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2006年06月30日 [近頃思うこと]
セキレイ
今、園庭に幼鳥を連れた母鳥が飛んでいます。その鳥は、「チュンチュン」とやわらかい声で鳴き、尻尾を上げ下げします。以前は、自宅の庭にもよく飛んできました。父親は、その鳥を「しりふり」と呼んでいました。「スズメ目セキレイ科」の鳥です。セキレイの仲間で、日本で普通に見られるのは、セグロセキレイとハクセキレイとキセキレイの3種類です。その中で、庭に飛んできていたのは、「キセキレイ」でした。最近は、この鳥はあまり見かけなくなりました。水辺などではよく見ることができ、夏と冬では若干羽の色が違います。夏羽は、顔は灰色で、眉斑、顎線は白いです。喉は黒く、三列風切の内弁の縁は白くなっています。腹は黄色で脇は白っぽく、とてもきれいな色をしています。足は薄いピンク色で嘴は黒く、体系もとてもスマートで、尾は長く、その尾を上下に振るので、優雅に見えます。都内ではあまり見かけなかったので、初めてみたときは、感動しました。園庭に飛んでくるのは、どうも「ハクセキレイ」です。このあたりの長池公園で一番普通に見られるのがこのハクセキレイです。セグロセキレイと似ていますが、セグロセキレイでは顔が黒く目の上に白い眉があるのに対して、ハクセキレイは顔が白く、黒い線が目の部分を横切ります。

ハクセキレイは街中の街路樹などに集団でねぐらをとることがあり、八王子の市街地でも何箇所かハクセキレイのねぐら(冬は塒(ねぐら)に集合します)が確認されています。セグロセキレイは河原などの水辺を離れることはあまりなく、声が濁っています。園庭にハクセキレイが子どもと一緒に来るのですが、幼鳥は頭上から背は灰色で、眉斑は白く、耳羽は白と灰色のまだらです。セキレイの繁殖期は3~7月です。原則的には、一夫一妻だそうです。そして、繁殖期には縄張り分散をします。雄同士の戦い行動は、実戦、追いかけ、それに頭を上下させたりジャンプするような脅しのディスプレイをします。それに反して、求愛行動は雌のなだめのディスプレイで始まります。雌は前傾姿勢で尾羽を上げるポーズをとると、雄は尾羽を開き翼を下げる求愛ディスプレイをするのです。実は、この鳥、日本ではありふれた鳥ですが、世界中で見られるのは日本だけという、外国のバードウォッチャー(外国では「バーダー」)にとっては、憧れの鳥です。なんとなく、体系、色使い、しぐさが優雅だからでしょう。しかし、あまり昔から歌には歌われていないようです。また、歌の中で、どのように呼ばれている鳥がセキレイにあたるのかよくわかっていません。一説には、「稲負鳥」と呼ばれている鳥が該当するのではないかと言われています。そして、あの尻尾を上下に振るしぐさを見て、イサナギノミコトとイザナミノミコトは「交(とつぎ)」の方法を知ったともいわれています。ですから、この鳥は「とつぎ鳥」と呼ばれるようです。また、その尾の動きが牛馬に稲を負わせて運ぶ様に似ていることから、この鳥が牛馬に稲を負わせて運ぶことを民に教えたともいわれています。ですから、「稲負鳥」といわれたのではないかといわれます。
「セグロセキレイ」は、「全国野鳥保護のつどい」が高知県で開催されるのを機会に、昭和54年に高知市の市の鳥に指定されています。高知市では、鏡川を中心に各河川で一番多く見かけるからだそうです。今年は、山内一豊の年。最後の居城である高知城に今年中に行ってみようと思います。
投稿者 fujimori : 20:56 | コメント (0)
2006年06月29日 [講演先にて]
小山
今日は、新幹線を小山駅で降りました。最近まで、小山という地域は、「おやまゆうえんち~」というコマーシャルで聞きなれているだけでした。その「小山遊園地」も2005年2月をもって閉園したそうです。そんな小山ですが、なんとこの地が、今年話題になりそうです。私は、今年は、NHKの大河ドラマめぐりをしています。別に意識をしていたわけではありませんが、ちょうど原作の「功名ガ辻」を読んだこともあり、なんとなく縁があるところをめぐっているという感じです。先日は、掛川城に行きました。今日は、たまたま講演で、小山です。何で、小山が山内一豊と千代に関係があるのでしょう。(テレビでは、9月頃に放送されるそうです)
一豊にまつわる言い伝えのなかで、いくつか有名な逸話があります。それは、その後の人生に影響を与えます。その時々に妻の千代が関係しています。それは、内助の功というよりも、夫へのコンサルとか、作戦を授けているとかというイメージです。そのひとつが「小山評定」と呼ばれているものです。「評定」とは「人々が集まって相談してきめること。評議して決めること。」です。「小田原評定」という言葉は有名ですね。秀吉軍との攻防を前に、城内では戦略論争が続けられました。出撃して秀吉を撃つか、籠城して迎え撃つか、選択に迷っていたのです。存亡がかかっていた大決断をしなければならないのですから、簡単には決まりません。結論が出ないまま,軍議は連日開かれたといいます。結局は、籠城100日もむなしく、ついに秀吉に投降します。この城内の和戦の評定が長引いて決定しなかった故事から、いつまでたっても結論の出ない会議・相談のことを「小田原評定」といいます。
それに対して、「小山評定」は全く正反対の評定でした。「小山評定」は、徳川家康が練りに練って仕切り、日本の歴史を変えた評定として有名です。石田三成が京で挙兵し、上杉討伐に向かった徳川軍の諸大名の大坂屋敷を、厳しい監視下においたときの千代の行動が有名です。人質として軟禁された千代は、三成方の発した家康討伐の檄文と共に一豊宛の密書をしたため封をし、別に密文を作って編み笠に織り込み一豊に届けるよう家臣に託したのです。別の密書の内容は「密書を、封を切らず家康に渡せ」という内容です。そして檄文と共に封をした密書には「自分(千代)のことは気にせず、家康公に尽くせ」と書いてあったといいます。この密書で家康は三成の挙兵を確信し、小山評定が開かれます。家康は、従軍した福島正則らの豊臣恩顧の諸将の協力をとりつけて、後日の関が原合戦勝利の布石を打ちます。豊臣政権から徳川政権へ歴史の流れを変えた評定という訳です。この評定に山内一豊が大きなキーマンになっているのです。この席で山内一豊は家康への掛川城明け渡しをいち早く提案したことが、立場を明確にしていなかった武将の中にも東軍に付くことを後押しするきっかけとなるのです。この発言が家康の心証を更に良くして、その後大幅に加増されます。実際は、浜松城主堀尾忠氏の考えでしたが、忠氏が一豊に話したことを評定で先に一豊が提案してしまったといいます。それも、運というか、実力なのかもしれません。
NHKドラマの時代考証をしている小和田先生の話を妻が聞きに行きました。この先生の考えでは、このような千代と一豊の功名が交わること(辻とは道が十字に交わるところのこと)が「功名が辻」のタイトルではないかといっています。人は、人生の中で、どんな人と交わるか、人生にどんな影響を与える人と出会うかは、その人の運というか、実力かもしれません。
投稿者 fujimori : 23:23 | コメント (0)
2006年06月28日 [近頃思うこと]
雨の歌 その3
「あめふり」を作詞した北原白秋は、他にもずいぶんと雨を歌った詩を書いています。有名なのが、「城ヶ島の雨」ですが、それよりも梅雨の頃の子どもの気持ちを書いた歌に、弘田龍太郎が作曲した「雨」があります。
1.雨がふります 雨がふる 遊びにゆきたし 傘(かさ)はなし 紅緒(べにお)の木履(かっこ)も 緒(お)が切れた 2.雨がふります 雨がふる いやでもお家(うち)で 遊びましょう 千代紙(ちよがみ)おりましょう たたみましょう 3.雨がふります 雨がふる けんけん小雉子(こきじ)が 今啼(な)いた 小雉子も寒かろ 寂しかろ 4.雨がふります 雨がふる お人形寝(ね)かせど まだ止(や)まぬ お線香(せんこう)花火も みな焚(た)いた 5.雨がふります 雨がふる 昼もふるふる 夜もふる 雨がふります 雨がふる
なんだか切なくなりますね。それは、「はじめは雨が続いてつまらないな」と思う少女の気持ちを描いているうちに、次第に心の中にまで雨が降ってくるような気がしてくるからです。石原裕次郎の「ブランデーグラス」の歌詞にも、たしか「雨は降る降る 部屋の中にも胸にも」というのがあったような気がします。
いろいろと雨の歌があり、しみじみとしたもの、しっとりしたもの、切ないものとありますが、私は、この「雨」のように雨が降るのをネガティブに考えるのではなく、もっと、ポジティブに考えたいものです。そのような意味で、最も雨の歌の中で好きな歌は、「あめふりくまの子」です。鶴見正夫作詞、湯山昭作曲で、この歌を聴くと、ここに出てくるくまの子を抱きしめたくなります。
1.おやまに あめが ふりました あとから あとから ふってきて ちょろちょろ おがわが できました 2.いたずら くまのこ かけてきて そうっと のぞいて みてました さかなが いるかと みてました 3.なんにも いないと くまのこは おみずを ひとくち のみました おててで すくって のみました 4.それでも どこかに いるようで もいちど のぞいて みてました さかなを まちまち みてました 5.なかなか やまない あめでした かさでも かぶって いましょうと あたまに はっぱを のせました
昨年の5月10日のメルマガ(まだ、ブログは始めていなかったので)に書いたのですが、私の好きな歌に「おさるがふねをかきました」があります。その歌詞の「3、なんだか すこし さびしいと しっぽも いっぽん つけました。4、ほんとに じょうずに かけたなと、 さかだち いっかい やりました。」ということをするような「さる」を抱きしめたくなります。さるが船に尻尾をつけようとするところ、くまのこが水溜りに魚がいないかと覗き込むところが大好きです。そして、さるは、尻尾をつけてうれしくなって、逆立ちします。くまのこは、魚がいないので、その水を手ですくって一口飲みます。そして、はっぱを頭にのせます。そして、どちらも偶然ですが、さるは、「ふねでもかいてみましょうと」くまのこは、「かさでもかぶっていましょうと」と思います。この言い方は偶然でしょうか。今の子は、そんな風には思わないでしょうが、 私から見ると、子どもの世界の気がします。
雨が続く毎日でも、いろいろと思いをめぐらすことができますね。
投稿者 fujimori : 17:50 | コメント (0)
2006年06月27日 [近頃思うこと]
雨の歌 その2
梅雨の頃の雨の日は、なんともいえない情緒があります。そんな情緒が感じられるような曲を書かせたら天下一品なのが、「中山晋平」です。同じ中山晋平作曲でも、昨日の「あめふり」の心が浮き立つような、弾むような曲と違って、しっとり聞かせるのが、野口雨情の作詞で作られた「雨ふりお月さん」です。中山晋平は何と3000曲もの作品を遺しているとのことです。中山晋平の記念館が熱海市にあります。今年の1月に熱海に行った時に寄ってみました。
1.雨降りお月さん 雲の陰 お嫁にゆくときゃ 誰とゆく 一人で唐傘 さしてゆく 唐傘ないときゃ 誰とゆく シャラ シャラ シャン シャン 鈴つけた お馬に揺られて 濡れてゆく 2.急ぎにゃお馬よ 夜が明けよう 手綱の下から チョイと見たりゃ お袖でお顔を 隠してる お袖は濡れても 乾しゃかわく 雨降りお月さん 雲の陰 お馬に揺られて 濡れて行く
大正14年に“雨降りお月”が子ども向け絵本「コドモノクニ」に掲載され好評を得たことから、翌々月に、「雲の蔭」という別の作品が発表されたものを、中山晋平が、くっつけて改めて「雨降りお月さん」としたらどうかというアイデアを出したのです。メロディが微妙にことなるものが使われています。この歌詞の情景は、お月さんが傘をさし夜明けまでに間に合うように馬に乗ってお嫁に行くという情景設定になっています。さしていく傘は、唐傘です。唐傘はもともとは頭に直接かぶる笠に対して、柄のある差し笠のことを言い、その中で太い柄のものを番傘といいます。それにしても、雨降りで見えぬはずの月にむかって、「嫁に行くときは誰と行くのか?」という語りかけで始まるのは、同じコンビが作った「シャボン玉」に似た寂しさが感じられますね。
同じ中山晋平の作曲で雨の歌といえば、「てるてる坊主」があります。作詞者の浅原鏡村は長野県北安曇郡池田町出身で、中山晋平と同郷です。大正10年6月号の「少女の友」に発表されました。
1.てるてる坊主 てる坊主 あした天気に しておくれ いつかの夢の 空のよに 晴れたら金の鈴あげよ 2.てるてる坊主 てる坊主 あした天気に しておくれ 私の願を 聞いたなら あまいお酒を たんと飲ましょ 3.てるてる坊主 てる坊主 あした天気に しておくれ それでも曇って 泣いたなら そなたの首を チョンと切るぞ
