通知表

 学校では、今、夏休みです。子どもたちは、どんなすごし方をしているのでしょうか。子どものころから夏休みは待ち遠しい、わくわくするものでした。しかし、夏休みが楽しいか辛いものになるかは、その前に学校から渡される「通知表」によります。(まあ、悪くても1週間くらい我慢すればそんなことは忘れてしまいますが)以前のブログに書きましたが、私が教員のときに書く立場を経験しましたが、そんなに厳密なものではないし、本当にその子の評価をしているかといえば、かなりいい加減な、印象的な部分がありました。(他の教員がどうかは、よく分かりませんが)
 私が子どものころは、5段階評価でした。親にも分かりやすく、就職や進学先からも序列がはっきりとわかるようにして欲しいなどの要望があったために、昭和30年に、小・中・高等学校とも5、4、3、2、1に統一したものです。これは正規分布を描くように7%・24%・38%・24%・7%の割合で5・4・3・2・1に成績をふり分けます。このふり分けで、私は通信簿をもらったのです。その後、46年、5段階評定を行うに当たって 「この場合、あらかじめ段階ごとに一定の比率を定めて、児童をそれに機械的に割り振ることのないように留意すること」というように改正されました。つまり「1」をつけなくてもよいことになったのです。このころ、私は通知表をつけていたのです。しかし、もともと通知表といわれるものは、法の定めがあるわけではありません。文科省では「子どもの学習状況を家庭に伝える連絡簿」という位置づけであり、作っても作らなくてもいいが、昔からの慣習で続いているだけです。ですから、私はつけていた立場からすると、それほど一喜一憂するようなものでないという思いがしたものです。そして、その後、2002年度施行の学習指導要領において、総合的な学習の時間の実施や、教科における成績の評価方法が、相対評価から絶対評価に変更されました。(相対評価とは、クラスの他の生徒の成績に対して、どういう出来かを評価するのに対して、絶対評価では、本人の成績だけについての評価をします)そう思っても、気になりますね。
 やはり以前のブログで語録を書いた「佐賀のがばいばあちゃん」(島田洋七著)のなかで、テストや通知表に対してがばいばあちゃんがこう助言しています。
“試験前、俺はばあちゃんに泣き言を言った。「ばあちゃん、英語なんかさっぱり分からん」「じゃあ答案用紙に、『私は日本人です』って書いとけ」「そうか。日本にいたら、別に困らんもんね。」「そう、そう」「でもばあちゃん、俺、漢字も苦手で……」「『俺はひらがなとカタカナで生きていきます』って書いとけ」「そうか。別にひらがなでも、分かるもんなあ。」「そう、そう」「歴史も嫌いでなあ……」「歴史もできんとか?」ここまで来て、ようやくばあちゃんは呆れた顔をした。さすがに、勉強しろと言われるかと思ったのだが、そこは、ばあちゃんのこと。しばらく考え込んだ末、こう言い放ったのだった。「答案用紙に、『過去には、こだわりません』って書いとけ!」天晴れである。が、俺は本当にこれを書いて、結果は……殴られた!”もうひとつの助言。“「1と2ばっかりでごめんね」とばあちゃんに言うと、「大丈夫、大丈夫。足したら、5になる」と笑った。「通知表って足してもいいの?」と聞くと、今度は真顔で、「人生は総合力」と言い切った。でも、俺にはあまり意味が分からなかった。”

