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2006年07月31日 [近頃思うこと]
通知表
学校では、今、夏休みです。子どもたちは、どんなすごし方をしているのでしょうか。子どものころから夏休みは待ち遠しい、わくわくするものでした。しかし、夏休みが楽しいか辛いものになるかは、その前に学校から渡される「通知表」によります。(まあ、悪くても1週間くらい我慢すればそんなことは忘れてしまいますが)以前のブログに書きましたが、私が教員のときに書く立場を経験しましたが、そんなに厳密なものではないし、本当にその子の評価をしているかといえば、かなりいい加減な、印象的な部分がありました。(他の教員がどうかは、よく分かりませんが)
私が子どものころは、5段階評価でした。親にも分かりやすく、就職や進学先からも序列がはっきりとわかるようにして欲しいなどの要望があったために、昭和30年に、小・中・高等学校とも5、4、3、2、1に統一したものです。これは正規分布を描くように7%・24%・38%・24%・7%の割合で5・4・3・2・1に成績をふり分けます。このふり分けで、私は通信簿をもらったのです。その後、46年、5段階評定を行うに当たって 「この場合、あらかじめ段階ごとに一定の比率を定めて、児童をそれに機械的に割り振ることのないように留意すること」というように改正されました。つまり「1」をつけなくてもよいことになったのです。このころ、私は通知表をつけていたのです。しかし、もともと通知表といわれるものは、法の定めがあるわけではありません。文科省では「子どもの学習状況を家庭に伝える連絡簿」という位置づけであり、作っても作らなくてもいいが、昔からの慣習で続いているだけです。ですから、私はつけていた立場からすると、それほど一喜一憂するようなものでないという思いがしたものです。そして、その後、2002年度施行の学習指導要領において、総合的な学習の時間の実施や、教科における成績の評価方法が、相対評価から絶対評価に変更されました。(相対評価とは、クラスの他の生徒の成績に対して、どういう出来かを評価するのに対して、絶対評価では、本人の成績だけについての評価をします)そう思っても、気になりますね。
やはり以前のブログで語録を書いた「佐賀のがばいばあちゃん」(島田洋七著)のなかで、テストや通知表に対してがばいばあちゃんがこう助言しています。
“試験前、俺はばあちゃんに泣き言を言った。「ばあちゃん、英語なんかさっぱり分からん」「じゃあ答案用紙に、『私は日本人です』って書いとけ」「そうか。日本にいたら、別に困らんもんね。」「そう、そう」「でもばあちゃん、俺、漢字も苦手で……」「『俺はひらがなとカタカナで生きていきます』って書いとけ」「そうか。別にひらがなでも、分かるもんなあ。」「そう、そう」「歴史も嫌いでなあ……」「歴史もできんとか?」ここまで来て、ようやくばあちゃんは呆れた顔をした。さすがに、勉強しろと言われるかと思ったのだが、そこは、ばあちゃんのこと。しばらく考え込んだ末、こう言い放ったのだった。「答案用紙に、『過去には、こだわりません』って書いとけ!」天晴れである。が、俺は本当にこれを書いて、結果は……殴られた!”もうひとつの助言。“「1と2ばっかりでごめんね」とばあちゃんに言うと、「大丈夫、大丈夫。足したら、5になる」と笑った。「通知表って足してもいいの?」と聞くと、今度は真顔で、「人生は総合力」と言い切った。でも、俺にはあまり意味が分からなかった。”
投稿者 fujimori : 22:09 | コメント (1)
2006年07月30日 [講演先にて]
熊本の水
よく言われることですが、実に人間の体の60%は水でできています。生命の最小単位は細胞です。目に見えないほど小さい細胞の中で、水様分子が絶え間なく休まず動きまわり、生命を支えています。これは人間に限ったことではなく、生物体は一見固体のように見えますが、ほとんどが「液体」「水」なのです。他のもので見てみると、トマトの90%は水、リンゴは85%、魚は75%、クラゲなどにいたっては96%までが水です。夏に、トマトやすいかを食べると、水が滴り落ちるので、水分が多いと実感しますが、人間がそんなに水分でできているとは実感しにくいですね。血液はなんとなく水分が多く、90%は水といわれてなんとなく頷けますが、脳も80%は水といわれるとびっくりします。また、ものを見るために写している網膜も92%は水だそうで、人は水に写してものを見ていることになります。ですから、体の活動を維持するために、人は絶えず水を摂取し、排泄し、循環させる必要があります。その循環の中で、1日のうちに、人間の体内からの排泄量させる水分の量は、静かに横たわっているだけで、成人男子で、2,300ミリリットルもあります。ですから、運動したり、暑いときは、もちろんそれ以上です。ですから、当然、これに等しい分だけの水分の補給が必要となります。2,300ミリリットルを単純にどのように補うかというと、飲料水から、1,200ミリリットル、食物から800ミリリットル、代謝物で300ミリリットルです。また、水を飲むことは健康を保つ上でも非常に大切です。たった1%、水不足になっただけで、人間は猛烈な、のどの渇きを覚えます。もし1日、水を飲まないとすると体の中の約2.5%の水分が失われてしまい、脱水熱といわれる熱を出し、さらに進むと幻覚症状に陥ります。この時、体の中のナトリウム、カルシウムなどのバランスが悪くなり、ある程度を越えてしまうと、死にいたってしまいます。これが、毎年夏に多い脱水症状による死です。脱水症状は、子どもの場合で5%ほど不足すると起こり、大人では2~4%不足すると、顕著な症状があらわれはじめます。また、新生児は80%と大人に比べてかなり水分の割合が高くなっています。成長期には、盛んな生理活動が行われるため、水分が大量に必要となるためです。その多い分だけ抵抗力が低くなります。新生児の間は、抵抗力を犠牲にしてでもまず成長することを第一の目的としているからです。ですから、新生児ほど脱水症には気をつけなければならないのです。車の中に乳幼児が置いておかれて死亡する事故を聞く季節になりました。駐車場に止まっている車の中に子どもだけが乗っていたのを見たときは、他人でも通報する義務を課したほうがいいかもしれませんね。
昨日から来ている熊本県は、厚生省の「おいしい水研究会」で、全国ベスト3に選ばれています。では、「おいしい水」とはどのような水でしょうか。感じ方は、個人によって違いますし、飲むときの条件によって違いますが、この研究会では、「含有成分」「水温」をあげています。ぬるい水も冷たすぎる水もおいしくないように、やはり適温というものがあります。一般に飲み物がおいしく飲める適温は、体温マイナス25度だと言われています。そして、熊本の水がおいしいのは、ミネラルなどがほどよく溶け込んだ地下水を水道水として使っているからで、地下水を蓄えている地層が天然の浄化フィルターの役目をし「熊本産のミネラルウォーター」となっているようです。
投稿者 fujimori : 21:04 | コメント (2)
2006年07月29日 [由来]
花火
今日は、隅田川の花火大会がある日です。(私は、残念ながら、今日から熊本に来ています)隅田川の花火といえば、懐かしい思い出があります。何回かブログで書いていますが、私は、鳥越神社の近くに住んでいました。(近くを3回引っ越しましたが、高校卒業までその辺に住んでいました。)小学生のころ、家から、いつも隅田川の花火を見ていました。花火大会の日は、朝から音の花火が打ち上げられます。パンパンという音が鳴り始めると、「ああ、今日は花火の日だ!」と思って、そわそわ落ち着きません。母親は、台所で、枝豆とかとうもろこしを茹でています。父親は、干し物台にござを敷いたりと、見る場所の準備をしています。そのころの干し物台は、どの家でも、屋根の上に乗っていました。家は、それぞれ密集していましたから、相撲の升席で相撲観戦しているようで、隣の家の干し物台とは、とても近い距離にありました。その日は、早めに夕食を済ませます。そして、干し物台に枝豆やとうもろこしなど、食べ物を運び上げます。そのころになると、空は、薄暗くなってきます。親戚の人や、知り合いが集まることもありました。花火が打ち上げられる前から、それぞれの家々の干し物台では、宴会が始まります。もちろん、今のようなご馳走ではありませんでしたが、子ども心にうきうきしました。そのうちに、花火が打ち上げられ始めます。それは、夜空に開く、おおきな花のようであり、まさに「花火」です。今考えると、たぶん、いろいろな工夫は少なく、大きさもあまり大きくなかったかもしれません。そして、一発ずつ、間をあけてあげられたとおもいますが、今、どこの立派な花火を見ても、そのころの美しさのほうが美しい気がします。その花火が1発上がるたびに、どの家からも、大きな声が聞こえてきます。「たまやー」「かぎやー」と。どうしてそんな掛け声をかけるのかも分からなかったのですが、私たち子どもたちも大声で、大人のまねをして、隣の家に負けないように大声を出しました。この日だけは、子どもたちも、花火が終わるまで起きていてよかったのです。(といっても、8時とか8時半だったと思いますが)花火大会の日は、今の時代では、ホンの些細なイベントかもしれませんが、当時としては、家族みんなで楽しむ、近所とも一体感を感じるイベントのひとつだったのです。この両国川開きの花火は、明治維新や第二次世界大戦などにより数度中断しています。私が小学校6年生のなると、交通事情の悪化のために中断されます。それが、また、1978年(昭和53年)に現在の名称として復活し、以後毎年続けられています。今は、大変な混雑で、昔の粋な衆がしていたように、屋形船に乗って船から花火を見ることできます。
日本で最も古い花火業者は、江戸の宗家花火鍵屋で、1659年に初代弥兵衛がおもちゃ花火を売り出します。彼は、「鍵屋」を屋号として代々世襲するようになりました。1733年、関西を中心に飢饉に見舞われ、江戸ではコレラが猛威を振るい打数の死者を出した暗い世相の中、将軍吉宗が死者の慰霊と悪霊退散を祈り両国大川(隅田川のこと)の水神祭りを催し、それに合わせて大花火を披露し、これが隅田川川開きの花火の起源になったと言われています。一方、鍵屋と並んで江戸の花火を代表したのが玉屋である。玉屋は鍵屋から暖簾分けをして店を構えたのが始まりです。そして、両国橋を挟んで上流を玉屋、下流を鍵屋が受け持つようになって、双方が腕を競いあいました。そして、交互に花火を揚げたため、観客は双方の花火が上がったところで、よいと感じた業者の名を呼びました。これが、「たまやー」「かぎやー」の掛け声の由来です。
投稿者 fujimori : 17:26 | コメント (0)
2006年07月28日 [旅先にて]
キリンとアサヒ
私は、以前のブログにも書きましたが、あまりビールには詳しくないので、レストランなどでビールを注文するときに「アサヒにしますか?それともキリンにしますか?」と聞かれると困ります。どちらがどんな味なのかよくわからないので、はっきりした好みがないからです。世の中の人は、わかっているのでしょうね。2001年に48年間続いたシェア第1位の座がキリンからアサヒに代わったことにびっくりしました。ずっと、キリンでしたから。アサヒに代わったのは、「スーパードライ」の発売です。ひとつのヒット商品が、長い間の常識をも覆すほど、時代を変えてしまうものだと感心したものでした。しかし、こうしたヒット商品は、逆にその後のさまざまな弊害になることがあります。その成功のために、新たな挑戦をする勇気がなくなってしまうからです。安定の中から、失うものがあるのが怖いのです。少しずつそれが減ってきても、また、時代が新しくなっても、その栄光にしがみついてしまうのです。ビール界も今、大きな変化をしています。発泡酒、第3のビールと、新ジャンルが産まれているのです。アサヒは、スーパードライという大ヒット商品があるせいで、この新しいジャンルへの開発が遅れたようです。今年の上半期で、5年ぶりにビール系飲料のシェアで、キリンがまた首位になりました。このことに、新本部長は、「アサヒの企業体質を変えろというメッセージだと感じた」と言っています。同様に、キリンがアサヒに1位の座を奪われたときに、商品開発、生産、販売、組織のあらゆる面からの顧客本位の製品を開発する体制作りに取り組みました。さらに少子高齢化、若年層のビール離れをいち早く察知し、「ローアルコール・ビバレッジ市場」の開拓に成功しています。どんなことに関しても、時代が動き、その時代の求めるものが変わってきます。それをいち早く察知し、改革をしていかなければ、気がついたときには、誰も見向きもしなくなってしまっています。
キリンビールといえば、最近行った長崎で知ったことがあります。麒麟(きりん)とは中国の伝説上の動物で、鳥類の長である鳳凰と並んで、獣類の長とされています。オスの麒麟を麒(き)、メスの麒麟を麟(りん)と呼びます。日本が幕末維新の激動期を抜け、安定した成長期に入った1888(明治21)年、一つのビールが市場に登場しました。ドイツ風ラガービールで、ラベルにはこの麒麟が描かれていました。この霊獣の名を冠し、「キリンビール」と銘打たれたこの商品は、各地で大変な好評を博したのです。この「キリンビール」発売に深く関わった外国人が、今回も訪れた、長崎の観光名所「グラバー邸」にその名を残すT.B.グラバーです。グラバーというと、幕末に坂本龍馬や西郷隆盛らと幕府転覆に奔走した商人としても知られています。しかし維新後にも、炭坑の開発や三菱の事業拡大など、日本産業界の発展に大きな足跡を残しました。そして、長年にわたる日本滞在の中で、日本人がビールを好むことも、日本の風土や生活文化にはきっとビールが普及する素地があると信じ、ビール産業界に参入を試みます。そして、ラベルの「麒麟」は、グラバーの提案により採用され、現在の「キリンラガービール」のラベルの原型となるデザインが完成しています。