てるてる坊主とは、日本の風習の一つであり、これを正立させた状態で軒先などに飾ると、明日の天気が晴れになると言われています。「てるてる法師」、「てれてれ坊主」、「日和坊主(ひよりぼうず)」など地域によってさまざまな呼称がありますが、子どもたちが晴天を願って「明日天気になあれ」と歌いながら、てるてる坊主をつるす風習が始まったのは江戸時代のことです。晴天になった後は、瞳を書き入れて神酒を供え、川に流すので、吊るすときは、目鼻は書き込みません。一部地域などでは逆に倒立させた状態で飾ると、明日の天気が雨になると言われています。幻となった一番の後半は「もしも曇って泣いてたら 空をながめて みんな なかう(泣こう)」という歌詞です。しかし、晴天だと金の鈴や甘い酒がもらえて、雨だと首を切られるというのは、少し残酷ですね。ここには童心独特の残酷性があるかもしれません。
投稿者 fujimori : 19:31 | コメント (1)
2006年06月26日 [近頃思うこと]
雨の歌 その1
東京は、窓の外では今日も雨がしとしと降っています。まさに、梅雨という感じです。ところによっては、かなり降っているところがあるようで、梅雨というより豪雨なのでしょうね。本来は、あの しとしと雨が降る梅雨の季節は、なんとなく叙情的になります。熱情的な、あのカンカンと日が照りつける夏を前に、なんとなくしみじみします。そんなときを歌った歌が多くあります。子どもというキーワードで、この季節で思い出す歌に、作詞作曲不詳で、「尋常小学唱歌」だった「かたつむり」があります。
1、でんでん虫々 かたつむり、お前のあたまは どこにある。角だせ槍(やり)だせ あたまだせ。2、でんでん虫々 かたつむり、お前のめだまは どこにある。角だせ槍だせ めだま出せ。
柳田國男の「蝸牛考」によると、「でんでん」は「出ろ、出ろ」と子どもがカタツムリを指して呼ぶ言葉が訛ったものではないかと推測しています。しかし、この「ツノ出せヤリ出せ頭だせ」の「ヤリ」とは、交尾の際に出る生殖器や恋矢とする説もありますが、はっきりしません。しかし、ツノと呼ばれるものは、頭部にある2対の触角で、大きい触角の先端には眼があります。このかたつむりにはとても面白いことがあります。彼らはゆっくりと移動するために、移動範囲が狭く、子どもを産むためにオスメスが出会う機会が少ないのです。また、たとえ卵が産まれても親まで無事に育つ可能性も少ないのです。そこで、より確実に、より多くの子孫を残すために、同じ体の中に雄と雌の両方の機能を持っています。(雌雄同体)これは、子孫を残すための戦略なのでしょう。そして、交尾後、両方ともが産卵します。ですから、飼うときに、オスメス考えなくて2匹入れておけば、卵を産みます。
次の歌は、父子家庭の子どもにはかわいそうかもしれませんが、母親と子どものつながりを描いている歌詞としては、私は傑作だと思います。大正14年の北原白秋作詞、中山晋平作曲「あめふり」です。お母さんが迎えにきてくれたことで、うれしくて仕方ないという気持ちがよく出ています。あらためて、歌詞をよく読んでみてください。
1.あめあめ ふれふれ かあさんが じゃのめで おむかい うれしいな ピッチピッチ チャップチャップ ランランラン 2.かけましょ かばんを かあさんの あとから ゆこゆこ かねがなる ピッチピッチ チャップチャップ ランランラン 3.あらあら あのこは ずぶぬれだ やなぎの ねかたで ないている ピッチピッチ チャップチャップ ランランラン 4.かあさん ぼくのを かしましょか きみきみ このかさ さしたまえ ピッチピッチ チャップチャップ ランランラン 5.ぼくなら いいんだ かあさんの おおきな じゃのめに はいってく ピッチピッチ チャップチャップ ランランラン
この曲は、大正14年雑誌「コドモノクニ」に発表され、昭和25年から48年まで教科書に掲載されました。今の若い人は知らないでしょうが、「蛇の目傘」に雨粒があたると、ピッチピッチと小気味良い音がします。その擬音語が、子どもの心の弾んだ音とダブって聞こえます。
投稿者 fujimori : 19:32 | コメント (0)
2006年06月25日 [散歩]
掛川
また最近、青少年の悲惨な事件が続きます。いったい、何が原因なのでしょう。共通する要因が何かないのでしょうか。詳しいことは分かりませんが、わが子に殺された親は、どうも子どもを常にひどく注意をしているようです。家に放火して母親と弟妹を殺した高校生も、医者である父親から「ICU(集中治療室)」と呼ばれる部屋で、勉強をさせられていたそうです。先日のブログにも書きましたが、「坊ちゃん」が悪くならなかったのは、「清」という、常に期待する人がいるからです。2005年に東大社会科学研究所が「職業の希望に関するアンケート」という調査を実施し、その結果から分析したものが新書版の「希望学」(玄田有史編)に書かれています。その中で、こう書かれています。
「希望に大きな影響を与える背景は、家族の記憶だ。子どもの頃、自分は家族から期待されていたという記憶がある人ほど、希望を持って生きている人が多くなっていた。親や家族からの進学や就職への期待がプレッシャーとなって、将来に思い悩み、希望を失ってしまうといった事例も多いのではないかといわれたりもする。しかし、データが語る事実は、逆だ。むしろ家族から期待されたという過去の記憶を持っていない人は、未来への希望も見出しにくい状況が起こっている。」このように期待、それも過度の期待ではなく、子どもを信じてあげる気持ちが大切だと思います。このようなことは、よくいわれています。今は、賛否両論あり、批判も多いのですが、「ピグマリオン効果」ということが、教師の間でいわれたことがありました。ピグマリオンという名称は、ギリシャ神話を収録した古代ローマのオウィディウス「変身物語」に登場するピュグマリオン王の恋焦がれた女性の彫像が、その願いに応えたビーナス神の力で人間化したと言う伝説に由来しています。その名前を取って、「ピグマリオン効果」というのは、人間は期待された通りに成果を出す傾向があることの現れとされたものです。

掛川城と御殿
いま、NHKテレビの大河ドラマで、司馬遼太郎原作の「功名が辻」を放送しています。これは、山内一豊とその妻千代の話ですが、妻の鏡といわれ、教科書にも取り上げられた「千代」は、徹底して夫の一豊を信じ、期待し、励まし、成功に導いたとされています。今年のこのドラマにちなんで、一豊の居城であった掛川城のある掛川市で、「功名が辻フェスタin掛川」が開催されているので、行ってみました。静岡県西部に位置する掛川市は、約10年間城主として在城した山内一豊創建の天守閣をランドマークとする城下町です。その掛川城天守閣は、江戸後期の安政の大地震で損壊し、そのまま明治2年に廃城となりましたが、平成6年に日本初の本格木造にて復元され、現在にその勇姿を残しています。場内を急な階段を上ると、天井には、太い木の梁が渡されており、コンクリートでの復元と違う味わいがあります。また、その足元には、「掛川城御殿」があります。この御殿は、藩の公式式典の会場、藩主の公邸、藩内の政務をつかさどる役所という3つの機能を合わせもった施設です。この御殿は江戸後期の建物で、数少ない江戸期よりの現存城郭御殿であり国重要指定文化財となっています。
ある時代におけるエピソードは、後世にある意図を持って使われることがあります。ですから、にわかに史実として信じてよいかは分かりませんが、それを通して人々に伝えたいことをすべて否定する必要はないと思います。
投稿者 fujimori : 20:46 | コメント (0)
2006年06月24日 [講演先にて]
津
今日は、静岡県の沼津から焼津へ移動しました。この地名を聞くと、たぶん以前ワープロを使っていたときや、今パソコンを使うときに、あることの覚えがあるはずです。それは、打ち込むときに「ぬまず」と打ち込むと、変な漢字になってしまうことです。それは、「ぬまづ」と打たないといけないからです。よく、「あいづ」と打つときでもそんな経験があります。そういえば、静岡県には、ほかにも「河津」(こうづ)もあります。このように読むほかに、「津」がつく地名も多くあります。途中に「興津」(おきつ)という駅を通りましたし、「三津」(みと)とかありますね。この「津」には、「船着き場」「船の泊まるところ」「港」などの意味があります。その由来は、出入り口の意味の「と(門・戸)」であるといわれています。「万葉集」にも、「海上(うなかみ)の その津をさして 君が漕ぎ行かば」と、「津」の使用が見られます。ですから、港を襲う波は、「津波」です。(一説には、強波(つよなみ)から「津波」になったとする説もありますが、これは、有力な説とされていません。)また、港の番人を「津」を守る人ということで、「津守」(つもり)といい、やはり万葉集に歌われています。「住吉(すみのえ)の―網引(あびき)の浮けの緒の/万葉 2646」また、同じような意味で、「浦」があります。これは、「裏」と同源ですが、「海などの、比較的小さな湾入部。入り江。」という意味があります。これを使った地名も多いですね。同じ静岡には、「田子の浦」がありますし、浦賀とかもその意味から来たのでしょう。いたるところの「津」や「浦」ということで、全国いたるところのことを、「津々浦々」(つづうらうら)といいます。また、渡し場と橋の意から「津梁」(しんりょう)ということばは、「人を導く手引きとなるもの」とか「つて」という意味に使われます。また、これを「衆生(しゆじよう)を彼岸に導くことから」ということから、「仏」(ほとけ)や「仏の教え」のことを言うこともあります。あと、これははっきりしませんが、「津津」(しんしん)という言葉がありますね。これは、「あふれ出て尽きないさま」ということを言います。「興味津々」というように使いますね。これも、なにか「津」に関係があるかもしれません。
ほかにも、地名に「津」に関係する場所を思い出してみるといろいろなことが分かります。静岡県同様、海に面する県には、「津」がつく地名は多いですね。たとえば、千葉県にも「木更津」「君津」などがあり、もちろん、三重県の県庁所在地の「津」も港です。また、滋賀県の県庁所在地である「大津」という地名の由来も、琵琶湖の大きな港を意味し、後に古津(ふるつ)という呼び名から大津に改められたと言われています。同様に出雲にある「大津」も、古代から江戸期にかけ、斐伊川を通う舟が奥地の産物を運んだ大きな港であったことから名づけられています。埼玉県の「松戸」という地名の起こりも、もともとは、太日河(ふとひがわ・現在の江戸川)の津(渡し場)でもあったことから、「馬津(うまつ)」とか「馬津郷(うまつさと)」と呼ばれていたのが、「まつさと」になり、やがて「まつど」になったといわれています。
しかし、どうも「会津」は港には関係していないようです。会津の地名の由来は,古の昔の坂上田村麻呂の東方征伐にさかのぼります。太平洋側と日本. 海側の二手に分かれた両軍が,この津で初めて出会ったという故事によるという話です。「津」には、「盆地」という意味もあるようです。
投稿者 fujimori : 21:01 | コメント (0)
2006年06月23日 [講演先にて]
道後

後ろから見た道後温泉本館と坊ちゃん列車
昨日は、久しぶりに道後温泉に泊まりました。いま、ふた月に1回、松山に連続講座で行っているのですが、いつも宿が取れず、シティーホテルに泊まっていたからです。道後といえば、白鷺が教えてくれた由緒ある温泉地ですが、その中でも、「本館」と呼ばれる温泉が有名です。この温泉が有名なのは、さまざまな文人たちが泊まったということもあるのですが、小説「坊ちゃん」の舞台になったからです。今年は、「小説坊ちゃん発表100周年記念」ということで、あちこちにのぼりがたたっています。この「本館」は、建物は由緒があり、趣はあるのですが、湯船は狭く、いつも混雑していて、ゆっくりと手足を伸ばすことができないので、私はあまり行きません。温泉のよさは、湯船の中で、手足を思い切り伸ばせるからです。いつも手足を縮めて入っているので、広々とした湯船で、一人ゆっくり入るのが好きです。ということで、露天風呂付きの部屋もあまり泊まろうとは思いません。狭い湯船だからです。なんだか、それでは家で入っているのと変わりません。ということは、もしかしたら、温泉好きというよりも、小さいころから銭湯に入っていたせいか、広い湯船がすきなのかもしれません。今の時期ですと、温泉地はお年寄りの観光客が多いため、夜中に入ったり、朝遅く入ったりすると、ほとんど人はいないので、一人でゆっくりと入れます。そんなときは、広い湯船を独占できて、極楽ですね。今朝は、小雨のためもあって、屋上の露天風呂には誰もいなかったので、ゆっくりと長く入ってしまったため、昼ころまで体が火照って、汗びっしょりになってしまいました。