熊本の水

よく言われることですが、実に人間の体の60%は水でできています。生命の最小単位は細胞です。目に見えないほど小さい細胞の中で、水様分子が絶え間なく休まず動きまわり、生命を支えています。これは人間に限ったことではなく、生物体は一見固体のように見えますが、ほとんどが「液体」「水」なのです。他のもので見てみると、トマトの90%は水、リンゴは85%、魚は75%、クラゲなどにいたっては96%までが水です。夏に、トマトやすいかを食べると、水が滴り落ちるので、水分が多いと実感しますが、人間がそんなに水分でできているとは実感しにくいですね。血液はなんとなく水分が多く、90%は水といわれてなんとなく頷けますが、脳も80%は水といわれるとびっくりします。また、ものを見るために写している網膜も92%は水だそうで、人は水に写してものを見ていることになります。ですから、体の活動を維持するために、人は絶えず水を摂取し、排泄し、循環させる必要があります。その循環の中で、1日のうちに、人間の体内からの排泄量させる水分の量は、静かに横たわっているだけで、成人男子で、2,300ミリリットルもあります。ですから、運動したり、暑いときは、もちろんそれ以上です。ですから、当然、これに等しい分だけの水分の補給が必要となります。2,300ミリリットルを単純にどのように補うかというと、飲料水から、1,200ミリリットル、食物から800ミリリットル、代謝物で300ミリリットルです。また、水を飲むことは健康を保つ上でも非常に大切です。たった1%、水不足になっただけで、人間は猛烈な、のどの渇きを覚えます。もし1日、水を飲まないとすると体の中の約2.5%の水分が失われてしまい、脱水熱といわれる熱を出し、さらに進むと幻覚症状に陥ります。この時、体の中のナトリウム、カルシウムなどのバランスが悪くなり、ある程度を越えてしまうと、死にいたってしまいます。これが、毎年夏に多い脱水症状による死です。脱水症状は、子どもの場合で5%ほど不足すると起こり、大人では2?4%不足すると、顕著な症状があらわれはじめます。また、新生児は80%と大人に比べてかなり水分の割合が高くなっています。成長期には、盛んな生理活動が行われるため、水分が大量に必要となるためです。その多い分だけ抵抗力が低くなります。新生児の間は、抵抗力を犠牲にしてでもまず成長することを第一の目的としているからです。ですから、新生児ほど脱水症には気をつけなければならないのです。車の中に乳幼児が置いておかれて死亡する事故を聞く季節になりました。駐車場に止まっている車の中に子どもだけが乗っていたのを見たときは、他人でも通報する義務を課したほうがいいかもしれませんね。
 昨日から来ている熊本県は、厚生省の「おいしい水研究会」で、全国ベスト3に選ばれています。では、「おいしい水」とはどのような水でしょうか。感じ方は、個人によって違いますし、飲むときの条件によって違いますが、この研究会では、「含有成分」「水温」をあげています。ぬるい水も冷たすぎる水もおいしくないように、やはり適温というものがあります。一般に飲み物がおいしく飲める適温は、体温マイナス25度だと言われています。そして、熊本の水がおいしいのは、ミネラルなどがほどよく溶け込んだ地下水を水道水として使っているからで、地下水を蓄えている地層が天然の浄化フィルターの役目をし「熊本産のミネラルウォーター」となっているようです。

花火

 今日は、隅田川の花火大会がある日です。(私は、残念ながら、今日から熊本に来ています)隅田川の花火といえば、懐かしい思い出があります。何回かブログで書いていますが、私は、鳥越神社の近くに住んでいました。(近くを3回引っ越しましたが、高校卒業までその辺に住んでいました。)小学生のころ、家から、いつも隅田川の花火を見ていました。花火大会の日は、朝から音の花火が打ち上げられます。パンパンという音が鳴り始めると、「ああ、今日は花火の日だ!」と思って、そわそわ落ち着きません。母親は、台所で、枝豆とかとうもろこしを茹でています。父親は、干し物台にござを敷いたりと、見る場所の準備をしています。そのころの干し物台は、どの家でも、屋根の上に乗っていました。家は、それぞれ密集していましたから、相撲の升席で相撲観戦しているようで、隣の家の干し物台とは、とても近い距離にありました。その日は、早めに夕食を済ませます。そして、干し物台に枝豆やとうもろこしなど、食べ物を運び上げます。そのころになると、空は、薄暗くなってきます。親戚の人や、知り合いが集まることもありました。花火が打ち上げられる前から、それぞれの家々の干し物台では、宴会が始まります。もちろん、今のようなご馳走ではありませんでしたが、子ども心にうきうきしました。そのうちに、花火が打ち上げられ始めます。それは、夜空に開く、おおきな花のようであり、まさに「花火」です。今考えると、たぶん、いろいろな工夫は少なく、大きさもあまり大きくなかったかもしれません。そして、一発ずつ、間をあけてあげられたとおもいますが、今、どこの立派な花火を見ても、そのころの美しさのほうが美しい気がします。その花火が1発上がるたびに、どの家からも、大きな声が聞こえてきます。「たまやー」「かぎやー」と。どうしてそんな掛け声をかけるのかも分からなかったのですが、私たち子どもたちも大声で、大人のまねをして、隣の家に負けないように大声を出しました。この日だけは、子どもたちも、花火が終わるまで起きていてよかったのです。(といっても、8時とか8時半だったと思いますが)花火大会の日は、今の時代では、ホンの些細なイベントかもしれませんが、当時としては、家族みんなで楽しむ、近所とも一体感を感じるイベントのひとつだったのです。この両国川開きの花火は、明治維新や第二次世界大戦などにより数度中断しています。私が小学校6年生のなると、交通事情の悪化のために中断されます。それが、また、1978年(昭和53年)に現在の名称として復活し、以後毎年続けられています。今は、大変な混雑で、昔の粋な衆がしていたように、屋形船に乗って船から花火を見ることできます。
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 日本で最も古い花火業者は、江戸の宗家花火鍵屋で、1659年に初代弥兵衛がおもちゃ花火を売り出します。彼は、「鍵屋」を屋号として代々世襲するようになりました。1733年、関西を中心に飢饉に見舞われ、江戸ではコレラが猛威を振るい打数の死者を出した暗い世相の中、将軍吉宗が死者の慰霊と悪霊退散を祈り両国大川(隅田川のこと)の水神祭りを催し、それに合わせて大花火を披露し、これが隅田川川開きの花火の起源になったと言われています。一方、鍵屋と並んで江戸の花火を代表したのが玉屋である。玉屋は鍵屋から暖簾分けをして店を構えたのが始まりです。そして、両国橋を挟んで上流を玉屋、下流を鍵屋が受け持つようになって、双方が腕を競いあいました。そして、交互に花火を揚げたため、観客は双方の花火が上がったところで、よいと感じた業者の名を呼びました。これが、「たまやー」「かぎやー」の掛け声の由来です。