「この彫刻(こま犬)は今のキリンビール社のラベルのもとになったものであり、また、ラベルの「麒麟」に太い口ひげが描かれているのは、キリンビール社の前身であるジャパン・ブルワリー・カンパニーの社長を勤めたグラバーの口ひげをもとにしたといわれている。」(グラバー亭のなかにある案内板から)
投稿者 fujimori : 21:59 | コメント (0)
2006年07月27日 [散歩]
くちなし
今週の日曜日、散歩をしていたら、「くちなしの花」を見つけました。時期的には、少し遅い感じでしたが、それでも、まだきれいに咲いています。とっさに思い浮かべるのは、「水木かおる作詞、遠藤実作曲で、渡哲也が歌った「くちなしの花」です。「いまでは指輪も 回るほど やせてやつれた お前のうわさ くちなしの花の 花のかおりが 旅路のはてまで ついてくる くちなしの白い花 おまえのような 花だった」という一番の歌詞は、くちなしの花のにおいが旅路の果てまでついてくるほど強い、印象深いにおいということがわかります。また、「おまえのような花」というのは、この花は、純白の美しい花で、いかにも清純な感じのする花で、花言葉も「清潔・純潔」となっているところから、そんな彼女なのでしょう。あと、この花言葉に「私は、幸せもの」という意味もありますが、この歌は、彼と別れ、2番の歌詞のように「雨の別れが 今でも心を しめつける」とか、3番の歌詞の「小さな幸せ それさえも 捨ててしまった 自分の手から」という彼女は、どう考えても「私は、幸せもの」という感じはしませんね。という、揚げ足取りは別として、キャサリン・ヘップバーン主演の映画「旅情」では、愛の花ともてはやされ、有名なラストシーンで、くちなしの花が出てきます。また、この花は、「沈丁花」「金木犀」と並ぶよいにおいの花として有名です。しかし、よいにおいというのは、どうも芳香剤のイメージですね。
「くちなし」は、アカネ科クチナシ属ですが、なんと、同じアカネ科に有用植物としてコーヒーノキがあるのは、驚きですね。この「くちなし」という名前の由来には、いろいろな説がありますが、一番有名なのは、くちなしの実は熟しても他の果実の様にはじけないことから、「熟しても口を開かない」くちなしという説です。また、漢名の梔子の“梔”は、口が小さく楕円形をした一種の酒壺のことで、実の形が似ているところから梔子と呼ぶようになりました。この「くちなし」は、亜熱帯系の植物で、わが国では静岡以西、四国、九州に自生します。学名は「ガ-デニア・ジャスミノイデス」といいますが、ジャスミンに似た香りのただよう意味が含まれているそうで、なんとなく頷けますね。蕾のときは帯緑色ですが、開花すると純白になります。クチナシの実は、おせち料理の「きんとん」になくてはならないものですね。それは、その実の色に関係します。「あかね色(茜色)」は、アカネ科の多年草つる草の根からとれる赤い染料の色のことです。源氏物語の色の世界でも、黄系は、「山吹」「梔子」「黄」の3色をいいます。「黄」は、カリヤスの葉を使い、「山吹」は、アカネやベニバナを混ぜて染めました。くちなしの実を乾燥させたものは、食品を黄色に染める着色料として、栗やさつまいものシロップ煮、きんとん、たくあん漬け、麺類、お菓子などに使われます。江戸時代の料理本には、くちなしで色付けしたごはんにだし汁をかける「山梔子飯(くちなしめし)」が登場しています。現在も、ごはんやおこわなどを黄色く色付けした郷土料理も見られるそうです。くちなし酒は、疲労回復、強壮、健胃などのほか、精神安静、安眠、美容などにも効果があるといわれています。また、薬用としては解熱に、打撲撚挫時には痛みをとるほか、淨血にも益ありとされてきました。小粒の果実は山梔子といい、消炎、鎮静、止血にも使用されました。昔から、身近にある花や実を、調理や、薬用に使ったのですね。
投稿者 fujimori : 21:37 | コメント (0)
2006年07月26日 [散歩]
東京の坂
坂といえば「長崎」を書きましたが、他にも「神戸」「尾道」を思い浮かべます。しかし、意外にも、東京にも坂は多いのです。しかも、名前の付いた坂道が多いのです。500以上は存在しています。坂道に名前を付ける慣わしは、海外にはあまりないらしいのですが、日本国内では各地で名前の付いた坂道が存在しており、これは東京だけに限ったことではありませんが、東京には由緒ある坂道の名称が現在でも数多く残されてきています。坂道といえば、テレビ番組の「笑っていいとも!」のタモリさんは、「日本坂道学会副会長」だそうで、「TOKYO坂道美学入門」という本を講談社から出版しています。そこに書かれているタモリによる「よい坂」の条件は、1. 勾配が急である、2. 湾曲している、3. まわりに江戸の風情がある、4. 名前にいわれがある、とあります。東京で坂道に名前がつけられたのは主に江戸時代以降です。中には、明治・大正期、あるいは戦後になってつけられたものもあります。名の付いた坂道は、地形の関係から、同じ地域にかたまって存在している場合が多いようです。文京区が最も多いようです。ついで、港区、新宿区、千代田区といった都心の区です。それは、都心の方が坂道一般が多いというよりも、歴史的に人が多く集まっていたため、名前も付き易かったのだろうと思われる。また、「山の手の坂、下町の橋」という言い方もあるように、丘陵地帯が多い山の手の地域には名の付いた坂道が多いようです。坂道の名称は、目に付いて気になる人が多いせいか、何故そのような名称がついているのか、由来が坂道の標識に書いてあることが多いです。坂道の標識は、ほとんどの場合は、坂上又は坂下の柱などになっています。この標識は、東京都や各区(教育委員会)が設置しているもので、いろいろなタイプがあります。

東京で有名な坂に、「神楽坂」があります。飯田橋駅前の外堀通りから、北西に向かって登る坂道です。東京で駅名(神楽坂、牛込神楽坂)にもなっている唯一の坂道です。神楽坂の地名は、筑土八幡神社で催された神楽がその由来だとする説が有力です。また、幕末から明治末にかけて菊人形の小屋が並び、この坂上には森鴎外、 夏目漱石、高村光太郎が居住していたことで有名な「団子坂」は、坂の近くに団子屋があったからとも、 また、悪路のため転ぶと団子のようになるからとも云われていると標識には書かれています。最も多い坂の名前は、「富士見坂」です。東京に約20あると言われますが、現在、実際に富士山を、この坂から見ることはできないでしょう。「江戸の坂東京の坂」(中公文庫 横関英一著)では、全国4000の坂名で一番多い名前は、「赤坂」で、土の色が赤い坂という意味で、全国で130ヶ所あるそうです。ちなみに、2位は「長坂」3位は、「小坂」4位は、「大坂」5位は、「高坂」(急な坂のこと)だそうです。他にも多いのは、稲荷坂とか、幽霊坂、新坂、胸突坂、暗闇坂、などがあるようです。また、「ドンドン坂」の名前は、東山手・南山手の急な坂の総称だったようです。また、同じところに2箇所の坂からいける場合は、よく、急な坂のほうを「男坂」、ゆるい坂のほうを「女坂」という場合があります。私の高校は、急な坂道を登ったところに校門がありました。私たちの間では、その坂の名前を、「地獄坂」とか、「遅刻坂」と呼んでいました。朝、急いで登るのには、とても大変だった思い出があります。
投稿者 fujimori : 17:52 | コメント (0)
2006年07月25日 [近頃思うこと]
木育
今年の保育学会で、「木育」紹介コーナーが設置されました。最近、「食育」という言葉はよく聞きますが、この「木育」は、「子どもをはじめとするすべての人びとが、木とふれあい、木に学び、木と生きる」という活動です。北海道が平成16年に設置した民間協働プロジェクトで提案したものです。内容として、こんな提案をしています。「すべての人が思いやりとやさしさをもち、地球という大きな「つながり」のなかで自然と共存し、人間らしく生きることができる社会を実現します。近年我が国では、利便性や経済効率の追求等による生活環境と自然環境の変化によって、人と人、人と自然、モノと自然とのつながりが希薄となり、社会や自然にさまざまな「ほころび」が生じています。」
ここ数年、異常気象が続きます。今年の梅雨の形は、温暖化が進んだ数百年先に予想されている現象だそうです。日本での少子化が、国が思った異常な急速な速さで進んでいると同じように、地球の変化も思った以上の速さで進んでいるようです。地球との関係も、まずは、他人との良好な関係から学んでいきます。他人との良好な関係は、まずは、親子関係から子どもたちは学んでいきます。この親子関係は、きちんとした夫婦関係から生まれてくるものでなければなりません。価値観が、多様になったとして、それぞれの関係の形がさまざまになってきました。しかし、どのような関係にしても、決して自分だけがよいとする気持ちからは築いていけないと思います。共に生きていくことを大切にし、お互いに存在を認め、尊重しなければならないのです。たとえ、夫婦が、結婚という形でなくてもかまいませんが、これを忘れてはいけないのです。同じように、地球に対して、また、自然に対して、その存在を大切に思わないといけないのです。
「子どものみならず、すべての人びとにとって、木と五感でふれあうことが、自然や人とのつながりの回復に結びつくこと。手でつくり、手で使う経験を通して養われる感性や想像力が、人や自然に対する「思いやり」や「やさしさ」を持つことにつながること。こうした経験を蓄積し、知恵と技術を培うことが、自然と人が共存して生きる「持続可能な社会」を生み出す力となること。私たちは、木を子どもの頃から身近に使っていくことを通じて、人と、木や森との関わりを主体的に考えられる豊かな心を育てたいという想いを「木育(もくいく)」という言葉にこめました。」木に触ることが、まず大切であるといっています。これは、親子関係でも言われていることです。いわゆる、「スキンシップ」といわれるものですが、最近、脳の発達の観点からもその重要性が言われています。赤ちゃんの肌に直接触ること、異年齢の子ども同士がじゃれあうこと、そんなことが脳の育ちに影響しています。赤ちゃんや子どもは、何でも触りたがります。それは、好奇心とか、ものを確かめるという意味もありますが、それを触っているうちに、そのものとの関係性を学んでいるのでしょう。そいう意味で言えば、夏休みの「昆虫採集」とか「植物採集」は意味があったのかもしれません。今は、自然を大切にしなければいけないということで、直接触ることが許されなくなりました。本当は、決して、子どもたちが自然と触れることで壊されてきたのではなく、大人が自分たちの都合や、面白半分に自然を破壊したり、支配したりしようとした結果であることのほうが多いのです。もう一度、自然との共生を考えなければならないと思います。
投稿者 fujimori : 22:10 | コメント (0)
2006年07月24日 [地域を知る]
祭り
先週の土曜日は、園の「夕涼み会」でした。園の行事は、四つの主な目的に整理しています。1、子どもの発達を保護者に伝える。これは、年長さんが、はっぴを着て、山車を曳いたり、神輿を担いだり、夜店の店番をします。今年は、山車を曳きました。2、普段の保育を厚くする。今年は、ゲーム、製作、クイズ、体験コーナーを通して、今年のテーマである「楽器」を親しませようというものです。3、親子のふれあいを提案する。親子で各夜店を歩き、楽しみながら、親子で過ごします。もうひとつ4番目は、地域の文化を伝承するというものです。園のある場所は、ニュータウンとして新しく開発された地域のため、伝承されている文化がありません。そこで、園では、昨年は、市内に伝わる盆踊りを民謡協会の役員さんに来てもらって、職員全員が正確な踊りを習いました。私が住んでいる町は、旧市街化地域なので、祭りの近くなると、近くの神社から、盆踊りの曲が流れてきます。毎晩、有志が踊っているのです。その音を聞くと、「ああ、そろそろお祭りだなあ。」と感じたものでした。そこで、園での夕涼み会が近づくと、毎夕、園庭で盆踊りの曲が流れ、子どもたちが練習します。「ああ、そろそろ夕涼み会だなあ。」と感じてもらえたらと思っています。また、食事は、郷土食を調べて、それを食べてもらい、ランチョンマットにはそのレシピを書きました。今年は、地域の子どもたちが行っているように太鼓を積んだ「山車」を曳きました。

私が育った場所は、東京下町の鳥越神社のすぐそばです。この鳥越神社の夏祭りの呼び物は、夜祭りと東京一の重さが有ると言われている千貫神輿による町内巡幸です。巡幸は鳥越一帯を氏子たちにより、30回もの受け渡しを行います。それぞれの町内のはっぴを着ていないと担げませんでした。そして、最後の神社内に入れるのが「宮元」というはっぴを着た人です。神社に入れる頃には暗くなってきます。闇夜に、ゆらゆらと揺れる提灯の明かりをつけた神輿が、少しずつ神社へと近付き、そして、宮入をします。この光景の感動は言い表わし様がありません。

本社神輿と宮入
私が住んでいたのは、その「宮元」だったので、子どもの頃、よく、ほかの地域の人がはっぴを借りにきていました。また、町内ごとにも神輿があり、子ども神輿もありました。ですから、土曜日は、学校に行って、出席だけとって、急いで家に帰り、神輿を担いだものです。そして、所々の住民からおひねり(といっても、現金ではなくお菓子や、スイカなど)をもらいます。終わると銭湯の入湯券をもらいます。銭湯では、肩の赤く腫れ上がったのを自慢しあいます。また、本社みこしを眺めるのに、すごい人ごみでよく見えないので二階から見ると、神様を上から見るなと怒鳴られたものです。鳥越の里は蔵前通りと国道6号線(旧街道江戸通り)の概ね交わる辺りに所在し、昔より交通の便の良いところでした。第二次世界対戦以前は職人さんが軒を並べて居住した、東京下町の一角として栄え、戦後は各種製造・卸問屋・商店が並ぶ町なみに変化を遂げました。又、この近隣の食を預かる商店街は、おかず横丁として人々にしたしまれ、戦後の下町の食文化・風俗を支えています。
