよい方法で塩づくりが行なわれてきました。塩づくりには人間の知恵と工夫と努力の跡が見えます。それはまさに人間の歴史と文化の結晶です。
昨日の講演の場所であった瀬戸大橋の壮大な姿を望む坂出市は、その昔は、見渡す限りの塩田が広がっていました。塩田を開墾したのが久米栄左衛門通賢という人で、技術的に優れたこの塩田は「久米式塩田」と呼ばれ、その後の塩田開発のモデルとなっています。通賢は調査を重ねた結果、坂出の海岸が塩づくりに適していると確信し、財政難にあえぐ高松藩を救う手だてとして、切腹覚悟の建白書という形で藩に申し出ました。藩の役人となってからは、私財や身内親戚からかき集めた資金までも投入して塩田開発に心血を注いだのです。そして、久米栄左衛門が開いた塩田をきっかけとして、香川県では全国の塩の3分の1を生産するほどになり、砂糖・綿と並んで”讃岐三白”のひとつに数えられるほどになりました。
 塩は、私たちの生活には、なくてはならないものです。私たちの祖先は、昔から塩の効用に着目し、さまざまな使い方で、塩を活用してきました。現在、日本で年間に使われる塩のわずか3.5%が家庭で消費されるだけで、ほとんどの塩は工業に使われています。しかし、かつて、どれほど大切なものであったかというと、給料を意味するサラリー(salary)は、古代ローマでは、兵士の給料は塩で支給されたところから、塩(salt)に由来します。また、「敵に塩を贈る」という言葉がありますが、武田信玄と交戦中の上杉謙信が、武田方の領民が今川氏によって塩を絶たれていることを知り、越後の塩を送ったことから生まれたといわれています。各地に「塩」がついた地名も多く残っていきますが、町村合併で消えていくところもあるようで、さびしいですね。

うどん

 先日、園で給食に「冷やしうどん」が出ました。来客にも好評でしたが、いつもと違って、麺がおいしく感じました。そこで、調理に聞いてみたところ「これは、東京の讃岐うどんです。」と言われました。それでも、本場の讃岐うどんほど腰が強くはありませんし、おいしくはありませんでしたが。東京にも最近讃岐うどんの店ができてきましたが、でもどうしてそんなに本場と違うのだろうと思います。どうせなら、どの店もおいしく作ればいのにと思います。まあ、人によって、好みが違うのでいいかもしれませんが。
イメージでは、西日本ではうどんをよく食べ、そばは、東日本でよく食べるという気がしますが、どうもそうとはいえないようです。たとえば、稲庭うどんは秋田ですし、水沢うどんは、群馬です。しかし、実際は、東京周辺、関西ともにうどんの専門店はそれほど多くなく、「そば屋」と称してうどんとそばの両方がメニューにあります。しかし、関西ではうどんを注文する客のほうが多く、一方、そばの専門店は東京には数多く存在しますが、関西では比較的珍しいそうです。
私は、やはりうどんは、「讃岐うどん」に限ります。腰が強く、トッピングが自由にでき、安いところがいいですね。私がはじめて讃岐うどんを食べたのは、こんぴらさんの参道で、参詣した帰りに食べたものです。昨日は、その琴平温泉に泊まりました。そして、今日の昼は、讃岐うどんを食べました。その歴史は、今から1200年前(奈良時代)に讃岐の国屏風ヶ裏(今の香川県善通寺市)に誕生した空海(弘法大師)が、遣唐使として唐の国から郷里の讃岐に伝授されたという説が最も有力です。日本の文化や農業等は中国より伝来したものが多く、小麦粉の栽培も加工技術もまず中国から伝わった事に間違いないようです。ここでうどん作りが盛んとなった背景には、水利に恵まれない土地柄から主食の米作を補う麦作が盛んであったことに加え、瀬戸内海沿岸で生産される塩やイリコ、小豆島で生産される醤油など、うどんの材料となる主要な産物が、瀬戸内海の海運により流通しやすい状態にあったからのようです。今、温暖な瀬戸内の気候を背景に栽培された良質小麦を原料(今は、ほとんどオーストラリア産の小麦粉で作られています。しかし、何とか、讃岐の小麦で、との願いにこたえて、地元産の小麦を研究改良しています)とし、土三寒六常五杯という塩加減を意味する独自の製法が確立され、手打職人により永い歴史を受け継がれてきました。そして、今やうどんと言えば「さぬき」と言われる程「さぬきうどん」は大変有名になりました。特に、こんぴらさんの愛称で知られる金刀比羅大権現が徳川幕府の御朱印地となり以後400年の間、年と共に金刀比羅参りが盛んとなり、全国の善男善女の信仰の的となり、その旅先で食べたうどんのうまさが口伝えで全国に広まっていったのです。香川県に来ると、本当にみんなうどんをよく食べます。香川県民は一人当たり年間180食以上(全国平均では70食前後のため、3倍近くも食べていることになります)のうどんを消費すると言われています。この量は日本一です。街を歩いていると「うどんタクシー」という看板がありました。うどんツアーをするためのタクシーのようです。さすがですね。今年の8月、讃岐うどんを題材にした映画『UDON』が公開予定だそうです。監督は香川県出身の「踊る大捜査線」の本広克行です。