キリンとアサヒ

 私は、以前のブログにも書きましたが、あまりビールには詳しくないので、レストランなどでビールを注文するときに「アサヒにしますか?それともキリンにしますか?」と聞かれると困ります。どちらがどんな味なのかよくわからないので、はっきりした好みがないからです。世の中の人は、わかっているのでしょうね。2001年に48年間続いたシェア第1位の座がキリンからアサヒに代わったことにびっくりしました。ずっと、キリンでしたから。アサヒに代わったのは、「スーパードライ」の発売です。ひとつのヒット商品が、長い間の常識をも覆すほど、時代を変えてしまうものだと感心したものでした。しかし、こうしたヒット商品は、逆にその後のさまざまな弊害になることがあります。その成功のために、新たな挑戦をする勇気がなくなってしまうからです。安定の中から、失うものがあるのが怖いのです。少しずつそれが減ってきても、また、時代が新しくなっても、その栄光にしがみついてしまうのです。ビール界も今、大きな変化をしています。発泡酒、第3のビールと、新ジャンルが産まれているのです。アサヒは、スーパードライという大ヒット商品があるせいで、この新しいジャンルへの開発が遅れたようです。今年の上半期で、5年ぶりにビール系飲料のシェアで、キリンがまた首位になりました。このことに、新本部長は、「アサヒの企業体質を変えろというメッセージだと感じた」と言っています。同様に、キリンがアサヒに1位の座を奪われたときに、商品開発、生産、販売、組織のあらゆる面からの顧客本位の製品を開発する体制作りに取り組みました。さらに少子高齢化、若年層のビール離れをいち早く察知し、「ローアルコール・ビバレッジ市場」の開拓に成功しています。どんなことに関しても、時代が動き、その時代の求めるものが変わってきます。それをいち早く察知し、改革をしていかなければ、気がついたときには、誰も見向きもしなくなってしまっています。
 キリンビールといえば、最近行った長崎で知ったことがあります。麒麟(きりん)とは中国の伝説上の動物で、鳥類の長である鳳凰と並んで、獣類の長とされています。オスの麒麟を麒(き)、メスの麒麟を麟(りん)と呼びます。日本が幕末維新の激動期を抜け、安定した成長期に入った1888(明治21)年、一つのビールが市場に登場しました。ドイツ風ラガービールで、ラベルにはこの麒麟が描かれていました。この霊獣の名を冠し、「キリンビール」と銘打たれたこの商品は、各地で大変な好評を博したのです。この「キリンビール」発売に深く関わった外国人が、今回も訪れた、長崎の観光名所「グラバー邸」にその名を残すT.B.グラバーです。グラバーというと、幕末に坂本龍馬や西郷隆盛らと幕府転覆に奔走した商人としても知られています。しかし維新後にも、炭坑の開発や三菱の事業拡大など、日本産業界の発展に大きな足跡を残しました。そして、長年にわたる日本滞在の中で、日本人がビールを好むことも、日本の風土や生活文化にはきっとビールが普及する素地があると信じ、ビール産業界に参入を試みます。そして、ラベルの「麒麟」は、グラバーの提案により採用され、現在の「キリンラガービール」のラベルの原型となるデザインが完成しています。
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「この彫刻(こま犬)は今のキリンビール社のラベルのもとになったものであり、また、ラベルの「麒麟」に太い口ひげが描かれているのは、キリンビール社の前身であるジャパン・ブルワリー・カンパニーの社長を勤めたグラバーの口ひげをもとにしたといわれている。」(グラバー亭のなかにある案内板から)