そんな中で育ったためか、お祭りになると血が騒ぎ、神輿を担ぐ祭りを見たくなります。今は、あらゆる地方から神輿マニアが集まり、本来の地域文化ではなくなりなじめています。そのために、争いやいさかいも多いようです。もと地元民としては、地域の文化を大切にして欲しいと思います。
投稿者 fujimori : 22:12 | コメント (0)
2006年07月23日 [新聞記事より]
まちづくり2
今、子どもの事件が多発し、また、地域コミュニティーが形成されにくくなっている中で、もういちど、まちのあり方を考える必要があるのではないでしょうか。しかも、その考え方の中には、本来、日本が持っていたまちづくりの再評価もあるような気がします。もともと、農耕民族である日本民族は、人との関係の中で生きてきました。世界が、その関係性を、子どもの世界、教育のあり方においてもその必要性と、有効性を考え始めています。昨日に引き続いて、講座の中から引用して、考えてみました。2人の提案を考えてきましたが、今日は、3人目からです。
3、ジェーン・ジェイコブス(1916~2006):彼は、多様性を備えた人間的な都市の必要性を訴え、コルビュジェのような近代的な都市計画、都市開発を徹底的に批判します。「人間的に魅力ある都市のための4大原則をあげています。①街路の幅はできるだけ狭く、曲がっていて、1ブロックの長さは短い②再開発に際して古い建物をできるだけ多く残す③都市の各地区は必ずふたつ以上の機能を持つ④人口密度が十分に高い―というものです。職住をはじめとする機能を混在させた地域のほうが、時間帯によってまちが空っぽになるようなこともなく、住みやすく、また、小規模な区画や、路地であれば、人の目が届きやすく、人間的で子どもにとっても安全であるという考え方です。この考え方が、最近の日本におけるまちづくりに欠けている視点のような気がします。また、私が訪れた長崎とか、私が子どものころに育った「下町」とか、かつての「城下町」と呼ばれた地域では、このような視点を持っていると思います。下町には路地が多くあり、その横丁付近には、まだ玄関先に植木鉢を沢山ならべ、朝顔や盆栽を楽しみに緑を大切に育てる家々も見られます。また、鳥越のあたりは、第二次世界対戦以前は職人さんが軒を並べて居住し、戦後は各種製造・卸問屋・商店が並ぶ町なみに変化を遂げました。職住一致です。また、城下町でも同様に、作った意図としては攻められにくいということからですが、道の幅は狭く、曲がっていて、人口密度が高いです。そして、町の中には、さまざまな職業の人が住んでいました。鍛冶町には、刀鍛冶が住んでいたのでしょう。
4、ケビン・リンチ(1918~1984):彼は、都市、まちのよしあしの評価は数値データではかるよりも、「いい感じがする」「よくない感じ」などといった人の心理のほうが大事なのではないかと提案します、そして、多くの人が都市を「よい」と考えるための手がかりとして、わかりやすさが大事だといっています。そのわかりやすさの三つの要素として、①アイデンティティー(その場所らしさ)②ストラクチャー(はっきりした構造)③ミーニング(意味を持った)空間ということをあげています。具体的な空間要素としては、五つのものに注目しました。①パス(道路)②エッジ(縁)③ディストリクト(地域)④ノード(接合点・集中点)⑤ランドマーク(目印)です。これら五つがはっきりイメージできるまちはいいまち、できないまちは、あまり住み良くないということを実証しています。
以前のブログにも書きましたが、今後の学校のあり方は、もしかして、寺子屋や藩校にヒントがあるように、これからのまちのありかたも、日本から提案していけるかもしれません。昨年、ミュンヘンで行われた世界保育大会のテーマである「インクルージョン」の次の課題は、「コーヒージョン」という、関係性の構築にあるといわれていました。今こそ、まちづくりを通して、少子社会での、かかわる力や、コミュニケーション能力を育てる子どもたちの環境を考えていかなければならないでしょう。
投稿者 fujimori : 17:56 | コメント (0)
2006年07月22日 [新聞記事より]
まちづくり
7月15日に、読売新聞との共催で一橋大学が、第4回の市民講座が開かれました。今回のテーマは、「まちづくり」と「ひと」の関係を再考した「まちづくり―参加と協働の人間環境」です。その詳報が新聞に掲載されていました。その講座の中で「まちの見方」「造り方」「使い方」について、4人の思想家、理論家、実践家の考え方を紹介していました。
1、エベネザー・ハワード(1850~1928):彼はロンドンに生まれますが、田園都市というコンセプトを最初に出した人です。この考え方は、今、私の園がある多摩ニュータウンの基本的な考え方の基盤となっているものです。郊外型の都市計画には、今でもかなり影響を与えています。彼の時代のロンドンは、大変生活環境が悪く、煤煙が立ち込めていました。田園は、自然環境は良くても、農民の労働・経済環境は苛酷でした。そこで、双方の長所だけを取った「田園と都市の結婚」というアイデアを提唱します。同時に、「市民がつくって維持するまち」を提案しました。まず、株式会社をつくって資金を集め、土地を買い、造成して貸します。しかし決して、分譲、売却はしません。分序すると資金が回収できて楽になるのですが、住人それぞれの私有財産をめぐる利害対立が発生して、理想のまちが維持できなくなるからです。この考え方は、今や世界で普及しています。しかし、日本では、なかなか今の現実ではできず、デベロッパーは、資金の回収するためにどんどん無計画に造成し、分譲マンションなどは、住民の利害関係から、コミュニティーが壊されていくことにもなっているのです。また、国際日本文化研究センターの川勝教授は、こう言っています。「幕末明治期に来日したイギリス人たちが日本の農村風景の美しさに感嘆したと書いている。初代公使オールコットは、世話の行き届いた農村を、英国自慢の庭づくりと引き比べて、激賞し、近代観光業の創始者トマス・クックは日本の美しさに呆然として、日本を理想郷として宣伝した。」このように、そもそも田園都市という言葉の由来は日本にあるとも言っています。幕末明治期に日本を訪れたイギリス人は、「家に縁側があって庭に面し、長屋の狭い路地にも朝顔や植木鉢を置いて緑を大切にした百万都市江戸の生活風景を外国人はgarden cityと形容した。(中略)それが外国に伝わり、ハワードによって都市づくりのモデルとなり、一世を風靡した。庭園(田園)都市の究極の原型をたどっていくと日本に行き着く」とも川勝教授は、「文明の海洋観」の中で言っています。
2、ル・コルビュジェ(1887~1965):彼は、スイスで生まれ、フランスで活躍します。モダンを代表する、近代都市計画の父とも言われています。しかし、反面、この近代的ということは、非人間的になりやすいのです。私が、初めて園のある町を見たときに、とても近代的で、すばらしいのですが、人間のにおいがしませんでした。すばらしい「せせらぎ」の脇を数百メートル歩いても、誰ともすれ違いません。マンション群ということもあって、犬を散歩させている人を見かけません。道に猫が寝そべっていません。ダンボールピープルと呼ばれているような路上生活者は、この町に住もうとはしません。そこで、園が開園をしたときから、町の人とともに、地域を作ることから始めたのです。今は、ダンボールピープルはいませんが、町を住民が歩く、犬を散歩させ、少し声を掛け合うようになりました。しかし、この町は、もともと人との関係がわずらわしい人が引っ越してくるので難しいところはありますが。(続く)
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2006年07月21日 [旅先にて]
長崎の坂
長崎といえば、坂の町のイメージがあります。吉田松陰が21才のとき、平戸藩の葉山鎧軒に儒学を、山鹿高紹から山鹿兵学を学ぶため、50余日間平戸に遊学しました。その際に、半坂峠(佐世保~佐々)を越えていきました。そのときのことをこう記しています。「この日の艱難(かんなん)実に遺忘すべからず。一には八里の間、皆山坂険阻(けんそ)の地なり・・・三は独行クク、呼びて応うるものなし、唱えて和するものなし。四は新泥滑々、行歩遅渋す。五は・・・」(西遊日記)。坂や峠は艱難のごほうびに、時にはすばらしい景色や、心の中にさわやかな風を運んでくれます。このように、長崎は間違いなく日本一の坂の町です。それは、データでもわかります。斜度5度を越える斜面面積比率が、長崎市は80%に達しているのです。ちなみに同じように坂の多い町として知られる神戸市は30%弱です。10度以上の急傾斜地が46.9%、14度以上が19.6%もあります。印象だけでなく、確かに多いですね。長崎の宿泊先の近くに「オランダ坂」があります。
先日行った長崎で、友人の案内による「長崎さるく」の始めは、この坂を登ることから始まりました。オランダ坂とは、一般的に梅ヶ崎の「切り通し」~活水大学前~大浦石橋とのあいだの坂道を呼んでいます。日曜ごとに沢山の外国人がこの道を通り教会に行ったので、この坂道がオランダ坂と呼ばれるようになったといいます。この坂と同じ石畳の東山手洋館群前の坂は、とても急です。ですから、自転車通行禁止だそうです。坂の多い長崎では、自転車はほとんど見かけません。長崎では、自転車通勤や通学風景がありませんし、長崎市内の学校で「自転車置き場」のある学校はありません。週刊ダイヤモンド(97/6/7号)によると、全国平均の一世帯当たり年間自転車購入金額は3591円であるのにたいして、長崎市ではわずか932円で、全国47都道府県庁所在市中、圧倒的に最下位だそうです。借家などの不動産物件の案内でも、「車庫付き」という表示のほかに、「車横付け」(車が行けるという意味です)とか「車不可」などの表現が使われます。たとえば、愛宕山手自治会(愛宕一丁目の一部)の98所帯中、横付け出来るのは、2所帯だそうです。ここを歩いていると、この場所で家を建てるときに資材を運ぶのは、大変だろうと思います。昔は、すべて人夫さんがかついで運んでいたそうです。その後、馬も手伝います。馬はまだまだ現役で活躍しているそうです。最近は、キャタピラ車もつかうそうです。坂は、大変そうに思えますが、意外と長崎は「住みやすい町」だとよく言われます。しかもその理由に「階段の多い坂道、狭い路地、斜面の地形に密集した家屋にある。」といわれます。建築家の黒川紀章氏は、「気分のいい人たちと一緒に住める街、ほどほどに助け合ってつき合える街、歩いて気分のよい雰囲気のある街」という快適で安全に住める条件を備えているといいます。また、「坂の上」に住む主婦は、「平地」に住む主婦に比べて、心臓や肺の機能が優れているという結果も出ているそうですし、疲れやすいとか肩がこるなどの自覚症状は、圧倒的に少ないことが分かっています。毎日の生活の中で、知らず知らずのうちに坂や階段を上ったりすることは、特別にお金と時間をかけないで、スポーツと同じ効果が得られるからでしょう。
私からするとハンデと思うような「坂」も、生活の知恵として活用し、そこならではの文化を創っていくというのはすばらしいことです。郊外型大型店舗は、便利と引き換えにコミュニティーを壊しているのかもしれませんね。
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2006年07月20日 [旅先にて]
単身赴任
「長崎さるく博」のひとつに、「出島タイムスリップ」というのがあります。江戸時代の鎖国政策の中で、西洋に開かれた唯一の窓口として日本の近代化に大きな役割を果たした「出島」の復元整備事業が進んでいます。そこを、ボランティアの人の解説によって歩いてみました。その復元されている建物の中心となるのは、オランダ商館長の住まいだった「カピタン部屋」です。ここの展示品として、カピタン部屋の十五畳の部屋に、1820年代のオランダ商館長を務めたブロムホフとその妻が使用したといわれる青色の長いすが置いてあります。これは、スタッフがオランダを訪れ、現地の出島研究者の協力で当時の物と大きさ、作り、色などが同じ長いすを購入してきたものだそうです。このブロムホフと妻にこんな話があります。
「幕府は、外国人女性の日本渡航を禁止しました。したがって、日本に来航する外国男性は、たとえ既婚でも単身赴任を余儀なくされ、それは、安政3年(1856)の日蘭条約書追加で妻子同伴が認められるまで続きます。このような制度のもとでは、たとえ家族連れで来日しても、強制的に別れさせられることになります。文化14年(1817)に長崎にやって来た新任の商館長コック・ブロムホフは、妻子と乳母、それに召使を同伴していました。しかし、幕府は、断固認めません。その妻が病弱であったため、コック・ブロムホフと旧商館長ドゥフが懸命に嘆願しましたが、幕府は妻子の出島滞在を認めず、そのままバタヴィアに帰ることを命じたのです。なぜ、そんなにしてまでも夫婦同伴を認めなかったのでしょうか。どうも、昔から日本では、単身赴任をさせるようです。参勤交代のころは、たぶん、妻子は人質だったからでしょう。しかし、外国では、あまり単身赴任は見られないようです。