泊まった宿の部屋には、小説「坊ちゃん」が置いてありました。久しぶりに読み返してみました。小説としては、小気味良く、テンポがあり、とても面白いと思います。しかし、坊ちゃんの性格が正義感あふれ、正直であるということを良く聞きますが、申し訳ないのですが、私は、坊ちゃんの教師としての資質はあまり評価していません。坊ちゃんは、赴任先の中学校で、さまざまないたずらに悩まされます。しかし、坊ちゃん自身も「この外いたずらは大分やった。大工の兼公と肴屋の角をつれて、茂作の人参畠をあらした事がある。人参の芽が出揃わぬ処へ藁が一面に敷いてあったから、その上で三人が半日相撲をとりつづけに取ったら、人参がみんな踏みつぶされてしまった。」とあるように、相当ないたずらものです。それが、どうして、中学生のいたずらを理解できなかったのでしょう。教え方にしても、また、中学生とのやり取りにしても、なんだかはじめから田舎ものというように馬鹿にしている気がして仕方ありません。しかし、この「坊ちゃん」が徹底して悪くならなかったのは、清というよき理解者がいて、人が何を言おうが、「いつもあなたは、りっぱだ」「きっとえらくなる」と常々言われていたからでしょう。不幸にして親に理解されない場合でも、誰か信じてくれる人がいれば、それだけでも救われるものです。「この婆さんがどういう因縁か、おれを非常に可愛がってくれた。不思議なものである。母も死ぬ三日前に愛想をつかした――おやじも年中持て余している――町内では乱暴者の悪太郎と爪弾きをする――このおれを無暗に珍重してくれた。略 自分の力でおれを製造して誇ってるように見える。少々気味がわるかった。」この小説の最後に「あら坊っちゃん、よくまあ、早く帰って来て下さったと涙をぽたぽたと落した。おれもあまり嬉しかったから、もう田舎へは行かない、東京で清とうちを持つんだと云った。」とあるように、帰るところは、自分を理解してくれた人のところなのでしょう。
投稿者 fujimori : 13:51 | コメント (0)
2006年06月22日 [読書]
コロボックル
昨日、我が家の食卓に「ふき」が出ました。こんなくさいものが今は、大好きです。「ふき」といって思い出すのが、先日帯広に講演に行ったときです。足寄を通過したとき、あたり一面に「ふき」が大きな葉を広げていました。そして、帯広百年館に行ったときに、ふきの葉を持った小さなアイヌの子が描かれたロゴマークがありました。私は、聞いてみました。「これは、コロボックルですか?」「そうです。いろいろなところで言い伝えがあり、苫小牧などは有名ですが、足寄地方でも、その伝説はあるのですよ。」と言われました。そういえば、足寄の道の駅正面を入っていくと、改札の横に、松山千春さんの等身大パネルがかざってあります。

それは、2階のギャラリーに千春さんのステージ衣装や、愛用のギター、ツアーグッズなども展示してあるように、ここ足寄が彼の出身地だからです。ですから、ずっと松山の歌が流れていました。私は、その展示物は見なかったのですが、写真は驚きました。というのは、松山千春が、蕗を持っていたからです。ここの足寄町の東に位置する螺湾地区には、「日本一大きなフキ」として全国的にも有名な「螺湾ブキ」が自生しているからです。世界には約20種の蕗の仲間があるそうですが、日本には、フキとアキタブキ(オオブキ)のみだそうで、普通、食用として利用されるワセブキやミズブキは前者のフキで、足寄町螺湾地区で育つ大きな螺湾ブキは、後者のアキタブキと同じものとみられています。この螺湾地区の沢沿いに群生するフキは、草丈2~3m、茎の直径が10cmにもなり、とても大型です。こんな蕗を見ると思い出すのが、「コロボックル伝説」です。コロポックル(korpokkur)とは、アイヌの伝承に登場する小人で、アイヌ語で、一般的には「蕗の葉の下の人」という意味であると解されているからです。アイヌの小人伝説は広く北海道や南千島や樺太に流布しており名称もこのコロポックル・コロボックルのほかにトィチセウンクルとかトィチセコッチャカムィとかトンチ(これらはみな「竪穴に住む人」の意)というふうに呼ばれることもあります。屋根をフキの葉で葺いた竪穴にすんでいたといわれています。彼らは情け深くアイヌに友好的で、鹿や魚などの獲物をアイヌの人々に贈ったりアイヌの人々と物品の交換をしたりしていましたが、姿を見せることを極端に嫌っており、それらのやりとりは夜に窓などからこっそり差し入れるというやりかたでした。あるときあるアイヌの若者がコロポックルの姿を見ようとそのものを差し入れるを待ち伏せ、贈り物を差し入れるその手をつかんで屋内に引き入れてみたところ、美しい婦人のなりをしており、その手の甲には刺青がありました。(なおアイヌの夫人のする刺青はこれにならったものであるといわれています)コロボックルは青年の無礼に激怒し、以降アイヌの人々がコロボックルの姿を見ることはなくなったといわれます。しかし、このコロボックルが有名になったのは、1959年に佐藤さとる氏がコロボックルをテーマにした「だれも知らない小さな国」を出版したことが、現在のコロボックルのイメージの礎となっています。この作品は「コロボックル物語」としてシリーズ化され、「豆つぶほどの小さないぬ」「星からおちた小さな人」「ふしぎな目をした男の子」「小さな国のつづきの話」などの続篇が書かれ、私も夢中で読みました。そして、最初に出版された時に挿絵を担当していたのは、若菜珪さんという人でしたが、途中から、村上勉さんが挿絵を担当しています。あるパーティーで村上さんと会ったときに、ミーハーのように一緒に写真を撮らせてもらいました。
投稿者 fujimori : 23:48 | コメント (0)
2006年06月21日 [新聞記事より]
ディシプリン
今日の朝日新聞のコラム「天声人語」にこんなことが書いてありました。
「一般にはなじみが薄いが、たまに目にする言葉に「ディシプリン」がある。英語では「discipline」で、規律、鍛錬、しつけ、懲罰などの意味がある。サッカーでは、チーム全体の「共通理解」や「約束事」といった戦術面での徹底を指す意味で使われることが多いという。」そして、「経済の世界では、こんなふうに使われていた。「新しい自由な社会においては、みんながある道徳律というか、ディシプリンを持つようにならないといけないと思うんです」。10年前、当時副総裁だった福井俊彦日銀総裁が述べた(岡本行夫対談集『ニッポン再生最前線』)。福井氏は「今の日本人は規制に慣れすぎて自らのディシプリンを持っているのか」とも述べた。規制緩和が進んだ21世紀の社会を展望し、それぞれが己を律するものをきちんと持つべきだという趣旨にはうなずける。しかし、それを徹底するのは容易ではないようだ。」
このディシプリンというのは、discipleには弟子(特に宗教的な門弟という意味から)という意味があるので、弟子に対しての教育が原義ですから、なんだか、自らのディシプリンを持つというのは変な気がします。どうもautonomyという単語の方がいい気がします。それは、人がなにによって動機付けられるべきであるかというと、その行動が、自律的(autonomous)か、それとも他者によって統制されているかということが問題なのです。この自律ということばには、他に「自治」も意味しています。自律的であるということは、自由に自発的に行動することです。本当にしたいことをしているのか、興味を持って、物事に集中しているのか、それは、自分(authentic)から出なければならないのです。自律をしつけに持っていこうとするときは、self-disciplineが必要かもしれません。しかし、本当の自律は、決して、ディシプリンの意味にもある鍛錬や懲罰では養われないと思っています。ある論文では、報酬によっても養われないとあります。あくまでも、自分自身から出た気持ちでないとならないのです。ですから、出生数をあげるのも、他からの報酬(お金など)では、限界がある気がします。
また、私は、最近の子どもたちに欠けているもののひとつに、この「自律心」がある気がします。そこで、今、大学の卒論を書くために私のところに来ている学生の一人に、「子どもたちの自律心はどのように育っていくのか」ということをテーマにしてもらい、研究してもらっています。ちょっと難しいテーマですが、7月まで事例を収集しています。特に3~5歳児を中心に観察し、ブランコの順番や、遊びから昼食準備時などの場面における、「他律」から「自律」への事例を中心に集めているようです。また、その学生は、私の園で、子ども同士で時間を伝えるなど律し合っていると見られる場面にも注目しています。どうも、子どもを観察していると、自律は、人への思いやりから育つことも見られます。また、人への思いやりは、自分を認めてもらうことから育っていくように見えます。やはり、最後は、自分に戻っていくのですね。
自律心は、どうも子どもに限らず、大人の社会でも疑わしくなってきて、子どもは何をモデルにして良いかわからなくなるような社会を提供している大人として責任を感じます。
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2006年06月20日 [近頃思うこと]
官僚
今、電車の中刷り広告にこんなものが貼ってあります。「ある特権が、明治の中ごろに全人口の1%だけの人にありました。」とあります。これは、選挙権です。日本で初めての選挙が行なわれたのは、1890年(明治23年)の衆議院議員選挙のときです。その前年に大日本帝国憲法が発布されています。しかし、そのときの選挙では、投票できる人は、直接国税を15円以上おさめている満25才以上の男性に限られていたので、全人口の1%の人しか投票できませんでした。その頃の物価は、もりそばが1銭、牛乳(1本)が3銭でした。これから今の物価で計算すると、当時の15円は、現在の60万~70万円ぐらいと思われます。この一部の人にしか選挙権が与えられていない制度に対して批判が出て、少しずつ制度が改正されてきました。そして、1925年(大正14年)には、25才以上のすべての男性が選挙権を持つようになりました(男子による普通選挙の実現)。そして、ついに1945年(昭和20年)、満20才以上の男女すべての日本国民が選挙権を持つようになったのです。しかし、今でも国によって選挙権が持てる年齢はさまざまです。イランでは15才、ニカラグアやキューバなどでは16才以上となっています。また、21才以上という国もあります。ヨーロッパの国の多くでは18才以上とされています。
先日の日曜日に「国際子ども図書館」に行ったついでに、東京藝術大学大学美術館(上野公園)で行われている「ルーヴル美術館展 ~古代ギリシア芸術・神々の遺産~」を見に行きました。そこで買ってきた冊子は、展示とは関係のない「古代ギリシャのこどもたち」です。(展示カタログはあまりに重くて、最後まで迷ったのですが、結局買いませんでした。)買った冊子にこんなことが書かれていました。
「リシュマケとクリステネスが住んでいたころ、アテネの人口は約40万人でしたが、人々の身分や生活の仕方はさまざまでした。あらゆるものごとは4万人の市民の利益を考えて決められました。市民になるのは男の子だけです。市民とは18歳以上の自由民で、父親が市民、母親が市民の娘である人を指します。市民とその家族はアテネの全人口の3分の1、およそ13万人でした。土地を所有する権利はアテネ市民に限られ、市民は地主として土地から収入を得ることができたため、1日のほとんどを政治や、戦争にそなえた訓練をしてすごしました。」
国を支えている人々の利益を考えていろいろなことが決められていたのではなく、一部の特権階級の人のためだったのは、どこの国でも同じですね。日本でも、明治の頃は、結局は一部の選挙権のある人から選ばれた人によっていろいろなことが決められていたのですから。その点、いまは、成人は全員選挙権を持っています。ですから、選挙で選ばれた人たちは、国民の合意で物事が進められていくはずでしょうね。それに比べて、直接実務に携わり、また、基本的な施策を決めている官僚は、私たちの選挙で選んでいるわけではありません。私たちの思いを直接、だれだれにと、ある個人に託しているわけではありません。これは、官僚だけでなく、各市区町村の公務員にしても同様です。ですから、その人たちには、自ら広い見識をもち、国民の思いを感じ、広く国民のためにいろいろなことを決めていってもらいたいものです。
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2006年06月19日 [散歩]
もじゃもじゃペーター

「ひとめ ごらんよ ほら このこだよ うへえっ! もじゃもじゃペーターだ! りょうての つめは 1ねんだって きらせも しないで のびほうだい かみにも くしを いれさせない うへえっ! だれもが そう さけぶ ばっちい もじゃもじゃペーターだ!」こんな話を読んで、どう思いますか?よくわからないと思いますが、次の話を読むと、始めてこの話を知った人は、ちょっとショックになると思います。
「コンラート!」 ママが およびです 「ちょっと おるすばん おねがいね ちゃんと おとなしく いいこでね ママが おうちに かえるまで いいわね コンラート よくおきき! おやゆび しゃぶっては だめよ いいつけ まもらない こには したてやさんが すっとんできて おやゆび はさみで ちょっきんと かみみたいに きって しまうわよ」
さあて ママが でかけたとたん あらら おやゆび おくちへ ぴょん!
