官僚

今、電車の中刷り広告にこんなものが貼ってあります。「ある特権が、明治の中ごろに全人口の1%だけの人にありました。」とあります。これは、選挙権です。日本で初めての選挙が行なわれたのは、1890年(明治23年)の衆議院議員選挙のときです。その前年に大日本帝国憲法が発布されています。しかし、そのときの選挙では、投票できる人は、直接国税を15円以上おさめている満25才以上の男性に限られていたので、全人口の1%の人しか投票できませんでした。その頃の物価は、もりそばが1銭、牛乳(1本)が3銭でした。これから今の物価で計算すると、当時の15円は、現在の60万~70万円ぐらいと思われます。この一部の人にしか選挙権が与えられていない制度に対して批判が出て、少しずつ制度が改正されてきました。そして、1925年(大正14年)には、25才以上のすべての男性が選挙権を持つようになりました(男子による普通選挙の実現)。そして、ついに1945年(昭和20年)、満20才以上の男女すべての日本国民が選挙権を持つようになったのです。しかし、今でも国によって選挙権が持てる年齢はさまざまです。イランでは15才、ニカラグアやキューバなどでは16才以上となっています。また、21才以上という国もあります。ヨーロッパの国の多くでは18才以上とされています。
先日の日曜日に「国際子ども図書館」に行ったついでに、東京藝術大学大学美術館(上野公園)で行われている「ルーヴル美術館展 ~古代ギリシア芸術・神々の遺産~」を見に行きました。そこで買ってきた冊子は、展示とは関係のない「古代ギリシャのこどもたち」です。(展示カタログはあまりに重くて、最後まで迷ったのですが、結局買いませんでした。)買った冊子にこんなことが書かれていました。
「リシュマケとクリステネスが住んでいたころ、アテネの人口は約40万人でしたが、人々の身分や生活の仕方はさまざまでした。あらゆるものごとは4万人の市民の利益を考えて決められました。市民になるのは男の子だけです。市民とは18歳以上の自由民で、父親が市民、母親が市民の娘である人を指します。市民とその家族はアテネの全人口の3分の1、およそ13万人でした。土地を所有する権利はアテネ市民に限られ、市民は地主として土地から収入を得ることができたため、1日のほとんどを政治や、戦争にそなえた訓練をしてすごしました。」
 国を支えている人々の利益を考えていろいろなことが決められていたのではなく、一部の特権階級の人のためだったのは、どこの国でも同じですね。日本でも、明治の頃は、結局は一部の選挙権のある人から選ばれた人によっていろいろなことが決められていたのですから。その点、いまは、成人は全員選挙権を持っています。ですから、選挙で選ばれた人たちは、国民の合意で物事が進められていくはずでしょうね。それに比べて、直接実務に携わり、また、基本的な施策を決めている官僚は、私たちの選挙で選んでいるわけではありません。私たちの思いを直接、だれだれにと、ある個人に託しているわけではありません。これは、官僚だけでなく、各市区町村の公務員にしても同様です。ですから、その人たちには、自ら広い見識をもち、国民の思いを感じ、広く国民のためにいろいろなことを決めていってもらいたいものです。