その出島に外国への窓口を移される前は、平戸が窓口でした。そこから、遣唐使も出発したのですが、その遣唐使として唐に行ったなかに、山上憶良がいました。彼は、こんな歌を読んでいます。
「瓜食めば 子ども思ほゆ 栗食めば まして偲はゆ 何処より 来たりしものぞ 眼交(まなかひ)に もとな懸かりて 安眠し寝さぬ」 反歌「銀も 金も玉も 何せむに 勝れる宝 子にしかめやも」
(瓜を食べれば、子どもにも食べさせてやりたいと、子どものことを思い出す。栗を食べればますます子どものことが気にかかってくる。いったい子どもというものは、どこからやってきたのだろう。しきりと目の前に子どもがちらついて、私は、夜もおちおち眠れない。)反歌(銀だとか金だとか真珠だとか、そういったものは自分にとっては何の魅力もない。大切な宝といったら、子どもに勝るものは、ありはしない。)
この歌は、今で言う単身赴任で家族と離れているときの歌ですが、何か美味しいものを一人で口にするとき、こんなものを自分の愛しているものに食べさせてやりたいと思う心は、今もかわることのないものです。「何処より~」というあたりは、床についてからの思いでしょうが、憶良は、四六時中、子どものことを忘れることができなかったのです。彼はかなり貧しかったようで、金銀に対する憧れは人一倍あったはずですが、それでもなお、子どもへの愛情の前には、それらへの執着を蹴散らしているのです。
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2006年07月19日 [近頃思うこと]
バイキング料理
今、ホテルなどで泊まると朝食が「バイキング」であるところが多くなりました。好きなものを好きに取れるからでしょう。また、和食でも洋食でも好きな方が食べられ、家族一緒でも別々のメニューが可能です。しかし、そのときに私は気になることがあります。それは、終わったときにお皿にいっぱい残す人がいることです。並んでいるものを見ると、思わず皿に乗せてしまうことがあります。みんなおいしそうに見えたり、あれもこれも食べたくなったりすることがあります。しかし、いざ食べてみると、それほど食べられません。そこで、別に残しても同じだからと残す人がいるのです。このバイキングは、決して、よそるのが一度だけということではなく、何回もいけます。そこで、足りなかったり、他のも食べてみたければ、もう一度とりに行けばいいことです。そんなに一度に多くよそる必要はないはずです。何度も行くのが面倒くさいのでしょうか。どうせ、同じ値段だから残したって何の問題もないと思っているのでしょうか。私は、それは、先の見通しが立てられない人のような気がします。最近、さまざまな場面において先の見通しが立てられない人が増えた気がします。先を読む力は、今話題の脳の前頭葉の働きだといわれています。人間以外ではかろうじて小さく前頭葉を持っているボルボというサルでさえ、1週間先を見るのが限界だと聞いたことがあります。それより先を見通せるのは人間だけです。それが、どうも、今がよければいいとか、今、いやなことを回避すれば解決するかのように考える若者が増えたのは、前頭葉の働きが衰えてきているのかもしれません。私の園で給食のとき、3歳以上児は自分で食べきれるだけを伝えて当番によそってもらいます。先日のテレビ取材で、その様子を見て、子どもたちに先の見通しをたてる力をつけているというコメントがありました。園でのバイキング方式は、好きなものを好きなだけよそるのではなく、自分で食べられる量を見通すということでもあるのです。
この「バイキング料理」とは日本だけでの言葉のようです。昭和32年、帝国ホテルの支配人がデンマークに渡航し、現地の「好きなものを取って食べる食事スタイル(スモーガスボード)」に感銘を受けたのがきっかけで、翌年、帝国ホテル内に「インペリアル・バイキング」というレストランを開きました。ここから「バイキング料理」という言葉が生まれ、今では日本中のレストランやホテルでこの形式が多用されています。この「スモーガスボード」の起源は、友人・知人が有り合わせの食べ物を持ち寄って、色々な食べ物を少しずつ食べようとしたことからです。欧州でこうした食事形式が普及したのは、「個人主義」とか「自己責任」が発達しているからでしょう。そもそも「バイキング」は、8世紀~11世紀にかけてヨーロッパ各地を荒らした「ノルマン人」のことで「海賊」の代名詞のように扱われています。彼らの食習慣は「自分の分だけとって食べる」というものだったのです。ところで、「バイキング」という単語は、海外では使わず、英語では"buffet"と言い、海外ではこう言います。立食形式で、好きなものを好きなだけ取って食べる事を言いますが、「立食」という形はほとんど見られませんので、立食またはテーブル席で利用するセルフサービスの食べ放題ということになり、先に記述した「バイキング」や「食べ放題」と同様の意味で使われているようです。ちなみに、バイキング店において「食べ残し」は禁止とされています。
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2006年07月18日 [旅先にて]
飴屋
江戸時代、京都で仏像の彫刻を習っていた男が、そのとき知り合った京都の女性と恋人どうしになりました。しかし、国元から“早く帰って来るように!”という催促に、かならず迎えに来るからと、固く約束して長崎に戻ったのですが、親の決めた婚約者と、結婚してしまいます。京都の恋人は男の言葉を信じて待っていましたが、疑惑の思いは消せず、長崎まで訪ねていきます。苦難を乗り越え、長崎に着いたときに待っていたのは、恋人が自分を裏切ったという事実でした。絶望の淵をさまよい続け、ついに精魂つきはてて、日ならずしてはかなくなってしまったのでした。男は、泣きながら光源寺に葬り、手厚く供養しました。その夜、真っ青な顔をした、若い女が長崎の麹屋[こうじや]町という所にある飴屋の戸を、叩きました。そして、飴を売って欲しいとか細い声で言って、一文銭を差しだしました。それが毎晩続いた7晩めの夜は、おかねを持っていません。飴屋は、毎日やってくる女をあわれに思い、気持ちよく分けてあげました。そして、そっと後を付けてゆくと、大きな寺が八つも並んでいる寺町筋を抜けて八つめの光源寺の前までやってくると、本堂横の暗がりに消えました。そこで翌日、お寺に出かけて和尚さんと一緒に墓にやって来たところ、新しく土盛のしている墓の中から、元気な赤ん坊の泣き声が聞こえました。すると、その墓のなかで、男の子が母親の遺骸の側で飴をしゃぶりながら泣いています。女は棺に入れて貰った、冥土への6文銭を一文ずつ使って、毎日のように赤ん坊に飴を買って与えていたのです。女を捨てた男は、自分は何というむごい仕打ちをしたことかと思い、亡き恋人の絵姿を一心に彫りました。その像が光源寺の寺宝となっている「幽霊さま」の女人像です。また、女が飴屋にお礼と掘る場所を教えたのが、「幽霊井戸」という井戸です。こんな場所を歩くのが、今長崎で行われている「さるく博」です。きのう、その寺町を「さるく」しました。「さるく博」のことは別の日に報告しますが、この話を聞いて、我が家に水飴があるのを思い出しました。それは、掛川に行ったときに買ってきたものです。こちらには、こんないわれがあります。
「その昔、お石という身重の女が小夜の中山に住んでいました。ある日お石がふもとの菊川の里で仕事をして帰る途中、中山の丸石の松の根元で陣痛に見舞われ苦しんでいたのを、通りがかった轟業右衛門という男がしばらく介抱していましたが、お石が金を持っていることを知ると斬り殺して金を奪い逃げ去ってしまいました。その時、お石の傷口から子どもが生まれましたが、お石の魂魄がそばにあった丸石にのりうつり、夜毎に泣きました。里人はおそれ、誰と言うことはなく、その石を『夜泣き石』と言いました。傷口から生まれた子どもは音八と名付けられ、久延寺の和尚に飴で育てられ立派な若者となり大和の国の刃研師の弟子となりました。久延寺の隣にある扇屋は、江戸時代から、夜泣き石にちなんだ『子育て飴』が売られています。ある日、音八は客の持ってきた刀を見て「いい刀だが、刃こぼれしているのが実に残念だ」というと、客は「去る十数年前、小夜の中山の丸石の附近で妊婦を切り捨てた時に石にあたったのだ」と言ったため、音八はこの客が母の仇と知り、名乗りをあげて恨みをはらしたということです。」曲亭馬琴の『石言遺響』にあります。

夜泣き石と飴屋
母というものは、自分が死んでも子どもを育てようとするものですね。子どもを殺して、自分が生きようとする事件が起きると、悲しくなります。
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2006年07月17日 [旅先にて]
初めて物語
昨日、プライベートで長崎県の「平戸」を歩きました。友人が平戸にいるので、案内してもらいましたが、平戸に行くと言った時、「平戸には何もないのに」と言っていました。もちろんこれは謙遜ですが、もうひとつこういうことが言えます。
「いつも果てのない蒼い大海原の景色を眺めている者はその大きさを知らず。いつも原野の限りないところに住んでいる者はその広さをしらず。それは長い間の事で慣れてしまっているからでる。これは唯、海野のみのことであろうか。」これは、山鹿素行の「中朝事実」の自序(序文)の現代訳の一部です。素行の教えは武士社会に大きな影響をあたえました。忠臣蔵の大石内蔵助ら赤穂藩士へも影響を与えています。また、幕末の吉田松陰も幼い頃より山鹿流兵学を学び、21歳の時、西国遊学で54日間平戸へ滞在し山鹿高紹に入門しています。この書籍は、なんとなく「国家の品格」に似たところがあり、もう一度日本のよさを見直そうというものですが、そうであっても、そこにいると、そこのよさがなかなか解らなくなるということでは、頷くことができます。素行は平戸藩主29代松浦鎮信と同年生まれで、江戸で生涯極めて親交深かったようです。弟、山鹿義行そして後に孫、高道が平戸藩家老に仕官しています。平戸藩は山鹿流兵学を藩学とし平戸城縄張りもそれによるものでした。
ここ平戸は昔より中国大陸や朝鮮との交流の要地でした。遣隋使や遣唐使もここから出発しています。倭寇といって恐れられていた水軍で名高い松浦党は、平安時代末期に誕生し、鎌倉時代以後には平戸を根拠地として私貿易や海賊行為などを行いました。天文19年(1550)には黄金の国ジパングをめざしていたポルトガル船が平戸に入港し、ポルトガルとの貿易が始まり、外国との貿易で栄えた平戸は「西の京」と呼ばれるようになりました。この当時にフランシスコ・ザビエルも鹿児島から平戸にきてキリスト教を布教しています。今、平戸には日本初の南蛮貿易の舞台となった当時の面影を残す遺跡が市内に多く残っています。
そんな平戸ですから、「日本で初めて」というものがたくさんあります。平戸城に登る途中には、こんな碑があります。
タバコの伝来
「日本最初 たばこ種子渡来の地」それは、日本に初めてタバコの種をもたらしたのは、1601年平戸に入稿したスペイン人宣教師といわれています。甘藷(さつまいも)は、1615年、ウィリアム・アダムズが貿易のため東南アジアに渡航した時、船の故障で寄港した琉球で甘藷を見つけ、当時の平戸イギリス商館長に贈ったと言われています。そして、彼は現在の千里ヶ浜で日本で初めて甘藷の栽培を行っています。1613年、英国船「グローブ号」が平戸に来航しましたが、長旅の疲れを癒すために積まれていたビールが、その時、船員たちとともに上陸したのが、日本へのビール初伝来と言われています。珍しいところでは、ペンキは、1609年、オランダ商館が平戸に建てられた時、その外観を彩ったのが、日本で最初に使われたペンキでした。当時は、建物に彩色を施す事自体が日本人の目には珍しかったでしょう。また、西洋医学は、長い航海を続ける船員たちの健康管理術として日本にもたらされました。その医学を学んだ嵐山甫庵は、平戸判田家の出身で、西洋医学(蘭学)の先駆者として知られています。また、臨済宗の祖・栄西は、渡宋の帰途、平戸に数カ月滞在し、「冨春庵(ふしゅんあん)」と呼ばれるお堂を拠点に禅宗を広めました。また、中国で入手したお茶の種子を冨春庵の裏山にまき、製茶や喫茶の方法を日本の人々に伝えています。
冨春庵
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2006年07月16日 [講演先にて]
坂出
塩はすべて海水からつくられています。というと、いや、岩塩からとる方法もあると思う人があるかもしれません。今年2月に訪れたザルツブルグは、岩塩が取れることで、豊かになった地で、ザルツは、ソルトという塩から来ている地名です。確かに塩を作る方法は、海水をくんで塩をつくる方法のほかに、塩湖(えんこ)や岩塩(がんえん)などから塩をつくる方法もあります。しかし、塩湖は、大昔に海水が陸地に閉じ込められてできた湖で、その湖の水分が蒸発して塩分が残り、地中にたまってできた塩の層が岩塩です。ですからもとはすべて海水ということになります。海水はとってもしょっぱいのですが、実は塩分はたった3%ちょっとで、96%以上は水分です。世界にはほとんど雨の降らない地域があります。そこでは、海の近くにつくった広い池(なかには東京都23区と同じくらいの面積のものもあります)に海水をためて太陽と風の力で2年くらいかけて塩の結晶を取り出します。日本は岩塩などの塩資源に恵まれていませんので海水から塩をつくってきました。日本は、四方を海に囲まれているので、どこでも簡単にできるだろうと思いますが、実はとても大変なことなのです。なぜなら、海水の塩分濃度はたった3%であり、日本は多雨多湿なので、海水は天日では結晶しないので、煮つめるしかありません。ですから、広い土地を持ち、海水を陸に引き込んで1,2年放っておけば塩の結晶が採れる諸外国とは異なり、日本ではたった30gの塩をつくるのにも、1リットル近い水分を蒸発させなくてはならず、コストがかかってしまいます。そのため、海水をそのまま煮つめるのではなく、濃縮してから煮つめるという効率のよい方法で塩づくりが行なわれてきました。塩づくりには人間の知恵と工夫と努力の跡が見えます。それはまさに人間の歴史と文化の結晶です。