ばたん! そのとき ドアがあき めにもとまらぬ すばやさで したてや ひらりと とんできた ゆびしゃぶりこぞうを みつけたぞ ちょっきん! ちょっきん! いたたたた! おやゆび はさみで ちょっきんな おおきな はさみで きっちゃった! うわーん! コンラートは なきさけぶ
ママが おうちに もどってみたら コンラート しょんぼり たっていた りょうての おやゆび なくなって ひとり ぽつんと たっていた
どうでしょうか。この話は、賛否両論あります。その影響の大きさゆえに、 20世紀になってから激しい論争が起きました。指しゃぶりをして親指を切られてしまうという罰の残酷さや、絵の与える印象の強烈さが、感じやすい子どもに、精神的外傷を残すとかです。
この『もじゃもじゃペーター』(Der Struwwelpeter)は、1844年にドイツの医師であるハインリヒ・ホフマンがわが子のために作った絵本です。この絵本は、教育的でありながらナンセンスなおかしさを持っています。そこに描かれた「悪い子ども」像に子どもたちの共感が得られ、出版後まもなくヨーロッパ中で読まれ、現在までに100以上の言語に翻訳されています。その生命力溢れる子ども像には、そののちの児童文学に現れる「いたずらっ子」の主人公像の源流を見出すことができます。いま、この展示会が、国立国会図書館国際子ども図書館で、平成18年1月28日(土)から7月2日(日)まで行われています。昨日、それを見に行ってきました。この展示会では、国際子ども図書館が所蔵する資料を中心に、各国の『もじゃもじゃペーター』やそのパロディ、「いたずらっ子」の系譜をひく作品や、ホフマンの同時代の作品をはじめとするドイツ語圏の絵本・児童書等約220タイトルを展示されていました。
児童文学の「もじゃもじゃ」とは何でしょうか?髪も伸ばし放題、爪も切らない「もじゃもじゃペーター」。 このような「愛すべき」存在は、広く世界の児童文学の中に顔を出し、いまだに不滅であるといえます。このペーターは、ハックルベリー・フィンを思い出しますね。著者あとがきには、「3歳から6歳ぐらいまでの子どもに接する機会が多かったのです。いったい子どもの教育ということはまことにむつかしいものです。」 とあります。本当に、そうですね。
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2006年06月18日 [記念日]
父親
今日は、「父の日」です。昨日の新聞に、「口が臭いお父さんには、娘の一言がやっぱりきく」という記事がありました。「父の日」を前に、ライオンが口臭に関するアンケートをしたところ、日頃は口臭を放置しがちなお父さんも、娘から「お父さん、口くさい」と言われた途端、歯磨きに熱心になったり、歯科医院に通ったりする傾向が浮かび上がったそうです。「自分の口臭が気になる」と答えた父親は6割でしたが、対応は、その場しのぎがおおく、「歯科医院で虫歯や歯周病の治療をした」はわずか1.5%だったようです。しかし、娘から直接「くさい」と言われると態度はコロッと変わり、「よく歯を磨くようになった」(37%)が最多となり、「歯科医院に行った」も22.2%と大幅に増えます。それは、娘が父親にとって怖い存在だからでしょうか。たぶん、そうではなくて、娘がとてもかわいいと思うからなのでしょうね。一時、父親の下着を一緒に洗濯をするのを嫌がる娘が話題になりました。また、まったく、父親の存在を無視する娘も話題になりました。でも、どんな扱いをされようと、親にとって子どもはかわいいものです。特に、小さいうちはより、そう思います。
父親の多くは、仕事が忙しく、また、夜帰りも遅くなかなか子どもとは会えません。また、単身赴任で、子どもたちとは慣れて暮らしている父親も少なくないでしょう。しかし、なかなか子どもとはつき合えないと嘆いている父親も、母親との協力のもとで、子どもとしっかり結び合うことができる方法があるはずです。親子の結びつきの強さは、決して、一緒にいる時間の長さだけの問題ではないのです。1869年の若草物語(オルコット)に、こんな文章があります。
「娘たちの心は、従軍牧師として戦地に行っている、父のことでいっぱいでした。その御父様から、手紙が来ました。『私のかわいい娘たちよ。御父様は、昼は、おまえたちのことを思い、夜はおまえたちのために祈り、おまえたちの夢を見ることで毎晩慰められる。』
4姉妹の子どもたちの心の中は、父親のことでいっぱいです。父と子らは、離れていても、しっかりと結びついています。また、父親の姿を描いたこんな話もあります。
「若いお父さんが、自転車に子供を二人乗せて、うん、うんー、ペダルを踏んでいる姿は、はためには大変なことのようにうつりました。でも、「たいへんですね。」なんて、安っぽい同情をしようもんなら、ド-ブルさんは、むっとした顔で、返事もしません。人には、どう思われようと、ド-ブルさん自身は、楽しくて楽しくてたまらなかったのです。」(デブの国ノッポの国(モ-ロフ)1930年)
そんなお父さん(ノーブルさん)と、ノッポとデブの仲良し兄弟が、一緒にピクニックに出かけて、不思議な事件に出会います。何だか、今のお父さんを見ているようですね。義務感からでなく、一緒に楽しんで出かける親子には、すてきな冒険が待っているはずです。決して、一人ではできない、子どもと一緒だからできる冒険は、子育てをしている人の特権かもしれません。
また、最近、育児に協力する父親が増えてきました。園でも、お迎えに父親の姿を見ることも多くなりました。しかし、園の送り迎えをお父さんたちがやり始めたころ、家事をお父さんがやり始めたころ、買い物をお父さんたちがやり始めたころ、きっとこんな気持ちになったこともあったのではないでしょうか。巣の中の、コウノトリの四羽の小さなひな鳥たちとおかあさんのそばで、コウノトリのおとうさんが、じっと見張りに立っています。そうしながらこんなことをつぶやきます。
「巣のそばに、見張りを立たせておくんだから、家内のやつは、ずいぶんえらそうに見えるだろうな。」と、コウノトリのおとうさんは考えました。「このおれが、あれのご主人だなどとは、だれも知るまいよ。きっと、ここに立っているように、言いつけられているんだと、思うだろうさ。それにしても、ずいぶんだいたんだろうが!」(アンデルセン童話 コウノトリより)
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2006年06月17日 [記念日]
父親保育の日
園では、今日「父親保育の日」でした。園での保育を父親だけで朝から晩まで行うというものです。まず、園長代理の父親が、各クラスの担任を決め、その勤務時間を、子どもの時間による出席数を見ながら、ローテンションを組みます。自分の子どもと遊ぶのではなく、園での保育を理解してもらうことと、父親同士のふれあいを意図しての行事ですので、自分の子どもがいるクラスは担任しません。そして、各クラスの日案を出してもらいます。今年の園長代理の父親は、自らブログを書いています。いろいろなブログを読まれている人は分かると思いますが、ブログは、その人の性格が現れます。私のブログは、ちょっと硬いかなという気が自分ではしています。保護者の父親のブログは、性格のよさが現れていて、それを読むたびに「いい人だなあ」と感動することがしばしばです。(このブログをその保護者は、たぶん読んでいると思いますので、照れている顔が目に浮かびます)その園長代理の父親の「父親保育の日」を前にしたブログの書き込みを紹介します。
「いよいよ。6月に保育園主催の「父親保育」という行事があります。「父親保育」という行事は、「父親の会」が発足されたきっかけの行事であり、私自信、今、こうして、ホームページを運営しているのも、この行事に参加したのが始まりです(^^ゞ もし・・。。父親保育に一度も参加されたことがなかったり、父親保育に参加しようかどうか迷われているのであれば・・ぜひ、ぜひ参加をおすすめします。。。。(^^) 私自身、父親保育に参加しての経験上のお話ですが、大人になってしまうと、他の職業の経験など、なかなか出来ないものですし、お子さんが、普段、一日の大半を生活している場所って、どんなところなんだろうか?などの、全体的な発見だったり、普段、朝、お子さんをお預けすると思いますが、預かる方からみた風景は、また、違っていて新鮮だったり。。といった、小さな発見だったり。。父親保育に参加することで、いろんな発見があったりしますよ。。(^^) どんな小さな発見であっても、それが、参加された方々にとって、何か今後に生かせるものであったなら、保育園の本当の狙いは、そこにあるのかもしれません。。(^^)
次のブログは、途中で、日案の話し合いに園長代理として顔を出したときの感想です。
「私は、昨日は、2歳児クラス打ち合わせ、今日は、3~5歳児のクラスの打ち合わせに少しの時間(様子見程度)でしたが、顔を出させていただきました。(上の子供の運動会が両日とも中止だったため、出席できました(^^) ともに、設定保育は、おもしろそうですね。。。(^^) 0,1歳児クラスの担当のお父さんメンバーは、父親の会でもよく知っているメンバーが多いので雰囲気等は、知っているのですが、2~5歳児クラスのお父さん方の雰囲気もまた、とってもよくって、すばらしいお父さん方の中、園長代理をさせていただくことに、幸せを感じ、一人でうれしくなってしまいました。(^^ゞ
以前ブログに書いた「わが大地の歌」は、作詞が笠木透でしたが、作詞、作曲ともした歌に「私の子どもたちへ」というのがあります。私の大好きな歌です。
1.生きている鳥たちが 生きて飛びまわる空を あなたに残しておいて やれるだろうか 父さんは 目をとじてごらんなさい 山が見えるでしょう 近づいてごらんなさい コブシの花があるでしょう
2.生きている魚たちが 生きて泳ぎ回る川を あなたに残しておいて やれるだろうか 父さんは 目をとじてごらんなさい 野原が見えるでしょう 近づいてごらんなさい リンドウの花があるでしょう
3.生きている君たちが 生きて走り回る土を あなたに残しておいて やれるだろうか 父さんは 目をとじてごらんなさい 山が見えるでしょう 近づいてごらんなさい コブシの花があるでしょう
投稿者 fujimori : 22:41 | コメント (3)
2006年06月16日 [講演先にて]
ビール
神戸空港
今、ワールドカップで盛り上がっていますが、開幕戦の行われたドイツバイエルン州のミュンヘンは、最近あるきっかけで毎年行っています。ミュンヘンというと、よく聞くのが、コマーシャルに使われていた、「ミュンヘン、札幌、ミルウオーキー」というフレーズです。ミルウオーキーはアメリカ、ウイスコンシン州にある都市です。ウイスコンシン州は、ミシガン湖の西岸に位置する州で,中西部アメリカにあたります。州都はマディソンですが,ミルウオーキーの方がかなり大きな都市です。何で有名かというと、ビールの産地ということです。ミュンヘンもビールで有名です。ミュンヘンでは、水かコーラを飲むようにビールを飲むことにびっくりしました。それも、真昼間から、かなり大量に飲むのです。昼間からそんなに飲んで、午後の仕事に差し支えないかと思います。どうも、ビールの年齢制限も低いようです。しかも、保護者同伴の場合は、もっと緩和をされると聞きました。本当でしょうか。そういうと、アルコール度数が低いかと聞かれますが、そうでもありません。そして、乾杯のときに、日本では、お互いにグラスの口をつけますが、ミュンヘンでは、グラスの底をつけます。そのほうが清潔ですし、とてもよい音がします。ビアホールはいたるところにあり、有名な新市庁舎の地下も大きなビアホールです。
今年2月に行ったとき、教育委員会の局長さんに夕食を誘われたとき、そこに行きました。ミュンヘンにも様々なビールの種類がありますが、南ドイツ地方で主に醸造される「ヴァイツェン」という白ビールが美味しいです。原料に小麦(ドイツ語でヴァイツェンとは「小麦」という意味)を用いるので典型的に淡色で、澱を含んで濁っています。日本で一大センセーションを巻き起こした「ビール酵母」がこの澱の正体で、美容と健康の救世主として一目置かれています。さわやかな口当たりと特有の酸味が特徴で、クローブのようなスパイシーさと、リンゴやバナナを思わせる甘酸っぱい風味があり、地元ではのどの渇きを癒すための一杯として楽しまれます。
今日、神戸から帰って来ましたが、6月1日から30日まで、「神戸空港就航7都市地ビールフェア」が「コンチェルト」というところで、行われていました。7都市の地ビールを飲み比べています。7箇所というのは、北海道の「オホーツクビール」(ピルスナー)、仙台の「伊達政宗麦酒」(ヴァイツェン)、新潟の「越乃米こしひかりビール」(ラガー)、東京の「多摩の惠」(ぺリエール・ボトルコンディション)、熊本の「オレンジ浪漫麦酒」(フルーツビールタイプ)、鹿児島の「薩摩ビール」(ヴァイツェン)、沖縄の「南都サンゴ地ビール ニヘデビール」(ケルシュ ソフトタイプ)です。東京からの代表は、「多満自慢」という日本酒で有名な福生にある石川酒造の地ビールです。文久3年(1863年)から始まり、酒造りに多摩川水系の水を使用していました。現在は、地下150mからくみあげた地下水を酒造用の水としています。明治21年からは、ビールの釀造を開始し、「日本麦酒」(英文ラベルは JAPAN BEER)の名称で近在や東京・横浜へ販売しました。製造法はドイツ式で、ラガービールを醸造しました。元々は、バイエルンのローカルなビールで、秋の終わりにビールを洞窟の中で氷と共に貯蔵し、翌年の春に取り出すので、この貯蔵(ラガー)されたビールをラガービールと呼びます。