くちなし

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 今週の日曜日、散歩をしていたら、「くちなしの花」を見つけました。時期的には、少し遅い感じでしたが、それでも、まだきれいに咲いています。とっさに思い浮かべるのは、「水木かおる作詞、遠藤実作曲で、渡哲也が歌った「くちなしの花」です。「いまでは指輪も 回るほど やせてやつれた お前のうわさ くちなしの花の 花のかおりが 旅路のはてまで ついてくる くちなしの白い花 おまえのような 花だった」という一番の歌詞は、くちなしの花のにおいが旅路の果てまでついてくるほど強い、印象深いにおいということがわかります。また、「おまえのような花」というのは、この花は、純白の美しい花で、いかにも清純な感じのする花で、花言葉も「清潔・純潔」となっているところから、そんな彼女なのでしょう。あと、この花言葉に「私は、幸せもの」という意味もありますが、この歌は、彼と別れ、2番の歌詞のように「雨の別れが 今でも心を しめつける」とか、3番の歌詞の「小さな幸せ それさえも 捨ててしまった 自分の手から」という彼女は、どう考えても「私は、幸せもの」という感じはしませんね。という、揚げ足取りは別として、キャサリン・ヘップバーン主演の映画「旅情」では、愛の花ともてはやされ、有名なラストシーンで、くちなしの花が出てきます。また、この花は、「沈丁花」「金木犀」と並ぶよいにおいの花として有名です。しかし、よいにおいというのは、どうも芳香剤のイメージですね。
「くちなし」は、アカネ科クチナシ属ですが、なんと、同じアカネ科に有用植物としてコーヒーノキがあるのは、驚きですね。この「くちなし」という名前の由来には、いろいろな説がありますが、一番有名なのは、くちなしの実は熟しても他の果実の様にはじけないことから、「熟しても口を開かない」くちなしという説です。また、漢名の梔子の“梔”は、口が小さく楕円形をした一種の酒壺のことで、実の形が似ているところから梔子と呼ぶようになりました。この「くちなし」は、亜熱帯系の植物で、わが国では静岡以西、四国、九州に自生します。学名は「ガ?デニア・ジャスミノイデス」といいますが、ジャスミンに似た香りのただよう意味が含まれているそうで、なんとなく頷けますね。蕾のときは帯緑色ですが、開花すると純白になります。クチナシの実は、おせち料理の「きんとん」になくてはならないものですね。それは、その実の色に関係します。「あかね色(茜色)」は、アカネ科の多年草つる草の根からとれる赤い染料の色のことです。源氏物語の色の世界でも、黄系は、「山吹」「梔子」「黄」の3色をいいます。「黄」は、カリヤスの葉を使い、「山吹」は、アカネやベニバナを混ぜて染めました。くちなしの実を乾燥させたものは、食品を黄色に染める着色料として、栗やさつまいものシロップ煮、きんとん、たくあん漬け、麺類、お菓子などに使われます。江戸時代の料理本には、くちなしで色付けしたごはんにだし汁をかける「山梔子飯(くちなしめし)」が登場しています。現在も、ごはんやおこわなどを黄色く色付けした郷土料理も見られるそうです。くちなし酒は、疲労回復、強壮、健胃などのほか、精神安静、安眠、美容などにも効果があるといわれています。また、薬用としては解熱に、打撲撚挫時には痛みをとるほか、淨血にも益ありとされてきました。小粒の果実は山梔子といい、消炎、鎮静、止血にも使用されました。昔から、身近にある花や実を、調理や、薬用に使ったのですね。