昨日の講演の場所であった瀬戸大橋の壮大な姿を望む坂出市は、その昔は、見渡す限りの塩田が広がっていました。塩田を開墾したのが久米栄左衛門通賢という人で、技術的に優れたこの塩田は「久米式塩田」と呼ばれ、その後の塩田開発のモデルとなっています。通賢は調査を重ねた結果、坂出の海岸が塩づくりに適していると確信し、財政難にあえぐ高松藩を救う手だてとして、切腹覚悟の建白書という形で藩に申し出ました。藩の役人となってからは、私財や身内親戚からかき集めた資金までも投入して塩田開発に心血を注いだのです。そして、久米栄左衛門が開いた塩田をきっかけとして、香川県では全国の塩の3分の1を生産するほどになり、砂糖・綿と並んで”讃岐三白”のひとつに数えられるほどになりました。
塩は、私たちの生活には、なくてはならないものです。私たちの祖先は、昔から塩の効用に着目し、さまざまな使い方で、塩を活用してきました。現在、日本で年間に使われる塩のわずか3.5%が家庭で消費されるだけで、ほとんどの塩は工業に使われています。しかし、かつて、どれほど大切なものであったかというと、給料を意味するサラリー(salary)は、古代ローマでは、兵士の給料は塩で支給されたところから、塩(salt)に由来します。また、「敵に塩を贈る」という言葉がありますが、武田信玄と交戦中の上杉謙信が、武田方の領民が今川氏によって塩を絶たれていることを知り、越後の塩を送ったことから生まれたといわれています。各地に「塩」がついた地名も多く残っていきますが、町村合併で消えていくところもあるようで、さびしいですね。
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2006年07月15日 [講演先にて]
うどん
先日、園で給食に「冷やしうどん」が出ました。来客にも好評でしたが、いつもと違って、麺がおいしく感じました。そこで、調理に聞いてみたところ「これは、東京の讃岐うどんです。」と言われました。それでも、本場の讃岐うどんほど腰が強くはありませんし、おいしくはありませんでしたが。東京にも最近讃岐うどんの店ができてきましたが、でもどうしてそんなに本場と違うのだろうと思います。どうせなら、どの店もおいしく作ればいのにと思います。まあ、人によって、好みが違うのでいいかもしれませんが。
イメージでは、西日本ではうどんをよく食べ、そばは、東日本でよく食べるという気がしますが、どうもそうとはいえないようです。たとえば、稲庭うどんは秋田ですし、水沢うどんは、群馬です。しかし、実際は、東京周辺、関西ともにうどんの専門店はそれほど多くなく、「そば屋」と称してうどんとそばの両方がメニューにあります。しかし、関西ではうどんを注文する客のほうが多く、一方、そばの専門店は東京には数多く存在しますが、関西では比較的珍しいそうです。
私は、やはりうどんは、「讃岐うどん」に限ります。腰が強く、トッピングが自由にでき、安いところがいいですね。私がはじめて讃岐うどんを食べたのは、こんぴらさんの参道で、参詣した帰りに食べたものです。昨日は、その琴平温泉に泊まりました。そして、今日の昼は、讃岐うどんを食べました。その歴史は、今から1200年前(奈良時代)に讃岐の国屏風ヶ裏(今の香川県善通寺市)に誕生した空海(弘法大師)が、遣唐使として唐の国から郷里の讃岐に伝授されたという説が最も有力です。日本の文化や農業等は中国より伝来したものが多く、小麦粉の栽培も加工技術もまず中国から伝わった事に間違いないようです。ここでうどん作りが盛んとなった背景には、水利に恵まれない土地柄から主食の米作を補う麦作が盛んであったことに加え、瀬戸内海沿岸で生産される塩やイリコ、小豆島で生産される醤油など、うどんの材料となる主要な産物が、瀬戸内海の海運により流通しやすい状態にあったからのようです。今、温暖な瀬戸内の気候を背景に栽培された良質小麦を原料(今は、ほとんどオーストラリア産の小麦粉で作られています。しかし、何とか、讃岐の小麦で、との願いにこたえて、地元産の小麦を研究改良しています)とし、土三寒六常五杯という塩加減を意味する独自の製法が確立され、手打職人により永い歴史を受け継がれてきました。そして、今やうどんと言えば「さぬき」と言われる程「さぬきうどん」は大変有名になりました。特に、こんぴらさんの愛称で知られる金刀比羅大権現が徳川幕府の御朱印地となり以後400年の間、年と共に金刀比羅参りが盛んとなり、全国の善男善女の信仰の的となり、その旅先で食べたうどんのうまさが口伝えで全国に広まっていったのです。香川県に来ると、本当にみんなうどんをよく食べます。香川県民は一人当たり年間180食以上(全国平均では70食前後のため、3倍近くも食べていることになります)のうどんを消費すると言われています。この量は日本一です。街を歩いていると「うどんタクシー」という看板がありました。うどんツアーをするためのタクシーのようです。さすがですね。今年の8月、讃岐うどんを題材にした映画『UDON』が公開予定だそうです。監督は香川県出身の「踊る大捜査線」の本広克行です。
投稿者 fujimori : 21:42 | コメント (1)
2006年07月14日 [講演先にて]
積乱雲
今日、飛行機で高松に来る途中で、機長からのアナウンスがありました。
「右手をご覧ください。そこには、発達した積乱雲が見えると思います。したがって、航路を変更して、紀伊半島の上を通過しています。そのために、到着時刻が10分ほど遅れますことをお詫び申し上げます。」
飛行機は、空の上でも、決められた道を通っています。ですから、ほとんど、ほかの飛行機と出会うことはありません。それは、便によって決められていますが、日本各地にある電波を出している無線施設を結ぶ形で航空路が決められているのです。これは、世界的に公示している万国共通のものです。もちろん、世界共通の約束事でなければ、外国機とぶつかってしまいますよね。この経路は、空港からその航空路に乗るための経路とか、航空路から空港に降りるための経路も別に決められています。
では、飛行機は、どんなときに飛びにくく、離着陸しにくいのでしょうか。離着陸のときに一番気にするのは風のようです。風が「息」をしているとよく言われるように、強くなったり弱くなったりする状況を繰り返す乱気流がある中でのアプローチは難しいそうです。アプローチに際して揺れを感じるのは主にこれが原因です。よく、「○○便は目的地の天候不良のため、到着できない場合もあります。」というアナウンスがあることがありますが、この天候不良とは、着陸できる条件を満たしていない場合ですが、例えば横風が規定値以上に強いか、着陸時に後ろからの風に煽られると、滑走路をはみ出してしまう危険性もあります。また、風だけでなく、霧や雲で滑走路が見えない場合も着陸できません。
飛んでいるときに危険なのは、雲です。そのなかで、操縦士の間では、「美しい女性と美しい雲には気をつけろ!」と言われているように、地上から見るときれいな夏の入道雲、積乱雲が一番危険なのです。それは、積乱雲の中は想像を絶するほどの激しい乱気流があるからです。かつて、キムタクが主演のテレビドラマで、見習い機長のときに、目の前に大きな積乱雲が発生し、そこに突入し、何とか回避するような内容だった気がします。そのドラマのように、飛行機は、決してその中には入りません。アニメ「天空の城ラピュタ」では、飛行機が積乱雲の中に入り飛行機が壊れてしまったというシーンがありました。ですから、航空路上に積乱雲がある場合には管制室に連絡して、通らないように今日のように航空路を変更してもらいます。夜は雲が見えないのでレーダーで雲の位置を確認しながら避けて通るそうです。
その入道雲ともいう積乱雲は、地上ではイメージが違います。夏の日中に、強い日差しに参っているときに、夕方、それまでの良い天気がガラリと一変し、強い雨が降ったかと思うと、すぐに止んでしまうことがあります。これが夏によく見られる積乱雲が起こす夕立です。これによって、暑さが少し和らぎ、ほっとしたり、思わず雨に降られてびしょぬれになりながら家に帰った夏の思い出があります。
積乱雲の発生原因は様々あるようですが、多くの場合は地上付近と上空の温度差がもたらす大気の不安定によって生じる(すなわち不安定を解消しようとして生じる)対流性の上昇気流によるものです。ですから、積乱雲は多くの場合、地上と上空の温度差が大きくなる夏場に見られます。ですから、あの、むくむくと膨れ上がっていく入道のような雲は、夏の風物詩のような気がするのですね。
投稿者 fujimori : 23:46 | コメント (1)
2006年07月13日 [近頃思うこと]
提言
今、少子化の進行が騒がれていますが、確かに国の問題としては憂慮すべきことかもしれません。ですから、何とか子どもを多く産んで欲しいといろいろと考えること、どうして産もうとしないのかを考えること、産みやすい、育てやすい、生きやすい社会を作ることはとても重要なことです。しかし、今現実に子どもたち、親たちは少子社会の中で生活しています。かつての多子社会の頃の社会的システムの見直しと同様に、多子社会のころの保育、教育システムの見直しをしなければいけないと思います。これが、私が活動している、提案していることです。最近、その弊害が出始めてきているので、少子社会での子どもの育ちの支援を考えるようになって来ました。先月22日に東京都児童福祉審議会から「少子社会の進展と子どもたちの自立支援」という提言がされました。その趣旨をこのように書いてあります。
「先日、厚生労働省は平成17年の合計特殊出生率が過去最低を更新したことを発表しました。現在、多くの人々は、将来の我が国における人口減少の面に関心が向き、そのことに対する施策の議論が盛んに行われています。今、大切なことは、少子社会にあっても、子どもたちが自立した存在として希望をもって生きていけるよう我々大人が自覚をもって育てていくことであり、都民一人ひとりが自立について考えることです。東京都児童福祉審議会では、現代社会における子どもたちの自立とは何か、自立をはぐくむためにどのような環境を整えることが望ましいかを幅広く議論し、提言しました。」
この提言を具体化していく中で、少しだけですが、とても重要なことを言っています。それは、子ども・若者の自立の礎(いしずえ)となる五つの要素を明確化する意味として、「自立とは、成長していくプロセスも含むものであり、そのプロセスを支える基礎となる」とあります。私は、ここのところが最も重要だと思っています。自立は、生長してプロセスなのです。自立だけでなく、最近、教育の中で論議されている「愛国心」とか「道徳心」とかも成長プロセスなのです。何歳になったらできるとか、何歳から教えるとか言うものではありません。ですから、難しいのです。覚えこませてできるなら簡単なのですし、教えるならいつ教えればよいかということを決めて、一斉にできます。しかし、成長となると、生まれた瞬間から重要ですし、ここによってその過程は違ってきます。ですから、この「自立」は、乳幼児教育が重要になるのです。しかし、この提言には、そこが抜けている気がします。自立を困難にする背景として、家庭における子育ての問題が挙げられています。そのなかで、核家族化の中で祖父母からの知恵の伝達がなくなったこと、親の養育力の低下により過干渉や放任が多くなったこと、父親の育児参加不足などがあげられていますが、これらは、少子社会の問題ではないと思います。もちろん、関係はしていると思うのですが。考えなければいけないのは、子どもの数が、家庭の中、地域の中で少ないということです。そこには、大きくふたつの意味があります。ひとつは、子ども集団がなくなってきて、そこから学ぶ機会が少なくなってきたこと。もうひとつは、親子の距離が近くなりすぎてきたことです。ドイツのミュンヘンでは、今、3歳まで取れる育児休暇を18ヶ月にする検討が行われています。私は、これは最初、後退かと思ったのですが、少子社会では、3歳まで、家庭に置くと、母親とだけになってしまうので、集団の意識ができてくる18ヶ月くらいから子ども集団に出すべきだと思っているからだと思います。この提言は、もっと、成長プロセスを考えて欲しいと思いました。
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2006年07月12日 [行事]
星の話
先日、園での「お泊り会」が行われましたが、最近、子どもたちが寝る前に私が星の話をすることが恒例になっています。今年も、話をするように頼まれました。寝床に入ってから、壁や天井に映された星空を眺めながら、話を聞きます。何人かは、もうすでに、眠りについています。ですから、私に話を頼むのは、星の話の内容ではなく、眠くなるような声だからかもしれません。ともかく、星の話をするのですが、夏の星はとても分かりやすいし、なじみのある星が多いので話しやすいです。そこで、よく話すのは、七夕にまつわる「織姫星」と「ひこ星」の話とか、夏の第三角形(アルタイル、ベガ、デネブ)の明るい三つの星の話とか、その星が含まれる星座の話とかいろいろあります。そのなかで、特に私は、「ベガ」が含まれている「琴座」の話が得意です。アニメの映画にもなっている「オルフェウス」の物語です。とても劇的で、ハラハラして、そして、最後がとても悲しい結末という固唾を呑んで聞き入ってしまう話です。しかし、今年の話は、少し趣を変えました。というのは、お泊り会のなかのさまざまな企画が盛りだくさんで、時間が押してしまい、夜が遅くなったからです。途中で寝てしまってもいいような話にしたのです。その話をもう一度してみます。聞いてみてください。