もじゃもじゃペーター

mojamoja.gif
「ひとめ ごらんよ ほら このこだよ  うへえっ! もじゃもじゃペーターだ!  りょうての つめは 1ねんだって  きらせも しないで のびほうだい  かみにも くしを いれさせない  うへえっ! だれもが そう さけぶ  ばっちい もじゃもじゃペーターだ!」こんな話を読んで、どう思いますか?よくわからないと思いますが、次の話を読むと、始めてこの話を知った人は、ちょっとショックになると思います。
「コンラート!」 ママが およびです  「ちょっと おるすばん おねがいね  ちゃんと おとなしく いいこでね  ママが おうちに かえるまで  いいわね コンラート よくおきき!  おやゆび しゃぶっては だめよ  いいつけ まもらない こには  したてやさんが すっとんできて  おやゆび はさみで ちょっきんと  かみみたいに きって しまうわよ」
さあて ママが でかけたとたん  あらら おやゆび おくちへ ぴょん!
ばたん! そのとき ドアがあき  めにもとまらぬ すばやさで  したてや ひらりと とんできた  ゆびしゃぶりこぞうを みつけたぞ  ちょっきん! ちょっきん! いたたたた!  おやゆび はさみで ちょっきんな  おおきな はさみで きっちゃった!  うわーん! コンラートは なきさけぶ
ママが おうちに もどってみたら  コンラート しょんぼり たっていた  りょうての おやゆび なくなって ひとり ぽつんと たっていた
 どうでしょうか。この話は、賛否両論あります。その影響の大きさゆえに、 20世紀になってから激しい論争が起きました。指しゃぶりをして親指を切られてしまうという罰の残酷さや、絵の与える印象の強烈さが、感じやすい子どもに、精神的外傷を残すとかです。
 この『もじゃもじゃペーター』(Der Struwwelpeter)は、1844年にドイツの医師であるハインリヒ・ホフマンがわが子のために作った絵本です。この絵本は、教育的でありながらナンセンスなおかしさを持っています。そこに描かれた「悪い子ども」像に子どもたちの共感が得られ、出版後まもなくヨーロッパ中で読まれ、現在までに100以上の言語に翻訳されています。その生命力溢れる子ども像には、そののちの児童文学に現れる「いたずらっ子」の主人公像の源流を見出すことができます。いま、この展示会が、国立国会図書館国際子ども図書館で、平成18年1月28日(土)から7月2日(日)まで行われています。昨日、それを見に行ってきました。この展示会では、国際子ども図書館が所蔵する資料を中心に、各国の『もじゃもじゃペーター』やそのパロディ、「いたずらっ子」の系譜をひく作品や、ホフマンの同時代の作品をはじめとするドイツ語圏の絵本・児童書等約220タイトルを展示されていました。
 児童文学の「もじゃもじゃ」とは何でしょうか?髪も伸ばし放題、爪も切らない「もじゃもじゃペーター」。 このような「愛すべき」存在は、広く世界の児童文学の中に顔を出し、いまだに不滅であるといえます。このペーターは、ハックルベリー・フィンを思い出しますね。著者あとがきには、「3歳から6歳ぐらいまでの子どもに接する機会が多かったのです。いったい子どもの教育ということはまことにむつかしいものです。」 とあります。本当に、そうですね。

父親

今日は、「父の日」です。昨日の新聞に、「口が臭いお父さんには、娘の一言がやっぱりきく」という記事がありました。「父の日」を前に、ライオンが口臭に関するアンケートをしたところ、日頃は口臭を放置しがちなお父さんも、娘から「お父さん、口くさい」と言われた途端、歯磨きに熱心になったり、歯科医院に通ったりする傾向が浮かび上がったそうです。「自分の口臭が気になる」と答えた父親は6割でしたが、対応は、その場しのぎがおおく、「歯科医院で虫歯や歯周病の治療をした」はわずか1.5%だったようです。しかし、娘から直接「くさい」と言われると態度はコロッと変わり、「よく歯を磨くようになった」(37%)が最多となり、「歯科医院に行った」も22.2%と大幅に増えます。それは、娘が父親にとって怖い存在だからでしょうか。たぶん、そうではなくて、娘がとてもかわいいと思うからなのでしょうね。一時、父親の下着を一緒に洗濯をするのを嫌がる娘が話題になりました。また、まったく、父親の存在を無視する娘も話題になりました。でも、どんな扱いをされようと、親にとって子どもはかわいいものです。特に、小さいうちはより、そう思います。
父親の多くは、仕事が忙しく、また、夜帰りも遅くなかなか子どもとは会えません。また、単身赴任で、子どもたちとは慣れて暮らしている父親も少なくないでしょう。しかし、なかなか子どもとはつき合えないと嘆いている父親も、母親との協力のもとで、子どもとしっかり結び合うことができる方法があるはずです。親子の結びつきの強さは、決して、一緒にいる時間の長さだけの問題ではないのです。1869年の若草物語(オルコット)に、こんな文章があります。
「娘たちの心は、従軍牧師として戦地に行っている、父のことでいっぱいでした。その御父様から、手紙が来ました。『私のかわいい娘たちよ。御父様は、昼は、おまえたちのことを思い、夜はおまえたちのために祈り、おまえたちの夢を見ることで毎晩慰められる。』
4姉妹の子どもたちの心の中は、父親のことでいっぱいです。父と子らは、離れていても、しっかりと結びついています。また、父親の姿を描いたこんな話もあります。
「若いお父さんが、自転車に子供を二人乗せて、うん、うんー、ペダルを踏んでいる姿は、はためには大変なことのようにうつりました。でも、「たいへんですね。」なんて、安っぽい同情をしようもんなら、ド-ブルさんは、むっとした顔で、返事もしません。人には、どう思われようと、ド-ブルさん自身は、楽しくて楽しくてたまらなかったのです。」(デブの国ノッポの国(モ-ロフ)1930年)
 そんなお父さん(ノーブルさん)と、ノッポとデブの仲良し兄弟が、一緒にピクニックに出かけて、不思議な事件に出会います。何だか、今のお父さんを見ているようですね。義務感からでなく、一緒に楽しんで出かける親子には、すてきな冒険が待っているはずです。決して、一人ではできない、子どもと一緒だからできる冒険は、子育てをしている人の特権かもしれません。
 また、最近、育児に協力する父親が増えてきました。園でも、お迎えに父親の姿を見ることも多くなりました。しかし、園の送り迎えをお父さんたちがやり始めたころ、家事をお父さんがやり始めたころ、買い物をお父さんたちがやり始めたころ、きっとこんな気持ちになったこともあったのではないでしょうか。巣の中の、コウノトリの四羽の小さなひな鳥たちとおかあさんのそばで、コウノトリのおとうさんが、じっと見張りに立っています。そうしながらこんなことをつぶやきます。
「巣のそばに、見張りを立たせておくんだから、家内のやつは、ずいぶんえらそうに見えるだろうな。」と、コウノトリのおとうさんは考えました。「このおれが、あれのご主人だなどとは、だれも知るまいよ。きっと、ここに立っているように、言いつけられているんだと、思うだろうさ。それにしても、ずいぶんだいたんだろうが!」(アンデルセン童話 コウノトリより)