私は、飲むことよりも食べるほうがすきですが、人によっては、地方に行く楽しみには、そこの地酒や地ビールを楽しむこともあるかもしれません。
投稿者 fujimori : 23:16 | コメント (0)
2006年06月15日 [近頃思うこと]
少子化
子どもに関する記事が新聞の紙面を飾らない日はないほど、今、国にとっては、大きな問題です。そのひとつの問題に、少子化の進行があります。先日、合計特殊出生率がまた最低を更新したことから、議論が続いていますし、それに対する施策が発表されています。今日の新聞にも、「児童手当加算」が来年度に予算化されるということが対策協議会で了承されたことが載っていました。
同様に、企業もさまざまな子育て支援を行っています。少子化にはさまざまな原因があり、社会全体で取り組まないといけないのでしょう。そんなことで、昨日、厚労省の官僚と企業、保育園とのシンポジウムに出席しました。そのなかで、私は、「育児に対する、親としての評価、会社としての評価、社会としての評価を積極的にするべきではないか。」ということを提案しました。子育てが、どれだけ親を育て、仕事に還元できるか、また、いくら子育ての支援を企業がしても、その制度を使いにくいのは、精神的にとりにくさがあり、それは、子育てを企業が積極的に評価をしていないからではないか、また、産もうとする人が少ないのは、社会的に子育てがハンデになっており、それは、そのハンデをなくそうとさまざまな施策を打ち出しているだけで、もっと社会的にも子育てをすることが、とても意味があることも同時に訴えるべきではないかと思っています。ただ、社会的に意味があるのが、年金制度のためとか、社会を支えるとか、なんだか国のために産めというように聞こえますが、そうではなく、子育てをした経験が、男女が社会に参画する上で必要という意味です。このような意見に対して、官僚の方から、そんな情緒的なことを言うのはおかしいと言われてしまいました。だから、児童手当を加算するとか、出産費を無料にしようかとか、現実的にお金を渡せば産んでくれると思っているのでしょうね。それが必ずしも効果がまったくないとは言いませんが、逆に、もっと情緒的なことが原因のような気がします。そんなことが、今週号のアエラに紹介されていました。その記事の中に、子育てのすばらしさを表す言葉がいくつかありました。
「子どもがいなくて仕事に没頭していたら、ずっと落ち込みを引きずってたんじゃないでしょうか。日々、仕事では数字を追求せざるをえない。行き詰ったとき、全身に新鮮な空気をすーっと送り込んでくれるのは、決まって子どもたちだ。」「子どもを持って何かよかったことって、あるんですか―。30代の独身女性からそう聞かれて、驚いたことがある。子育てには、大変そうとか、おしゃれじゃないとか、ネガティブなイメージしかないのかと。もちろん、大変といわれれば大変に決まっている。子どもが保育園で熱を出して迎えに行かねばならないときや、どうしても残業しなくてはならないときのドタバタでも、いつだってそれを上回る喜びがある。」「子どもがいなければ、海外旅行や外食やいい洋服にお金がかけられる。そんな情報がいくらでもあふれている。でも、それで本当に幸せなのだろうか。」「子どもがいると、人生を2度生きる喜びがあります。自分の小さいころにもこんなことがあったなと、親のことを思い出しながら、節目節目で自分の体験と重ね合わせられるでしょう。」「自分だけなら絶対にありえない、というところにもどんどん出かける。プロ野球やサッカー、相撲観戦など、行ってみたら意外にこれが面白いことを発見した。」「仕事のストレスは家で、家のストレスは仕事で発散しています。」
投稿者 fujimori : 16:34 | コメント (5)
2006年06月14日 [近頃思うこと]
お金
先日、テレビで坂本九の生涯をやっていました。その坂本九の歌の中で、最近のニュースを見るにつけて思い出す歌があります。覚えている人もいるでしょうが、「悲しき60才~ムスターファ」という歌です。この歌がヒットしたのは1960年のことです。トルコの原曲に元都知事の青島幸男氏が詞をつけたものです。この歌詞は、当時はコミカルに描いているのかと思っていたのですが、あらためてよく読んでみると違うものが見えてきます。歌詞は、こんなです。
「遠い昔のトルコの国の 悲しい恋の物語。純情可憐な優しい男 それは主人公ムスターファ。見初めた彼女は奴隷の身、ところが僕には金がない。どうにもならない、諦めきれない、どうしたらいいんだろう、諦めきれない。未練な男ムスターファ。金さえあればこの世では、思いのかなわぬことはない。そこで僕は考えて、一念発起でマネービル。金の亡者ムスターファ。がっちりかせいだムスターファ。トルコで一の金持ちに、なってしまったムスターファ。急いで彼女を訪ねたら、いまや悲しき60歳。夢の破れたムスターファ。泣くに泣かれぬムスターファ。」
最初は、純情で可憐でやさしいムスターファが、金さえあれば、何でもできると思い始めます。そして、マネービルを始め、そのうちにお金を稼ぐことに面白さを感じ、次第に貪欲になり、金の亡者になり、金持ちになります。そして、やりたいことをしようと本来の目的に立ち戻ってみると、その思いは実現できません。時という、金で買えないものがあることを悟るのです。なんだか最近の「堀江」とか「村上」を思い浮かべます。たぶん、最初のころは純情で、思いがあったでしょう。しかし、お金が手に入るにつれて、次第に最初の志はどこかに消えていき、お金を稼ぐことだけが目的になり、そのうちに稼ぐことのためには手段を選ばなくなり、やがて、多額なお金が手に入りますが、大切なものを失っていることに気がつくと思います。すると、手に入れたかったものはなんだったのか、それは金で手に入るものだったのでしょうか。
先日、知人から本が送られてきました。司馬遼太郎の「21世紀に生きる君たちへ」という本です。そこには、大阪書籍の教科書に掲載された2編の話が載っています。ひとつは本のタイトルである「21世紀に生きる君たちへ」という6年生の教科書に載っていたものです。もう1編が「洪庵のたいまつ」という、5年生の教科書に掲載されたものです。その書きはじめには、こう書いてあります。「世のために尽くした人の一生ほど、美しいものはない。ここでは、特に美しい生涯を送った人について語りたい。緒方洪庵のことである。このひとは、江戸末期に生まれた。医者であった。彼は、名を求めず、利を求めなかった。あふれるほどの実力がありながら、しかも他人のために生き続けた。そういう生涯は、はるかな山河のように、実に美しく思えるのである。」洪庵は、自分自身と弟子たちへの戒めとして、12か条よりなる訓戒を書いています。その第1条の意味を司馬遼太郎や優しく、しかも厳しく書いています。「医者がこの世で生活しているのは、人のためであって自分のためではない。決して有名になろうと思うな。また利益を追おうとするな。ただただ自分を捨てよ。そして人を救うことだけを考えよ。」こんな生き方の方にあこがれます。
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2006年06月13日 [近頃思うこと]
梅雨の頃
いろいろな地方にいっても、また、毎日園に通ってきても、自然の変化には感動することが多いです。それは、日本の緯度の問題や、地形の形や、海流の流れ方などが関係しますが、それによって、春、夏、秋、冬の四季の変化がはっきりとしていて、またその時々の自然が大変美しい国です。梅雨もその季節の一つだと思います。六月の中頃から七月にかけて、雨や曇りの多い日が続きます。日本のあたりで、寒流と暖流がぶつかることもあって、海産物は豊富ですし、恩恵がたくさんあります。その海流がぶつかるだけでなく、梅雨の時期には、日本の上空では2つの大きな空気の固まりがぶつかっています。その一つはオホーツク海に中心を持って日本を北の方からおおっているオホーツク海気団という冷たい空気です。もう一つは、太平洋に中心をもって日本を南の方からおおっている暖かい空気です。小笠原気団といいます。この2つが、6月から7月にかけて日本の上空で押しあいっこをしています。暖かい空気と冷たい空気がぶつかると簡単には混ざらずその境目で、温かく水分を含んだ空気が上昇し、雲を発生し雨を降らせます。どちらかの力が強いとその境目が日本の上にできなくていいのですが、梅雨の時期は引き分けの状態で力が釣り合っています。このような境目を気象では停滞前線と呼んでいます。雨の日が続いていい気分はしませんが、梅雨の雨は生き物にとっても私たち人間にとってもなくてはならない時期です。私たちの生活にはたくさんの水が必要です。梅雨の雨は私たちが生きていくのに必要な真水を湖や川にそして大地に1年分蓄えてくれる大切な役目をしているとも言えます。梅雨の雨にぬれた「アジサイの花」、田植えが終わった水田で鳴く「カエルの声」、日本の風景です。

通園路脇のアジサイ
梅雨から夏にかけて咲くアジサイは、七変化と言われるように咲いているうちにだんだん色が変化していきます。そのためか花言葉は「移り気」です。そんなアジサイ、原産は日本です。もとは関東地方の海岸に自生していたガクアジサイで、花が手毬状に咲くアジサイはその変形です。ガクアジサイは中心の小さい両性花と、まわりの大きな装飾花から成っています。その装飾花だけが丸く手毬状になっているのが一般的な手毬型のアジサイです。本来の日本のアジサイは青だったそうです。アジサイについてよく言われる話ですが、土壌が酸性だと青くなり、アルカリ性だと赤くなるといわれますが、園に沿って咲いているのを見ると、どうもそれだけではないような気もしてきます。
また、「雨後のたけのこ」とは、梅雨のころということではありませんが、雨が降ったあとの春の竹林には、たけのこが次々と生えてくることから、同じようなことが次々と起こったり、あらわれたりすることという意味に使われます。このように、昔から、たけのこは成長が早いもの、すくすく伸びるものの代名詞とされてきました。「筍」という名前も、「10日間(旬)で、 竹になってしまうほど成長が盛ん」というところから付けられました。私が小さい頃見た漫画に、忍者が訓練をするとき、たけのこを飛んで越えさせるというものがありました。どんどんたけのこが大きくなるので、跳ぶ力がそれにあわせてついていくという修行です。ちょうど園庭の釣竿に使う布袋竹の林の中にたけのこが出ていました。あっという間に、大きくなってしまいます。
投稿者 fujimori : 21:28 | コメント (0)
2006年06月12日 [講演先にて]
六花亭
地産地消といえば、帯広に本店がある「六花亭」の取り組みがいいですね。ある人によれば、日産のゴーン、ホンダの本田に並び称されることもあるくらいです。(NHKに取り上げられました)この六花亭は、今では、どのデパートにでも商品が並んでいるくらい有名ですが、当初は、北海道内に数店舗あった千秋庵という和菓子店の1つで、1933年、帯広千秋庵として開業したのが始まりです。最初は菓子があまり売れず苦心したといいます。それが、1970年代、当時、ホワイトチョコレートを製造販売する業者は日本国内にはほとんど存在していなかったのが、「帯広には白いチョコレートがある」という話題がライダーを通じて広まり著名になったのです。その後、札幌には既に同系列店の札幌千秋庵があり、そのままの屋号では進出できなかったことから、1977年に六花亭に屋号を変更しました。「六花」は、六角形の花、すなわち「雪」を意味しているそうです。このいきさつは、地元では良く知られています。先代、小田豊四郎(現会長)は函館市に生まれますが、十七歳のとき、母方の叔父・岡部式二と叔母・トヨが経営する札幌千秋庵に見習いとして入店します。そのわずか四年後、帯広千秋庵の後を引き継ぎますが、日本で初めて帯広千秋庵が開発した「ホワイトチョコレート」を通して、何とか本物の味を全国に広げたいと思っていましたが、札幌千秋庵は帯広以外での販売を許しませんでした。そのとき、今は亡きイワキメガネの先代、岩城二郎氏に“今まで千秋庵というのれんにおぶさっていたなら別だが、君は真心を込めておいしい菓子を作ってきた。今なら太郎兵衛でも次郎兵衛でも売れる”と話し、背中を押してくれたそうです。この豊四郎の菓子への熱意を知る、岩城の言葉が大きな後押しとなって、「六花亭」が誕生しました。雪の別名「六花(りっか)」は、奈良・東大寺の清水公照が「北海道を代表する菓子屋に」との思いを込め、命名した社名です。その豊四郎の人生に影響を与えた人物のなかで、“商人”としてのあり方に絶大な影響を与えた人が、商業雑誌「商業界」の創刊に協力し、「愛と真実の商道」を説いた新保民八です。戦後から復興期にかけての日本の商売は、商品に値札を貼ったり、現金商売はまれで、人の身なりや風貌で価格を決める、「悪徳商法」まがいの商売も横行していたなか、日本の商業界に近代商業の思想を流布し、「損得」よりも「善悪」を教えたのです。新保の説いた「正しきによりて滅ぶる店あらば、滅びてもよし、断じて滅びず」は、今でも六花亭の経営の大きな柱です。また、本業の製菓事業で無添加物生産や地産地消(地産地消(ちさんちしょう)とは、地域生産地域消費(ちいきせいさん・ちいきしょうひ)の略語で、地域で生産された農産物や水産物をその地域で消費すること。)運動にも取り組んでいることから企業として社会活動にも力を入れています。そのため、文化・芸術活動にも力を入れていて、中札内美術村などを管理・運営しています。この村へ昨日、連れて行ってもらいました。