「今日は、ナイトハイクのときに空を見てみたら、星が出ていましたか?あいにく今日は空が曇っていて星は出ていませんでした。しかし、本当はそんなことはありません。星は出ているのです。あの雲の上のほうに、星は出ているのです。ただ、雲が邪魔しているだけなのです。では、昼間に星は出ていますか。本当は、昼間にも星は出ています。ただ、太陽の光が明るすぎて星の光が見えないだけなのです。星は、晴れていても、曇っていても、夜でも昼間でのいつでも出ているのです。それが、最近は、晴れている夜でも見えなくなってきました。それは、人間が、空を汚してしまったからです。星の光を邪魔するものを空に撒いているからです。夜になると、いつでもたくさんの星が見えるような空になるといいですね。では、星がきれいに見えるときに星を見てみると、いっぱいある星のなかで、きらきらしている星と、していない星があることに気が付くと思います。どこが違うのでしょう。たとえば、同じように夜出ている月はきらきらしていますか?していません。それは、月は、燃えていないからです。太陽は、どうですか?きらきらしていませんが、ぎらぎらしていますね。それは燃えているからです。ですから、空にある星のなかで、きらきら光っている星は、燃えている星で、きらきらしない星は、自分では燃えていないで、燃えているほかの星の光を鏡のように映して光っているのです。私たちが見える、燃えていない星は、太陽の光を映している火星とか、土星とか、金星とかいう星です。きらきらしている星にも、いろいろな色をした星があります。ここに、真っ赤に光っている星がありますね。この星は、さそり座の中の「アンターレス」という星です。また、白く光っている星も見えますね。白鳥座のなかの「デネブ」という星は、白いですね。どうして、色が違うのでしょう。それは、星の年によって違うのです。白く光っている星は、まだ若い星です。だんだん年をとってくると赤くなってきます。人間と逆ですね。人間は、小さいうちは赤いです。だから、「赤ちゃん」といいます。今度、そんなことを思って、空を眺めてみてください。では、おやすみなさい」
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2006年07月11日 [近頃思うこと]
スイカ
園では、お泊り会が終わりました。今年は行われませんでしたが、毎年恒例なのは、「すいかわり」です。夏になると、まず思い出されるのが、「すいか」でしょう。汗びっしょりになった後、水(特に井戸水)につけて冷えたスイカにがぶりつくと、夏を感じます。最近ある園の職員に聞きましたが、スイカを食べるときに、その汁が手から腕に伝い降りてくることがあります。それが汚らしいので、家でスイカを子どもに食べさせるときには、必ず裸にして、風呂場で食べさせている家庭があると聞きました。また、園でO157がはやったときに、生でスカイかを食べさせてはいけないという通達が来たことがありました。包丁が中を横切るのでいけないということです。スイカを、煮て食べるのでしょうかね。いまだに、キャベツやイチゴやレタスを生で食べさせないところがあると聞きます。なんだか、変な時代になったものです。
すいかの原産地は南アフリカのカラハリ砂漠とする説が、もっとも有力です。4000年前にはすでにエジプトで栽培され、種を食用に。中近東や中央アジアなどの砂漠地帯では水がわりの飲料として珍重されました。日本に渡来したのは天正年間(1630年ころ)で、明治に入り、欧米から多数の品種が導入されました。そんなに古い食べ物ではなかったのですね。スイカは、英語でウォーターメロンといいます。江戸時代には「水瓜」とも書かれました。「西瓜」という字は、中国で西域から伝わったうりの意味でつけられたもので、「水分の多いうり」の意味です。95%が水分で、このうちの4~6%が糖分です。果糖はエネルギー転換が早いので、夏の暑さで疲れた体を癒すには適しています。また、水分補給をしながら、余分な塩分と水分を排出する働きもするので、夏の健康維持にはぴったりです。よく、きゅうりにも、体を冷やす働きがあるといわれています。ですから、スイカ同様に夏に取れる野菜なのです。旬のものを食べるとその効果が体にいいようにできています。最近、ビニールハウスで、冬でもスイカやきゅうりが取れ、食べることができますが、違う時期に食べると、かえって体に良くない野菜になってしまいます。よくできていますね。すいかの肉色には大別すると赤、黄、白系があります。赤色大玉のしま皮が主流ですが、最近、我が家では子どもが独立したので夫婦しかいない上に、冷蔵庫に入れるスペースの問題で小玉スイカが主流になってしまいました。美味しいスイカの見分けたは、いくつかあるようです。まず、形ですが、大玉のもの、豊円でやや腰高のもの、へたのまわりが少しへこんでいるもの、おしりの花落ちの部分が小さいもの、縞模様がくっきりし、ツヤの良いもの、触ると多少ざらざらしているものがいいそうです。叩いた時の音で判断するときは、食べ頃のすいかの音は「ボン・ボン」、未熟のすいかは「ポン・ポン」と高い音、熟れすぎのすいかの音は、「ドン・ドン」と鈍い響きです。スイカの一番甘い部分は、中央部、真中です。そのために、一番甘い中央部、真中がみんなにいきわたるように切るのが良いとされています。食べ頃の温度は15℃くらいです。ですから、すいかは川や井戸水で冷やすとちょうど食べ頃の温度となるのですね。冷蔵庫は5℃くらいなので、出してすぐは冷えすぎています。また、気温では30℃を超えるとすいかの消費量は拡大するようです。すいかの果汁には、利尿作用があり、尿と一緒に余分な塩分を排泄することから高血圧や動脈硬化、膀胱炎、腎炎の予防効果が見込まれます。漢方ではすいかの種が強壮、止血、のどの痛みなどに効果のある薬として用いられています。中国では種子を食用にするすいかも栽培しているそうです。すいかの皮はコレステロールを減少させたり、血管を拡張させたりする効果があるといわれています。また、すいか糖は、のどが痛いときや、たんがからむときなどに効果があります。私は、スイカが大好きです。
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2006年07月10日 [新聞記事より]
八王子保育研究会
今日、読売新聞から取材を受けました。そのときに、私がかつて活動していた「八王子保育研修会」の記事を見せました。その活動は、何度かこのブログで紹介したのですが、改めてこの記事を読むと、考えることがあります。
「保育にかける男たち ― ユニークな試み着々」と題された記事は、1988年の10月20日読売新聞全国版のページです。
「とかく保母さんやママたち中心の世界で、男性ばかりで構成される保育研究グループが気を吐いている。地域の保育園経営者でいずれも30代。現場の経験を生かした手作りおもちゃや保育用語辞典の作成などを引っ提げて、近く「全国保育研究会」へも黒一点、研究発表参加の予定だ。保育にかける「青年」メンバー、ただ今、11人。このグループは「八王子保育研究会」。東京の西部、ベッドタウンとして人口増加の続く八王子市には54もの私立保育園があるが、メンバーはいずれも園長や副園長という立場。多くが2代目で、なかには3代目もいる。発足は3年前。「女性、あるいは50代以上の男性の中で、横のつながりがない。いっそ同年代の男だけでも、と旗揚げしました。当初は9人でした。」リーダー格の藤森さんはいう。集まってみると、女性中心の職場で気を使うこと、母親たちが過剰な育児情報のなかで混乱していること、など共通の話題や悩みが多く、たちまち意気投合。加えて何よりも「みんな教員免許を持っていたり実際に教壇に立った経験があったりで、子育てについて、そりゃあ熱心。話はすぐ、自分たちでできることは何かっていう方向に向かいましたね。」(藤森さん)テーマは、一貫して「保育を地域全体のものに」。現在保育園が行っている保育ノウハウを公開し、一般の子育てのヒントにしてもらうと同時に、さらに突っ込んで社会にとって保育とは何かを考えてもらおう、というねらいだ。「今、栄養士がついてきちんと現場で用意している給食とか、時間延長の際も保母さんのケアを確立している状態とか、保育園はなかなか頑張ってる、と思いますよ」という自信あっての提案でもある。具体的には一昨年から3回にわたり、市民ホールの催事場を借りて「乳幼児の世界」展を開催。「子どもの目の高さから生活を見たら」と、低位置から撮影した日常生活のビデオを放映したり、保育園で子どもたちに簡単な絵を見せた際の言葉の反応を採取して紹介、言葉の発達段階を解説したり。父母を対象に子どもを含む家族の食事のとり方のアンケートなども実施してきた。―中略― 今回の目玉は、今までずっと続けてきた0歳児から2歳児のための手作りおもちゃの紹介の集大成。現場の保母さんがタオルやラーメンの空き容器、軍手などを使って作っているものを各園から集め、検討、改良して製作しなおした。そして、もう一つは日常、園の内外で使われる保育に関する言葉の解説ミニ辞典の作成だ。「お母さんすわり」「犬食い」「ゴールデン・ゲージ」「周期性嘔吐症」など、昔と違い、育児に関する情報ワードを、両親や周囲の人にも理解してもらおうというもので、これも保母さんらの協力を得て鋭意収集中。平常は月1回、行事前になると週2回集まり、前日は半徹夜というエネルギッシュな活動だが、ママばかりでなくパパも育児に参加を、と呼びかけているだけあって、「自分たちの家族や子どももおろそかにはしない」という原則も忘れない。「子どもが好き。でもまあ、僕たち自身が仲良し少年倶楽部みたいなものでしょうね。」と、若き園長さんたちはさわやかだ。」
このころに打破しようとした50歳代の園長たちの立場に私たちは今なりました。女性ばかりの社会のなかで、男性の立場をと発足したつもりが、そのころのメンバーは、今は保育団体の役員をやっていますが、ほとんど男性ばかりで占めています。あのころの熱い思いは、今どのような形で生かされているでしょうか。年を重ねるということは、どういうことなのでしょうか。あのころのメンバーの顔を思い浮かべながら、そんなことを考えてしまいます。
投稿者 fujimori : 22:22 | コメント (0)
2006年07月09日 [近頃思うこと]
これからの保育室
先週の初め、私たちが主催する「保育環境セミナー」が開催されました。そのセミナー会場にいくつかの後援保育業者が、保育教材や環境の提案をしていました。そこにあるパンフレットに、海外の保育環境が紹介されている記事がありました。
「自主性を育み、個性を伸ばす教育環境づくり(オランダ) オランダでは、13歳から本人が成績と「将来どういう道に進みたいか」によってコースを選択します。それぞれの興味や適正を生かした自分らしい人生をつかめるように、幼いころから自己と向き合い、自主性や個性を伸ばしていくことが必要です。そのために、保育、教育の現場には子どもたちがこうした力を効果的に養える環境であることが求められています。こうした教育システムを背景に、古くから幼児教育の場に取り入れられてきた手法がコーナー保育、教育です。コーナーごとにテーマが設定されたあそび環境を備え、この場所は何をするための場所かを物理的、心理的に区別し、把握させるという目的があります。オランダでは、子ども自身に「何がしたいか」自ら思考し、自分であそびを選ぶ機会を与えると同時に、受身でなく自ら選んだあそびに集中して取り組むことを求めます。そうした経験を通じ、子どもたちが判断力や自主性を自然に身につけていけるのです。また、「学校」という枠組みの中でコーナー保育、教育が行われていることも見逃せない点です。ただ興味の赴くままに選ぶのではなく、「時間割」が決まっているため、一定時間が経過すると次の活動内容へと移らねばなりません。子どもたちは、「あそぶ→片付ける→次のあそびに移る」というサイクルを通して、時間の観念やメリハリある行動の重要性を知っていきます。こういった環境づくりが、目的を貫徹する習慣、メリハリある行動といった財産を子どもたちにもたらすのです。」(ボーネルンド「世界のあそび環境」のカタログより)
「きょうだいグループ保育を可能とする環境 ドイツをはじめとするヨーロッパでは子どもたちにまず「民主主義」を教えています。これは「自分が他人から尊重されることを知り、そして自分も他人を尊重する人」に育てるということです。次に生活のための能力、とりわけ「自主性」と「集中力」を身に付けさせます。これらを実現するためには、1、子どもたち一人ひとりを尊重する保育士、教諭の対応 2、子どもたちが自ら判断して行動し、物事に集中できる環境の2点が必要です。遊び、散歩、食事、午睡などで構成される毎日の行動パターンを日課として決め、その場所も一人一人が覚えられるようにしてあげることで、子供たちは次第に自主性を持って行動できるようになります。しかし、自主性と集中力は別のものです。集中力を身に付けられる環境とは、いったいどういうものでしょうか。実は空間構成が鍵を握っています。わが国で一般的な保育室は、子どもたちの「生活」のためには明らかに広すぎ、落ち着いて物事に集中することができません。優れた集中力を養うには、興味のある対象にじっくりと取り組む場所=コーナーが必要です。タタミ1~2畳程度の空間をいくつも用意し、積み木、ごっこ、読書、構成あそび、工作、と分けてあげるべきです。そこで、家具やついたてのようなものを使って部屋を区分してあげましょう。私たちが理想とする園は、子どもたちが安定して日々を過ごすことのできる空間です。そして保育方法として異年齢混合保育(北欧では「きょうだいグループ保育」)が可能な、立体空間を作り出す施設があるということです。」(アネビー「これからの保育室」のカタログより)

