セキレイ

 今、園庭に幼鳥を連れた母鳥が飛んでいます。その鳥は、「チュンチュン」とやわらかい声で鳴き、尻尾を上げ下げします。以前は、自宅の庭にもよく飛んできました。父親は、その鳥を「しりふり」と呼んでいました。「スズメ目セキレイ科」の鳥です。セキレイの仲間で、日本で普通に見られるのは、セグロセキレイとハクセキレイとキセキレイの3種類です。その中で、庭に飛んできていたのは、「キセキレイ」でした。最近は、この鳥はあまり見かけなくなりました。水辺などではよく見ることができ、夏と冬では若干羽の色が違います。夏羽は、顔は灰色で、眉斑、顎線は白いです。喉は黒く、三列風切の内弁の縁は白くなっています。腹は黄色で脇は白っぽく、とてもきれいな色をしています。足は薄いピンク色で嘴は黒く、体系もとてもスマートで、尾は長く、その尾を上下に振るので、優雅に見えます。都内ではあまり見かけなかったので、初めてみたときは、感動しました。園庭に飛んでくるのは、どうも「ハクセキレイ」です。このあたりの長池公園で一番普通に見られるのがこのハクセキレイです。セグロセキレイと似ていますが、セグロセキレイでは顔が黒く目の上に白い眉があるのに対して、ハクセキレイは顔が白く、黒い線が目の部分を横切ります。
sekirei.jpg
 ハクセキレイは街中の街路樹などに集団でねぐらをとることがあり、八王子の市街地でも何箇所かハクセキレイのねぐら(冬は塒(ねぐら)に集合します)が確認されています。セグロセキレイは河原などの水辺を離れることはあまりなく、声が濁っています。園庭にハクセキレイが子どもと一緒に来るのですが、幼鳥は頭上から背は灰色で、眉斑は白く、耳羽は白と灰色のまだらです。セキレイの繁殖期は3?7月です。原則的には、一夫一妻だそうです。そして、繁殖期には縄張り分散をします。雄同士の戦い行動は、実戦、追いかけ、それに頭を上下させたりジャンプするような脅しのディスプレイをします。それに反して、求愛行動は雌のなだめのディスプレイで始まります。雌は前傾姿勢で尾羽を上げるポーズをとると、雄は尾羽を開き翼を下げる求愛ディスプレイをするのです。実は、この鳥、日本ではありふれた鳥ですが、世界中で見られるのは日本だけという、外国のバードウォッチャー(外国では「バーダー」)にとっては、憧れの鳥です。なんとなく、体系、色使い、しぐさが優雅だからでしょう。しかし、あまり昔から歌には歌われていないようです。また、歌の中で、どのように呼ばれている鳥がセキレイにあたるのかよくわかっていません。一説には、「稲負鳥」と呼ばれている鳥が該当するのではないかと言われています。そして、あの尻尾を上下に振るしぐさを見て、イサナギノミコトとイザナミノミコトは「交(とつぎ)」の方法を知ったともいわれています。ですから、この鳥は「とつぎ鳥」と呼ばれるようです。また、その尾の動きが牛馬に稲を負わせて運ぶ様に似ていることから、この鳥が牛馬に稲を負わせて運ぶことを民に教えたともいわれています。ですから、「稲負鳥」といわれたのではないかといわれます。
 「セグロセキレイ」は、「全国野鳥保護のつどい」が高知県で開催されるのを機会に、昭和54年に高知市の市の鳥に指定されています。高知市では、鏡川を中心に各河川で一番多く見かけるからだそうです。今年は、山内一豊の年。最後の居城である高知城に今年中に行ってみようと思います。