柏の林の中には、彫刻家である坂東優氏の作品を展示している「夢想館」、北海道の名峰を多数描いた「相原求一郎美術館」、開拓農民として自然を描き続けた「坂本直行記念館」、そしてびっくりしたのが、私のこのブログの竜の絵のモデル(鎌倉建長寺の天井画)を描いた「小泉淳作美術館」が点在していました。また、35年からずっと「きびしい風土のなかで、たくましく育っていく子どもたちに、豊かな詩心を育むこと」を願って『サイロ』という同人誌も発行しています。
投稿者 fujimori : 18:16 | コメント (5)
2006年06月11日 [講演先にて]
帯広
私は、地方に行くと楽しみなことがいくつかあります。まず、その地域の自然です。日本列島が南北に細長いおかげで、地域のよっての自然にとても変化があります。また、ほかには、その地域の文化遺産も楽しみです。その地域なりの歴史があるからです。そして、あまり派手ではありませんが、それぞれの地域の町並みを見るのも好きです。たとえば、今回訪れている帯広という都市は、道が碁盤の目のように走っています。京都や奈良は有名ですが、同じように整然としています。城下町などに行くと、道が狭く、曲がりくねっているので迷うことが多いのですし、門前町に行くと、すべての道はローマではありませんが、参道として、寺や神社に続いています。また、道に沿っている建物、特に民家は、その土地の気候に適応するようなつくりになっていたり、そこの産物を利用したりして、文化が分かることがあります。白川郷の合掌造りとか、瀬戸のあたりは瓦屋根が多いとか、面白いことが見つかります。もうひとつ、最近、地方に行って興味を持つことがあります。それは、町おこしに対しての試みです。古くからあるもの、特徴のあるものを見出して、街づくりをしようとする動きです。一昨日行った北見のハッカ博物館では、あまりお客がいないようなので、私は、そこの係員に提案してみました。「この博物館は、建物もいいし、周りにさまざまなハーブが植えてあり、敷地もあるので、この一角に、洒落たハーブ喫茶店とか、自然食だけで作るハーブレストランなどを作ると、若い人が来るのではないでしょうか。7月に折角、ハーブサミットをやるのに何もないのは、あまり観光客を呼べないのでは。」それから、そんなに有名なハッカなのに、今は、まったく作っていず、全部輸入だそうです。(博物館のなかで、ハッカを作る蒸留実験分だけは作ってもらっているそうですが)いろいろな企画のアイデアがありそうなのですが。
帯広市は、東北海道では釧路市の次に大きな十勝地方の中心都市で、北海道で6番目に大きな都市だそうです。今日、その歴史が展示してある「帯広百年記念館」を、市の児童家庭課長さんに案内をしてもらいましたが、とても博学で、分かりやすく説明してもらいました。この帯広の街は、官主導の屯田兵や旧幕府家臣による開拓ではなく、静岡県出身の依田勉三率いる晩成社一行が1883年(明治16年)に入植したのが開拓の始まりです。その後、次第に、十勝地方の農産物の集散地として成長していきましたが、交通機関の発達とともに拠点性を失い、近年は人口が減少しているそうです。そんな町での町おこしのひとつに「北の屋台」があります。これをモデルに、屋台村が全国にも誕生しています。2001年に、絶滅種の業種である屋台に新しい息吹を与えて、新規参入のできる「十勝型オリジナル屋台」を開発したのです。

夜、行ってみましたが、とても狭い場所ですが、どの店も若い人たちで、満員でした。しかも、飲み屋街という印象ではなく、農業王国である十勝という土地柄を利用して、地産地消という考えの下で、県外に出てしまっているおいしいものを、地元の生産者との協力の下、旬の新鮮な食材を味わうというものです。もうひとつ、牛丼が食べられなくなって有名になった「豚丼」発祥の地です。朝、元祖の店に行って写真を撮ってきました。いつもは、行列だそうです。いたるところのレストランに「帯広名物豚丼」というメニューがあります。今回は食べる機会がなかったのですが、次回は、ぜひ!と思っています。

帯広百年記念館と元祖豚丼店
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2006年06月10日 [講演先にて]
銀河
昨日は、北見で話した後、帯広に来ました。北見から帯広までの交通手段は不便なので、先方で、ハイヤーを用意してくれて、それで来たのですが、北海道という地で、順調に飛ばしても3時間かかりました。ずいぶんとかかります。(先週の盛岡から山田町までもかかったのですが。)この道沿いに、ふきの葉が茂っています。このあたり足寄は、ふきが名産のようです。
そして、そのふきの葉に見え隠れして鉄道線路がみえます。しかし、所々に線路をまたがるようにして柵がしてあります。これでは、列車は走れません。廃線かと思いましたが、まだそれほど古い感じはありません。途中、足寄駅跡の道の駅によってわかりました。この路線は、先月4月20日北見着 23:02の列車の運行をもって廃止となったばかりでした。この路線は、明治40年池田~網走間の建設工事着工から、明治44年に野付牛(現北見)間が完成し、大正元年に網走本線として全線が開通しました。そして、昭和36年には、網走本線のうち、池田~北見間を池北線、北見~網走間を石北本線に編入しました。その後、平成元年に路線名を「ふるさと銀河線」とすることに決定されました。その路線が、今年、2006年4月21日に廃止されたのです。一度、この路線の廃止の決定に対して、その決定が覆されています。この路線が存続に至ったのは政治的な配慮のうえの第三セクター設立という疑惑があるとされています。(『朝日新聞』によると「足寄町出身の鈴木宗男衆院議員(当時)が存続を強く求めて生き残った」としています)このような地元意識からでの存続はおかしいかもしれませんが、確かに鉄道がなくなるということは、かなり問題が起きると思います。まず、駅前商店街というものがなくなります。地域の拠点がなくなり、人の動きがばらばらになります。鉄道での移動がなくなると、個人の車での移動が主になり、移動中に他人と出会ったり、いっしょに行動したりしなくなります。しかし、このような行動の変化は、何も鉄道がなくならなくても、おきています。駅の跡地にできている「道の駅」に、地元の中高校生が集まっていました。まだ、駅の跡地にできているのでいいのですが、ほとんどの「道の駅」は、車で寄るところなので、中高校生は溜まる場所がありません。そこで、廃屋とか、閉店後の店舗に集まることがあります。そのような街づくりをしておいて、「そんなところにたむろするな!」とか、「困ったものだ!」と嘆いてもかわいそうです。もう少し、人が集まったり、すれ違ったり、言葉を交わすことのできる場が地域に欲しいですね。とくに、最近の過疎地には必要な気がします。
ところで、この廃止された路線の「ふるさと銀河線」という名称は一般公募で選ばれたものだそうです。「ふるさと」とは、沿線住民が心を一つにし、過去現在未来への願い、及び深い郷土愛がこめられており、鉄道を通じたふるさとづくり、永遠に走り続けてほしいという願いもこめられているといいます。「銀河」には、自然の美しさと澄み切った夜空の星の美しさ、限りなく発展する地域の願いをもこめられています。また、宮沢賢治の著作『銀河鉄道の夜』にちなんでいるそうです。そして、その名前にちなんで、松本零士のアニメ「銀河鉄道999」のキャラクター列車が登場しました。特別に作品を無償で製作したそうです。デザインは、輝く宇宙をイメージした濃いブルーの星空が列車をぐるりと包むように描かれ、両側面には銀河鉄道999の登場人物、メーテルが長い髪をなびかせ、大きな帽子と赤い服の星野鉄郎が後に続き、列車のヘッドマークにも鉄郎が登場している図柄で、車内も銀河鉄道ずくめだったそうです。乗ってみたかったですね。
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2006年06月09日 [映画]
夢
今年2月にドイツに行ったときに、飛行機内でふたつの映画を見ました。その映画が今公開されています。そのふたつの映画のテーマは、同じでした。
ひとつは、「ゴール」という作品です。今日から、サッカーワールドカップが始まりましたが、そのFIFA(国際サッカー連盟)が製作を強力にサポートしたことでも大いに注目を集めたサッカー映画です。そのせいか、あまり意味がなく、突然と映画の中にベッカムやジタンやラウルら現役スーパースターも多数登場します。話の内容は、メキシコ生まれのサッカー少年が、プロでの成功を夢みてイングランド・プレミアリーグの名門チーム、ニューカッスル・ユナイテッドで奮闘する姿を描いているというものです。メキシコの貧しい家庭に生まれた少年サンティアゴは、家族と共に米国ロサンゼルスへと移住し、次第に大好きなサッカーの才能を開花させていきます。やがて20歳になったサンティアゴは、ニューカッスルのスカウトの目に留まり、父親の反対を押し切り、単身英国へと渡ります。このときに反対する父親が、大邸宅の芝を刈る仕事をしながら、こう言います。「世の中には、二種類の人間しかいないのだ。一種類の人間は、このような芝生の庭をもった邸宅の中に住む人。もう一種類は、その芝を刈る仕事をする人だ。」しかし、夢が捨てきれず、なんとかニューカッスルの練習生となりますが、数々の試練が待ち受けています。というような「サクセスストーリー」です。この作品は、全3部作の第1部で、ヨーロッパ・チャンピオンズリーグを舞台とした第2部、ワールドカップでの戦いを描く第3部へと続くそうです。
もうひとつは、「夢駆ける馬ドリーマー」という映画です。このストーリーは、奇跡の復活を遂げた競走馬を巡る実話をヒントに、骨折した競走馬と少女の友情と、馬の再起に壊れかけた家族の再生を託す調教師の姿を描いたものです。タイトルである馬の名前の「ドリーマー」は、映画の中では、「ソーニャドール」という名前です。この意味は、スペイン語で「夢見る人」という意味です。ということで、レースで転倒して骨折してしまい、安楽死を命じられた馬を引き取り、手厚い看護により、徐々に回復してレースに出ることになりますが、そう簡単にはいきません。次々の難題が降りかかりますが、馬主になった少女が、いつでも馬の名前のように、夢を持ち続けるという話です。
まあ、ふたつともできすぎた話ではありますが、長い飛行時間の辛い時間中では、あまり重い話はきついですから、ちょうど良かった気はします。しかし、辛い時間は、今の時代、飛行機の中だけとは限りません。ですから、こんな映画がはやるのでしょうね。最近、中公新書から出された「希望学」(玄田有史編)という本の帯封には、「希望は求めれば求めるほど逃げていく。しかし希望を求めなければ、強い充実も得られない。それは、いわば希望のパラドックス(逆説)だ。そして、これが希望に関する事実なのだ。」この本の中でも山田昌弘氏と対談していますが、彼の著書に書かれている「希望格差社会」という本の中では、「努力すれば報われるという希望を持てるのが、一部の特定の人々に集中しつつある。残りの大部分の人々は、希望そのものを持てないか、そうでなければ実現不可能な夢物語の世界に浸るしかない。」夢を持つことと、夢物語に浸ることとは違うのです。卒園式の日に「将来の夢」を語る子どもたちが、次第に夢を失っていくのは悲しいですね。
投稿者 fujimori : 20:50 | コメント (0)
ハッカ博物館
投稿者 fujimori : 11:19 | コメント (0)
2006年06月08日 [講演先にて]
薄荷
ドクダミは、日本の薬草のなかで、代表的なものです。世界の中での薬草で代表的なものは、さまざまな「ハーブ」でしょう。少し前から、ハーブがとてもはやっています。薬草としてだけでなく、料理の薬味として、また、ハーブティーとしてなどとしてよく使われます。そのなかで、日本でも昔からなじみのあるものに「ハッカ」があります。ハッカとは、荷の割りに中身が少ないという意味から、「薄荷(ハッカ)」といわれます。「Mint(ミント)」は英語、イタリア、スペイン語などラテン系では「Mentha(メンタ)」といいますが、「メンタム」はここからきているのでしょうね。全世界で栽培される多品種のハーブで、葉をもむだけで感じられるスーッとした清涼感と茎の切り口が正方形であるのがこの草の大きな特徴です。その種類は、一般的に精油成分によって3種類に大別されます。和種ハッカは、「ハッカ脳」と呼ばれる主成分の含有量がハッカ草の中で最も多い品種です。洋種ハッカは、「ミント」の代名詞としても使われ、日本ではハッカと言えば「ペパーミント」といわれるまでになった代表種です。もう1種類の「スペアミント」は、ヨーロッパで料理に使う一般的な品種です。