アメリカの保育室
最近、外国ではこのような保育、教育に変わってきています。日本では、どうしてなかなか変わろうとしないのでしょうか。
投稿者 fujimori : 20:25 | コメント (0)
2006年07月08日 [近頃思うこと]
夏の夜
夏は、さまざまな経験をする上で、もっとも良い季節です。それは、寒くて凍える心配がないこともひとつです。ですから、昔はよく一人旅などは、夏に出かけることが多いです。駅でも、公園でも寝ることができるからです。でも、今は、夜、公園で寝るときの最大の困難の理由が、寒さでも食べ物でもなく、人間であるというのが悲しいですね。一人旅のときに、一番助かるのが人間でしたから、ずいぶんといやな世の中になったものです。また、夏は寒くないので、夜のさまざまな体験ができます。ひとつは、「暗さ」の体験です。今の時代、真っ暗闇という体験ができなくなりました。特に、都会では、夜も昼間のように明るいところが多いです。それは、家々の照明よりも、自動販売機やコンビニの照明がいやに明るいですね。安全面では明るいのはいいのでしょうが。若い頃に、中学生を連れて、よく田舎や山小屋に泊まりました。そのときに、ろうそくをもって入る洞窟があると、(もちろんきちんと整備されたところですが)みんなでそこに入って、中で一斉にろうそくを消す体験をさせました。まったくの暗闇です。自分でも、目をあけているのか、瞑っているのかわかりません。しかも、少しでも光があるといいのですが、そんなところは、いつまでたっても目が暗闇には慣れません。すると、なんだかかえってまぶしくなります。音も同様ですね。まったく音のしないあの「シーン」とした中では、かえってうるさい気がします。まったくの暗闇、まったく音のない世界の体験は、今、どこでもなかなかできなくなりました。また、夜は、夜行性の動物が動き回ります。そして、空には、星が出ています。ということで、夏に、夜を体験するさまざまなイベントが行われます。「夜の動物園、水族館」を体験するものとして、青森の「浅虫水族館」や千葉の「鴨川シーワールド」では、眠るラッコやウミガメや夜のアシカやいるかを見たりします。秋田の「男鹿水族館」や茨城の「アクアワールド大洗」や横浜の「八景島シーパラダイス」では、水族館に泊まることができます。動物園では、さまざまなところで、夕方から夜見ることができるようです。また、「夜の森を歩く」イベントも行われます。軽井沢野鳥の森では、夜の森を歩きながら、樹木のにおいや沢の音など、五感を研ぎ澄ませてのナイトハイクが行われます。長野県飯倉市のなべくら高原では、真っ暗なブナの森の中を、前の人の肩につかまりながら、最小限の光で歩くそうです。そして、青木湖キャンプ場や八ヶ岳自然文化園など長野県の各地では、星や蛍を見る会があるそうです。
今日、園では4,5歳児の「お泊り保育」を行っています。もうひとつの園から4,5歳児のお客さんを迎えて、一緒に園に泊まります。夕方、園庭で夕焼けフェスティバルが、一部の父親たちに手伝ってもらって行われます。そして夕食後、近くの公園に、懐中電灯を持ってナイトハイクに出かけます。
そして、園庭で、キャンプファイヤー、夜、寝る前は、天井に映し出された星空を見ながら星の話を聞きます。明日まで、盛りだくさんです。昼間には体験できないこと、夜ならではの体験は、夏の風物詩かもしれません。
投稿者 fujimori : 23:49 | コメント (1)
2006年07月07日 [近頃思うこと]
江戸しぐさ
今、東京で地下鉄に乗ると、駅にこんな看板が掲げられています。
『大都市「江戸」にあったとされる、互いを思いやり、共に気持ちよく生活するための知恵「江戸しぐさ」「何事にもイキである」ことを美徳とした江戸っ子は、公共マナーもルールとして守るだけではなく、都会人ならではの「洗練されたしぐさ」として誇りを持ち、自然に振舞っていました。イキな思いやり「江戸しぐさ」私たち東京っ子にもふさわしい「しぐさ」だと思います。』
この看板には、この「江戸しぐさ」のなかで3つの例が絵といっしょに紹介されています。そのひとつは、今の梅雨のころには、その心遣いが必要だと痛感することがあります。それは、「傘かしげ」です。傘をさして歩いていて、人とすれ違うときに、雨のしずくがかからないように、傘をかしげあって気配りして通り過ぎることをいいます。それを、さっと何気なくやることに「イキ」を感じますね。人が密集して住んでいた江戸では、自然とそんな他人への思いやりがあったのでしょう。同じようにすれ違うときの思いやりに「肩引き」というのがあります。これは、狭い道ですれ違うとき、肩を引き合って胸と胸を合わせる格好で通り過ぎるしぐさのことをいいます。私の園で、給食のときに3,4,5歳児がいっしょに食べています。そのときの1台のテーブルには、6人が座ります。一人ひとりトレーに乗せて席まで運ぶのですが、6人分を机に乗せるのにはお互いに寄せ合わないとはみ出てしまうものが出てしまいます。子どもたちは、さりげなく、自分のトレーを寄せながら他人が乗せる分の空きを作ります。江戸時代、乗合い船で腰の両側にこぶしをついて軽く腰を浮かせ、少しずつ幅を詰めながら1人分の空間を作るしぐさのことを「こぶし腰浮かせ」といいます。看板に紹介されている「蟹歩き」も、狭い路地で人とすれ違うときに互いに通りやすくするためにからだを横にすることです。少子社会では、子どもたちは、そんな体験をすることは少なくなったでしょうね。
もうひとつ紹介されているのは、「うかつあやまり」というものです。これは、人ごみで人に足を踏まれたとき、踏んだ方はもちろん、踏まれた方も、「こちらこそ、うっかりしていました」とさっと謝ることです。ぼんやりしていて踏まれた側にも責任があるという、思いやりの心 です。今は、両方とも謝らないかもしれません。さりげない言葉は、言ったから損するものでもないので、それだけで和むのであればそんな言葉を交わせばいいのにと思います。このほかにもいろいろあるようです。きのうの「がばいばあちゃん」の語録ではありませんが、この「江戸しぐさ」 には、大事なものをみんなの共有物と考え、相手を尊重し思いやる心の江戸の賢者の知恵が詰まっています。それは、今の時代でも役に立ちます。江戸しぐさには21世紀を快適に生きるためのヒントが詰まっています。また、わが身を振り返ることもあります。たとえば、「忙しい、忙しいと言うな」は、忙しいとは心を亡くすことです。決して自慢できることではないのです。 「自分と違う意見をないがしろにするな」は、意見が違うからこそじぶんにとって参考になるのです。「はい、はいと二度返事をするな」は、一度目は了解したということですが、二度目の「はい」は迷惑だという気持ちが現れています。「三脱の教え」とは、初対面の人に年齢、職業、地位を聞くなということです。聞くということは、それによって付き合い方を変えるということです。
投稿者 fujimori : 22:57 | コメント (0)
2006年07月06日 [読書]
悩み相談
人から悩みの相談を受けたときに、どのように答えるか悩むことがあります。また、新聞等に悩みの相談コーナーがあり、その答え方によって、その人の考え方というよりも、人柄を感じることがあります。また、相談の答えによってもちろん慰められたり、解決したり、次の目標が見えてきたりすることが多いのですが、時によって、かえって落ち込んでしまったり、悩みが多くなったりすることもあります。難しいですね。また、本人は少しも悩みを解決してあげようとか、悩みに答えようとしていないのに、解決してしまうことがあります。その人の言動からだけでもヒントを得ることがあるのです。また、悩みを、時が解決してくれることもあります。夜悩んでいたものが、朝になると、何でそんなことに悩んでいたのかと思うことがあります。また、年を取ると、若いうちになんでそんなことに悩んでいたと思うことがあります。子育てには、そういう要素があります。子育て中悩んだことが、子どもが大きくなると、その悩みがたいしたことでなくなることも多いのです。人は、そうやっていろいろと悩み、解決していき、また悩むというように繰り返していくものかもしれません。
今、学校、教育現場で好評な「佐賀の がばいばあちゃん」(島田洋七著)シリーズがあります。この本は、昭和30年代、佐賀で、8歳の少年とがばい(すごい)祖母が繰り広げた笑い溢れる町貧乏生活が描かれています。その中に描かれているエピソードは、祖母の愛情とたくましさが感じられ、家族のつながりや、生きるうえで大切なことを考えさせられます。新聞の広告には、「真に人を思いやる心」を育むと書かれています。しかし、この本のもうひとつの楽しみ方は、この祖母の言葉が悩みに対してのカウンセリングになっていることでしょう。その祖母の言葉を聴くと、悩みがたいしたことないように感じられます。ということで、本の最後に特別付録として「おさのばあちゃんの楽しく生きる方法語録」が載っています。たとえば、こんな語録です。
・嫌われているということは、目立っているということや。
なんとも、ポジティブな考え方でしょう。物事には、両面あります。どうせ、事態が変わらないなら、それをよいように考えたほうが、楽しくなります。
・悲しい話は夜するな。つらい話も昼にすればなんということもない。
手紙やメールもそうですね。どうも、夜になると気分が高揚します。夜行性だった頃の本性が現れるのでしょうか。夜書いた手紙を、もう一度、朝読んでから投函したほうがいいようです。
・通知表は、0じゃなければええ。1とか2を足していけば5になる!
どうしても親は通知表が気になるものです。教師をしていたときに、つくづく通知表っていい加減なものだなあと書きながら思っていました。ですから、コメントを一人ひとりにノート1枚ずつ書いて渡しました。点数なんて、その子を表わしているわけではありません。
・生きていることが面白い。なりふりかまうより、工夫してみろ。
何で、なりふりばかり気にするのでしょう。最後は、自分の人生ですから。最後に自分で、「死んでもいいか」と思えるような人生を送りたいものです。
投稿者 fujimori : 17:02 | コメント (0)
2006年07月05日 [読書]
父親と母親
少し前にベストセラーになった書籍に「ルネッサンス(再生への挑戦)」(著者:カルロス・ゴーン ダイヤモンド社発行)があります。ゴーン氏は、日産自動車を立て直すために、社長として招かれた人です。とても重い任務を背負い、社員の整理を含め、会社を立て直すことに成功している人であるので、世間では、彼はバリバリの企業マンであるという印象をもっています。しかし、この本を読んで、意外なことがわかります。
「子どもとの時間:日産リバイブルプランの作成に着手した当初、解決策を見つけなければならない問題が山積し、一日中会議や議論に追われる日々が続いた。しかし、どんなに多忙を極めていても、家族と過ごす時間だけは必ず確保するように努めた。…中略…父親にとって子どもたちと一緒に過ごし、彼らに愛情と関心を注ぐことは大切なことだ。
判断力を養う:子どもたちに、安定した、落ち着いた家庭環境を与えるために、リタと私は育児に多くの時間を割いてきた。子育てには子どもたちの判断力を養う基礎を作るという仕事も含まれている。…中略…旅立つときに、子どもたちが優れた判断力を発揮できるかどうかは、ある意味で育て方の問題である。」
彼には、四人の子どもがいます。彼はいったん帰宅すれば、決して仕事を家に持ち込まないそうです。「リタも子どもたちも、私が玄関を開けたとたんに家族の時間が始まることが分かっている。」とも言っています。仕事ができる人は、家庭もきちんとできるのですね。そろそろ、生き方を考え直す時代かもしれません。
やはり、少し前に世界でベストセラーになっていた書籍があります。「男の子ってどうしてこうなの?」(スティーブ・ビダルフ著)という本です。最近、世界的に、少年が起こす犯罪が多くなってきています。特に男の子の起こすトラブルに対して、対応に苦慮している母親が多くいます。そうした状況の中で、「6歳以下の子どもにとっては、性別は大きな問題にならないし、問題にすべきでもない。この時期、一般的には母親が主要な役割を演じるが、父親が母親代わりをすることもできる。重要なのは、一人ないし二人の鍵になる人物が、子どもを愛し、最初の数年間、子どもを中心に据えるということである。そのようにすれば、子どもは自分の中に安心感をつちかい、子どもの脳は親密なコミュニケーションの技術を獲得し、学ぶことの楽しさを覚えるようになる。これらの年月はすぐに過ぎ去ってしまう。小さな子どもとの生活を楽しめるうちに楽しんでおこう!」
このなかで、乳幼児が最も必要にしているのは、母親と特別な絆を結ぶことであるとしていながら、父親も、授乳を除けば、赤ん坊のすべての欲求に答えることができるとしています。しかし、父親と母親のやり方は異なっているそうです。「さまざまな研究があきらかにしているところによれば、父親は子どもたちと遊ぶときに、母親より活発である。父親が子どもたちを興奮させるのを好むのに対して、母親は、子どもを落ち着かせようとする傾向がある。」
どちらにどんな役目があるかを別としても、父親、母親が必要なようです。6歳以下の子どもたちは、まず、両親とのふれあいの中で、人とかかわる力や、人の気持ちを察する気持ちや、コミュニケーション力の基本が付いてきます。その安心感の元で、他人へと世界が広がっていくのでしょうね。
投稿者 fujimori : 21:51 | コメント (1)
2006年07月04日 [旅先にて]