小山

 今日は、新幹線を小山駅で降りました。最近まで、小山という地域は、「おやまゆうえんち?」というコマーシャルで聞きなれているだけでした。その「小山遊園地」も2005年2月をもって閉園したそうです。そんな小山ですが、なんとこの地が、今年話題になりそうです。私は、今年は、NHKの大河ドラマめぐりをしています。別に意識をしていたわけではありませんが、ちょうど原作の「功名ガ辻」を読んだこともあり、なんとなく縁があるところをめぐっているという感じです。先日は、掛川城に行きました。今日は、たまたま講演で、小山です。何で、小山が山内一豊と千代に関係があるのでしょう。(テレビでは、9月頃に放送されるそうです)
oyamahyojo.JPG
一豊にまつわる言い伝えのなかで、いくつか有名な逸話があります。それは、その後の人生に影響を与えます。その時々に妻の千代が関係しています。それは、内助の功というよりも、夫へのコンサルとか、作戦を授けているとかというイメージです。そのひとつが「小山評定」と呼ばれているものです。「評定」とは「人々が集まって相談してきめること。評議して決めること。」です。「小田原評定」という言葉は有名ですね。秀吉軍との攻防を前に、城内では戦略論争が続けられました。出撃して秀吉を撃つか、籠城して迎え撃つか、選択に迷っていたのです。存亡がかかっていた大決断をしなければならないのですから、簡単には決まりません。結論が出ないまま,軍議は連日開かれたといいます。結局は、籠城100日もむなしく、ついに秀吉に投降します。この城内の和戦の評定が長引いて決定しなかった故事から、いつまでたっても結論の出ない会議・相談のことを「小田原評定」といいます。
 それに対して、「小山評定」は全く正反対の評定でした。「小山評定」は、徳川家康が練りに練って仕切り、日本の歴史を変えた評定として有名です。石田三成が京で挙兵し、上杉討伐に向かった徳川軍の諸大名の大坂屋敷を、厳しい監視下においたときの千代の行動が有名です。人質として軟禁された千代は、三成方の発した家康討伐の檄文と共に一豊宛の密書をしたため封をし、別に密文を作って編み笠に織り込み一豊に届けるよう家臣に託したのです。別の密書の内容は「密書を、封を切らず家康に渡せ」という内容です。そして檄文と共に封をした密書には「自分(千代)のことは気にせず、家康公に尽くせ」と書いてあったといいます。この密書で家康は三成の挙兵を確信し、小山評定が開かれます。家康は、従軍した福島正則らの豊臣恩顧の諸将の協力をとりつけて、後日の関が原合戦勝利の布石を打ちます。豊臣政権から徳川政権へ歴史の流れを変えた評定という訳です。この評定に山内一豊が大きなキーマンになっているのです。この席で山内一豊は家康への掛川城明け渡しをいち早く提案したことが、立場を明確にしていなかった武将の中にも東軍に付くことを後押しするきっかけとなるのです。この発言が家康の心証を更に良くして、その後大幅に加増されます。実際は、浜松城主堀尾忠氏の考えでしたが、忠氏が一豊に話したことを評定で先に一豊が提案してしまったといいます。それも、運というか、実力なのかもしれません。
 NHKドラマの時代考証をしている小和田先生の話を妻が聞きに行きました。この先生の考えでは、このような千代と一豊の功名が交わること(辻とは道が十字に交わるところのこと)が「功名が辻」のタイトルではないかといっています。人は、人生の中で、どんな人と交わるか、人生にどんな影響を与える人と出会うかは、その人の運というか、実力かもしれません。