今日から、北海道保育大会が、北見市で行われています。明日、話をするために、今日の夕方北見に来ました。北見市は明治30年、高知で組織された北光社移民団と北の防備と開拓を担った屯田兵が同時期に入植し、本格的な開拓が始まったところです。そして、この北見を地域の中核都市に押し上げたのは、大正時代に盛んとなったハッカの栽培でした。最盛期の昭和10年代初めには、世界の7割の生産量を誇り、北見のそして日本の特産品として世界中にその名を知らしめました。現在も、ハッカを利用した特産品の販売などのほか、ハッカの歴史的遺産を保持するハッカ記念館や薄荷蒸留館などがあります。今年の7月14日から17日は、第15回全国ハーブサミットが北見市の芸術文化ホール(保育大会会場)や香りゃんせ公園ほか市内一円で開催されるようです。
わが国のハッカ栽培は、中国から渡来し、肥前諫早(長崎県)で最初の栽培が始まったようです。ピラミッドの建設には労働者の食事に用いられたり、ミイラの下にハッカ草を敷いて腐敗防止に役立てたと言われています。「医学の父」ヒポクラティスの医学書にも、41種類の治療薬の中にミントを加え特に健胃薬、気付け薬としてこれを処方しています。エジプトでは、ミントをお風呂に入れる習慣が既にありました。また、古くから、シャンプーや石鹸に原料として使用し、油分を分解する性質で肌や髪をさらさらに、そして殺菌効果も狙った利用法でした。あぶら性の髪用リンスとしても使われていたと言います。中世紀になって、葉を乾燥させ粉末にしたものを歯磨きとして使ったり、野犬に咬まれた時の治療薬、蜂刺されの痛み止めなどに使用されるようになりました。16世紀以前のヨーロッパでは、ミントの草を床にばらまく習慣もあったとの事。宴会の席では食欲増進のため、寝室ではぐっすり寝れる様にという、心遣いがあった様です。最近では、O-157の流行した当時話題になったのは、ミントの殺菌力で、0.04%の量で大腸菌が滅菌したとの結果が報じられ、まな板の殺菌には天然香料のハッカ油が最適と言われました。宴会の席や、保育室、寝室にばら撒いておくといいかもしれませんね。
投稿者 fujimori : 21:54 | コメント (0)
2006年06月07日 [近頃思うこと]
ドクダミ
季節を代表する花や草をお風呂に入れて楽しむことがあります。また、季節の行事などにちなんで、その草花を入れることがあります。有名なのは、5月5日のこどもの日に入る「菖蒲湯」です。ほかにもいろいろあるので、その季節ごとに紹介しますが、ちょうど今頃入るといいものに、「ドクダミ湯」があります。ドクダミは、生えているところは山奥ではなく,人家の周辺や昔人家があったところに限られています。私の家の脇のところに今、びっしりと生えています。なんだか、名前に「毒」がついているので、遠ざけたくなりますね。また、においも強く、このにおいには好き嫌いがあるようです。ドクダミの名前の由来は、特有の強烈な匂いから「何かの毒が入っているのではないか?」と、ドクダメ(毒溜め)と呼ばれるようになり、ドクダミに変化したといわれる説と、ドクダミは古来、吹き出物の薬として使われており、吹き出物は体の毒が吹き出すものと考えられていたため、それを治す草「毒矯め(ドクタメ)」がドクダミに変わったとか、痛み止めの薬という意味の「毒痛み」からきているという説があります。しかし、この草は、最近の若い人は知らないでしょうが、民間薬として、親しまれていました。ゲンノショウコ、センブリなどとともに日本の民間薬の代表的なものです。民間薬といわれるためには、安全で副作用が無いことが一番の条件になります。江戸時代の儒学者であり博物学者でもあった貝原益軒の著書「大和本草」に「わが国の馬医これを馬に用いると、十種の薬の効能があるので、十薬(じゅうやく)という」という記述があります。万病に向く薬草として現在では、厚生省によって認められており、日本薬局方に「ジュウヤク(十薬)」と記載されています。
5~6月の花期に根を含めた全草を採取し、一度軒先などで吊るして乾燥してから日干しの後、半陰で完全に乾燥します。化膿性のはれものには、新鮮な葉を水洗いし、新聞紙等に包んで火に焙り、柔らかくなったら、はれものの大きさに折って、絆創膏で止めておくと、膿を吸い出し、はれがひきます。利尿、便通及び高血圧予防には単独のドクダミ茶を用います。生のドクダミ葉には葉のにおいがありますが、乾燥すると成分が変化をして無臭になります。このにおいの成分には強い抗菌性や抗かび性がありますので、生の葉を水虫の患部にすり込めば水虫菌の発育を阻止して、効き目があるとされます。ドクダミの青汁は、胃痛、十二指腸潰瘍にも効果があるとされます。擦り傷、靴擦れなどには、生の葉をよくもむか、火で炙ったものを塗布します。塩ゆでして水でさらしてから、てんぷらや、味噌とみりんであえても食べられます。
ドクダミのエキスを抽出したドクダミ湯は、あせも・しっしんなどに効果的で、ムシムシする今の時期にぴったりの薬湯です。ドクダミ湯は、あせも・しっしんなどの吹き出物を鎮めるほか、新陳代謝を高めて皮脂分泌を活発にするため、お肌もツルツルになります。
まず、この茎や葉を水洗いして、適当な大きさに刻みます。そして、それを布袋に詰め、浴槽に入れて水から沸かします。落とし込み式の浴槽では、湯がよくあたるところにおきます。袋の中の成分を揉み出しながら入浴すると効果的です。
科学薬よりも効果があり、副作用がありませんので、試してみたらどうでしょうか。
投稿者 fujimori : 18:10 | コメント (1)
2006年06月06日 [新聞記事より]
経済効果
こんな話題はいやな人がいるので、できるだけ手短かにします。先日のブログで書きましたが、アメリカでは、州政府が医療保険への補助金として支出したお金のうち、喫煙によってかかる病気の治療に使った分を、和解金として判決で出した金額が、総額2460億ドル(約25兆円)でした。煙草を日本で製造・販売する最大の利点は、また、吸っている人の言い訳のひとつとして、「税収増」があります。そのほか、煙草常用勤労者(サラリーマン等)が、10~20年程度、命を縮めることの副次的反射効果として、厚生年金等の支払軽減(年金収支の多少改善)が考えられます。しかし、逆に、1999年度の喫煙による超過医療費は13,086億円でした。また、喫煙による労働力損失は58,454億円です。これらを合わせると、喫煙者が一消費者として負担しきれずに、喫煙者が属している共同体に負担させているコストは、71,540億円となるのです。したがって、喫煙による超過医療費の合計額が、国民医療費に占める割合は4.2%となっています。
先日(2006年6月1日)の朝日新聞に、こんな記事が載っていました。
「1歩の健康効果、何円?」1000人に歩数計をつけて1年間ウオーキングをして、医療費がいくら減ったかを試算しようとするものです。この調査は、厚生労働省の研究班が生活習慣病の予防を目的に行うものです。面白い発想は、この調査で、1歩の価値を試算し、将来、航空会社のマイレージサービスのように歩数に応じてポイントをため、余暇活動や社会貢献などに活用する事業につなげることを目指しています。厚労省は、「国民の1日平均歩数が千歩増えれば、糖尿病の発症を10年間で約3%減らせそう。」「15年度までに生活習慣病患者とその予備軍を25%減らすことで、25年度の医療費を約2兆円減らせるはず。」といった試算を示しています。研究班では、企業の健保組合を対象に、1歩の値打ちをポイント化して蓄積できる「ウオーキングマイレージ」という事業を提案しています。運動による経済的効果は、直接には健保の財政改善につながりやすいのです。ポイントは、スポーツクラブや旅行チケットなどに使うことを考えているようです。以前、キャッチコピーに「禁煙は、家族への愛です」というものがありましたが、「健康は、国への愛です」かもしれません。健康であることは、自分自身だけのためでなく、国にとってもとても助かることのようです。
国は、仕方ないかもしれませんが、具体的にお金に換算して、どれだけの効果があるという試算を出さないと動かないものです。これからは、このような保育をすると、どれだけの経済効果があるとか、子どもを十分と抱っこしないと、脳の前頭前野が未発達になり、新しいものへの開発が少なくなり、また、キレる子が増えてこれだけのものを破壊するようになるので、いくらの国家的損失になるというような試算を出さないといけないかもしれません。早寝や早起きや朝ごはんをきちんと食べることがどれだけ経済的効果があるかを試算したのでしょう。
私は、時間があればできるだけ歩くことにしていますが、なかなか時間がありません。というのは、言い訳ですね。煙草をすっていたときの言い訳に似ています。本当に歩こうとすれば歩けるときはあるはずです。その弱い心を打ち消すだけの試算があればいいのかもしれません。
投稿者 fujimori : 18:04 | コメント (0)
2006年06月05日 [近頃思うこと]
結婚式
この写真は、何の建物だと思いますか?私の園の隣にある施設で、よく保護者会などではそこの駐車場を借ります。ここは、結婚式場です。今流行の、ガーデンウエディングの場所です。結婚式をどこの場所で挙げたかを聞くと、その時代がある程度分かります。私の親の時代では、自宅であげています。それが、外であげるようになりました。正確にいうと、式をどこで挙げるというより、どこで披露宴をするかということかもしれません。今は、さまざまです。いろいろな素敵に見える名前をつけることで、若い人の気をひこうというものです。たとえば、「レストランウエディング」というものも最近あります。園の隣のガーデンウエディング場には、ガーデンはありません。それなのになぜというと、地域の景色を借りているのです。いわゆる借景です。借景(しゃっけい)とは、日本庭園の造園技法のひとつで、庭園外の遠くの山や樹木などの風景を借り、あたかもそれがその庭のものであるかのように利用して、自然景観を人工物に取り込む手法です。有名なのは、京都の比叡山を借景にした修学院離宮です。
この写真は、結婚式場のまったく反対側を撮ったものです。すなわち、式場の階段を降りてくる途中で、この景色が真正面に見えるようになっているのです。そのほかに珍しいところでは、「船上結婚式」があります。案内にこんなコピーがあります。「大型客船では航行出来ない、隅田川の橋巡りや春には浅草までお花見に行く。昼は羽田沖で豪快なジェット音の飛行機真下で発着を楽しむ。幻想的なサンセット・都会の喧騒を忘れ異空間を作り出すロマンティックな夜景。」なんだか若い人に受けそうですね。ほかには、「テーマパーク結婚式」では、「日本にいながら外国の雰囲気の中でウエディングができる!宮殿での挙式や馬車パレードなど、この街だからできる演出がある。アミューズメント施設やイベントなどアフターウエディングも充実」そして、「スポーツ競技場結婚式」では、「セレモニーのBGMはスタジアムの本格的音響設備で感動的に。サッカー好きにはたまらない憧れのピッチの上でゴールシュート。スタジアムの大型スクリーンに挙式を映してドラマティックに演出。」なんだか面白いですね。
結婚式は、場所だけでなく、さまざまなしきたりがあります。先日岩手に行ったときにある保育園の職員の結婚式と重なりました。後で、その話を聞いたのですが、披露宴参加者が、なんと300人だったそうです。過疎地で300人集めるのは、さぞ大変だったろうと思います。それ以上に有名なのは、「娘3人持てば身上つぶれる。」とか、「「嫁をもらうなら名古屋から。」といわれている名古屋の結婚式の派手さです。テレビドラマ「名古屋嫁入り物語」で描かれていたのは、トラック何台分もの嫁入り道具を娘に持たせ、それを近所の人々に披露し、ガラス張りのスケスケなトラックに紅白の幕をつけて凱旋し、さらには集まった近所の人達に向けてお餅、お菓子などを娘の両親がばら撒くということが行われていました。本当にそんなに派手なのでしょうか。結納から結婚式、披露宴、新婚旅行までにどれだけのお金をかけたかをアンケート調査し、それを地域別に平均したものがあります。2001年度の調査では、東京周辺では337.1万円、そして関西地区は317.7万円。対する名古屋地区は374.6万円と確かに東京や大阪に比べ高くなっています。しかし東北地区は415.7万円、北関東地区は414.6万円と名古屋よりもかなり高い地域もあります。やはり、東北は高いのですね。ただ、過去のデータ(1997年)では、東海地区がずば抜けて高かったようです。どうも、結婚式の形は、伝承文化ではなさそうです。
投稿者 fujimori : 21:43 | コメント (1)
2006年06月04日 [講演先にて]
浄土ヶ浜