東京の坂

 坂といえば「長崎」を書きましたが、他にも「神戸」「尾道」を思い浮かべます。しかし、意外にも、東京にも坂は多いのです。しかも、名前の付いた坂道が多いのです。500以上は存在しています。坂道に名前を付ける慣わしは、海外にはあまりないらしいのですが、日本国内では各地で名前の付いた坂道が存在しており、これは東京だけに限ったことではありませんが、東京には由緒ある坂道の名称が現在でも数多く残されてきています。坂道といえば、テレビ番組の「笑っていいとも!」のタモリさんは、「日本坂道学会副会長」だそうで、「TOKYO坂道美学入門」という本を講談社から出版しています。そこに書かれているタモリによる「よい坂」の条件は、1. 勾配が急である、2. 湾曲している、3. まわりに江戸の風情がある、4. 名前にいわれがある、とあります。東京で坂道に名前がつけられたのは主に江戸時代以降です。中には、明治・大正期、あるいは戦後になってつけられたものもあります。名の付いた坂道は、地形の関係から、同じ地域にかたまって存在している場合が多いようです。文京区が最も多いようです。ついで、港区、新宿区、千代田区といった都心の区です。それは、都心の方が坂道一般が多いというよりも、歴史的に人が多く集まっていたため、名前も付き易かったのだろうと思われる。また、「山の手の坂、下町の橋」という言い方もあるように、丘陵地帯が多い山の手の地域には名の付いた坂道が多いようです。坂道の名称は、目に付いて気になる人が多いせいか、何故そのような名称がついているのか、由来が坂道の標識に書いてあることが多いです。坂道の標識は、ほとんどの場合は、坂上又は坂下の柱などになっています。この標識は、東京都や各区(教育委員会)が設置しているもので、いろいろなタイプがあります。
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 東京で有名な坂に、「神楽坂」があります。飯田橋駅前の外堀通りから、北西に向かって登る坂道です。東京で駅名(神楽坂、牛込神楽坂)にもなっている唯一の坂道です。神楽坂の地名は、筑土八幡神社で催された神楽がその由来だとする説が有力です。また、幕末から明治末にかけて菊人形の小屋が並び、この坂上には森鴎外、 夏目漱石、高村光太郎が居住していたことで有名な「団子坂」は、坂の近くに団子屋があったからとも、 また、悪路のため転ぶと団子のようになるからとも云われていると標識には書かれています。最も多い坂の名前は、「富士見坂」です。東京に約20あると言われますが、現在、実際に富士山を、この坂から見ることはできないでしょう。「江戸の坂東京の坂」(中公文庫 横関英一著)では、全国4000の坂名で一番多い名前は、「赤坂」で、土の色が赤い坂という意味で、全国で130ヶ所あるそうです。ちなみに、2位は「長坂」3位は、「小坂」4位は、「大坂」5位は、「高坂」(急な坂のこと)だそうです。他にも多いのは、稲荷坂とか、幽霊坂、新坂、胸突坂、暗闇坂、などがあるようです。また、「ドンドン坂」の名前は、東山手・南山手の急な坂の総称だったようです。また、同じところに2箇所の坂からいける場合は、よく、急な坂のほうを「男坂」、ゆるい坂のほうを「女坂」という場合があります。私の高校は、急な坂道を登ったところに校門がありました。私たちの間では、その坂の名前を、「地獄坂」とか、「遅刻坂」と呼んでいました。朝、急いで登るのには、とても大変だった思い出があります。