父親保育の日

titioyahoiku.JPG
 園では、今日「父親保育の日」でした。園での保育を父親だけで朝から晩まで行うというものです。まず、園長代理の父親が、各クラスの担任を決め、その勤務時間を、子どもの時間による出席数を見ながら、ローテンションを組みます。自分の子どもと遊ぶのではなく、園での保育を理解してもらうことと、父親同士のふれあいを意図しての行事ですので、自分の子どもがいるクラスは担任しません。そして、各クラスの日案を出してもらいます。今年の園長代理の父親は、自らブログを書いています。いろいろなブログを読まれている人は分かると思いますが、ブログは、その人の性格が現れます。私のブログは、ちょっと硬いかなという気が自分ではしています。保護者の父親のブログは、性格のよさが現れていて、それを読むたびに「いい人だなあ」と感動することがしばしばです。(このブログをその保護者は、たぶん読んでいると思いますので、照れている顔が目に浮かびます)その園長代理の父親の「父親保育の日」を前にしたブログの書き込みを紹介します。
「いよいよ。6月に保育園主催の「父親保育」という行事があります。「父親保育」という行事は、「父親の会」が発足されたきっかけの行事であり、私自信、今、こうして、ホームページを運営しているのも、この行事に参加したのが始まりです(^^ゞ もし・・。。父親保育に一度も参加されたことがなかったり、父親保育に参加しようかどうか迷われているのであれば・・ぜひ、ぜひ参加をおすすめします。。。。(^^) 私自身、父親保育に参加しての経験上のお話ですが、大人になってしまうと、他の職業の経験など、なかなか出来ないものですし、お子さんが、普段、一日の大半を生活している場所って、どんなところなんだろうか?などの、全体的な発見だったり、普段、朝、お子さんをお預けすると思いますが、預かる方からみた風景は、また、違っていて新鮮だったり。。といった、小さな発見だったり。。父親保育に参加することで、いろんな発見があったりしますよ。。(^^) どんな小さな発見であっても、それが、参加された方々にとって、何か今後に生かせるものであったなら、保育園の本当の狙いは、そこにあるのかもしれません。。(^^) 
次のブログは、途中で、日案の話し合いに園長代理として顔を出したときの感想です。
「私は、昨日は、2歳児クラス打ち合わせ、今日は、3~5歳児のクラスの打ち合わせに少しの時間(様子見程度)でしたが、顔を出させていただきました。(上の子供の運動会が両日とも中止だったため、出席できました(^^) ともに、設定保育は、おもしろそうですね。。。(^^) 0,1歳児クラスの担当のお父さんメンバーは、父親の会でもよく知っているメンバーが多いので雰囲気等は、知っているのですが、2~5歳児クラスのお父さん方の雰囲気もまた、とってもよくって、すばらしいお父さん方の中、園長代理をさせていただくことに、幸せを感じ、一人でうれしくなってしまいました。(^^ゞ
 以前ブログに書いた「わが大地の歌」は、作詞が笠木透でしたが、作詞、作曲ともした歌に「私の子どもたちへ」というのがあります。私の大好きな歌です。
1.生きている鳥たちが 生きて飛びまわる空を あなたに残しておいて やれるだろうか 父さんは 目をとじてごらんなさい 山が見えるでしょう 近づいてごらんなさい コブシの花があるでしょう
2.生きている魚たちが 生きて泳ぎ回る川を あなたに残しておいて やれるだろうか 父さんは 目をとじてごらんなさい 野原が見えるでしょう 近づいてごらんなさい リンドウの花があるでしょう
3.生きている君たちが 生きて走り回る土を あなたに残しておいて やれるだろうか 父さんは 目をとじてごらんなさい 山が見えるでしょう 近づいてごらんなさい コブシの花があるでしょう