雨の歌 その3

「あめふり」を作詞した北原白秋は、他にもずいぶんと雨を歌った詩を書いています。有名なのが、「城ヶ島の雨」ですが、それよりも梅雨の頃の子どもの気持ちを書いた歌に、弘田龍太郎が作曲した「雨」があります。
1.雨がふります 雨がふる 遊びにゆきたし 傘(かさ)はなし 紅緒(べにお)の木履(かっこ)も 緒(お)が切れた 2.雨がふります 雨がふる いやでもお家(うち)で 遊びましょう 千代紙(ちよがみ)おりましょう たたみましょう 3.雨がふります 雨がふる けんけん小雉子(こきじ)が 今啼(な)いた 小雉子も寒かろ 寂しかろ 4.雨がふります 雨がふる お人形寝(ね)かせど まだ止(や)まぬ お線香(せんこう)花火も みな焚(た)いた 5.雨がふります 雨がふる 昼もふるふる 夜もふる 雨がふります 雨がふる
 なんだか切なくなりますね。それは、「はじめは雨が続いてつまらないな」と思う少女の気持ちを描いているうちに、次第に心の中にまで雨が降ってくるような気がしてくるからです。石原裕次郎の「ブランデーグラス」の歌詞にも、たしか「雨は降る降る 部屋の中にも胸にも」というのがあったような気がします。
 いろいろと雨の歌があり、しみじみとしたもの、しっとりしたもの、切ないものとありますが、私は、この「雨」のように雨が降るのをネガティブに考えるのではなく、もっと、ポジティブに考えたいものです。そのような意味で、最も雨の歌の中で好きな歌は、「あめふりくまの子」です。鶴見正夫作詞、湯山昭作曲で、この歌を聴くと、ここに出てくるくまの子を抱きしめたくなります。
1.おやまに あめが ふりました あとから あとから ふってきて ちょろちょろ おがわが できました 2.いたずら くまのこ かけてきて そうっと のぞいて みてました さかなが いるかと みてました 3.なんにも いないと くまのこは おみずを ひとくち のみました おててで すくって のみました 4.それでも どこかに いるようで もいちど のぞいて みてました さかなを まちまち みてました 5.なかなか やまない あめでした かさでも かぶって いましょうと あたまに はっぱを のせました
 昨年の5月10日のメルマガ(まだ、ブログは始めていなかったので)に書いたのですが、私の好きな歌に「おさるがふねをかきました」があります。その歌詞の「3、なんだか すこし さびしいと しっぽも いっぽん つけました。4、ほんとに じょうずに かけたなと、 さかだち いっかい やりました。」ということをするような「さる」を抱きしめたくなります。さるが船に尻尾をつけようとするところ、くまのこが水溜りに魚がいないかと覗き込むところが大好きです。そして、さるは、尻尾をつけてうれしくなって、逆立ちします。くまのこは、魚がいないので、その水を手ですくって一口飲みます。そして、はっぱを頭にのせます。そして、どちらも偶然ですが、さるは、「ふねでもかいてみましょうと」くまのこは、「かさでもかぶっていましょうと」と思います。この言い方は偶然でしょうか。今の子は、そんな風には思わないでしょうが、 私から見ると、子どもの世界の気がします。
 雨が続く毎日でも、いろいろと思いをめぐらすことができますね。

雨の歌 その2

梅雨の頃の雨の日は、なんともいえない情緒があります。そんな情緒が感じられるような曲を書かせたら天下一品なのが、「中山晋平」です。同じ中山晋平作曲でも、昨日の「あめふり」の心が浮き立つような、弾むような曲と違って、しっとり聞かせるのが、野口雨情の作詞で作られた「雨ふりお月さん」です。中山晋平は何と3000曲もの作品を遺しているとのことです。中山晋平の記念館が熱海市にあります。今年の1月に熱海に行った時に寄ってみました。
nakayamasinpei.JPG
1.雨降りお月さん 雲の陰 お嫁にゆくときゃ 誰とゆく 一人で唐傘 さしてゆく 唐傘ないときゃ 誰とゆく シャラ シャラ シャン シャン 鈴つけた お馬に揺られて 濡れてゆく 2.急ぎにゃお馬よ 夜が明けよう 手綱の下から チョイと見たりゃ お袖でお顔を 隠してる お袖は濡れても 乾しゃかわく 雨降りお月さん 雲の陰 お馬に揺られて 濡れて行く
 大正14年に“雨降りお月”が子ども向け絵本「コドモノクニ」に掲載され好評を得たことから、翌々月に、「雲の蔭」という別の作品が発表されたものを、中山晋平が、くっつけて改めて「雨降りお月さん」としたらどうかというアイデアを出したのです。メロディが微妙にことなるものが使われています。この歌詞の情景は、お月さんが傘をさし夜明けまでに間に合うように馬に乗ってお嫁に行くという情景設定になっています。さしていく傘は、唐傘です。唐傘はもともとは頭に直接かぶる笠に対して、柄のある差し笠のことを言い、その中で太い柄のものを番傘といいます。それにしても、雨降りで見えぬはずの月にむかって、「嫁に行くときは誰と行くのか?」という語りかけで始まるのは、同じコンビが作った「シャボン玉」に似た寂しさが感じられますね。
 同じ中山晋平の作曲で雨の歌といえば、「てるてる坊主」があります。作詞者の浅原鏡村は長野県北安曇郡池田町出身で、中山晋平と同郷です。大正10年6月号の「少女の友」に発表されました。
1.てるてる坊主 てる坊主 あした天気に しておくれ いつかの夢の 空のよに 晴れたら金の鈴あげよ 2.てるてる坊主 てる坊主 あした天気に しておくれ 私の願を 聞いたなら あまいお酒を たんと飲ましょ 3.てるてる坊主 てる坊主 あした天気に しておくれ それでも曇って 泣いたなら そなたの首を チョンと切るぞ
 てるてる坊主とは、日本の風習の一つであり、これを正立させた状態で軒先などに飾ると、明日の天気が晴れになると言われています。「てるてる法師」、「てれてれ坊主」、「日和坊主(ひよりぼうず)」など地域によってさまざまな呼称がありますが、子どもたちが晴天を願って「明日天気になあれ」と歌いながら、てるてる坊主をつるす風習が始まったのは江戸時代のことです。晴天になった後は、瞳を書き入れて神酒を供え、川に流すので、吊るすときは、目鼻は書き込みません。一部地域などでは逆に倒立させた状態で飾ると、明日の天気が雨になると言われています。幻となった一番の後半は「もしも曇って泣いてたら 空をながめて みんな なかう(泣こう)」という歌詞です。しかし、晴天だと金の鈴や甘い酒がもらえて、雨だと首を切られるというのは、少し残酷ですね。ここには童心独特の残酷性があるかもしれません。