木育

今年の保育学会で、「木育」紹介コーナーが設置されました。最近、「食育」という言葉はよく聞きますが、この「木育」は、「子どもをはじめとするすべての人びとが、木とふれあい、木に学び、木と生きる」という活動です。北海道が平成16年に設置した民間協働プロジェクトで提案したものです。内容として、こんな提案をしています。「すべての人が思いやりとやさしさをもち、地球という大きな「つながり」のなかで自然と共存し、人間らしく生きることができる社会を実現します。近年我が国では、利便性や経済効率の追求等による生活環境と自然環境の変化によって、人と人、人と自然、モノと自然とのつながりが希薄となり、社会や自然にさまざまな「ほころび」が生じています。」
 ここ数年、異常気象が続きます。今年の梅雨の形は、温暖化が進んだ数百年先に予想されている現象だそうです。日本での少子化が、国が思った異常な急速な速さで進んでいると同じように、地球の変化も思った以上の速さで進んでいるようです。地球との関係も、まずは、他人との良好な関係から学んでいきます。他人との良好な関係は、まずは、親子関係から子どもたちは学んでいきます。この親子関係は、きちんとした夫婦関係から生まれてくるものでなければなりません。価値観が、多様になったとして、それぞれの関係の形がさまざまになってきました。しかし、どのような関係にしても、決して自分だけがよいとする気持ちからは築いていけないと思います。共に生きていくことを大切にし、お互いに存在を認め、尊重しなければならないのです。たとえ、夫婦が、結婚という形でなくてもかまいませんが、これを忘れてはいけないのです。同じように、地球に対して、また、自然に対して、その存在を大切に思わないといけないのです。
「子どものみならず、すべての人びとにとって、木と五感でふれあうことが、自然や人とのつながりの回復に結びつくこと。手でつくり、手で使う経験を通して養われる感性や想像力が、人や自然に対する「思いやり」や「やさしさ」を持つことにつながること。こうした経験を蓄積し、知恵と技術を培うことが、自然と人が共存して生きる「持続可能な社会」を生み出す力となること。私たちは、木を子どもの頃から身近に使っていくことを通じて、人と、木や森との関わりを主体的に考えられる豊かな心を育てたいという想いを「木育(もくいく)」という言葉にこめました。」木に触ることが、まず大切であるといっています。これは、親子関係でも言われていることです。いわゆる、「スキンシップ」といわれるものですが、最近、脳の発達の観点からもその重要性が言われています。赤ちゃんの肌に直接触ること、異年齢の子ども同士がじゃれあうこと、そんなことが脳の育ちに影響しています。赤ちゃんや子どもは、何でも触りたがります。それは、好奇心とか、ものを確かめるという意味もありますが、それを触っているうちに、そのものとの関係性を学んでいるのでしょう。そいう意味で言えば、夏休みの「昆虫採集」とか「植物採集」は意味があったのかもしれません。今は、自然を大切にしなければいけないということで、直接触ることが許されなくなりました。本当は、決して、子どもたちが自然と触れることで壊されてきたのではなく、大人が自分たちの都合や、面白半分に自然を破壊したり、支配したりしようとした結果であることのほうが多いのです。もう一度、自然との共生を考えなければならないと思います。

祭り

 先週の土曜日は、園の「夕涼み会」でした。園の行事は、四つの主な目的に整理しています。1、子どもの発達を保護者に伝える。これは、年長さんが、はっぴを着て、山車を曳いたり、神輿を担いだり、夜店の店番をします。今年は、山車を曳きました。2、普段の保育を厚くする。今年は、ゲーム、製作、クイズ、体験コーナーを通して、今年のテーマである「楽器」を親しませようというものです。3、親子のふれあいを提案する。親子で各夜店を歩き、楽しみながら、親子で過ごします。もうひとつ4番目は、地域の文化を伝承するというものです。園のある場所は、ニュータウンとして新しく開発された地域のため、伝承されている文化がありません。そこで、園では、昨年は、市内に伝わる盆踊りを民謡協会の役員さんに来てもらって、職員全員が正確な踊りを習いました。私が住んでいる町は、旧市街化地域なので、祭りの近くなると、近くの神社から、盆踊りの曲が流れてきます。毎晩、有志が踊っているのです。その音を聞くと、「ああ、そろそろお祭りだなあ。」と感じたものでした。そこで、園での夕涼み会が近づくと、毎夕、園庭で盆踊りの曲が流れ、子どもたちが練習します。「ああ、そろそろ夕涼み会だなあ。」と感じてもらえたらと思っています。また、食事は、郷土食を調べて、それを食べてもらい、ランチョンマットにはそのレシピを書きました。今年は、地域の子どもたちが行っているように太鼓を積んだ「山車」を曳きました。
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 私が育った場所は、東京下町の鳥越神社のすぐそばです。この鳥越神社の夏祭りの呼び物は、夜祭りと東京一の重さが有ると言われている千貫神輿による町内巡幸です。巡幸は鳥越一帯を氏子たちにより、30回もの受け渡しを行います。それぞれの町内のはっぴを着ていないと担げませんでした。そして、最後の神社内に入れるのが「宮元」というはっぴを着た人です。神社に入れる頃には暗くなってきます。闇夜に、ゆらゆらと揺れる提灯の明かりをつけた神輿が、少しずつ神社へと近付き、そして、宮入をします。この光景の感動は言い表わし様がありません。
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本社神輿と宮入
私が住んでいたのは、その「宮元」だったので、子どもの頃、よく、ほかの地域の人がはっぴを借りにきていました。また、町内ごとにも神輿があり、子ども神輿もありました。ですから、土曜日は、学校に行って、出席だけとって、急いで家に帰り、神輿を担いだものです。そして、所々の住民からおひねり(といっても、現金ではなくお菓子や、スイカなど)をもらいます。終わると銭湯の入湯券をもらいます。銭湯では、肩の赤く腫れ上がったのを自慢しあいます。また、本社みこしを眺めるのに、すごい人ごみでよく見えないので二階から見ると、神様を上から見るなと怒鳴られたものです。鳥越の里は蔵前通りと国道6号線(旧街道江戸通り)の概ね交わる辺りに所在し、昔より交通の便の良いところでした。第二次世界対戦以前は職人さんが軒を並べて居住した、東京下町の一角として栄え、戦後は各種製造・卸問屋・商店が並ぶ町なみに変化を遂げました。又、この近隣の食を預かる商店街は、おかず横丁として人々にしたしまれ、戦後の下町の食文化・風俗を支えています。
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 そんな中で育ったためか、お祭りになると血が騒ぎ、神輿を担ぐ祭りを見たくなります。今は、あらゆる地方から神輿マニアが集まり、本来の地域文化ではなくなりなじめています。そのために、争いやいさかいも多いようです。もと地元民としては、地域の文化を大切にして欲しいと思います。