ビール

koubekuko.JPG
神戸空港
今、ワールドカップで盛り上がっていますが、開幕戦の行われたドイツバイエルン州のミュンヘンは、最近あるきっかけで毎年行っています。ミュンヘンというと、よく聞くのが、コマーシャルに使われていた、「ミュンヘン、札幌、ミルウオーキー」というフレーズです。ミルウオーキーはアメリカ、ウイスコンシン州にある都市です。ウイスコンシン州は、ミシガン湖の西岸に位置する州で,中西部アメリカにあたります。州都はマディソンですが,ミルウオーキーの方がかなり大きな都市です。何で有名かというと、ビールの産地ということです。ミュンヘンもビールで有名です。ミュンヘンでは、水かコーラを飲むようにビールを飲むことにびっくりしました。それも、真昼間から、かなり大量に飲むのです。昼間からそんなに飲んで、午後の仕事に差し支えないかと思います。どうも、ビールの年齢制限も低いようです。しかも、保護者同伴の場合は、もっと緩和をされると聞きました。本当でしょうか。そういうと、アルコール度数が低いかと聞かれますが、そうでもありません。そして、乾杯のときに、日本では、お互いにグラスの口をつけますが、ミュンヘンでは、グラスの底をつけます。そのほうが清潔ですし、とてもよい音がします。ビアホールはいたるところにあり、有名な新市庁舎の地下も大きなビアホールです。
新市庁舎.JPG
 今年2月に行ったとき、教育委員会の局長さんに夕食を誘われたとき、そこに行きました。ミュンヘンにも様々なビールの種類がありますが、南ドイツ地方で主に醸造される「ヴァイツェン」という白ビールが美味しいです。原料に小麦(ドイツ語でヴァイツェンとは「小麦」という意味)を用いるので典型的に淡色で、澱を含んで濁っています。日本で一大センセーションを巻き起こした「ビール酵母」がこの澱の正体で、美容と健康の救世主として一目置かれています。さわやかな口当たりと特有の酸味が特徴で、クローブのようなスパイシーさと、リンゴやバナナを思わせる甘酸っぱい風味があり、地元ではのどの渇きを癒すための一杯として楽しまれます。
 今日、神戸から帰って来ましたが、6月1日から30日まで、「神戸空港就航7都市地ビールフェア」が「コンチェルト」というところで、行われていました。7都市の地ビールを飲み比べています。7箇所というのは、北海道の「オホーツクビール」(ピルスナー)、仙台の「伊達政宗麦酒」(ヴァイツェン)、新潟の「越乃米こしひかりビール」(ラガー)、東京の「多摩の惠」(ぺリエール・ボトルコンディション)、熊本の「オレンジ浪漫麦酒」(フルーツビールタイプ)、鹿児島の「薩摩ビール」(ヴァイツェン)、沖縄の「南都サンゴ地ビール ニヘデビール」(ケルシュ ソフトタイプ)です。東京からの代表は、「多満自慢」という日本酒で有名な福生にある石川酒造の地ビールです。文久3年(1863年)から始まり、酒造りに多摩川水系の水を使用していました。現在は、地下150mからくみあげた地下水を酒造用の水としています。明治21年からは、ビールの釀造を開始し、「日本麦酒」(英文ラベルは JAPAN BEER)の名称で近在や東京・横浜へ販売しました。製造法はドイツ式で、ラガービールを醸造しました。元々は、バイエルンのローカルなビールで、秋の終わりにビールを洞窟の中で氷と共に貯蔵し、翌年の春に取り出すので、この貯蔵(ラガー)されたビールをラガービールと呼びます。
 私は、飲むことよりも食べるほうがすきですが、人によっては、地方に行く楽しみには、そこの地酒や地ビールを楽しむこともあるかもしれません。