雨の歌 その1

 東京は、窓の外では今日も雨がしとしと降っています。まさに、梅雨という感じです。ところによっては、かなり降っているところがあるようで、梅雨というより豪雨なのでしょうね。本来は、あの しとしと雨が降る梅雨の季節は、なんとなく叙情的になります。熱情的な、あのカンカンと日が照りつける夏を前に、なんとなくしみじみします。そんなときを歌った歌が多くあります。子どもというキーワードで、この季節で思い出す歌に、作詞作曲不詳で、「尋常小学唱歌」だった「かたつむり」があります。
1、でんでん虫々 かたつむり、お前のあたまは どこにある。角だせ槍(やり)だせ あたまだせ。2、でんでん虫々 かたつむり、お前のめだまは どこにある。角だせ槍だせ めだま出せ。
 柳田國男の「蝸牛考」によると、「でんでん」は「出ろ、出ろ」と子どもがカタツムリを指して呼ぶ言葉が訛ったものではないかと推測しています。しかし、この「ツノ出せヤリ出せ頭だせ」の「ヤリ」とは、交尾の際に出る生殖器や恋矢とする説もありますが、はっきりしません。しかし、ツノと呼ばれるものは、頭部にある2対の触角で、大きい触角の先端には眼があります。このかたつむりにはとても面白いことがあります。彼らはゆっくりと移動するために、移動範囲が狭く、子どもを産むためにオスメスが出会う機会が少ないのです。また、たとえ卵が産まれても親まで無事に育つ可能性も少ないのです。そこで、より確実に、より多くの子孫を残すために、同じ体の中に雄と雌の両方の機能を持っています。(雌雄同体)これは、子孫を残すための戦略なのでしょう。そして、交尾後、両方ともが産卵します。ですから、飼うときに、オスメス考えなくて2匹入れておけば、卵を産みます。
 次の歌は、父子家庭の子どもにはかわいそうかもしれませんが、母親と子どものつながりを描いている歌詞としては、私は傑作だと思います。大正14年の北原白秋作詞、中山晋平作曲「あめふり」です。お母さんが迎えにきてくれたことで、うれしくて仕方ないという気持ちがよく出ています。あらためて、歌詞をよく読んでみてください。
1.あめあめ ふれふれ かあさんが じゃのめで おむかい うれしいな ピッチピッチ チャップチャップ ランランラン 2.かけましょ かばんを かあさんの あとから ゆこゆこ かねがなる ピッチピッチ チャップチャップ ランランラン 3.あらあら あのこは ずぶぬれだ やなぎの ねかたで ないている ピッチピッチ チャップチャップ ランランラン 4.かあさん ぼくのを かしましょか きみきみ このかさ さしたまえ ピッチピッチ チャップチャップ ランランラン 5.ぼくなら いいんだ かあさんの おおきな じゃのめに はいってく ピッチピッチ チャップチャップ ランランラン
 この曲は、大正14年雑誌「コドモノクニ」に発表され、昭和25年から48年まで教科書に掲載されました。今の若い人は知らないでしょうが、「蛇の目傘」に雨粒があたると、ピッチピッチと小気味良い音がします。その擬音語が、子どもの心の弾んだ音とダブって聞こえます。