まちづくり2

 今、子どもの事件が多発し、また、地域コミュニティーが形成されにくくなっている中で、もういちど、まちのあり方を考える必要があるのではないでしょうか。しかも、その考え方の中には、本来、日本が持っていたまちづくりの再評価もあるような気がします。もともと、農耕民族である日本民族は、人との関係の中で生きてきました。世界が、その関係性を、子どもの世界、教育のあり方においてもその必要性と、有効性を考え始めています。昨日に引き続いて、講座の中から引用して、考えてみました。2人の提案を考えてきましたが、今日は、3人目からです。
3、ジェーン・ジェイコブス(1916?2006):彼は、多様性を備えた人間的な都市の必要性を訴え、コルビュジェのような近代的な都市計画、都市開発を徹底的に批判します。「人間的に魅力ある都市のための4大原則をあげています。?街路の幅はできるだけ狭く、曲がっていて、1ブロックの長さは短い?再開発に際して古い建物をできるだけ多く残す?都市の各地区は必ずふたつ以上の機能を持つ?人口密度が十分に高い―というものです。職住をはじめとする機能を混在させた地域のほうが、時間帯によってまちが空っぽになるようなこともなく、住みやすく、また、小規模な区画や、路地であれば、人の目が届きやすく、人間的で子どもにとっても安全であるという考え方です。この考え方が、最近の日本におけるまちづくりに欠けている視点のような気がします。また、私が訪れた長崎とか、私が子どものころに育った「下町」とか、かつての「城下町」と呼ばれた地域では、このような視点を持っていると思います。下町には路地が多くあり、その横丁付近には、まだ玄関先に植木鉢を沢山ならべ、朝顔や盆栽を楽しみに緑を大切に育てる家々も見られます。また、鳥越のあたりは、第二次世界対戦以前は職人さんが軒を並べて居住し、戦後は各種製造・卸問屋・商店が並ぶ町なみに変化を遂げました。職住一致です。また、城下町でも同様に、作った意図としては攻められにくいということからですが、道の幅は狭く、曲がっていて、人口密度が高いです。そして、町の中には、さまざまな職業の人が住んでいました。鍛冶町には、刀鍛冶が住んでいたのでしょう。
4、ケビン・リンチ(1918?1984):彼は、都市、まちのよしあしの評価は数値データではかるよりも、「いい感じがする」「よくない感じ」などといった人の心理のほうが大事なのではないかと提案します、そして、多くの人が都市を「よい」と考えるための手がかりとして、わかりやすさが大事だといっています。そのわかりやすさの三つの要素として、?アイデンティティー(その場所らしさ)?ストラクチャー(はっきりした構造)?ミーニング(意味を持った)空間ということをあげています。具体的な空間要素としては、五つのものに注目しました。?パス(道路)?エッジ(縁)?ディストリクト(地域)?ノード(接合点・集中点)?ランドマーク(目印)です。これら五つがはっきりイメージできるまちはいいまち、できないまちは、あまり住み良くないということを実証しています。
 以前のブログにも書きましたが、今後の学校のあり方は、もしかして、寺子屋や藩校にヒントがあるように、これからのまちのありかたも、日本から提案していけるかもしれません。昨年、ミュンヘンで行われた世界保育大会のテーマである「インクルージョン」の次の課題は、「コーヒージョン」という、関係性の構築にあるといわれていました。今こそ、まちづくりを通して、少子社会での、かかわる力や、コミュニケーション能力を育てる子どもたちの環境を考えていかなければならないでしょう。