少子化

 子どもに関する記事が新聞の紙面を飾らない日はないほど、今、国にとっては、大きな問題です。そのひとつの問題に、少子化の進行があります。先日、合計特殊出生率がまた最低を更新したことから、議論が続いていますし、それに対する施策が発表されています。今日の新聞にも、「児童手当加算」が来年度に予算化されるということが対策協議会で了承されたことが載っていました。
 同様に、企業もさまざまな子育て支援を行っています。少子化にはさまざまな原因があり、社会全体で取り組まないといけないのでしょう。そんなことで、昨日、厚労省の官僚と企業、保育園とのシンポジウムに出席しました。そのなかで、私は、「育児に対する、親としての評価、会社としての評価、社会としての評価を積極的にするべきではないか。」ということを提案しました。子育てが、どれだけ親を育て、仕事に還元できるか、また、いくら子育ての支援を企業がしても、その制度を使いにくいのは、精神的にとりにくさがあり、それは、子育てを企業が積極的に評価をしていないからではないか、また、産もうとする人が少ないのは、社会的に子育てがハンデになっており、それは、そのハンデをなくそうとさまざまな施策を打ち出しているだけで、もっと社会的にも子育てをすることが、とても意味があることも同時に訴えるべきではないかと思っています。ただ、社会的に意味があるのが、年金制度のためとか、社会を支えるとか、なんだか国のために産めというように聞こえますが、そうではなく、子育てをした経験が、男女が社会に参画する上で必要という意味です。このような意見に対して、官僚の方から、そんな情緒的なことを言うのはおかしいと言われてしまいました。だから、児童手当を加算するとか、出産費を無料にしようかとか、現実的にお金を渡せば産んでくれると思っているのでしょうね。それが必ずしも効果がまったくないとは言いませんが、逆に、もっと情緒的なことが原因のような気がします。そんなことが、今週号のアエラに紹介されていました。その記事の中に、子育てのすばらしさを表す言葉がいくつかありました。
「子どもがいなくて仕事に没頭していたら、ずっと落ち込みを引きずってたんじゃないでしょうか。日々、仕事では数字を追求せざるをえない。行き詰ったとき、全身に新鮮な空気をすーっと送り込んでくれるのは、決まって子どもたちだ。」「子どもを持って何かよかったことって、あるんですか―。30代の独身女性からそう聞かれて、驚いたことがある。子育てには、大変そうとか、おしゃれじゃないとか、ネガティブなイメージしかないのかと。もちろん、大変といわれれば大変に決まっている。子どもが保育園で熱を出して迎えに行かねばならないときや、どうしても残業しなくてはならないときのドタバタでも、いつだってそれを上回る喜びがある。」「子どもがいなければ、海外旅行や外食やいい洋服にお金がかけられる。そんな情報がいくらでもあふれている。でも、それで本当に幸せなのだろうか。」「子どもがいると、人生を2度生きる喜びがあります。自分の小さいころにもこんなことがあったなと、親のことを思い出しながら、節目節目で自分の体験と重ね合わせられるでしょう。」「自分だけなら絶対にありえない、というところにもどんどん出かける。プロ野球やサッカー、相撲観戦など、行ってみたら意外にこれが面白いことを発見した。」「仕事のストレスは家で、家のストレスは仕事で発散しています。」

