ディシプリン

今日の朝日新聞のコラム「天声人語」にこんなことが書いてありました。
「一般にはなじみが薄いが、たまに目にする言葉に「ディシプリン」がある。英語では「discipline」で、規律、鍛錬、しつけ、懲罰などの意味がある。サッカーでは、チーム全体の「共通理解」や「約束事」といった戦術面での徹底を指す意味で使われることが多いという。」そして、「経済の世界では、こんなふうに使われていた。「新しい自由な社会においては、みんながある道徳律というか、ディシプリンを持つようにならないといけないと思うんです」。10年前、当時副総裁だった福井俊彦日銀総裁が述べた(岡本行夫対談集『ニッポン再生最前線』)。福井氏は「今の日本人は規制に慣れすぎて自らのディシプリンを持っているのか」とも述べた。規制緩和が進んだ21世紀の社会を展望し、それぞれが己を律するものをきちんと持つべきだという趣旨にはうなずける。しかし、それを徹底するのは容易ではないようだ。」
 このディシプリンというのは、discipleには弟子(特に宗教的な門弟という意味から)という意味があるので、弟子に対しての教育が原義ですから、なんだか、自らのディシプリンを持つというのは変な気がします。どうもautonomyという単語の方がいい気がします。それは、人がなにによって動機付けられるべきであるかというと、その行動が、自律的(autonomous)か、それとも他者によって統制されているかということが問題なのです。この自律ということばには、他に「自治」も意味しています。自律的であるということは、自由に自発的に行動することです。本当にしたいことをしているのか、興味を持って、物事に集中しているのか、それは、自分(authentic)から出なければならないのです。自律をしつけに持っていこうとするときは、self-disciplineが必要かもしれません。しかし、本当の自律は、決して、ディシプリンの意味にもある鍛錬や懲罰では養われないと思っています。ある論文では、報酬によっても養われないとあります。あくまでも、自分自身から出た気持ちでないとならないのです。ですから、出生数をあげるのも、他からの報酬(お金など)では、限界がある気がします。
また、私は、最近の子どもたちに欠けているもののひとつに、この「自律心」がある気がします。そこで、今、大学の卒論を書くために私のところに来ている学生の一人に、「子どもたちの自律心はどのように育っていくのか」ということをテーマにしてもらい、研究してもらっています。ちょっと難しいテーマですが、7月まで事例を収集しています。特に3~5歳児を中心に観察し、ブランコの順番や、遊びから昼食準備時などの場面における、「他律」から「自律」への事例を中心に集めているようです。また、その学生は、私の園で、子ども同士で時間を伝えるなど律し合っていると見られる場面にも注目しています。どうも、子どもを観察していると、自律は、人への思いやりから育つことも見られます。また、人への思いやりは、自分を認めてもらうことから育っていくように見えます。やはり、最後は、自分に戻っていくのですね。
自律心は、どうも子どもに限らず、大人の社会でも疑わしくなってきて、子どもは何をモデルにして良いかわからなくなるような社会を提供している大人として責任を感じます。

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