まちづくり

7月15日に、読売新聞との共催で一橋大学が、第4回の市民講座が開かれました。今回のテーマは、「まちづくり」と「ひと」の関係を再考した「まちづくり―参加と協働の人間環境」です。その詳報が新聞に掲載されていました。その講座の中で「まちの見方」「造り方」「使い方」について、4人の思想家、理論家、実践家の考え方を紹介していました。
1、エベネザー・ハワード(1850?1928):彼はロンドンに生まれますが、田園都市というコンセプトを最初に出した人です。この考え方は、今、私の園がある多摩ニュータウンの基本的な考え方の基盤となっているものです。郊外型の都市計画には、今でもかなり影響を与えています。彼の時代のロンドンは、大変生活環境が悪く、煤煙が立ち込めていました。田園は、自然環境は良くても、農民の労働・経済環境は苛酷でした。そこで、双方の長所だけを取った「田園と都市の結婚」というアイデアを提唱します。同時に、「市民がつくって維持するまち」を提案しました。まず、株式会社をつくって資金を集め、土地を買い、造成して貸します。しかし決して、分譲、売却はしません。分序すると資金が回収できて楽になるのですが、住人それぞれの私有財産をめぐる利害対立が発生して、理想のまちが維持できなくなるからです。この考え方は、今や世界で普及しています。しかし、日本では、なかなか今の現実ではできず、デベロッパーは、資金の回収するためにどんどん無計画に造成し、分譲マンションなどは、住民の利害関係から、コミュニティーが壊されていくことにもなっているのです。また、国際日本文化研究センターの川勝教授は、こう言っています。「幕末明治期に来日したイギリス人たちが日本の農村風景の美しさに感嘆したと書いている。初代公使オールコットは、世話の行き届いた農村を、英国自慢の庭づくりと引き比べて、激賞し、近代観光業の創始者トマス・クックは日本の美しさに呆然として、日本を理想郷として宣伝した。」このように、そもそも田園都市という言葉の由来は日本にあるとも言っています。幕末明治期に日本を訪れたイギリス人は、「家に縁側があって庭に面し、長屋の狭い路地にも朝顔や植木鉢を置いて緑を大切にした百万都市江戸の生活風景を外国人はgarden cityと形容した。(中略)それが外国に伝わり、ハワードによって都市づくりのモデルとなり、一世を風靡した。庭園(田園)都市の究極の原型をたどっていくと日本に行き着く」とも川勝教授は、「文明の海洋観」の中で言っています。
2、ル・コルビュジェ(1887?1965):彼は、スイスで生まれ、フランスで活躍します。モダンを代表する、近代都市計画の父とも言われています。しかし、反面、この近代的ということは、非人間的になりやすいのです。私が、初めて園のある町を見たときに、とても近代的で、すばらしいのですが、人間のにおいがしませんでした。すばらしい「せせらぎ」の脇を数百メートル歩いても、誰ともすれ違いません。マンション群ということもあって、犬を散歩させている人を見かけません。道に猫が寝そべっていません。ダンボールピープルと呼ばれているような路上生活者は、この町に住もうとはしません。そこで、園が開園をしたときから、町の人とともに、地域を作ることから始めたのです。今は、ダンボールピープルはいませんが、町を住民が歩く、犬を散歩させ、少し声を掛け合うようになりました。しかし、この町は、もともと人との関係がわずらわしい人が引っ越してくるので難しいところはありますが。(続く)