お金

 先日、テレビで坂本九の生涯をやっていました。その坂本九の歌の中で、最近のニュースを見るにつけて思い出す歌があります。覚えている人もいるでしょうが、「悲しき60才~ムスターファ」という歌です。この歌がヒットしたのは1960年のことです。トルコの原曲に元都知事の青島幸男氏が詞をつけたものです。この歌詞は、当時はコミカルに描いているのかと思っていたのですが、あらためてよく読んでみると違うものが見えてきます。歌詞は、こんなです。
「遠い昔のトルコの国の 悲しい恋の物語。純情可憐な優しい男 それは主人公ムスターファ。見初めた彼女は奴隷の身、ところが僕には金がない。どうにもならない、諦めきれない、どうしたらいいんだろう、諦めきれない。未練な男ムスターファ。金さえあればこの世では、思いのかなわぬことはない。そこで僕は考えて、一念発起でマネービル。金の亡者ムスターファ。がっちりかせいだムスターファ。トルコで一の金持ちに、なってしまったムスターファ。急いで彼女を訪ねたら、いまや悲しき60歳。夢の破れたムスターファ。泣くに泣かれぬムスターファ。」
最初は、純情で可憐でやさしいムスターファが、金さえあれば、何でもできると思い始めます。そして、マネービルを始め、そのうちにお金を稼ぐことに面白さを感じ、次第に貪欲になり、金の亡者になり、金持ちになります。そして、やりたいことをしようと本来の目的に立ち戻ってみると、その思いは実現できません。時という、金で買えないものがあることを悟るのです。なんだか最近の「堀江」とか「村上」を思い浮かべます。たぶん、最初のころは純情で、思いがあったでしょう。しかし、お金が手に入るにつれて、次第に最初の志はどこかに消えていき、お金を稼ぐことだけが目的になり、そのうちに稼ぐことのためには手段を選ばなくなり、やがて、多額なお金が手に入りますが、大切なものを失っていることに気がつくと思います。すると、手に入れたかったものはなんだったのか、それは金で手に入るものだったのでしょうか。
 先日、知人から本が送られてきました。司馬遼太郎の「21世紀に生きる君たちへ」という本です。そこには、大阪書籍の教科書に掲載された2編の話が載っています。ひとつは本のタイトルである「21世紀に生きる君たちへ」という6年生の教科書に載っていたものです。もう1編が「洪庵のたいまつ」という、5年生の教科書に掲載されたものです。その書きはじめには、こう書いてあります。「世のために尽くした人の一生ほど、美しいものはない。ここでは、特に美しい生涯を送った人について語りたい。緒方洪庵のことである。このひとは、江戸末期に生まれた。医者であった。彼は、名を求めず、利を求めなかった。あふれるほどの実力がありながら、しかも他人のために生き続けた。そういう生涯は、はるかな山河のように、実に美しく思えるのである。」洪庵は、自分自身と弟子たちへの戒めとして、12か条よりなる訓戒を書いています。その第1条の意味を司馬遼太郎や優しく、しかも厳しく書いています。「医者がこの世で生活しているのは、人のためであって自分のためではない。決して有名になろうと思うな。また利益を追おうとするな。ただただ自分を捨てよ。そして人を救うことだけを考えよ。」こんな生き方の方にあこがれます。

梅雨の頃

 いろいろな地方にいっても、また、毎日園に通ってきても、自然の変化には感動することが多いです。それは、日本の緯度の問題や、地形の形や、海流の流れ方などが関係しますが、それによって、春、夏、秋、冬の四季の変化がはっきりとしていて、またその時々の自然が大変美しい国です。梅雨もその季節の一つだと思います。六月の中頃から七月にかけて、雨や曇りの多い日が続きます。日本のあたりで、寒流と暖流がぶつかることもあって、海産物は豊富ですし、恩恵がたくさんあります。その海流がぶつかるだけでなく、梅雨の時期には、日本の上空では2つの大きな空気の固まりがぶつかっています。その一つはオホーツク海に中心を持って日本を北の方からおおっているオホーツク海気団という冷たい空気です。もう一つは、太平洋に中心をもって日本を南の方からおおっている暖かい空気です。小笠原気団といいます。この2つが、6月から7月にかけて日本の上空で押しあいっこをしています。暖かい空気と冷たい空気がぶつかると簡単には混ざらずその境目で、温かく水分を含んだ空気が上昇し、雲を発生し雨を降らせます。どちらかの力が強いとその境目が日本の上にできなくていいのですが、梅雨の時期は引き分けの状態で力が釣り合っています。このような境目を気象では停滞前線と呼んでいます。雨の日が続いていい気分はしませんが、梅雨の雨は生き物にとっても私たち人間にとってもなくてはならない時期です。私たちの生活にはたくさんの水が必要です。梅雨の雨は私たちが生きていくのに必要な真水を湖や川にそして大地に1年分蓄えてくれる大切な役目をしているとも言えます。梅雨の雨にぬれた「アジサイの花」、田植えが終わった水田で鳴く「カエルの声」、日本の風景です。
ajisai1.jpg
  通園路脇のアジサイ
 梅雨から夏にかけて咲くアジサイは、七変化と言われるように咲いているうちにだんだん色が変化していきます。そのためか花言葉は「移り気」です。そんなアジサイ、原産は日本です。もとは関東地方の海岸に自生していたガクアジサイで、花が手毬状に咲くアジサイはその変形です。ガクアジサイは中心の小さい両性花と、まわりの大きな装飾花から成っています。その装飾花だけが丸く手毬状になっているのが一般的な手毬型のアジサイです。本来の日本のアジサイは青だったそうです。アジサイについてよく言われる話ですが、土壌が酸性だと青くなり、アルカリ性だと赤くなるといわれますが、園に沿って咲いているのを見ると、どうもそれだけではないような気もしてきます。
 また、「雨後のたけのこ」とは、梅雨のころということではありませんが、雨が降ったあとの春の竹林には、たけのこが次々と生えてくることから、同じようなことが次々と起こったり、あらわれたりすることという意味に使われます。このように、昔から、たけのこは成長が早いもの、すくすく伸びるものの代名詞とされてきました。「筍」という名前も、「10日間(旬)で、 竹になってしまうほど成長が盛ん」というところから付けられました。私が小さい頃見た漫画に、忍者が訓練をするとき、たけのこを飛んで越えさせるというものがありました。どんどんたけのこが大きくなるので、跳ぶ力がそれにあわせてついていくという修行です。ちょうど園庭の釣竿に使う布袋竹の林の中にたけのこが出ていました。あっという間に、大きくなってしまいます。
takenoko.JPG