掛川

 また最近、青少年の悲惨な事件が続きます。いったい、何が原因なのでしょう。共通する要因が何かないのでしょうか。詳しいことは分かりませんが、わが子に殺された親は、どうも子どもを常にひどく注意をしているようです。家に放火して母親と弟妹を殺した高校生も、医者である父親から「ICU(集中治療室)」と呼ばれる部屋で、勉強をさせられていたそうです。先日のブログにも書きましたが、「坊ちゃん」が悪くならなかったのは、「清」という、常に期待する人がいるからです。2005年に東大社会科学研究所が「職業の希望に関するアンケート」という調査を実施し、その結果から分析したものが新書版の「希望学」(玄田有史編)に書かれています。その中で、こう書かれています。
「希望に大きな影響を与える背景は、家族の記憶だ。子どもの頃、自分は家族から期待されていたという記憶がある人ほど、希望を持って生きている人が多くなっていた。親や家族からの進学や就職への期待がプレッシャーとなって、将来に思い悩み、希望を失ってしまうといった事例も多いのではないかといわれたりもする。しかし、データが語る事実は、逆だ。むしろ家族から期待されたという過去の記憶を持っていない人は、未来への希望も見出しにくい状況が起こっている。」このように期待、それも過度の期待ではなく、子どもを信じてあげる気持ちが大切だと思います。このようなことは、よくいわれています。今は、賛否両論あり、批判も多いのですが、「ピグマリオン効果」ということが、教師の間でいわれたことがありました。ピグマリオンという名称は、ギリシャ神話を収録した古代ローマのオウィディウス「変身物語」に登場するピュグマリオン王の恋焦がれた女性の彫像が、その願いに応えたビーナス神の力で人間化したと言う伝説に由来しています。その名前を取って、「ピグマリオン効果」というのは、人間は期待された通りに成果を出す傾向があることの現れとされたものです。
 kakegawa.jpg
  掛川城と御殿
 いま、NHKテレビの大河ドラマで、司馬遼太郎原作の「功名が辻」を放送しています。これは、山内一豊とその妻千代の話ですが、妻の鏡といわれ、教科書にも取り上げられた「千代」は、徹底して夫の一豊を信じ、期待し、励まし、成功に導いたとされています。今年のこのドラマにちなんで、一豊の居城であった掛川城のある掛川市で、「功名が辻フェスタin掛川」が開催されているので、行ってみました。静岡県西部に位置する掛川市は、約10年間城主として在城した山内一豊創建の天守閣をランドマークとする城下町です。その掛川城天守閣は、江戸後期の安政の大地震で損壊し、そのまま明治2年に廃城となりましたが、平成6年に日本初の本格木造にて復元され、現在にその勇姿を残しています。場内を急な階段を上ると、天井には、太い木の梁が渡されており、コンクリートでの復元と違う味わいがあります。また、その足元には、「掛川城御殿」があります。この御殿は、藩の公式式典の会場、藩主の公邸、藩内の政務をつかさどる役所という3つの機能を合わせもった施設です。この御殿は江戸後期の建物で、数少ない江戸期よりの現存城郭御殿であり国重要指定文化財となっています。
 ある時代におけるエピソードは、後世にある意図を持って使われることがあります。ですから、にわかに史実として信じてよいかは分かりませんが、それを通して人々に伝えたいことをすべて否定する必要はないと思います。