昨日は、岩手県の宮古で話をしました。宮古湾はリアス式海岸の三陸海岸にあります。リアス式海岸というと、なんだか学校時代に覚えた響きがしますね。起伏の大きい山地が、地盤沈降や海水面上昇に伴って海水の進入を受け、尾根の部分が半島に、谷の部分が入り江になったものです。調べてみると、リアス式とは、スペイン北西部のガリシア地方で入り江が多く見られ、スペイン語で入り江を意味するリア(ria) あるいは、入り江の多い地方の名前(Costa de Rias Altas) 等を元に命名されたようです。ここ、三陸海岸の沖合いには、世界四大漁場と呼ばれるほど豊かな漁場が広がっています。寒流の親潮と暖流の黒潮が三陸沖でぶつかり、多くの魚が集まってくるのです。一昨日、山田町で、今が旬のとてもおいしい「うに丼」をいただきました。とても幸せな気分です。同様な地形として、ノルウェーのフィヨルドがありますが、こちらは、氷河による浸食により複雑な形状をなしている湾のことであり、湾の入口から湾奥まで、湾の幅があまり変わらず、非常に細長い形状の湾です。何年か前にその湾の中を船でクルージングしたことがありますが、中国の桂林同様、自然の不思議さを感じました。
環境省では、人々が水に直接触れることができる個性ある水辺を積極的に評価し、これらの快適な水浴場を広く普及することを目的として、「美しい」、「清らか」、「安らげる」、「優しい」、「豊か」という水辺に係る新たな評価軸に基づき、全国 100カ所の水浴場を、「快水浴場百選」(http://mizu.nies.go.jp/suiyoku2006/map/tohoku.html)として選定しました。また、このうち総合的な評価の高い12カ所の水浴場を特選として選定しました。その特選に、宮古の景観を代表する浄土ヶ浜が選ばれています。

今朝、この浄土ヶ浜を散歩しました。浄土ヶ浜の地名は、天和年間(1681~1683)に宮古山常安寺七世の霊鏡竜湖が、「さながら極楽浄土のごとし」と感嘆したことから名付けられたと言われています。日本を代表する詩人であり童話作家の宮沢賢治も浄土ヶ浜を訪れ、白い岩に規則正しく並べられた昆布干しの情景を「うるはしの 海のビロード 昆布らは 寂光のはまに 敷かれ ひかりぬ」という歌に詠んでいます。
この快水浴場に選ばれた基準は、5つの評価軸に基づいています。
[1]美しい水辺(水質、自然景観)[2]清らかな水辺(環境への配慮・取り組み)[3]安らげる水辺(安全性)[4]優しい水辺(利便性)[5]豊かな水辺(水と人との関わり)です。かつての、ただきれいというだけでは、最近では良い評価にはなりません。環境への配慮とか、水と人とのかかわりも美しさの条件です。
私の園の周りの長池地区周辺が、平成13年度に都市景観大賞「美しいまちなみ賞」を受賞し、私が代表で表彰式に出席しました。この賞は、美しいまちなみを創り、育てるために、公民が協力し、ハードとソフトを含めた総合的な取り組みが行われている地区の中で優れた地区を選定し表彰をするものです。美しい条件が、「公民が協力し」「ハードとソフト」です。ただ、景観がきれいというだけでなく、また、見た目だけでなく、そこでの営みも美しくなければならないのです。保育園も、最近の民営化の争いを見るにつけて、どうして「公民協力して」と「保育内容での取り組み」において、美しい園作りができないのでしょうかね。
投稿者 fujimori : 21:33 | コメント (1)
2006年06月03日 [講演先にて]
北上川
各県には、その県の名前を聞いたときに思い出すものがあります。それは、その地域の自然であったり、文化であったり、歴史であったりします。しかし、これらは、みんな結びついています。そこの自然が文化を創り、その文化が歴史を作っていくのです。ですから、その地域の自然を知ることは、とても興味があります。その自然のなかで、特に人間の暮らしに関係の深いもののひとつに、その地域に添って流れる「川」があります。その地域を代表する川が必ずある気がします。先日訪れた熊本の人吉市は、九州山地の山々に囲まれ、市内の中心部を日本三急流(日本三急流といえば、「最上川」「富士川」「球磨川」です)の一つ球磨川が東西に貫流する山紫水明の街です。この川は、荒々しい激流の中を船頭さんの巧みな櫓さばきで乗り切る「くま川下り」が有名です。
昨日から訪れている岩手県を代表しているのは、「北上川」です。この北上川は、岩手県岩手郡御堂にある、「弓弭(ゆはず)の泉」を源流として、岩手県を南流して、宮城県の平野部に入ります。そして、その流れは二つに分流し北上川本川は追波湾へ、旧北上川は石巻湾に注いでいます。その長さ、流域面積は、東北第一の河川です。この北上川は、父なる岩手山とともに古くからさまざまな小説や詩歌などにも詠まれています。石川啄木の有名なうたに「やはらかに 柳あをめる北上の 岸辺目に見ゆ 泣けとごとくに」というものがありますね。
私が初めて岩手県の水沢(奥州市)を訪れたとき、カラオケに行って、歌った歌が、「北上夜曲」でした。この歌は、水沢にゆかりがあるのです。この歌が広まったのは、最初は、作者不明の愛唱歌として歌い継がれていましたが、実は、この歌は、水沢農学校に通う菊池規氏と八戸中学校の生徒だった安藤睦夫氏が水沢で偶然出会って意気投合し、菊池少年の「北上川のささやき-今はなき可憐な乙女に捧げるうた」と題した歌詞に安藤少年が曲をつけて名曲「北上夜曲」が誕生したのです。昭和16年、まさに軍歌行進曲全盛の中で生まれたのです。この歌が、昭和36年、折からの歌声ブームにのって、大ヒットとなり、和田弘とマヒナスターズに多摩幸子さんのデュエットなどでレコード化されましたので、ムード歌謡のイメージがありますが、歌詞を見ると、やはり10代の学生が作った歌の気がします。ただ、歌われている歌詞は、レコード化されたものによって若干違いがあるようです。どれが本当か分かりませんが、5番は彼女が死んでしまったというような歌詞なので、カラオケなどでは出てきませんでした。
(1) 匂いやさしい 白百合の 濡れているよな あの瞳 想い出すのは 想い出すのは 北上河原の 月の夜
(2) 宵の灯 点すころ 心ほのかな 初恋を 想い出すのは 想い出すのは 北上河原の せせらぎよ
(3) 銀河の流れ 仰ぎつつ 星を数えた 君と僕 想い出すのは 想い出すのは 北上河原の 星の夜
(4) 春のそよ風 吹くころに 楽しい夜の 接吻を 想い出すのは 想い出すのは 北上河原の 愛の歌
(5)雪のちらちら 降る夜に 君は召されて 天国へ 想い出すのは 想い出すのは 北上河原の 雪の夜
(6)僕は生きるぞ 生きるんだ 君の面影 胸に秘め 想い出すのは 想い出すのは 北上河原の 初恋よ
この歌を歌うときに、6番の「僕は生きるぞ」というところは、なぜ突然決意表明をするのかと思っていましたら。彼女が死んだのですね。失恋したのかと思いました。それにしても大げさだと思ったものです。
投稿者 fujimori : 23:43 | コメント (1)
2006年06月02日 [近頃思うこと]
憤せざれば
中国で「論語」がはやっているという理由とは別に、また、その中の言葉が為政者への言葉であろうと、「論語」のなかの言葉を、今の時代のさまざまな状況に当てはめて解釈をすると、意外と物事を見る目が深まることがあります。
「憤せざれば啓せず、悱せざれば発せず、一隅を挙げて三隅を以て反せざれば復びせざるなり」と『論語』述而編にあります。それは、いくら何かやらせようとしても、自身の中に何かをしようとする心が盛り上がってこなければ、教え開いてあげることは、難しい。どのようにしたら、心の中に動機付けが生まれてくるかが問題であると言っています。そのひとつの方法が、たとえば、四角い物のひと隅をヒントとして示し与えて、後の三つの隅については、与えられたヒントから類推し、何らかの反応や行動が現れるまでは、静かに思考が成熟してくるのを待つようにせよということです。これは、私が提案する「見守る」ということかもしれません。なにも示さないで、さあ、考えろ!では、「見守る」のではなく、「見放す」と言うことでしょうね。ただ、ひと隅のヒントから残りの隅が推測できるのは、今の人にとっては難しいかもしれません。それは、少子化になって、一人ひとりに手がかけられるようになったために、自分で推測する場面が必要ないように育てられていることが多いからです。いわゆる、かゆいところに手が届くという育てられ方をしているのでしょう。いろいろなことに満ち足りることが幸せなことだと思っているからです。それは、ものに満ち足りない時代を送ってきた人たちにとっては、ほしいものが手に入るということは夢だったに違いありません。それを、実現しようとして成功したのが、「ダイエー」といわれています。1957年9月に大阪の千林駅前に「主婦の店ダイエー」をオープンさせ、スーパーマーケット事業に乗り出し、高度経済成長の波に乗ってどんどん店舗を増やし、また全国各地の地場スーパーと提携して商業規模を拡大していきました。そして、社名を「ダイエー」と変更し、コンビニチェーンのローソンの日本での展開の権利を取得して、スーパーとはまた別のコンセプトでの商売を目指しました。そして、1980年には三越を抜いて流通業界売上高1位に躍り出ました。創業当初からのダイエーのコンセプトは明確で「より良い物をより安く」販売するということで、誰でも欲しいものが手に入るようにという信念があったようです。いわゆる「中内商法」と呼ばれているものです。しかし、ほしいものには限りがありませんし、すべて手に入れば幸せになるとは限りません。しかし、今はいろいろなものを自分だけのために欲しがります。時間も、自分だけのために使いたがります。そして、それが手に入ります。すると、何とかしよう、どうすればいいのか、これは無理だというように、物事に見通しを立て、工夫し、夢を持ちます。子どもに何かを指示するときでも、自分で考える余地を残しておいてあげるほうが良い気がします。意欲は、足りないところを何とかしようという気持ちかもしれません。また、最近の研究では、どうも、この「どうしたらよいか」という工夫が脳を育てているようです。すべてを与え、すべてを満ち足りさせると、もしかしたら、ボケてくるのが早いかもしれませんよ。
投稿者 fujimori : 23:34 | コメント (0)
2006年06月01日 [新聞記事より]
訴訟
今日の新聞にこんな記事が載っています。「おしゃぶりで歯に障害」―6歳児と母が販売元を提訴―というものです。記事の内容は、
「おしゃぶりを長時間使っていたら、かみ合わせが悪くなった」として、横浜市に住む6歳の女児と母親(40)が31日、おしゃぶりの販売元の会社を相手に、製造物責任法などに基づき約1000万円の損害賠償を求める訴訟を東京地裁に起こしたというものです。 「訴状によると、女児は生後2カ月ごろからおしゃぶりを使用。当初は就寝時を含め1日平均約15時間、1歳以降も約12~14時間使っていた。使用していない時も、唇がへの字になり、口が開いた状態になったため、4歳になる直前に歯科医を受診。使用中止を指示された。現在も上下の歯のかみ合わせが反対になっており、発音が舌足らずになっている、とされる。原告側は「販売元は長時間、長期の使用を控えるよう商品に表示すべきだったのにしなかった」などとしている。現在出荷されている同じ製品には「24カ月をこえたご使用はおやめください」「短時間であっても歯並びに影響を与える場合があります」――との表示があるという。」
どう判断されるかは別として、実感として、ずいぶんアメリカ的になったなあと思います。アメリカでは、同じような内容での裁判で、有名になったものがいくつかあります。最初に話題になったのが、「マクドナルドのコーヒー訴訟」です。アメリカのドライブスルーでマクドナルドのコーヒーを購入した(当時)79歳の老婆が、マクドナルドのコーヒーを膝にこぼして火傷を負ってしまい、それを「コーヒーが熱すぎたから」と訴えたのが始まりです。老婆の過失に過ぎないと思われたこの事件で、判決はファーストフードが2億9000万円の賠償金を支払うように命じられたのです。ずいぶんと多額ですね。理由は、飲みごろのコーヒーの温度は65度、しかし、お店の出したコーヒーは80度で、客の安全に対する配慮が欠けていたというのです。事故の責任の80%は、高い温度のコーヒーを出したファーストフードに、残り20%は、カップを倒した本人の過失と考えられたからです。後、印象にあるのは、2002年にハンバーガーとフレンチフライの食べ過ぎで肥満になったのは企業側の説明不足だとして、米マクドナルドの親会社を訴える集団代表訴訟を起こしたものです。これに対しては、ハンバーガーなどを長期間にわたって食べ過ぎたら太ることは「世界中で知られている」常識だとした上で、「ある日目覚めたら、突然、太っているわけではない」と消費者側の非常識を問題視し、審理前の却下を求めました。あと、1998年に和解した「たばこ訴訟」です。この裁判は、アメリカの46の州政府が、アメリカ国内の大手たばこメーカー5社を相手に、州政府が医療保険への補助金として支出したお金のうち、喫煙によってかかる病気の治療に使った分を、たばこ業界に支払うよう求めた裁判です。和解金は、やはり私たちから見ると法外な総額2460億ドル(約25兆円)で、アメリカの裁判の和解金としては、史上最高額だったのです。
もしかしたら、園で菌対策のために子どもの手をアルコール消毒していることが、将来、菌に対しての抵抗力が弱くなり、世界で生活できなくなったと訴えられるかもしれませんし、危険な箇所をすべて取り除くことで、自らの危険回避能力を失わせたと訴えられるかもしれませんね。