六花亭

rokkatei.JPG
 地産地消といえば、帯広に本店がある「六花亭」の取り組みがいいですね。ある人によれば、日産のゴーン、ホンダの本田に並び称されることもあるくらいです。(NHKに取り上げられました)この六花亭は、今では、どのデパートにでも商品が並んでいるくらい有名ですが、当初は、北海道内に数店舗あった千秋庵という和菓子店の1つで、1933年、帯広千秋庵として開業したのが始まりです。最初は菓子があまり売れず苦心したといいます。それが、1970年代、当時、ホワイトチョコレートを製造販売する業者は日本国内にはほとんど存在していなかったのが、「帯広には白いチョコレートがある」という話題がライダーを通じて広まり著名になったのです。その後、札幌には既に同系列店の札幌千秋庵があり、そのままの屋号では進出できなかったことから、1977年に六花亭に屋号を変更しました。「六花」は、六角形の花、すなわち「雪」を意味しているそうです。このいきさつは、地元では良く知られています。先代、小田豊四郎(現会長)は函館市に生まれますが、十七歳のとき、母方の叔父・岡部式二と叔母・トヨが経営する札幌千秋庵に見習いとして入店します。そのわずか四年後、帯広千秋庵の後を引き継ぎますが、日本で初めて帯広千秋庵が開発した「ホワイトチョコレート」を通して、何とか本物の味を全国に広げたいと思っていましたが、札幌千秋庵は帯広以外での販売を許しませんでした。そのとき、今は亡きイワキメガネの先代、岩城二郎氏に“今まで千秋庵というのれんにおぶさっていたなら別だが、君は真心を込めておいしい菓子を作ってきた。今なら太郎兵衛でも次郎兵衛でも売れる”と話し、背中を押してくれたそうです。この豊四郎の菓子への熱意を知る、岩城の言葉が大きな後押しとなって、「六花亭」が誕生しました。雪の別名「六花(りっか)」は、奈良・東大寺の清水公照が「北海道を代表する菓子屋に」との思いを込め、命名した社名です。その豊四郎の人生に影響を与えた人物のなかで、“商人”としてのあり方に絶大な影響を与えた人が、商業雑誌「商業界」の創刊に協力し、「愛と真実の商道」を説いた新保民八です。戦後から復興期にかけての日本の商売は、商品に値札を貼ったり、現金商売はまれで、人の身なりや風貌で価格を決める、「悪徳商法」まがいの商売も横行していたなか、日本の商業界に近代商業の思想を流布し、「損得」よりも「善悪」を教えたのです。新保の説いた「正しきによりて滅ぶる店あらば、滅びてもよし、断じて滅びず」は、今でも六花亭の経営の大きな柱です。また、本業の製菓事業で無添加物生産や地産地消(地産地消(ちさんちしょう)とは、地域生産地域消費(ちいきせいさん・ちいきしょうひ)の略語で、地域で生産された農産物や水産物をその地域で消費すること。)運動にも取り組んでいることから企業として社会活動にも力を入れています。そのため、文化・芸術活動にも力を入れていて、中札内美術村などを管理・運営しています。この村へ昨日、連れて行ってもらいました。
kasiwa.JPG
 柏の林の中には、彫刻家である坂東優氏の作品を展示している「夢想館」、北海道の名峰を多数描いた「相原求一郎美術館」、開拓農民として自然を描き続けた「坂本直行記念館」、そしてびっくりしたのが、私のこのブログの竜の絵のモデル(鎌倉建長寺の天井画)を描いた「小泉淳作美術館」が点在していました。また、35年からずっと「きびしい風土のなかで、たくましく育っていく子どもたちに、豊かな詩心を育むこと」を願って『サイロ』という同人誌も発行しています。