 今日は、静岡県の沼津から焼津へ移動しました。この地名を聞くと、たぶん以前ワープロを使っていたときや、今パソコンを使うときに、あることの覚えがあるはずです。それは、打ち込むときに「ぬまず」と打ち込むと、変な漢字になってしまうことです。それは、「ぬまづ」と打たないといけないからです。よく、「あいづ」と打つときでもそんな経験があります。そういえば、静岡県には、ほかにも「河津」(こうづ)もあります。このように読むほかに、「津」がつく地名も多くあります。途中に「興津」(おきつ)という駅を通りましたし、「三津」(みと)とかありますね。この「津」には、「船着き場」「船の泊まるところ」「港」などの意味があります。その由来は、出入り口の意味の「と(門・戸)」であるといわれています。「万葉集」にも、「海上(うなかみ)の その津をさして 君が漕ぎ行かば」と、「津」の使用が見られます。ですから、港を襲う波は、「津波」です。(一説には、強波(つよなみ)から「津波」になったとする説もありますが、これは、有力な説とされていません。)また、港の番人を「津」を守る人ということで、「津守」(つもり)といい、やはり万葉集に歌われています。「住吉(すみのえ)の―網引(あびき)の浮けの緒の/万葉 2646」また、同じような意味で、「浦」があります。これは、「裏」と同源ですが、「海などの、比較的小さな湾入部。入り江。」という意味があります。これを使った地名も多いですね。同じ静岡には、「田子の浦」がありますし、浦賀とかもその意味から来たのでしょう。いたるところの「津」や「浦」ということで、全国いたるところのことを、「津々浦々」(つづうらうら)といいます。また、渡し場と橋の意から「津梁」(しんりょう)ということばは、「人を導く手引きとなるもの」とか「つて」という意味に使われます。また、これを「衆生(しゆじよう)を彼岸に導くことから」ということから、「仏」(ほとけ)や「仏の教え」のことを言うこともあります。あと、これははっきりしませんが、「津津」(しんしん)という言葉がありますね。これは、「あふれ出て尽きないさま」ということを言います。「興味津々」というように使いますね。これも、なにか「津」に関係があるかもしれません。
 ほかにも、地名に「津」に関係する場所を思い出してみるといろいろなことが分かります。静岡県同様、海に面する県には、「津」がつく地名は多いですね。たとえば、千葉県にも「木更津」「君津」などがあり、もちろん、三重県の県庁所在地の「津」も港です。また、滋賀県の県庁所在地である「大津」という地名の由来も、琵琶湖の大きな港を意味し、後に古津(ふるつ)という呼び名から大津に改められたと言われています。同様に出雲にある「大津」も、古代から江戸期にかけ、斐伊川を通う舟が奥地の産物を運んだ大きな港であったことから名づけられています。埼玉県の「松戸」という地名の起こりも、もともとは、太日河(ふとひがわ・現在の江戸川)の津(渡し場)でもあったことから、「馬津(うまつ)」とか「馬津郷(うまつさと)」と呼ばれていたのが、「まつさと」になり、やがて「まつど」になったといわれています。
 しかし、どうも「会津」は港には関係していないようです。会津の地名の由来は,古の昔の坂上田村麻呂の東方征伐にさかのぼります。太平洋側と日本. 海側の二手に分かれた両軍が,この津で初めて出会ったという故事によるという話です。「津」には、「盆地」という意味もあるようです。