積乱雲

 今日、飛行機で高松に来る途中で、機長からのアナウンスがありました。
「右手をご覧ください。そこには、発達した積乱雲が見えると思います。したがって、航路を変更して、紀伊半島の上を通過しています。そのために、到着時刻が10分ほど遅れますことをお詫び申し上げます。」
飛行機は、空の上でも、決められた道を通っています。ですから、ほとんど、ほかの飛行機と出会うことはありません。それは、便によって決められていますが、日本各地にある電波を出している無線施設を結ぶ形で航空路が決められているのです。これは、世界的に公示している万国共通のものです。もちろん、世界共通の約束事でなければ、外国機とぶつかってしまいますよね。この経路は、空港からその航空路に乗るための経路とか、航空路から空港に降りるための経路も別に決められています。
 では、飛行機は、どんなときに飛びにくく、離着陸しにくいのでしょうか。離着陸のときに一番気にするのは風のようです。風が「息」をしているとよく言われるように、強くなったり弱くなったりする状況を繰り返す乱気流がある中でのアプローチは難しいそうです。アプローチに際して揺れを感じるのは主にこれが原因です。よく、「○○便は目的地の天候不良のため、到着できない場合もあります。」というアナウンスがあることがありますが、この天候不良とは、着陸できる条件を満たしていない場合ですが、例えば横風が規定値以上に強いか、着陸時に後ろからの風に煽られると、滑走路をはみ出してしまう危険性もあります。また、風だけでなく、霧や雲で滑走路が見えない場合も着陸できません。
 飛んでいるときに危険なのは、雲です。そのなかで、操縦士の間では、「美しい女性と美しい雲には気をつけろ!」と言われているように、地上から見るときれいな夏の入道雲、積乱雲が一番危険なのです。それは、積乱雲の中は想像を絶するほどの激しい乱気流があるからです。かつて、キムタクが主演のテレビドラマで、見習い機長のときに、目の前に大きな積乱雲が発生し、そこに突入し、何とか回避するような内容だった気がします。そのドラマのように、飛行機は、決してその中には入りません。アニメ「天空の城ラピュタ」では、飛行機が積乱雲の中に入り飛行機が壊れてしまったというシーンがありました。ですから、航空路上に積乱雲がある場合には管制室に連絡して、通らないように今日のように航空路を変更してもらいます。夜は雲が見えないのでレーダーで雲の位置を確認しながら避けて通るそうです。
 その入道雲ともいう積乱雲は、地上ではイメージが違います。夏の日中に、強い日差しに参っているときに、夕方、それまでの良い天気がガラリと一変し、強い雨が降ったかと思うと、すぐに止んでしまうことがあります。これが夏によく見られる積乱雲が起こす夕立です。これによって、暑さが少し和らぎ、ほっとしたり、思わず雨に降られてびしょぬれになりながら家に帰った夏の思い出があります。
 積乱雲の発生原因は様々あるようですが、多くの場合は地上付近と上空の温度差がもたらす大気の不安定によって生じる(すなわち不安定を解消しようとして生じる)対流性の上昇気流によるものです。ですから、積乱雲は多くの場合、地上と上空の温度差が大きくなる夏場に見られます。ですから、あの、むくむくと膨れ上がっていく入道のような雲は、夏の風物詩のような気がするのですね。