帯広

 私は、地方に行くと楽しみなことがいくつかあります。まず、その地域の自然です。日本列島が南北に細長いおかげで、地域のよっての自然にとても変化があります。また、ほかには、その地域の文化遺産も楽しみです。その地域なりの歴史があるからです。そして、あまり派手ではありませんが、それぞれの地域の町並みを見るのも好きです。たとえば、今回訪れている帯広という都市は、道が碁盤の目のように走っています。京都や奈良は有名ですが、同じように整然としています。城下町などに行くと、道が狭く、曲がりくねっているので迷うことが多いのですし、門前町に行くと、すべての道はローマではありませんが、参道として、寺や神社に続いています。また、道に沿っている建物、特に民家は、その土地の気候に適応するようなつくりになっていたり、そこの産物を利用したりして、文化が分かることがあります。白川郷の合掌造りとか、瀬戸のあたりは瓦屋根が多いとか、面白いことが見つかります。もうひとつ、最近、地方に行って興味を持つことがあります。それは、町おこしに対しての試みです。古くからあるもの、特徴のあるものを見出して、街づくりをしようとする動きです。一昨日行った北見のハッカ博物館では、あまりお客がいないようなので、私は、そこの係員に提案してみました。「この博物館は、建物もいいし、周りにさまざまなハーブが植えてあり、敷地もあるので、この一角に、洒落たハーブ喫茶店とか、自然食だけで作るハーブレストランなどを作ると、若い人が来るのではないでしょうか。7月に折角、ハーブサミットをやるのに何もないのは、あまり観光客を呼べないのでは。」それから、そんなに有名なハッカなのに、今は、まったく作っていず、全部輸入だそうです。(博物館のなかで、ハッカを作る蒸留実験分だけは作ってもらっているそうですが)いろいろな企画のアイデアがありそうなのですが。
帯広市は、東北海道では釧路市の次に大きな十勝地方の中心都市で、北海道で6番目に大きな都市だそうです。今日、その歴史が展示してある「帯広百年記念館」を、市の児童家庭課長さんに案内をしてもらいましたが、とても博学で、分かりやすく説明してもらいました。この帯広の街は、官主導の屯田兵や旧幕府家臣による開拓ではなく、静岡県出身の依田勉三率いる晩成社一行が1883年(明治16年)に入植したのが開拓の始まりです。その後、次第に、十勝地方の農産物の集散地として成長していきましたが、交通機関の発達とともに拠点性を失い、近年は人口が減少しているそうです。そんな町での町おこしのひとつに「北の屋台」があります。これをモデルに、屋台村が全国にも誕生しています。2001年に、絶滅種の業種である屋台に新しい息吹を与えて、新規参入のできる「十勝型オリジナル屋台」を開発したのです。
yatai.jpg
 夜、行ってみましたが、とても狭い場所ですが、どの店も若い人たちで、満員でした。しかも、飲み屋街という印象ではなく、農業王国である十勝という土地柄を利用して、地産地消という考えの下で、県外に出てしまっているおいしいものを、地元の生産者との協力の下、旬の新鮮な食材を味わうというものです。もうひとつ、牛丼が食べられなくなって有名になった「豚丼」発祥の地です。朝、元祖の店に行って写真を撮ってきました。いつもは、行列だそうです。いたるところのレストランに「帯広名物豚丼」というメニューがあります。今回は食べる機会がなかったのですが、次回は、ぜひ!と思っています。
ganso.jpg
   帯広百年記念館と元祖豚丼店