道後

dougo.jpg
 後ろから見た道後温泉本館と坊ちゃん列車
 昨日は、久しぶりに道後温泉に泊まりました。いま、ふた月に1回、松山に連続講座で行っているのですが、いつも宿が取れず、シティーホテルに泊まっていたからです。道後といえば、白鷺が教えてくれた由緒ある温泉地ですが、その中でも、「本館」と呼ばれる温泉が有名です。この温泉が有名なのは、さまざまな文人たちが泊まったということもあるのですが、小説「坊ちゃん」の舞台になったからです。今年は、「小説坊ちゃん発表100周年記念」ということで、あちこちにのぼりがたたっています。この「本館」は、建物は由緒があり、趣はあるのですが、湯船は狭く、いつも混雑していて、ゆっくりと手足を伸ばすことができないので、私はあまり行きません。温泉のよさは、湯船の中で、手足を思い切り伸ばせるからです。いつも手足を縮めて入っているので、広々とした湯船で、一人ゆっくり入るのが好きです。ということで、露天風呂付きの部屋もあまり泊まろうとは思いません。狭い湯船だからです。なんだか、それでは家で入っているのと変わりません。ということは、もしかしたら、温泉好きというよりも、小さいころから銭湯に入っていたせいか、広い湯船がすきなのかもしれません。今の時期ですと、温泉地はお年寄りの観光客が多いため、夜中に入ったり、朝遅く入ったりすると、ほとんど人はいないので、一人でゆっくりと入れます。そんなときは、広い湯船を独占できて、極楽ですね。今朝は、小雨のためもあって、屋上の露天風呂には誰もいなかったので、ゆっくりと長く入ってしまったため、昼ころまで体が火照って、汗びっしょりになってしまいました。
 泊まった宿の部屋には、小説「坊ちゃん」が置いてありました。久しぶりに読み返してみました。小説としては、小気味良く、テンポがあり、とても面白いと思います。しかし、坊ちゃんの性格が正義感あふれ、正直であるということを良く聞きますが、申し訳ないのですが、私は、坊ちゃんの教師としての資質はあまり評価していません。坊ちゃんは、赴任先の中学校で、さまざまないたずらに悩まされます。しかし、坊ちゃん自身も「この外いたずらは大分やった。大工の兼公と肴屋の角をつれて、茂作の人参畠をあらした事がある。人参の芽が出揃わぬ処へ藁が一面に敷いてあったから、その上で三人が半日相撲をとりつづけに取ったら、人参がみんな踏みつぶされてしまった。」とあるように、相当ないたずらものです。それが、どうして、中学生のいたずらを理解できなかったのでしょう。教え方にしても、また、中学生とのやり取りにしても、なんだかはじめから田舎ものというように馬鹿にしている気がして仕方ありません。しかし、この「坊ちゃん」が徹底して悪くならなかったのは、清というよき理解者がいて、人が何を言おうが、「いつもあなたは、りっぱだ」「きっとえらくなる」と常々言われていたからでしょう。不幸にして親に理解されない場合でも、誰か信じてくれる人がいれば、それだけでも救われるものです。「この婆さんがどういう因縁か、おれを非常に可愛がってくれた。不思議なものである。母も死ぬ三日前に愛想をつかした――おやじも年中持て余している――町内では乱暴者の悪太郎と爪弾きをする――このおれを無暗に珍重してくれた。略 自分の力でおれを製造して誇ってるように見える。少々気味がわるかった。」この小説の最後に「あら坊っちゃん、よくまあ、早く帰って来て下さったと涙をぽたぽたと落した。おれもあまり嬉しかったから、もう田舎へは行かない、東京で清とうちを持つんだと云った。」とあるように、帰るところは、自分を理解してくれた人のところなのでしょう。

コロボックル

 昨日、我が家の食卓に「ふき」が出ました。こんなくさいものが今は、大好きです。「ふき」といって思い出すのが、先日帯広に講演に行ったときです。足寄を通過したとき、あたり一面に「ふき」が大きな葉を広げていました。そして、帯広百年館に行ったときに、ふきの葉を持った小さなアイヌの子が描かれたロゴマークがありました。私は、聞いてみました。「これは、コロボックルですか?」「そうです。いろいろなところで言い伝えがあり、苫小牧などは有名ですが、足寄地方でも、その伝説はあるのですよ。」と言われました。そういえば、足寄の道の駅正面を入っていくと、改札の横に、松山千春さんの等身大パネルがかざってあります。
fuki01.jpg
 それは、2階のギャラリーに千春さんのステージ衣装や、愛用のギター、ツアーグッズなども展示してあるように、ここ足寄が彼の出身地だからです。ですから、ずっと松山の歌が流れていました。私は、その展示物は見なかったのですが、写真は驚きました。というのは、松山千春が、蕗を持っていたからです。ここの足寄町の東に位置する螺湾地区には、「日本一大きなフキ」として全国的にも有名な「螺湾ブキ」が自生しているからです。世界には約20種の蕗の仲間があるそうですが、日本には、フキとアキタブキ(オオブキ)のみだそうで、普通、食用として利用されるワセブキやミズブキは前者のフキで、足寄町螺湾地区で育つ大きな螺湾ブキは、後者のアキタブキと同じものとみられています。この螺湾地区の沢沿いに群生するフキは、草丈2?3m、茎の直径が10cmにもなり、とても大型です。こんな蕗を見ると思い出すのが、「コロボックル伝説」です。コロポックル(korpokkur)とは、アイヌの伝承に登場する小人で、アイヌ語で、一般的には「蕗の葉の下の人」という意味であると解されているからです。アイヌの小人伝説は広く北海道や南千島や樺太に流布しており名称もこのコロポックル・コロボックルのほかにトィチセウンクルとかトィチセコッチャカムィとかトンチ(これらはみな「竪穴に住む人」の意)というふうに呼ばれることもあります。屋根をフキの葉で葺いた竪穴にすんでいたといわれています。彼らは情け深くアイヌに友好的で、鹿や魚などの獲物をアイヌの人々に贈ったりアイヌの人々と物品の交換をしたりしていましたが、姿を見せることを極端に嫌っており、それらのやりとりは夜に窓などからこっそり差し入れるというやりかたでした。あるときあるアイヌの若者がコロポックルの姿を見ようとそのものを差し入れるを待ち伏せ、贈り物を差し入れるその手をつかんで屋内に引き入れてみたところ、美しい婦人のなりをしており、その手の甲には刺青がありました。(なおアイヌの夫人のする刺青はこれにならったものであるといわれています)コロボックルは青年の無礼に激怒し、以降アイヌの人々がコロボックルの姿を見ることはなくなったといわれます。しかし、このコロボックルが有名になったのは、1959年に佐藤さとる氏がコロボックルをテーマにした「だれも知らない小さな国」を出版したことが、現在のコロボックルのイメージの礎となっています。この作品は「コロボックル物語」としてシリーズ化され、「豆つぶほどの小さないぬ」「星からおちた小さな人」「ふしぎな目をした男の子」「小さな国のつづきの話」などの続篇が書かれ、私も夢中で読みました。そして、最初に出版された時に挿絵を担当していたのは、若菜珪さんという人でしたが、途中から、村上勉さんが挿絵を担当しています。あるパーティーで村上さんと会ったときに、ミーハーのように一緒に写真を撮らせてもらいました。