提言

 今、少子化の進行が騒がれていますが、確かに国の問題としては憂慮すべきことかもしれません。ですから、何とか子どもを多く産んで欲しいといろいろと考えること、どうして産もうとしないのかを考えること、産みやすい、育てやすい、生きやすい社会を作ることはとても重要なことです。しかし、今現実に子どもたち、親たちは少子社会の中で生活しています。かつての多子社会の頃の社会的システムの見直しと同様に、多子社会のころの保育、教育システムの見直しをしなければいけないと思います。これが、私が活動している、提案していることです。最近、その弊害が出始めてきているので、少子社会での子どもの育ちの支援を考えるようになって来ました。先月22日に東京都児童福祉審議会から「少子社会の進展と子どもたちの自立支援」という提言がされました。その趣旨をこのように書いてあります。
「先日、厚生労働省は平成17年の合計特殊出生率が過去最低を更新したことを発表しました。現在、多くの人々は、将来の我が国における人口減少の面に関心が向き、そのことに対する施策の議論が盛んに行われています。今、大切なことは、少子社会にあっても、子どもたちが自立した存在として希望をもって生きていけるよう我々大人が自覚をもって育てていくことであり、都民一人ひとりが自立について考えることです。東京都児童福祉審議会では、現代社会における子どもたちの自立とは何か、自立をはぐくむためにどのような環境を整えることが望ましいかを幅広く議論し、提言しました。」
 この提言を具体化していく中で、少しだけですが、とても重要なことを言っています。それは、子ども・若者の自立の礎(いしずえ)となる五つの要素を明確化する意味として、「自立とは、成長していくプロセスも含むものであり、そのプロセスを支える基礎となる」とあります。私は、ここのところが最も重要だと思っています。自立は、生長してプロセスなのです。自立だけでなく、最近、教育の中で論議されている「愛国心」とか「道徳心」とかも成長プロセスなのです。何歳になったらできるとか、何歳から教えるとか言うものではありません。ですから、難しいのです。覚えこませてできるなら簡単なのですし、教えるならいつ教えればよいかということを決めて、一斉にできます。しかし、成長となると、生まれた瞬間から重要ですし、ここによってその過程は違ってきます。ですから、この「自立」は、乳幼児教育が重要になるのです。しかし、この提言には、そこが抜けている気がします。自立を困難にする背景として、家庭における子育ての問題が挙げられています。そのなかで、核家族化の中で祖父母からの知恵の伝達がなくなったこと、親の養育力の低下により過干渉や放任が多くなったこと、父親の育児参加不足などがあげられていますが、これらは、少子社会の問題ではないと思います。もちろん、関係はしていると思うのですが。考えなければいけないのは、子どもの数が、家庭の中、地域の中で少ないということです。そこには、大きくふたつの意味があります。ひとつは、子ども集団がなくなってきて、そこから学ぶ機会が少なくなってきたこと。もうひとつは、親子の距離が近くなりすぎてきたことです。ドイツのミュンヘンでは、今、3歳まで取れる育児休暇を18ヶ月にする検討が行われています。私は、これは最初、後退かと思ったのですが、少子社会では、3歳まで、家庭に置くと、母親とだけになってしまうので、集団の意識ができてくる18ヶ月くらいから子ども集団に出すべきだと思っているからだと思います。この提言は、もっと、成長プロセスを考えて欲しいと思いました。

星の話

 先日、園での「お泊り会」が行われましたが、最近、子どもたちが寝る前に私が星の話をすることが恒例になっています。今年も、話をするように頼まれました。寝床に入ってから、壁や天井に映された星空を眺めながら、話を聞きます。何人かは、もうすでに、眠りについています。ですから、私に話を頼むのは、星の話の内容ではなく、眠くなるような声だからかもしれません。ともかく、星の話をするのですが、夏の星はとても分かりやすいし、なじみのある星が多いので話しやすいです。そこで、よく話すのは、七夕にまつわる「織姫星」と「ひこ星」の話とか、夏の第三角形(アルタイル、ベガ、デネブ)の明るい三つの星の話とか、その星が含まれる星座の話とかいろいろあります。そのなかで、特に私は、「ベガ」が含まれている「琴座」の話が得意です。アニメの映画にもなっている「オルフェウス」の物語です。とても劇的で、ハラハラして、そして、最後がとても悲しい結末という固唾を呑んで聞き入ってしまう話です。しかし、今年の話は、少し趣を変えました。というのは、お泊り会のなかのさまざまな企画が盛りだくさんで、時間が押してしまい、夜が遅くなったからです。途中で寝てしまってもいいような話にしたのです。その話をもう一度してみます。聞いてみてください。
「今日は、ナイトハイクのときに空を見てみたら、星が出ていましたか?あいにく今日は空が曇っていて星は出ていませんでした。しかし、本当はそんなことはありません。星は出ているのです。あの雲の上のほうに、星は出ているのです。ただ、雲が邪魔しているだけなのです。では、昼間に星は出ていますか。本当は、昼間にも星は出ています。ただ、太陽の光が明るすぎて星の光が見えないだけなのです。星は、晴れていても、曇っていても、夜でも昼間でのいつでも出ているのです。それが、最近は、晴れている夜でも見えなくなってきました。それは、人間が、空を汚してしまったからです。星の光を邪魔するものを空に撒いているからです。夜になると、いつでもたくさんの星が見えるような空になるといいですね。では、星がきれいに見えるときに星を見てみると、いっぱいある星のなかで、きらきらしている星と、していない星があることに気が付くと思います。どこが違うのでしょう。たとえば、同じように夜出ている月はきらきらしていますか?していません。それは、月は、燃えていないからです。太陽は、どうですか?きらきらしていませんが、ぎらぎらしていますね。それは燃えているからです。ですから、空にある星のなかで、きらきら光っている星は、燃えている星で、きらきらしない星は、自分では燃えていないで、燃えているほかの星の光を鏡のように映して光っているのです。私たちが見える、燃えていない星は、太陽の光を映している火星とか、土星とか、金星とかいう星です。きらきらしている星にも、いろいろな色をした星があります。ここに、真っ赤に光っている星がありますね。この星は、さそり座の中の「アンターレス」という星です。また、白く光っている星も見えますね。白鳥座のなかの「デネブ」という星は、白いですね。どうして、色が違うのでしょう。それは、星の年によって違うのです。白く光っている星は、まだ若い星です。だんだん年をとってくると赤くなってきます。人間と逆ですね。人間は、小さいうちは赤いです。だから、「赤ちゃん」といいます。今度、そんなことを思って、空を眺めてみてください。では、おやすみなさい」