ハナショウブ
先日、掛川に行ったときに、掛川城のほかに行くところを探しているときに、とてもきれいなポスターが目に付きました。それは、「加茂花菖蒲園」というところでした。

そういえば、梅雨の今のころ、アジサイとショウブがきれいだろうなと思いました。しかし、考えてみると、少しおかしいことに気が付きました。というのは、「ショウブ」といえば、「菖蒲湯」です。5月5日の子どもの日を「端午の節句」といいますが、「菖蒲(ショウブ)の節句」とも呼ばれています。それは、この時期に花を咲かせる菖蒲の長い葉は、強い香気があるので、この香りの強さが不浄を払い、邪気を遠ざけてくれるといわれているので、また「菖蒲(ショウブ)」は、「勝負」や「尚武」に通じることから、江戸時代から男の子の出生を祝って、端午の節句に菖蒲湯に入ることが習慣になったといわれています。ということで、「ショウブ」が今頃咲くというのは、変です。実は、「加茂花菖蒲園」という場所のきるところが違っているのです。この場所は、「加茂花 菖蒲園」ではなく、「加茂 花菖蒲園」なのです。ということは、今の時期に咲いているのは、「ハナショウブ」であって、「ショウブ」とはまったく違う品種です。霊験ありとされる節句のときのショウブは、サトイモ科です。ハナショウブは、アヤメ科です。私たち日本人は、二千年を超える昔から、桜を見て野に下り、耕して籾を播き、ハナショウブの開花で田植えの時期を知って農作に励むといった、鋭い季節感を養ってきました。

そういえば、同じアヤメ科といえば、アヤメ、ハナショウブ、カキツバタが有名で、6月の梅雨時の花としてはなくてはならないもので、古く万葉の頃から親しまれてきました。しかし、「いずれがあやめかきつばた」と言われるように、見分けは難しいですね。見分け方は、一番簡単なのは花を見ます。花弁の基部を見ると、アヤメは網目になっています。山野に生えたり、水とは関係ないところ(畑など)にも植えられます。和名は文目といいます。アヤメという名前は、外花被の基部に稜になった目があること,または葉が並列し綾をなすからともいわれています。カキツバタの花は白に黄班が入り、水湿地に群生します。和名は「書き付け花」から「カキツバタ」になったといわれています。ハナショウブは初夏に、水辺など湿った場所に群生します。単にショウブという場合は,たいていハナショウブ(花菖蒲)のことです。花は大きく,色は紫(青紫,赤紫)や白が多いようです。日本各地の「アヤメ園」とか「菖蒲園」というのは殆ど「ハナショウブ園」だと考えられます。
ここ「加茂花菖蒲園」は、江戸時代中期に建てられた庄屋屋敷「加茂荘」の門前に広がる園です。原野谷川流域の山すそに、残る庄屋の長屋門や土蔵と、花ショウブの映りは絶妙です。紫、藍、白、黄、紅などカラフルな色彩に加え、絞り、ぼかし、筋入りなど多彩でした。園の規模はおよそ1ヘクタールあり、1500品種、100万株が保存栽培されています。ここは、とても手入れも良く、花がきれいに咲き誇っているだけでなく、この大きな花菖蒲園の背景には、歴史ある庄屋屋敷が立っており、その後ろにはどっしりとした杉の森が控え、昔懐かしい山里の雰囲気が、純日本的な別天地を演出しています。少し雨が降っていましたが、それがまた、日本的な情緒をかもし出しています。つくづく、日本って、美しいなあと思う瞬間でした。
投稿者 fujimori : 23:44 | コメント (0)
2006年07月03日 [近頃思うこと]
サッカー
いよいよ、サッカーワールドカップが大詰めですね。日本は早々と負けてしまったので、少し熱は冷めてしまっていますが、次期監督が誰かということで話題になっています。野球もそうですが、どんなタイプの監督がいいのでしょうか。よく言われるのは、良い選手が、必ずしも良い監督になるとは限らないということです。
今勝ち進んでいるのは、開催国のドイツをはじめ、すべてヨーロッパ勢です。あのベッカムがいるイングランドは、残念ながら負けてしまいました。いつも思うのですが、出場しているチームは、ドイツとか、フランスとか、ブラジルとか国名なのに、イギリスでなく、イングランドというのですね。このイングランドが、サッカーの発祥の地なのです。19世紀のイングランドでは、パブリックスクール毎が独自のルールでゲームを行い、他校との試合の際は、その都度話し合ってルールを決めていました。サッカーの元祖となったゲームはイングランドで数キロ離れたゴールを目標に大きなボールを何百人もの人が互いに奪い合いながら運んでいくもので、街中大騒ぎのお祭りだったのです。1863年、11のチームが集まり、フットボール協会(FAフットボールアソシエーション)が設立され、ルールが統一されました。今日でもイングランドでは、サッカーをfootballといっています。(アメリカでは フットボールと言えば、アメリカンフットボール(アメフト)を指します。また、ラクビーRugbyはフットボールの試合中一人の選手が熱中のあまりボールを抱えて走ったことからで、語源はそのパブリックスクールの校名からつけられています。)サッカーの正式名は、アソシエーションフットボール(association football)といわれ、イギリスだけでなく、多くの国では、フットボールの名で呼ばれています。FIFA(国際サッカー連盟)にもサッカーという文字はありません。(フランス語のFederation Internatinale de Football Associationの略)。Associationは、as=ad=~の方へ+soci=仲間+ation=動名詞語尾語ということで、「連合するもの」の短縮形からの造語です。そして、サッカー(Soccer)の語源は、アソシエーション association の省略形 soc に c を重ね er をつけ、サッカー soccer としたのです。ですから、日本ではア式蹴球または単に蹴球と呼ばれていますが、それは、日本の伝統的遊戯である蹴鞠(けまり)の一種であるとみなしたからです。しかし、本当は、ボールを蹴る競技ではなく、人がつながる仲間「soc(仲間)」ということです。どうも、日本が負けたのは、この仲間という意味よりも、ボールを蹴る競技だと思っていることにあるかもしれませんね。
日本語もそうですが、言葉の語源を見ると、なんとなくその本質が少し見えることがありますね。サッカー用語には、ほかにもいくつかあります。たとえば、フーリガン(hooligan)とは、酒を飲んだりして暴れ回ったりする危険なマナーの悪いサッカーファンのことを指しますが、語源は19世紀末にロンドンに住んでいた無法者のアイルランド人族の姓「Houlihan」が変形したという説が有力です。または、ギャング団のひとつであった「Hooley’s Gang」が語源だともいわれています。また、ハットトリック(hat trick)というのは、試合で同じ選手が3得点することを言いますが、語源はイギリス発祥のスポーツ「クリケット」用語で連続三つのアウトをとってチェンジしたら貴族しか購入できない高価な帽子(ハット)をプレゼントしたということだそうです。他のもいろいろなサッカー用語を調べると面白いかもしれませんね。
投稿者 fujimori : 17:46 | コメント (1)
2006年07月02日 [講演先にて]
一筆啓上
以前のブログ(2005年12月28日、2006年2月23日)で書きましたが、私が30代のころ8年間会長を務めた「八王子保育研究会」という有志の集まりで、毎年「乳幼児の世界展」を駅ビルで開催していました。テーマは、その年に、はやったり、話題になったものに関連付けて決めました。1995年に行った第11回のときのテーマは、「もの言えぬものから 一筆啓上」というものでした。(昨日のブログで書いた丸岡市で行われている「一筆啓上」にちなんだものです。)日ごろ私たちが接している乳幼児は、自分ではいろいろなことを言えません。主張できません。そこで、私たち保育者が、子どもの立場になって、子どもたちの代わりに、親に、世の中に物申そうということで、「子どもから一筆啓上」ということで、市民と保育者から募集しました。また、逆に保護者からと保育者が保護者の立場になって、乳幼児に対しての思いも「子どもへ一筆啓上」ということで、募集しました。そのとき賞をとった作品を紹介します。
胎児・新生児へ一筆啓上:ミルクもあげた、オムツも替えた。それでも泣くのは、君の仕事か?
胎児・新生児から一筆啓上:まだ生まれていない私に、そんなに期待しないでよ。生まれる前から、疲れちゃうじゃない。
乳児へ一筆啓上:イタズラすると叱るけど、何もしないと心配しちゃうよ
乳児から一筆啓上:パパ、遊んでくれるのはうれしいけど、起こさないでね。
幼児へ一筆啓上:あなたたちの笑い声に支えられて頑張っています。不思議なパワーを、ありがとう。
幼児から一筆啓上:ボクとお兄ちゃん、比較しないでね。ボクはボク。いいところもたくさんあると思うよ、お母さん。
健康面で子どもへ一筆啓上:病院で注射をされるわが子が泣かなかった時、他の親に対して「どうだ」と自慢げになってしまう気持って単純かな?子どもは病気なのに。
健康面で子どもから一筆啓上:風邪をひくと優しくなるから、いつも、いつも風をひきたいなあ。
食事面で子どもへ一筆啓上:昨日は一口しかミルク飲まなかったのに、今日は二口飲んでくれたのね。ママは、最高にうれしいわ。
食事面で子どもから一筆啓上:ママ!テレビじゃなくて、こっち見てよ!ミルク飲ましているときくらい。
この「一筆啓上」は、日本一短い物語(日本一短い手紙)として、一筆啓上賞は全国の人々に親しまれる大規模な手紙コンテストとなりました。しかし、あっという間に手紙は書かなくなりましたね。今ですと、パソコンメールとか、携帯メールでしょうが、このなかでは、文体だけでなく、書く内容も違ってくるでしょう。一筆啓上のような内容は書かない気がします。そのかわり、もっと日本一短い文はありそうです。「超~^_^;」とか「ん?(ーー;)」「「な…なぬ~…(^_^;)」新しい表現方法かもしれませんね。どちらがいいとか、けしからんとか言うつもりはありませんが、どちらの表現もできるようになりたいですね。
投稿者 fujimori : 15:25 | コメント (0)
丸岡城とお静慰霊碑

投稿者 fujimori : 15:13 | コメント (0)
2006年07月01日 [講演先にて]
丸岡
今日来ている福井県丸岡町が主催して、郵政省後援で、平成5年から始まったものがあります。第1回のテーマは、「母への手紙」というものでした。このときの入賞作品を納めた単行本は、多くの人たちの共感を呼び、ベストセラ-となり、これまでに文庫本を含め140万部以上が読まれています。(入賞作品は毎年作品集として出版されています。今日の宿の部屋にも置いてあります。)更にビデオやグッズも売り出され、丸岡町の名は一気に全国に知れ渡りました。それは、「一筆啓上」というイベントで、この地が発信地として全国の自治体主催の公募イベントの先駆として全国で同じような公募が行われるきっかけとなりました。
日本のなかで最も古い丸岡城の天守閣の石垣には、日本一短い手紙として有名な「一筆啓上 火の用心 お仙泣かすな 馬肥やせ」の書簡碑が建てられています。これは400年程前に徳川家康の功臣であった「本多作左衛門重次」が陣中から妻に送った手紙文であり、簡潔で分かりやすい名文として知られています。それは、この短い文のなかに、家族への「愛」が込められているからです。これからヒントを得て、同町が日本で一番短い手紙文の再現、手紙文化の復権を目指そうということから「一筆啓上」が始まりました。文中の“お仙”とは重次の息子仙千代で、後の丸岡城6代目城主となった本多成重のことです。信長から、恩賞として柴田勝家が越前の守護職を賜り、北ノ庄(今の福井市)に築城を命じました。そこで、勝家の甥の伊賀守勝豊を豊原に派遣して、この地に宮城(みやしろ)を構えさせましたが、交通の利便性などから、豊原より丸岡に移り築城したのが、現在の丸岡城です。丸岡城は、その昔、戦があるたびに大蛇が現れ、一面に霞を吹いて城を隠し、敵の攻撃を免れたという伝説により、この城を一名「霞ヶ城」とも言われています。この地は『継体(けいたい)天皇』発祥の地で、城のあるこの丘は、天皇の第二皇子椀子(まるこ)王を葬った所と言い伝えられています。古くは、「麿留古平加(まるこのおか)」と呼ばれていたものが、「丸子の岡」となり、やがて「丸岡」という地名になったといわれています。この椀子皇子が大蛇に化身し、霞を吐いて、この地を守護してくれるのだというのです。実際に、この地方は九頭竜(くずりゅう)川の支流竹田川が流れているために多雨多湿で、気象的に霞がよく立ち込める土地柄のようです。今日の宿のあたりにも霧が立ち込めていました。
城とか、街道には、さまざまな伝説がありますね。その伝説には、母親の子への愛情に関係するものが多くあります。ここにもそんな伝説があります。
「一度ならず二度、三度と崩れ落ちる石垣に、ついに人柱を立てることになりました。そこで選ばれたのが、美しい生娘でなく、お静という夫に先立たれた、片目を失明した二人の子持ちの後家でした。お静は、二人の息子を侍に取り立てることを条件に、石垣の底奥深く埋められたのです。お陰で石垣積みは見事に完成し、その上に天守も立ったのですが、お静の約束は、果たされませんでした。お静の怨みは、やがて亡霊となり、その姿は片眼の蛇となって城の井戸深く棲みつくようになり、そして時折現れては、恨みごとを述べたといいます。今もその井戸は、本丸跡に『蛇の井』と呼ばれて残っています。また、お静が人柱に立たされた四月中旬になると、きまって長雨が降り続き、これがまた、誰いうことなく「お静の涙雨」と呼ばれるようになりました。今日も、時折この涙雨が降った1日でした。