ディシプリン

今日の朝日新聞のコラム「天声人語」にこんなことが書いてありました。
「一般にはなじみが薄いが、たまに目にする言葉に「ディシプリン」がある。英語では「discipline」で、規律、鍛錬、しつけ、懲罰などの意味がある。サッカーでは、チーム全体の「共通理解」や「約束事」といった戦術面での徹底を指す意味で使われることが多いという。」そして、「経済の世界では、こんなふうに使われていた。「新しい自由な社会においては、みんながある道徳律というか、ディシプリンを持つようにならないといけないと思うんです」。10年前、当時副総裁だった福井俊彦日銀総裁が述べた(岡本行夫対談集『ニッポン再生最前線』)。福井氏は「今の日本人は規制に慣れすぎて自らのディシプリンを持っているのか」とも述べた。規制緩和が進んだ21世紀の社会を展望し、それぞれが己を律するものをきちんと持つべきだという趣旨にはうなずける。しかし、それを徹底するのは容易ではないようだ。」
 このディシプリンというのは、discipleには弟子(特に宗教的な門弟という意味から)という意味があるので、弟子に対しての教育が原義ですから、なんだか、自らのディシプリンを持つというのは変な気がします。どうもautonomyという単語の方がいい気がします。それは、人がなにによって動機付けられるべきであるかというと、その行動が、自律的(autonomous)か、それとも他者によって統制されているかということが問題なのです。この自律ということばには、他に「自治」も意味しています。自律的であるということは、自由に自発的に行動することです。本当にしたいことをしているのか、興味を持って、物事に集中しているのか、それは、自分(authentic)から出なければならないのです。自律をしつけに持っていこうとするときは、self-disciplineが必要かもしれません。しかし、本当の自律は、決して、ディシプリンの意味にもある鍛錬や懲罰では養われないと思っています。ある論文では、報酬によっても養われないとあります。あくまでも、自分自身から出た気持ちでないとならないのです。ですから、出生数をあげるのも、他からの報酬(お金など)では、限界がある気がします。
また、私は、最近の子どもたちに欠けているもののひとつに、この「自律心」がある気がします。そこで、今、大学の卒論を書くために私のところに来ている学生の一人に、「子どもたちの自律心はどのように育っていくのか」ということをテーマにしてもらい、研究してもらっています。ちょっと難しいテーマですが、7月まで事例を収集しています。特に3?5歳児を中心に観察し、ブランコの順番や、遊びから昼食準備時などの場面における、「他律」から「自律」への事例を中心に集めているようです。また、その学生は、私の園で、子ども同士で時間を伝えるなど律し合っていると見られる場面にも注目しています。どうも、子どもを観察していると、自律は、人への思いやりから育つことも見られます。また、人への思いやりは、自分を認めてもらうことから育っていくように見えます。やはり、最後は、自分に戻っていくのですね。
自律心は、どうも子どもに限らず、大人の社会でも疑わしくなってきて、子どもは何をモデルにして良いかわからなくなるような社会を提供している大人として責任を感じます。